BIBLIOMANIAX

Meglio

最終更新:

tranquilizer

- view
メンバー限定 登録/ログイン
【Meglio(最善の策)】

 その左胸に手を当てて、深く息を吐く。
 感じる温もり。きちんと鼓動しているのがはっきりと分かる。
「ごめん……」
「どうして謝るの? これが最善だって決めたんでしょう?」
 沙鳥はいつもと同じ笑みを浮かべる。
「私はそれに従うよ」
 迷い無く、真っ直ぐに。
 直視出来なくて、思わず目を閉じる。
 痛みを感じさせてはいけない。
 苦しみを長引かせてはいけない。
 一瞬で終わらせる。
 いつもは容易く出来ていたはずなのに、どうしても手が震えてしまう。
 これではいけない。
 無駄な傷を付けてしまう。
 綺麗なままでいて欲しいのに。
 傷付けてはいけないのに。
 心臓の位置を確かめたまま動けずにいる俺の手を、沙鳥の小さな手が覆う。
 俺よりも一回りも二回りも小さい手。
 何度も触れて、しっかりと覚えてしまった温もり。
「大丈夫だよ、大丈夫」
 その一言で覚悟が決まる。
 沙鳥の言葉は絶対だから。
 初めて会った時にそう決めたから。
 大きく深呼吸し、寸分の狂いなく心臓を刺す。
 崩れ落ちる身体をしっかりと抱き止め、その口から流れ落ちる赤を拭う。
 大丈夫。
 沙鳥が大丈夫だと言ったのだから、大丈夫。
 けれど、自らの頬を何かが伝う。
 これは知っている。
 沙鳥がよく流していたから。
 でも、どうしてだろう。
 これで間違いはないはずなのに。
 こんな物を流す必要は無いはずなのに。
 突き立てたナイフを一息で抜く。
 噴き出す鮮血と共に失われるであろう熱。
 先ほどと同じように左胸へと手を当てる。
 まだ温かい。けれど、何れ……。
「血を流してはいけない。沙鳥に血を見せてはいけない」
 なのに何故、血の臭いがするのだろう。
 こんな事、あってはならないのに。
 自然とナイフが自らの首筋に向かう。
「沙鳥を傷つけてはいけない。沙鳥を害す者を許してはいけない」
 ナイフを持つ手に力が加わる。
 今度は気を遣わなくて良い。一刺しじゃなくて良い。
 傷付けて、苦しめて、深く深く、何度でも。
「ダメだよ」
 かけられた声と共にナイフが手から滑り落ちる。
 誰かに奪われた訳ではない。手に込められた力が抜けただけ。強制的に。
 この感覚には覚えがある。何度も何度も感じたから。
「……やっぱり、俺がやるべきだったね」
 いつもと同じ笑みを浮かべているはずなのに今にも泣きそうで。
 あぁ、傷付いている。俺が傷付けた。
「けど、まだ俺らにはやるべき事があるんだから。逃げるのはもう少し後でだよ。……その後でなら、どんな手を使ってでもお前だけは自由にしてあげるから。だから、もう少しだけ、ごめん」
 その顔を見ただけで、頭の悪い俺でも理解する。
 俺の選択は間違っていなかった。
「俺で良かった」
 強張った頬を無理やり働かし、笑みを作る。
 こんな思いをするのが、俺で良かった。
 こんな思いをさせずに済んで良かった。
 途端、沙鳥ごと抱き締められる。
 あぁ、これで沙鳥も温かくなる。
 もう寒さを感じなくて済む。
「ごめん、丈」
 もう良いのに。
 シロが傷付く必要なんかないのに。
目安箱バナー