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2、硝子玉は宝石になれるか」(2009/09/15 (火) 23:00:43) の最新版変更点

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2、 硝子玉は宝石になれるか  目を開くと殺風景な部屋がうつる。誰もいないし、来る気配もない。面会というイベントの発生しない牢獄はただの退屈な空間だ。普通の懲役刑ならまた事情は違うのかもしれないが、普通ではない囚人であるオズには関係のない話だ。  オズは手を伸ばした。死人かと思うほど白い自分の手が見える。この肌を白磁のようで美しいと称える馬鹿には結構会ったが、オズはこの色が嫌いだった。生きている感じのしない色を見ていると、自分は本当に死人に近い何かなのだと自覚する。  この白い手で、オズは仲間の首を絞めて殺そうとした。だから、オズは投獄された。簡単な因果関係だ。  寝がえりを打つと殺風景な部屋の向こうに鉄格子が見えた。笑いがこみ上げるほど分かりやすい檻だ。寝がえりをうった拍子に手足につけられた手錠が音を立てる。両手首同士と足首同士をつなぐそれは十分に長く、行動を大きく阻害するほどのものではない。ただ、邪魔だとは思う。  けれど、罰だから仕方がない。  今ならば、イガの気持ちも分かる。どうしても取り戻したい物がある時、人は頭がおかしくなる。普通では絶対にしない方法だって、思いついてしまう。  今の私は『足りていない』から。 「お義父様…………」  すがるように、オズは名前を呟く。彼の存在だけが、オズの輪郭を明瞭にさせてくれる。彼がどこかにいるだけで生きていける。生きてはいけるのだけれど、 「……珠月ちゃん、か」  彼の隣の席は別の人で埋まってしまっている。自分を満たしてくれた空間はすでにない。あるいは時間さえ立てば戻ってはくるのかもしれない。『妹』は普通の人間だから、遅くとも百年待てばその席はまた空席になる。  けれど、そこに誰かがいたという事実は消えない。 「………………珠の月、宝石の月」  ほんの数十年前までは、彼の手中の玉は彼女ではなくオズだったはずなのだが。 「血のつながりのない子どもなんて、所詮は偽物の宝石なのかもしれません」  いっそのこと実子が叶わないほど優秀か、あるいはどうしようもないほどの無能なら素直に嫌うことができたかもしれない。それなのに、実際は自分に生き写しで自分より少しだけ劣ったよく似た他人ときた。まるで自身を見つめているような嫌悪感と親近感から来る好意と居場所を取られた恨みと敬愛する義父の実子への敬意と義父の血への嫉妬と『妹』への愛着と『妹』故の憎悪。 「――――――――本当に、愛情というのは呪詛ですね。けれど、愛しているものは仕方がありません」  嫌なことを考えないように再び夢の世界に逃げ込もうとしたオズの耳に、かすかな音が届いた。どうやら、来客というイベント事が発生したようだ。ゆっくりと起きあがって髪を手で整える。 「――――よう」  声がした。丁度軽く襟元を正したオズが顔を上げたとき、格子の向こうに男性が現れる。彼を見て、オズはゆっくりと頷いた。 「ああ、お仕事ですね」  ここに看守以外の人間が来る理由は一つだ。オズは立ち上がると、相手の視線など気にせず身支度を始める。躊躇いなく服を脱ぎ捨てたオズを見て、男は顔をしかめた。だが、慣れているのが咎めることはしない。 「仕事の資料は事前に渡っているだろう? 問題はあるか?」 「問題というほどのものではありませんが、面倒な仕事です。ですから、お願い聞いていただけますか?」 「何年だ?」  感情のこもらない声でやり取りが続く。彼もまた形の上ではオズの仲間に当たる。ただしオズが罪人である以上、立場の差は大きい。おっとりと喋るオズに対し、彼はつまらなさそうに返事をする。 「ほんの十年程度の減刑です」 「長いな」  一言で彼は言い捨てた。オズは大げさに苦笑してみせる。 「人の一生ではそうかもしれませんね。でも、私や神殿の奥深くにいる彼女にとってはそうでもないのですよ?」 「それは自分が長きを生きることへの自慢か?」  オズは笑った。それが嘲笑であることを見て取って、男は目を細めた。 「まさか。生きることは呪いですよ? まともな人間にとってはね」 「そのようだ」  オズは生きることに疲れていて、憑かれている。それは呪い以外何ものでもない。正気なのかそうでないのかすら、本人にも他人にも分からない。 「十年が駄目なら、ほんの少しだけお仕事の後に時間をくださいませんか? ほんの数時間でいいんです。外を歩きたい」 「お前が時間がほしいだと?」  返答する声には嘲りが含まれている。人でもないものが人のふりをするなんておかしい。そう思っているのだろう。オズは微笑んだ。 「ええ。妹にそろそろ会ってみようかと思って」  一瞬の沈黙ののち、思い当たったのか男は顔をしかめた。 「――――壬無月のガキか。だが、あれには奴の守護がついているだろう?」 「いいえ。あの方はいつも通り世界を飛び回るのに忙しく、娘の面倒などみている暇はないようですよ。こっそり接触するなど訳はないことです。置いていかれるなんて可哀想に。教育はほとんど、学校でされたみたいですね」  オズの声には『妹』への憐憫とわずかな優越感が滲んでいた。楽しそうな声に、男は顔をしかめる。 「好きにしろ。いずれにしても、あのガキに世界を動かす力などない。どうなったとしても誰も気にはしないだろう」  彼の返事にオズは満足そうに微笑んだ。そこに不吉なものを感じとって、無駄とは思いながらも彼は釘をさす。 「ただし、あまり騒ぎすぎるなよ」 「大丈夫ですよ。別に殺し合いをしに行くわけじゃあるまいし」 「お前を相手に殺し『合い』をできる人間は少数派だろうな」  純粋なる嫌な予感しかしない台詞に、男は顔をしかめた。オズは気にしない。 「ふふ、楽しみですね。そろそろ私と同じ顔になっているでしょうから、見物ですよ? 妹ですもの」 「血のつながりはないんだろ?」  にこりとオズは笑った。そして黒いベールで自分の顔を隠す。 「ええ。けれど、無関係でもない。魂とて所詮は世界を構成するエネルギー要素の一つにしかすぎない。生きている間に消費されたエネルギー――――オドは巡り巡って別の人間に宿る。そういう意味で人は生まれ変わります。あの子は私の生まれ変わり。つまり、義理の妹であり、魂の双子なんですよ」 「なるほど、自分によく似た他人は嫌悪の対象だ。憎いのは分かる」 「別にそういうわけではありませんよ?」  鎖の音を響かせてオズは立ち上がる。 「あの子が全然関係ないところで幸せになるか、あるいはあの人の娘じゃなくて、友達や妻になってくれていたら良かったと思います。もしくは男性だったら良かったんです。だったらきっと愛せました」 「自分の養女と同じ顔の女を妻にしていたら、俺は心底壬無月を軽蔑することになっていただろう」  本当に嫌そうな顔で男は答えた。案外と常識的な返事に、オズは目を瞬かせる。 「あら、常識的な御返事。私だったら嬉しいですけれどね。私に似た人を選んでくれたなんて」  どこか恍惚とした物言いに、男は眉をひそめた。 「お前は嫌じゃないのか? 同じ顔が妻におさまるなんて。それならまだ娘のほうが」「妻は他人です」  オズは顔を上げた。黒いベールに邪魔されて表情はまったく見えない。良く見ると彼女の服は喪服だ。誰のための喪服かは考えたくもない。 「私は彼の娘です。血は血つながっていなくても、篭森壬無月の娘は私だけ――だった」  その一言にすべてがこもっていて、男は大げさに肩をすくめてみせた。 「因果な女だな」 「ここに因果に囚われていない人間なんているんですか? 貴方だって同じようなものでしょう? 申し訳ありませんが、鍵を開けてください。早く済ませて妹に会いたいんです。どんなに喜んでくれるでしょう」  男は何も言わなかった。ただ、唇だけが『気の毒に』と言葉を紡いだ。  アリの巣のように細かく分かれた道が、都市全体を覆っている。おそらくは、いざという時の脱出や市街戦を考えた作りになっているのだろうが、鬱陶しいことこの上ない。  分散した敵を確保するうちにすっかり部下たちとはぐれたことに気づいて篭森珠月は舌打ちした。 「――――――はあ」  ごちゃごちゃした都市の薄暗い路地。最後の一人をあっけなく昏倒させて、珠月は息を吐いた。たいした仕事ではなかったが、この迷宮のような路地での追撃戦とこの後部下と合流して拿捕した相手を運ぶ手間を考えると、ぐっと疲労感が増す。  珠月はもう一度息を吐いた。その時、 「―――――お疲れ様」  不意に気だるい女性の声がした。顔を上げた珠月は、直前まで誰もいなかったはずの路地に人影があることに気づいて驚愕した。 「だ、誰よ?」  声をかけられるまで存在自体に気づかなかった。なのに一度気付いてしまえば目が離せない。ここまで目立つ人間の接近に気付かなかったなんて頭がどうかしているとしか思えない。珠月は心の中で自分を罵る。  まず言葉を失ったのはその異形。首以外はすべて黒い喪服――それもビクトリア時代のようなドレスだ――で覆われ、手も手袋で隠されている。顔はベールで見えないが、白髪であることは分かった。声は――若い女性のように聞こえたが、同時ひどい年寄りのような気もした。どことなく聞いたことのある声だが、誰のものか思い出せない。何より目立つのは手足が太い手錠のようなもので拘束されていることだ。動く度に鎖が重たい音を響かせる。  それだけならただの変人だ。学園内にもいないことはない。けれど、纏う空気がその辺の奇人変人とは格が違う。見ているだけで不安になる、かとって目を離すこともできない独特の空気。ただ立っているだけで、場の空気をすべて持っていかれる。 「――――誰なの?」  自分の中に生まれかけた恐怖感を振り払うように、横柄な態度で珠月は尋ねた。女性は態度を変えない。 「私はわたしです」  くすくすと喪服の女性は笑った。珠月は警戒を深めるが、自分から攻撃するような愚行はしない。ゆっくりと距離を取り、進路と退路を計る。それを見て女性は笑いを止めた。 「あのね、お願いがあるんです」 「…………知らない人にお願いされる覚えはないよ」  いつでも迎撃に入れるように身構えながら、珠月は答えた。逃げることはしない。積み上げた経験と知識が、今逃げれば殺されると告げている。 「ほしいものがあるの。私にくださいませんか?」  無邪気な声で、喪服の女は御願してきた。珠月は戸惑う。 「貴女にあげられるようなものなんて持っていない」 「大丈夫、貴女がいらないものだから」  一歩女性が近付いた。珠月は同じだけ下がる。もう一歩、女性が踏み出すと、珠月は二歩下がった。それを見て、彼女は残念そうに足を止めた。 「何がほしいの?」  珠月の問いに返事はない。代わりに、女性はかすかに頭を揺らした。珠月には彼女が微笑んでいるように思えた。 「辛いんでしょう?」  唐突にいわれた言葉に、珠月は内心で首をかしげる。だが、顔には出さない。否定も肯定もせずに言葉の続きを待つ。 「篭森の名前は貴女には重たいんでしょう? あの人の血筋でいるのはつらいでしょう?」 「――――――っ」  珠月は目を見開いた。瞬時に怒りが沸点に達するが、鍛え上げられた理性が同じタイミングでそれを押さえつける。表面上は平静を装って、珠月は相手を睨みつけた。 「喧嘩を売ってる――そう認識していいのかな?」 「喧嘩? 私はただ譲ってほしいんです」 「だから、何を?」  ふふと女性は笑った。奇妙な余裕に薄気味悪いものを覚えて、珠月は彼女から距離を取る。 「貴女は弱い。あの人の娘に相応しくない」 「………………それは貴女が決めることじゃない」  湧きあがる感情を噛み殺して、努めて冷静に珠月は答えた。感情を制御する訓練は受けている。しかし、確実に自分のコンプレックスをつく言葉に冷静ではいられない。気を抜くと殴りかかりそうになる。 「相応しいかどうかなんて、誰かに決められることなの? 違うでしょ? ただ、私は父の娘という事実があるだけだ」 「いいえ」  珠月の言葉を女性は真っ向から否定した。 「私にだけはその権利があります。貴女の価値なんて、あの人の血統以外なにもないじゃないですか。だったら、私でもいいはずです」 「だから何を言っているのか分からない」 「ください」  はっきりと彼女は言った。 「貴女の血を私にください」 「そんなものあげられるわけないじゃない……」  あまりにも常識はずれな言葉に怒りすら退く。珠月は不可解なものを見る目で女性を見た。少し、頭が冷静になる。 「つまり、私に死ねっていいたいの? そうなのね?」  もし遠まわしに死ねと言っているならば、それは時折現れる刺客と変わりない。落ち着いて対応すればいい。そうしよう。  だが、女性の次の言葉を聞いた瞬間、その決意は吹き飛んだ。 「少し違います。私は貴方になりたいんです。ですから、貴女の場所を私に明け渡してください」 「――――――」  衝動が理性を越えた。珠月は瞬時に能力を展開させる。音を立てて排水溝がはじけ飛び、中から水が噴き出す。  珠月の能力は、憑依による物体操作である。物体操作という能力はその単純さと名前から受けるのんびりした印象に反して、応用が利き中遠距離戦で効果が大きい攻撃的な能力である。特に珠月は、物体を分子単位で操作することができ、しかも意識をその物体に移送させて操るため、どれほど離れていても一定時間以内ならその物体を自分の手足として操ることができる。中でも水の扱いには自信があり、水辺での戦闘で負けたことはない。部下にすら教えていない隠し手の一つだ。  排水溝から噴き上がった水を見上げて、喪服の女性はおやおやと言わんばかりに肩をすくめてみせた。 「嫌ですか?」 「貴女は私を馬鹿にした」 「馬鹿にしてなんていないですよ。価値があるからほしいだけ。だって、私がどうしても欲しくて手に入らなかったものを貴女はもっていて、しかもそれを重荷に思っている。なら、私が全部もらってあげるのが親切というものでしょう?」  奇妙な物言いに珠月の攻撃の手が止まる。いぶかしむように珠月は女性を見た。 「それ、どういう意味?」 「やっぱり私の事は聞いていないみたいですね」  聞こえてくる声はやはり聞き覚えがある。珠月は改めて相手を睨みつけた。 「貴女なんか知らない。死ね」 「それは無理だと思いますよ?」  女性の声を無視して、珠月は意識を集中させた。  噴き上げた水が塊になる。水の圧力というのは案外と強い。網目のように張り巡らされた水が女性を取り囲み押しつぶす。圧死かあるいは水死か、逃げ道を残さない攻撃だ。それでもかわされた時のためにごく少量の水を足元に這い寄らせる。逃げ道などなく、かろうじて避けたとしても負傷は避けられないはずの攻撃。しかし、 「能力自体は単純な分応用が利く悪くない力ですし、貴女も馬鹿ではない。けれど、圧倒的に経験不足で、何よりこの手の能力の進化は遠距離戦で発揮されます。貴女は私とあった時点で逃げなくてはいけなかった。もし逃げ切れていたら、反撃できたかもしれないのに」  水は女性の頭上で止まった。  分子単位で自在に操作できるはずの液体が、まるで見えない何かに絡みとられたかのように固定されている。足元に忍び寄った水も動きが止まっている。能力を解除されたわけではないことは、水を通して伝わってくる感覚から分かる。けれど、動けない。支配しているはずの物体が、それ以外の力でからめとられている。 「馬鹿な…………」  分子単位で操作している物体が固定されてしまっている。それを認識した瞬間、反射的に珠月は動いていた。  訳のわからない異能とは距離を置くに限る。隠していて拳銃を取り出して威嚇射撃を試みながら、逃走を計る。けれど、その動きが終わるより前に何かが絡みつくような感覚がして、手足の感覚が消えた。手から拳銃が落ちてアスファルトにぶつかる。 「え…………?」  やや遅れて、自分の身体も薄汚れたアスファルトに倒れ込む。仰向けに倒れたため、後頭部をしたたかに打って一瞬意識が遠のく。そこでやっと珠月は自分が倒れたことに気付いた。 「くはっ―――――」  悲鳴を上げる余裕すらない。強制的に身体から叩きだされた息が声にならない声を紡ぐ。  攻撃を受けたのに、何もできなかった。驚愕する珠月を眺めながら、殊更にゆっくりと喪服の女性は近づいてくる。 「―――何を、したの?」  何も見えなかった。反応することすらできず、切り札の一枚を砕かれて地に伏していた。その事実が身体的ダメージ以上に珠月を打ちのめす。 「名乗っていませんでしたね。私はオズ・クローチェと申します。エイリアスは【カテナシャドウ(鎖影)】といいます。まあ、エイリアスからなんとなく想像はつくんじゃありませんか」  笑いながらオズはポケットに手を突っ込んだ。次に引き抜かれた手には細い優美なナイフが握られている。 「何故、貴女程の人が私の血がほしいの?」  混乱しながら珠月は叫んだ。すぐに追撃が来ないということは、殺すだけが目的ではないのだろうと分かる。けれど、目的が分からない。これほどの能力がある人間に狙われるような覚えはないはずだ。少なくとも、今狙われる理由は分からない。  ゆっくりと、ゆっくりと彼女は近づいてくる。 「貴女じゃなくて、貴女の血統です。これでも色々考えたんですよ? だって貴女は私がほしかったものも私が持っていたものも、丸ごと横からかすめ取って行ったんですから」 「ふざけないで」  意味の通らないことを言って、オズは珠月の横に膝をついた。嬲るつもりなのか、手の中でナイフを弄ぶ。 「本当のことなんだけどね」  くるりとナイフが指の間で回った。そして、頬にうずめるように動く。  次の瞬間、動けなかったはずの珠月が跳ね起きた。袖から滑り出たナイフがオズの首を狙う。 「あら、動けるの?」  だが、オズは流れるような仕草で立ちあがってそれを回避する。かろうじてナイフがベールの留め具に引っ掛かり、顔を隠していたベールが落ちる。  その下の顔を見て、珠月は一瞬動きを止めた。  止めてしまった。 「何…………で?」  初めに浮かんだのは驚愕。そして、すぐに恐怖へと珠月の表情が変化する。それを見て、オズは満足そうに微笑んだ。 「驚かせちゃいけないと思って、わざわざ顔を隠していたのに」  オズは珠月と同じ顔をしていた。  オズの髪は白く横髪だけが肩より長くのばされている。珠月の髪は黒く前下がりのボブだ。オズの瞳は燃え落ちたあとの灰の色をしているが、珠月の瞳はどろりとした血の色をしている。けれど、それ以外はすべて同じ。声に聞き覚えがあるはずだ。あれは珠月自身と同じ声だったのだから。  幻覚ではない。特殊メイクでもない。 メイクならばこの至近距離なら見抜くことができる。幻覚なら見抜くすべはないが、高度な幻覚を見慣れている珠月の勘がこれは違うと告げている。 「私と同じ顔……?」 「違います」  オズは微笑んだ。珠月がけして浮かべることのできない、壊れたような無邪気な顔で。 「私が貴女と同じ顔なんじゃありません。貴女が私と同じ顔なんです」  オズが手を伸ばす。珠月は我に返って後ろに飛びのいたが、次の瞬間先ほどとは比較にならない力で地面に押さえつけられる。全身の筋肉や内臓が軋んで、珠月は苦痛の声を上げた。それに反応するように拘束が緩む。だが、抜けだせるほどは緩まない。 「これでもう動けません。ふふ、面白い技ですね。自分の身体の一部が損傷あるいは麻痺で動かせなくなった場合――――自分の身にまとっているものを操作して、間接的に身体を無理やり動かす。身体へのダメージを無視すれば生身より強い力が出せる。なるほど、物体操作にはそういう応用もできるとは思いませんでした」  起きあがることができなかったはずの人間が起きあがった仕掛けを一瞬で見抜かれて、珠月は血がにじむほど唇を噛んだ。二枚目の切り札もあっさり破り捨てられる。それはそのままオズと珠月の実力の差だ。  悔しげな顔に向かってオズは微笑んでみせる。 「私の鎖はすべてを縛り、縊り、絡み取って自由を奪う。貴女とは真逆ですね。残念ですが、貴女の能力は私には通用しません」  その言葉に珠月は力いっぱい手を握りしめた。爪の間に砂利が入って血がにじむのも構わない。  珠月の能力は、憑依によって分子以上の形ある物体を操作する能力だ。対するオズの能力はあらゆる物体を拘束する能力。異能を使っても、動かしたものを根こそぎ固定されては手も足も出ない。力の差以上に決定的に能力同士の相性が悪い。  珠月ではどうあがいてもオズに勝てない。 「でも、努力家だってことが分かったのは嬉しいですよ。私も努力する人間でしたから。共通点があるのは嬉しいことです。同じなのは顔だけじゃ、つまらないですからね」 「同じ…………」  珠月は目を瞬かせた。ゆっくりと言葉の意味を飲み込む。  同じ顔。そっくりな体格。声も同じ。 「――――私はクローンか、研究体なの?」  自分と同じ姿の人間が目の前に現れたとしたら、まず考えられるのが幻覚か幻術。次は双子や兄弟説。そうでないならクローン説だ。科学と異能が同居する現代、同じ顔なんて作ろうと思えばいくらでも作れる。  無難な解釈に、オズは声を上げて笑った。むっとして掴みかかろうとした珠月の身体が、今度こそ地面に縫いとめられる。笑いながら、オズはうつ伏せに倒れた珠月の目の前に立った。 「違います。安心してください。貴女は正真正銘、壬無月氏の実子です。でも、私は違います。壬無月氏とも、貴女の母君である水天宮葵さんとも何の血の繋がりもありません」 「ただのそっくりさんだとでも言うつもり?」  世の中には3人は似ている人間がいると昔から言う。だが、それはあくまで俗説であって、仮にいたとしても血のつながりでもない限り、そのそっくり同士が顔を合わせる機会など巡ってこない。 「昔から結構見つかっているでしょう? 双子でもないのにそっくりな人たち。組み合わせの種類の限界を考えれば、そういうことも起こりえるわけで――――それでもまったくの他人なら、一生顔を合わせずに終わるんでしょうけど」  腰に手を当てて、オズは珠月の顔を覗き込んだ。珠月の姿を反転させたような白い顔が、珠月をさかさまに覗き込む。 「たまたま、私たちの場合は縁がある相手が同じ顔をしていたってことじゃないでしょうか。多分ね」 「私は貴女を知らない」  珠月はオズを見つめた。見れば見るほど生き写しだ。けれど、同じという感じがしないのはきっと、表情がまったく違うからだ。珠月の無表情はすべてを無理やり押し込めた無表情だが、オズの微笑はすべてが抜け落ちて漂白された笑顔だ。 「私は知っています。だって貴女の位置は、かつての私の場所ですから」  片手でナイフをもてあそびながら、オズは答えた。立ち上がろうと珠月は足掻くが、指先がアスファルトをこするだけで、身体はほとんど動かない。初めの手足の感覚が消えたような感じとは違う。見えない何かが手足に食い込むのが分かる。無理やり動かそうとした手首にうっすらと痣が浮かび上がる。 「――――もったいぶらずに教えてよ。貴女、何なの?」  同じ顔。同じような体格。同じ声。違う色の髪。違う色の瞳。物体を操作する珠月の能力を反転させたような停止の力。どれもこれも、偶然というには出来過ぎている。 「貴女は、誰?」  オズは笑みを深くした。そして、答える。 「私は貴女の――――姉に当たるのではないかと。血のつながらない」  義理の姉妹。あまりにもふざけた返事に、珠月は唖然とした。その顔を見て、オズは肩をすくめる。 「信じられないのは無理もありません。私はア…………貴女の父親である篭森壬無月の養い子です。諸事情で名字も出身国も違いますが。貴女は彼の実子なのですから、あえて関係性を言葉にするなら『義姉』でしょう?」  さらりとオズは答えた。今度こそ、珠月の表情が凍りつく。驚愕の表情を見て、満足そうにオズは微笑んだ。 「貴女が生まれる前からずっと、私は彼の娘でした」 「……何それ。その言い方だと、まるで貴女とお父さんが年寄りみたいじゃない」  珠月が生まれる前から娘でいるには、珠月より20以上くらいは年上でないといけない。しかし、それでは目の前にいる女性も父も年が合わない。父は若く見えるが40代のはずだし、目の前にいるオズはどうみてもせいぜい20代。年が合わない。 「貴女、いくつよ?」 「さあ? 年が二万年を超えたところで数えるのを断念したので、自分の年なんて正確には分かりませんし、どれくらい親子をやっているかも覚えていませんね。億は超えた気がするけれど」 「……人類が誕生したのは数万年前のはずだけど?」 「あら。貴女、実際数万年前まで行って確かめたんですか?」 「違うけど……発掘とか化石とか……」 「すべての歴史が地続きで、真実は一つしかないと思ったら大間違いですよ」  くすくすとオズは笑った。 「神話を物語と笑うか、歴史と受け止めるか、それは自由ですよ。でも、変な話ですよね。小田信長は実在を疑わないのに、アマテラスは存在しないと言い切るなんて。どちらも存在を証明するのは、書物と口伝といくつかの物品でしかないのに」  普通なら冗談と受け流す言葉だ。しかし、オズの存在そのものが戯言に奇妙な重みを与えていて、一笑にふすことができない。あまりにも人間離れした強さと死んでいるような静かすぎる気配。珠月が今まで出会ったどんな人間とも違う。 「でも、それが共通認識だ」 「共通だから、正しいとは限らないでしょう? 私は何億年も生きているし、貴女のお父様はそれ以上に生きている。私を育てたのは、貴女のお父様。それだけが私の中の事実です。現代の魔術師たる貴女なら、分かるでしょう? 案外、その中っていうのは物理法則にあっさり逆らうってことを」 「…………まあ、そうだね」  珠月はしぶしぶ頷いた。直観で分かる。彼女は嘘をついていない。真実がどうであれ、彼女の中でに事実は決定している。なにより認めたくないことに、彼女の仕草は父親によく似ていた。それこそ、他人とは思えないほどに。常識をへ理屈で打ち破り、打ち破れなくてもまったく気にしない態度のでかさなど、デジャブを感じる。 「姉か…………兄弟の存在なんて考えたこともなかったよ」 「あら、信じるんですね。もっと頑なに否定されるかと思っていました」 「貴女、気付いていないの?」  彼女らしくない諦念を浮かべた顔で、珠月は呟いた。不思議そうにオズは小首をかしげる。 「貴女――――お父様にそっくりなのよ。見た目じゃなくて気配が」  自分など簡単に殺せると確信できる威圧感。ただそこにいるだけで場の空気を支配するほど強い気配を放ちながらも、どこかで蜃気楼のように存在感がない。まるでスクリーンで戦争を見ているような矛盾した空気。それはいるだけで『違う』と分かる独特の気配は、父親――篭森壬無月によく似ている。親子というなら、これこそ親子というのだ。 「そっくり……なのよ」 「へえ。それは嬉しいです」  オズはまたくるりとナイフを回した。そのナイフが落ちてきたとしても珠月に避ける術はない。まるで手足が切り落とされたかのように動かない。感覚さえどこか遠くに感じる。そのくせ、腕や足に食い込む圧迫感だけは鮮明だ。 「…………酷い話だね。姉だけでも十分なのに、不老長寿だの神話だの……」  珠月は呟いた。喋ると口に砂利が入る。這い蹲ったまま、頭をろくにあげることもできないからだ。 「こんな娘らしい娘がいるなら―――――」  感覚のない指先から力が抜ける。頬を生温かい水が流れた。悲しいのか悔しいのか怖いのか自分でも分からない。ただ、自由に動かせる涙だけが伝い落ちる。  血筋の良さをのぞけば、自分が少し賢いだけの凡人だという自覚はあった。著しく劣っているといえる部分こそかろうじてないものの、優れている点も特にない普通の人間。気付いた時には周囲からは絶えず悪口が聞こえていた。だから珠月は死に物狂いで努力した。それでも天才にはなれなかったが、秀才にはなれた。秀才になったら今度は周囲を欺き、あたかも天才であるかのように振る舞った。努力しない日などなかった。それでもまだあまりにも両親の位置には遠かった。一生届かないと分かっていても、止まることは許されない。自分は死ぬまで走り続けるしかないのだと思っていた。なのに―――――  珠月は顔を上げる。『姉』がかすかな笑みを湛えて立っている。  自分と同じ顔をした、父と母の名に恥じない娘――――絶対になれなかった自分の理想が、確かな現実感を持ってそこにいる。 「貴女がいるなら、私なんていなくてもよかったんじゃないか」  涙がこぼれる。目の前にいる『姉』の姿は圧倒的で、今まで積み重ねたものがすべて否定されてしまったような気がした。彼女は確かに『人類最狂・篭森壬無月の娘』だ。その地位が相応しい。だれも文句が付けられない。 「私だって頑張ったのに……」  何もかも無駄だったと言われたような気がして悲しくて身体が引き裂かれそうな気がする。手が届くところに、手の届かないもう一人の自分がいる。悔しくて羨ましくて血を吐きそうになる。 「何で……」  知りたくなかった。会いたくなどなかった。  握りしめた拳からは血が滲み、汚れたアスファルトをさらに汚していく。泥と涙できっと顔も酷いことになっているだろう。『姉』であるオズはこんなに綺麗なのに。  胸が苦しくなる。気を抜くと泣き叫びそうになる。なぜ自分の前に現れたのか。なぜ存在を隠したままでいてくれなかったのか。都合のいい話だと分かっていても叫びそうになる。醜くて大嫌いな自分が外に出てきてしまう。取り繕ってきた仮面がすべて壊れてしまう。オズなんかいるから―――― 「――――私も同じことを思ったんです」  ふいに、呟くような声がした。その声で珠月は現実に引き戻される。涙でかすむ視界の向こうに、オズがいる。オズはにこりと笑って見せた。 「私はお義父様が大好きです。あの人は私のためなら、本当になんでもしてくれました。死ぬはずだった私を、周囲の反対などものともせずに引き取って、あたたかい家を与え、生き抜く技術を与え、豊富な知識を与え、沢山のものをくれ、私のために泥をかぶってくれて、私のためにできることは何でもしてくれました。だから、私も彼に報いたいと思い、そのためなら本当に何でもしたんです。どんな苦痛も禁忌も他人の批難も憎悪も気にならなかった。私は天才ではなかったけれど、彼のためには天才になろうと思ったんです」 「天才になろうと思った……?」  信じられない言葉に、珠月は『姉』を凝視した。目の前にいるオズはどう見ても圧倒的な立場にいる存在だ。それが天才になろうとしたとはどういうことだろう。 「私は普通の人間で、才能がないわけではありませんでしたが、満ち満ちているわけでもありませんでした。けれど、お義父様と私が住んでいたところは――――まあ、なんといいますかとても強い人たちばかりが集まって暮らしていた集落で、中でも義父とその親友、私の幼なじみだった義父の親友の娘はずば抜けた力を持っていたんです」  遠い過去に思いをはせるように、オズは目を細める。 「いつも怖かった。いつか化けの皮が剥がれるんじゃないかと。ですから、私はとても努力したんです。天才のふりをする一方で、寝ずの努力でそれを補いました。幸い、天才のふりができるほどの秀才ではあったようで、無理をすればあの人たちの末席くらいにはかろうじて座ることができましたよ。すべて、少しでも父に報いるために」  珠月は返事をできなかった。高ぶっていた感情が冷や水をかけられたように冷えていく。 「ずっと逃げ続けているイメージです。後ろからくる怖いものに追いつかれないように、いつも死ぬ物狂いで走っていた。止まったら置いていかれて、二度と追い付けなくなってしまうとそう思っていましたから」  天才になれなかった天才の娘。どうしようもないくらいにオズは珠月に似ていて、珠月はオズに似ていた。 「私はね、すごく努力したんですよ。あの人のため。おしつけがましいですが、そのために私は生きてきたんです。不老不死なんて厄介なものになることも、あの人と一緒に生きていけるなら躊躇う必要なんてなかった。けれど」  オズは言葉を区切った。灰色に濁った瞳が珠月の血色の瞳を覗き込む。 「努力しても、私は本当の娘にはなれない。あの人の血を私は受け継いでいないから」  ため息とともにオズは呟いた。そこに含まれた絶望感に珠月は思わず目を伏せる。きっとその絶望感は、珠月がオズに対していだくそれに似ている。 「あの人の娘に生まれたかった……」  祈るように、呪うように、オズは呟く。 「それを持っている貴女は、その血を重荷に思っているなんて、酷い話だと思いませんか? 貴女が生まれてからずっと私は羨ましくて仕方がなかったんですよ。欲しかったものを、手に届く場所にいる他人が持っているんですから」  灰色の瞳が伏せられて、そしてもう一度珠月を見つめる。 「何で貴女がいるんでしょう。ずっとそう考えていました。それでも生まれたのは貴女のせいではないし、お義父様は楽しそうだから――我慢しようとは努力したんですよ。なのに、貴女は私がどうしても欲しかったものを持っているのに、いつも憂鬱そうで不満そう。なら、私にくれたっていいじゃないですか」  顔は笑っているのに、オズは泣いているようにみえた。灰色に濁った瞳が濡れている。 「……私に嫉妬する価値なんてないよ」  力なく珠月は答えた。 「そんな……大した人間には私はなれなかった」 「そのようですね。貴女では私に勝てない。絶対に」  躊躇いなくオズは首を縦に振った。珠月の胸の奥に痛みが広がる。オズが羨ましい。恨めしい。憎らしい。それ以上に、こんなものにしかなれなかった自分が悔しく、憎らしく、悲しい。  嗚咽をこぼしそうになるのを歯を食いしばってこらえる。泣けば認めることになってしまうから。噛みしめた歯が痛いほどだ。それでも耐える。身体の傷みは耐えられる。 「それでも、私は私なりに最良と思ったことをしてきた――努力はしたんだよ。貴女と違って、かたちにはならなかったかもしれないけどさ」  おとなしく殺される気はないが、抵抗する手段もない。せめて視線だけは外さずにいようと、珠月は倒れたままオズを見上げた。だが、 「ええ。頑張りましたね」  返ってきたのはあまりにも予想外の言葉だった。驚き過ぎて落ち着いたはずの思考と呼吸が再び乱れる。驚く珠月を見下ろして、オズは言う。 「頑張ったね、と言っているんです。流石は、貴女は大好きなお義父様の大切な大切な娘で、私の可愛いかわいい『妹』です」 「…………」  いきなり話の流れが変わって、珠月は戸惑った。そんな彼女に構わず、オズは続ける。 「正直な話、私は貴女が妬ましい。だってとてもずるいんですから。血が繋がっているというだけで、貴女は全部持っていってしまう。それでも貴女がもっと幸せなら我慢できた。けれど実際はどうですか? 貴女は私が欲しいものを全部持っているのに苦しそうで悲しそうに生きている。何が苦しいんです? 何が悲しいんです? 私にないものを貴女は持てているのに」  珠月は黙った。反動形成という言葉が頭に浮かぶ。何か大嫌いでストレスになる存在があるときに、それを逆に好きだと思いこんでとにかく可愛がることで、ストレスを回避しようとする人間の機能のことだ。好きだ、可愛いといいながら、オズの瞳は逆のことを言っているように珠月には見えた。 「だから私、色々考えたんです。私も貴女も苦しんでいる。それを取り除くには一つしか方法がないと思いませんか? 二つあるなら一つにまとめればいいんです」 「はい…………?」  理解の範囲を超えた言葉だった。声も出ない珠月の反応をどう解釈したのか、オズは嬉々として語る。 「私、珠月ちゃんのこと一杯調べたんですよ。それで思ったのだけど、私たちは同じ顔だし思考回路もほぼ同じなんです。魂の鋳型が同じですものね。多少珠月ちゃんのほうが焦りがちで自虐的だけど、それは多分経験とか能力の差から来るもので誤差の範囲内だと思います。だから、差異は肉体と能力くらいだと思うんです」  珠月がオズに感じた歪な親近感に近いものをオズもまた感じていたらしい。似ているのに違う『姉妹』を自覚して悲しい気持ちになった珠月とは逆に、オズは楽しそうに笑う。その笑顔がどこか不自然で、珠月は不吉なものを覚えた。 「…………だったら、何?」 「逆に言うと、そこさえ解決できるなら私たちは別々でいる必要ないんじゃないですか?」  まるでクイズの答えが分かったかのような勝ち誇った顔で、オズは言った。 「私の方が能力自体は強いし、方向性は逆だけどその当たりはまあ、どうにかなります。貴女の事はちゃんと調べているから、これから貴女がやるであろうこともだいたい分かっていますし、そもそも思考回路がほぼ同じなのですから、貴女がしないといけないことを私が代行するなんて訳がないことです。だから、私と貴女が同じになればいいんです」  支離滅裂な言葉の破片から、オズが何をしようとしているかが少しずつ見えてくる。無駄と分かっていても、珠月は立ち上がろうともがいた。本能が逃げろと警鐘を打ち鳴らす。それでも、身体は少しも動いてくれない。 「…………何をするつもり?」  恐る恐る口に出すと、オズはにこりと極上の笑みを浮かべた。 「私が貴女を食べてあげる。そうすれば、私たちは本当にあの人の『娘』になれるもの」  狂った宣言がオズの唇からこぼれた。  生き物としての本能的な恐怖に、珠月は逃げようともがくがかすかに指先や首が動くだけで、ほとんど身動きができない。それでも暴れると、頭を踏みつけられた。脳が揺れて、一瞬意識が飛びそうになる。 「暴れないの。悪い子ね」  淑女然とした口調が崩れて、子どものような話し方になる。酷く無邪気な口調と語られる内容のギャップが、気味の悪さをさらにひどいものにしている。 「血も肉も骨も腸も全部食べて、私の血肉にしてあげる。貴女がするはずだったこと全部代わりにやってあげる。こうすれば私たちは一つになれる。嬉しいでしょう?」 「――触るなっ!!」  悲鳴に似た声で珠月は叫んだ。オズは不思議そうに伸ばした手を止める。代わりに足を持ちあげた。  黒い足首までのブーツが珠月の腹部に食い込み、身蹴りとばす。内蔵にえぐるような痛みが走って、珠月の身体は浮きあがった。そのままビルの壁に叩きつけられて再び地面に転がる。それでも拘束は解けない。解けたと思ってもすぐにまた絡みつく。 「―――――っ!!」  こみ上げる吐き気と痛みに、珠月は声もなく悶絶した。身体を折ってもがきたいが、拘束されているためそれすらできない。空気と傷みのはけ口を求めてあえぐ唇から血の混じった唾液が凝れる。内臓はまだ平気だが、喉を切ったらしい。 「うう……くぁ…………」  こぼれる声は言葉にすらならない。それでも本能的に逃げ場を求めてほとんど動かない手足を動かす。ふと頭のすみで、自分に殺された人間もこういう気分だったのかと思った。思っていたよりずっと痛くて――――悔しくて悔しくて涙が出る。 「…………痛い?」  ゆっくりとオズは距離を詰めると、手を伸ばして珠月の襟首をつかむ。不健康なほど細い腕が驚くべき力で珠月を持ちあげる。首が締まって珠月はもがいた。 「痛い? 苦しい? 悔しい? 怖い? どれで泣いているの?」  白い手が懐から取り出したレースのハンカチで珠月の頬を抑える。その手つきはひどく優しい。ゆっくりと丁寧にこすらないように、ハンカチが珠月の顔を拭う。 「可哀想に。生きているっていうのは、痛くて苦しくて悔しくて怖いよね」  声も出ない珠月に、オズは優しく話しかけた。その声は子どもや小動物に話しかけるように甘い。 「大丈夫、貴女の受難の道はここでおしまい。残りはちゃんと私が引き受けてあげるから。指先から髪の毛の一本まで綺麗に食べてあげる。ぶつ切りにして御鍋でとろとろに煮込んで、骨まで残さない。ずっと一緒にいてあげる。ひとりになんてしない」  愛しくてたまらないという手つきで、丁寧にオズは珠月の涙をぬぐう。けれど、生理的なものかそれとも感情の制御機能が壊れたのか、涙はとめどなくこぼれ落ち続ける。 「貴女だって私が羨ましいでしょ? 私になりたいでしょう? だったら、何も問題はないじゃない。私に頂戴。血も身体も居場所も全部。代わりに私も全部あげるから――――もう、苦しまなくていいのよ」 「苦しまなくて…………?」  ふと言葉の一つが心に引っかかった。オズは頷く。 「そう。もう楽になっていいのよ」  優しい手が髪を撫でる。自分でぼろぼろにしておいて優しくするなんて、狂っている。これから始まるであろう行為を考えれば、狂っているなんて言葉じゃ足りない。 「ずっと一緒にいてあげるから」  囁く声も髪を撫でる手も泣きだしてしまいそうになるくらい優しい。気を抜くとすべて任せて何もかも諦めたくなる。けれど、 「……それは、違う」  痛い。苦しい。悔しい。怖い。死にたくないと思う以上に、痛くて苦しい。きっとこうなる前からずっと自分は苦しかった。誰かに助けて欲しかった。けれど、これは違うはずだ。腕も足もすでに傷みで感覚が消えかかっている。頭は重たいし、口は血の味がする。動くたびに激痛が走るし、握りしめ過ぎた手からは血が滲んでいる。目の前にはまるで絶望そのものが形を取ったような『姉』が悠然と立っていて、それを見ると悲しくて悔しくて逃げ出したくなる。死にたくなる。ここで死ねば楽になれるかもしれない。けれど、 「そんなのは……違うよ。私はまだ……死にたくない」  何もしてない。なにも出来ていない。珠月は珠月が嫌いなままだ。まだなりたい自分の影すら踏めていないのに、なりたかった自分そのものの形をした他人に殺させるなんて――そんな自分を自分は許せない。 「違うんだよ……」  言いたいことは沢山あるのに何も出てこない。珠月は泣きながら『姉』を見つめた。 「何が違うの? 苦しいのはもう嫌でしょう?」  優しい声と壊れ物にするように触れる指。きっともとは優しい人だったのだろうと思う。父と同じように、他人には無関心なのに、付き合いのある相手には情が深く、無心に愛を注ぐ――――そういう深く優しい人だったのではないだろうか。実子などというものが生まれなければ、彼女は今も父である壬無月の、よき娘であり理解者だっただろう。  それを狂わせたのは、珠月だ。 「私は……」  元から狂気の素質や兆候はあったのかもしれない。しかし、引き金を引いたのは自分の存在だろう。珠月がいなければ、オズはこうはならなかったかもしれない。 「私の傷みも貴女の苦しみも、固有のものだ……貴女に負わせるものじゃない」  けれど、珠月だって望んでこうあろうとしたわけではない。生まれた時点ですでに珠月は壬無月の娘で、先天的才能にそれほど恵まれなかったのも珠月がそう望んだせいではない。それでも珠月だってできる努力はなんでもしたのだ。娘として誇れる存在であるように。その結果がこれだというならば、運命はなんて皮肉なものなのだろう。 「私たちは……違う人間だからこそ、向かい合って話すことができるのに……一つになって、どうすればいい……? 私は……私なんかを貴女の一部にしたくない」  手足が動かない。けれど、仮にこの手足が動いたとして何ができるだろう。逃げるのか、戦うのか、先延ばしにするのか、殺すのか、殺されるのか。それとも他に道はあるのだろうか。私はオズをどうしたいのか。 「私は私として貴女と向き合いたい。そうでないなら、私は貴方を認められないし、私を許せない。何度死んでも死にきれない」  何を望むのか。珠月は自問する。答えは出ない。 「対話なんて必要ない。言葉なんて遠い。遠すぎる」  灰色の瞳が近付く。吐息がかかりそうなほど近く、オズは珠月の顔を覗き込む。はっきりとした対話の拒絶に、珠月は泣きそうな顔をする。声は届いていない。 「私はもっと――――全部、ほしい」  唐突に乱暴にビルの外壁に身体を押さえつけられる。うめき声を上げた珠月の顔を白い指が掴み、右の瞳を無理やり開かせる。外気に眼球がさらされて生理的な涙がにじんだ。 「ああ――――綺麗な瞳。赤い色」  うっとりしたような口調でオズは呟いた。左手で珠月の瞼を押さえ、ゆっくりとナイフを握った自分の右手を持ちあげる。 「私も赤い目が良かった。髪も赤が良かった。お義父様みたいな。でも貴女の瞳はお義父様とは少し違うのね。赤色ではあるけれど、お義父様の色はもっと鮮やかだわ。最上級の宝石と同じ鳩血色。貴女はもっと沈んだ色。けれど、いい色」  右手に握られたナイフが視界に入る。珠月はパニックを起こしそうになるのをかろうじてこらえた。 「この瞳が欲しいな……うん、初めに――――その瞳を頂戴。綺麗な目。噛み砕くなんて勿体ない。きちんとそのままのみ込んであげるね」  瞳に銀色の切っ先が近付いてくる。眼球を傷つけないようにと慎重に目玉をえぐろうとしているせいで、刃が近付くスピードは非常にゆっくりだ。だが、確実にそれは近づいてくる。 「動かないで。傷がついてしまうわ」 「…………嫌……やめて」  頭が混乱する。目玉がえぐられてしまう。姉は優しく微笑んでいる。このまま黙っていれば、眼球がえぐられて、そして目の前で姉はそれを飲み込むのだろう。  ナイフが近付きすぎて、もう焦点が合わない。閉じることも許されない瞳からは涙が血のように流れ落ちる。 「――――――――――――――――――――――――姉さん」  涙まじりの呟きが空気を震わせた瞬間、今にも右の眼球をえぐり出そうとしていた刃の動きが止まった。 「………………どうして、そんな顔をするの?」  ことんとオズは小鳥のように首を傾げた。ナイフの動きは止まったが、それを下ろそうとはしない。 「だってもうこれしか方法がないじゃない…………貴女の望みは叶うのに。もう苦しまなくてもいいのに、なんでそんな顔するの?」 「『そんな顔』を」  恐怖か苛立ちか悔しさか悲しみか、それとも単なる乾燥なのか、とめどなく流れおちる涙のせいで視界がにじむ。 「『そんな顔』をしているのは貴女のほうじゃないか……」  愉悦に歪んでいるのに泣きそうな顔。  笑いをこらえている時の顔と悲しんでいる顔は良く似ていると言ったのは誰だっただろうか。どちらも心が器からあふれ出ているから似ているのだという。喜びも悲しみも身体に入りきらなくなった心の破片だ。だからこそ、見ているだけで嬉しくなったり苦しくなったりする。 「――――――――ごめんなさい」  こぼれたのは謝罪と拒絶。予想外のことでも言われたかのように目を瞬かせるオズに、珠月は重ねて口にする。 「ごめんなさい」  貴女の場所を奪ってごめんなさい。狂わせてごめんなさい。憎ませてごめんなさい。死んであげられなくてごめんなさい。これだけ贖罪を抱えても、貴女の望み通りにしてあげられなくてごめんなさい。何も出来なくてごめんなさい。そして――――こんなに申し訳なく思っているのに、それでも貴女を妬んで恨んで、貴女の存在に怯えていてごめんなさい。罪を抱えているのだとしても、まだあがきたい私をどうか許してください。  万感の思いを込めて、ただ珠月は呟く。無力な自分が憎く、醜い自分にますます自分が嫌いになる。 「ごめんなさい、姉さん……」  オズは返事をしない。まるで不思議なものでも見たような顔で珠月の顔を見つめている。ナイフはまだ動かない。 「――――仕方がないなぁ」  永遠とも思えるほどの時間が経過した頃、ぽつりとオズは呟いた。ゆっくりとナイフを握った腕が下ろされる。わずかに珠月は肩の力を抜いた。その瞬間、 「じゃあ、今日はこれだけで我慢しておく」  銀色の光が走った。首から胸にかけて袈裟がけに服が皮膚が肉が裂け、鮮血が吹き出す。ワンテンポ遅れて激痛が走った。 「あっ…………」  珠月が身につけている服は人工繊維でできている。危険地帯をうろつく職業柄、どれだけ華美なドレスであっても最低限の防御機能は保たれたもの――銃弾を防ぐことまではできずとも少しのことで切れたり燃えたり溶けたりしない衣服を纏うことにしている。なのに、まるでそんなものは存在しないかのように一撃で肉まで深くえぐられる。 「もらうね」  刃が赤く染まっている。しっとりと濡れたそれをオズは傾けた。赤い液体が刃を伝い、雫となってオズの口へと滴り落ちる。こくんと喉が動いて雫を嚥下する。雫が垂れなくなると赤い舌が刃についた血を丁寧になめとった。  目眩がするのは失血のせいだろうか。それとも―――― 「今日はここまで。今度は全部食べさせてね」 「…………姉さん」  添えられていた手が離れる。身体を押さえつけていた圧力が消えて、珠月はゆっくりと前のめりに倒れた。どうにかアスファルトに激突する寸前で手をつくが、手も足もしびれて言うことを聞いてくれない。 「待って…………」  顔を上げるとオズはこちらに背を向けたところだった。必死になって手を伸ばそうとするが、逆に身体を支えきれずに地面に倒れる。 「お願い……待って」  オズは振り向きもせずに遠ざかる。代わりにどこからか声が聞こえてくる。誰かを探す声だ。こんな裏路地で声を張り上げるなど、無用なトラブルを招くもとだというのに。 「待って……私は……貴女を」  かろうじてみえる後ろ姿に向かって手を伸ばす。自分が何をしようとしているのかも分からないまま、珠月の意識はそこで途絶えた。

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