終章、翌日
イーストヤード・ダイナソアオーガン本社。
会長室の扉が勢いよく開けられた。中にいた狗刀宿彌は読んでいた新聞から顔を上げる。
「やあ、珠月。昨日は楽しかった?」
「不快だったよ。見物人は楽しそうだったから、ガス抜きにはなったと思うけどね」
「みたいだね」
『避難訓練悲喜交々 ジェイル&珠月熱愛疑惑? 纏にマゾ疑惑が?』と書かれた記事が見えるように新聞を机の上に置いて、宿彌は椅子に座りなおした。
今日も珠月は黒い服を着ている。よほどのことがない限り明日も黒い服なのだろう。そしてその手には大きな旅行カバン。
「…………流石に休暇はもうあげないよ?」
「違うよ。見て」
ずりずりとかばんを引きずってくると、珠月はそれをあけた。その中には、封筒に入った書類と大量の現金詰まっていた。現金は数億はあるだろうか。そこから珠月は書類だけを取り上げる。
「これは何?」
「宿彌が言う、良く分からないイベントで設けた小金。たいしたものでしょ?」
宿彌はよく知る人物しか分からない程度に眉を寄せた。かすかに首をかしげて見せる。
「給料面で待遇に不満があると?」
「違う。これは頭金。これで避難訓練に使った建物の土地買い取って、そのうえにショッピングモールを作ろうと思って。勿論、中身のほうはブラックシープ商会主導で、複数の人間が金出しあって作る予定だけど。ほら、あの辺りオフィス街で夜になると活気がなくなるうえに、治安も悪くなるでしょ? だから夜遅くまで人が集まるスポットがあったほうが、治安的にも経済的にも良いと思ったの。こっちの書類が計画書。すでに各種のスポンサーとは合意に達してる。これに今回の賭けの参加費用での儲けが上乗せされるから」
怒涛のように繰り出される言葉に宿彌は目を丸くした。ややあって、珠月が東区の経済発展のための箱ものを作る計画を話しているのだと気づく。しかも自分のポケットマネーでだ。
「……どういう風の吹きまわし?」
「その言い方は酷くない? 確かに私は気まぐれで自分勝手だけど、自分勝手なりに宿彌のことも会社のことも東区のことも思っているんだよ」
珠月は気まぐれだが、いい加減ではない。残酷だが、情は深い。一度関わると決めればどこまでもそれに付き合ってくれる気の長いところもあるし、寛容だ。だが、自分からこういうことをするのは非常に珍しい。宿彌はかすかに顔をしかめた。
「…………君が素直に何かをすると気味が悪いな」
「酷いね。私はこれでも宿彌――東王の側近なんだよ」
「そういえば、そうだったね。側近か」
「そうだよ。だから私は、宿彌のためになることだってするんだよ。たまにはね」
「で、何をたくらんでいるんだい?」「たまには素直にお礼が言えないのか」「お礼を言えるくらいのことを平素からしてくれよ」
東の王とその側近は無言でにらみ合った。少しも友好的でない雰囲気が漂うが、長くは続かない。ため息とともに珠月が肩の力を抜き、同時に緊張した空気も霧散する。
宿彌と珠月の視線が交わる。ふっと珠月は笑った。
「それに私にもお金入ってくるしね。箱ものは利権に関わるひとが多いから、その分人脈の開拓もできる。私にとって利が大きいんだよ」
「ああ、なるほど。納得した」「安心した?」
にやりと意地悪く珠月は笑った。
「下心があったほうが安心するでしょ? 宿彌の場合」
「そうかもね。僕には情とか絆とかよく分からないから」
「分からなくても、知ろうとすることはできるんだけどね」
珠月は口の端を釣り上げた。そして、机の上に半分座るようにして身を乗り出す。毎日のように死線を潜りぬけているものとは思えない白い手が宿彌の髪に触れた。たくさんの血で染まったくせにそれを全部洗い流して何事もなかったかのように行儀よく隠した、まっ白な手。
「私は結構あなたが好きだよ、宿彌」「僕も嫌いではないよ」
珠月は答えず両手で宿彌の側頭部を掴んで軽く引き寄せた。そのまま口づけするように顔を近づけて――――額で頭突きを喰らわせた。ごんといい音がする。
「……何?」「ちょっとした嫌がらせ」「嫌がらせを受ける覚えはないんだけど」
東区を代表するリンクのトップ二人は静かに見つめあった。その時、何の前触れもなく扉が開く。びくりと過剰反応した珠月に何事かと宿彌も視線をそちらに向けた。入ってきた人物も目を丸くしてこちらを見ている。
「…………」
机越しに額をくっつけるようにして見つめ合っている男女と、うっかり扉を開けてしまった人。普通なら何をしているんだと突っ込みをいれるか、あるいは静かに立ち去るべき場面である。だが、相手が悪かった。ダメージでも受けたかのように、よろりとはいってきた人物はよろめいた。
「…………ジェイル、何か勘違いしてないか?」
ぼそりと宿彌は呟いた。誤解を本気で解こうとするならばもっと大声で言うべきなのだろうが、人間の心の機微に疎い上に積極的に誤解を解く必要性もたいして感じていない宿彌にその常識は通用しない。そして珠月のほうは入ってきた人物――序列102位【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】ジェイル・クロムウェルの姿を見た瞬間、宿彌の背後に逃げ込んでしまっている。しかもまるで盾にするかのように後ろから抱きついている。見ようによっては色つやのある光景だが、良く見ると珠月の指が宿彌の腕に食い込んでいる。まるで手負いの獣だ。誤解云々どころではない。
「珠月、腕が痛い。離せ。ジェイル。何か用かい?」
「…………」
微妙な空気がダイナソアオーガン会長室に満ちた。そして、
「ああ、なんということでしょう。まさか至高なる狼の王と恋のさや当てをすることになるとは、運命の女神は私になんと厳しい茨の道を用意したのでしょう!?」
「…………ジェイル、珠月が怯えてる。君がいるとただでさえあまり働き者じゃない珠月が本格的に役に立たなくなるから、すごく迷惑なんだけど。うちの警備は何をしてるんだ?」
「そうですね。そういえば古来より、月と狼というものは深い関係があるといいます。ああ、やはり私のような一介の詩人には天空に浮かぶ銀の姫君を射止めることなどできないのでしょうか……」
「うん、とりあえず他人の話を聞こうか」
「ですが、私は諦めません。大空に焦がれた人類が長き時と血脈の果てに宇宙までも飛び出したように、私も月に手が届く日がくると必ず信じて」「信じなくていいよ!」
宿彌の後ろに隠れながら、珠月は叫んだ。目は合わせない。
「だいたい、何で普通に出歩いてるのさ!?」
「ああ、昨日の貴方の気持ちを受け止めきれなかったことはお詫びします。この痛みも攻撃もすべて愛と思って受け止めようとしたのですが、受け止めきれ切れずこのような怪我を」「軽傷じゃん!」「そもそも避ければいいんじゃないかい?」
冷たい視線で宿彌が突っ込んだ。とんでもないとジェイルは首を振る。
「月の姫君の気持ちを避けるなんて、そんなこと愚かな私にはとてもできません」
「うん、本当に愚かだね。業務の邪魔だから帰ってくれないかい?」
その時、どたばたと音がして再び会長室の扉が開いた。
「すみません! 少し目を離した隙に……ジェイル! 業務中はやめてやれ!」
飛び込んできたのは序列205位【マジックボックス(驚異的空間)】ミヒャエル・バッハ。ジェイルの友人であり、珠月の屋敷の居候でもある。
「やあ、ミヒャエル」
「『やあ』じゃない! これ以上、私の家主の機嫌を損ねないでくれ!!」
「損ねてなんて」「いるだろうが! 申し訳ありません。すぐにこれは撤去しますので」
ミヒャエルは、珠月と客にだけは敬語を使う。深々と頭を下げると、ミヒャエルはジェイルを引きずってありき出した。本気で格闘すれば確実にジェイルのほうが強いのだが、彼は大した抵抗もせずに引きずられていく。
「何だかよくわかりませんが、本日はこれで失礼いたします。真珠の月の姫君」
「二度と来るな」
「いいえ。また来ます。今はまだ狼の王に適わずともいつかはその困難を乗り越え」「失礼なこと言ってないでさっさと行くぞ」
ばたんと扉が閉まると同時に珠月は肩の力を抜いた。食い込む指から解放された宿彌は、腕をさする。
「痣ができたかもしれないな」
「…………悪かった。ところで宿彌」
するりと白い腕が宿彌の首に絡みつく。しかし殺気は感じない。
「何?」
「普段から働き者じゃなくて悪かったな、この野郎!!」
珠月は宿彌の首を絞めあげた。
アンダーヤード、ガーネットストリート。殺人事件が多く、常に赤い血が地面を濡らしているといわれることからついたこの暗い場所を唐突に閃光が貫いた。一瞬だけ闇に沈んでいたものたちが浮かび上がり、次の瞬間激しい爆発音が周囲を揺さぶる。しばらくのち、ゆっくりと暗闇の中を二人の人間が立ち上がった。
「…………今回のはまた派手だったな。うう、耳に来た」
「至近距離の爆破は鼓膜に優しくないですね。でも仕方ありません。鈴木深紅は世界的な爆弾魔。年々腕を上げています」
序列229位【ビューティフルボマー(世にも美しい爆弾魔)】鈴木深紅は、以前理不尽な理由で夏羽に殺されそうになったことがあり、その一件で夏羽を深く恨んでいる。どれくらい恨んでいるかというと、月に数回こうして爆弾が送られてくるくらいだ。普通なら止めるためには深紅を殺せばいいのだが、深紅には複数の弟子が存在するため下手に殺すと今度はどこにいるか分からない弟子たちから今まで以上の頻度で爆弾テロが行われるようになることは確実であるため、どうしようもなく放置しているのが現状である。
「貴方が爆殺される日もそう遠いことではないかもしれませんね。ここは一つ、なんらかの方法で深紅とその仲間を皆殺しにするか、そうでないなら本人に許しを請うほうが良いのでは?」
「何で俺が謝らねえといけないんだよ」
「どう考えても謝るべきは貴方でしょうが」
「お前に言われると納得がいかねぇ」
避難訓練をしても何も変わっていない夏羽と陽狩は、嫌な笑顔で見つめあった。次の瞬間、白刃がぶつかり合い鋭い金属音を立てる。
「そういえば宣言を果たしてなかったな。死ね。今すぐに死ね」
「嫌です」
陽狩は笑顔で答えた。そしてバックステップを踏んで距離を置きながらナイフを投擲する。陽狩はそれを弾いてさらに前へ飛び出す。が、そこで徐々に爆破の衝撃から立ち直りつつある二人の耳に嫌な音が届いた。
チッチッチッチッ
「!?」
「時差式!?」
再びアンダーヤードの闇を爆破の炎が切り裂いた。
イーストヤード住宅地に位置するフランス料理店《ル・クルーゼ》の予約室。そこで数名の人間があるものを見上げていた。一名をのぞいて、口が丸く開いている。
「…………契ちゃん、これはいったい何?」
しばらくの間をおいて、そのうちの一人――――序列189位【スコーレ(暇人の学問)】矯邑繍は声を上げた。名前を呼ばれた空多川契は不思議そうな顔をする。
「何って、ケーキ。ブルーローズで作ってもらったの。おねえちゃんの家だと遠いし狭いから、ゆき子ちゃんに場所借りて」「いやいや。そういう問題じゃなくってさぁ」
序列249位【アルヴィース(賢きもの)】冷泉神無もこめかみに手をやりながら言う。
「これってウエディングサイズじゃない?」
「えへ、賞金で買っちゃったのですよ。ふふ、幸せ。蠍蠍さそりサソリ――――」
目の前には高さ一メートル以上はあるケーキが、文字通りそびえたっている。しかも三段構造だ。細かい装飾の施されたクリームに色とりどりのフルーツが美しい。何より特徴的なのはリアルな蠍のチョコレート細工があちこちに乗っていることだ。間違いなく特注品だ。しかも世界的に有名なパティシエ、序列299位【スカーレットフラワー(罪ある赤い花)】雪城白花(ゆきしろ はっか)直々の作品だとすると、新入社員の初任給の半分以上は吹っ飛ぶ額だ。
「……これを三人で食うと?」
恐る恐ると言った感じで、繍は契をうかがい見た。ケーキはどう考えても30人分以上はある。契は首を振る。
「三人と、玉九朗さんとゆき子ちゃんとぴよちゃんとぴーちゃんと店員さんたち。篭森ちゃんはお仕事で欠席」
「それでも辛くない?」
「だから仲のいい人連れてきてって、おねえちゃん言ったでしょ」
繍と神無は無言で携帯電話を取り出すと電話をかけ始めた。
「もしもし、秋人? 今、学園内にいる? 仕事抜けられそうならケーキとか食べに来ない? うん、ベアトリクスたちも誘ってくれない?」
「こんにちは、お仕事中ごめんね。戒さん、今時間ある? すごく大きなケーキがあって困ってるんだけど、食べに来ない? ん? 深紅さんも一緒? うん、全然平気。むしろラッキー。場所はイーストヤードの《ル・クルーゼ》っていうフランス料理店で」
思いついた知人に片っ端から電話しながら、ふと気付く。
「契ちゃんの上司とか同僚は呼ばなくていいの?」「いいんだよ、あんなくそネズミ」
上司への言葉とは思えない発言だった。繍と神無は聞かなかったことにする。
「……とりあえず、切り分けようか。上から順でいいのかな?」
「あ、ケーキ入刀はおねえちゃんがやるの」
一人でやるんかい。繍と神無は心の中で突っ込んだ。ただし、友情のためにも口には出さない。
「蠍愛してる……」
「あー……はいはい、そうだね」
「ナイフ温めようか」
ちなみに集まった人数でもケーキは食べきれず、全員が食べすぎで体調不良を訴えたというのはまた別の話。
おわり
イーストヤード・ダイナソアオーガン本社。
会長室の扉が勢いよく開けられた。中にいた狗刀宿彌は読んでいた新聞から顔を上げる。
「やあ、珠月。昨日は楽しかった?」
「不快だったよ。見物人は楽しそうだったから、ガス抜きにはなったと思うけどね」
「みたいだね」
『避難訓練悲喜交々 ジェイル&珠月熱愛疑惑? 纏にマゾ疑惑が?』と書かれた記事が見えるように新聞を机の上に置いて、宿彌は椅子に座りなおした。
今日も珠月は黒い服を着ている。よほどのことがない限り明日も黒い服なのだろう。そしてその手には大きな旅行カバン。
「…………流石に休暇はもうあげないよ?」
「違うよ。見て」
ずりずりとかばんを引きずってくると、珠月はそれをあけた。その中には、封筒に入った書類と大量の現金詰まっていた。現金は数億はあるだろうか。そこから珠月は書類だけを取り上げる。
「これは何?」
「宿彌が言う、良く分からないイベントで設けた小金。たいしたものでしょ?」
宿彌はよく知る人物しか分からない程度に眉を寄せた。かすかに首をかしげて見せる。
「給料面で待遇に不満があると?」
「違う。これは頭金。これで避難訓練に使った建物の土地買い取って、そのうえにショッピングモールを作ろうと思って。勿論、中身のほうはブラックシープ商会主導で、複数の人間が金出しあって作る予定だけど。ほら、あの辺りオフィス街で夜になると活気がなくなるうえに、治安も悪くなるでしょ? だから夜遅くまで人が集まるスポットがあったほうが、治安的にも経済的にも良いと思ったの。こっちの書類が計画書。すでに各種のスポンサーとは合意に達してる。これに今回の賭けの参加費用での儲けが上乗せされるから」
怒涛のように繰り出される言葉に宿彌は目を丸くした。ややあって、珠月が東区の経済発展のための箱ものを作る計画を話しているのだと気づく。しかも自分のポケットマネーでだ。
「……どういう風の吹きまわし?」
「その言い方は酷くない? 確かに私は気まぐれで自分勝手だけど、自分勝手なりに宿彌のことも会社のことも東区のことも思っているんだよ」
珠月は気まぐれだが、いい加減ではない。残酷だが、情は深い。一度関わると決めればどこまでもそれに付き合ってくれる気の長いところもあるし、寛容だ。だが、自分からこういうことをするのは非常に珍しい。宿彌はかすかに顔をしかめた。
「…………君が素直に何かをすると気味が悪いな」
「酷いね。私はこれでも宿彌――東王の側近なんだよ」
「そういえば、そうだったね。側近か」
「そうだよ。だから私は、宿彌のためになることだってするんだよ。たまにはね」
「で、何をたくらんでいるんだい?」「たまには素直にお礼が言えないのか」「お礼を言えるくらいのことを平素からしてくれよ」
東の王とその側近は無言でにらみ合った。少しも友好的でない雰囲気が漂うが、長くは続かない。ため息とともに珠月が肩の力を抜き、同時に緊張した空気も霧散する。
宿彌と珠月の視線が交わる。ふっと珠月は笑った。
「それに私にもお金入ってくるしね。箱ものは利権に関わるひとが多いから、その分人脈の開拓もできる。私にとって利が大きいんだよ」
「ああ、なるほど。納得した」「安心した?」
にやりと意地悪く珠月は笑った。
「下心があったほうが安心するでしょ? 宿彌の場合」
「そうかもね。僕には情とか絆とかよく分からないから」
「分からなくても、知ろうとすることはできるんだけどね」
珠月は口の端を釣り上げた。そして、机の上に半分座るようにして身を乗り出す。毎日のように死線を潜りぬけているものとは思えない白い手が宿彌の髪に触れた。たくさんの血で染まったくせにそれを全部洗い流して何事もなかったかのように行儀よく隠した、まっ白な手。
「私は結構あなたが好きだよ、宿彌」「僕も嫌いではないよ」
珠月は答えず両手で宿彌の側頭部を掴んで軽く引き寄せた。そのまま口づけするように顔を近づけて――――額で頭突きを喰らわせた。ごんといい音がする。
「……何?」「ちょっとした嫌がらせ」「嫌がらせを受ける覚えはないんだけど」
東区を代表するリンクのトップ二人は静かに見つめあった。その時、何の前触れもなく扉が開く。びくりと過剰反応した珠月に何事かと宿彌も視線をそちらに向けた。入ってきた人物も目を丸くしてこちらを見ている。
「…………」
机越しに額をくっつけるようにして見つめ合っている男女と、うっかり扉を開けてしまった人。普通なら何をしているんだと突っ込みをいれるか、あるいは静かに立ち去るべき場面である。だが、相手が悪かった。ダメージでも受けたかのように、よろりとはいってきた人物はよろめいた。
「…………ジェイル、何か勘違いしてないか?」
ぼそりと宿彌は呟いた。誤解を本気で解こうとするならばもっと大声で言うべきなのだろうが、人間の心の機微に疎い上に積極的に誤解を解く必要性もたいして感じていない宿彌にその常識は通用しない。そして珠月のほうは入ってきた人物――序列102位【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】ジェイル・クロムウェルの姿を見た瞬間、宿彌の背後に逃げ込んでしまっている。しかもまるで盾にするかのように後ろから抱きついている。見ようによっては色つやのある光景だが、良く見ると珠月の指が宿彌の腕に食い込んでいる。まるで手負いの獣だ。誤解云々どころではない。
「珠月、腕が痛い。離せ。ジェイル。何か用かい?」
「…………」
微妙な空気がダイナソアオーガン会長室に満ちた。そして、
「ああ、なんということでしょう。まさか至高なる狼の王と恋のさや当てをすることになるとは、運命の女神は私になんと厳しい茨の道を用意したのでしょう!?」
「…………ジェイル、珠月が怯えてる。君がいるとただでさえあまり働き者じゃない珠月が本格的に役に立たなくなるから、すごく迷惑なんだけど。うちの警備は何をしてるんだ?」
「そうですね。そういえば古来より、月と狼というものは深い関係があるといいます。ああ、やはり私のような一介の詩人には天空に浮かぶ銀の姫君を射止めることなどできないのでしょうか……」
「うん、とりあえず他人の話を聞こうか」
「ですが、私は諦めません。大空に焦がれた人類が長き時と血脈の果てに宇宙までも飛び出したように、私も月に手が届く日がくると必ず信じて」「信じなくていいよ!」
宿彌の後ろに隠れながら、珠月は叫んだ。目は合わせない。
「だいたい、何で普通に出歩いてるのさ!?」
「ああ、昨日の貴方の気持ちを受け止めきれなかったことはお詫びします。この痛みも攻撃もすべて愛と思って受け止めようとしたのですが、受け止めきれ切れずこのような怪我を」「軽傷じゃん!」「そもそも避ければいいんじゃないかい?」
冷たい視線で宿彌が突っ込んだ。とんでもないとジェイルは首を振る。
「月の姫君の気持ちを避けるなんて、そんなこと愚かな私にはとてもできません」
「うん、本当に愚かだね。業務の邪魔だから帰ってくれないかい?」
その時、どたばたと音がして再び会長室の扉が開いた。
「すみません! 少し目を離した隙に……ジェイル! 業務中はやめてやれ!」
飛び込んできたのは序列205位【マジックボックス(驚異的空間)】ミヒャエル・バッハ。ジェイルの友人であり、珠月の屋敷の居候でもある。
「やあ、ミヒャエル」
「『やあ』じゃない! これ以上、私の家主の機嫌を損ねないでくれ!!」
「損ねてなんて」「いるだろうが! 申し訳ありません。すぐにこれは撤去しますので」
ミヒャエルは、珠月と客にだけは敬語を使う。深々と頭を下げると、ミヒャエルはジェイルを引きずってありき出した。本気で格闘すれば確実にジェイルのほうが強いのだが、彼は大した抵抗もせずに引きずられていく。
「何だかよくわかりませんが、本日はこれで失礼いたします。真珠の月の姫君」
「二度と来るな」
「いいえ。また来ます。今はまだ狼の王に適わずともいつかはその困難を乗り越え」「失礼なこと言ってないでさっさと行くぞ」
ばたんと扉が閉まると同時に珠月は肩の力を抜いた。食い込む指から解放された宿彌は、腕をさする。
「痣ができたかもしれないな」
「…………悪かった。ところで宿彌」
するりと白い腕が宿彌の首に絡みつく。しかし殺気は感じない。
「何?」
「普段から働き者じゃなくて悪かったな、この野郎!!」
珠月は宿彌の首を絞めあげた。
アンダーヤード、ガーネットストリート。殺人事件が多く、常に赤い血が地面を濡らしているといわれることからついたこの暗い場所を唐突に閃光が貫いた。一瞬だけ闇に沈んでいたものたちが浮かび上がり、次の瞬間激しい爆発音が周囲を揺さぶる。しばらくのち、ゆっくりと暗闇の中を二人の人間が立ち上がった。
「…………今回のはまた派手だったな。うう、耳に来た」
「至近距離の爆破は鼓膜に優しくないですね。でも仕方ありません。鈴木深紅は世界的な爆弾魔。年々腕を上げています」
序列229位【ビューティフルボマー(世にも美しい爆弾魔)】鈴木深紅は、以前理不尽な理由で夏羽に殺されそうになったことがあり、その一件で夏羽を深く恨んでいる。どれくらい恨んでいるかというと、月に数回こうして爆弾が送られてくるくらいだ。普通なら止めるためには深紅を殺せばいいのだが、深紅には複数の弟子が存在するため下手に殺すと今度はどこにいるか分からない弟子たちから今まで以上の頻度で爆弾テロが行われるようになることは確実であるため、どうしようもなく放置しているのが現状である。
「貴方が爆殺される日もそう遠いことではないかもしれませんね。ここは一つ、なんらかの方法で深紅とその仲間を皆殺しにするか、そうでないなら本人に許しを請うほうが良いのでは?」
「何で俺が謝らねえといけないんだよ」
「どう考えても謝るべきは貴方でしょうが」
「お前に言われると納得がいかねぇ」
避難訓練をしても何も変わっていない夏羽と陽狩は、嫌な笑顔で見つめあった。次の瞬間、白刃がぶつかり合い鋭い金属音を立てる。
「そういえば宣言を果たしてなかったな。死ね。今すぐに死ね」
「嫌です」
陽狩は笑顔で答えた。そしてバックステップを踏んで距離を置きながらナイフを投擲する。陽狩はそれを弾いてさらに前へ飛び出す。が、そこで徐々に爆破の衝撃から立ち直りつつある二人の耳に嫌な音が届いた。
チッチッチッチッ
「!?」
「時差式!?」
再びアンダーヤードの闇を爆破の炎が切り裂いた。
イーストヤード住宅地に位置するフランス料理店《ル・クルーゼ》の予約室。そこで数名の人間があるものを見上げていた。一名をのぞいて、口が丸く開いている。
「…………契ちゃん、これはいったい何?」
しばらくの間をおいて、そのうちの一人――――序列189位【スコーレ(暇人の学問)】矯邑繍は声を上げた。名前を呼ばれた空多川契は不思議そうな顔をする。
「何って、ケーキ。ブルーローズで作ってもらったの。おねえちゃんの家だと遠いし狭いから、ゆき子ちゃんに場所借りて」「いやいや。そういう問題じゃなくってさぁ」
序列249位【アルヴィース(賢きもの)】冷泉神無もこめかみに手をやりながら言う。
「これってウエディングサイズじゃない?」
「えへ、賞金で買っちゃったのですよ。ふふ、幸せ。蠍蠍さそりサソリ――――」
目の前には高さ一メートル以上はあるケーキが、文字通りそびえたっている。しかも三段構造だ。細かい装飾の施されたクリームに色とりどりのフルーツが美しい。何より特徴的なのはリアルな蠍のチョコレート細工があちこちに乗っていることだ。間違いなく特注品だ。しかも世界的に有名なパティシエ、序列299位【スカーレットフラワー(罪ある赤い花)】雪城白花(ゆきしろ はっか)直々の作品だとすると、新入社員の初任給の半分以上は吹っ飛ぶ額だ。
「……これを三人で食うと?」
恐る恐ると言った感じで、繍は契をうかがい見た。ケーキはどう考えても30人分以上はある。契は首を振る。
「三人と、玉九朗さんとゆき子ちゃんとぴよちゃんとぴーちゃんと店員さんたち。篭森ちゃんはお仕事で欠席」
「それでも辛くない?」
「だから仲のいい人連れてきてって、おねえちゃん言ったでしょ」
繍と神無は無言で携帯電話を取り出すと電話をかけ始めた。
「もしもし、秋人? 今、学園内にいる? 仕事抜けられそうならケーキとか食べに来ない? うん、ベアトリクスたちも誘ってくれない?」
「こんにちは、お仕事中ごめんね。戒さん、今時間ある? すごく大きなケーキがあって困ってるんだけど、食べに来ない? ん? 深紅さんも一緒? うん、全然平気。むしろラッキー。場所はイーストヤードの《ル・クルーゼ》っていうフランス料理店で」
思いついた知人に片っ端から電話しながら、ふと気付く。
「契ちゃんの上司とか同僚は呼ばなくていいの?」「いいんだよ、あんなくそネズミ」
上司への言葉とは思えない発言だった。繍と神無は聞かなかったことにする。
「……とりあえず、切り分けようか。上から順でいいのかな?」
「あ、ケーキ入刀はおねえちゃんがやるの」
一人でやるんかい。繍と神無は心の中で突っ込んだ。ただし、友情のためにも口には出さない。
「蠍愛してる……」
「あー……はいはい、そうだね」
「ナイフ温めようか」
ちなみに集まった人数でもケーキは食べきれず、全員が食べすぎで体調不良を訴えたというのはまた別の話。
おわり