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訓練風景

 うすぐらい倉庫のような空間で二人の人間が対峙していた。壁には窓の一つもない。それでも明るいのは天井から光を投げかける照明のせいだ。死角なく、ただしまぶし過ぎない程度に部屋を照らし出す明かりは、破壊されないように鉄格子と強化硝子で覆われている。
 一人が動いた。巨大な軍用ナイフのようなものを片手に一気に間合いを詰める。それに対してもう一人は相手から目を離さぬまま大きく後ろに跳び、さらに牽制とばかりに細いナイフを投げつける。しかし一直線に迫る相手はわずかな身体の動きでそれを回避した。逃げる相手は間合いを計りながら相手の横に入り込むように動く。だが、それを見越して巨大な刃物をもつ方の相手は迎撃体勢にはいる。
 するどい金属音がした。跳躍し、勢いと体重をかけた一撃が振り下ろされる。巨大なナイフの人物は、自分の獲物でそれを防いだ。対するほうは細身のナイフ二本をうちこんだが、折れたのは細い二本のナイフの方だった。作りの強度が違うのだ。大振りの刃物がとにかく折れないことを前提としているのに対し、小型の刃物に求められるのは切れ味と携帯性だ。
 打ち込んだ人物は舌打ちすると反動を使って後ろに跳ぶ。当然それを追って自由になった巨大ナイフが振り下ろされるが、大きくのけぞることで服一枚で相手はそれをかわした。かすかにナイフの人影が動揺する。その隙を逃さず、細いナイフを使ったほうは喉元を狙って刃物を投げつける。それは叩き落とされたが、別の場所を狙うのは十分だ。立て続けに手足の筋を狙って攻撃が繰り出される。舌打ちして巨大なナイフの男は刃をふるった。それは相手の身体にはわずかに距離が届かなかったが、反応が遅れた相手は完全に刃物の軌道の延長線上にとらえられる。そして――――
「――――っ」
 声にならない悲鳴を上げて相手の身体が中を舞った。まるで見えない塊に吹き飛ばされたかのように分厚いコンクリートの壁に叩きつけられる。受け身は取っていたものの衝撃を殺しきれずに、相手は床に崩れ落ちた。そのままぴくりとも動かない。その時、
『そこまで! 勝負あり!!』
『ちょっ、二重やり過ぎ!!』
 マイク越しの声が割り込んできた。批難する言葉に巨大なナイフをもった男――学園都市トランキライザー序列8位【エターナルコンダクター(悠久の指揮者)】澪漂二重(みおつくし ふたえ)は苦い顔をした。そして振り返る。視線の先にはダイナマイトの攻撃にすら耐える超強化硝子の向こうでこちらを見守るギャラリーの姿がある。
「……私はきちんとハンデをつけている。それに手加減もした」
 愛用の巨大ハサミではなく、普通の戦闘訓練で使う軍用ナイフを持ち上げて二重は言った。それに答えるように、扉があいて硝子の向こうから人が出てくる。
「訓練なんだから仕方ないとはいえ……結構もろに入ってたよ。珠月ちゃん、気絶してるんじゃないの?」
「死んではいないと思うけどね。それに本当にもろに入ってたら、五体バラバラになって吹き飛んでるよ。一応避けてた。一応は。そう、一応……うう、眠い。寝そう……」
 入ってきたのは、二重のパートナーである序列22位【アルカディアフレンド(理想郷の大親友)】澪漂一重(みおつくし ひとえ)と予科生時代からの友人である序列26位【シエスタロット(昼寝大量生産)】紫々守兎熊(ししもり とぐま)である。ちなみについ先ほど、二重が気功で吹き飛ばした人影は同じく予科生時代からの友人である序列24位【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月(かごもり みづき)である。
「おい篭森、大丈夫か?」
 全員の予想に反してまったく起きあがる気配のない対戦相手に、流石に不安になってきた二重は声をかけた。返事はない。
「……脳震盪とか起こしてない?」
「自分が『暇だし、学校の訓練室で自主練しよう』とか言いだしたのにね。ふぁあ、だからちゃんと起きてきたのに……眠い」
 ここは学園のメインヤードにある地下訓練施設である。様々なステージで生徒同士が訓練対戦を行えるよう、この施設は作られている。部屋によっては霧でまったく視界が利かなかったり、四方八方から銃弾が飛んできたり、暴風が吹き荒れていたり、地雷が埋め込まれている部屋もある。
二重たちが使っているのは、逃げる場所も隠れる場所もない、狭い部屋だ。ここは搦め手が使えない場合という想定で訓練をする部屋だ。部屋の四分の一ほどはガラス張りのスペースになっており、そこに荷物を置いたり、ギャラリーの観戦スペースとして使ったりする。外に出るにはそのスペースにある廊下に通じる扉を開くしかない。オープンの練習試合の時はギャラリーが好きに出入りできるように開けておくのだが、今日は個人的な訓練なので閉まっている。
 ギャラリーがいなくてよかったと二重は思った。ぼろ負けしたところを見られる珠月も嫌がるだろうが、友人を思いきり壁に叩きつけたところを他人に見られるというもの嬉しいものではない。
「珠月ちゃん、生きてる?」
「うう……」
 兎熊が近付くと、うめき声のような返事が返ってきた。三人は一様にほっとした顔をする。本日の対戦は異能使用なしの模擬戦だったのだが、異能無だと四人の中で一番弱いのが珠月なのだ。間違って怪我をさせてしまった場合、友情にひびは入らないだろうが、評判にはヒビがはいる。誰の評判かはさておき。
「痛い……というか、全身の筋肉にもれなくダメージがきてて……物理的に動けない」
 うめくような言葉を発して、珠月は目を開いた。血色の瞳が天井をうつす。いつも通りの過剰なまでに優雅なゴスロリ服だが、ところどころ服は裂けていてそこからのぞく白い肌にも裂傷や痣が見られる。変色した肌がひどく痛々しい。それに反して表情は完全な無で、そのせいでまるで人形が怪我をしているような気持ち悪さがある。
「動かさない方がいいよ、それ」
 あきれたように兎熊は言う。追いついてきた二重と一重は顔を見合わせた。
「……すまん。防御すると思ってやりすぎた」
「いや、避けきれなかったのはこっちの責任……っ、駄目だな。雑魚はいくらいても簡単に蹴散らせるのに、強敵になると途端にすぐに負けちゃう。ソルジャーとかワーカーなら平気なんだけど、グラップラーとサイボークはきついな……」
 床に転がったまま、珠月はぶつぶつと恨みごとに近い何かを呟き続ける。珠月が負の方向に饒舌になるのは、大概何かを誤魔化そうとしている時だ。今回は痛みだろう。
「珠月ちゃん、珠月ちゃん……珠月ちゃんはミスティッククラスであって、戦闘者のクラスじゃないんだから、そこまで生身で戦闘能力高くなる必要ないんだよ?」
 珠月の所属するミスティッククラスとは、現代の魔術師のクラスである。当然のことながら、ミスティックとは鬼のように強いわけではない。はまれば強い必勝パターンはあるものの逆にいうなら、使えない能力が多く制限やリスクも高い。複雑な分応用が利かず、強化もほととんどできない。
「ミスティック能力は、アンチミスティックやミスティックキャンセラーで簡単に封じられるんだよ? そうなったらどうするの。痛っ」「動くな、【無能】が」
 身じろぎをして、珠月は声にならない悲鳴を上げた。ばたばたと床を動く姿は、部下には絶対に見せられない。
「そういえば珠月ちゃん、何で二重の攻撃を防御しようとしたの? 気功による遠当は無理に受けずに流すか避けるのが常套手段でしょ?」
 気功とは華僑のあいだではTAO、世界的にはアウラーと呼ばれる体内をめぐる“気“を戦闘に利用する技術のことだ。 自身の肉体強化に特化した内気功、遠当などに象徴される外気功の二種類に大別される。上位の使い手ともなれば、武器に自身の気を纏わせて放出することも可能である。二重が使ったのもこれである。ただの接近戦武器の攻撃と思うと、酷い目に合う。しかもサイキックやミスティック能力と違って単純な分、防ぐのが難しい。機械でも何でもそうだが、単純な能力というのは一番弱点が少なく応用が利くのだ。同じ理由で身体すべてを強化してあるサイボークも弱点が比較的少ない。
「…………」
 尋ねられて珠月は沈黙した。ややあって、開き直ったように答える。
「二重が速すぎて反応できなかった」
「貴様もミスティック単独履修にしては素早い。だが、攻撃の一つ一つが軽すぎる。並みの敵兵ならそれでも刃物で致命傷を与えられるが、司令官クラス相手では致命傷は与えられないぞ。しかも長期戦になれば、生身の女のほうが体力的に不利になる。もっと考えて戦え」
 的確なアドバイスに、珠月はため息をついた。反論の余地がない。
「力がないのは分かってるから、体重と勢いと重力を利用して攻撃してるんだけど?」
「その分上からの攻撃が増え、軌道が読みやすくなる。力を込めるのもいいが、受け止めて流すことも考えろ」
「二重の場合、攻撃を流させてなんてくれないじゃん。これだから本職の殲滅屋は」
「言っておくが、警備会社の№2で、序列が十位以上も下で、しかも戦闘者クラスでない貴様に後れをとるようなことがあれば、私は速攻引退しなくてはいけなくなるぞ」
「戦闘系のクラスじゃなくても、私だって警備会社の偉い人なんだよ? 痛っ、くそ、絶対に部下やクライアントには見せられない」
「ああ、見せないほうがいいな。依頼が減るぞ。そもそも貴様の傍若無人な態度でなぜ客が減らないのかが疑問だが」
「無愛想で敵が多い二重でも仕事が絶えないのと同じじゃないかな」
「そういえば貴様の得意技は、異能戦と交渉術と圧倒的な人脈と物資に物をいわせての不戦突破だな。なるほど、弱い者いじめが得意なわけか。黒服魔女」
「売られた喧嘩を高価買取してるだけだよ。触覚眼鏡」
 互いに悪口寸前の言い合いをするが、不思議と空気が悪くならない。それを見て、一重と兎熊は肩をすくめた。
「安心していいよ。ただの同族嫌悪だから」
 そして一言でまとめる。二重と珠月は同時に沈黙した。そして何事もなかったかのように会話を仕切り直す。
「仕方ないなぁ。やっぱり、当面は勝つより負けない訓練積んだほうが妥当かな」
「護衛を連れ歩くのが手っ取り早いと思うぞ。お前なら、命をかけてくれそうな連中の一人や二人いるだろう?」
「二、三十人はいるけど、忠臣というよりは狂犬なんだよね。私も二重みたいにパートナーほしいな。そうだ。一重を頂戴」
「絶対にやらん」
 嫌そうな顔で二重は言った。そして、何かに気づいたようにかすかに表情を変える。
「……貴様ひょっとしてかなり怪我が痛いのか? 言っていることがどんどん中身がなくなっていっているが」
「学園8位の攻撃喰らって痛くないとでも? 痛い……筋肉が動いてくれない……死ぬ…………くそっ、二重、責任とって私をお姫様だっこして医務室まで運べ」
「どんな新手の嫌がらせだ」
 一瞬だけ心配そうな顔になった二重だったが、続く言葉にため息とともにその表情を崩した。珠月は床に転がるという、部下や敵対者の前では絶対に本人が許さないだろう醜態をさらしながらも、どこか余裕がある。周りが古い友人だけしかいないからかもしれない。
「ふふ、服が破れていて、しかもぐったりしてる私を運んで、周囲に変なうわさが立てばいい」
 楽しそうに珠月は笑った。本心から楽しそうな顔を見て、二重のテンションは急降下する。
「……その場合、変なうわさが立つのは貴様の方だと思うのだが」
「安心していいよ。私の周囲はいつもほの暗い噂で満ちている」
「生活態度を改めろ……違う、そうじゃない。話をそらすな。本当に大丈夫なのか?」
「平気。私のことは放置して、次の試合始めるといいよ」
 痛いはずなのに泣き言は言わず、代わりに軽口を叩いて珠月は静かになった。黒い髪が床にこぼれ落ちている。目を閉じていれば死んでいるように見えるかもしれない。
「……貴様が転がってる状態で出来るか、この【無能】が」
「休憩しよう……眠くなってきた……眠い」
 本当に寝むそうに兎熊はあくびをした。彼女はいつも眠たげだ。校内には他にも寝るのが大好きな生徒が複数いるが、その中でも兎熊は特別ねむそうだ。
「そういえばさぁ」
 話題が変わったところで、一重は壁を見上げた。その先には何もないが、壁の向こうではまた誰かが訓練を積んでいるのだろう。
「隣の部屋なんだけど、誰が何してるのかな?」
「ああ、確かにちょっと気になったね。さっき廊下に出た時……眠いからどうでもいいけど」
 転がったままの珠月が答えた。早くも動こうとしてるのが指先がかすかに動いているが、全身に衝撃を受けたせいでまだ立つことはできないらしい。
「隣は何だったかな? ああ、あれだ。もろいブロックが積んであるステージ。足場の確保と安全な盾になるものを見定める能力が必要とされるのが特徴だったかな」
「よくもそんなことを記憶しているな」
 あきれたように二重は呟いた。珠月はたまに、なぜそんなことを知っているのかということまで知っている。場合によっては情報屋より情報持ちだったり、スカラーより物を知っていることもある。問題はその知識が、生きていく上でどうでもいい雑学情報やトレンド情報にやや偏っていることだが。
「何か漏れ聞こえる気配と音に統一感がないというか……むしろ戦闘の音じゃないというか」
「壁越しだから、そう聞こえたんじゃない? うう、眠いよぉ」
 兎熊の返事に一重は小首を傾げた。各部屋は強化された密室となっているが、それでも中で暴れる人間のスキルが並々でないせいか他の部屋まで気配や破壊音が聞こえてくることはしばしばある。隣の部屋からも時々物音が聞こえてくるのだが、ややおかしいのだ。少なくとも熟練のプレイヤーがスマートに戦っているときはこんな余計な物音はしない。
「何してるんだろうねぇ、どうでもいいけど」
「珠月ちゃん、動くと埃まみれになるよ……」
 すでになっているのだが、進んでそれ以上に汚れる必要もない。着替える服は用意してあるが、それでも更衣室やシャワールームに行くまでには人目がある(更衣室やシャワールームは、秘密保持や襲撃防止のため細かくかぎ付き個室に分かれている)。埃まみれの姿を見られると、格好が悪い上に色々と勘ぐられてしまう。
「平気へいき。誰も私が訓練でちょっぴり命の危機だったなんて思わないって。対外的にはさぼり魔で虐めっ子で唯我独尊傍若無人で通ってるから、新手の遊びを開発したと思われるだけだよ」
「……眠い……かごもって……本当に見栄っ張りだよね」
 気の置けない仲間同士の打ち解けた空気が漂う。その時、不吉な音がした。ほぼ同時に全員が一つの方向の壁を見上げる。
「…………何かすごい破壊音しなかった? 隣の部屋」
「壁ぶち抜かないといいんだけど……ふぁあ、眠い、寝る……」
 この訓練施設は軍事施設並みの強度を誇っている。それでも年に数回は壁や天井をぶち抜く生徒が出るのだから、困ったものである。
「ステージ破壊にでもチャレンジしてるのかな? しばらくはあっちの壁に近寄らないように……」
 一重が言い終わるより前に、ひときわおおっきな音がして目の前の壁に大きなヒビが入った。沈黙が部屋を支配する。
「……少し文句を言ってくる。一重はここで篭森を見ていろ」
「ええ? もう立てるよ?」
 勢いよく立ちあがった珠月は、そのまま速攻で膝をついた。二重は冷たい視線を投げかける。
「【無能】はおとなしく寝ていろ」「嫌だね」
 珠月が手を叩くと同時に、ギャラリー席に置かれたいたトランクが内側から開いて、一体の骨格模型が立ちあがった。珠月が好んで操る白骨のアーサーである。すばやく主人の元に走ってきたアーサーは、珠月に肩を貸して立ちあがらせる。
「ほら、たとえ動けずとも移動したり、攻撃する手段ならいくらでもある」
「ああ、すごい。凄いから、さっさと直接戦闘は諦めて能力戦と戦闘指揮のほうに集中するべきだと思うぞ。お前は異能者のクラスなんだから」
「何か棘のある言い方だね」
 三度破壊音がして、壁からパラパラと塗料が剥がれおちた。つまらない言い合いをしていた珠月と二重は沈黙する。
「怪獣でも暴れているのか隣は」
「とにかく、行くぞ」
 隣の部屋へは直接行くことはできない。一度廊下に出てから、隣の部屋に続く扉を開く。公開練習なら扉は開いているし、非公開なら扉の隣の呼び出しボタンを押してコンタクトを取ればいい。二重が先頭に立ち、その横に当然のように一重が並ぶ。兎熊は眠たげに目をこすりながら後に続き、怪我をしているのに無理やりついてきた珠月は白骨のアーサーに自分をお姫様だっこさせている。それを目撃した通行人がびくりと震えたが、トップランカーの新手の奇行と解釈したのか話しかけてはこなかった。そんな外野を無視して、二重は隣の部屋の扉に手を伸ばす。意外にもそれはあっさりと開いた。
「おい、ちょっといいか? 誰だか知らないが、壁にひび割れが……」
 そして中にいたものを見て、二重は停止した。そこには、流石のトップランカーも予想していないものがいた。
「すみません。すぐにどうにかしますので」
「おや、西の指揮者殿ではありませんか。丁度良かった。これも運命の歯車を回す女神の導きです。手伝ってください」

 武器を持った二人の男と、赤銅色のうろこを持つドラゴンが崩れ落ちた障害物を踏みつけて立っていた。

「…………何だこれは?」
 本当に怪獣が暴れていた。
 部屋にいた人物のうち片方の顔を見た瞬間、一番後ろにいた珠月はためらいなく逃走したため、後には二重、一重、兎熊の三人だけが残される。
「…………ジェイル・クロムウェル。今度は何をしている?」
 頭痛をこらえながら、二重は中にいた男のうち見覚えのあるほうの名前を口にした。銃器を持った青年は、まるで竜退治の王子のようににこりと微笑んで見せる。逆にもう一人の少年はまったく笑わない。この場合は笑わないほうがただしい。
「僕の後輩と模擬戦を行っていたのですが……彼の天使も敵わないような詩作の才能が、伝説のレッドドラゴンを生み出してしまいまして」「意味が分からない」
 ワルツでも踊るように優雅に瓦礫の上を飛び回るジェイルを追って、おそらくは火炎放射器並みの火力があると思われる炎がドラゴンの口から吐き出される。ファンタジーな光景に、二重は頭痛を覚えた。横では一重と兎熊が苦笑いをしている。
「ところで指揮者殿、先ほど僕の美しい月の姫がいたような」「お前を見た瞬間に帰ったがな」
 序列102位【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】ジェイル・クロムウェルは、珠月の幼なじみにして最大の天敵である。もっとも、天敵と思っているのは珠月だけで、ジェイルのほうは珠月への好意で溢れているのだが、この場合好意は嫌がらせにしかなっていない。
「そうですか。相変わらず、水面に映る月影のように見えてはいるのに捕まえさせてはくれないのですね。ふふ、つれないお方だ」
「お前はそろそろ篭森に嫌われているという事実に気づけ。そうでないなら、さっさと燃えろ。今、この場で」
 炎をかわしながらふざけたことを言うジェイルに、半ば以上本気で二重は言った。しかし、いつも通り予想の斜め下をいく回答が返ってくる。
「僕の心はいつも月の姫への愛で空も焼け落ちるほどに熱く燃えているので、これ以上燃える必要はありません。今でも姫を思うだけで、魂が煉獄の炎にあぶられるような心地がします」
「そのまま焼死すればいいのに」
 ぎりぎり聞こえるくらいの音量で、兎熊はぼそりと呟いた。会話が一段落したのを見計らって、そこでやっと沈黙していた少年が口を開いた。
「お騒がせして申し訳ありません。ジェイル先輩と模擬戦をしていたのですが、ミスティック能力の使用に失敗して、具現化した個体が暴走してしまったんです。出来るだけ早くどうにかします」
 見覚えのない少年だった。取り立てて外見に特徴はない。一般的には端正な部類に入る顔だとは思うが、この学園には人類の美的感覚の限界に挑戦しているとしか思えない超絶美形がごろごろしているため、それに比べれば目立たないと言えよう。全体的に人を寄せ付けない空気を纏っているが、不死コンビのようなあからさまな殺気を放っているわけでも、ドナルドのように存在時代が浮いているわけでもなく、単に愛想がないという程度だ。
 おとなしそうな普通の少年。その印象に対して、二重はかすかな警戒心を覚える。なぜなら、おとなしい普通の少年がこの学園の本科に在籍しているわけがなく、ましてや限りなく二桁に近い三桁の序列にいるジェイルと行動を共にするわけがないからだ。
「ふん、【無能】が。能力制御は初歩の初歩だろう」
「申し訳ありません。私の能力は相手の影響を受けやすいというか、ジェイル先輩が相手じゃなかったらこんなことには……いえ、いいわけでした。すみません」
 かちんとくるような二重の言い様に、少年はごく普通に頭を下げた。その横をブロックの山がなだれ落ちる。二重はため息をついた。
「仕方ない。一重、兎熊、行くぞ」
「はい。二重」「面倒くさい……眠い……」
 ギャラリー席とステージを隔てる扉はすでに歪んで機能していない。二重は舌打ちすると、ひびの入った強化硝子を愛用する巨大なハサミ〈二重迷走(ドッペルフーガ)〉でぶんなぐった。耳が痛くなるような音を立てて、ミサイル爆撃にも耐えるはずの硝子が吹き飛ぶ。同時にむっとするような熱気がギャラリー席に飛び込んできた。おとぎ話のような竜の吐く炎は本物のようだ。
「ありがとうございます。御挨拶が遅れました。私は……黒雫といいます」
「僕の後輩で、218位【マルウェス・べーロ(夢幻の星影)】です。六つの心でミューズのような美しい詩を織り成す詩人なんですよ」
「……トップランカーか」
 ジェイルの後半の台詞は聞き流して、二重は眉をしかめた。
 トップランカーとは学園内で成績順位300位以内にはいる超成績優秀者のことだが、300人もいる上に、降格や昇格、死亡などで割とよく順位が入れ替わるため、全員を把握することは難しい。居住地や職業もまちまちなので、トップランカー同士でも顔と名前が一致しないことはしばしばある。誰でもすぐに顔と名前が分かるのはトップ10のランカーか、区画やリンクのボスなど要職についているランカーか、ごく一部のやたらと顔が広いランカーのせいぜい30人か40人くらいだろう。
「はい。ジェイル先輩にはいつもお世話に……なっています」
「正直だな」
 ジェイル・クロムウェルの戦闘センスの高さやスキルの多様さは、彼を知る人物なら誰しも認めるところである。しかし彼は、それを普段の生活では活用していない。しかも具体的な実績には不可解な点が多く、周囲には謎が多いというか謎しかなく、背景どころか住所すら定かではなく、交友関係も不明点だらけで、授業にも出てこない。そのため能力値の高さにも関わらず、予科卒業に5年もかかった上、いまだにマスタークラスに留まっているというおかしな人物である。同じようなおかしさでも、夜厳の胡散臭さや沙鳥の異様なまでのおっとりさとはまた違う、得体のしれないおかしさだ。当然、そんな人間に関わって利益があるとは思えない。
「ジェイル先輩は……スキル値はとても高いんです。それに歩く武器庫みたいな人で、戦闘センスも高いですし……ちょっと想像力とか発想がぶっ飛んでいますけど」「ふふ、そんなに褒められると照れます」「安心しろ。貴様の後輩は一生懸命フォローしようとしているだけで、一ピコも褒めていない」
 ちなみに『ピコ』とは、10のマイナス12乗で、コンピューターなどで小ささを表す補助単位としてよく用いられる。ミリ、マイクロ、ナノ、ピコの順で小さくなっていく。
「指揮者殿は相変わらず、閻魔大王より容赦がありませんね。0,5ピコくらいは褒められているかもしれないじゃありませんか」
「そんな小さい単位で褒められて、はたして貴様は嬉しいのか?」
「指揮者殿。人の称賛と感謝の声というものは、万の金より貴重で、蜜よりも甘く、アヘンのように中毒性のあるものですよ。褒められて嬉しくない人間はいません」
「ジェイルさんはもう少し後ろ向きになるべきだと思うんだ」
 一重は大仰にため息をついて見せた。
 ちなみに一連の会話は、崩れ落ちたブロックで足場が悪くなっている訓練室で、紅蓮の炎をかわしながら行われている。全員がトップランカーであるだけあり、ゲームの竜退治の勇者よりよほど余裕がある。しかし、余裕があるのと相手を倒せるのは違う。
「硬いな」
 金属がぶつかるような音がして、二重の〈二重迷走〉が赤いうろこに弾かれた。流石に刃こぼれを起こしたりするようなことはないが、ハサミが当たったうろこには切り裂いたような痕が出来ただけで、致命傷にはほど遠い。
「先ほどから攻撃しているんですが、うろこが頑丈でマグナム弾や刃物くらいではびくともしません。喉や目を狙ってみてはいるんですが……どうも通常の生物の法則に完全に逆らっているようで」
「こういうのは篭森が得意なんだが……」
「だよね。物体操作能力使えば、空気や水の流れで火を消したり……石ころ一つでも高速で動かせば硬いものにダメージ与えたりできるもんね」
 その珠月は、ジェイルを見た瞬間、この場から逃走している。
「……つまりはすべて貴様のせいか。クロムウェル」
「篭森先輩もいらっしゃったんですね……よくお姿を見かけるのですが、いつもジェイル先輩のせいで御挨拶ができません」
 ぼそりと黒雫が呟いた。心外だと言わんばかりに、ジェイルは顔をしかめる。
「私のせいなんて、とんだ冤罪です。黒雫君は、自分の影以外に同行者がいない時であっても、月の姫に影を掴ませてもらえないでしょう?」
「それに関しても私の職業が詩人だから避けられているわけで……元とたどれば」
 先輩に失礼なことを言う直前に、黒雫は口を閉ざした。それでも心のうちは十分に伝わった。
「……苦労してるな」「悪意の人ではありませんから」」
 世の中には悪意がない故に手に負えない人物というのも確実に存在する。
「仕方ない。こういうのは首を落とせば消えるだろう。いくぞ、一重」
「はい、二重」
「私も忘れないでね……眠……」
 三人が前に出ると、さりげなく黒雫は道を譲った。おっとりして見えて所作に隙がない。
「さて、いい加減業火にも飽きたことだ。すぐに終わらせるとしよう。澪漂を始めるまでもない」
 〈二重迷走〉が二重の手の中で輝いた。二重の武器は、一言で言うなら刃渡りが六十センチはあろうかという大振りな鋏だ。二枚の刃はそれぞれ片刃であるが切っ先だけが両刃になるよう作られている。その形状から突きには向くが、横の攻撃には向かない。逆にいうならば、刺す攻撃でこの鋏はもっとも威力を発揮するのだ。
 予備動作ほとんどなしに走りだした二重は、ほとんど崩れ落ちた足場をモノともせず、一息で距離を詰める。三歩後ろを走る一重と兎熊も、一定のスピードでそれに続く。そして赤い竜自身の足を踏み台に跳び上がった。当然、竜は迎撃に入るが、狭い空間ではその巨体は邪魔なばかりだ。たいした抵抗もなく、二重は長い首の真上に跳び上がる。そのまま、武器に自らの気を纏わせ、重力と体重で加速を加えて振り下ろす。
 鈍い音がした。硬いうろこが破壊され、大鋏〈二重迷走〉が深々と竜の首に突き刺さる。しかし、貫通までには至らない。
「二重、退いて!」
 パートナーの声に、ハサミをつきたてていた二重は竜の首から飛び降りた入れ違いに、二つの人影が跳び上がる。
「はっ!!」「眠いから……帰って寝る」
 天井近くまで跳び上がった一重と兎熊は、二重と同じように体重と重力を上乗せした渾身の一撃を、〈二重迷走〉の持ち手に叩きこんだ。嫌な音がして、根元まで深々と鋏が突き刺さる。耳が痛くなるような声を上げて竜が悶えた。
「ちっ、貫通はしているのにまだ動くか」
「頑丈だねぇ」「眠……」
 軽い音を立てて三人は着地した。首にハサミが貫通しているというのに、竜は激しく暴れている。もう一撃加えるかと、一重が身構えた時、
「花が美しいのは散る様がたおやかで儚げだから。星が美しいのはその中で生命が燃えているから。退き際が美しくないのはよくありませんね」
 生き物の血とは思えないほど赤黒い血が飛び散った。中には肉片もまざっている。
「おや、まだ切れませんか」
 いつの間に現れたのか、二重の〈二重迷走〉で出来た傷跡にバゼラードと呼ばれる中型の軍用ナイフをねじ込んで、ジェイルは小首を傾げた。傷に武器をねじ込むという残虐な行為とその仕草があまりにもミスマッチで、気分が悪くなる。
 ジェイルはもう一度バゼラードを押し込んだ。バゼラードは中世に登場し、その後長い間兵士の作業用ナイフとして利用された片手剣である。柄頭から鍔の形状が歪んだ「I」の形になっているのが特徴である。全長は50センチほどで、作業用とはいえ威力はけして低くない。ぶちぶちと肉が切れる音がして、激しく竜が暴れる。だが、打ち込まれた鋏を視点に半分ほど切り裂いたところで、耐えきれず刃が折れた。ジェイルは目を細める。
「あと少しなんですけど……これも運命の女神の気まぐれでしょうか。黒雫君!」
「はい、先輩」
 ジェイルは飛び降りた。直後、自らの首を天井に叩きつけるように竜が暴れる。空中で勢いを殺しながら、ジェイルは二重のそばに着地した。
「お気に入りだったんですが、壊れてしまいましたよ」
「貴様……ナイフも使うのか?」
「銃も刃物も爆薬も、人という悲しい生き物が戦うために長い歴史の中で編み出したものです。使わなくては、遥かなる先達に申し訳が立ちません。本当は、朧の君のように拳銃とナイフが一体型になった特殊銃剣を使いたかったんですが、特注しようとしたら、月の姫に涙を流されてしまいました」
 朧の君とは、珠月の後輩の朧寺緋葬架のことである。可愛がっている後輩と宿敵が同じ武器を持つのがよほど嫌だったのだろう。それこそ、泣くほどに。
「涙を流す姫は朝露に濡れる薔薇のように美しく、しおれた菫のように可憐ですが、流石に紳士として愛しい姫君に悲しい思いをさせ続けるわけにはいきませんので、今はこうして一般的な武器を使っています」
「悲しませたくないなら、貴様は篭森を追うのをやめるか死ぬべきだろうな」
 ジェイルが死んだら珠月が大喜びするであろうことは、客観的に見て間違いない。
「僕が姫をあきらめるのは死ぬ時だけですので、前者はありえません」
「貴様は本当にストーカーだな」
 その時、大きな音を立てて力尽きたように竜が頭を垂れた。激しく頭を打ち付けていた天井には無数のひび割れが出来ている。
「やっと落ち着いてきたか。面倒な奴だ」
「ほとんど首切れてるのに、よく動くね。二重」
 あきれたように二重と一重は竜を見やった。普通の生物なら初めの一撃で致命傷だ。
「やはり、首を完全に落とすしかないか」「それなら平気ですよ」
 にっこりとジェイルは微笑んだ。直後、ずっと動きながら様子をうかがっていた黒雫が竜の上にとび乗る。その手には大小二つの剣が握られていた。
「黒雫君は、双剣使いのミスティック&ソルジャーダブルクラスなんです。アーサー王の騎士のように強いんですよ」
 ミスティックもソルジャーも本来は直接戦闘を専門とするクラスではない。ミスティックは、現代の魔術師として複雑多様な異能を操る存在であり、「だから何だ?」というような意味のない能力を持つものも少なくない。ソルジャーは戦闘クラスではあるが、司令・指揮をおもな専門とするクラスであり、戦闘能力は高いが直接戦闘ではグラップラーに劣ることもある。気功は使えない方が多い。
 だが、黒雫は本職の戦闘者の動きだ。兎熊は首をかしげる。
「あの人は……どこの人?」「ミスティックキャッスルにいるはずですよ」「ああ、道理で」「あそこは荒事もするからな」
 完全に観戦モードに入った先輩を無視して、黒雫は二本の剣を水平になるようにして傷口に叩きこんだ。かろうじて繋がっていた筋肉繊維や皮が切断され、首が重力に従って落下する。地響きとともに首は落ちた。直後、その色素が薄くなる。次の瞬間、砂糖細工のようにもろく首が砕け散った。ワンテンポ遅れて胴体も同じ道をたどる。砕けた破片はたちまち空気に混じって消えていく。
「うわぁ」
 幻想的な光景に、一重は声を上げた。舞い上がる透明な欠片の中、黒雫は申し訳なさそうに歩みよってきた。その手には二重の鋏がある。
「お手数おかけしました」
 頭を下げながら、黒雫は鋏を二重に返した。
「貴様ばかりのせいではない。どうせ、この【無能】が何かしたんだろう?」
 ジェイルを顎で指して、二重は鼻を鳴らした。黒雫は苦笑いを浮かべて首を振る。
「いいえ。私の能力は周囲の影響を受けるタイプなので……それを考えずに能力行使した私が悪いんです。ジェイル先輩には、この能力は禁物だということ忘れてました」
「僕が危険物みたいな言い方はやめていただけませんか?」
「いや、危険物だと思うよ」
 ばっさりと一重は言いきった。二の句が継げず、ジェイルは苦笑とともに沈黙する。ふとその視線が彷徨い、扉の所で止まる。ぱっと彼の顔に笑みが宿った。嫌な予感がする。
「月の姫、来てくださったんですか!?」
「近づくな! お前じゃなくて二重たちの様子を見に来たんだ!!」
 ジェイルが踏み出した瞬間、音を立てて天井の照明が落ちてきた。偶然ではない。あきらかに殺意のある攻撃だった。ジェイルは苦笑を浮かべる。
「ふふ、相変わらずですね。月の姫。綺麗な薔薇には棘があるといいますが、月の姫の麗しさはまさしくそれを体現して」「聞こえない! 聞こえないもん!!」
「…………篭森」
「珠月ちゃん……回復したんだね。そして、一応気を使って様子見に来てくれたんだ」
「天敵がいるのにね……眠い」
 絶好調で珠月をたたえる台詞を並べるジェイルと、大声を上げて拒否する珠月を四人は生温かい視線で見守った。そしていつも通り、珠月は逃げた。
「一重たちが無事でよかった。じゃあ、帰るから! ジェイル、弁償しろ!」
 捨て台詞に近い何かを吐いて、再登場早々珠月は逃げていった。後にはテンションがだだ下がりの人々が残される。
「……また挨拶をし損ねました」
 ぽつりと黒雫は呟いた。それを皮きりに、それぞれが撤収にはいる。
「……クロムウェル、破損届けを出しておけよ」
「一階受付ですね。やれやれ」
「二重、帰ろうか」「運動したら……眠くなった……寝る」
 兎熊は今にも眠りそうだ。その手を引いて、一重は歩き出す。
「みなさん、ありがとうございました。先輩方に御迷惑をおかけして申し訳ないです」
「困った時はお互い様だよ。今度機会があったらきちんと手合わせしようね」
「その機会はないと思うがな」
 平謝りの黒雫と愛想良く黒雫に返事をした一重の間に割り込んで、二重は呟いた。分かりやすい感情の動きに、兎熊は半分寝たまま笑う。
「そういえば、結局君の能力って何なの?」
 兎熊はあくびを噛み殺しながら尋ねた。あいまいに黒雫は微笑んで見せる。
「秘密です。まあ、ヒントを言うなら周囲の人間の想像力の具現化に近いですね」



 二重たちと分かれ、破損届けを提出するため事務室へ向かう道すがら、黒雫はジェイルのほうを振りかえった。
「……先輩」
「はい。なんでしょう」
「俺は、『紅蓮の炎』って単語を混ぜただけなのに、なんで竜が出てくるんですか? 知っているでしょう? 俺の中でも蒼のやつの能力は『自分が暗唱した詩を聞いた相手が想像したものを具現化する』能力です。あんなものが出てきちゃったのは、先輩が瞬時にそれを連想したからですよ」
「申し訳ありません。僕はただ、正義の女神がかざす天秤と剣に誓って申し上げますが、悪意があったわけではありませんよ? ただ、紅蓮の炎が現れるなら、古い物語のように赤き竜が吠えてもよいと思っただけです」
「迷惑な想像力ですね」
 くすくすとジェイルは笑った。その完璧な笑顔からは彼の真意は見えない。いつもそうだ。簡単に見透かせそうなのに、何も見えない。まるで複雑に光が屈折するカットグラスのようだ。
「他人に頼らないといけないミスティック能力というのは、操作が大変なんですよ」
 重ねて黒雫は文句を言った。ジェイルはニコニコと笑っている。
「黒雫君……今は、蒼君ですね。貴方の……貴方がたの能力というのは、歪んだ鏡です」
 またよくわからないたとえ話が始まった。黒雫――あるいは彼が内包する五つの人格は眉をひそめる。
 ジェイル・クロムウェルは尊敬すべき先輩だ。序列も彼の方が高い。しかし、言葉をもてあそぶ彼の仕草にはいまだに慣れない。
「周囲を歪めて写し取る、中途半端な虚像です。アポロンのともしびのように自ら輝き動く必要はない故に、リスクも条件も緩いですが、代わりに限界も分かりやすいのがこのタイプの能力の特徴です。相手の一部を歪めて写し取るだけでは、相手以上の力には成りえません。ですから、僕のベッドの中で見るような空想で困るようではだめですよ」
「先輩は特殊です」
 何を言われてもジェイルは笑っている。
「ふふ。この蒼い箱庭に住む万物が己という矮小な存在の想像の及ぶ範囲のことしか空想し得ないとは思ってはいけませんよ」
「次は頑張ります」
「その粋ですよ」


 ちなみに、その後破損届けを見て部屋をチェックした関係職員は、あまりの破壊ぶりにしばらく言葉も出なかったという。


おわり