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3、天使のチョコレート  西区画にそびえたつ複雑怪奇な建造物・九龍城が目前に見えるある通り。そこに真っ赤な門があり、その両脇には石を彫って作った唐獅子が座っている場所がある。日も暮れかけた今、門の奥には赤々とした明かりがともり、天井からはいくつもの中華行灯と底をくりぬいた鳥籠の中に電灯を入れたものがつり下がっている。 「おかえりなさいませ、桔梗様」 「いらっしゃいませ、秋人様」  二三人の人間が一行を出迎える。  見上げた門の上には、『無名堂』と墨で書かれた看板が立てられている。中に入ると、壁には幾つもの掛け軸や時計が掛けられ、黒壇の棚にはまねき猫や日本人形が飾られている。何気なく置かれている壺は、青磁だ。窓や門の飾り格子は、李朝朝鮮を思い出させる。  店内にいる人間の服装もチャイナドレスから着物まで様々で、まるでアジアのイメージを煮詰めたような奇妙な空間が広がっている。 「何かお飲みになりますか?」 「留守中のお電話や予約の資料は後ほどお持ちします」 「長旅御苦労さまでした」  アジア系の服を着たスタッフたちが甲斐甲斐しく動き回るのを、秋人はぼんやりと見ていた。飾り格子のついた丸い窓からは、灰色の街並みが見える。  何もかもがめちゃくちゃで、秋人はここにいると異世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。いや、そもそもテーマパークやある種のレストランは、人工的に作られた異界を楽しむ場所なのだから、これで正解なのかもしれない。  ウエストヤード『無名堂』  それは世界的に有名なタトゥアーティスト、序列291位【ミスタトゥ(刺青少女)】左衛門三郎桔梗の経営するタトゥ工房なのである。先ほど彼女の周囲にいた男女はすべて、この工房のスタッフである。 「どうした? ぼんやりして」  奥の間に通されお茶を出されてやっと、秋人は自分がぼんやり考え事をしていたことに気づいた。ごまかすように笑って、秋人は出されたお茶に手をつける。白地に赤い模様が描かれたカップの中に入っているのは、ジャスミン茶だ。 「いや。なんでもない。桔梗はすごい人だったんだよな、って思いだしただけ」 「んー、どうだろうな。俺はすごいのかは知らんが、まあ、うちの学校は大物がごろごろしてるからな。たまにそういうことを忘れるよな。世界の澪漂やら、姫宮やら、人類3KYOの親族やら……多分、ゾアックソサエティと九つの組織の関係者、コンプリートできるんじゃねえか?」 「そういえばそうだよね。うーん、世界を動かす企業と組織の次代様たちと同じ学校にいるのか。頭が下がるね」  軽い口調で言って、秋人は盗ってきてしまった鞄を見る。石板だけ抜いてあとは後日郵送で返せばいい。  鞄を見て、興味をもったように桔梗が身を乗り出した。 「何だ?」 「アフガニスタンの遺跡で発掘された石板を取られちゃってさ。取り返してきたところ」  鞄を逆さに振ると、予想通り新聞紙にくるまれた石板が転がり出た。他にも筆記用具とか、ノートパソコンとか、ハンカチとかが出てくる。 「この私物は?」 「後で返しておくよ」  石板だけを自分の鞄に戻し、他のものを元通りにしまっていく。その時、何かを見つけた桔梗が手を伸ばした。 「何だこのチョコ。見たことないパッケージだな」  桔梗が取り上げたのは、銀紙にくるまれてそのうえからさらに紙でくるまれた板チョコだった。すでに三分の一ほどが食べられている。  くるくるとまわして見るがメーカーどころか、原材料も、カロリーも、原産国も、賞味期限も、商品名すら表記されてない。ただ、天使の羽をデフォルメしたような模様が、真赤な包み紙に白く書かれていた。 「個人ブランドかな? でも商品名くらい書くよね」 「この学園でチョコをカカオから作ってる連中なんて、製菓メーカーのリンクくらいだと思うぜ。ブルーローズとかロックハート洋菓子店とか。ブラックシープ商会にも製菓部門があったか?」  そう言いながら、桔梗は銀紙を丁寧にはがした。チョコの甘い香りが漂ってくる。それを一かけら折って口に入れようとした桔梗の手を、秋人がつかんだ。 「何? 食っちゃだめだったか?」 「薬品のにおいがする」  数秒の間をおいて意味を理解した桔梗は、静かに手を引っ込めた。 「お前、本当にこういうのは敏感だよな」 「勘がいいんだよ」 「お前のそれは違うだろうが」  ダミースキルという言葉がある。  一見、超能力のように見えるが元をただせばしっかりと根拠のある能力のことだ。たとえば、風の音を聞いて明日の天気を正確に当てるとか、初めての道でも一度歩けば自分が歩いたルートを航空写真並みの正確さで図にできるとか、そういうものだ。彼らはただの行き当たりばったりで回答を導き出しているわけではなく、自分の周囲で起こっている様々な現象――たとえば風向きとか湿度、道の高低、東西南北のむきなど――を無意識のうちに計算し、その膨大な計算結果から回答を得ているのだ。  秋人も同じである。戦闘能力を持たない彼は、代わりに周囲の状況を恐ろしいスピードで計算し、それを勘という形で発揮しているのだ。  桔梗はチョコレートに慎重に鼻を近づいた。彼女の嗅覚では何が入っているかなど分からない。しかし、言われてみれば普通のチョコレートより匂いがくどい。 「つまり……これ、毒?」  チョコレートは匂いや味がきつい為、薬物を入れても気づかれにくい。癖のある薬物で暗殺したいというなら適しているだろう。  秋人はあいまいにうなづいた。 「毒か薬かは知らないけど、薬品入りだね。少しなくなっているってことは、何かに使ったんだと思う」 「ということは、殺人の証拠品の可能性もあるってわけだ」  沈黙が落ちた。  花瓶に活けられた季節外れの牡丹から花びらが落ちたすら、大きく聞こえる。 「まあ、まだそうときまったわけじゃない」 「なんかの試作品かもしれないしな。なあ、このまま鞄に戻してみなかったふりするっていうのはなしか?」 「事件性があるとしたら、僕が鞄を持ち去ってそれを君が保護した時点でアウトだと思う。すまない。巻き込んでしまって」  秋人は深々と頭を下げた。桔梗は、ゆっくりと煙管を取り出しながら首を振る。 「馬鹿言え。こっちが勝手に巻き込まれたんだ。お前が頭をさげる必要なんてねえよ。むしろ、巻き込ませて悪かったな」 「………………君は、本当にいい女だね」 「何だ、今更気づいたのか」  豪快に桔梗は笑って、煙管に火をつけた。紫煙が上がる。 「まあ、本命には振られたけどな。ははははは……」 「自分で言って落ち込むなよ」  桔梗は、北王・夜時夜厳に出会ってから21秒で振られた過去を持つ。 「いいんだ…………どうせトップランカーで恋愛ごとがうまくいってるやつなんて、数人しかいないんだから」 「ああ、西王と一重さんの純愛ぶりはすごいよね。むしろ、二重さんの一重さん以外の人間に対する扱いと一重さんの扱いの差に、驚異を感じるというか」  色々な意味で学園随一のカップルの名をあげて、秋人はあいまいに微笑んだ。 「無理だろう。ああなるのは。誰であっても」 「えーと……一方通行でいいなら、ほらエドワード・ブラックシープとか千貫信とか」 「一方通行だとただの馬鹿だと思うんだ。それと二人とも一応は両想いだから」 「傍から見てると痛いぞ」 「それは認めるけど」  この学校の生徒は、能力値だけなら世界の同世代でトップクラスだが、人間的にはいろいろあれな人物が多い。 「それよりどうするんだ? ものが何か分からない状態じゃ処分もできないぞ」 「そうだね。どこかの研究室を借りて成分を分析するか……でも時間がな」 「そうだ」  何か思いついたように、桔梗は声を上げた。 「緑青食品店だ」 「りょくせいしょくひん……ああ、なるほど。銀月さんですね。確かに彼女なら――――」 「相変わらず、繁盛してるな」  狭い店内にひしめく人を見て、桔梗はげんなりした声を出した。  桔梗の店からほど近い賑やかな通りの一角に、金銀月の経営する緑青食品店はある。  ごみごみとしたビルの一階と二階が店、三階が店主の住処、それより上は色々な住人が住んでいる奇妙なビルがそれだ。中に入ると、異様に高い天井ぎりぎりまで棚があり、そこにあらゆる食料品がびっしりと詰め込まれている。上の方には備え付けの梯子を登らないと手が届かない。ぎりぎりまで本を詰め込んだ棚が空間の許す限りあり、その本がすべて食料品に変わったらこうなる、といえば分かるだろうか。  木で出た棚の上に、さまざまな言語で書かれた品物が並んでいる。いかにも美味しそうな絵が描かれた缶詰や中でフルーツが泳いでいる瓶詰。ひとりで食べるには大きすぎる腸詰や、一見グロテスクな干しなまこ。艶やかな林檎もあれば、レンジで食べられるレトルトもある。可愛い小瓶に入った金平糖や飴玉は見ているだけで楽しい気分になる。  歩くと床が軋んだ。この独特の輝きは毎日大勢の人間が行き来することで生まれる艶だ。  ショウウインドウにはその週のお勧め食材が展示されている。今日は大きな鮭を細く裂いて干したものだ。何を基準に選んでいるのだろう。  楽しみ方を知っているものにとっては一日中いても退屈しない、宝探しのような店だが、はじめて訪れるものはこの途方もない食品を見て、呆然と立ちすくむことになる。  だが、心配はいらない。  もし迷ったり、ほしいものが見つからない時は、入ってすぐ右、上階につながる階段の前の大きなカウンターの影で、背丈に合っていない大きな椅子に座っている女性に声をかければいい。必ず役立つ返事が返ってくるはずだ。 「ねえ、南イタリアで取れたレモンが欲しいんだけど」 「4番の札がある通りのGというマークがついた棚前のワゴンです」 「西暦のころに作られたワインがほしいんだけど……」 「それは探さなくてはなりませんね。確かフランスとイタリアのメーカーで、いくつかよい状態で保管しているところがあるはずです。予算はいかほどに?」 「ねえねえ、今度パーティするんだけど、もうちょっと豪華にしたいのよ。でも、フォアグラとか脂っぽいの駄目でさ」 「骨付きハムのいいのがありますよ。値段は張りますが、薬品を一切使わずに作ったもので、そのまま何もせずに食べられます。骨についたままのものから好きな量を切り落としての量り売りになりますが」  年季の入った木独特のつやのある棚と、同じ木材で作られたカウンターの向こうに女性がいた。一目見て東洋人と分かる外見だが、日系人とは少し違う。彼女は次々と声をかけてくる客に対して、まるで目の前の空間に回答が書いてあるとでもいうかのように、すらすらと返事返す。 「金」  客足が途切れたところで、桔梗は彼女に声をかけた。営業スマイルで振り向いた彼女は、桔梗を見ると本物の笑顔になった。 「あら、珍しい組み合わせね。なにか入用?」  彼女はブラックシープ商会所属、【デリシャスタイム(美味しい生活)】金銀月。韓国出身。  世界に流通しているあらゆる食品を把握しているといわれる、ブラックシープ商会小売部門の重鎮の一人である。 「ちょっと見てほしいもんがあるんだけど」  他の客に見えないように自分と秋人の体で隠しながら、桔梗は例のチョコレートを取り出した。わけありと見たのか、銀月も身を声をひそめて答える。 「それがどうしたの?」 「どこのものか分かるか?」  銀月は数秒間包み紙を見つめ、首を横に振った。 「赤い包み紙、無地の銀紙、天使の羽、お菓子。この三つに該当する商品は1386種あるが、これとまったく同じ商品はない。それに普通は銀紙部分にメーカーのロゴを入れるけど、それがないし、赤い紙のほうも通常チョコレートの包み紙として使うものよりがさがさしている。インクの質も悪い。また天使の羽、あるいは羽や天使、鳥などをロゴに使う製菓メーカーはおよそ二万社存在するが、これと同じものは存在しない」 「えーと、つまりこれはそこらで売ってるもんじゃないってことか?」 「一般に流通する商品ではないし、流通させるための試作品とも思えない。お粗末すぎるもの。極めつけは銀紙の包み方。完全に密閉されていない。これではチョコレートが劣化するわ」 「…………………………お見事」  ちょっと引き気味に、桔梗は銀月をたたえた。銀月は直もチョコをくるくるとまわしながら見ている。 「チョコの状態も良くない。形が不安定だし、固める際の温度に問題があったのかも。ちょっと食べてみていい? そうしたら確信が持てるわ」 「「駄目!!」」  思わず叫ぶ。一瞬、客が三人を中止したが、じゃれ合っていると判断したのか、すぐに自分の買い物に戻る。 「…………そんな大声出さなくても。これ、そんな大切なものだった?」 「いや。事件がらみで」  そんなもん持ち込むなよ。  そういう目で、銀月は秋人を見つめた。桔梗は頭を下げる。 「巻き込む気はない。他に気になることだけ教えてくれ」 「………………多分、そのチョコは手作りだと思う。市販品を溶かして固めたあと、自分で用意した銀紙とその赤い紙を巻いてそれっぽいものにしたとか」 「この紙は、食品用じゃないのか?」 「少なくとも溶けやすいチョコには向かないわ。荒くて少し毛羽立っているもの。商品なら、もっとつるつるした紙を選ぶはずよ」  これでますます事件性は強くなった。秋人はうつむいて考え込む。見かねたのか、銀月は付け足した。 「それの経緯をたどった方が、それ自体を調べるよりは楽なんじゃないかしら? 使ってるもの自体は、その辺の文房具屋とお菓子屋に行けば手に入る程度のものよ。調べても大したものは出ないと思うわ。チョコも、安ものね。どこでも売ってるわ」  銀月はその中に薬品が入ってるとは知らない。 「…………まいったな」 「とはいえ、そいつがどこにいるかなんてわからねえしな。いっそのこと、ブラックシープ商会のメリー・シェリーに解析頼むか、四十物谷調査事務所に行くか?」  メリー・シェリーは学園随一の毒使いで薬物に詳しい。四十物谷調査事務所は、調査事務所の看板を掲げているだけあって、人探しから商品の含有成分の分析まで幅広い事業を行っている。 「それが手っ取り早いかな。でも、解析結果が出るまで僕が無事でいられるだろうか」 「平気へいき」  桔梗は肩を落とす秋人に励ますように言った。 「俺ん家は常に十数人は誰かいるし、スタッフ陣はあれで結構強いから安全だぜ」
3、天使のチョコレート  西区画にそびえたつ複雑怪奇な建造物・九龍城が目前に見えるある通り。そこに真っ赤な門があり、その両脇には石を彫って作った唐獅子が座っている場所がある。日も暮れかけた今、門の奥には赤々とした明かりがともり、天井からはいくつもの中華行灯と底をくりぬいた鳥籠の中に電灯を入れたものがつり下がっている。 「おかえりなさいませ、桔梗様」 「いらっしゃいませ、秋人様」  二三人の人間が一行を出迎える。  見上げた門の上には、『無名堂』と墨で書かれた看板が立てられている。中に入ると、壁には幾つもの掛け軸や時計が掛けられ、黒壇の棚にはまねき猫や日本人形が飾られている。何気なく置かれている壺は、青磁だ。窓や門の飾り格子は、李朝朝鮮を思い出させる。  店内にいる人間の服装もチャイナドレスから着物まで様々で、まるでアジアのイメージを煮詰めたような奇妙な空間が広がっている。 「何かお飲みになりますか?」 「留守中のお電話や予約の資料は後ほどお持ちします」 「長旅御苦労さまでした」  アジア系の服を着たスタッフたちが甲斐甲斐しく動き回るのを、秋人はぼんやりと見ていた。飾り格子のついた丸い窓からは、灰色の街並みが見える。  何もかもがめちゃくちゃで、秋人はここにいると異世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。いや、そもそもテーマパークやある種のレストランは、人工的に作られた異界を楽しむ場所なのだから、これで正解なのかもしれない。  ウエストヤード『無名堂』  それは世界的に有名なタトゥアーティスト、序列291位【ミスタトゥ(刺青少女)】左衛門三郎桔梗の経営するタトゥ工房なのである。先ほど彼女の周囲にいた男女はすべて、この工房のスタッフである。 「どうした? ぼんやりして」  奥の間に通されお茶を出されてやっと、秋人は自分がぼんやり考え事をしていたことに気づいた。ごまかすように笑って、秋人は出されたお茶に手をつける。白地に赤い模様が描かれたカップの中に入っているのは、ジャスミン茶だ。 「いや。なんでもない。桔梗はすごい人だったんだよな、って思いだしただけ」 「んー、どうだろうな。俺はすごいのかは知らんが、まあ、うちの学校は大物がごろごろしてるからな。たまにそういうことを忘れるよな。世界の澪漂やら、姫宮やら、人類3KYOの親族やら……多分、ゾアックソサエティと九つの組織の関係者、コンプリートできるんじゃねえか?」 「そういえばそうだよね。うーん、世界を動かす企業と組織の次代様たちと同じ学校にいるのか。頭が下がるね」  軽い口調で言って、秋人は盗ってきてしまった鞄を見る。石板だけ抜いてあとは後日郵送で返せばいい。  鞄を見て、興味をもったように桔梗が身を乗り出した。 「何だ?」 「アフガニスタンの遺跡で発掘された石板を取られちゃってさ。取り返してきたところ」  鞄を逆さに振ると、予想通り新聞紙にくるまれた石板が転がり出た。他にも筆記用具とか、ノートパソコンとか、ハンカチとかが出てくる。 「この私物は?」 「後で返しておくよ」  石板だけを自分の鞄に戻し、他のものを元通りにしまっていく。その時、何かを見つけた桔梗が手を伸ばした。 「何だこのチョコ。見たことないパッケージだな」  桔梗が取り上げたのは、銀紙にくるまれてそのうえからさらに紙でくるまれた板チョコだった。すでに三分の一ほどが食べられている。  くるくるとまわして見るがメーカーどころか、原材料も、カロリーも、原産国も、賞味期限も、商品名すら表記されてない。ただ、天使の羽をデフォルメしたような模様が、真赤な包み紙に白く書かれていた。 「個人ブランドかな? でも商品名くらい書くよね」 「この学園でチョコをカカオから作ってる連中なんて、製菓メーカーのリンクくらいだと思うぜ。ブルーローズとかロックハート洋菓子店とか。ブラックシープ商会にも製菓部門があったか?」  そう言いながら、桔梗は銀紙を丁寧にはがした。チョコの甘い香りが漂ってくる。それを一かけら折って口に入れようとした桔梗の手を、秋人がつかんだ。 「何? 食っちゃだめだったか?」 「薬品のにおいがする」  数秒の間をおいて意味を理解した桔梗は、静かに手を引っ込めた。 「お前、本当にこういうのは敏感だよな」 「勘がいいんだよ」 「お前のそれは違うだろうが」  ダミースキルという言葉がある。  一見、超能力のように見えるが元をただせばしっかりと根拠のある能力のことだ。たとえば、風の音を聞いて明日の天気を正確に当てるとか、初めての道でも一度歩けば自分が歩いたルートを航空写真並みの正確さで図にできるとか、そういうものだ。彼らはただの行き当たりばったりで回答を導き出しているわけではなく、自分の周囲で起こっている様々な現象――たとえば風向きとか湿度、道の高低、東西南北のむきなど――を無意識のうちに計算し、その膨大な計算結果から回答を得ているのだ。  秋人も同じである。戦闘能力を持たない彼は、代わりに周囲の状況を恐ろしいスピードで計算し、それを勘という形で発揮しているのだ。  桔梗はチョコレートに慎重に鼻を近づいた。彼女の嗅覚では何が入っているかなど分からない。しかし、言われてみれば普通のチョコレートより匂いがくどい。 「つまり……これ、毒?」  チョコレートは匂いや味がきつい為、薬物を入れても気づかれにくい。癖のある薬物で暗殺したいというなら適しているだろう。  秋人はあいまいにうなづいた。 「毒か薬かは知らないけど、薬品入りだね。少しなくなっているってことは、何かに使ったんだと思う」 「ということは、殺人の証拠品の可能性もあるってわけだ」  沈黙が落ちた。  花瓶に活けられた季節外れの牡丹から花びらが落ちた音すら、大きく聞こえる。 「まあ、まだそうときまったわけじゃない」 「なんかの試作品かもしれないしな。なあ、このまま鞄に戻してみなかったふりするっていうのはなしか?」 「事件性があるとしたら、僕が鞄を持ち去ってそれを君が保護した時点でアウトだと思う。すまない。巻き込んでしまって」  秋人は深々と頭を下げた。桔梗は、ゆっくりと煙管を取り出しながら首を振る。 「馬鹿言え。こっちが勝手に巻き込まれたんだ。お前が頭をさげる必要なんてねえよ。むしろ、巻き込ませて悪かったな」 「………………君は、本当にいい女だね」 「何だ、今更気づいたのか」  豪快に桔梗は笑って、煙管に火をつけた。紫煙が上がる。 「まあ、本命には振られたけどな。ははははは……」 「自分で言って落ち込むなよ」  桔梗は、北王・夜時夜厳に出会ってから21秒で振られた過去を持つ。 「いいんだ…………どうせトップランカーで恋愛ごとがうまくいってるやつなんて、数人しかいないんだから」 「ああ、西王と一重さんの純愛ぶりはすごいよね。むしろ、二重さんの一重さん以外の人間に対する扱いと一重さんの扱いの差に、驚異を感じるというか」  色々な意味で学園随一のカップルの名をあげて、秋人はあいまいに微笑んだ。 「無理だろう。ああなるのは。誰であっても」 「えーと……一方通行でいいなら、ほらエドワード・ブラックシープとか千貫信とか」 「一方通行だとただの馬鹿だと思うんだ。それと二人とも一応は両想いだから」 「傍から見てると痛いぞ」 「それは認めるけど」  この学校の生徒は、能力値だけなら世界の同世代でトップクラスだが、人間的にはいろいろあれな人物が多い。 「それよりどうするんだ? ものが何か分からない状態じゃ処分もできないぞ」 「そうだね。どこかの研究室を借りて成分を分析するか……でも時間がな」 「そうだ」  何か思いついたように、桔梗は声を上げた。 「緑青食品店だ」 「りょくせいしょくひん……ああ、なるほど。銀月さんですね。確かに彼女なら――――」 「相変わらず、繁盛してるな」  狭い店内にひしめく人を見て、桔梗はげんなりした声を出した。  桔梗の店からほど近い賑やかな通りの一角に、金銀月の経営する緑青食品店はある。  ごみごみとしたビルの一階と二階が店、三階が店主の住処、それより上は色々な住人が住んでいる奇妙なビルがそれだ。中に入ると、異様に高い天井ぎりぎりまで棚があり、そこにあらゆる食料品がびっしりと詰め込まれている。上の方には備え付けの梯子を登らないと手が届かない。ぎりぎりまで本を詰め込んだ棚が空間の許す限りあり、その本がすべて食料品に変わったらこうなる、といえば分かるだろうか。  木で出た棚の上に、さまざまな言語で書かれた品物が並んでいる。いかにも美味しそうな絵が描かれた缶詰や中でフルーツが泳いでいる瓶詰。ひとりで食べるには大きすぎる腸詰や、一見グロテスクな干しなまこ。艶やかな林檎もあれば、レンジで食べられるレトルトもある。可愛い小瓶に入った金平糖や飴玉は見ているだけで楽しい気分になる。  歩くと床が軋んだ。この独特の輝きは毎日大勢の人間が行き来することで生まれる艶だ。  ショウウインドウにはその週のお勧め食材が展示されている。今日は大きな鮭を細く裂いて干したものだ。何を基準に選んでいるのだろう。  楽しみ方を知っているものにとっては一日中いても退屈しない、宝探しのような店だが、はじめて訪れるものはこの途方もない食品を見て、呆然と立ちすくむことになる。  だが、心配はいらない。  もし迷ったり、ほしいものが見つからない時は、入ってすぐ右、上階につながる階段の前の大きなカウンターの影で、背丈に合っていない大きな椅子に座っている女性に声をかければいい。必ず役立つ返事が返ってくるはずだ。 「ねえ、南イタリアで取れたレモンが欲しいんだけど」 「4番の札がある通りのGというマークがついた棚前のワゴンです」 「西暦のころに作られたワインがほしいんだけど……」 「それは探さなくてはなりませんね。確かフランスとイタリアのメーカーで、いくつかよい状態で保管しているところがあるはずです。予算はいかほどに?」 「ねえねえ、今度パーティするんだけど、もうちょっと豪華にしたいのよ。でも、フォアグラとか脂っぽいの駄目でさ」 「骨付きハムのいいのがありますよ。値段は張りますが、薬品を一切使わずに作ったもので、そのまま何もせずに食べられます。骨についたままのものから好きな量を切り落としての量り売りになりますが」  年季の入った木独特のつやのある棚と、同じ木材で作られたカウンターの向こうに女性がいた。一目見て東洋人と分かる外見だが、日系人とは少し違う。彼女は次々と声をかけてくる客に対して、まるで目の前の空間に回答が書いてあるとでもいうかのように、すらすらと返事返す。 「金」  客足が途切れたところで、桔梗は彼女に声をかけた。営業スマイルで振り向いた彼女は、桔梗を見ると本物の笑顔になった。 「あら、珍しい組み合わせね。なにか入用?」  彼女はブラックシープ商会所属、【デリシャスタイム(美味しい生活)】金銀月。韓国出身。  世界に流通しているあらゆる食品を把握しているといわれる、ブラックシープ商会小売部門の重鎮の一人である。 「ちょっと見てほしいもんがあるんだけど」  他の客に見えないように自分と秋人の体で隠しながら、桔梗は例のチョコレートを取り出した。わけありと見たのか、銀月も身を声をひそめて答える。 「それがどうしたの?」 「どこのものか分かるか?」  銀月は数秒間包み紙を見つめ、首を横に振った。 「赤い包み紙、無地の銀紙、天使の羽、お菓子。この三つに該当する商品は1386種あるが、これとまったく同じ商品はない。それに普通は銀紙部分にメーカーのロゴを入れるけど、それがないし、赤い紙のほうも通常チョコレートの包み紙として使うものよりがさがさしている。インクの質も悪い。また天使の羽、あるいは羽や天使、鳥などをロゴに使う製菓メーカーはおよそ二万社存在するが、これと同じものは存在しない」 「えーと、つまりこれはそこらで売ってるもんじゃないってことか?」 「一般に流通する商品ではないし、流通させるための試作品とも思えない。お粗末すぎるもの。極めつけは銀紙の包み方。完全に密閉されていない。これではチョコレートが劣化するわ」 「…………………………お見事」  ちょっと引き気味に、桔梗は銀月をたたえた。銀月は直もチョコをくるくるとまわしながら見ている。 「チョコの状態も良くない。形が不安定だし、固める際の温度に問題があったのかも。ちょっと食べてみていい? そうしたら確信が持てるわ」 「「駄目!!」」  思わず叫ぶ。一瞬、客が三人を中止したが、じゃれ合っていると判断したのか、すぐに自分の買い物に戻る。 「…………そんな大声出さなくても。これ、そんな大切なものだった?」 「いや。事件がらみで」  そんなもん持ち込むなよ。  そういう目で、銀月は秋人を見つめた。桔梗は頭を下げる。 「巻き込む気はない。他に気になることだけ教えてくれ」 「………………多分、そのチョコは手作りだと思う。市販品を溶かして固めたあと、自分で用意した銀紙とその赤い紙を巻いてそれっぽいものにしたとか」 「この紙は、食品用じゃないのか?」 「少なくとも溶けやすいチョコには向かないわ。荒くて少し毛羽立っているもの。商品なら、もっとつるつるした紙を選ぶはずよ」  これでますます事件性は強くなった。秋人はうつむいて考え込む。見かねたのか、銀月は付け足した。 「それの経緯をたどった方が、それ自体を調べるよりは楽なんじゃないかしら? 使ってるもの自体は、その辺の文房具屋とお菓子屋に行けば手に入る程度のものよ。調べても大したものは出ないと思うわ。チョコも、安ものね。どこでも売ってるわ」  銀月はその中に薬品が入ってるとは知らない。 「…………まいったな」 「とはいえ、そいつがどこにいるかなんてわからねえしな。いっそのこと、ブラックシープ商会のメリー・シェリーに解析頼むか、四十物谷調査事務所に行くか?」  メリー・シェリーは学園随一の毒使いで薬物に詳しい。四十物谷調査事務所は、調査事務所の看板を掲げているだけあって、人探しから商品の含有成分の分析まで幅広い事業を行っている。 「それが手っ取り早いかな。でも、解析結果が出るまで僕が無事でいられるだろうか」 「平気へいき」  桔梗は肩を落とす秋人に励ますように言った。 「俺ん家は常に十数人は誰かいるし、スタッフ陣はあれで結構強いから安全だぜ」

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