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空人形

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空人形

 黄道暦44年。
 世界の支配権が国から企業に完全移行してまもなく半世紀が経とうとしている時代のことである。
 アジアエリア某所の空港にて一人の少女が搭乗を待っていた。周囲が旅行雑誌や新聞に目を通したりゲームや音楽を楽んだりする中、その少女はひたすら手に持った電子ブックに視線を落としていた。面白い小説や漫画に熱中している――わけではない。そこに表示されているのは、5~6歳の少女――幼女と言った方がいいかもしれない――が読むにはあまりにも難しいと思われる物理学の論文だった。それを少女は一心不乱に読み進めている。それも驚くべきスピードで。
 幼い少女の鬼気迫るとまでいえる読書に、周囲は距離を置いて様子をうかがっている。
 ある一定以上の階級の家庭においては、0歳からの英才教育というものはごくごく当たり前のことだ。それを虐待とは誰も思わない。弱ければ生きていくことすら困難なこの時代、幼いころからの教育は、子どもの生存率を上げ幸せな将来を与えるためにはなくてはならないものだ。それでも、一心不乱に身の丈に合うとは思えない内容の本を読む子どもというのは不気味なものだ。
 周囲からの視線に耐えかねたように、少女は一瞬だけ顔を上げた。だが、周囲の視線が敵意を含んだものでないことを確認すると、すぐに元の勉強に戻る。頭の動きに合わせて長い黒髪が揺れた。東洋の血が入っている人間独特の長く芯のある髪だ。一瞬だけ見えた瞳は血のように深く赤い。
 少女の名前は篭森珠月という。世界の秩序の一角を間違いなく占めるであろう有名人の子息で後に自らも世界に名をはせることになるのだが、この頃はまだただの子ども以上の価値はなかった。そして、自分でもそのことをよく知っていた。
 電子ブックのタッチパネルを打つわずかな音が響く。次々表示される難解な論文を内心で舌打ちしながら珠月は読んでいた。複雑で分かりにくい。だが、理解しなくては次のステップに進めない。ここで止まっているわけにはいかないのだ。止まることも許されなければ、選べる道もいくつもない。悩むのは疲れるだけだ。
 子どもには似つかわしくないため息をついて珠月が論文を読み終わった瞬間、ふわりと花の香りがした。直前までなにも感じなかったことに珠月は驚き、そして顔を上げて、再び先ほどより大きくため息をついた。
「また、あなた?」
 珠月の視線の先では、黒に近いほど濃い赤色の花束を持って同じくらいの年の少年が立っていた。花束をもっていないほうの手には、小型のビスクドールを抱えている。
 彼はジェイル・クロムウェル。かれこれ一年以上前に、偶然倫敦シティで出会い、それ以降なぜかいく先々に現れる少年である。しかも見計らったかのように、珠月の周囲に人がいない時に現れる。
「用がないなら――いや、あってもどっかに逝って。こっち来るな」
 珠月はゆっくりと椅子に座りなおした。彼がこうしてここにいるということは三つの問題を示している。一つは彼が珠月の行動を一部なりとも調べて待ち伏せするだけの情報収集能力を持っていること。ただの子どもに人類最狂とよばれる篭森壬無月の娘の行方を探すことなどできはしない。つまり、彼の背後にはそれができるだけの組織か財力があるということだ。次に直前まで珠月に気取られないほどに気配を隠すのがうまいということ。そして、理由は不明だが彼が珠月に対して並々ではない感情をもっているということだ。どれも珠月にとって、強敵となる理由ではあるが仲良くできる理由ではない。
 今日は声をかけられる前に気づくことに成功したが、前回は声をかけられるまで気づかなかったし、その前は肩に手をおかれてやっと気づくというありさまだった。そのことを思い出して珠月は唇を噛む。自分はまだまだ未熟だ。それを思い知らされる。
「嫌い。来るな」
 珠月の取りつく島もない態度に、ジェイルは小さく肩をすくめた。
「相変わらず、氷の粒のような冷たいお方ですね。しかし、月には慈悲や母性だけでなく気まぐれや残酷といった意味もありますから、貴方の存在はそういう月の両極性を現しているのでしょう」
「帰れ」
 一言で言い捨てると珠月は視線を再び電子ブックに落とした。意識的に本以外に向ける感覚をシャットアウトする。
 珠月はジェイルが嫌いだ。大嫌いだ。だが、そんな抵抗も長くは続かない。ジェイルは本と珠月の間に割り込ませるように花束を差し出した。
「今日は月の女神のよりも麗しい貴女のために、贈り物を持ってきたんですよ」
「嫌いなひとに贈り物をもって待ち伏せされるいわれはないよ。かえれ」
 険悪な空気を感じとって、周囲の視線がちらちらとこちらを向く。このロビーは上客用のロビーだ。身なりの良い紳士や貴婦人以外にも、護衛と思しき男女もみえる。いち早く険悪な気配を感じとったであろう彼らは油断なくこちらを警戒している。しかし、焦った様子はない。険悪といっても相手は二人の子供であり、ここは空港だからだ。空港というところは何かがあった場合に被害が大きくなるため、常に厳重な警備が敷かれている。騒動を起こす側にとってもあまり暴れたい場所ではない場所だ。それに空港の出入り禁止でも食らうものなら、今後の自分の足に大きな影響が出てしまうからだ。だから、まともな思考回路をもった人間は空港でもめごとを起こすことはあまりない。組織同士の抗争なら話は別だが。
 そこまで思考を瞬時に巡らせて、珠月はふとあることに気づいた。ここはこれから飛行機に乗る客の中でも特に上のクラスを予約した客専用の待合室だ。そこになぜ彼がいるのか。考えられるのはこれから彼も同じ飛行機に乗る可能性だが、もしそうでないとしたらいったい彼はどうやって警備をかいくぐってここに来たのだろう。
「――――今気づいたんだけど、どうやってここに来たの?」
「哀れな詩人は天空に輝く銀の光に、いともたやすく惹かれてしまうものなのです」
「きいた私がバカだった。死ね」
 何の返答にもなっていない。睨みつける珠月に微笑みかけて、ジェイルは腕にかかえた花と人形を半ば無理やり珠月の手に押し付けた。そこでふと気付く。押し付けられた人形は東洋人をかたどった珍しいタイプのビスクドールだ。触れると陶器の冷たい感触がする。この美しい陶器の人形が子どもでももてる程度の軽さなのは、中が空洞だからだ。重い陶器の中身をくりぬくことで、見た目の美しさはそのままに軽さを実現している。その代わり、ビスクドールは壊れやすい。
 美しく、壊れやすく、空っぽな身体を豪華なドレスで着飾り隠したお人形。指ではじくと軽い音がする。
「貴女はその人形の姫君のように愛らしいですよ」
 視線を上げるとジェイルが微笑んだ。珠月の身体に、怒りとも戦慄ともつかない感情が走る。一見すると『お人形のよう』というのは褒め言葉に聞こえる。だが、おそらくジェイルは珠月の思考を読んだ上で『お人形』と発言した。その意味するところは、『作りもののように整った容姿をしている』ということではない。
 ビスクドールは脆い。美しく気高く見えるが、それは表面の形だけ。少しの衝撃で壊れてしまう。残るのは鋭く尖った陶器の破片だけだ。
 ビスクドールは空っぽだ。見た目は完璧でも中身はない。ビスクドールは飾っている。空っぽで壊れやすい人形がそれでも大事に扱われるのは、着飾ったそれを周囲が美しいと思うからだ。すなわち、『人形のよう』とは、『弱く、壊れやすく、空っぽなのにそれを見事に覆い隠して綺麗なように見せかけている人間』という意味になる。
「大嫌い!!」
 珠月は手を振りあげると、人形を床に叩きつけた。思ったより簡単に甲高い音を立てて人形は壊れる。それでも足りず、その上に花を投げ捨てると立ちあがって足で踏みつけた。赤い花弁が無残に散る。ぎょっとした様子で、周囲の客やスタッフが振り返る。だが、近付いてはこない。異様な空気を感じとったのかもしれない。
「やれやれ。大昔、日の出国にいたという光輝く月の姫君は、求婚するあまたの男たちに妖精の騎士でもなければ手に入れらないようなおとぎ話の宝物を求めたといいますが、僕の月の姫もまた、並大抵の品では受け取ってはくださらないようですね」
「去れ。私の前に立つな」
「ああ、これは失礼を。この世のいかなる花よりも美しく大空を舞うどのような鳥よりも自由で気高い月の姫の前で、案山子のように立ちすくんでいるなんてあまりにも無礼でしたね。すぐに跪きます」「やめろ」
 本当に跪きそうな気配を感じて、珠月は悲鳴に似た声を上げた。事情を知らない目撃者からすると、一連の行動は珠月がプレゼントを拒否したばかりか破壊したということしか分からない。この上跪かせたりしたら、何だと思われるか。
「なに? わざわざ嫌がらせにきたの? まだ池に突き落としたこと怒ってるの? なら、私のことも池に突き落としていいよ」
 冬の池に飛び込めばただですむとは思えないが、それでもこの心臓と精神に悪い相手と顔を合わせ続ける苦痛よりはよほどましだ。半ば本気で珠月は提案した。しかし、ジェイルは心外そうに首を横に振った。
「僕が月の姫に危害を加えるなんて、世界の天井を支えるという崇高なるヒマラヤの山々が残らず海神に飲まれてもあり得ないことです」
「…………」
 物理的な危害を加えずとも精神的な危害は加えている。腹立たしげにもったままだった電子ブックを座っていたソファに叩きつけ――――そこで珠月はさらなる周囲の不自然さに気づいた。みんながこちらをうかがっている。しかし、彼らが見ているのは珠月だけだ。珠月の横にいるジェイルのことは誰も見ていない。まるでそこに人間など存在していない、あるいはそこにあるのは気に留める価値もないものだといわんばかりに。
 ありない登場。ありえない周囲の態度。それから珠月は冷静に答えを導き出す。
「…………ミスティック」「はい」
 にこりとジェイルは微笑んだ。ミスティックというのは現代の魔術師だ。制限は多いものの条件さえクリアすれば、物理法則に逆らった奇怪な現象を起こすことができる。珠月自身もミスティック能力の持ち主で、自分の周囲にある知的生命体以外の物体を自在に操るという能力を持っている。
「いつも唐突に現れるのも、そのせい?」
「申し訳ありません。貴婦人を驚かせるのは本意ではないのですが、仕方がないのです。もっとも、僕の月の姫君は早くも僕の能力に耐性が出来始めているようですが」
 そういえば前回よりも今回のほうが早く彼の存在に気づけた。その前の前よりも前回のほうがましだった。会う度に気づくまでの距離は長くなっている。
「耐性?」
「僕の能力は毒のようなものです。僕の事を深く知る人間には効きません。つまり姫は僕のことを海より深く理」「それ以上喋ったら殺す」
 おそらくジェイルの能力は、自分自身を他人の知覚から外すかあるいは自分の周囲の空間を隔離するようなタイプの能力だろうと、珠月は検討をつける。耐性云々というのは、おそらく彼の存在自体に特別な感情を持っていて他人より強く彼のことを認識している相手には効きにくいとか、そういう意味だろう。
 知覚に介入するタイプの能力は、単純だが防ぎようのない。自然と珠月の身体がこわばる。目の前にいる相手は自分を殺せる。そして殺した後、誰に咎められることもなく立ち去ることができる。それだけの力がある。おそろしいことだ。
「――――なぜなのよ」
 だが、口からこぼれたのは恐怖ではなく疑問の言葉だった。
「なんで? あなたは強いじゃない。何でもできるじゃない。なのに、なぜそんな空虚な言葉を吐くばかりで何もしようとしないの? ずるい」
 珠月の言葉には重みがある。なぜなら珠月は喋る言葉を選んでいるからだ。常に背筋を伸ばして慎重な発言をする人間に対して人は敬意を払う。何もしなくとも勝手にその中に芯が通っているのだと思いこんでくれる。しかし、ジェイルの言葉はとにかく軽い。その言葉を聞いた人間はたとえジェイルがどれだけの偉業を成し遂げようとも、彼を心の中では軽く扱うだろう。油断を誘うためならばそれもありかもしれない。しかし、ジェイルの仕草はそうとも思えない。
「あなたは……私になんか構う理由がないじゃない……」
 中身がないのに見かけを取り繕う珠月。中身があるのに軽い外見しか見せないジェイル。中身を詰め込もうとあがく珠月には理解できない生き方だ。
「あなたは何?」
 得体のしれない者に対する恐怖心が、珠月の頭の中で警鐘を鳴らす。目の前の存在は危険であると。
「――私をどうしたいの?」
 いくら両親の後ろ盾があるとはいえ、今なら珠月を殺すことも誘拐することもそれほど難しいことではない。実際、年に数回はそういう連中が訪ねてくる。何かを仕掛けたいならば、いくらでもチャンスはあるはずだ。だが、彼は何もしない。意味のない空虚な言葉を言葉で飾って押し付けてくるだけだ。
 ジェイルは微笑んだ。足元で砕けた人形の破片が小さな音を立てる。
「私はただ、月の美しさをたたえたいだけですよ」
「そう。なら、どこか遠くの私の知らないところ――むしろ誰にも知られないところで、一人さびしくしずかにやってちょうだい」
「詩作にしろ舞台にしろ音楽にしろ、時にそれを神のように称え時に塵芥のように見下す観客がいるからこそ栄えるのです。ですから、僕は僕の心を見るただ一人の観客である貴女に、溢れるほどの言霊を溢れるほどの花束にして」「聞きたくない聞きたくない!!」
 珠月は両手で耳を塞いだ。しかし、人体の構造上それだけで音を完全にシャットアウトすることはできない。比較的有効なのは耳を塞いだ上で大声を出して、自分の声で相手の声を相殺する方法だが、人が多いところでは使いたくない方法である。
 両手で耳を押さえて頭をふる珠月に、ジェイルは困ったような顔をした。あきらかに困らせているのはジェイルのほうなのに、理不尽だ。ジェイルは壊れた人形をゆっくりと持ち上げた。ばらばらと陶器の破片が落ちる。
「僕は、ビスクドールは美しいと思いますよ。たとえ中身が何であれ、美しい。ならばその美しさは価値と言えるのではないでしょうか。同じように、僕はあなたを天空の月よりも美しいと感じますよ。確かに今の貴女は完璧にはほど遠い。しかし、それを目指そうとあがく姿は、荒野の花のごとく、あるいは磨かれる前の宝石のように尊く可憐ですし、それに貴女はないものをあるように見せかけるのがとてもお上手だ。まるでかつて芸術の都にそびえていたというオペラ座の講演をみているようです。すべてが作り事と分かっていても、美しく惹かれずにはいられない」
「かってに決めないで」
 ぽつりと珠月は言った。殊更にうんざりした表情を浮かべて見せる。
「私の価値くらい、私が決める」
「それは無理です。価値という言霊よりもよほど意味のない商品タグをつけるのは、いつだって他人――この世界に普遍的に存在する“世間一般”のどこかの誰かさんですから。貴女の価値は決めるのは貴女が見たこともない他人です」
 優しく艶やかに、だが残虐にジェイルは笑った。台詞さえ聞かなければ愛をささやいているようにも思えるほどその表情と声色は柔らかい。だが、内容は酷く汚れている。
「貴女の価値は、価値があるように錯覚させる能力です。虚ろでありながら満ちていて、満ちているのに中身はない。それが貴女を魅力的に見せる。初めから欠けるところなく満ちていたならば、人は月にあそこまでは惹かれなかったでしょう。満ちては欠け、欠けては満ちるその不思議さと空虚を内包するからこその神秘的な輝きに、人間は惹かれるのです」
 とろけるように甘い声で、空虚な装飾に満ちた言葉をジェイルは囁く。
「宣言して差し上げます。貴女は絶対に成りたい完璧な自分にはなれません。なぜなら貴女には才能がなく、貴女自身もそれをすでに理解しているからです。貴女の人生は満ち欠けを繰り返す月のように、欠けている何かを補っては別の何かを失うものになるでしょう」
「ふざけるな」
 うめくように珠月は叫んだ。
「私の行く先をお前が定義するな。確かに私は無力な子どもで、無能な二世かもしれないが、お前ごときにそこまでおとしめられるいわれはない」
「おとしめてなどいませんよ。僕はそういう貴女が好きです。たとえ貴女に何があっても貴女がなにをしてもどんなものになっても、僕は貴女が好きですし、貴女の味方です」
 くすくすとジェイルは笑った。完璧な、それこそ物語の登場人物のような光輝く笑顔だ。しかし、彼の言葉は軽く、空虚で、薄汚れている。
「馬鹿にしてるの?」
 やっとそれだけ珠月は返した。だが、それ以上は言い返せない。
「勿論違います。確かに貴女は異能以外の才能がありません。そしてその異能すら、他者と比べてみてずば抜けて強力というわけではありません。けれど、それは貴女自身の価値を落とすものでも限定するものでもないのですよ」
「やっぱり馬鹿にしてるんじゃない」
 うめくように珠月は呟いた。これで何度目になるか。顔を合わせる度に、ジェイルは聞きたくもない事実を言葉に包んで贈ってくる。まるで言い聞かせるかのように。それが珠月をますます追い詰めることが分からないわけはないのに。
「あなたは私を壊したいの? 嫌われたいの?」
「貴女という月がどのように輝きをましていくのかを見つめたいだけです。僕は月に焦がれる詩人ですから。未来が分かっている存在になど興味はありません。満ち欠けを繰り返し、アポロンの光に焼かれ、星屑に貫かれるからこそ月は美しい。己では光ことができすとも他者の光を受けとって輝くからこそ、月は夜空の支配者となる。僕はそんな月に焦がれます。そういう意味で、貴女は僕の理想なのですよ」
「死ね」
 珠月は手近にあった万年筆を手に取るとジェイルに投げつけた。かるく首を左にかしげて、ジェイルはそれをかわす。そして手に持った人形を再び床に落とした。甲高い音が響いて無事だった部分も粉々に砕け散る。
「よい陶器は、割れる音も小鳥の鳴き声のようで美しいですね」
 ジェイルは笑った。珠月は笑わない。
「さて、ではそろそろ退散するとしましょう。月の姫君は大空に飛び立つお時間ですからね」
 言われて時計を見るとまもなく搭乗がはじまる時間だ。珠月はジェイルをにらむ。
「二度と来るな」
「また来ますよ。貴女の人生という舞台に幕が下りるその時まで何度でも」
「一般的にはそういうのをストーカーって言うんだよ?」
「別に僕は影のように忍び寄ったりはしていませんよ? 堂々と月の姫の御前にはせ参じています」「そもそも呼んでいない。もういい死ね」
 確かにストーカーという言葉には忍び寄るものという意味もあるが――この場合、そういうことではない。ふざけているのか本気なのか分からない言葉に、珠月は顔をしかめた。
「もう二度と来るな」
「ではまた、運命の交差路でお会いしましょう」
 珠月の最後の言葉を無視して、ジェイルは踵を返した。あきらかに不審な人物が歩いているというのに、警備員は気にも留めない。代わりにジェイルがいなくなるのと入れ違いに、サービススタッフが飛んできた。
「お客様、お怪我は御座いませんか? 割れたお人形は――こちらで修理に出すことも可能ですが、いかがなさいますか?」
 まるでジェイルなど初めからいなかったような対応だった。おそらく、このスタッフの目には珠月がお人形を落して割った事実しか映っていないのだろう。顔をしかめそうになるのをこらえて、珠月は微笑んだ。
「ありがとう御座います――でも、処分してください。花も一緒に」
 人形の破片と花をわざと踏みつけて、珠月は荷物を抱えた。指が荷物に食い込む。
「――――お前の思い通りになんてなってやらない」
 搭乗のため歩きながら、珠月は小声で呟いた。
「私の舞台には観客も脚本家もいらない。絶対――いつか殺してやる」

 それから数年間、珠月がジェイルに会うことはなかった。しかし、その次の運命的な再会の後、珠月は何度もジェイルと顔を合わせる羽目になる。

おわり
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