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花落ちず水はなし」(2010/09/26 (日) 23:11:10) の最新版変更点

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花落ちず水はなし  平和な昼下がりに突如、爆音が鳴り響いた。通行人が驚いたように動きを止めたのは一瞬。次の瞬間には、それぞれの危機管理能力に応じて、建物の中に避難したり、逆に音源方向に走りだしたりと動き始める。あたかもそういうものと決められているかのような動きは、こういう事態への耐性を現していた。  その中を一台の装甲車が疾走する。その後ろで騒いでいるのは銀行員の制服を着た男女。分かりやすい強盗風景に、目撃者全員が治安維持部隊への連絡を入れようとした瞬間、その装甲車の進行方向に人影が飛び出した。 「――――――」  黒い人影は何を呟いた。しかし、それは装甲車の駆動音にかき消される。そのまま、装甲車は飛び出した人影を引き殺そうと突っ込み、その直前で空高く舞い上がった。 「……………………え?」  目を見開いて自体を見守っていた通行人や、助けようと飛び込もうとした人々の口から間の抜けた声がこぼれる。やや遅れて、凄まじい音を立ててひっくりかえった装甲車が道路に落ちる。 「――まったく、馬鹿が馬鹿なのは仕方ないとして、そういう馬鹿は私に関係のないところで生きて死ね」  ふわりと切りそろえられた髪が風になびく。重なり合った黒いレースのスカートが、日光を浴びて複雑な影を落とした。 「ああ、ひょっとしてもう死んでるかな?」  傲慢さの滲むような声と表情で少女は笑う。映画のワンシーンを眺めているような計算しつくされた光景に、その場は静まり返る。 「…………篭森、珠月」  呻くように目撃者の一人がその名を呼ぶ。そして、 「か、篭森さんが自主的に仕事したぞ!?」「普段ならめんどいとかいって速攻スルーなのに!!」「その辺の人に泣きつかれてやっと動くのに!」「誰に何か言われる前に動いた!?」「何があった!?」「明日は嵐か!?」  この世の終わりが来たというような顔で口ぐちに喚きはじめる。静寂から一転、周囲は蜂の巣をつついたような喧騒に包まれた。それを聞いて、珠月と呼ばれた少女はうっすらと笑みを浮かべた。 「……いい度胸だ。仕事をしなくて咎められるならともかく、東区統制者の一人として治安維持に協力して怯えられるいわれはないね」  柔らかな笑顔に、失言をした通行人は凍りつく。珠月はにこりと微笑んだ。 **  黄道暦。第三次世界大戦およびその後の非核戦争は、国家の崩壊と企業の台頭、そして飛躍的な人体改造と異能力の技術を生み出した。それからすでに半世紀。人類はかつて夢物語として描いていたような能力を手にしている。例えば身体の一部を機械化したサイボーク。例えば異なる生物の性質を遺伝子に取り込んだトランスジェニック。例えば脳を弄ることで異能を権限させるサイキック。例えば現代の魔術師として不可思議な能力を行使するミスティック。例えば体内外の気を操り、人体の限界をはるかに超える筋力や強度で敵を打ち倒すグラップラー。そうでなくとも度重なる戦争で淘汰され、数々の改良が加えられた現代人は、過去の人類に見ないほどの知力と体力を持つ。  そんな世界でさらに時代を担うべく、組織、能力の方向性、志向、属性、性別、信条、その他問わずに優秀なる人間を集め教育することを目的とした巨大学園都市が存在する。名はトランキライザー。630万人という生徒を抱えるその学園都市では、成績優秀者が独自の行政を敷き、あるいは独自の組織や企業を運営しながら、互いに協力し合い潰し合いを続け、より強く優秀なものが生き残る仕組みを採用している。 **  学園都市、序列24位篭森珠月は、24位という全体からみれば最高峰、ただし最高峰同士から見れば一桁や十番台に比べてやや劣るという微妙な地位にいながら、それを感じさせない高飛車な言動と独特のゴシックロリータ衣装、名門の家柄のためか下手な一桁よりも派手な存在として認識されている。 「…………最近、社長の様子がおかしい」  学園都市トランキライザー東区、綜合警備保障会社ダイナソアオーガン本社ビル。生徒が運営する組織の中でも特に大きな力を持ち、現在東区のトップである狗刀宿彌が会長を務める会社の一室にて、幹部の一人が口を開いた。 「おかしい? 珠月がおかしなことしかしないのはいつものことだろう? 仕事そっちのけで妙なイベント始めたり、区画の整備インフラ開発観光推進、はたまた大枚はたいて作家や企業家に投資したり、どっからともなく人間拾ってきたり、ふらりと行方くらましたり、客に暴言吐いたり――まあ、いつものことだ」 宿彌は顔をあげて平然と答えた。かなり酷いことを言っているが、誰もそれを咎めない。 「なんで会長は社長を社長にしてるんでしょうねぇ」 「まあ、その奇行と問題行動を補ってあまりあるくらい珠月は優秀だよ。彼女が僕の代わりに東王の仕事の半分くらいはしてくれてるし、会社の暗い部分もいつの間にやら片づけてくれる。それを思えば、少々の性格の難点くらい可愛らしいものだろ?」  小さく首を傾げて宿彌は同意を求めた。しかし、誰も首を縦にはふらない。 「会長、これがまた変なことを始めたとか、仕事をさぼって行方をくらませたとか、裏でこそこそ何かをしているというようなことなら、私どもはなにも言いません」  重々しい口調で副社長の翔が口を開いた。他の幹部たちも頷く。 「それは社長のデフォルト機能のようなものですからね。何かたくらんでいるのはいつものことですし、気だるそうでよく仕事をさぼるむしろぎりぎりラインしか仕事をしないのも、仕事をえり好みするのも、客に上から目線なのも社長のいつもです。むしろそうでなくては社長ではありません」 「人としては問題ありますが、その態度が外部には『流石は篭森の血族』とうけてる部分もありますし、そういう売り込み方法なんだからあの人は仕方ないです。が、今回は逆です」 「逆」  オウム返しに宿彌は呟いた。その間も執務の手は止めない。 「毎朝きちんと会社にきて定時前に仕事を片付けて定時で帰ります。妙な厄介事を起こすこともなく、むしろ普段はスルーするようなこともきちんとこなし、街中でも騒ぎを起こしていません」 「……いいことじゃないか」 「いいえ」  はっきりと幹部たちは首を横に振った。 「はっきりいって部下が怯えています。あれは本物の社長なのかと」 「頭を打ったとか、誰かがすり替わってるとか、なんかの暗示にかかってるとか、はたまた何かとても後ろめたいことがあるとかそういうことはありませんか?」 「誰かに何か脅されているのかも」 「病院に連れていったほうがいいのではないかと」  部下たちはとても真面目な顔をしていた。宿彌は困る。 「本物であることは僕が保障するけど……そこで疑ったら、流石に失礼だよ」  そう言って、宿彌は書類を置いた。そして小首を傾げる。 「珠月だって、まれにだけど生活態度が真面目になることがあるだろ? 何か大きな企画や投資で忙しいときとかは、仕事を長引かせずにさっさと終わらせて行方をくらますし。たまにあるじゃないか」 「あれこれ半月はその状態が続いているうえに、学園都市から出る気配がないのが気持ち悪いんです。副業が忙しい時期は確かにだらだら仕事をせずに、さっさと片付けて姿を消しますが、それをしてる気配がありません。しかも、やたらと屋敷に人が出入りしていますし」 「それなら、ファミリア……あの子の私兵だろ。何十人といるからね、魔女の使い魔は」  宿彌の言葉に、幹部は首を振った。 「普段学園都市に出入りしない面々までうろうろしています。あと、何だか知りませんが最近四六時中お菓子を作っているようで、こちらにも差し入れが」 「いや、いいことじゃないか」  少なくとも誰も困ったり不幸にはなっていないように見える。 「ダメです。不安なんです。ぶっちゃけ怖いんです」 「奇行になれている社長直属の部下ならともかく、そうでないものに動揺が広がっています。このままだと東区の投資状況にも影響が出かねません。社長は私どもがこういうことで意見しても耳を傾けてはくれませんので、会長から直々に注意をお願いできないでしょうか」 「…………注意するのは簡単だけどね」  宿彌は頬杖をついて直立不動で立つ幹部たちを見やった。 「真面目に仕事をして注意を受けたら、篭じゃなくても怒り狂うと思うんだ」 「だからこそ、会長から言ってください。あの人、会長にはあまり怒りませんから」 「紅や翔にだって怒らないだろ。珠月は頭のいい人間や身内には甘い」 「怒らなくとも右から左に聞き流されます」  きっぱりと翔は言い切った。宿彌は小さく息をはきだす。 「これって僕の仕事なんだろうか」  文句を言いながらも宿彌は立ち上がった。 「まあいいや。ディスクワークもだいたい片付いたし、ちょっと行ってくるよ」「失礼いたします。会長、緋月です」  宿彌が歩き出そうとした瞬間、計ったかのようなタイミングで会長室の扉が叩かれた。返事をすると扉が開いて、珠月直属部下のひとり、戦原緋月が書類を抱えて入ってくる。 「サインをお願いしたい書類です。期限は明後日までです」 「御苦労さま。珠月はまだいる?」  時刻は定時をやや回っている。緋月は首を横に振った。 「つい先ほど、帰られました」 「おや、それは困ったね。緋月、ミヅキは今日なにか用事があるのかな?」 「いいえ」  緋月は答えた。公私とも珠月の忠実な僕である緋月は、慇懃に答える。 「先日、古いご友人に素行をたしなめられたようでそれ以降、至極真面目に生活しております。それだけです」  意外な返事に宿彌はかすかに目を見張ってみせた。 「知人……? 誰?」 「その質問にはお答えしかねます。私的なことですので」  緋月は深々と頭を下げた。口調は丁寧だが、こうなると何があっても言わない。幹部のため息が聞こえた。 「じゃあ、一つだけ」 「答えられることでしたら」 「最近、社長の様子がおかしいのはそれが原因か?」 「様子がおかしい?」  緋月はことんと首を傾げた。可愛らしい仕草だが、男が無表情でやると可愛くない。 「概ねいつも通りかと。むしろいつもより勤勉で大変望ましいと思います」 「概ね!?」「いつも通り!?」  悲鳴に似た叫び声が上がる。しかし、緋月は顔色一つ変えずに頷いた。 「困ったね。彼女がプライベートで何をしていようと僕は気にしないけど、目立つんだからあまり場を混乱させるような行動はしてほしくないなぁ」 「ではそのように伝えておきます。まあ、気にしなくともいずれ飽きるかと存じますが」 「…………飽きる」 「はい。珠月様は元来真面目で几帳面で繊細な御方ですが「それは一体誰だ?」  ぼそりと幹部の一人が呟いた。同意するようにいくつもの首がたてに振られるが、緋月は顔色一つ変えない。 「珠月様は根は真面目で繊細でいらっしゃいますが、日頃の生活態度は皆さまご存知の通りですし、周囲もそれを容認もしくは望んでいる節があります。放っておけば、そのうち元に戻るでしょう」 「うん、まあ、戻られたら戻られたで困るんだけどね。中間くらい維持できないの?」  翔の言葉に緋月は首を傾けた。 「そうなったら、それはもう珠月様ではないかと」  確かにそうかもしれない。  誰も口には出さなかったが、全員がそういう顔をした。 「まあ、一応は私のほうからも言っておきます。が、無駄だと思います。飽きるのを待った方がはるかに早いかと」 「いつ飽きるの?」「さあ? それは珠月様にしか分かりません」  淡々と緋月は答えた。宿彌はちらりと幹部に視線を向ける。しぶしぶ翔は頷いて見せた。 「分かりました。様子を見ます。少しは」 「そ」  宿彌は小さく息をはきだした。 **  トランキライザーのトップランカーは一部の根無し草たちを除いて、だいたいが豪邸や高級マンションに住んでいる。自分の財力を見せつけるという意味以上に、不在時のセキュリティや色々と人目についてほしくないことを処理するためにはそちらのほうが便利だからだ。そのうち幾人かの自宅はその壮麗さから、まるで観光地のような扱いを受けている。  篭森珠月の自宅もその一つである。数寄屋作りや書院作り、大正風の日本家屋に明治の町家まで様々な建築物が並ぶ東区の高級住宅街の一角にそれはある。物珍しげに家々を見上げる観光客を避けて、宿彌はそれを見上げた。古びた作りに見せかけたその洋館は、今日も来訪者を威圧するようにそびえたっている。 「かごも。いる?」  赤い煉瓦の塀の一角にある門の脇に取り付けられた呼び鈴を鳴らすと、一拍後に門が音もなく開いた。どこかにカメラがあって遠隔操作されているのだろう。宿彌が門をくぐると背後で再び門が閉まる。普通の神経をした人間なら逃げ出したくなるような作りだ。  石畳で舗装された小道はまっすぐに玄関へと続いている。左右に並ぶ奇妙な灯篭を横目に宿彌が足を進めると、丁度雨避けの屋根の真下に着いたあたりで扉が開いた。両開きの扉を半分だけ開けて顔を出したのは、珠月の同居人で使用人のミヒャエルだ。 「宿彌さん、こんにちは」 「やあ、ミヒャ。玄関周りの感じが変わったね」 「先日、ジェイルのくそ馬鹿のせいで台無しになりまして、このさいだからと門と玄関扉を新調し、庭の作りも変えました」  けろりとした顔でミヒャエルは言った。一般家庭ですれば大惨事の出来事も、この学園では日常茶飯事にすぎない。宿彌は「ほどほどにね」と釘をさして上がり込む。 「篭はいるかい?」 「一応在宅中では御座いますが……何をしているやら」  ミヒャエルは心の底からため息をついた。宿彌は小首を傾げる。 「最近は生活態度が真面目だと聞いたんだけど」 「はい。外では」 「…………ああ」  これは来る必要がなかったかもしれない。心の中で思いながら宿彌は歩を進める。  一部の隙もなく整った屋敷は人の気配がほとんどない。それでも敏感な宿彌の耳にはかすかな人の話し声やCDが吐きだす音楽が聞こえている。 「珠月様、宿彌さんがいらっしゃいました」  一つの扉の前で立ち止まると、ミヒャエルは丁寧に扉を叩いた。すぐに中からうめき声のようなやる気のない返事が返ってくる。それでも通じているらしく、ミヒャエルは扉を開いて一歩下がった。軽く会釈をして宿彌は先に中へと入る。珠月は大きな寝椅子に寝そべっていた。しかも男に膝枕させて、足元に少女を一人侍らせている。いずれも見覚えのない顔だ。 「…………………………君の様子がおかしいと部下から不安の声が上がってるんだけど、思いっきりいつも通りだね」 「どいつもこいつも失礼だね。二人ともちょっと下がって。ネイルは後でいい」  よく見ると侍っていたように見えたのは足の指にネイルアートをしていたらしい。男のほうは何をしているのか分からないが。珠月の指示に二人はにっこり笑って宿彌とすれ違いに部屋を出ていく。同時にミヒャエルも退出し、部屋には二人きりになった。 「あれは?」  指示後のみの疑問文に珠月は頷いた。 「うん。私の友達」 「友達ってそういうものだっけ?」 「世の中には色々な友情があるのよ」 「愛情じゃなくて?」 「私は愛人なんて持ったことがないよ。世間では色々言われてるみたいだけど」 「君は独身なんだから、持つなら恋人だろう?」 「そちらもいたためしがないね。私についてこれる男が少なくて困る」 「さっきの膝枕はどうなんだい?」 「外見は好み。でも唯一のパートナーとしては互いに不満があると思うよ」 「君、黒とか銀とか暗い色の髪の男好きだよね」 「明るい髪が嫌いなの」 「よく知ってる。まあ、相手に気を持たせるのはほどほどに」 「ご心配なく。噂は全部デマだから」 「多すぎるんだよ、君は。芸能人みたいだ」 「似たようなものだよ。トップランカーなんて。それに逆のように罪造りじゃないよ、私は」  一通り意味のない応酬をして、二人は口を閉ざした。互いにこの会話に意味がないことはよく知っている。 「で? 本題は?」 「…………半分くらい済んだようなものなんだけど」 「え? 男遊びをするなっていう説教? なら、してないよ? 愛人騒動を四六時中起こすのは、プレイガールと思われたほうが色々と都合がいいからで、痴情のもつれ起こすようなことはしてないし」 「そうじゃなくて、最近真面目に仕事してるだろ?」  珠月はあからさまに嫌そうな顔をした。そしてやっと上半身を寝椅子から起こす。怠惰な仕草はとても世界に名をはせる人物には思えない。 「本当に、どいつもこいつも」  ため息交じりに珠月は呟いた。美女がやったら妖艶といえる仕草だが、珠月がやるとどことなく幼い。普段は服と横柄な態度で誤魔化されているが、珠月は案外普通の人だ。平均値とはいかないが、驚くほどはおかしくもない。 「くそっ、やっぱりこの反応か。人がたまには真面目に働いてやってるのに」 「いや、君はそういうこと考えちゃいけない人だと思う」 「私だって好きでやってるんじゃないよ! ただ、お師匠様が『君は本当はいい子なんだから、たまには真面目に仕事してみたら? みんな見直すかもよ』とかいうから、ありえないと思いつつもちょっとだけやってみたのに逆効果だし」 「お師匠様? ってどれ?」  しまったという顔で珠月は黙った。妙な沈黙の幕が下りる。 「…………珠月?」 「まあ、なんていうか沢山いる先生たちの一人?」  目が泳いでいた。感情を隠すのに長けた珠月の、ここまで分かりやすい動揺はとても珍しい。 「珠月」 「ごめん、嘘。ちょっと頭の上がらないひとに説教された。だから真面目にしてみたんだけど、不信感と不安感煽るみたいだからそろそろやめることにするよ。この世で真面目になって怒られる人間なんて私くらいだよ」  素足を投げ出して、珠月は不満そうに頬を膨らませた。普通なら抱きしめたくなる可愛らしい仕草だが、いかんせん、感情というものが根こそぎない宿彌には通用しない。 「さっきの二人も私の態度を不審がって御機嫌とりに来たのよ?」 「それを受け入れる君にも問題あるけどねぇ」 「だって我儘言ったほうが喜ばれるんだもの。みんな何がしたいのかしら?」 「君が好きなんだよ」  珠月は面白くなさそうに眉をひそめた。まるでありえないことを聞いたとでもいうような顔で。 「ふうん。じゃあ、宿彌は私が嫌いなんだね」 「どうしてそうなる?」 「だって我儘言うと咎めにくるし、真面目にしても諌めにくるし」 「君が諌めないといけないようなことするからだよ」 「宿彌も先生も全然私に優しくない。お父様もお母様も私を放置するし、どうしてこう私の好きな人は私に冷たいのかな。差別だ」 「そりゃあ、貴女の人格の問題ですよ、珠月様」  いつの間にやら戻ってきたミヒャエルが机の上に静かにティセットを置いた。そして、珠月の極寒の視線を受け流し、静かに退出する。 「…………何? 全否定されるような人格ってこと?」  たっぷりの沈黙の後、珠月は口を開いた。しかし怒ってる風ではなく、単にいじけてみせているだけだ。面倒な物体を押し付けられる形になった宿彌はあいまいな笑みを浮かべた。 「珠月の良いところは、我儘を言おうと傍若無人だろうと腹が立たない爽快感のある偉そうな態度だよね」 「馬鹿にしてるの?」 「いや、好きだよ」  珠月の血色の瞳が一瞬見開かれた。宿彌は続ける。 「楽しそうだよね。一生懸命生きてる、人生を楽しもうとしてるって感じがして僕からするととても羨ましいよ。僕はしなくてはいけないことは知っているけど、したいことは分からないから。だから君の生き方は好きだよ」 「………………そういう男前なことをさらりというから、気づくと自称彼女ができてるんだよ、馬鹿。あー、もうなんで私たちってこうも何かがすれ違うんだろうね。他のとこはパートナーと仲良くやってるっていうのに」 「北や西は言わずとも、南もそれなりに仲いいよね。落花流水水魚の交わりなんでもいいけど、楽しげだ」 「うちは花も水もありはしないよ」  早口で珠月は言った。そして、再び寝椅子に寝転がる。高そうな服にしわがつくのも気にしない。しかし、すぐにまた起きあがる。 「それだけ? 説教なら聞いた。明日はもう会社いかない。有給で休む」 「うん、珠月だね」 「しみじみ言うな。もう帰れ。帰りたくないならお茶を出す。チーズケーキとチョコレートムースどっちがいい?」 「追い返したいのか、もてなしたいのかどっちだい?」  聞きながら、宿彌はやっと椅子に座った。慣れた様子で珠月がお茶を入れ始める。 「もてなしてほしいならもてなしてやらないこともない。宿彌だし」 「よく分からないけど、ありがとう。いただくよ」 「どっちを?」「両方」  珠月は小さく肩をすくめると、呼び鈴に手を伸ばした。 **  数日後。 「――――って感じで、社長は完全にいつもの社長に戻りました。今日も午後から出社予定です。みな、ほっとしています」 「…………僕は皆がいいならそれでいいんだけどさ、本当にいいの?」  尋ねると不思議そうな顔が返ってきた。理解できないのはこちらのほうだ。 「ま、いいや。皆が満足するならそれで」  世はこともなし。  トランキライザーの日々はこうしてすぎていく。 おわり

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