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 それは、七年ほど昔の記憶。
 床に倒れた自分を見下ろすように立ちはだかる、男の姿。逆光でその表情は読み取ることができない。しかし、見えなくともその顔が苦々しく歪み、怒りの表情をかたどっていることぐらい容易に想像できる。
 男の口が何事かをまくし立てるように動いた。
 虚ろな頭の中を、その怒鳴り声がハウリングするように突き抜ける。

 ――貴様はどうしていつもそうなのだ二重(アルオン)! 何故父である私の意思に背き、あまつさえ牙を剥こうとする! まったく、貴様という奴は本当に【無能】だな! 兄の命を奪って生まれてきた図々しい奴め、貴様など、我が候(ホウ)の家系の恥さらし以外の何者でもない…………

                   ♪

 「……重、二重、ふーたーえ!」
 自分の名を呼ぶ声で、机に伏せるように眠っていた澪漂・二重ははっと身を起こした。
 「もう……珍しいね。勤勉実直な二重が仕事中に居眠りなんて」
 諌めるような口調とは裏腹に優しげな微笑を浮かべ、自分の顔を覗きこむように身を屈めた少女――澪漂・一重に対して、二重は困ったように微笑み返した。他の者には絶対に見せないような、優しげな笑みを。
 「いや……すまん、私らしくないな。――よく考えれば最近あまり寝ていなかったし……どうやら疲れが溜まってたようだ」
 「大丈夫? あんまり無理しないで、少しは休んだら? 仕事なら私たちがやっとくから……」
 「大丈夫だよ。少し気が緩んでただけだ」
 二重は優しくそう答え、壁に掛けられた時計を見る。
 「……三時過ぎか。少し休憩してお茶にしようか?」
 「あ、うん。そうだね。じゃあ私お茶淹れてくるよ」
 二重の笑みに安心したのか、穏やかな表情を浮かべた一重は、執務室のドアを開けると嬉しそうに出て行った。
 二重はそんな一重の後ろ姿を見送って、一つ小さなため息を吐く。
 夢を見るなど、随分久しぶりのことだった。それが、七年も前の子ども時代の記憶であるというならばなおさらのことである。
 今の澪漂・二重である自分にとってはそれは既に過去のことであり、とっくに乗り越えた経験だと思っていた。
 二重は一重が戻ってくる間に、そんな過去の記憶に思いを馳せる。

                  ♪

 「お前はまたそうやってつまらぬことに時間を割きおって、アルオン!」
 乾いた音を立てて、ヴァイオリンが床に叩きつけられた。当然のようにばらばらになったその楽器に取りすがるように這い寄った少年の頬を、父は無情に張り飛ばした。
 「お前は我がホゥ家の跡取りなんだぞ? 音楽などという生産性のないものにうつつを抜かしてないで、鍛錬や勉強などすることはいくらでもある」
 「ですが……私は音楽をやりたいんです。【影爪行幣(インチャオハンバン)】を継ぐ者など、私よりはるかに有能な者がたくさんいるはず……」
 皆まで言わせず、父である候・零重(リィオン)は再び息子を殴りつけた。
 「音楽で人が殺せるのか? 音楽で戦争に勝ち抜くことができるのか? そんな技術など、この黄道の世界では通用しないぞ」
 「ですが……音楽で人を殺すことはできません。戦争に勝つこともできません。しかし、音楽で争いをなくすことはできます。世界を平和にすることは、できます」
 アルオンの言葉には答えず、リィオンは唐突に彼に告げた。
 「――旧東京にある、学園都市トランキライザーは知っているな? 協会の一翼、【ライザーインダストリー】の長である王涯が作った、次世代を担う人材を育成する教育機関だ」
 「…………?」
 急に話題に出てきた極東の学園都市に、アルオンは父の意図がすぐには読めずまじまじとその顔を見つめた。
 「お前には来年からその学園に入学してもらう」
 「え……」
 「そこでしっかり勉強して、ホゥ家の跡取りとしての資質を養ってこい。言っておくが、決定事項だ。お前に選択の余地はない」
 一方的に父に決められた学園入学。それが、今後の彼の人生を大きく変革させることになるとは、当然ながらこのときはまだ誰も気づいていなかった。

                   ♪

 「私たちももうすぐ本科進学か……なんか、あっという間だったなぁ、予科程」
 「何感傷浸ってるのよ、兎熊。でもまぁ、実際どうしようかなって感じだけどね。とりあえず私は入るリンクは決めてるけど」
 「あー、そうだねぇ。でも実際実感ないよね? もうすぐ本科の厳しい世界に入るなんてさ」
 「初年度生たちに比べればいくらかはましなんだろうがな。俺たちには多少の人脈もあるし」
 学園都市トランキライザー、その南区画にある飲食店街に、小さな喫茶店がある。まだ本科に進学している生徒が今よりは少ないため、飲食店街とは言っても店舗はまばらだ。
 喫茶店のテラス席に陣取る四人――紫々守・兎熊(ししもりとぐま)、篭森・珠月(かごもりみつき)、澪漂・一重、そして候・二重は、それぞれ自分の前に飲み物の入ったカップと、上品な皿に乗ったケーキを確保して与太話に花を咲かせていた。
 現在でこそ考えられないが、この四人は予科程時代非常に仲の良いメンバーであった。このように空いた時間を使ってお茶を飲む程度のことはしばしばあったし、アルバイトで一緒にあちこちに出かけたりもしていた。
 アールグレイのカップを傾け、アルオンは一重に尋ねる。
 「そういえば一重は本科に入ったらどうするんだ? やっぱり、西の澪漂のところに?」
 その問いを受け、一重もココアの入ったカップをくるくる回しながら「うーん」と唸った。
 「まぁそんなところかな。西には廉重さんとか刺重さんとか、あとは金重さんもいるしね。珠月ちゃんは? さっきリンクは決まってるとか言ってたけど?」
 「んー……まぁ、東の宿彌のところなんだけどね? ほら、彼が去年作った警備保障リンク【ダイナソアオーガン】、あそこに入ることになってる」
 「へー、【ドラグーンランス(竜騎槍)】の? かごもはすごいな」
 驚嘆の声を上げる兎熊に、珠月は「別に」と淡白な答えを返した。
 「逆襄の紹介でさ。どうしてもって頼まれた。【ドラグーンランス】に加えて【イノセントカルバリア(純白髑髏)】がいればリンクももっと名前が売れるって」
 四人の中では唯一、珠月だけが予科生にしてすでにエイリアス持ちである。もっともそれは彼女の実力というより、単純に父親の影響による知名度からくるものだろうが。
 「ま、自分でリンク作るほどの人望も実力もないからね」
 「ふん、まぁそりゃそうだろうな」
 笑ってそう言ったアルオンを、珠月がするどく睨む。アルオンはその視線を受け流すように、兎熊に話を振った。
 「で、兎熊はどうなんだ? 噂ではその逆襄のところに行くとか……」
 「あぁ、うん。元々私アパートがサウスヤードだしね。最近【ロックンロールロックスター】も大きくなってきたからって、逆兄にお願いされたんだ」
 それぞれがそれぞれの未来に向かって、色々と動き出している。
 かく言うアルオンもまた、自らの中に確固たる意思を持っていた。
 「んで? アルオンはどうなのよ?」
 「ん? あぁ……それで一つ相談したいことがあってな」
 彼の言葉に、ミルフィーユを崩していた珠月の手が止まる。
 「相談?」
 「相談というか、勧誘かな? ――一重」
 アルオンは唐突に一重に問いかけた。

 「俺と一緒に、リンクを作るつもりはないか?」

 「え?」
 意外な言葉に一重はもちろん兎熊も珠月も目を丸くする。
 「逆襄じゃないが、音楽系のリンクを作ろうと思ってる。オーケストラとか、そういうクラシック系のリンクだ」
 アルオンが音楽に傾倒していることは周知の事実だ。リィオンによって半ば無理やり学園に入学してからも、彼の音楽に対する熱意は冷めることはなかった。むしろ、一重に出会ってから加熱したと言ってもいい。
 「もちろん、澪漂の仕事の片手間でかまわないよ。俺はただ、君と音楽がしたい。俺の音楽を褒めてくれた、君と」
 そういうアルオンの目は真剣だ。そんな彼に珠月が水を差すように言う。
 「でも、それだけじゃ喰うに困るでしょ。文化系リンクで成功してるところなんて少ないよ?」
 「分かってるさ。当分は俺もフリーの傭兵で生活費くらいはまかなおうと思ってる」
 「無理だね」
 珠月は即答した。
 「君に人を殺す仕事が向いてるとはとても思えない。この時代、しかも【インチャオ】のトップの息子であるにも関わらず、馬鹿みたいに平和主義の君にはね」
 「俺だってこの学園で何も学ばなかったわけじゃない。父の言っていたことも、少しは理解できるようになったさ。今は、自分が本当に何をすべきなのか、それを探したいんだ」
 いわゆるモラトリアムって奴だよ、とアルオンは言った。
 一重はしばらく黙って考えていた。しかし、やがて何かを決めたように「うん」と頷く。
 「うん、いいよ。って言うか、喜んで。私もアルオンと一緒に音楽ができるなら嬉しいしね。他にもきっと、廉重さんとかも頼めば参加してくれるんじゃないかな?」
 一重の言葉に、アルオンは本当に嬉しそうに笑みを零した。
 「ありがとう、一重」
 「でも、お父さんのことはどうするのさ?」
 兎熊が心配そうに訊いた。
 「話では、かなり厳しい人なんじゃないの?」
 「あぁ、大丈夫だ。――そっちはそっちで、ちゃんと考えてる」
 そう言うアルオンの目は、何かを決意したかのように真剣に、しかしどこか暗い色を含んでいるようだった。しかしそれも一瞬で、その場にいた誰もがその色に気づくこともなかったのだが。

                  ♪

 「貴様はどうしていつもそうなのだアルオン!」
 二日後。アルオンは父によって冷たい床に叩き伏せられていた。
 本科進学の報告と、そしてこれからの身の振り方について父に伝えた矢先のことだった。
 その性格や信念を考えれば当然のことだったが、やはり父は怒った。しかしアルオンはどこか冷めた目で、父の眼差しを真っ向から受け止めたのである。
 「私は、自分のやりたいことを見つけたんです。あの学園で、私は自分の信じるもののために生きる人たちに出会いました。私の生き方は、私が決める」
 その頬に父の拳が向けられた。しかし。
 「……っ!」
 アルオンはそれを――おそらく生まれて初めて、受け止めた。拳を捕らえた右手に、ぎりぎりと力が篭る。
 「貴様、いつの間にTAOを……」
 「私だって、今まで何も学んでこなかったわけではありません。父上譲りの才能、それだけには感謝しています。そのおかげで、こうして私は父上に一矢報いることができるのですから」
 今度はアルオンの拳が、父の下腹部にめり込んだ。反動で背後の机に背中をぶつけたリィオンは、どこか諦めの混じった視線を息子に向ける。
 対するアルオンは、両足を肩幅に開いて拳を握った。
 「あなたに、私の人生を決める権利などない。私は自分の人生を守るため、あなたと対峙します」
 再びアルオンの拳がリィオンの身体を捉えようとした刹那。

 アルオンの身体が宙を舞っていた。

 背中を床に強打して、一瞬息が詰まる。
 「……っがは!」
 「貴様はどうしていつもそうなのだアルオン!」
 再びリィオンが吼えた。
 「何故父である私の意思に背き、あまつさえ牙を剥こうとする! まったく、貴様という奴は本当に【無能】だな! 兄の命を奪って生まれてきた図々しい奴め、貴様など、我が候の家系の恥さらし以外の何者でもないわ!」
 もがくアルオンの鳩尾に踵を乗せ、軽く体重をかける。
 「っぐ……私は…………」
 アルオンはいわば妾腹の子であった。病弱で幼くして死んだ兄に代わって、候家の跡取りに据えられたのである。故に父は常に彼に厳しく当たっていた。
 「やはり貴様には無理だったようだな。折角手塩にかけて育ててやったというのに……もういい。貴様はいらん」
 膨大な量のTAOを篭めた足がアルオンの心臓を踏み抜こうとした刹那。

 危険を感じたリィオンは、大きく後ろに跳び退った。

 その喉元に、長い針のようなものが向けられる。
 否、それは楽器のチェロだった。本来自重を支えるためのエンドピンが、楽器を肩に担いだ男によってリィオンの喉に添えられている。
 男は反対の手に持った、弦楽器を演奏するための弓の先を、やはりアルオンに向けている。
 「双方動かないでください。不穏な動きを見せれば、容赦なく殺戮します」
 いつの間にか二人の間に入っていたその男は、感情の起伏が少ない声でそう告げる。
 「貴様……【ファーストケントゥリア(一線級の百群集)】……!」
 呻くようにリィオンが言った。
 「だめだよ、親子なんだから仲良くしなきゃ。それに、折角息子さんが音楽の素晴らしさに気づいたっていうのに、それを否定するなんて悪い奴だね、あなたは。きゃははは!」
 そんな言葉を投げかけたのは、やはりいつの間にか部屋のドアにもたれて立っている一人の女性だった。
 「……! 何のつもりだ、【コンダクターオリジン(指揮者根源)】」
 「何のつもりって……新しい音楽家を迎えにきたんだよ。きゃはは」
 女性は、快活に笑いながら床に倒れたままのアルオンの元に近づいてきた。
 「へぇ……君がリィオンの息子、ホウ・アルオン君か。堅物の親父には似ても似つかない、真っ直ぐな目をしてるね」
 「あ……あなたは?」
 当然といえば当然の問いに、女性は「きゃははは!」と笑って答えた。
 「私は【コンダクターオリジン】澪漂・千重。澪漂交響楽団の大団長だ」
 澪漂交響楽団――二重はよく知っていた。彼の父がトップに立つ【インチャオハンバン】と関わりの深い組織だから、というのもあるが、それだけではない。彼の親友、彼女が所属しているのも――
 「一重……」
 「あの子に感謝しなよ? あの子が君の話を私にしてくれなかったら、今頃君は死んでいたはずだからね。きゃはははは!」
 状況に酷くそぐわない、楽しげな笑いを浮かべながら千重は再びアルオンの顔を――その瞳を覗き込む。
 そしてその口から出た言葉は、彼にとって全く意外であり、そして彼の人生を大きく崩すものだった。

 「君、私たちと音楽をしない? 君の目には才能が見える。澪漂の名を冠するのに相応しい人間の目だよ」

 「え……?」
 「っ、き、貴様! 千重、何を馬鹿なことを言っている!?」
 首筋にエンドピンを突きつけられたまま、リィオンは怒鳴った。
 「えー? だってあなたさっき、『貴様はいらん』って言ったばかりじゃない。あなたがいらないなら私がもらう、それだけだよ?」
 「だからと言って……っ!」
 「うるさい」
 千重は短くそう言った。その目にはさっきまでのような楽しげな笑みはなく、突き刺すように冷たい光が浮かんでいる。
 「私は家族を大切にしない奴を許さない。家族っていうのは、お互いが幸せになるように絶えず『身を尽くし』合うべき関係なんだ。それができないあなたに、この子の父親を名乗る資格はないよ」
 千重は一方的にそう言うと、アルオンの手を掴んで立たせた。その視線がアルオンの目に向けられる。
 「君には音楽をする場をあげる。だけど、一つだけ条件がある」
 千重は真剣な面持ちでそう言った。それは彼女にしては珍しすぎる表情だったのだが、そんなことは知らないアルオンはただ黙って頷いた。
 「澪漂の仕事を手伝いなさい。君には音楽をする才能もあるけれど、それ以上に私達の一団を率いるだけの才能もある」
 そして、彼女は目線で彼の父であるリィオンを示した。
 「もちろんそこには九龍から持ち込まれる仕事もあるよ。――でも、それはこれからの君には関係のないことだ。候の名を捨てるべき君にとって、彼らからの依頼は他と同じ――他者から持ち込まれるものと、何ら変わりないものだ」
 それが、プロってものだよ、と千重は笑った。彼女の言葉に対して、アルオンは再び頷く。
 「かまわない。俺は、自分のやりたいことをそこで見つける――あの学園で、見つけたように」
 その目に、迷いはなかった。
 千重は満足気に微笑み、背後のリィオンに言い放った。
 「そういうことだから。これからはこの子の身柄は私が預かるよ」
 それだけを告げ、千重はアルオンを伴って部屋から立ち去った。最後にドアを開け、彼女は初めてリィオンに楽器を突きつけている男に――彼女の相方に声を掛けた。
 「帰るよ、百重」
 「ええ、分かりました」
 彼女の言葉に、【ファーストケントゥリア】澪漂・百重は小さく頷いて、リィオンに突きつけていた楽器をくるりと肩に担ぎなおした。
 ドアが閉まり千重の姿が見えなくなると、百重もそれに続いて踵を返す。
 と、不意に思い出したように、背後でまだ固まったままのリィオンに声を掛けた。
 「彼は、あの学園で本当に大切なものを見つけたようですね」
 「……何?」
 「あなたより――否、あなたが望んだ未来より、より希望をもった未来を、見つけたんですよ」
 閉められたドアを開け、百重は部屋から出て行った。ドアが閉まる刹那、彼は哀れむような視線を一瞬だけリィオンに向ける。
 「――そういう意味では、彼はあなたに感謝していたのかも、しれませんね」

                 ♪

 「……アルオン?」
 「ど、どうしたの?」
 数日ぶりに学園に姿を見せたアルオンの姿を見て、珠月と兎熊は絶句した。
 容貌が極端に変わっていたわけではない――着ている服が、黄昏と夜の狭間のような深くくすんだワインレッドの燕尾服になっているというだけで――ただ、その目が変わっていた。
 今までのような柔和な笑みを浮かべた目ではない。
 それは、深く深く、そしてどこまでも冷たく鋭い、今までの彼からは想像もつかないような目だった。
 彼の背後には、こちらは逆に不自然なくらい今までと同じように優しく微笑む一重の姿がある。
 「その名前は……捨てた」
 「え?」
 彼は、真っ直ぐ二人を見据え、新たな名を名乗る。

 「今の私は、澪漂・二重(みおつくしふたえ)。澪漂交響楽団に所属する、『音楽家』だ」

 彼の言葉に珠月と兎熊は絶句し、そして一重は笑みを崩さなかった。
 二重はそれだけを告げると、二人に背を向け歩み去った。一重はそれを追おうとして、一瞬だけ困ったような表情で二人を振り返る。
 「……ごめんね、二人とも。後でちゃんと説明するから」
 一重はそう言って、大股で歩く二重の背中を追って走り出した。
 後には呆然とするばかりの、珠月と兎熊が残された。

 「始めまして。――そして、これからもよろしくね、二重」
 二重の隣に追いついた一重は、そう彼に言った。それに対して二重は、さっきの二人には見せなかった柔らかな笑みを浮かべる。
 「あぁ、こちらこそよろしく、一重。――それでは」

 「「澪漂の、開演だ」」

                 ♪

 ドアが開くと同時に、ベルガモットの香りが鼻をくすぐる。記憶の海に沈んでいた二重はそれで現実に引き戻された。
 顔を上げると、一重が手にトレーを持って立っていた。トレーの上にはティーポットとカップが二つ、そしてクッキーの入ったボウルが載っている。
 「お待たせ。疲れてたみたいだから、二重の好きなアールグレイを淹れてきたよ」
 笑顔でそう言うと、一重はなれた手つきで傍のテーブルにそれらを並べ始めた。
 二重はそんな彼女におもむろに近づくと、ソファに腰を降ろしながら、一重の頭を軽く撫でた。
 「ん?」
 振り返った一重に二重は小さく笑う。
 「いや、何でもないよ」
 今でもこの名を選んだ選択は間違ってなかったと思っている。少なくとも今はとても幸せな生活を送っているし、人生はそれなりに充実している。
 「何でもない」
 二重はもう一度、そう言った。最近の彼からはあまり見られなくなった、満足げな笑顔と共に。

                  ♪

 これが、二人の澪漂の出会いである。
 互いに口には出さないが、それでも二人は幸せだった。
 ここから始まる、二人の音楽――それは世界を巻き込んで、大きく変革させる。
 それでも、彼らは言うだろう。二人が二人であるかぎり。
 ――この幸せが続くなら、世界がどうなろうと、知ったことではない、と。