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 三人が旧日本国東京跡地にある巨大学園都市トランキライザーに戻ったのは、どたばた劇から三日後だった。色々あって遠回りする羽目になったものの、仕事自体早めに終わっていたため予定より早い帰国となった。 「帰ってきましたね」 「やはりホームグランドは落ち着きますね」  荷物を抱えて降り立った黒雫の姿に、周囲の生徒が視線を投げかける。隣にいるジェイルがスルーされているのは、彼の『存在をその場にいて当たり前のものであるかのように錯覚させる』特殊能力のせいだ。通行人は雫と織子しか見えていないため、またランカーの恋愛事件かと目を輝かせている。 「…………雫さん、注目されてるみたいだけど」  落ち着かない様子で織子は周囲を見渡す。自分のせいでさらに注目を集めているとは考えていないようだ。  雫はため息をついた。 「僕も先輩も……そこそこ成績がいいので、目立つんですよ」 「へえ……エリートも大変なのね」  あっさりと織子は信じた。単純すぎる。雫は心の中でもう一度ため息をつく。 「先輩、ちょっと織子さんを任せていいですか? 僕は一度ミスティックキャッスルに戻って任務の完了とトラブルの発生、それと休暇届けを出してきたいんですけど」  学園の生徒の多くは、”リンク”というサークルのようなものに入る。そしてリンクのほとんどは、生徒が運営する企業という形態を取っている。他の企業と個人的なトラブルを起こした、あるいは起こしそうになった場合、はやめに連絡するのは義務だ。  ちなみに、完全無所属のジェイルはその心配はない。 「おや、困りましたね。僕も、彼女を苦痛と恐怖の檻から解放するために、スナッチに行って受け取らなくてはならない大切な武器があるのですが」  スナッチとは校内最高の情報屋リンクである。あそこで売っていない情報はないとすら言われるほどだ。 「時間ずらせませんか? 俺はすぐに行かないと怒られてしまいます」 「僕も待ち合わせがありますし……」 「どこかで待っていましょうか?」  おずおずと織子はいった。おどおどしているくせに、目は好奇心で輝いている。 「人の多いところなら、それほど無茶もされないと思います」「この学園では、大通りで喧嘩が起こって負傷者が出ることもあります」  ぴしゃりと雫は言った。 「……心配しなくてもうまく逃げます」 「信用できません。タイラントホテルや黒羊内ならば、警備もしっかりしていますし内部で問題が発生することはまずありませんが、貴方は迂闊なので外に出てしまったり、誘き出される可能性があります。一人で放置したくありません」 「そ、そんなことないです!」 「七夕の姫君」  宥めるようにジェイルが間に入る。 「自分を知ることも大事です」  だが、言っていることは容赦がなかった。3日の行動でジェイルがけして優しいだけの人間ではないことに気づいている織子は、黙る。それにしてもその呼び方のセンスはどうかと思うのだが、純粋なる成り行きと好意で助けてもらっている立場では文句も言えない。そもそも言えるような性格を織子はしていない。 「ごめんなさい……」 「謝ることではありません。そうですね。誰か知人にしばらく身柄をかくまっていただくのがいいでしょうね」 「ミスティックキャッスルは駄目ですよ。怒られます。四十物谷さんのところはどうですか? トラブルくらい喜んで受け入れるでしょう?」  雫は先回りして釘を刺した。ジェイルは肩をすくめる。 「宗谷のところはオープンすぎて……警備がやや甘いんです。仕方ありません。禁断の秘跡に足を踏み入れるようで気が進まないのですが、月の姫にお願いして」「やめてあげてください」  間入れず、雫はジェイルを制止していた。ジェイルはきょとんとした表情をする。道のど真ん中で立ち止まったことで、通行人の何人かがジェイルの存在に気づいた。だが、ジェイルと黒雫の様子を見ておよその事情を察し、すぐに離れていく。 「やめてあげてください」  大事なことなので、黒雫は二回言った。 「そうですね。姫がいかに強いとはいえ、トラブルに巻き込むのは紳士として」「それ以前の問題だと思います。だいたい、篭森先輩、今学園都市にいるんですか?」  本科の生徒は授業義務がないため、四六時中仕事や私用で学園を留守にする。中には年単位で帰宅しない生徒さえいる。 「月の姫は、4日前にイランでの任務を終えて帰国しています」 「なぜ他の組織の赤の他人のスケジュールを把握しているのか、とても聞きたいですが聞くと後悔すると思うのでやめます」  学園の生徒の動向を探るのは案外難しい。全員が全員、自分の行動予定を知られて襲撃されることを避けるために様々な偽装と隠ぺい工作を行っているからだ。特にトップランカーと呼ばれる成績優秀者は、並みの情報屋では動きを調べることなどとてもできない。  なのに、トップランカーの中でもトップ50に入るランカーの動きを知っている。それはジェイルが優れている証である。だが、この場合ストーカーの証拠でもある。 「姫は、聖母のように優しく騎士よりも誇り高い方です。事情を話せば受け入れてくれるでしょう」 「…………まず、事情を聞いてくれるかどうかが問題です」  ジェイルを説得するための言葉が、雫の脳裏をぐるぐると駆け巡る。だが、どれを言っても無駄なことは経験上分かっている。テンションを下げる雫に、織子は不安そうな顔をした。 「その……月の姫って…………時々名前出てくるけど、誰?」 「先輩の幼なじみです」  言葉を選んで雫は言った。嘘はついていない。 「この学園の本科7年になる女性で、本名は篭森珠月。ミスティックです」 「ミスティック……異能者ね。現代の、魔術師」  少しだけ羨ましそうに、織子は呟いた。 見た目が派手で不思議に見えるミスティックやサイキック能力に憧れる人間は少なくない。だが、異能というのは一般的に思われている以上に能力にムラがあり、さらに周辺環境や精神状態の影響も受けるため、異能の半分以上は役に立たない能力であると言われる。ごく一部の稀有な能力を持つ人間以外、異能の訓練をあきらめるものが多いのもそのためだ。 「この学園は異能者も多いです。異能者の中には、能力に制限やリスクを負う人が大部分なので、みんな大変です」「貴方達も?」  雫は肩をすくめて見せた。あえて返事はしない。 「…………篭森さんのことですが……篭森、で分かりませんか?」  織子は目を瞬かせた。雫は心の中でため息をつく。学園の生徒ならこんな反応はしない。もっと頭の回転がはやく、知識量がある。これが普通の人というものか。珍しくはあるが、苛々する面もある。 「かごもり……うー……えー……………………………………え?」  やっと思い当たったらしい。みるみるうちにその顔から血の気が引いていく。雫には血の引くその音すら聞こえる気がした。 「え? まさかあれ? 人類最狂篭森壬無月の愛娘? なんでそんな化け物が?」 「ここでは普通です。口を慎んだほういい。この学園には、人類3KYOの身内だけでなく、黄道十二企業の後継者や幹部候補、九つの組織の関係者、スパイすらも学生として通っています。余計なことを言うと、酷い目に合いますよ」  織子は慌てて口を閉ざした。分かりやすい反応だ。  一通り説明責任は果たしたと判断して、雫はジェイルに向き直る。 「で、本当に行くんですか? 先輩、嫌われますよ?」 「そうですね。突然訪ねたりしたら、月の姫はシャイですから照れてしまうかもしれませんね」 「――――――――――幸せな脳みそですよね」  絶対に誰にも聞こえない音量で、雫は呟いた。そして、心の中でいまだに知人になれていない篭森珠月に黙とうをささげる。今日は彼女にとって厄日になるだろう。そして、自分にとっても。  **  トランキライザー・イーストヤード  東西南北+中央の5つの区分に大別される学園内で、中央についで治安のよいこの場所は、住宅地としても人気がある。先代と現在の区画王の趣味で東洋風に整えられた街並みは観光地としても精度が高い。中心部こそ高層ビルが立ち並ぶビジネス街と電気街だが、周辺部は静かで和風の環境が広がっている。  その中でかなり異彩を放ちつつ、それでいて周囲の外観に溶け込んでいる奇妙な建物があった。洋館だ。赤い煉瓦の上は蔦が茂り、屋根の上では風見鶏が風に吹かれている。  いかにも怪しい外見に、織子は怯えた。だが、逃げる前にジェイルと雫が手を伸ばして織子を捕まえる。 「大丈夫です。月の姫は聡明で優しいお方です」 「少なくとも取って食われるようなことはないと思う。攻撃しない限り」 「やっぱり無理です……嫌です」  じたばた暴れる織子を押さえて、ジェイルはインターフォンを押した。涼やかな鈴の音が響く。直後、 「敷地内に入るな!!」  怒声とともに一人の青年が現れた。一目で西洋系と分かる顔立ちをしている。品のある仕草と身なりの良さから、それなりの才に恵まれた人間だと分かる。だが、その表情は苛立ちに満ちている。 「ジェイル! 屋敷に近付くなといつも言っているだろう!? また珠月さんの機嫌が悪くなるじゃないか。被害を一番に受けるのは、居候たる俺なんだぞ!?」 「やあ、ミヒャエル。御機嫌いかがかな」 「たった今、悪化したとも!」  青年は力の限り絶叫した。色々と込められた叫びだった。織子は目を丸くする。 「あれは……珠月って男でもぎりぎり許容範囲な名前だけど、イノセントカルバニアって女性ですよね?」 「あの人は、この家の居候です。先輩のご友人でもあります」  雫は説明した。 「使用人でもあるので、来客があるとこうして出てくるんです」 「怒ってますけど……」 「いつものことです」  織子はジェイルを見やった。青年の怒りなど意に介した様子もなく、ジェイルは話しかける。 「ああ、星の下で親友と誓い合った友にその態度――泣きますよ?」 「お前は大事な友人だ。その英知に助けられたこともあるし、こちらが物資の供給で助けたこともある。ぶっちゃけ、本科初めに金銭面で助けられたこともある。だが、それもこれも俺の恐れる家主の機嫌を常に真下に下降修正してくれることを考えれば帳消しだ!!」 「親友……良い言葉ですが、改まって言うと照れますね」 「聞け! 話を半分でもいいから聞け!!」  あくまでも自分のペースを崩さないジェイルに、ミヒャエルは頭を抱えて絶叫した。黒雫は止めるでも面白がるでもなく、遠くを見ている。その目に先輩というものへの敬意は微塵もない。 「あ、あの……止めないと」 「無理です」  雫は言い切った。織子はおろおろと周囲を見渡す。その時、 「――――――ふうん、恐れてたんだ。残念だね、私は貴方が割と好きだから、恐れるよりは慕ってほしかったんだけど」  唐突に、いた。織子は悲鳴を上げて雫の後ろに逃げ込む。いつからそこにいたのか、ミヒャエルの斜め後ろ、玄関扉の内側に黒い服の女性が立っていた。顔は影になっていて見えない。ただ、日常的に着るには荘厳すぎるドレスだけが妙に目立つ。ゴシックロリータとかいうファッションだろうか。だが、あれはもっと少女趣味を全面に押し出している。これはもっと重たい。華麗なくせに、まるで喪服のようだ。 「姫」  嬉しそうにジェイルが叫んだ。だが、少女は完璧にそれを無視する。視線を上げることすらしない。玄関の前に立つ青年は一歩退いて少女に道を譲る。 「貴女の才能は尊敬していますよ。であればこそ、どうかお慕いできる人格になってください」 「言うねぇ。私は貴方のそういうところがお気に入りなんだよ。私のそばにいるけれど、私に媚びない。甘えない。服従しない。害さない。私を無視できる」  かつんと革靴が鳴った。ゆっくりと少女が日の下に出てくる。 「さて、これは何度目になるのかな? ジェイル・クロムウェル。いつも言っているはず」  少女が顔を上げた。黒い髪の間から、血の色をした瞳が露になる。 黒髪に赤い目。不吉な色の組み合わせに、織子は雫の服の裾を握りしめた。 「私の目の前に現れるな。私の領域に入り込むな。私を見るな。私に話しかけるな。死ね」  気の弱い人間なら泣きだしそうな迫力にも、ジェイルは顔色一つ変えない。代わりににっこりと満面の笑みを浮かべた。 「貴方は、どんな蜜より甘く蠱惑的です。貴女に会うことを止めることなんてできません」 「死にたいの?」  ざわりと空気が揺らめいた。比喩ではない。本当に不自然な風が吹いた。少女の纏う気配が変わる。戦闘経験のない織子でも分かるほどの殺気に。 「なななななな―――――し、知り合いじゃないの!?」  雫の袖を引いて、織子は小声で尋ねた。雫は面倒くさそうに答える。 「知り合いというものがみんな仲がいいと思ったら、大間違いです。あの人、ジェイル先輩に会うと必ず、マジギレするか鬱状態になるんです。大丈夫。攻撃ぶっ放したら、鬱モードに移行して一人で落ち込み始めますから、そうなったらゆっくり話せます」 「その前に誰かが死ぬ可能性は?」 「今まで死んだ人はいません」 「これからは!? ねえ、これからは!?」 「神のみぞ知るじゃないですか?」  投げやりに雫は答えた。その正面で珠月はにっこりと微笑む。 「死ね」  風を切る音がした。雫はすばやく織子を抱え上げて横に飛ぶ。その数ミリ先を何かが高速で通過した。かわしきれなかった織子の髪が数本、不自然に中を舞う。 「え……?」 「周辺被害もおかまいなし。まったく、この人たちは」  かなり遅れて、織子は今通過したものが投擲用のナイフだと気づいた。あまりにも速過ぎたそれは、何をどうしたのかジェイルによって弾かれて地面に突き刺さる。続いて、爪でえぐられたように地面に線が何本も走った。 「ぎゃ」 「危ないから、変に動かないほうがいいですよ」  織子を抱きかかえたまま、軽い足取りで下がって雫は攻撃圏内――ジェイルとその周辺――を脱出する。そして、珠月の流れ弾がくる可能性がないことを確認すると織子を下ろした。 「……ありがとうございます」 「死なれると困るので」  織子は視線を巡らす。少女――――おそらくは世界的な有名人の娘であり、自身も優秀な警備会社《ダイナソアオーガン》の社長である【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月とジェイルの間には鉄格子の門がある。そして珠月はまったく動いていない。なのに、攻撃している。 「聞いた話ですが、篭森先輩は優れた操作系ミスティックらしいです。ミリ以下の単位での物体操作ができる人間は、学園でも数人――あまく見積もっても十数人しかいません」 「す、数人もいるのね」  ミリ単位での物体操作には、スパーコンピューター並みかそれ以上の計算能力が必要になる。特に大きなものや糸などの長いものは操作が難しい。 やっぱり化け物ばかりだと、織子は呟いた。雫は聞こえなかったふりをする。残り二人は幸か不幸か聞いていない。 「ふふ、やはり約束もなしに貴婦人の家を訪ねるのはあまりにも不作法でしたね。月の姫君、この愚かな詩人の過ちをその海より深く神秘に満ちた心でどうか許してはくださいませんでしょうか」 「死ね。もう死ね。今すぐ死ね。私が好きなら、ここで死ね!」  耳が痛くなるような金属音がして、ジェイルの銃が弾き飛ばされる。そこで初めて、織子は周辺を飛びまわる物体がナイフだけでないことに気づく。  糸だ。鋼鉄を極限まで伸ばして鍛えた鋼の糸が高速で移動している。触れれば肉がえぐれ、骨が砕ける。勿論、普通の人間の腕力と強度では滅多に操れるものではないが、能力を使えば話は別だ。触れるだけで致命傷になる武器が、それこそミリ単位の正確さでジェイルに迫る。 「危な」「死にはしませんよ。先輩ですから」  ジェイルは素手でそれをからめとった。普通なら人間の体など簡単に切断できるはずの鋼糸が素手で受け止められる。珠月の顔が曇る。 「ったく、ミスティック単独履修のくせに、ソルジャー並みの銃撃とグラップラー並みの気功術とワーカー並みの情報戦! 本当に可愛げの欠片もない!!」 「月の姫も、インダストリアリスト以上の情報戦、スカラー並みの知識、武闘派ワーカーを凌ぐ身体能力をお持ちじゃないですか」  ジェイルの言葉は火に油を注いだ。一瞬でジェイル周辺の空間がえぐり潰される。無数の糸とナイフが彼の周囲を囲んで一気に絞めあげたのだ。だが、直前でジェイルはそれをかわす。ミリ単位の正確さで操られているはずのそれを。 「弱いって言いたいの? 喧嘩なら、買うよ」 「僕が愛しい貴女に喧嘩を売るなんて――――空が大地に落ちるくらいありえません」 「よし、死ね」 「落ち着いてください! 前庭と門が台無しです!!」  初めに出てきた青年の叫びは、銃声と怒声にかき消された。彼は玄関前に崩れ落ちる。 「せっかく……せっかく門のセキュリティシステムを新型プロトタイプに変えたのに…………こんな強度じゃだめだ」  なんだか知らないが、気の毒なことになっている。織子は飛んできたコンクリート片に身をすくめる。 「これ……いつ終わるの?」 「誰にも分からないことを聞かないでください。篭森さんの気が済めば止まります。どうせ決着はつきません」  その時、傾いた門を飛び越えた珠月のとび蹴りが決まった。間接攻撃をさばくことに気を取られていたジェイルは、まともにそれを喰らう。黒いスカートとその下のペチコートがふわりと浮きあがる。一瞬、スカートの中に武器を固定するベルトのようなものが見えたが、織子は見なかったことにした。その一撃を受けて、ジェイルの身体は大きく吹き飛び、道の反対側の塀にぶつかって止まった。 「変態!」  珠月は怒鳴った。同時に暴れ狂っていた武器が、糸が切れたように地に落ちると、一人でに集まって自らを回収していく。玄関前に座り込んでいた青年は、大きくため息をつくと傾いた門を開けて珠月を中に入れた。 「落ち着きましたか、珠月さん」  やはりこれが篭森珠月かと、織子は心の中で呟く。 「ああもう何であいつがいるんだ。ここ数週間学園を留守にしていると聞いていたから、心が穏やかだったのに。もう嫌……死ねばいいのに」  ぶつぶつ呟く珠月の肩を青年が叩く。確かに鬱モードに入ったようだった。そこでやっと黒雫は声を上げた。 「篭森先輩」  珠月は振り返った。その瞳には一番初めと同じ、冷静な色が戻ってきている。 「ああ……ジェイルとつるんでる3年生か。何?」 「ジェイル先輩の件ではご迷惑をおかけしています。僕は」「用がないなら、それを回収して帰れ」  道の反対側を指差して、珠月は尊大にいった。雫は興味なさそうに珠月の態度を受け流す。 「お願いがあります。この人を少し――――半日程度でいいので匿ってくださいませんか? 僕も先輩も外せない用事があるんです」 「請負業のところへ行けば?」  冷淡な声で珠月は答えた。視線をちらりと織子に向ける。織子は反射的に背筋を伸ばした。血色の瞳と目が合う。 「ですが、相手がしつこくて――できれば権力者のところに置いておきたいんです」 「私には関係のないことだ」  嫌そうに珠月は言った。紅い目が不機嫌そうに細められる。 「以上、帰れ」  閉めようとした扉が何かに引っ掛かった。珠月の顔から血の気が引く。道の向こうに吹っ飛んだはずのジェイルが、何事もなかったかのような顔で両開きの扉を抑えていた。 「優しい貴女らしくない言動ですね。無礼はお詫びします。どうか意地をはらずに、推奨よりも澄んだその心で、彼女を守ってあげてください」 「い、いやあああああああああああああああ!!」  珠月は絶叫した。冷静な表情が一瞬で消え、ほとんどパニック状態で扉を閉めようとする。しかし、当然ジェイルがそれを許すわけがない。 「嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いきらいいいい!! 来るな、馬鹿! 死んじゃえ!!」「珠月さん、落ち着いてください。相手の思うつぼです。ジェイル、帰れ。マジで帰れ。トラウマ発動で軽く精神退行起こしてるじゃねえか。この人に過去何をしたんだ、手前!?」  珠月に対しては丁寧に、ジェイルに対してはギレ気味で青年は叫んだ。ジェイルは顔を曇らせる。 「月の姫は体調が悪いんでしょうか」 「お前が悪いんだよ」 「そんな時に来客など……申し訳ありませんでした」 「都合の悪いことは聞こえないんだな」 「ジェイルが虐める~~~~~!!」  あらゆる意味でどうしようもない。 織子は恐る恐る雫を見上げた。雫は先輩たちの狂乱の宴を、感情を消した顔で見つめている。 「だから言ったのに……聞いてもらうまでが大変だって」 「……なんかもう……大混乱なんですけど」 一方的に喋るジェイルと、泣きわめく珠月と怒鳴る青年という謎の図式に道行く人は回れ右して去っていく。誰も近付いてこない。  いや、一人だけいた。 「はて、何の騒ぎで御座いますか?」  六人目の人間の声がした。全員が一斉に振り向く。五人の人間の視線を受けて、その人物はことんと首をかしげて見せた。 「懲りない方々で御座いますね。東王に怒られるのでは御座いませんか? 公共の道をこんなぐちゃぐちゃに……どうやったら、ここまで破壊の限りを尽くせるのか、わたくしめには想像もつきません。ある意味素晴らしい技術で御座いますね」 「また面倒な奴が」  怨嗟の滲む声で青年は呟いた。六人目の人物はそんな空気など微塵も読まず、どんどん近付いてくる。よく見ると童顔で、かなり可愛らしい顔つきをした少年――青年かもしれない――だ。 「おやおや。珠月様、大丈夫で御座いま……せんね。ジェイル様、サディストもほどほどになさいませんと後悔なさることになられますよ」 「貴方も被虐趣味はほどほどに」  ジェイルは笑顔で返事をした。しかし、目が笑っていない。 「ふむ、男の嫉妬は醜いですよ、ジェイル様」 「まさか。僕は月の姫が誰よりも美しく夜空に咲き誇ってくださるなら、そばに自分がいられなくても構わないのです。確かに僕の望みは姫を抱きしめることですが、それを彼女が望まないというのなら、その美しい姿を影ながら見つめ支えるだけで十分なのです。彼女が望んでそばに置くものならば、どんな雑草でも彼女の財産。僕に口を出す権利はありませんし、そのつもりもありません」 「愛で御座いますねぇ」 「愛ですよ。ピーター・レイン。貴方にはきっと分からないでしょう」 「申し訳御座いませんが、理解しかねます」  笑顔のまま、ピーターと呼ばれた青年は答えた。 「私は気持ちが良いこと以外、興味は御座いませんので。珠月様には好意を持っていますが、それは珠月様がわたくしめにとってもっとも気持ちの良い使用者だからです」 「そういうところが不快ですね、ピーター・レイン。雨雲は月のそばに寄ってはいけませんよ?」  見えない火花が飛び散った。一見すると女性を取り合う男たちというロマンチックな構図だが、どちらも本人を無視しているあたり、どうしようもない。 珠月は頭を抱える。 「もう嫌だ。引きこもりたい……」  世界的有名人の台詞とは思えない後ろ向きな呟きだった。だが、さりげなく逃げようとする珠月の肩を、初めからいる青年が掴む。 「馬鹿なことを言っていないで、あれらを止めてください。珠月さんの言う事なら、少なくとも私が言うよりは聞くでしょう」 「……皆、口では私が好きだ、敬愛してとかいうくせに、私の言うことなんて半分くらいしか聞いてないじゃないか」 「仕方がありません。貴女個人の人格より、貴女の言動やら存在やら才能やらを愛してる連中ばかりなのですから」 「そういう容赦のないところは好きだよ、ミヒャエル。これからも私を愛さない貴方でいてね。あんたにまで愛してるとか踏んでほしいとか言われたら、きっとガソリンかけて火をつけちゃう」 「なんで私が一番酷い目に合わないといけないんですか!?」 「八つ当たりだよ、この野郎」  海よりも重たいため息を珠月は吐いた。赤の他人である織子すら、助けてあげたくなるようなため息だった。泣き叫ぶのをやめて、珠月は顔を上げる。またがらりと表情が入れ替わった。随分と感情の切り替えの早い人だと、織子は感心する。感情の回路を制御できるのは、指導者としてそれなりの訓練を受けている証拠だ。織子も受けたことがないわけではないが、まったくうまくできなかった過去がある。 「ピーター、止めなさい」  嫌そうに珠月は言った。ピーターは視線を珠月に向ける。 「別にわたくしが喧嘩を売っているわけでは御座いません」 「控えろと言っているのが分からないの?」 「……申し訳御座いません、珠月様」  慇懃無礼に頭を下げて、ピーターはジェイルから完全に視線を外した。珠月はため息をつく。 「出張から戻った挨拶にきてくれたんでしょ? 入りなさい。ピーターだけ」 「光栄の極みで御座います。珠月様」 慇懃に腰を折ると、ピーターは門をくぐった。すばやく玄関脇に立つ青年が進み出て、門を開ける。ジェイルは何か言いたげな顔をしたが、結局黙った。ピーターのほうはジェイルと視線を合わせようとはしない。 「………………」  微妙な緊張感が漂った。それを断ち切るように、珠月は一歩前に出る。 「それと……ジェイル」  珠月が視線を向けると、それを受けた青年が織子に向かって歩き出した。珠月の従者をしているほうの青年だ。雫は一歩横に避けると、織子を前に出す。 「その子は預かってあげる。だから、帰れ。用事がすんだら、取りにおいで。ただし、事前にミヒャエルに連絡を入れること。夜になっても戻れそうになかったら、連絡すること」 「流石は月の姫。ありがとう御座います」  ジェイルはにこりと笑った。珠月は顔をそむけた。話し合いが成立したのを見て、名乗っていない青年が織子の荷物を受け取る。 「どうぞ、お客様」  ピーターと呼ばれた青年はすでにいない。屋敷の主人も逃げるように消えた。名残を惜しむようにそれを見送ってから、ジェイルは織子に視線を向ける。 「姫の言うことを聞いておとなしくしていてください。戻る頃には、きっとすべてうまく行っていますから」 「は……はあ」  織子はあいまいに頷いた。一連のドタバタで脳は完全に麻痺してしまい、まともな思考が紡げない。やや遅れて、自分がこの屋敷に招かれることになったのだと理解する。 「あ、あの……」 「迎えが来るまで余計なことをせずにおとなしく。それが命のためだ」  さりげなく雫は釘を刺した。そして屋敷を見上げる。 「……また、挨拶し損ねた」 「はい?」 「こっちの話です。お友達に――――できればなりたいんですけどね。先輩がいる限り無理でしょう」 「?」  織子は首を傾げた。そこに促す声がかかる。それに導かれるように、織子は暗い洋館に吸い込まれた。

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