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「事情は分かった。見苦しいものをお見せしたね」  話を聞き終わると、珠月は軽く首を振ってため息をついた。間近で見る【イノセントカルバニア】は、意外にも普通の少女だった。服装こそ変わっているが、平均身長をやや下回るくらいの背丈で太ってはいないが痩せてもいない。平凡とは言わないが、ジェイルや街中で時折見かけた超絶的な美形と比べると、怖いほど美しい訳でもない。しいて言うならば、纏う空気が独特だ。迫力があると言ってもいい。それが遠目に見た時、彼女を特別に見せているのだろう。 「…………いえ。カルバニアってもっと怖い人を想像していたので……ちょっとびっくりしましたけど」 「そう。お茶は口にあう?」 「美味しいです」  整えられた部屋で丁寧にもてなされて、織子は戸惑った。最初の印象から、てっきりどこかの部屋に閉じ込められるかなにかされると思っていたが、予想に反して珠月は茶会の席を整えると自らお茶を振る舞ってくれた。 「一見して怖いと分かるものは案外怖くないものだよ。この学園には、いわゆる『殺人鬼』とか『ハンニバル』と呼ばれる類の人間が複数名いるけど、総じて彼らは理知的で美形も多い。逆に奇怪な外見をしていても良い人もいる」 「……あなたもですか?」 「本人に聞くとは良い度胸だ」  珠月は笑って見せた。人を食ったような笑みだ。少なくとも怒鳴り散らしたり泣き叫んだりするような人間には見えない。かといって、二重人格とかいうわけでもなさそうだ。 「…………不思議な人」 「嬉しい評価だね。ありがとう。もっとお茶をどうぞ。 アレルギーがあるなら言ってね」  織子の前に新たに温かい紅茶が置かれる。初めて嗅ぐ香りだ。 「オレンジとレモンの果汁が入っている。風邪防止にもなる爽やかなお茶だよ」  織子の心を見抜いたように珠月が言った。彼女はほとんどこちらを見ようとはしない。代わりに、玄関にいた青年――ミヒャエル・バッハと名乗った。英語も日本語も喋れた――が紅茶を注ぎ、お菓子を勧める。 「あの、ピーターさんは……?」  一緒に屋敷内に入ったはずの人の姿がないことに気づいて、織子は尋ねた。何でもないことのように珠月は答える。 「ちょっと庭掃除を手伝ってもらってる」 「えーと……私もやりましょうか?」  同じ客のはずなのに、自分だけがのんびりしているのは割に割に合わない。  だが、珠月は首を横に振った。 「いい」 「でも……」 「貴女じゃ無理。それに、アレはこき使われるのが好きだから、いいの」  どこか気だるそうな目が織子を見る。責められている気がして、織子は身を小さくした。しかし、別にそういう意図はなかったらしく珠月はすぐにまた明後日の方向を向いてしまう。どこか心ここにあらずだ。 「………………あの、聞いてもいいですか?」 「言いたいことがあるならどうぞ」  あきらかに興味がなさそうな態度を崩そうともしないで、珠月は答えた。ここまで偉そうな態度が似合う人間というのも珍しい。それとも有名人の子息とかエリートというものはこういう態度がデフォルトなのだろうか。ジェイルは問題外としても、雫はそういう感じではなかったが。 「篭森さんは、ジェイルさんの幼なじみさんなんですよね?」 「古いストーカーだ」  そんな表現、産まれて初めて聞いた。  コメントに困って織子は目を瞬かせる。 「古い……ストーカー…………えーと、腐れ縁ってやつですか?」  持ち得る語彙の中でもっともソフトな表現に置き換えてみる。だが、珠月は嫌そうに首を横に振った。 「腐れ縁というのは嫌でもついてくるもの。アレとは違う。アレとの付き合いはかれこれ十年以上になるね。奴が私の行く先々で待ち伏せしていて、思い出したように贈り物をしてきたり、愛の詩を囁いてくるようになってから。どこへ逃げてもどれだけ情報を封鎖してもあいつはどっからともなく現れて!!」  銀のフォークがチョコレートケーキに突き刺さった。食器が悲鳴を上げて、それが引き金になったように珠月の口調も元の淡々としたものに戻る。織子の背筋を冷たいものが流れた。地雷を踏みかけたことにおそばせながら気付く。だが、言った言葉は戻らない。 「あ……あはは、愛されてますね。羨ましい……」 「分かってないな。初心なお嬢ちゃん」  銀ナイフをくるりと回して珠月は言った。その切っ先が一瞬で織子の眼球に迫り、直前で止まる。そして織子が驚いて身を引くより先に珠月の皿の上に戻る。一瞬のこと過ぎて恐怖すら感じなかった。茫然と織子は珠月を見上げる。 「『愛』っていうのは呪いなんだよ。良い呪いにも悪い呪いにもなるけどね」 「……そうでしょうか?」  織子は首を傾げた。歪んでいるとは言わないが、偏った考えだ。汝の敵を愛すことこそ世界平和だと人類は何千年も前から言っているというのに。 「呪いだよ。『愛している』から大事にしないといけない。離れていても繋がっている。ずっと一緒にいたい。その人のためになんでもしたい。その人のことを知りたい。その人みたいになりたい。その人に好いてほしい。その人に釣り合う人間になりたい――――愛は人の生き様を縛る。それが良い方向に働くうちはいいよ。あの人のために頑張らないと、なんて健気でしょ?」  ちっともそうは思っていない様子で珠月は言った。 「でも、それって『負の方向へ進む』っていう可能性の否定だよね? 愛する人のためにその人は『努力しない』とか『悪いことをする』っていう生き方を制限されてしまったんだ。それが呪詛でなくてなんだって言うんだろう。そして一度悪い方向に働けば、その人のために文字通り何でもしてしまうかもしれない。一緒にいたいから周囲の人を遠ざける。知りたいからその人のことを調べつくす。どこかに行ってほしくないから殺してしまう。愛さなければ、その人の人生にそんな選択肢なんて発生しなかったはずなんのに。何て不幸。なんて悲劇」  そう言いながらも珠月は薄く笑っている。どこかの誰かを嘲笑っているようにも見えるし、自分自分を嘲笑しているようにも見えた。 「あなたは人間を信用していないんですね」  ゆっくりと珠月の言葉の意味を噛み砕いて、織子は結論を出した。 「私はそうは思いません。愛情っていうのは水や空気みたいにかけがえがないものです。あなただってご両親に愛されて育っているんじゃないんですか?」 「愛がなくても人間は育つよ。十分な食料があり、世話する人間いて、衛生環境が整っていればね」 「身も蓋もないですね」  この人は誰かに愛されたことがないんだろうか。そう考えると気の毒になった。しかし、織子の考えはすぐに覆される。 「別に愛を否定するわけじゃないよ。私は私の好きな人たちを信じているよ。信じているから裏切られて殺されても文句はない。私に恋人はいないけれど、恋人以上に両親を愛しているしね。あの人たちに相応しい自分でありたいと思う感情も、あの人たちの娘であるということに人生を縛られていることも重たいけれど不快じゃない。一生その『愛』に縛られ呪われたいとすら思う。それでも『愛』は呪いだ。優しい呪いにも怖い呪いにもなる、人間だけが使えるこの世で最高で最悪のおまじない」 「確かにジェイルさんの愛は重そうですけど」 「…………………………あれは正真正銘の呪だ。たまに心が折れそうになる」  珠月はがっくりと項垂れた。心なしか震えている。  あの二人の間に過去なにがあったのだろう。織子は本気で気になったが、多分それを知ったら命がないと思うので聞くのはやめておく。 「……そこまでですか」 「私と同じ目に会えば、きっと気持ちが分かるよ」  珠月は嫌そうな顔で言い切った。 「そもそも、あいつの意図が十年経ってもさっぱり分からん。本当に何したいんだか。あなたも気をつけ………………いや待てよ」  何かを思いついたように、珠月は椅子の上で身を起こした。織子は嫌な予感がしたが身を引く暇もなく、珠月が迫ってくる。織子は反射的に身を引いたが、椅子の背もたれに阻まれる。 「な……何ですか?」 「……うん、ねえ貴女、ジェイルのこと好き?」  とんでもないことを言いだした。織子は頭がまっしろになる。 「はあ……?」 「好きになれそう? 三日も一緒にいて嫌じゃなかったなら、許容範囲ってことだよね? うん、ジェイルと結婚しない? そして幸せな家庭を私の関係ないどこか遠いところで作って。金銭面なら全力でサポートするから。幸せになるのよ。離婚なんかしたら許さない」 「え? いや……だから……でも……それにジェイルさんは」  焦って意味のない動きをしながら、織子は言った。 「歪んでますけど、珠月さんを愛してるんだと思います」 「何を吹き込まれた?」  珠月は心底嫌そうな顔をした。織子はあいまいに笑う。 「だってほぼ毎日、『月の姫に会いたい』って言ってましたから」 「申し訳ありません。あのくそ馬鹿は」  答えたのは珠月ではなく、お茶のお代わりを注いでいたミヒャエルだった。いきなり会話に加わってきた彼に、織子は目を瞬かせる。 「なんであなたが謝るんですか?」 「ミヒャエルは、ジェイルのお友達なのよ。もっともすでに友情は破たん気味だけど」  珠月が答えた。ミヒャエルは嫌そうに頷く。 「なぜあれと仲良くなれると思ってしまったのか……過去の自分を激しく問いただしたい気分です」  ため息をついて、ミヒャエルは汚れた皿を回収し、新しい取り皿を補充する。 「出会った時はすでに『月の姫』とかほざいておりましたが」 「悪かったね。姫がこんなので」  珠月は大げさに肩をすくめて見せた。ミヒャエルはそちらには視線をやらずに首を振る。 「別に。私はもろもろの原因からあなたを女性――というか人間とは思いたくありませんが、貴女がすごいということは十分に理解していますので、貴女を主人扱いすることに不満はありません」 「その言い様がすでに不満に聞こえるのだけど。そして安心していいよ。私も貴方を同居人兼召使以上にも以下にも思ってないから」 「まあ、思っていたらほぼ全裸で目の前をふらふらしたり、ネグリジェ姿で刺客と撃ちあいをしてしかも死体放置して寝たりしませんよね」 「バスローブの一件、まだ根に持ってるのか。しつこい男は嫌われるよ」  かわされる言葉に、織子はあっけに取られる。こちらも不思議な関係性だ。同じ家に住んでいるはずなのに、厳格な主従関係も男女関係の気配もまったく感じられない。 「貴女のせいで女性に絶望しそうです」 「一人の女だけで女のすべてを決めつけるのはよくないよ。それにまあ、貴方が薔薇の道を進んだとしても、心から応援するよ」 「余計な心配しないでください」  ぶつくさ呟いて、ミヒャエルは皿と一緒に廊下に消えた。しばらくするとお盆だけを持って戻ってくる。見事な給仕ぶりだ。 「じゃあ、私仕事するからくつろいでね。疲れたなら部屋を用意させるから」  ミヒャエルが戻ってきたのを合図に、珠月はそう言い切るとティテーブルのすみにモバイルPCを置いて作業を始めた。何か文章をうっているらしいが、織子の位置からは画面は見えない。指の動きを見ようにも早すぎて追いつかない。少し眺めて、織子はのぞき見るのを断念した。代わりに自分も携帯電話を取り出してインターネットを始める。  沈黙が訪れる。  屋敷の中はほとんど無音だ。風の音すら、壁に阻まれてほとんど聞こえない。 「――――――ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」  結構な時間が経ったと感じた時、不意に珠月が口を開いた。ゆっくりと赤い瞳が織子のほうを向く。織子はすぐに携帯電話から目を離して、珠月に向き直った。 「何でしょう?」 「遺産争いで追われてるんだよね?」 「…………はい」 「それにしては過激なんだけど」  気だるそうに珠月は織子を見た。口調とは裏腹に、椅子に寄りかかった態度は無警戒に見える。 「さっきから、この屋敷に入り込もうとしてる人がいるのよ」  ぎょっとして織子は周囲を見渡した。無音の屋敷にそんな気配はない。ミヒャエルも何かを探すように頭を巡らすが、視線にうつるのは静かな室内と窓の向こうの庭だけだ。 「……どうして分かるんですか?」 「私の家だもん」  意味の分からない返事が帰ってきた。説明する気がまったく感じられない。 「鬱陶しかったから適当に撃ち落とすか、自動迎撃システムに任せていたんだけど――――ちょっとは強いのが来ちゃってね。今、門の前にいるのよ」  涼やかな鈴の音が鳴り響いた。玄関の呼び鈴を鳴らした音だ。珠月はゆっくりと空になったカップをソーサーに戻す。 「真正面から来るか。訪問者を無碍追い返すわけにもいかないね」  たいして困ってもいない態度で、珠月は呟いた。そして、ミヒャエルを見上げる。 「ミヒャエル。部屋に戻って内側からカギをかけなさい。カメラで屋敷内は確認できるでしょ? お客様が退場なさったら戻ってきなさい」「はい」  ポットを置くと、一礼してミヒャエルは退出した。珠月は小さく息を吐く。 「ただの小娘にこれだけの金と人間はかけてこない。貴女、どんだけ財産を持ち逃げしたの?」 「…………分からないの。私も金庫の中身まだ見てないから」 「まあ、私には関係ないことか。後数時間もすればいなくなる人間の素性なんて、どうでもいい」  珠月は肩をすくめた。そして片手を上げると、物陰から白い白骨模型が起きあがる。 「アーサー、客人を案内して頂戴」  危なげない足取りで骨は立ちあがると、廊下へと消えた。不安げな織子と目が合うと、珠月は笑う。 「ドアを壊されると困るでしょ?」 「中で暴れられるほうが困るんじゃないですか?」 「暴れさせなければいい」  珠月は微笑んで見せた。その笑みに嫌なものを感じて、織子は椅子の上で身を縮める。 「お客さんの話も聞きたいしね。私は貴方だけの意見を聞くなんて不公平だと思っているし」  かすかな音がした。開け放たれた扉の向こう、廊下を誰かが歩いてくる。足音はしないが、話声が耳に届く。 「おいでなさったよ」  ゆっくりと白い骨が部屋に入ってくる。その骨に何も起こらないのを確認して、さらに二人の人影が入ってきた。一人はまっすぐに正面を見つめ、もう一人は警戒した様子で周囲を見渡している。 「ようこそ。予定外のお客様」  珠月は椅子の上で足を組んだまま、客を迎えた。織子のほうは逃げることもできず、とにかく椅子の上で小さくなる。それを交互に見て、片方が口を開いた。どちらも着崩したスーツの東洋人だが、片方は長髪でもう片方はスキンヘッドだ。 「お目にかかれて光栄です。篭森珠月様」  長髪の男が慇懃に頭を下げた。珠月はふんぞり返ってそれを見やる。口には出さないが、『忙しいところ客を迎えてやったんだから、感謝しろ』とその態度が物語っている。来客に対し立って出迎えることも椅子をすすめることもしないのは、相手をもてなす気がない証拠だ。 「知っていて乗り込んでくるとは良い度胸だ。あ、名乗らなくていいよ。雇い主は分かってるし、いちいち刺客の名前なんて覚えたくないから」  続いて名乗ろうとした男に珠月は釘をさす。長髪の男は肩をすくめて見せた。 「では名乗るのはやめておきましょう。あなたのように世界エイリアスを持つわけでもないことですし。代わりに本題に入ります。彼女を引き渡してはくださいませんか?」 「交渉相手を間違えてるんじゃないかな」  白骨が珠月の座った椅子を動かす。珠月は椅子に座ったまま、向きだけを男たちのほうへ向けた。相変わらず立ち上がる気配はない。それどころか、ゆったりと足を組んで肘掛椅子に座りなおす。 「これは預かりもの。私の意志で引き渡しを決められるものじゃないよ」  珠月は手で織子を指示した。二人の射抜くような視線が織子に向く。織子は助けを求めるように珠月を見たが、無視された。 「存じております。持ちこんだのは、黒雫とジェイル・クロムウェルですね。お気の毒に。あなたはクロムウェルが随分と嫌いなようなのに。嫌いな相手の荷物を預かるのは嫌でしょう?」 「嫌だね」  きっぱりと珠月は答えた。隠そうともしない態度に、一瞬だけ話を振った長髪のほうがあっけにとられる。だが、彼はすぐに気を取り直すと話を続けた。 「そうでしょう。なら、さっさと厄介払いしてもいいのではありませんか? 勿論、それ相応のお礼はいたします」 「魅力的な交渉だね。力より交渉を重んじるのは、よい企業の特徴だ。けれど、商人なら分かるんじゃないかな。約束を違えることはできない。たとえ、相手が嫌いな奴でもね。私は約束事を守る方なんだ。預かると言ってしまったからには、たとえ鉄の雨が降っても、彼女本人がどこかに行きたがっても、どこにも渡しはしないよ」 「取りつく島もありませんね」  やれやれと長髪の男は髪をかきあげた。その一瞬、  銃声が響いた。  弾丸は珠月でも織子でもなく、珠月の頭の髪飾りを撃ち抜いた。珠月は眉ひとつ動かさない。 「――――お気に入りなのに。髪飾りと流れ弾が当たった壁は弁償だよ」  手を伸ばして、珠月は残った髪飾りの残骸を外した。髪飾りは砕けているが、本人に怪我はない。 「微動だにしないとは流石ですね。最低でも驚くか回避行動くらいはとられると思ったんですが」  長髪の男は笑った。銃を撃ったスキンヘッドの男のほうはまったく動かない。 「これくらいで動揺すると思われてるなら、悲しいね。当たらないと分かっている攻撃を避ける趣味はない。それにこれくらいの芸当、私の妹分なら1キロ先からでも出来るよ」 「それは素敵だ」 「さて、ここで問題です。その銃口は今どこを狙っているでしょう?」  空気が凍った。男たちの視線が窓に向く。窓の向こうには緑あふれる庭が広がっている。『庭掃除』をしているらしいピーターの姿は見えない。それ以外にも誰の姿もない。 「――――はったりでしょう?」 「どうだろうね」  意味深に珠月は笑って見せた。 「ここは私の家だよ。私が住みやすく、戦いやすくできているに決まってるじゃないか。勘違いするな。立場は私が上だ」 「道理はこちらにあります」  あくまでも強気な姿勢を崩さずに、長髪は答えた。 「その少女の父親は、会社の権利の一部を私的にも使っていました。ですから、彼女にはそれを返還する義務があります。本来は父親の義務ですが、死人にそれはできません。職を退くことになったのですから、使っていたものは返却するのが義務でしょう?」 「と言ってるけど?」  珠月は織子を見た。びくりと織子は震える。その拍子に机のすみに置かれていたカップが落下した。音と立てて磁器が飛び散り、紅茶が絨毯を濡らす。珠月はかすかに眉間にしわを寄せたが、何も言わなかった。ゴミを片づけようともしない。奇妙な緊張感だけが満ちた。 「…………私は社長の椅子はいりません」  たっぷり数十秒後、絞り出すような声で織子は答えた。間入れず、返事が返ってくる。 「当然ですね。あなたのような小娘、だれも認めません」 「でも、父の財産は父のものよ。ゼロから会社を立ち上げて、がむしゃらに頑張った父のものよ。あなたたちにはあげない。あげない。会社の本体と役職と仕事と権利だけ持っていけばいい。父の家と持ち物は娘である私のものだわ」  織子は答えた。長髪は笑う。 「それは本当に自分の金で買ったものなんでしょうかね」 「会社の稼ぎの元を作ったのは父よ。それくらい、いいじゃない。父は本当に頑張っていたのよ。そりゃあ、ワンマンなところもあったし、家なんてほとんど帰ってこなかったけど……」  織子は俯いた。しかし、すぐに顔を上げる。 「あれは――父が頑張った証なの。だから、貴方達にはあげない。会社は貴方達の生きる糧だもの。私なんかに潰させたくないのは分かるし、貴方達にコントロール権はうつってると思うわ。でも――――稼いだ結果は父のものよ」 「子どもの理論だ。話になりませんね。要するに、愛する父上の名にかこつけて財産を確保したいんでしょう?」  人のよさそうな顔で長髪の男は笑った。だが、目はまったく笑っていない。 「神立織子様。迎えが来ています。戻りましょう。そして、金庫を開けてください。その後ならば、大手を振って出ていけるように取り計らいます。そうでないと、お友達にも迷惑がかかってしまいますよ?」 「いやよ」  織子は首を横に振った。意外そうに珠月は織子を見やる。 「保釈金だと思って手放したら?」  彼女が他人の交渉事に口をはさむのは珍しいことなのだが、織子はそれを知らない。 「身内への愛着の気持ちは分かるけどね。でも、他人の命っていうのはお金より軽いんだよ。そんな理由で死ぬの嫌でしょ?」 「嫌……だけど、私は……」  織子は首を横に振った。 「お金じゃない……あれは父の努力よ。あげない。絶対あげない」 「なら、死んでくださってもいいんですよ」  笑みを崩さないまま、長髪の男は言った。 「初めからそちらを選ばないだけ、とても人道的でしょう?」 「…………よく言うわ。鍵をこじ開ける技術がなかっただけでしょ?私は行かない。死にもしないし、金庫も開けない」 「よほど好きなのね、お父上のこと」  呆れたように珠月は言って見せた。しかし、言葉ほど馬鹿にしているわけではないのは顔を見れば分かる。織子は頷いた。 「好きよ。でも、大嫌いだった。家には帰ってこないし、ろくに話もしないし、必要なこと以外私に何もしてくれないし、死んでからすら迷惑かける。嫌いよ。だけど」  織子は言葉を切った。 「だからこそ、最後の機会だもの。どういうつもりにしろ、私を鍵にして金庫に大事なものを押し込んだのは父の意志よ。そして金庫の中身は私のものだと父は遺言に残してるわ。だから、あげないの。だってこれを逃したら、私は父のことをどう思い出せばいいのか分からなくなってしまう。愛しているはずなのに」 「愛しているも憎んでいるも同じでしょう? 馬鹿なことにこだわるのは子どもの証拠ですよ?」  織子は俯いた。部屋に重たい空気が落ちてくる。その時、 「髪が……」  つい先ほどまで髪飾りがついていた髪を手でつまんで、珠月は呟いた。声につられて全員の視線が彼女に向く。 「下手くそ。よく見たら、一本だけ髪にも当たってたよ。さっきの銃弾。駄目だよ。女の髪に傷をつけるなんて。私はそれほど気にしないけど、気にする人もいるんだから」 「それは失礼」  長髪の男は肩をすくめた。謝っているようには見えない。珠月は笑う。残虐な顔で。 「分かってないなぁ。撃つなら完璧に私を仕留めるか、あるいは私にかすりすらしないかどちらかじゃないと。そうでないと、許してくれない人がいる」  血色の瞳がゆっくりと瞬いて、二人の男を見つめる。 「死にたいの?」 「何を言って……」 「いいよ。こいつら、私も嫌い。いなくなっても気にしない」 「はい」  返事があった。織子は驚いて部屋を見渡す。長髪とスキンヘッドの二人も周囲に視線を巡らせる。しかし、 「遅すぎる」  唐突に、不審そうな表情を浮かべた長髪の頭が爆ぜた。驚いたスキンヘッドが銃を構えるよりもはやく、彼も頭を撃ち抜かれて倒れる。  織子は悲鳴を上げて椅子から立ち上がった。しかし、赤に射すくめられてすぐにその場に座り込む。  珠月は前を見た。銃を撃ったのは配置してある狙撃手――などではない。初めからそんなものはいない。代わりに部屋の入り口に男が立っている。 「予定より早いね、ジェイル。来るなら連絡を入れろ。そしてセキュリティを突破してくるな、馬鹿が」 「申し訳ありません。貴女に会いたいと急くあまり、心は風のように空をかけ、気付くと無断で上がり込んでいました」 「不法侵入者め――――それ以上近づいたら、殺す」  やや遅れて織子もその存在を認識した。数回瞬きをして、小首をかしげる。 「な……あれ? なんでジェイルさんが? ずっといたような、いなかったような……」  落ち着いて記憶をたどる。存在をうまく感知できないのは、ジェイルの能力によるものだ。だが、意図的に能力を使っているとき以外は意識的に記憶をたどれば彼がいつからいて何をしていたかはきちんと思い出せる。少なくともミヒャエルがいる間は、彼はいなかったはずだ。 「時間にして約23秒前に出現しているよ。こいつはそういう奴なんだ。どこにでもいるようで、どこにもいない。そこにいるのに気付かない。こいつがいるという不自然さを誰も感知しない。いてもいなくても分からない。だから誰も目撃できない」 「貴女が見てくれるではありませんか。それだけで僕は、舞台に立つ俳優よりも誇らしい気分になれます」 「ならんでいい。ウザい。黙れ。死ね」  珠月は一言で切り捨てた。そして、赤黒くそまった絨毯を見て、目を細める。 「ジェイル、部屋が汚れた。弁償しろ」 「はい。斑雲に覆われた満月のように陰った貴女の心が、再び曇りなき銀の輝きに包まれてくださるなら、私はいくらでも富を差し出しましょう」 「何も聞こえない!」  珠月は自分の耳を塞いで頭を振った。今回は速攻で鬱モードに入る。 「もう嫌。何も見なかった。聞かなかった。その子、さっさと連れて行って。私もう関係ない。色々気になるけど、いい。お前に関わるくらいなら蚊帳の外がいい!」 「姫、見ざる聞かざる言わざるは人間を守る盾ともなりますが、堕落させる毒にもなる言葉ですよ」 「毒はお前だ。死ね」 「そんな――――私のことを毒のようだと褒めてくださるなんて」 「一ミクロンも褒めていない。死ね。本当に死ね!」 「あの……お、お二人ともその辺で……その……それより人が……人が死んで……」  織子はおろおろと二人を見る。今は止められる黒雫もフォローにはいるミヒャエルもない。  その時、軽い足音がした。ミヒャエルが戻ってきてくれたのかと織子は期待する。が、 「珠月様、庭の方の掃除終わりました。少々庭が赤くなってしまいましたので、清掃用の専門業者を入れたいのですが、よろしう御座いますか? っと、もうお帰りで御座いましたかジェイル様。まだ三時間くらいしかたっておりませんのに?」  灰色のスーツの一部に染みを作ったピーターが戻ってきた。幼い印象を受ける顔にも赤い雫が跳んでいる。近付くにつれて、鉄錆と火薬の臭いが強くなる。庭で何を掃除していたのかは、考えるまでもない。  織子は悲鳴を上げた。 「に、庭でも…………」 「人死が珍しい? 確かに慣れないとビビるよね。ピーター、こっちの死体も庭先のやつのところに運んで置いてくれない?」  ゴミの日にゴミを出すのを頼むのと同じくらいの軽い口調で、珠月はピーターにお願いをした。ピーターもあっさりと頷く。 「かしこまりました。珠月様。業者はいかが致しましょうか?」 「出入りの業者に連絡を。臭いがつくと困る。すぐに来てもらって」 「承知いたしました。ですが、その前に」  意味ありげにピーターは笑った。珠月はため息をつく。そして――――ピーターにかかと落としを喰らわせた。ぐらりと身体が傾いて、彼は床に崩れ落ちる。 「空気を読め。死体があるのに遊んでられるか。後日だ、後日」 「か、篭森……さん……」  ピーターは動かない。織子は青ざめる。が、 「あん……あ、厚底のかかと落とし――――気持ちいい」  聞こえてはいけない台詞が聞こえた。織子は止めようと手を伸ばした姿勢のまま停止する。珠月は無言で足を下ろした。ピーターの上に。 「黙れ、この変態」 「う、あ……もっと……もっと激しく罵ってください! お願いします」 「汚らわしい!」  珠月はピーターを激しく踏みつけた。その度にピーターの身体は床の上で陸揚げされた魚のように跳ねる。織子の意識は一瞬だけまっしろになった。だが、すぐに回復する。とび蹴りで成人男性を吹き飛ばせる珠月が人間を足蹴にしている。それは危険な行為に思えた。 「あの……あの人たち止めなくて」  おずおずと顔を上げてジェイルを見上げた織子は、彼が心なしか羨ましそうにしているのに気づいて動きを止めた。全力で下を向いてなにも見なかったことにする。 「…………まったく、僕の月の姫は本当につれないお方だ。僕に優しく光を投げかけてくれるというのに、けしてこちらを向いてはくれない」  意味が分からない。  彼の言葉の意味が分からないのはいつものことだが、今回はいつもにもまして分からない。というか分かってはいけない。 「そういう趣味があるというなら、僕は喜んで貴女の色に染まりますのに」 「不吉な上に不名誉なことを呟くな! 帰れ!」  ピーターを踏みつけながら、珠月は怒鳴った。ピーターのほうは恍惚の表情で踏みつけられている。ある意味地獄絵図に近いなにかがある。 「用ならあります。花のように美しい貴女を見つめていたいという用事が」 「帰れ、暇人」 「貴女の足元にいる不快なものよりは、暇ではないはずですが」 「わたくしは忙しう御座いますよ。厚底の感覚を楽しむのぐはっ」「黙れ」  珠月はピーターの頭を踏みつけて強制的に黙らせた。そして、心の底からため息をつく。 「どうして私の周りはこういうのが集まるんだ……みんな緋葬架くらい可愛げがあればいいものを」 「……緋葬架様も相当キテいらっしゃると思いますけれども。お顔は可愛らしい方で御座いますが、中身は『あれ』で御座いますよ?」 「お前が言うな。というか、知り合いだったか?」  織子の知らない人間の話をしながら、珠月はピーターを踏みつける。 「踏んでくれるようお願い致しましたところ、撃たれました」 「見境ないのはやめたほうがいいよ、ピーター」  興味なさそうな声で珠月はピーターを咎めた。咎めていはいるが、効果があるとは思っていない顔だ。実際、ないだろう。 「見境はあります!」  ピーターは力強く宣言した。 「珠月様が一番踏まれ心地が好みで御座います! 貴方に踏みつけられ口汚く罵倒されてプライドを削られるためなら、どんなつらい仕事も喜んでいたします!!」 「…………次から出来るだけ貴方に仕事を回すのはやめることにするよ」 「そんな殺生な……」 「この場合、可哀想なのは私だと思うんだ」  珠月はため息をついた。 「何が楽しくて好きでもない男どもにまとわりつかれないといけないのか」 「緋葬架様もまとわりついているので御座いませんか? むしろスキンシップは彼女が一番過剰……」 「あの子は可愛いからいいの。お人形さんみたいだもの」  ピーターを踏みつけるのをやめて、珠月は部屋のすみに目をやった。そこにはコレクションらしいアンティークドールが硝子の飾り棚に並んでいる。 「可愛い子はいいの。可愛いっていうのは、愛すことが可能だってことでしょ? 可愛いは正義なの。でも、お前たちは少しも可愛くない。愛せない」 「――――僕も女性だったら、西洋人形よりずっと可愛らしかったと思うのですが」  なぜかジェイルが反論した。しかも目がマジだった。 「ちょ、ジェイルさん、何を対抗しようとしてるの? ねえ!?」  織子はぎょっとしてジェイルを見上げた。ジェイルは真剣だった。だが、珠月は嫌そうな顔になる。 「ジェイルは美少女だったとしても嫌いだ。可愛くない」  嫌いという部分を強調して珠月は言った。しかし、いつも通りジェイルは聞いていない。 「……まあ、僕は貴方が白百合の道を進んだとしても、見守り続けます」 「余計な心配をするな! ああ……もう」  ぶつぶつと珠月は呟いた。有名人も大変なんだなと織子は心の中だけで思う。 「…………モテますね」 「常時ハーレムが形成されているような区画王や一声で百人単位が命をささげてくれるアイドルに比べると、ごく普通だよ。むしろなぜ私の周辺には変質者しかいないのかと――死にたい」 「……頑張ってください」 「何をだ?」 人生を、と言いかけて織子は止めた。それは織子が言うべきことではないし、人生を頑張らないといけないのは織子も同じだ。その時、 「電話か」  オルゴールの音が響いた。珠月が動きを止め、ドレスのポケットから薄い携帯電話を取り出す。当然のようにそれは漆黒だ。 「もしもし? ああ、久しぶり。なに? 南で爆発事故? 私じゃないよ。学園のすべての厄介事に首を突っ込んでいると思ったら大間違いだ。私を何だと思ってるの?」  明るい口調で不吉な単語が飛び出す。電話の向こうから聞こえる声は分かりにくいが女性のようだ。やたらと間延びした声が、何かを告げる。 「はいはい――え? いるけど。は?」  微妙な顔で珠月は振り返った。足の下にはピーターがまだいる。 「――――ジェイル」  あいまいに珠月は笑った。 「あんたの後輩、爆発事故に巻き込まれた可能性があるみたいよ?」

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