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ロイヤルベルベットブルー



 ベアトリクスに手を引かれて、矯邑繍は重厚な木の扉を潜った。とたん、心地の良いクラシックが耳をくすぐる。
 店内は青かった。目に痛くない上品で深い青色で店内は埋め尽くされている。

 Loyal velvet blue

 入り口に小さく掲げられていた看板を、繍は思い出した。なるほど。確かにここは上質の青の空間だ。特に濡れたような深い色というのは、ベルベット生地の特有の色でもある。
「ゲームバーなのよ。ほぼスカラー用の」
 ゲームといってもやかましいアーケードゲームのことではない。カウンターとちょうど反対側の壁の隅がダーツ場になっていて、そこで数名の男女がダーツを楽しんでいる。他のテーブルでは、チェスや賭けなしの健全なトランプを楽しんでいるものもいる。
 戦闘者であるグラップラーやソルジャーなら、ダーツよりはるかに難易度の高いゲームを好む。彼らにとって、すべての矢を同じ位置に充てるなど珍しくないから。本職の詐欺師や賭博師なら、このような場所でゲームをしない。心を読むタイプのサイキッカーやミスティックもそうだ。
 しかしそうでない客――例えば、戦闘能力に欠け、賭けごとを好まない人たち――スカラーにとっては、ここはゆっくり遊べるいい店なのだろう。周囲を見渡すと、確かに知り合いの姿がちらほら見えた。場所がメインヤードで、研究施設が立ち並ぶ通りに近いせいもあるのだろうが、スカラーの姿が目立つ。まだ少年少女といった年齢の客の姿もあるが、旧時代と違い年齢による飲酒制限のない現代、飲酒も喫煙も自己責任だ。
「他のクラスの子は来ないの? グラップラーとかソルジャーとか」
 ベアトリクスとともに奥へ進みながら、繍は尋ねた。
「来るけど、やっぱり少ないわ。あの人たちにとっては、ここのゲームなんて暇つぶしには向かないでしょうからね。いくならロックンロールスターとか、スナッチとか、オルギアカジノとか。あちらのほうが派手だしね」
 ベアトリクスは答えた。こんな場所でも、彼女は白衣を着ている。
 二人の姿に気づいて、数名が口笛を吹いた。女性でしかもスカラー単独履修の成績上位者というのは、やはり珍しいからだろう。
 学生の身分ながら、学園非常勤講師としてライザーインダストリーの最末端に席を置く、序列189位【スコーレ(暇人の学問)】矯邑繍。
 エイリアスこそ持たないが、序列1100位にランクインする海洋生物学者、ベアトリクス・アーネム。
 研究分野も序列も人種も違うが、二人はともに学園公式の多目的研究機関CIX ORGANIZATIONに席を置く学者仲間である。普段は、繍のほうは非常勤講師か生徒の動向チェックの仕事のため学園内を歩き回り、ベアトリクスは海洋調査のため研究施設にこもっているか、掛け持ち所属の四十物谷調査事務所の仕事で大海原にいるため、顔を合わせる機会は多くない。だが、同じ女性の学者として都合があえば遊びにいくこともある。
 繍とベアトリクスは、カウンター席の一番奥に座った。テーブルは黒いが、椅子のクッション部分は青い。壁には蒼い海を描いた絵画がかけられていた。
 すぐに店員が飲み物の注文を取りに来る。
「ご飯は先ほど食べてきたからいいわよね? じゃあ、チーズの盛り合わせと……ロング・アイランド・アイス・ティ。繍はどうする?」
 ロング・アイランド・アイス・ティとは、紅茶を使わずに紅茶の色と風味を生み出すというなんとも奇妙なカクテルである。ジンやウォッカ、ラムにテキーラが入るので意外とアルコール度数は高い。
「カルーアミルク」
 たいして繍は、定番の珈琲リキュールのカクテルを注文した。アルコール度数が低いため、酒に強くないひとでも飲めるのが特徴だ。
 店員が下がってから、ベアトリクスは口を開く。
「せっかくのバーなのに、もっときついの飲まなくていいの?」
「酔いつぶれると困るから。ベアトリクスのは、度数きついんじゃないの?」
「19度ってとこね。そういえば以前、篭森さんに『ティと名がつくのに、お茶の成分が入っていないなんて詐欺だ』って言われたことがあるわ」
「なんという言いがかり……」
「篭森さんは、日系イギリス人だもの。無理もないわ」
 イギリス人には、お茶に異様な執念を燃やす人種が少なからず存在している。
 すぐに飲み物とチーズが運ばれてきた。無言で乾杯をして、二人は杯を傾ける。
 静かな空間だ。バーだというのによって騒ぐような相手はいない。クラシックのかすかな音色と、チェスの駒が盤に当たる音、カードを切るかすかな音が混ざりあう。
 そして店内は青い。太古の母なる海に沈むように、あるいは至高の父なる空へと飛翔するように。青い。蒼い。青い。蒼い。
「うん、いいな。この店」
 繍は言った。繍はアルコールをたしなむ習慣がないため、自主的に飲み屋に行くことは少ない。それでも、この空間はいい。
 見上げると天井もうっすら蒼みが飼っている。水面のようにも雲のかかった空のようにも見える。壁も水色の細かいストライプ模様だ。
 赤い簪で結いあげた髪の毛が少し崩れていることに気づいて、繍は簪を抜きとった。少しくせのある黒い髪が肩にこぼれおちる。
 そういえば、今日の上着もベルベット生地だ。ぼんやりと繍は思った。ジャケットの濡れたような黒い色に、プリントされた赤い花が映える。ひざ下まであるスカートは裾が不ぞろいで、種類の違う三種類の生地が動くたびに違う表情を作り出す。簪の飾りは赤い。首から下がったチョーカーも、深い赤色の紐にとんぼ玉が付いている。赤い。紅い。お気に入りの綺麗な赤色。でも、ここにいると青のほうが正しいような気がする。水に濡れたか、空に侵された青色。青という色はこんなに綺麗なものだっただろうか。
「なんか、青が好きになりそう」
「分かる。私も初めて来たとき、そう思った。あるものね、本当に綺麗な色って。どういう塗料を使っているのかしら?」
「気になるのはそこなのね」
 ちりんとベルが鳴った。青い空間に別の人影が入ってくる。
「おや、ベアトリクス。珍しいね。繍もいるのか」
「あら、秋人じゃないの」
「こんにちは、秋人さん」
 序列1000位。位置的には、繍以下ベアトリクス以上の成績にあたる木枯秋人は、にこりと人の良い笑顔を浮かべた。秋人とベアトリクスは同じ四十物谷調査事務所の社員であり、繍とはCIX ORGANIZATIONの学者仲間に当たる。しかし、秋人の専門が考古学、中でもオーパーツの研究であるため、ベアトリクスや繍に比べると学園を留守にしていることが多く、顔を合わせることは珍しい。
「ベアトリクス、君は捕鯨調査じゃなかったのか?」
「昨日戻って来たのよ。いやいや、大変だったわ」
 そう言いながら、ベアトリクスは秋人の席を勧める。勧められるままに秋人は席について、それから繍をみて小首を傾げた。
「ぼんやりしているようだね」
「酔ってるのよ。酒と、この店の青色に」
「おかしいな、一説によると青は人間を落ち着かせる色だと聞くけど」
 にこにこと秋人は笑う。この学園の生徒には、無害な笑みだ。そして笑みと同じように、秋人自身も無害。他人を傷つけるような能力もなければ、傷つけて喜ぶような悪癖もない。人のいい、ただの学者。優しい人。警戒しないでいい普通の人。
「それにしても、二人がいるならセシリアとワットも誘えばよかったね」
「セシリアはともかく、ワットのほうがすぐに消えたり、現れたりするから心臓に悪いわ」
「そう? 私は別にいいと思うけど」
 ベアトリクスは眉をしかめて、繍はのんびりと返事をした。
 セシリアとは、序列254位【グリーンアイ(緑眼への嫉妬)】セシリア・シャイクスピアのことである。専攻は心理学。繍と同じく文系方向に特化した学者だ。彼女は、スカラーとミスティックのダブルクラス保持者である。
 ワットとは、序列253位【エスケープベロシティ(束縛からの脱出者)】ワット・ホイッスラーのことだ。専攻は天分力学。気まぐれで、わがままなところもある性格をしている。スカラーとサイキッカーのダブルクラスでもあり、テレポーテーションを得意としている。
 どちらも学生身分ながら非常勤講師としてはたらく、ライザーインダストリー最末端構成員であり、繍の同僚だ。そして、ベアトリクスと秋人からみればCIX ORGANIZATION所属のスカラー仲間ということになる。
 スカラークラスの生徒というのは、特に特定分野に特化した技術や能力の持ち主が多いため、CIX ORGANIZATIONの学者を全部集めれば世界最高峰の頭脳集団になるかもしれない。
 まあ、生徒であっても多目的研究機関CIX ORGANIZATIONへ所属していないスカラーも割といるが。
「まあ、忙しいから実際にみんなで飲むのは難しいかもしれないけど。僕はウォッカ・アイスバーグを」
「それ、ほとんどただのウォッカじゃん!」
 ウォッカ・アイスバーグとは、ウォッカにベルノで香り付けをしただけの、ほとんどウォッカをオンザロックで飲むようなカクテルである。当然、アルコール度数は高い。
「てっとり早く、酔える」
「その酒、強いから……めちゃくちゃ強いから! もう、倒れたら捨ててくよ? あ、私はネグローニを。繍はどうする?」
「……ベアトリクス、ジンベース好きだね」
 ネグローニとは、ジン、カンパリ、ベルモットを組み合わせたカクテルである。同名の伯爵が食前酒として愛飲していたことで知られる。
 序盤からとばし過ぎの友人たちを見て、アルコールに強くない繍は心の中でため息をついた。店の反対側では、酔った学者が壁にダーツの矢を指してしまい、慌てている。馬鹿だ。
「えーと、じゃあ繍はリキュールが好きだから、イエローパットを」「ベアトリクス。アルコールが苦手な人間に何を飲ませようとしてるんだ」
 秋人は、ベアトリクスの手を押さえてやんわりといさめた。
「あら、甘口の酒よ」
「問題はそこじゃない。アルコール度数だよ。すみません、今のなしでえーと、カカオフィズを」
「かしこまりました」
 苦笑いで店員が答える。
 ちなみにイエローパットとは、ベルノとシャルトリューズという香草系リキュールとアプリコットブランデーのカクテルである。リキュール系のカクテルの中では、比較的アルコール度数が高いほうで、およそ30度ある。ついでにカカオフィズはおよそ8度。三分の一以下である。
「…………ちょっと。私、何飲まされるところだったの?」
「甘口の酒よ」「比較的強いカクテル」
「あら、そんなにびっくりするようなものじゃないわ」
 友人たちの意見は分かれた。深く突っ込むのはやめて、繍は再び店内の青色を見やる。
「青という色はね」
 それを見て、ゆっくりと秋人は口を開いた。
「青は人を理性的にさせるといって、昔は青い石をお守りにしたりしたそうだよ。人は青が好きだ。でもね、食べ物となると人間は青いものを本能的に拒否するらしい。赤とかオレンジとか暖色系の食べ物は食欲を増進させるのに、青や鮮やかな色の食べ物は食欲を減退させるとか。不思議だね。人は青を綺麗だと思うのに、青を警戒する」
 バーテンダーがシェイカーを振ってカクテルを作っている。すぐに注文した酒がきた。
 繍は勝手に頼まれたカカオフィズに口をつけた。不安はあったが、意外と美味しいことにほっとする。酒豪二人は、ぐいぐいと酒を飲んでいる。氷が入っているカクテルというのは、ゆっくり時間をかけて味わうもののはずなのだが。
「……何だったかな。誰かがそういう話を文学的に言っていた気がする」
 青い色。
 アルコールが回ってきたすこしぼんやりした頭で、繍は言った。
「青い色は海の色だから、人は青を綺麗だと思うのに警戒する。青は原始の海だから」
「海は生命の母でしょ? なら警戒なんてしなくていいんじゃないの?」
 興味を引かれたように、ベアトリクスが身を乗り出す。海洋生物学者であり、海洋生物との意思疎通もなんとくできるという彼女は海が大好きだ。四六時中、遭難にかけるくせにまた海へ出かけていく。
「海は初め。羊水と同じ、母親の腹の中。でも、私たちはもう外に出てきてしまっているから、もう海には帰れないんだって。海に還るためには、もう一度純粋な命の流れに乗らないといけない――つまり、死なないと始まりには戻れない。母親の胎内への回帰を願い、人は海を見つめる。でも、戻れば死ぬと分かっているから人は海を恐れる。ひいては、それと同じ色である青にも同じ感情を持つんだって。青い色に恋い焦がれるけど、ふとした瞬間正気に戻る。落ち着くけど、不安になる。赤と違って意識に浮かばない怖い色」
「哲学的だねぇ」
「科学的センスには欠けてるわね」
 理系学者は情緒のかけらもない。
「その理屈でいくと、年中、過去にあったかもしれない文明の遺物を掘り起こすために地面に穴を掘っている僕って、一体なになんだろう」
「その理屈でいうなら、年中、海に潜ったり遭難したりしてる私は何なのかしら?」
「私が考えたわけじゃないんだから、こっちに聞くな」
 同じスカラーであっても、専門分野も仕事も思考回路もまったく違う。今の時代、文系理系ですべて分けられるようなものではないが、それでも得意な傾向はある。
 ちりんとベルが鳴って、新たな客が入ってきた。
「あー、繍ちゃんがいる!」
「今晩は。シューさん」
 子供のような高い声と落ち着いたアルトに振りかえると、入ってきたのは知人だった。本当に、スカラーの集まる店だ。
「神楽とミドハト。仕事は終わったの?」
「古い本の修理だったんだよん」
「神楽さんが、修復のためにばらしておいた本ページの山を倒して……あの時は、もう今日中には帰れないかと思いました」
「ドンマイ、どんまい。どうにかなったんだから、大丈夫☆」
「殴っていいですか?」
 巨大図書館ビブリオマニアスクの司書、神楽とミドハト。
 ビブリオマニアスクは世界各地に拠点をおく、図書館である。最近では書物のほとんどがデータ化され、電子書籍となっているが、その中で従来の『書物』の形にこだわっているのがこの集団だ。
 女性のほうは序列503位、峨家下神楽。『がけした』などという縁起の悪い名字だが、本人は天真爛漫な性格をしている。いつも通り、腰まである髪を編みこみにしてしっぽのように垂らし、服装はミニスカートにブレザーという学生スタイルだ。学生といっても、現在でもこのような服装をしている学生は少ないが。
 もう一人の男は序列689位、ミドハト・アジズ。神楽の司書仲間である。極度の活字中毒者であり、年中着ているすその長いコートの裏には、隠しポケットに大量の本を入れて持っている。本がないと死ぬ、というのがもっぱらの噂だ。
 学者ではあるが、エイリアス持ちではなくCIX ORGANIZATIONにも籍がない二人と繍が知人なのは、繍の保証人である空多川契の保証人が神楽だからである。そのつながりで、ミドハトも知っている。
「こんばんは、ミドハト君」
「誰? 紹介して」
 秋人もミドハトとは顔見知りらしい。ベアトリクスは違うのか、首をひねっている。司書二人は、簡単に自己紹介をした。
「ご一緒してもかまいませんか?」
「いいけど、テーブルに移動したほうがよさそうね」
 さすがに五人でカウンターを占領するわけにもいかない。空いているテーブルのほうへ移動する。
「ところで、ミドハト君」
 移動しながら、秋人がおずおずと口を開いた。
「君、すごくカーペットにめり込んでるけど、大丈夫? 色々と」
 その言葉に全員がミドハトの足元を凝視する。この店は通常より厚くしかも毛が長いタイプのカーペットを使用しているのだが、確かに若干めり込んでいる気がしないこともない。だが、暗さとカーペットの深い青色のせいでよくは分からない。
「あれ? めり込んでますか?」
 当の本人は、のほほんとしている。繍はベアトリクスと顔を合わせた。
「めり込んで……る?」
「秋人がそういうなら、そうではないかと」
 秋人は能力者でもないくせに、異様に周囲の異常に敏感で勘がいい。彼がおかしいということは、だいたいおかしいのだ。数回外れたこともあるが、そういう時はだいたい彼の体調が悪い日だけだ。
「いや、でもウォッカ飲んでるし、分かんないよ」
「秋人がウォッカの一杯で酔っぱらうわけないでしょ」
 流石に仕事仲間は詳しい。繍はゆっくりとミドハトを振り返った。
「ミドハト、今日のコートには何が入ってるの?」
 実際に床に多大な負荷をかけているとしたら、原因は彼のコートに違いない。正確にはコートに内蔵された凄い量の本だ。ミドハトは小首を傾げて見せながら、椅子に座った。椅子が悲鳴を上げた。
「いつも通りだと思いますよ。ねえ、神楽」
「ん。そうだね。雪道とか歩くと一歩ごとにはまるもんね、ミドは」
 秋人は不安そうに椅子を見つめた。たぶん、繍と同じ心配をしているのだろう。
「ちなみにいつもはどれくらい?」
「たくさんですよ」
「平均、三十から四十キロだよん。馬鹿みたい」
「鎧かよ!」
 興味なさそうに答えて、神楽も席に着く。釈然としないものを感じながら、飲み物のグラスごと移動してきた三人も、テーブルについた。黒字に青いストライプの入った制服の店員が注文を取りに来る。
「えーと、えーと、私はアレキサンダー」
 生クリームを使うカクテルを神楽は注文した。本当に、全員みごとにばらばらの傾向のものを頼む。
「僕はラムソーダをお願いします」
「あー、追加でつまみの盛り合わせとジンアップルを。繍にはメロンボール」
「ちょっ、まだ前の飲み終わってない!」
「ベアトリクス、ちょっとペースが速すぎないかい? 酔いつぶれても、僕は運ぶ自信がないよ」
 そういいつつ、秋人もぐいぐい飲んでいる。
「平気よ。すこし弱い酒にしたし」
「あくまで少しだろうが。頼むから、急性アルコールとかやめてくれよ?」
「まあ、そうなったらなったで運命ですよ」
「そうそう」
「いや。そういう運命は回避しなきゃだめだろ」
 馬鹿馬鹿しい会話が繰り広げられる。
 ちらりと周囲を見るが、泥酔している客はいない。今、ここで倒れでもしたら騒ぎになるだろうなと繍は思った。隣の席では、テーブルの上で二人の男が碁をうっていたが、どちらも酔っているらしくかなり無茶苦茶な布陣が引かれている。おそらく、勝負はつくまい。
「最近、なにか面白いことあった?」
「んーとね、個人が所蔵してた本が結構な量寄付されて、今修復中だよん」
「おもに僕がですけどね。神楽は翻訳は得意ですが、修復は駄目だめです」
「むむ。ミドだって、『こ、これは夏目漱石の初版!!』とか言って、希少本見つける度に恍惚となるから、その度ごとに手が止まるじゃん! ハル図書館長もあきれてたよ!!」
「ばらしてページ通りに並べた本の紙をばらばらにした奴が言うな!!」
 司書二人は言い争いを始める。聞いている限り、五十歩百歩だ。
「それはどうでもいいからさ、その本、いつから借りられるの?」
 黙っていた繍は、話題のないように興味を引かれて口を開いた。ミドハトは肩をすくめる。
「随時、ですね。修復がどれくらいかかるかまだ分からないので」
「もう借りられるのもあるし、閉架に収納予定で図書館内でしか見れないのもあるし」
 ほぼ同時に司書コンビは答えた。仲がいいのか悪いのか分からない。
「繍ちゃん、本当に本が好きだよね。っていうか、お勉強が?」
「まあ、【スコーレ(暇人の学問)】だからね」
 秋人は笑った。そういえば、このメンバーの中で、エイリアスを持っているのは繍だけだ。エイリアスというのは自分でつけるものではなく、なんらかの偉業を成し遂げた、あるいはなんらかの大事件を起こした時に、第三者からつけられる通称である。そのため、いつどういうエイリアスが付くかは本人にもわからないし、それがその人に本当に合っているかも誰にも分からない。
「あーあ、私も欲しいな、エイリアス」
「そう? 僕は別になくてもいいと思うけど。変なエイリアスが付いたら困るし」
「それもそうねぇ。でも、変なエイリアスってそんなに…………あるか」
 ベアトリクスは顔を引きつらせた。
「【サイキック中学生】、【ホーンテッドアックス(怪奇斧男)】【ワクワクテカテカ(氾濫する過剰期待)】【デンジャラステディベア(超危険なクマさん)】【ラブリーキュート(超可愛い)】…………」
「不思議なことに、能力やスキルの強さとエイリアスの格好よさって結びつかないのよね」
「時々、良く似たエイリアスがいて混乱するし」
「んー、やっぱなくていいかも」
 下位ランカーは案外呑気だった。繍だけは慌てて聞こえる範囲に、名前が挙がった面子の関係者がいないかどうかを確認する。誰かに聞かれたら、あとでトラブルになりかねない。幸い、関係者の姿は見当たらなかった。
「話変わるけど、この前、秋人は事件に巻き込まれたんだって?」
「桔梗と篭森さんのおかげで無傷だよ。ま、運が良かったかな」
「巻き込まれてる時点で悪いじゃん」
 神楽は笑った。
「そういえば、桔梗ちゃんはこの前雑誌の表紙に出てたよ。アート系の」
「見てくれがいいですからね。普通の格好してれば、東洋美人です」
 普通の格好をしていないときは、美人ということを忘れるほど男らしいが。去年の夏など、上半身裸で日曜大工をしていて目撃者を絶句させた。
「篭森珠月さんは相変わらずですよね。飄々としていて、真意が読めない」
「地下を爆破で壊したとか聞いたよ。静かな顔して、過激な人だよね。まあ、あの【エグザイルカルバリア(追放髑髏)】の娘さんだもんね。無理もないか」
「人類最狂・篭森壬無月! 有名人の子息って大変だわね」
「そんなこと言ったら、あれ。澪漂の望月遡羅さんも人類最強・望月楚羅嗚の実の妹さんでしょ? ほんと、有名人の関係者多いよね。この学校は。多分世界を回す、十二の企業と九つの組織、全部の関係者が通ってるでしょ」
「世界最高峰の教育機関だもん。黄道十二協会の一翼、ライザーインダストリーの教育機関。ライザーは、次世代の人材育成に特に力をいれてる組織だしね。」
 にわかに話題は有名人の話に移る。いつの時代のどこだって、有名人はゴシップの的だ。
 複雑な気持ちで、繍はそれを聞いていた。篭森珠月は繍の友人のひとりである。友人の中では比較的少ない、戦闘能力の高い人だ。いつも無表情で酷薄にみえるが、意外と面倒見がよく優しい面があることも知っている。
「篭森さんといえば、実はユーザーじゃないかって噂もあるよね」
「あー、あるわね。いっつも無表情なのは、オーパーツのせいで感情が消失してるからじゃないかって噂。実際、予科のころはもっと感情表現豊かで優しかったとも聞くし」
 オーパーツ、別名アーティファクトとは、超古代文明の遺産であり、現代に失われたオーバーテクノロジーの結晶だとされている。オーパーツ自体が使い手を選ぶため、誰にでも使用できるというわけではない。選ばれた使い手は、ユーザーと呼ばれる。効能はそれぞれ違うが、共通する特徴は使える時間や能力の限度が限られていることと、使い続けるとユーザーの生命力や喜怒哀楽の感情、痛覚などといった感覚の一部を奪うことである。
 校内でも有名なユーザーである、序列8位【エターナルコンダクター(悠久の指揮者)】澪漂二重や、序列9位【ドラグーンランス(竜騎槍)】狗刀宿彌などはすでに感情の消滅が始まっており、非常に無感動な人間となっている。特にユーザー歴が長い宿彌は、もうほとんどの感情が存在しない。
「えー、でもあの人が武器持ってるとこなんて、あんまり見たことないよ?」
「あの白い骸骨がオーパーツとか?」
「ねえねえ、繍はお友達なんでしょ? 知らないの?」
 話を振られて、繍は肩をすくめて見せた。
「さあね。知らないよ」
 嘘だ。本当は知っている。珠月は、ユーザーではない。彼女が無表情なのは、ミスティック能力の対価として、能力使用後には一時的に感情の一部が麻痺するからだ。そして、麻痺の事実を周囲に知られないために、珠月はいつもポーカーフェイスを保っている。本科に上がって無表情が進んだように見えるのは、感情を表に出さないことが上手くなったからだ。
 でも、そんなことは教えてあげられない。本人が仲の良い友達にだけ、教えてくれたことなのだから。
「それに感情が表に駄々もれっていうのも、リンクの幹部としては問題あると思うよ。珠月は、感情のコントロールがうまいの。きっとそれだけだよ」
「ま、そんなとこだろうね、実際は。でも、そういう噂って面白いよね。他にもあるよね。逆襄がホモだとか、北王が実はサイボークだとか」
「そういうの、都市伝説っていわない?」
 繍はため息をついた。有名人ほど、訳のわからない噂が増える。これが有名税というものだろうか。
「実際のところは、どうでもいいけど。私は本がなくなったら困るけど、誰がいなくても明日は来るし」
「酷いし、失礼ですよ。まあ、私も本がなくなったら一日で死にますけど」
「あんたたち、本当に書痴ね」
「ありがとう」
「褒めてないわよ!」
 褒めたつもりがなかったベアトリクスは驚いた。ビブリオマニアスクにかかると、本と名がつけばすべて褒め言葉になるらしい。本馬鹿にもほどがある。
「ベアトリクスさんは、今回は遭難しなくて良かったですね」
「緋葬架ちゃんもほっとしてたよ。ベアトリクスとの学外への外出は、=で遭難フラグだもん」
「失礼だよ。遭難率は、一割くらいだ」
「いや、それって十回出かけたら一回は遭難するってことですよね?」
 驚異的な確率だった。
「でも、今まで死人が出たことはないよ」
「そこが不思議なんですよ!」「何か守護霊的なものがついてるんじゃね? あ、すみません。ガルフストリームを」
 綺麗なブルーが印象的なカクテルを、神楽は注文した。青い空間で飲む蒼いドリンクはなんだかお洒落だ。
 おしゃべりは続く。
「この前、繍さんが受賞辞退した雑誌論文の授賞式ありましたよ」
 そんな繍の危機感を知ってか知らずか、話題がまたころりと変わる。
「また、移動が面倒くさかったの? たまには賞くらい受け取りなさいよ。賞金も多少なりとも出るんでしょ?」
「ちゃんともらえば、ランキングだって上がるのにねぇ。欲がないね」
「いいんだよ」
 少し酒が回ってきた頭で、繍は答えた。くらくらして、水底に沈んでいくような感覚がする。きっとこの蒼い色がいけない。
「普通に暮らせればいいんだよ、私は。見下すのも見下されるのも統治するのも統治されるのも嫌いだし。アカデミックな分野って、ある意味では特権階級っていうか、昔の僧侶みたいな半分治外法権みたいなところがあるから、居心地がいいの。そこそこ使って、そこそこ使われて、でもほとんどは自由に生きられる」
「それは……最高のぜいたくだね。この時代」
 しみじみと秋人は答えた。
 企業が世界を統治する時代。働けないものは、生きられない。生きられたとしてもそれは世界の最下層としての貧困の中で、とりあえず心臓が動いているというだけのことだ。働いたとしても、ほとんどは社会を動かす歯車として生きて死ぬしかない。上へ行って社会の歯車を動かす立場になることもできるが、それは他人を踏みつけ支配することでもある。良い家柄に生まれたなら、多少能力に劣っていても良い暮らしをすることは可能だ。だが、良い立場にいるものは下のものを監督する責任を持つ。
 支配されず、しない。それはとても難しいのだ。それこそ、富を築くよりもはるかに難しい。
「おやおや。無気力にみえてたいした野心家です」
「だからこそ、スカラー単独クラスでトップランカーなのよ。やるわね」
「何がやるっていうのよ?」
「普通という贅沢。旧時代の日本ならありふれていて、今の時代のはほとんどないもの。使いつぶさず、使い潰されないという無駄」
「流石は【スコーレ】ね。そういえば、スコーレはギリシャ語で【余暇】。学校や学者の語源でもあったわね。なるほどなるほど。余暇と学問を楽しめるのは、強者の特権だ」
「ベアトリクスだって、学者じゃない」
「繍ほど実力もないし、自由もないわよ。代わりに、私は上へ行きたいわ。上じゃないとできないこともあるもの。賞だってほしいし」
「制約があるからこその楽しみもあると思うけど」
「それは繍だから、言えるのよ。中道っていうのは、上からも下からも圧力がかかる、一番大変な場所なのよ。そこで和めるということは――あなたは本当に才能があるのよ」
 拗ねたようにベアトリクスは言った。まあまあと秋人がいさめる。
「才能といえばさ、北区のクロエさんだけど……」
「すみませーん! ゴットファーザーお願いします」
「僕はカシスウーロン」
 また話題が変わっていく。いつまで飲むつもりなのだろう。繍はあくびをした。
 蒼の色で視界がにじむ。少し飲みすぎた。視界が揺らぐ。水面のように。
 明日は仕事があるのに…………
「あら、繍? もう潰れたの?」
「…………寝ちゃったみたい」


おわり