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 父親のことを思う時思い出すのはいつも背中だ。  家でも会社でも仕事をしていて、母親は気付いたらいなかった。織子は父親の気を引きたいとおもうほど可愛げのある子どもでもなかったから、父がいないことやこちらを見ないことを不満には思わなかった。  けれど、今更思う。もっと不満に思って関わろうとしていたなら、今、こんな気持ちでいることはなかったのではないか。あるいはここまでトラブルを抱え込む前に、何かできたのではないか。  父が死んだと聞かされた時、ひどく困った。当たり前にあるものが消えたかと思えば、いきなり何もかもがなくなりそうになったからだ。織子にとってそれらは世界そのものだった。父もモノも金も身分も等しく世界の構成要素でしかなかった。そこから父が消えて他も消えそうになって、そして――――悲しくない自分に怯えた。父親のことは好きだったか、あるいは嫌いだったはずなのに。それがなくなかったことに関して何の感情も湧かない。まるで、初めからなかったみたいに。  怖かった。だから遺産は手放さないと決めた。  だってそれがなくなかったら、父なんて初めからいなかったのだと自分が錯覚しそうだったから。こんなこと、親切で助けてくれている人たちには言えない。  自分は形のあるものを通してしか他人と繋がれないのだ。だからこそ、人一倍空虚な理想を口にする。それを発想が善良だと彼は言ったが、本当は違う。  単に私は天国も地獄も知らないだけだ。 **  ある程度大きなホテルにはかならずといっていいほど貸会場がある。結婚式の披露宴などめでたい席に使われることが多いそれらは、だいたいが装飾過剰だ。その例にもれず、この部屋もきらきらした壁紙が使われていた。天井の唐草模様はおそらく手書きだ。そんな内装とピリピリした空気がそぐわなくて、どこか現実味がない。 「遅いですねぇ」 「ささやかな嫌がらせでしょう」  約束の時間をすでに10分ほど回っている。ニムロッドが交渉役を送ってきたのは、結局あれからさらに一日が経ってからだった。いろいろと小競り合いがあったらしいが、珠月がホテルに顔を出してジェイルに手を握られて悲鳴を上げて逃げていったというささやかな事件以外、昨日はいたって平穏だった。ジェイルと雫の噛み合わない会話も、気配をまったく悟らせないジェイルの移動にも慣れた。慣れてしまった。 「――このまま来なかったら」 「来ます」  自信たっぷりにジェイルは微笑んで見せた。 「来なかったらネット上に」「はいはい、いらしたみたいですよ」  ジェイルが怖いことを言い終わり前に、それにかぶせるように黒雫が口を開いた。同時に重厚な扉が開いて、スーツ姿の男が数人あいさつもなく入ってくる。その中に見知った顔を見つけて、織子は身を硬くした。 「…………常務さん」 「お久しぶりです、お嬢様。元気そうでなにより」  硬い声で父の部下だった男は返事をした。そして織子の左右に座るジェイルと雫に視線を向ける。一瞬だけ怒気がその瞳の奥をかすめた。 「ちょっと見ない間に大きくなりましたな。すっかりおとなの色香を身につけて。トランキライザーの生活はどうですかな? 色々と疲れも溜まるでしょう?」  言外に色仕掛けで味方を得たというあざけりが含まれている。織子は反論しようとして、しても相手を喜ばせるだけと考え直し黙った。代わりに雫が口を開く。 「心理学的に、人間というものは相手のことを考える時、『もし自分だったら』という仮定で相手の行動や心理状態を予測するらしいです。随分と下世話な考えをなさっているようで」  常務は顔を真っ赤にして黙った。見事にやりこめた雫は涼しい顔で明後日の方向を向く。 「――――そのような態度はそのうち身を滅ぼしますぞ」 「望むところです」  うっすらと雫は笑って見せた。不吉な笑みに、今度こそ常務は沈黙する。そして、沈黙してしまったことを恥じるかのようにやけに大きく舌打ちをした。だが、彼がペースを取り戻す前に、今度はジェイルが口を開く。 「すでに時計の針が六分の一進んでいます。時の乙女も大層ご立腹でしょう。ですから、単刀直入に申し上げます。こちらの要求は三つ。神立織子の身柄の安全確保、正当な遺産に該当する彼女の自宅の不動産および敷地内の物品、神立織子の父親である神立辰雄名義の銀行預金―――こちらは三つの銀行に分かれています――これらの引き渡し。そして、金庫の解錠への我々の立会です。会社名義不動産および、特許等権利書、会社名義の車はそちらへ返還いたします。これが最大の譲歩です」  すでに口調が交渉人のそれではない。まるで裁判官が判決を述べるように、どうどうとジェイルは要望を口にする。「ふざけるな」と怒鳴られるかと思ったが、意外にも返ってきたのは苦い笑みだった。 「それではこちらのメリットが何もない」 「会社に関係する一切の権利、人事権、株式等は放棄します。以後、神立織子があなたがたの会社に関わることはありません。自宅と預金程度ならたいした金額ではないでしょう? 手切れ金です」  淡々と雫が答える。口をはさむ隙を与えない。おそらくテーブルに着く前から水面下で大筋の手の打ちどころは決まっているのだろう。 「そちらの人的被害については把握していますが、失敗した傭兵など大した被害には入りませんでしょう? 社員に負傷者は出していませんし、貴方がたの仕業だということはもみ消しておきましたから、社名も無事で済むと思いますよ」  恩着せがましく雫は続ける。だが、常務も退かない。 「道義はこちらにある。そちらから横やりを入れてきて厚かましいものだな。それに本気でやるなら、そちらのほうが分が悪いぞ」 「ですねぇ」  ゆったりとジェイルが口を開いた。口元には笑みすら浮かんでいる。これは状況が望み通りに推移しているときの笑みだ。織子は嫌な予感を覚えた。 「蜂と虎の喧嘩では、蜂が勝つでしょう。量は強い。悲しいことです」 「だから、珠月に怪我をさせてしまった」  しんと部屋が静まり返った。常務は口を開けかけたまま動きを止める。雫は何を考えているのか分からない顔で空を見つめている。護衛らしきスーツ集団はもとより一言も発言せずに突っ立っている。 「――――そちらに怪我人が出たなどという報告は上がってきていない」  やっとそれだけを常務は言った。ジェイルは悲しそうに首を振る。 「僕には篭森珠月という花よりも可憐な友人がいるのですが、彼女の家にまで貴方の雇った粗暴なる傭兵は入り込んだようで――撃たれて怪我をしました。幸い命に別条はありませんが、少し僕の到着が遅れていたらどうなっていたか」  怪我してない。まったく怪我してないよ。  織子は心の中で絶叫した。勿論、口には出さない。顔には出さないように気をつける。 「……私は交渉役を送っただけだ」 「交渉役の人選を間違えましたね。勿論、彼女は優しいから文句を言ったりはしませんし、泣きごとも言いませんが――女性に怪我をさせてしまうなんて」  憂いを帯びた顔でジェイルは頭を傾げた。常務は真っ青になる。  いったいあのどこに痛々しい要素があるのだろう。平然と椅子にふんぞり返った珠月の姿を思い出して、織子は複雑な気持ちになった。いつの間にやら、珠月は怪我をした設定になったらしい。その意味くらい織子にも分かる。ニムロッドは軍事会社と元とする企業だ。よその都市で同業他社の社長に怪我をさせたというのは外聞が悪い。しかも篭森珠月だ。早々でてくることはないと分かっていても、背後にあるものが怖い。  にこりとジェイルは微笑んだ。言外に、交渉を受け入れるなら自分が仲裁してやってもいいと物語っている。仕組んでおいて恩を着せようとするとは本当に良い度胸だ。 「そんなことを繰り返さないためにも、互いに納得ができる妥協点を見つけるのは大事ですよね」  にこりとジェイルは笑う。悪魔の笑みに見えた。常務の顔は赤くなったり、青くなったりする。 「勿論、暴れた場所の修理や怪我をした方への賠償くらいはこちらが行います。神立織子に関しては戸籍を抹消してくださってかまいません。すでに別の都市で新たな戸籍の用意ができていますから、今後彼女が万が一あなたがたの前に姿を現しても同姓同名の別人ということになります。ただの一般市民があなたがたの地位や生活を脅かすことはないでしょう」  さらに雫が駄目押しをする。防戦一方となった常務は必至に言葉を探すが、そんな隙を与えるほど二人は優しくない。 「戦闘の被害と金銭的被害、どちらが大きいかは考える間でもないです」 「そのまま条件を飲むことはできない」  苦い顔のまま、常務は返事をした。それを聞いて、雫は無言で封筒を差し出す。首をかしげて常務はそれを見下ろした。 「何だ、それは?」 「大事なものです。どうぞ、常務さんだけに」  茶色の業務用封筒だ。いぶかしげにそれを受け取った常務は慎重に封を破って、中身を出した。紙――写真のコピーか何かのようだ。それを見て、常務の表情が凍りつく。次の瞬間、常務は恐るべきスピードでその紙を封筒に押し戻した。 「present for you」 「ふふふふふざけているのか!?」  ろれつが回っていない。顔を真っ赤にして常務は怒鳴った。雫は面倒くさそうに常務を見やる。 「常務さんだけに見えるように渡す当たり、悪意は感じないでしょう?」 「感じるに決まっているだろう!!」  常務は激しく机を叩いた。気を利かせたホテルが置いていった水差しとコップがかたかたと音を立てる。 「ジョーカーは10枚はあるものです。手品では」 「傷がつくからあまり机揺らさないでください。知り合いのホテルなんで」  怒り心頭の常務など目にはいらない様子で、二人はずれた返答を返す。常務は再び赤くなったが、ペースに巻き込まれていることを自覚したのか半ば無理やり落ち着く。 「…………そちらの言い分と能力は十分に分かった。外道ということも含めてな」 「照れます」  ジェイルの、おそらくは本気の返事を常務は聞かなかったことにした。代わりに、やっと織子に向き直る。煮えたぎるような瞳と目が合って、織子は肩を震わせた。 「先ほどから一言も発言なされていませんが、あなたはどうなのですかな? 織子様」 「私は……」  目をそらしそうになるのをぐっとこらえて、織子は常務を見つめる。 「私は――貴方がたに関わるのは止めようと思います。社長を継ぐ器でもありませんし、会社のことには口を出しません。だから、貴方達も私と父のことはもう放っておいてください。私はあの都市を出ます。本当は思い出の場所を出たくはありませんが、私がいるとためにならないことは理解しました。けれど、家族のものは渡せません。父のモノは私がもっていきます。会社のものはどうぞ持っていってください」 「いや、だからその線引きをどこでするかでもめてるんだけどね」  ぼそりと雫が言った。織子は真っ赤になってうつむく。 「私は……思い出の品と暮らしていくお金があれば十分です。けれど、それまでは渡せません。父との――絆だと思っていますから」「綺麗事だ」  はっきりと常務は言い捨てた。その声には嫌悪感すら滲んでいる。 「――――吐き気がする。くそガキどもめ」 「良いじゃないですか、綺麗事。みんなが心の底では大好きな王道ですよ。そんなにかっかとしないでください」  淡々と雫は常務をいさめた。いさめるふりをしているが、その実、火に油を注ぐことにしかならない。 「はっ、せいぜいどこかで不幸な事故に巻き込まれないようにな」  あきらかな害意をこめて、常務は言い捨てた。普通なら怯えるか怒りだすその一言に、ジェイルと雫は面倒くさそうな視線で答える。 「ご心配なく。不幸な事故が起きても僕らは平気です。そちらこそ、事故に巻き込まれないように」 「ははは、自社の都市でそのようなことが起きるとでも?」 「人生、どこで何が起こるか分かりませんから」  笑顔の下で舌戦が続く。 「ところで、想定外の財産が出てきた場合は改めて話し合うということでよろしいですか?」 「会社のものはこちらのものなのだろう?」 「美術品などが金庫内に保管されている可能性も皆無ではありませんから、決めておきましょう。とりあえず、日記など私物が金庫から出てきた場合は織子さんの取り分として、問題は他社の株式や個人のものか判別が難しい不動産、動産が出てきた場合」  織子がぼんやりしている間も、さっさと話し合いが進んでいく。概ね織子側の主張が通っているようにみえるが、それは初めから譲歩した案を出しているからだ。十五分ほどでほぼ話し合いは終わり、金銭価値の高い財産と権利関係はすべて手放すことと引き換えにほぼ全面的に雫とジェイルの主張が通る形で決着がついた。互いに被害が出ている以上、これまでの小競り合いは痛みわけということで相殺されることになった。実際はこちらの被害らしい被害といえば、壊した塀やビルの賠償くらいなのだが。  明日にでも迎えをよこすから金庫をあけるようにと言い残して常務と護衛は部屋を出ていった。その姿が完全になくなったところで、織子は口を開く。 「…………篭森さんって、怪我したの?」  思いきり不審げな声に、雫は無表情で答える。 「医者の診断書ならいくらでも出る」  何の返答にもなっていない上に、あきらかにねつ造だった。織子はますますうろんな視線を向けるが、雫は面倒くさくなったのか沈黙した。代わりにジェイルが答える。 「月姫のためならば、証明書の一枚二枚書いてくださるお医者様はいくらでもいます。なんなら、死亡診断書だって書いてくださるでしょう」  世間ではそれを権力乱用とか文書偽造とか詐欺とかいう。 「……仲悪いくせに、よく協力してくれたね」 「仲が悪いなんて……月姫は、深窓の令嬢より慎み深くシャイなだけです。本当は大親友です」 「それは先輩の勘違いです」  ざくりと雫が突っ込みを入れるが、ジェイルはスルーした。 「…………愛よね」  それ以外なにが言えよう。しかし、言ったのは間違いだった。ジェイルは深く頷く。 「ええ。月の姫は素晴らしい、愛さずにはいられない御方です。例えるなら、硝子細工。鋭く、美しく、硬く、脆く、繊細。人の手で作り出す輝きであり、宝石を目指してけして宝石にはなりきれない偽物。軽いのに重い、矛盾の権化。見方によってたたえる光を変えるもの。僕にはまぶしい石です」 「褒めてない」  思わず織子は突っ込みを入れた。賛美の言葉に見せかけているが、少しも褒めていない。むしろ貶している。だが、ジェイルは不思議そうな視線を返した。 「月の姫をほめたたえ、愛でているつもりですが」 「…………」  織子は心の底から珠月に同情した。こんな愛の言葉はいらない。

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