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美食礼賛 中編

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tranquilizer

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 イーストヤードの住宅地。メインヤードに次いで治安が良いこの区域は、当然地価も高い。こういう場所に一軒家で住んでいるのは、ほとんどがそこそこの地位にある生徒だ。例えば宿彌や珠月はその類だろう。中には一つの家を共同で購入して住んでいる生徒もいる。
「こっちこっち」
 その一角に唐突に白亜の塀があった。表面は漆喰で塗り固められている。飾りらしきものは何もない。その前に二人の人影が立っていた。
「遅かったね、繍ちゃん」
「……どちら様?」
 同じ年くらいの二人の女性だった。一人は小さな飾りがついた結いあげた髪が特徴的で、アジア系の図柄の服をきた少女。もう一人は暗く沈んだ赤色のスカートの少女。こちらの少女は警戒心をむき出しにしてる。
「繍のおねえちゃん、その死んだカナブンみたいな男は何?」
「失礼だよ、契ちゃん。この人、ブルーローズの匠さん。怪我してるみたいだから、ゆきちゃんの料理を食べさせてあげようと思って。ゆきちゃんにはもう連絡したし」
「うう、女の子同士の神聖な食事会に土足で上がり込んでくるなんて、なんてウジ虫なのかしら、こんちくしょう」
「ブルーローズの人だって。篭森ちゃんの知り合い」
「むー」
 納得いかなそうな顔をしたが、契と呼ばれた少女は口を閉ざした。
「とりあえず、はじめまして。冷泉神無です」
 おっとりとアジア系の服の少女のほうが口を開く。
「どうも。毎熊匠です。お邪魔してすみません」
「空多川契です」
 どちらの少女も聞き覚えのある名前だった。

 序列249位【アルヴィース(賢きもの)】冷泉神無(れいぜい かんな)
 序列225位【ラヴレス(愛を注ぐもの)】空多川契(あくたがわ けい)

 神無は世界的に有名な骨董品の鑑定士で修復屋。西区で骨董屋を営んでいる。契はアンダーヤードにある非合法リンクの一つ〈デスインランド〉のコアメンバーの一人である。
 学者の繍と商人の神無と裏組織の契。
 接点は何一つなさそうな三人だが、予科生時代につるんでいた仲間であり、所属がみごとに分かれた現在でも仲は良い。ちなみにこの仲良しグループには、後輩の村崎ゆき子も含まれる。
 もちろん、匠はそんなことまでは知らない。
「じゃあ、怪我人もいるし中に入ろうか」
「だね」「そうしよ」
「中?」
 いぶかしげに尋ねた匠に、契は無言で道の先を指差して見せた。漆喰の壁の先に車一台がやっと通れるくらいのやや小さい門がある。
「ここが、レストラン〈ル・クルーゼ〉だよ」
「意味は仏蘭西語で坩堝。理科の実験とかで使うやつ」
 白い門だった。
 そこを潜った瞬間、花の匂いが立ち込める。
 桜が咲いていた。ほとんど色のない白い花弁が風に乗って暗い空へと舞い上がる。地面に視線を落とすと一面の牡丹の花。紅い花弁がひらひらと地に落ちる。季節が違うはずの花が咲き乱れている。
「いつ来ても、見事な狂い咲きね」
 花弁が舞う。その先に建物があった。しかしその全体像は闇に溶け込んでよく見えない。黒い色の壁が夜と同化してしまっているのだ。ただ窓や玄関からこぼれた明かりだけが、レストランの存在をアピールしていた。
 牡丹の間には白い道がある。まっ白な石を薄く切って敷いた石畳だ。その向こうは三段ほどの階段になっており、店の入り口へと続いている。
 いつの間に現れたのだろうか。そこに人がいた。レストランの従業員らしい黒い給仕服を着た男性だ。ほっそりとしていて色が白い。彼はこちらを見て丁寧に頭を下げると、ほほ笑んだ。
 狂い咲く花々。黒い建物。白い道。細身の男。
 すべてが幻想的でこの世のものとは思えない。

 …………向こうに行ったら、死ぬ

 ふと思った。急に恐怖感に駆られて振り向いた匠は、ぎゅっと襟首を掴まれた。
「うわぁああ!?」
「臨死体験じゃ」「ないんだよ」
 掴んでいたのは、繍と神無だった。二人とも引きつった顔をしている。
「やっぱさぁ、このロケーションはやばいと思うんだ。初めての客が、全員どんびきするから」
「何度も言ってるんだけどねぇ。この彼岸ちっくな見た目をどうにかしろって。怪我を治しに来た人が、臨死体験気分になるからって。いかにも三途の川の花畑だもん」
「昼間はまだましなんだけどね。ま、おねえちゃんはこの見た目も大好きですよ」
 そういいつつ、女性陣はずんずんと白い道を進んでいく。
「…………」
 あの世っぽく見えたのは気のせいではないらしい。だが、見えるだけであの世ではないようだ。匠は静かに女性たちの後を追った。
「いらっしゃいませ、ようこそ〈ル・クルーゼ〉へ。ご予約の空多川様ですね」
「一人増えたんだけど」
「うかがっております。どうぞこちらへ」
 そういうと、給仕は音もなく扉を開いた。全員が中に入ると、足音も立てずに先導する。一体どういう歩き方をしているのか、衣ずれの音さえしない。
 店内は落ち着いたクラシックがかかっていた。卓上には花が置かれ、きらびやかな格好をした男女が優雅に夕食を食べている。その間を、目の前の給仕と同じような青白く気配のない店員が歩き回っている。黒のタイを給仕がしているところを見ると、そこそこの格式のレストランのようだ。
「昼間は仏蘭西家庭料理のバイキングをしてて、夜は主に予約客相手にコース料理を出しているんだよ。本家では、ディナーっていうのは昼食に食べるものだけど、日系人が多いこの街では夜にディナーをとる人がいいから」
 繍が振り向いて説明した。
「もうちょっとだから、痛いと思うけど我慢してね」
 痛いというかある意味死んだと思いました。
 匠はその感想を心の中だけにしまっておくことにした。
「お荷物お預かりします」
「はい。よろしく」
 匠も荷物を預ける。乱闘の後なので汚れていて申し訳ない。
「すみません、こんな格好で」
「とんでも御座いません。本日は個室ですし、気になさらないでください」
 幽霊っぽい店員はにこにこと言った。アルカイックスマイルがあの世っぽくて嫌だ。
「こちらへどうぞ」
 通されたのは、二階の個室だった。どうやらこの店は一階がオープン、二階は個室になっているらしい。リーズナブルなフレンチの個室は大人数用の場合が多いのだが、ここはそれほど広くはない。四人でちょっと大きいくらいだ。
 一階から二階にかけては中央部分が吹き抜けになっており、それを囲むように通路がある。その通路にそっていくつかの個室があった。一行はその一つに通される。
「食前酒はいかがなさいますか?」
 ぎょっとして振り向くと、いつの間にか案内の給仕が下がり、代わりにソムリエと思しき人物が立っていた。彼もまた痩せていて色が白い。はっきり言って、見分けがつかない。
「私、酒弱いからいいや。水ください」
「じゃあ、繍ちゃんは炭酸水ね。毎熊さんも怪我してるし、そうしておいたら?」
 特に反論することもなかったので、匠はうなづいた。
「私たちはどうする?」
「飲もうかな」
「どうせ前菜はばらばらになるんだから、シャンパンでも空けておく?」
 トップランカーだけあって、値段を考えない会話が繰り広げられる。他人事ながら、普段ブルーローズの会計を握る匠としては、色々気になった。
「やっぱ、私キールにする」
「じゃあ、おねえちゃんはキールロワイヤル」
「えー、じゃあ、私もそっちにする」
 キールとは白ワインとクリーム・ド・カシスのカクテル。キールロワイヤルとは、キールの白ワインをシャンパンに変えたもののことである。
「キールロワイヤルと炭酸水ですね」
「よろしく」
 音もなく給仕は退室した。そして、すぐに戻ってくる。
「お待たせしました。キールロワイヤルと炭酸水です。本日の先付けは、キッシュ・ロレーヌでございます。クリーミーな卵の生地にチーズ風の生地を載せて焼き上げたもので、仏蘭西北部ロレーヌ地方の郷土料理です」
 鮮やかな赤色のカクテルが、神無と契の前に置かれる。繍と匠のグラスには透明な液体。そして全員の前に湯気を立てるキッシュが置かれた。
 フランス料理店では食前酒を頼むと先付けがサービスされる。食欲を刺激する食前酒は、たいがいがアルコール度数の低い辛口の酒だ。アルコールが苦手な人や甘いものが好みの場合、食前酒をパスしてもマナー違反ではない。
「料理はどうする?」
「あー、前菜の帆立て貝がおいしそう。フォアグラもいいな」
「確か前菜選べるでしょ? 好きなの頼めばいいと思うよ。私は魚介類の燻製サラダ仕立てにしよ。メインは肉にして」
 幽霊じみた店員など気にならない様子で、女性陣はコースの相談を始める。ひょっとして幽霊っぽく見えてるのは、自分が弱気になっているせいなのだろうか。匠は不安になった。
「ん。おねえちゃんは鴨にする。鴨、美味しいよ、鴨」
「どうしようかな。私は鶏かな。雄鶏のワイン煮込みが美味しそう」
「……羊の香草焼きか仔牛か悩む。玉九朗さんは?」
 猫のくせに普通に椅子に座っている玉九朗は、メニューをにらむ。
「魚で玉ねぎを使っていないものを所望する」
「白身魚のグリエがいいんじゃない? 前菜を鯛のマリネとパテにしちゃって。ヒラメも美味しそう」
 わいわいと料理の相談をする。それをぼんやりと見る匠の前に、繍はメニューを差し出した。
「どうする? ちなみにフルコース食べないと意味ないから、魚と肉両方食べてね」
「前菜は二品ね」
 嫌なグルメレースだった。主に値段の問題で。しかも全員の視線が匠を向いて、匠はたじたじとなる。
「えーと、じゃあ前菜はフォアグラとアスパラガスと……魚は……白身魚の包み焼き、肉は……鳩……」
「あ、この人が例のコースの人なんだけど」
 唐突に神無が言った。驚いて顔をあげると、いったいいつの間に現れたのか、店員がオーダーを取っている。
「うかがっております」
「手を怪我してるみたいなんで、食べやすいようにしてあげてください」
 匠の意見を完全無視したオーダーだった。だが、立場上文句を言うわけにもいかない。
「よろしければ、多少見栄えやうまみに影響が出ますが、食べやすいようにこちらのほうで細かく切ってお出ししましょうか?」
「だって。どうする?」
「…………お願いします」
 選択肢などもとよりない。
「こっちの前菜は、野菜のテリーヌとコンソメと―――――」
「メインは羊の香草焼きで」
「前菜はエスカルゴ。メインは鳥のワイン煮込み」
「魚!」
 丁寧に店員はメモを取っていく。
「ワインのほうはいかがしましょうか」
「あ、そういえばメインばらばら」
「えーと、じゃあ魚用にシャンパンと……白飲みたいけど肉がねぇ……ワイン煮込みもあるし、フルーティなタイプの赤ワインで」
「二本も空けるの!?」
「余ったら持って帰ればいいよ」
 予算無視の注文の仕方だった。
「かしこまりました。では少々お待ちください」
 床を滑るように移動して、店員は退出した。そこらのソルジャーよりよほど気配を感じさせない歩き方だった。むしろ、生気を感じない。
「……一つ、失礼なことを言ってもいいか?」
「何?」「失礼と思うなら言わないほうがいいと思うよ。やっほぅ」
「契ちゃん……」
「……やっぱいい」
 くじけそうになった匠に、神無がフォローに入る。
「いやいや。なに?」
 ちらりと匠は周囲に視線を向けた。
「……この店、【ドクターグルメ】の店ってことは世界中から治療にくる客がいるってことだよな?」
「一日四人ね」
「怪我や病気を治す料理を出すところなのに、ややあの世っぽすぎないか?」
「仕方ないよ。坩堝だもん」
 あっさりと神無は答えた。繍と契もうなづく。
「そうそう。それに、メートルを見たらもっと驚くと思うよ」
「店員の顔色なんてたいした問題じゃないよ。まあ、ちょっと見分け付かないけど」
「アルバイト含め六人いるホールスタッフ、いまだに見分けられないもん」
「みんな、黒服、短髪、青い顔、笑顔、だもんねぇ」
 やはり、匠の気が弱くなっているとかいうレベルの問題ではなかったらしい。匠は少しだけほっとした。そして、気になる。
「なぜこんな内装に?」
「いやぁ、牡丹が美しかったからってこの物件を選んだらしいんだけど」
「気づいたら、こうなってたって話」
「ちょっとした臨死体験って感じで、これはこれでいいんじゃない?」
 臨死体験は、ちょっとするようなものではない。
 そうこうしている間に前菜が来る。それを持ってきた相手を見て、再び匠の意識は遠くにいきそうになった。
 酒と前菜を持ってきたのは、鳥だった。給仕服から腕の代わりに翼、足の代わりにかぎ爪が覗いている。頭には鶏冠があり、羽は白い。あえて種族を設定するなら鶏らしい。だが、普通の鶏は服など着ない。しかもこの鳥は、背筋をぴんと立てて二足歩行している。体格だけなら人間に近い。そのうえ、身長は180センチはあり、匠より大きい。
「!?」
「本日はル・クルーゼにお越しくださいましてありがとうございます。シェフが残念ながら手が離せないため、私が挨拶をさせていただきます」
「久しぶり、ピヨちゃん」
「今日のオードブルは何?」
 驚いているのは匠だけで、他の女性陣はまったく動揺していない。鳥は丁寧に料理の説明を始めたが、そのすべてが匠の脳をすり抜けていく。
 鳥が立ち去ると、匠はやっと口を開いた。
「あれ……何?」
 鶏では当然ない。しかしあの質感はきぐるみなどでもない。生き物だった。
「なにってピヨちゃん」
 何の説明にもなっていない。
 驚愕する匠に、繍は不思議そうな視線を向けた。
「ああ。ああいうタイプのトランスジェニックは珍しいかもね」
 そういう問題ではない。
「ピヨちゃんはトランスジェニックというよりは――――鶏に人間の遺伝子構造を埋め込んでるから、トランスジェニックより鳥に近いんだよ。でも、人語は喋れるの」
「ピーちゃんも似たような感じだけど、ピーちゃんは喋れないんだ。どっちも子どものころはただの動物にみえたから、間違って食材にされそうになって」「それをゆきちゃんが拾ってきた」
 まだあの鳥の仲間がいるのか!?
 再度、匠は驚愕した。あの世を通り越して、メルヘンだ。いや、ヨーロッパの先住民族は死者と妖精と妖怪の間の区別がないから、ある意味ではまた一歩あの世に近付いた。
「ちなみに彼は、この店のメートルドテルね」
 メートルドテルとは、フロア全体を仕切るサービスの責任者のことである。予約を受ける、席を決める、オーダーを取るなど色々な仕事をする。
「鶏が!?」
「種族差別はだめよ」
「だってピヨちゃんだぞ!?」
「店に来たころは、ケセランパサラン似のひよこだったから、ピヨちゃんって名前になったの。確かに、鶏にピヨちゃんは変よね」
「問題はそこじゃない!」
 匠のテンションは下がった。
「あら、食べないの?」
「温かいものは温かいうちに。冷たいものは冷たいうちに食べるのが、料理人へのマナーだよ」
 すでに女性陣は食べ始めている。その様子を見ていて、どうでもいいことに気づいた。
 三人と一匹中、冷泉神無だけマイ箸持参だった。
「…………」
 つまり神無は、フレンチを箸で食べていた。悪いとは言わないが、何かがおかしい。
「嫌いなものでもあったんですか…………食べ物を粗末にするなんて、ゴミ虫以下が」
「契ちゃん、契ちゃん。心の中だけで言おうね」
 つっこみたいところはそこではない。
「フレンチで食べられないものがあった場合、一応は箸をつけておいて、それから皿の端っこに寄せて、パセリかなにかで食べ残しを隠すんだよ」
 親切にも神無がマナーを教えてくれた。反論するのもあれだったので、自由に動く左手を使って匠は料理を食べ始めた。細かく切られた料理は、左手だけでもどうにか食べられる。食べた瞬間、複雑なソースの香りが口いっぱいに広がった。
「………………美味しい」
「店がせまいから知名度はまだ低いけど、ゆきちゃんは料理上手なんだよ」
 なぜか自慢げに繍が言った。
「フォアグラ普段は苦手なんだけど、ここのは美味しい……幸せ」
「うーん、いまだにシャンパンの美味しさがわからない」
「なら、頼むなよ」
「玉九朗さーん、あんまり飲んじゃだめだよ」
 居酒屋とたいして変わらないテンションで、三人と一匹は食事を続ける。つられて匠もフォークを伸ばした。
 美味しい。ヨーロッパの料理はソースの味が強いため倦厭する日本人もいるが、これはよくできている。ソースのうまみを生かしながら、ぎりぎりのところで素材を生かしている。臭みがある素材すら、うまみに変えている。
「……この感動は白花以来かも」
 自分の所属する洋菓子店〈ブルーローズ〉のパティシエにして社長の雪城白花を心から敬愛する匠としては、最大級の褒め言葉だった。だが、それは伝わらなかった。
「比較するなんてサイテー」
 白い目で契は匠を見た。他の女性も特にフォローしない。玉九朗にいたっては、料理に夢中でこちらを見てすらいない。どうでもいいが、肉球のついたあの手でどうやってナイフを操っているのだろう。
「……そういうつもりじゃ」
「いいから食べなよ。一人だけフルコースなんだし、さっさと食べないとペース遅れちゃうよ」
「はい……」
 何を言っても墓穴だ。
 察した匠は料理に集中することにした。味は絶品。こんな機会でもなければ食べることはできないだろう。だが、店は変だ。耳を澄ましてもかすかなクラシックの音色以外は何の音も聞こえてこない。他の客の気配というものがほとんどしない。そのとき、
「なに?」
「皿でも割れた?」
 叫び声のようなものが聞こえた。空気がざわめく。
「ちょっと見てくる」
「私も行く」
「じゃあ、私も」
 結局、玉九朗以外の全員が席を立つ。匠は迷ったが、後を追った。そういえば、右手はそんなに痛くない。触れると骨が折れているのを感じるが、痛みはない。
 遅れて出ると、三人は吹き抜けから下を覗き込んでいた。
「何の騒ぎだ?」
「暴れてる人がいるっぽい」
 覗き込むと、吹き抜けの下にあるテーブルで若い男が店員に何かを叫んでいた。向かいには似たような年ごろの女が座っているが、その女はにやにや笑っているだけで何も言わない。
「……なにあれ?」
「あれはエンジェルエッグのモデルやってる人だね。最近人気が出てきた。はあ、急に人気者になった人間って、高確率でうざいよね」
 笑顔のまま神無は酷いことを言った。耳を澄ますと、ワインの温度がどうだの、個室にしろだのクレームをつけているのが聞こえる。対応する幽霊のような店員は笑顔のままだ。それがさらに火に油を注いでいる。
 特に止める気もなく、匠はその様子を見下ろした。こういう飲食店ではこの手のトラブルは珍しくない。それを諌めるのも店のサービスの腕前だ。
 だが、黙っていられない人もいた。
 契が個室に戻っていく。飽きたのかと思ったがそうではない。すぐに彼女は戻ってきた。そして、持ってきたシルバーをぽいと放り出す。シルバー―――――銀のナイフは弧を描いて、階下の男のすぐ横に突き刺さった。
 店が静まり返った。あと二センチで致命傷だった。契はけろりとしている。
「すみませーん、給仕さん。ナイフ落としちゃいました。取り換えてください☆」
「はい、ただいま」
 青白い店員がテーブルに突き刺さったナイフを引きぬいて厨房に消える。蒼白な顔をして、ナイフを投げつけられた男は顔をあげた。
「お、お前なにを」「エイリアスもない素人が、力の責務も知らずに暴れてんじゃねえよ」
 低いがよく透る声だった。その内容で、相手は契の立場を悟ったらしい。青い顔がさらに蒼白になる。その時、
「お客様、大変お待たせしました」
 声がした。振り向くとワゴンを押した鶏人間が立っている。
「魚と肉の料理で御座います。階下のお客様も、ただいまサービスのワインをお持ちいたします。お食事中にお騒がせしました。皆さま、どうぞ席へ御戻りください」
 有無を言わせなく口調だった。助けられる形になった男は、慌てて自分のテーブルに座る。テーブルクロスを握る手が小刻みに震えていたのを、匠は見逃さなかった。ランカーでない生徒にとって、上位ランカーとはそれだけの恐怖感を抱かせる存在なのだ。
「馬鹿め」
 ぼそりと匠はつぶやいた。
 鳥はこちらに向き直る。
「空多川様もどうぞ。本日は良い鴨肉が入りました。ローストの油が赤ワインによく合います」
「それはいいね」
 あっさりと契は踵を返した。繍と神無も続く。幸い、前菜は食べ終わっていたので、メインに移るのに支障はない。
 部屋にはいると丁度中で皿を下げていた給仕とすれ違った。その姿を見て、匠は再び硬直する。皿を下げていたのは、二足歩行の豚だった。鳥よりもさらに動物っぽい形状をしており、身長は五十センチほどしかない。
「何!?」
「こんばんは、ピーちゃん」
「なに驚いてるの? ピーちゃんはこの店のコミドランよ」
 コミドランとは本来、シェフドランが下げた皿を厨房の洗い場に運ぶ役のことだが、人数が少ない店の場合はテーブルから皿を下げることもある。その後ろ姿を見送って、匠はぽつりとつぶやいた。
「俺の前菜、ハムが入ってた」
 ハムの原料は当然、豚肉である。豚が豚肉を運んで悲しい気持にはならないのだろうか。
「平気よ。ピーちゃんはプロだもん」
「でも、昼間のバイキングはちょっと泣きそうだよ。ほら、昼間は家庭料理のバイキングだから、豚肉多いんだ。シュークルート(細切りキャベツの漬物を塩漬け豚やソーセージと一緒に煮込んだもの)とか骨付きハムとかカイエット(豚肉のハーブオーブン焼き)とか。フランスは豚を頭の先からしっぽまで食べきる文化を生み出した国だから」
「運ばせるゆきちゃんもゆきちゃんだけどね」
「本人食われてないからいいんじゃない?」
 そういいつつ席に着いた四人と一匹の前に料理が出される。
「いやぁ、ピーも最近はよい感じに脂身が乗ってきましてねぇ」
 すました顔で、冗談とも本気ともつかないことを鶏が言う。色々な意味で洒落にならない。
「こちらは白身魚のグリエ、プロヴァンス風で御座います。プロヴァンス風とは、オリーブ、にんにく、ハーブなどを多用した南フランスのプロヴァンス地方の料理で」
 順に料理の説明がなされる。そこでふと、匠は気付いた。
 契のメインは、鴨肉のロースト。
 神無のメインは、雄鶏のワイン煮込み。
 匠の肉料理は、鳩のロースト。
 羊をメインにした繍と魚メインの玉九朗はセーフだが、それ以外は見事に鳥肉料理が続いている。それを給仕するのは、鶏(多分)だ。
 匠は緊張した。だが、鳥のほうは慣れた様子で料理の説明を続ける。
「こちらの雄鶏の赤ワイン煮込みはオーベルニュ地方の郷土料理で、赤ワインは地酒を使います。玉ねぎやベーコンも一緒に煮込むのが特徴で――――」
 どうみても同族の料理を平然と解説する。自分が料理になるかもしれないという不安はないようだ。すげえ。
「では、ごゆっくり」
 鳥がいなくなると、匠は肩の力を抜いた。
「ちょっと、さっきから失礼だよ。そりゃあ、あの人たちは少し人間っぽくないところもあるけど」「少し!?」
 むしろ人間要素のほうが少ないと思う。全体的に。
「もっと柔軟な思考をしないと、この時代、生き残れないよ」
「そうそう」
 さらに駄目だしされる。反論する気力もなくて、匠は魚を食べ始めた。魚と肉を両方食べる場合、魚の量は少ない。一人だけコースが多いので、急いで食べ進める。ふと気付くと右手が少し動いた。痛みはあるが、骨がほぼくっついている。
「…………」
「あ、手治ってきた? 地味にすごいでしょ。ゆきちゃんの能力」
「この羽虫にはもったいない」
「契ちゃん……」
 どうやら匠は契に嫌われたようだった。別に好かれたいわけではないが、それでも落ち込む。
「俺……嫌われるようなことしたか?」
「いや、契ちゃんが嫌いなのは毎熊さんじゃなくて……」
「男嫌い?」
「でもなくて……」
「契ちゃんは、友達の周囲をうろつく男が嫌いなんだよ」
 嬉しそうに鶏を食べながら、神無が言った。相変わらずマイ箸を使っている。エコロジーなのか箸を使うのにこだわりがあるのか、よく分からない。
 憂鬱な食事は続く。
目安箱バナー