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くまときょうりゅう」(2009/03/15 (日) 00:17:51) の最新版変更点

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くまときょうりゅう  やや粘性のある液体が滴り落ちる。一見、その液体は何もない空間からこぼれ落ちたようにみえた。しかし目を凝らすと狭い空間に無数の極細ワイヤーが張られていて、その一部が真っ赤に染まっているのだと分かる。視線を下げれば乱雑に切られた人間の肉の一部が横たわっている。つまり、切断された人体から噴き出した血がその奇妙な光景を作り出しているのだ。  水音がして床にたまった血が揺れる。ヒールのあるブーツがそれを踏みつぶした。揺らぐ赤い水面に黒い影が映る。男は茫然とそれを見つめていた。つい先ほどまで周りにいて指示を出したり自分をかばったりしていた護衛たちはすでにすべてが肉塊となって赤い海に沈んでいる。 「――――化け物め」  だが男はひるまない。自分よりはるかに戦闘能力でまさる相手があっさりと倒されたというのに、それでも相手に銃器を向けようとする。だが、それが獲物を捕らえるよりも前に、男の手は動かなくなった。いつの間にかその腕には周囲の空間と同じようにワイヤーが絡まっている。物理的にはあり得ない動きだった。現代の魔術師たるミスティックが使う異能や人為的に脳などに手を加えたサイキッカーの使う特殊能力でなければありえない動き。分かっていても避けきれるものではない。  動けない男にその化け物は静かに歩み寄ると、数メートルの距離を取って立ち止った。 「化け物、ね。貴方もそういう風に言われる類の人間だと思うのだけど」  聞こえた声は男よりはるかに若い少女のものだ。 「ついでに言うならば、貴方があそこまでこちらの領域に踏み込んでこなければ、私もここまで追撃をかける必要はなかった。うちの仕事は警備保障でね。手を出さない限りは手を出す必要なんてない。まして本拠地まで乗り込むなんて例外中の例外。でも仕方ないね。そうしなければならないほど、貴方達は危険だった。それだけの力があった」  すべてが過去形。すでにこの瞬間に、少女の中では男の存在は過去のものになりつつあるのだ。それに気づいて男は戦慄し、次に激しい怒りを覚えた。それを感じとったのか、少女が視線をこちらに向ける。しかしその目は凪の水面のように落ち着いていて、そのことが怒りを倍増させる。 「はっ、正真正銘の人外どもが随分と甘いことを言うんだな」「私は生身なんだけど。整形もサイボーク化も遺伝子改造もしてないはずだよ」  とぼけているのかわざとなのか、少女はずれた返事を返す。この場合の化け物とはそういう意味ではない。 「そういう意味ではない」 「だろうねぇ。だけど、見当違いだと思うよ。この世にはもっと本当にどうしようもない存在っていうのがいる。存在自体がどうしようもない。それに比べれば、化け物なんて私にはもったいない」  赤い雨を部屋に振らせながら、黒い少女は平然と答えた。あまりにも自分を過小評価していると男は思ったが、次の言葉でそれは勘違いだと分かる。 「ねえ、聞いたことあるかな? 『天才は凡人には勝てるが、努力家には敵わない。同じくらいの努力をする天才と努力家では、才能の分だけ努力家が負ける』……普通はこの後、『けれども努力をしなければ、凡人にすら負けてしまうんだよ』っていう教訓が付くんだけど」 「事実だろう。人間は平等ではない」  男は答えた。それは男自身よく知っている。人間は生まれた瞬間から、生まれた場所が違う。家庭環境が違う。もてる権力や財力が違う。見た目が違う。筋肉や骨の質が違う。脳の作りが違う。遺伝子が違う。思考も好みも才能の方向性もなにもかもが違う。何一つとして人間は平等ではない。手足や目の数すら人によっては違うのだから。 「私はそれっておかしいと思うんだ」 「人間は平等だとでも言うのか?」  男は少女を知っている。言葉をかわすのも顔を合わせるのも初めてだが、彼女の名前だけはずっと前から知っている。それは彼女が非常に高名な血筋に生まれ、才能と環境に恵まれて育ったからだ。  彼女は選ばれた人間だ。少なくとも成りあがりの自分にはそう見える。 「お前が、それを言うのか?」  少女――【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月(かごもり みづき)は小首をかしげて見せた。天然の黒髪と奇妙に赤い瞳が、男の視界の中で揺れ動く。 「そっちじゃないよ。誰も人間が平等なんて迷信、私は信じてない。私が言っているのは、努力する天才には才能の分だけ後れをとるのが当たり前っていう考え方のほう」  くるりと少女は手に持った銃を回した。見たことのない細身の銃だ。特注品かカスタム銃かもしれない。自分もいくつかそういうものを持っていた。ぼんやりと男は思う。  くるりくるり  人を殺すための武器が、白い指の間で回る。ひどく子どもっぽい仕草だ。その仕草と背後に広がる惨状があまりにもミスマッチで、それが返って怖さを感じさせる。 「ゲームじゃないんだから、別に同じ条件下で戦う必要なんてないじゃない。天才に才能の分だけ負けてしまうなら、さらに努力してその才能の差を補うだけの技術を身につければいい。あるいは能力差を補うだけの武器をそろえる方法もある。情報を集めて陥れたり、奇襲をかけることもできる。人数を集めて人海戦術で押し切ってもいい。それでも補えないなら、彼より才能があって同じように努力しているひとを味方につけて自分の足りないぶんを補ってもらえればいいじゃないか。それをしなかったなら、やっぱり努力不足なんだよ」  にっこりと少女は笑って見せた。笑顔のはずなのに、背筋が寒くなる。男は後ずさろうとして身動きができなかったことを思い出した。  少女は離し続ける。興が乗ったのか、少しずつ話すスピードが上がっていく。だが、表情は少しも変わらず、声のトーンも奇妙なまでに安定している。 「だから、貴方が私に負けたのは私のほうが才能があったからじゃない。私のほうが、自分を磨く努力を怠らなかった。武器を集める努力を怠らなかった。情報網を敷く努力を怠らなかった。仲間を探す努力を怠らなかった。だから、貴方は私に負けたんだ。努力しないから負けたんだよ」  一気に言いきって、目を丸くする男の顔を少女は覗き込む。 「それでも――――それだけやっても、死ぬほど努力しても、そこまでしても追いつけない、影さえ踏めない存在。それを化け物っていうんだ。怖いものも弱点もほとんどないような、どうしようもなく強い存在。だから、ダメだよ。私程度を化け物呼ばわりするなんて」 「その精神構造そのものが化け物なんだ……」  抵抗する気力すらなくし、男は呟いた。とんでもないと言わんばかりに、珠月は首を振って見せる。 「まさか。私が努力するのは、しないといけないからだよ。貴方は知らないだろうけど、日本人っていうのはかなり独特の思想や伝統を持っていた民族らしくてね、その中でも最たる異質な思考っていうのが神学関係らしいよ。日本人によると、日本人っていうのは正真正銘血のつながった神様の子孫で誰でも一生懸命頑張れば神様になれるらしいよ。ヤマトタケルとかスガワラミチザネとか実在の人物が神様になった例はたくさんある。それどころか作られて百年経てば、物すらもつくも神っていうものになれるんだって。これ、どういうことか分かる? つまりさぁ、人と物と動物と神様の区別が明確で絶対にそれが揺らがない西洋と違って、あの国では頑張ればただの人間も神様になれる代わりに、百年さぼってると人間が杓子一本にすら負けちゃうってこと」  狂ったように珠月は喋り続ける。しかしそれでも声のトーン自体は落ち着いたままだ。まるで壊れたラジオを聞いているかのようだと男は思った。何を言っているか理解できないし、こちらの状態など気にも留めない。ただ、言葉を吐きだすだけ。それは会話とはとてもいえない。  実はここまで彼女が敵と話をすることは珍しいのだが、当然男はそんなことは知らない。ただ気押される。 「それって酷くない? 生きてる間さぼってたら、私は石ころ一つ箸一本にすら劣る存在になっちゃうんだよ? 篭森壬無月と水天宮葵の娘で、ライザー学園六十三万人のうち24番目で、ダイナソアオーガンの社長で、【イノセントカルバニア(純白髑髏)】のエイリアスを持つ私が、油断するとモノにも負けるんだよ? そんなの許せないよね? だったら死ぬまで努力するしかないじゃん。だって私は杓子に負けるような自分許せないもの。あの素晴らしいお父様とお母様の間の娘がこの程度なんて絶対に許せない。だから私は努力しないといけない。そうでないなら生まれてきた意味がない。努力しないとおいて行かれちゃう。意味がなくなっちゃう。それってすごくすごく怖いよね。私は化け物にも神様にもなれないのに、それを目指し続けないといけない。壮絶な強迫観念だよ。昔の人って何考えてたんだろうね」  珠月の目は暗い。男ではなく、自分自身の中をじっと見つめているような薄気味悪い光がそこには宿っている。うめくように、男は最後の言葉を呟く。 「お前は――――狂ってる。化け物じゃなかったとしても、狂っている」 「褒め言葉だと思っておくよ。私は“人類最狂”の娘だからね」  空気が鉄さびの臭いに汚染されている。血だまりと喋り続ける少女と動けない自分。悪い夢でも見ているようで、男は思わず目を閉ざした。小さく珠月は笑う。 「ごめんね、嫌なことがあって今すごく機嫌が悪いんだ。でもこういう愚痴や弱みを誰かに見せるわけにはいかないし……貴方はいいよね。どうせ今ここで死ぬんだから」  さらりとおそろしいことを言って、少女は腕を軽く振った。手の中でもてあそばれていたカスタム銃が定位置に収まる。 「お礼に選ばせて上げる。切るのと撃たれるのどっちがいい? 切られる方はすぐに血が抜けるから脳が動きを止めるけど死体が汚い。銃はだいたいの形は残るけど、脳を狙わないと即死出来ないから顔は無事じゃ済まないし、もし失敗した場合痛い。あと、遺言とか死体届けてほしいところあるなら、特別サービスで聞いてあげるけど?」  男は黙って首を振った。「そっか」と気にした様子もなく珠月は頷くと、銃を握った。  乾いた音が響いた。 「――――御苦労。最近は真面目に仕事してるね」  世界を統べる黄道十二企業の一つライザーインダストリーが、次世代を担う人材を育成するために作り出した世界最大級の学園都市・トランキライザー。その東に広がるイーストヤードの中でも特に人が多いオフィス地帯に、警備保障会社ダイナソアオーガンの本社はある。  会長室の自分の椅子に座った学園序列9位【ドラグーンランス(竜騎槍)】狗刀宿彌(くとう すくね)は、まるでそこが定位置と言わんばかりに会長の机に座っているダイナソアオーガン社長の序列24位【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月を見下ろした。 「ん? 一人でその人間はたいしたものでしょ?」 「僕なら十倍は余裕だ。ってそうじゃなくて、仕事の成果には何の問題もない。一週間で今月分の仕事やりつくした感じだ。普段からこれくらいやってくれれば、今より仕事沢山請け負えるんじゃないかい? けど、やりすぎ」 「敵の状態は問わないっていう契約条件のはずだけど?」 「でもやり過ぎ。血の海を作れなんて怖い命令は出した覚えないよ? まったく、清掃にどれだけ手間暇がかかると思ってるんだい?」 「? 敵のアジトなんて清掃する必要ないでしょ?」 「そういう問題じゃないよ。はあ、カゴは嫌なことがあると合法的に憂さ晴らしをしようとするから……」「つまり非合法でいいから仕事に関係ないところでやれと?」「絶対にやめてくれ」  もし許可を出したら本当にやりかねない。学園の平安のためにも世界の平和のためにもそれは困る。宿彌は低い声で釘を刺した。 「感情の制御、だよ。授業で習うだろう? ミツキチ」  ミツキチというのは宿彌だけが呼ぶ珠月のあだ名の一つだ。宿彌は気分で呼び方を変える。珠月は小さくため息をついた。 「……嫌なことがあったの」 「ジェイル君?」  珠月は黙った。序列102位【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】ジェイル・クロムウェルは、おそらくこの世で唯一の珠月が会話も嫌がるほど苦手とする人間である。宿彌としては、自分を瞬殺できてしかも自分に敵意を持っている相手を前にしても眉ひとつ動かさずに舌先三寸で丸めこめる人間が、なぜ自分に好意的な人間一人の相手に手間取るのか分からない。だがきっと、長い付き合いの中で宿彌には分からないなんらかの力関係かトラウマが発生しているのだろう。実際、ジェイルが現れると珠月は鬱になるか軽い精神退行を起こしているように見える。 「また虐められたの?」 「虐められてない。私が弱いのが行けない。いまだにあの弱点一つ克服できないなんて、努力が足りないに違いない」「努力しても無駄なことってあると思うんだ。それにジェイル君の行動は、客観的には告白という名の虐めだ」  あの尋常でない怯えぶりを見る限り、過去でよほど嫌なことがあったのかそうでないなら影で何かされているのだろう。宿彌は心の中でそう判断する。 「嫌なら、消しちゃえば?」  さらりと宿彌は怖い提案をした。しかし、この学園の生徒にとっては日常会話の一つである。珠月はぶんぶんと首を横に振った。 「できたらとっくにやってるよ!!」 「ミツキチ本人が行かなくても、部下とか取り巻きにやらせればいいじゃん」 「下手な相手じゃ勝てないもの。私は特別で能力が効かないけど、トップランカーでも超精神力強い奴以外は能力だけで負けるんだよ? ミスティックキャンセラーとかアンチミスティックの機材を用意してもすぐに察して撤退するし……わざわざ外から有名な暗殺者呼んだこともあるけど、二週間後に行方知れずになりやがって……」 「…………ああ、もう一通りはやってたんだ」 「当たり前だよ。私の唯一に近い弱点が平気な顔で周辺をうろついているんだよ? やってられないよ」  叫んでから、力尽きたように珠月は肩を落とした。ジェイル関係以外ではまず見れない弱った仕草を宿彌は冷静に観察する。 「……大変だね。とりあえず、下がっていいよ。今日は定時に上がっていいから」 「気遣いが……ムカつく」 「この場合ムカついていいのは僕だと思うんだけど」  それには答えず珠月は机の上から飛び降りた。重厚な会長机はそれほど背が高くない珠月が座ると足が着かない。ふらりと黒い服の裾が浮き上がる。 「じゃ、仕事戻る。今日はディスクワークだから定時に退社させてもらうよ」 「失っ礼しまーす! 桜夜楽です!!」  珠月が言い終わった瞬間、ハイテンションな声とともに扉が開いて二人の部下に当たる序列251位【フェアリーリング(妖精の仕掛けた罠)】大豆生田桜夜楽(おおまみえだ さやら)が飛び込んできた。さりげなく髪をかきあげて流れる髪を演出している。そして室内に最高幹部二人がいるのを見て動きを停止する。 「あ……あはははは……珠月社長もいらっしゃったんですね。失礼しました」 「いや、報告は終わってる。ごゆっくりね」  珠月は桜夜楽の開けた扉をすり抜けて廊下に消えた。後にはテンションのひっこみがつかなくなった桜夜楽と常にローテンションの宿彌が残される。 「えーと、えーとですね、宿彌会長にお手紙です」 「御苦労さま」  どうでもいい話だが、桜夜楽は本人がいないところでは宿彌のことをスー君会長と呼んでいる。本当は本人にも呼び掛けたいのだが、宿彌に恋をしている桜夜楽はなかなかそのチャレンジができないらしい。なぜなら嫌われたくないから。 「あー……なんかまだ珠月社長機嫌悪い?」 「最近、ジェイルがしつこいらしくて」 「ここは……原因を殺りますか?」  こちらも普通に怖い提案をする。桜夜楽の言葉に宿彌は首を横に振った。 「やめとけって本人が言ってたよ。まあ、本気で危害を加えるようなことがあれば僕らがどうとか言う前に、親馬鹿と噂の篭森夫妻が放置しないだろう」 「ですね。それに……ぶっちゃけ、ちょっと機嫌悪い時の方が仕事しますよね。珠月社長」 「機嫌が悪い時というよりは、嫌なことが起こった原因を自分だと考えて猛烈な自己反省と自己嫌悪に駆られてる時、かな。何を焦ってるのやら。人間っていうのは弱点や欠点がある方が人間らしくていいってこの前ネットで見たんだけど」 「客観的にはそうでも主観的には違いますよ。完璧が大好きな人っていっぱいいますし。宿彌会長は悟り過ぎなんですよぉ」  桜夜楽はため息をついた。使用する武器型のオーパーツの副作用で、宿彌という人物は感情の起伏が極端に少ない。当然、他人の感情の機微もよく理解できない。 「……まあいいです。ところで、あの、あのですね、宿彌会長」  急にもじもじし始めた桜夜楽に、宿彌は首をかしげた。やがて意を決したように桜夜楽は顔を上げる。 「ふ、フランス料理のル・クルーゼの予約がその偶然取れて、それでお友達と行く予定だったんですけど、そのお友達が、そのちょっと急用ができちゃって、それで予約が余ってるんです。明日なんですけど……それで、あの、その一緒にいかがですか!!」 「明日?」「の夜です! あ、代金はもう払ってあるので、大丈夫(?)です!」  宿彌は少し考え込んだ。ややあって首を振る。 「ごめん。明日の夜は会食の予定がある」「か、会食ですか?」  あきらかにがっかりした顔で、桜夜楽は俯いた。だが鈍い宿彌はそのことにまったく気づかない。 「うん、そうなんだ」 「はあ……会長が会食なんて珍しいですよね。そういうのは他の幹部さんたちの仕事だと思ってましたよ」 「今回は特別。ごめんね」  桜夜楽は力なく首を横に振った。宿彌がもう少し女心の機微というものを分かっていたならば、校内予約が取れない店ランキングで常に上位を占めるレストラン、ル・クルーゼの席が余ることなど滅多にないことや相手の表情の動きで桜夜楽の気持ちが分かっただろうが、なんと言っても宿彌は鈍かった。もとより、区画王は全般的に恋愛ごとに鈍い傾向がある。 「…………ところで桜夜楽」 「はい?」  すっかりテンションの下がった桜夜楽の様子など気にも留めず、淡々と宿彌は喋る。 「珠月の機嫌はいつ頃直りそうかな? 苛々してる期間は仕事のスピードは上がるんだけど、やり口が残虐になるんだよね。そろそろ心落ち着けて貰わないと困る」 「…………当分直らないんじゃないですか」  目の前にアプローチしてる女がいるのに他の女の話をするなよ。桜夜楽は心の大平原で絶叫した。しかし、この鈍さは今に始まったことではないので涙をのんで耐える。 「もういいじゃないですか。珠月社長だって子どもじゃないんですから、そのうち機嫌くらい直りますよ。それに珠月社長が残虐なのは今に始まったことじゃなって今のなしです!」  うっかり本音という名の悪口を言いそうになって、桜夜楽は慌てて誤魔化した。 「何か急に返事が適当になっていないかい?」 「そんなことないです。宿彌会長は女心が分かってないとか、珠月社長の焦りとか苛立ちも分かってやってくださいとか、むしろ私の心の機微を分かれとか、そんなことみじんも思ってません」 「なんだかよく分からないけど、悪かった。今度埋め合わせするよ」 「じゃあ、また別の機会にごはん食べにいきましょう。それか何か贈りものください」 「前半はともかく、後半おかしくない?」  桜夜楽は拗ねたようにそっぽを向いた。 「女の子の御機嫌とりは男の使命ですぅ。私の折れそうな心を慰めてください」 「ごめん、意味が分からない」  本当に意味が分からなさそうな宿彌の表情に桜夜楽は深くため息をついた。 「ともかく、女の子っていうのはそういうものなんです。機嫌の悪い子には贈り物がてっとり早いんですよ。ものとか花とか。まあ一番いいのは二人きりの時間のプレゼントなんでしょうけど……なんちゃって」 「ふうん。参考までに、精神的に不安定な女の子にはどんなものを贈ればいいんだい?」  半端に生々しい設定に、桜夜楽は小首を傾げた。それでも、好きな人のためだと思いなおし、真面目に答える。 「疲れてるなら、アロマセラピーとかどうです? お香やアロマオイルがスタンダートだと思いますけど、他に良い香りのする石鹸や入浴剤とか……あるいはお守りとか?」 「お守り?」 「でも今だと結構少ないですよね。旧時代は寺社仏閣とか教会とかそこらじゅうで売ってたらしいですけど、戦争中にかなり数が減りましたからね。そもそもああいうのって信じてない人には効果ありませんし。それなら親兄弟とか信頼のおける人物からもらった思い出の品のほうが、よほどお守り効果ありますよね」 「そういうものかな?」  宿彌の不思議そうな声に、桜夜楽は力強く頷く。 「イワシの頭も信心といって、信じる力っていうのはかなり強力なんですよ。特に恐怖とか焦りっていうのは、大丈夫だよっていって守ってくれる人がいると鎮静化しますから。子どもが熊のぬいぐるみと一緒に寝るのと同じです。くまさんがいるから大丈夫って」 「その熊の人形には高性能の警備ロボでも仕込んであるのかい?」 「そういう即物的な問題じゃなくて……心の安心です」  がっくりと桜夜楽は肩を落とした。何かがすれ違っている。 「ほら、人間って産まれてから死ぬまで一人でずっと頑張らないといけないでしょ? でもそれって疲れちゃうじゃないですか。そういう時に背中を預けてくれる人間がいるといいんだけど、常にそういう人がそばにいるとは限らないでしょう? だから代用品というか、擬似的な母親のような存在としてぬいぐるみと一緒に寝るんです」 「ふうん。でも何で熊?」  どうでもよさそうに宿彌は尋ねた。彼は熊のぬいぐるみにいまひとつ価値を見いだせていないらしい。  そういうところもクールだわ、と乙女なことを思いながら桜夜楽は説明する。 「別にどんな物体でもいいんでしょうけど、熊というのは心理学的には母性のイメージらしいですよ。だからじゃないですか? 人間誰でも昔は子供で、子どもが本能的に頼るのは母親ですから。もっとオカルティックな感じの説だと、ぬいぐるみっていうのは子どもの悪夢を食べてくれるんだなんていうひともいますね」 「そっか」 「いやでも私は母親って感じじゃないですけど、宿彌会長に頼ってほしいなっていうか、その、なんと言うか……」  もじもじと呟いて桜夜楽は視線を床に落とした。そして再び顔を上げる。 「私は社長に負けるつもりはありませんから。だって、私は……」  宿彌はすでにいなかった。  振り返るとぱたんと扉が閉まった。そして扉越しに、「そろそろ仕事に戻ってね」という呑気な声が聞こえる。 「…………」  桜夜楽はこぶしを握った。 「ま、負けないんだから!!」  気分はよくない。かといってどうやればこの苛立ちがなくなるのかも分からない。珠月はため息をついた。しいて言うならば焼身自殺でもすればいいのかもしれないが、それはそれで負けたようで腹が立つ。そもそもジェイルなどという自分の弱点そのものが大手を振って歩いていなければ、こんなことにはなりはしないのに。 「……後で偽名で不死コンビにでも依頼書送ろうかな」  倒せるとは思えないが、憂さ晴らし程度にはなるだろう。それにあのジェイルのことだから、不死コンビの方に不快感と軽傷以上の損害が出るとも考えにくい。どっちに転んでも被害は微細だ。 「よし、仕事が終わったらやろう」  怖いことを決断して、珠月はサイン済の書類をうずたかく積み上げた。短時間でかなりの量の書類が積み上がっている。それを静かに部下が下げていった。珠月の機嫌が悪いのであえて話しかけてはこない。怖い独り言にツッコミをいれるなどもってのほかだ。  部下も未処理の仕事もなくなった空間で、珠月は大きく伸びをした。そして頭の中で本日の予定を再確認する。珍しく今夜は予定が開いている。久しぶりに古い友人の家にでも押し掛けようかと珠月はぼんやりと考えた。その時、軽く扉が叩かれる。 「カゴモ、いる?」「いるよ」  声から宿彌と判断し、心の中で舌打ちする。なにか説教されるようなことはあったかと思考を巡らすが心当たりはない。その間に扉が開いて数時間前に顔を合わせたばかりの上司が入ってくる。手になにやら包みを持っているのを見て、珠月は何かあったかと小首をかしげる。 「どうし」「あげる」  ぼふっと柔らかい音がして珠月の腕の中に包みが落とされる。薄いブルーの袋と赤いリボンを見て、珠月は目を瞬かせた。 「えーと、郵便物?」 「違う。あげるよ」  リボンを引っ張るとそれはたやすく解けた。そして中から包みと同じ赤いリボンをした黒いテディベアが現れる。 「…………クマ」 「珠月が頑張ってるみたいだから、御褒美。でもあんまり頑張りすぎなくてもいいんだよ。まだ学生なんだから」 「………………頑張り、すぎてるかな?」 「うん。だからクマ」  珠月はテディベアを見下ろした。触り心地がよく、いい生地を使っているのが見ただけで分かる。古いものではないが大量生産品でもない。流石に完全手作りまではいかないだろうが、小さな工場か工房で数量限定として作られたものだろう。珠月の服に合う黒い毛と沈んだ赤のリボンがシックな雰囲気を生み出している。  わざわざ自ら店に出向いて選んでくれたのだろうか。彼の性格上、ファンシーショップの類に出入りするのに羞恥心を覚えることはないだろうが、それでもわざわざ選んでくれた事実が嬉しい。珠月は珍しく純粋に顔をほころばせた。 「……ありがとう」  思いがけないプレゼントに何だか嬉しくなり、同時に窘められたようで少し落ち込む。  頑張りすぎだろうか。  珠月はここ数日を振りかえる。苛々しているときは仕事に没頭するに限る。余計なことを考えずにすむし、うじうじと悩まないから。しかし、それがはたから見て無理をしているように見えたなら問題だ。そういえば、やたらと喋る量が増えた気もするし、ついつい手口が荒くなってしまったかもしれない。珠月は心の中で反省する。 「うん。嬉しい」  焦りやいら立ちを見抜かれていることは悔しい。けれどそれ以上に気づいてくれることが嬉しい。ただの仕事仲間でも気遣ってくれるのは嬉しいことだ。逆にいうと、ただの仕事仲間に気遣わせるほどに苛立ちが外に滲んでいたということだ。  今後は迷惑をかけないように気をつけないといけない。素直に珠月はそう思った。 「ごめんね。心配かけた」 「君が素直に謝ると気持ちが悪いな」  お礼なんて言わなきゃよかった。  珠月は心の中で思ったが、すぐにそういえばこういう奴だったと思いなおす。気にしていてはやっていけない。 「そういえば……なんでクマ? 宿彌ってこういうもの好きだっけ?」  愛らしいテディベアと無感動な宿彌の取り合わせがどうも納得できない。袋からクマを出して両手で抱えながら、珠月は宿彌を見上げた。 「ん。なんかよく分からないと不安そうで焦ってる人には何を上げればいいかと聞いたら、クマのぬいぐるみはどうかって言われたから」 「言われた?」  嫌な予感がした。ぬいぐるみを抱く珠月の腕に力がこもる。 「誰に? 翔? それとも紅? まさか桜夜楽じゃないよね?」  比較的まともな人格とまともな感性を持ち合わせている二人の取締役の名前を、珠月は期待を込めて尋ねた。しかし返ってきたのは最悪の答えだった。 「桜夜楽だよ。丁度、用事があったみたいで会長室に来たから」  珠月は大きく人形を振りかぶった。そして手足が痛まないぎりぎりの力を込めて振り下ろす。殺意のない攻撃に反応しきれなかった宿彌の頬をテディベアの右手が殴る。間接ビンタだ。それなりに痛い。 「っ、カゴモ、いきなり何」「この馬鹿!!」  桜夜楽は宿彌に惚れている。それは第三者からみてあきらかである。そもそも管理職とはいえ秘書でも取締役でもない桜夜楽が頻繁に宿彌のところを訪ねるのは、顔を見るために色々と口実を作って通っているからだ。そういう自分を好きな相手に、他の女へのプレゼントを聞くなんてデリカシーが足りないにもほどがある。  しかし、繰り返すが宿彌はその気持ちにまったく気づいていない。テディベアにしたところで、苛々している部下を励ます以上の意味はない。だから、殴られた意味が分からず宿彌は目を瞬かせた。 「………………何故、クマをあげて殴られる?」 「自分の胸に聞け。もういい。今日は早退する。クマありがとう」「早退は給料から引かれるよ」「勝手に引け」  音を立てて扉が閉まった。後には不思議そうに首をかしげる宿彌だけが残された。  翌日、会長室を訪れた序列30位【グラビスフィアジョッキー(重力圏騎手)】万里小路翔(までのこうじ しょう)は奇妙な物体を見つけて、顔をしかめた。 「会長、これは何ですか?」 「ん。カゴがくれたんだけど、どうしようかと」  それはケーキのように見えた。見えたというのは、10号はあろうかという巨大なケーキの上でチョコや焼き菓子で作られたデフォルメされたクマのような生き物が暴れまわっていたからだ。しかも可愛らしい顔なのに口には鋭い歯が生えていて、どんなものでもばりばり噛み砕いて食べてしまいそうだ。可愛いといえないこともないケーキだが、かすかな悪意を感じた。 「昨日ぬいぐるみを上げたお礼だってさ」 「へえ……今日は機嫌よさそうに見えたんですけどね」 「色々どうでもよくなったとか言ってたよ。肩の力抜けたみたいでよかったよかった」  翔は手を伸ばしてチョコレートのクマをつまみ食いした。濃厚なミルクチョコレートが口に広がる。口に入れる前に見たところ、そのクマは砂糖菓子のハートを両手で持っていまにも食おうしているような体勢だった。別のホワイトチョコレートのクマは、隣のクッキー細工の家にパンチを繰り出して、しかも家の壁を破壊している。ビターチョコレートのクマはなぜか手に持ったイチゴを別のクマの頭にたたきつけようとしている。一番気になるのは飴細工の鉈や鎌を持っている熊だ。普通の武器ではないところがやたらと生々しくて嫌だ。他にもケーキの中から生えているクマやら、膝蹴りで手に持ったハートを破壊しているクマやら、背負い投げをしているクマやら、攻撃的なクマが目立つ。 「…………」  昨夜、上司の心理状態に何があったのか激しく気になる造詣である。 「会長、何したんですか?」 「何だろうね。昨日は――――」  二分後、宿彌は翔からも乙女心のなんたるかについて説教を受けることになった。 おわり
くまときょうりゅう  やや粘性のある液体が滴り落ちる。一見、その液体は何もない空間からこぼれ落ちたようにみえた。しかし目を凝らすと狭い空間に無数の極細ワイヤーが張られていて、その一部が真っ赤に染まっているのだと分かる。視線を下げれば乱雑に切られた人間の肉の一部が横たわっている。つまり、切断された人体から噴き出した血がその奇妙な光景を作り出しているのだ。  水音がして床にたまった血が揺れる。ヒールのあるブーツがそれを踏みつぶした。揺らぐ赤い水面に黒い影が映る。男は茫然とそれを見つめていた。つい先ほどまで周りにいて指示を出したり自分をかばったりしていた護衛たちはすでにすべてが肉塊となって赤い海に沈んでいる。 「――――化け物め」  だが男はひるまない。自分よりはるかに戦闘能力でまさる相手があっさりと倒されたというのに、それでも相手に銃器を向けようとする。だが、それが獲物を捕らえるよりも前に、男の手は動かなくなった。いつの間にかその腕には周囲の空間と同じようにワイヤーが絡まっている。物理的にはあり得ない動きだった。現代の魔術師たるミスティックが使う異能や人為的に脳などに手を加えたサイキッカーの使う特殊能力でなければありえない動き。分かっていても避けきれるものではない。  動けない男にその化け物は静かに歩み寄ると、数メートルの距離を取って立ち止った。 「化け物、ね。貴方もそういう風に言われる類の人間だと思うのだけど」  聞こえた声は男よりはるかに若い少女のものだ。 「ついでに言うならば、貴方があそこまでこちらの領域に踏み込んでこなければ、私もここまで追撃をかける必要はなかった。うちの仕事は警備保障でね。手を出さない限りは手を出す必要なんてない。まして本拠地まで乗り込むなんて例外中の例外。でも仕方ないね。そうしなければならないほど、貴方達は危険だった。それだけの力があった」  すべてが過去形。すでにこの瞬間に、少女の中では男の存在は過去のものになりつつあるのだ。それに気づいて男は戦慄し、次に激しい怒りを覚えた。それを感じとったのか、少女が視線をこちらに向ける。しかしその目は凪の水面のように落ち着いていて、そのことが怒りを倍増させる。 「はっ、正真正銘の人外どもが随分と甘いことを言うんだな」「私は生身なんだけど。整形もサイボーク化も遺伝子改造もしてないはずだよ」  とぼけているのかわざとなのか、少女はずれた返事を返す。この場合の化け物とはそういう意味ではない。 「そういう意味ではない」 「だろうねぇ。だけど、見当違いだと思うよ。この世にはもっと本当にどうしようもない存在っていうのがいる。存在自体がどうしようもない。それに比べれば、化け物なんて私にはもったいない」  赤い雨を部屋に振らせながら、黒い少女は平然と答えた。あまりにも自分を過小評価していると男は思ったが、次の言葉でそれは勘違いだと分かる。 「ねえ、聞いたことあるかな? 『天才は凡人には勝てるが、努力家には敵わない。同じくらいの努力をする天才と努力家では、才能の分だけ努力家が負ける』……普通はこの後、『けれども努力をしなければ、凡人にすら負けてしまうんだよ』っていう教訓が付くんだけど」 「事実だろう。人間は平等ではない」  男は答えた。それは男自身よく知っている。人間は生まれた瞬間から、生まれた場所が違う。家庭環境が違う。もてる権力や財力が違う。見た目が違う。筋肉や骨の質が違う。脳の作りが違う。遺伝子が違う。思考も好みも才能の方向性もなにもかもが違う。何一つとして人間は平等ではない。手足や目の数すら人によっては違うのだから。 「私はそれっておかしいと思うんだ」 「人間は平等だとでも言うのか?」  男は少女を知っている。言葉をかわすのも顔を合わせるのも初めてだが、彼女の名前だけはずっと前から知っている。それは彼女が非常に高名な血筋に生まれ、才能と環境に恵まれて育ったからだ。  彼女は選ばれた人間だ。少なくとも成りあがりの自分にはそう見える。 「お前が、それを言うのか?」  少女――【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月(かごもり みづき)は小首をかしげて見せた。天然の黒髪と奇妙に赤い瞳が、男の視界の中で揺れ動く。 「そっちじゃないよ。誰も人間が平等なんて迷信、私は信じてない。私が言っているのは、努力する天才には才能の分だけ後れをとるのが当たり前っていう考え方のほう」  くるりと少女は手に持った銃を回した。見たことのない細身の銃だ。特注品かカスタム銃かもしれない。自分もいくつかそういうものを持っていた。ぼんやりと男は思う。  くるりくるり  人を殺すための武器が、白い指の間で回る。ひどく子どもっぽい仕草だ。その仕草と背後に広がる惨状があまりにもミスマッチで、それが返って怖さを感じさせる。 「ゲームじゃないんだから、別に同じ条件下で戦う必要なんてないじゃない。天才に才能の分だけ負けてしまうなら、さらに努力してその才能の差を補うだけの技術を身につければいい。あるいは能力差を補うだけの武器をそろえる方法もある。情報を集めて陥れたり、奇襲をかけることもできる。人数を集めて人海戦術で押し切ってもいい。それでも補えないなら、彼より才能があって同じように努力しているひとを味方につけて自分の足りないぶんを補ってもらえればいいじゃないか。それをしなかったなら、やっぱり努力不足なんだよ」  にっこりと少女は笑って見せた。笑顔のはずなのに、背筋が寒くなる。男は後ずさろうとして身動きができなかったことを思い出した。  少女は離し続ける。興が乗ったのか、少しずつ話すスピードが上がっていく。だが、表情は少しも変わらず、声のトーンも奇妙なまでに安定している。 「だから、貴方が私に負けたのは私のほうが才能があったからじゃない。私のほうが、自分を磨く努力を怠らなかった。武器を集める努力を怠らなかった。情報網を敷く努力を怠らなかった。仲間を探す努力を怠らなかった。だから、貴方は私に負けたんだ。努力しないから負けたんだよ」  一気に言いきって、目を丸くする男の顔を少女は覗き込む。 「それでも――――それだけやっても、死ぬほど努力しても、そこまでしても追いつけない、影さえ踏めない存在。それを化け物っていうんだ。怖いものも弱点もほとんどないような、どうしようもなく強い存在。だから、ダメだよ。私程度を化け物呼ばわりするなんて」 「その精神構造そのものが化け物なんだ……」  抵抗する気力すらなくし、男は呟いた。とんでもないと言わんばかりに、珠月は首を振って見せる。 「まさか。私が努力するのは、しないといけないからだよ。貴方は知らないだろうけど、日本人っていうのはかなり独特の思想や伝統を持っていた民族らしくてね、その中でも最たる異質な思考っていうのが神学関係らしいよ。日本人によると、日本人っていうのは正真正銘血のつながった神様の子孫で誰でも一生懸命頑張れば神様になれるらしいよ。ヤマトタケルとかスガワラミチザネとか実在の人物が神様になった例はたくさんある。それどころか作られて百年経てば、物すらもつくも神っていうものになれるんだって。これ、どういうことか分かる? つまりさぁ、人と物と動物と神様の区別が明確で絶対にそれが揺らがない西洋と違って、あの国では頑張ればただの人間も神様になれる代わりに、百年さぼってると人間が杓子一本にすら負けちゃうってこと」  狂ったように珠月は喋り続ける。しかしそれでも声のトーン自体は落ち着いたままだ。まるで壊れたラジオを聞いているかのようだと男は思った。何を言っているか理解できないし、こちらの状態など気にも留めない。ただ、言葉を吐きだすだけ。それは会話とはとてもいえない。  実はここまで彼女が敵と話をすることは珍しいのだが、当然男はそんなことは知らない。ただ気押される。 「それって酷くない? 生きてる間さぼってたら、私は石ころ一つ箸一本にすら劣る存在になっちゃうんだよ? 篭森壬無月と水天宮葵の娘で、ライザー学園六百四十万人のうち24番目で、ダイナソアオーガンの社長で、【イノセントカルバニア(純白髑髏)】のエイリアスを持つ私が、油断するとモノにも負けるんだよ? そんなの許せないよね? だったら死ぬまで努力するしかないじゃん。だって私は杓子に負けるような自分許せないもの。あの素晴らしいお父様とお母様の間の娘がこの程度なんて絶対に許せない。だから私は努力しないといけない。そうでないなら生まれてきた意味がない。努力しないとおいて行かれちゃう。意味がなくなっちゃう。それってすごくすごく怖いよね。私は化け物にも神様にもなれないのに、それを目指し続けないといけない。壮絶な強迫観念だよ。昔の人って何考えてたんだろうね」  珠月の目は暗い。男ではなく、自分自身の中をじっと見つめているような薄気味悪い光がそこには宿っている。うめくように、男は最後の言葉を呟く。 「お前は――――狂ってる。化け物じゃなかったとしても、狂っている」 「褒め言葉だと思っておくよ。私は“人類最狂”の娘だからね」  空気が鉄さびの臭いに汚染されている。血だまりと喋り続ける少女と動けない自分。悪い夢でも見ているようで、男は思わず目を閉ざした。小さく珠月は笑う。 「ごめんね、嫌なことがあって今すごく機嫌が悪いんだ。でもこういう愚痴や弱みを誰かに見せるわけにはいかないし……貴方はいいよね。どうせ今ここで死ぬんだから」  さらりとおそろしいことを言って、少女は腕を軽く振った。手の中でもてあそばれていたカスタム銃が定位置に収まる。 「お礼に選ばせて上げる。切るのと撃たれるのどっちがいい? 切られる方はすぐに血が抜けるから脳が動きを止めるけど死体が汚い。銃はだいたいの形は残るけど、脳を狙わないと即死出来ないから顔は無事じゃ済まないし、もし失敗した場合痛い。あと、遺言とか死体届けてほしいところあるなら、特別サービスで聞いてあげるけど?」  男は黙って首を振った。「そっか」と気にした様子もなく珠月は頷くと、銃を握った。  乾いた音が響いた。 「――――御苦労。最近は真面目に仕事してるね」  世界を統べる黄道十二企業の一つライザーインダストリーが、次世代を担う人材を育成するために作り出した世界最大級の学園都市・トランキライザー。その東に広がるイーストヤードの中でも特に人が多いオフィス地帯に、警備保障会社ダイナソアオーガンの本社はある。  会長室の自分の椅子に座った学園序列9位【ドラグーンランス(竜騎槍)】狗刀宿彌(くとう すくね)は、まるでそこが定位置と言わんばかりに会長の机に座っているダイナソアオーガン社長の序列24位【イノセントカルバニア(純白髑髏)】篭森珠月を見下ろした。 「ん? 一人でその人間はたいしたものでしょ?」 「僕なら十倍は余裕だ。ってそうじゃなくて、仕事の成果には何の問題もない。一週間で今月分の仕事やりつくした感じだ。普段からこれくらいやってくれれば、今より仕事沢山請け負えるんじゃないかい? けど、やりすぎ」 「敵の状態は問わないっていう契約条件のはずだけど?」 「でもやり過ぎ。血の海を作れなんて怖い命令は出した覚えないよ? まったく、清掃にどれだけ手間暇がかかると思ってるんだい?」 「? 敵のアジトなんて清掃する必要ないでしょ?」 「そういう問題じゃないよ。はあ、カゴは嫌なことがあると合法的に憂さ晴らしをしようとするから……」「つまり非合法でいいから仕事に関係ないところでやれと?」「絶対にやめてくれ」  もし許可を出したら本当にやりかねない。学園の平安のためにも世界の平和のためにもそれは困る。宿彌は低い声で釘を刺した。 「感情の制御、だよ。授業で習うだろう? ミツキチ」  ミツキチというのは宿彌だけが呼ぶ珠月のあだ名の一つだ。宿彌は気分で呼び方を変える。珠月は小さくため息をついた。 「……嫌なことがあったの」 「ジェイル君?」  珠月は黙った。序列102位【ワンダフルポエマー(凍れる詩人)】ジェイル・クロムウェルは、おそらくこの世で唯一の珠月が会話も嫌がるほど苦手とする人間である。宿彌としては、自分を瞬殺できてしかも自分に敵意を持っている相手を前にしても眉ひとつ動かさずに舌先三寸で丸めこめる人間が、なぜ自分に好意的な人間一人の相手に手間取るのか分からない。だがきっと、長い付き合いの中で宿彌には分からないなんらかの力関係かトラウマが発生しているのだろう。実際、ジェイルが現れると珠月は鬱になるか軽い精神退行を起こしているように見える。 「また虐められたの?」 「虐められてない。私が弱いのが行けない。いまだにあの弱点一つ克服できないなんて、努力が足りないに違いない」「努力しても無駄なことってあると思うんだ。それにジェイル君の行動は、客観的には告白という名の虐めだ」  あの尋常でない怯えぶりを見る限り、過去でよほど嫌なことがあったのかそうでないなら影で何かされているのだろう。宿彌は心の中でそう判断する。 「嫌なら、消しちゃえば?」  さらりと宿彌は怖い提案をした。しかし、この学園の生徒にとっては日常会話の一つである。珠月はぶんぶんと首を横に振った。 「できたらとっくにやってるよ!!」 「ミツキチ本人が行かなくても、部下とか取り巻きにやらせればいいじゃん」 「下手な相手じゃ勝てないもの。私は特別で能力が効かないけど、トップランカーでも超精神力強い奴以外は能力だけで負けるんだよ? ミスティックキャンセラーとかアンチミスティックの機材を用意してもすぐに察して撤退するし……わざわざ外から有名な暗殺者呼んだこともあるけど、二週間後に行方知れずになりやがって……」 「…………ああ、もう一通りはやってたんだ」 「当たり前だよ。私の唯一に近い弱点が平気な顔で周辺をうろついているんだよ? やってられないよ」  叫んでから、力尽きたように珠月は肩を落とした。ジェイル関係以外ではまず見れない弱った仕草を宿彌は冷静に観察する。 「……大変だね。とりあえず、下がっていいよ。今日は定時に上がっていいから」 「気遣いが……ムカつく」 「この場合ムカついていいのは僕だと思うんだけど」  それには答えず珠月は机の上から飛び降りた。重厚な会長机はそれほど背が高くない珠月が座ると足が着かない。ふらりと黒い服の裾が浮き上がる。 「じゃ、仕事戻る。今日はディスクワークだから定時に退社させてもらうよ」 「失っ礼しまーす! 桜夜楽です!!」  珠月が言い終わった瞬間、ハイテンションな声とともに扉が開いて二人の部下に当たる序列251位【フェアリーリング(妖精の仕掛けた罠)】大豆生田桜夜楽(おおまみえだ さやら)が飛び込んできた。さりげなく髪をかきあげて流れる髪を演出している。そして室内に最高幹部二人がいるのを見て動きを停止する。 「あ……あはははは……珠月社長もいらっしゃったんですね。失礼しました」 「いや、報告は終わってる。ごゆっくりね」  珠月は桜夜楽の開けた扉をすり抜けて廊下に消えた。後にはテンションのひっこみがつかなくなった桜夜楽と常にローテンションの宿彌が残される。 「えーと、えーとですね、宿彌会長にお手紙です」 「御苦労さま」  どうでもいい話だが、桜夜楽は本人がいないところでは宿彌のことをスー君会長と呼んでいる。本当は本人にも呼び掛けたいのだが、宿彌に恋をしている桜夜楽はなかなかそのチャレンジができないらしい。なぜなら嫌われたくないから。 「あー……なんかまだ珠月社長機嫌悪い?」 「最近、ジェイルがしつこいらしくて」 「ここは……原因を殺りますか?」  こちらも普通に怖い提案をする。桜夜楽の言葉に宿彌は首を横に振った。 「やめとけって本人が言ってたよ。まあ、本気で危害を加えるようなことがあれば僕らがどうとか言う前に、親馬鹿と噂の篭森夫妻が放置しないだろう」 「ですね。それに……ぶっちゃけ、ちょっと機嫌悪い時の方が仕事しますよね。珠月社長」 「機嫌が悪い時というよりは、嫌なことが起こった原因を自分だと考えて猛烈な自己反省と自己嫌悪に駆られてる時、かな。何を焦ってるのやら。人間っていうのは弱点や欠点がある方が人間らしくていいってこの前ネットで見たんだけど」 「客観的にはそうでも主観的には違いますよ。完璧が大好きな人っていっぱいいますし。宿彌会長は悟り過ぎなんですよぉ」  桜夜楽はため息をついた。使用する武器型のオーパーツの副作用で、宿彌という人物は感情の起伏が極端に少ない。当然、他人の感情の機微もよく理解できない。 「……まあいいです。ところで、あの、あのですね、宿彌会長」  急にもじもじし始めた桜夜楽に、宿彌は首をかしげた。やがて意を決したように桜夜楽は顔を上げる。 「ふ、フランス料理のル・クルーゼの予約がその偶然取れて、それでお友達と行く予定だったんですけど、そのお友達が、そのちょっと急用ができちゃって、それで予約が余ってるんです。明日なんですけど……それで、あの、その一緒にいかがですか!!」 「明日?」「の夜です! あ、代金はもう払ってあるので、大丈夫(?)です!」  宿彌は少し考え込んだ。ややあって首を振る。 「ごめん。明日の夜は会食の予定がある」「か、会食ですか?」  あきらかにがっかりした顔で、桜夜楽は俯いた。だが鈍い宿彌はそのことにまったく気づかない。 「うん、そうなんだ」 「はあ……会長が会食なんて珍しいですよね。そういうのは他の幹部さんたちの仕事だと思ってましたよ」 「今回は特別。ごめんね」  桜夜楽は力なく首を横に振った。宿彌がもう少し女心の機微というものを分かっていたならば、校内予約が取れない店ランキングで常に上位を占めるレストラン、ル・クルーゼの席が余ることなど滅多にないことや相手の表情の動きで桜夜楽の気持ちが分かっただろうが、なんと言っても宿彌は鈍かった。もとより、区画王は全般的に恋愛ごとに鈍い傾向がある。 「…………ところで桜夜楽」 「はい?」  すっかりテンションの下がった桜夜楽の様子など気にも留めず、淡々と宿彌は喋る。 「珠月の機嫌はいつ頃直りそうかな? 苛々してる期間は仕事のスピードは上がるんだけど、やり口が残虐になるんだよね。そろそろ心落ち着けて貰わないと困る」 「…………当分直らないんじゃないですか」  目の前にアプローチしてる女がいるのに他の女の話をするなよ。桜夜楽は心の大平原で絶叫した。しかし、この鈍さは今に始まったことではないので涙をのんで耐える。 「もういいじゃないですか。珠月社長だって子どもじゃないんですから、そのうち機嫌くらい直りますよ。それに珠月社長が残虐なのは今に始まったことじゃなって今のなしです!」  うっかり本音という名の悪口を言いそうになって、桜夜楽は慌てて誤魔化した。 「何か急に返事が適当になっていないかい?」 「そんなことないです。宿彌会長は女心が分かってないとか、珠月社長の焦りとか苛立ちも分かってやってくださいとか、むしろ私の心の機微を分かれとか、そんなことみじんも思ってません」 「なんだかよく分からないけど、悪かった。今度埋め合わせするよ」 「じゃあ、また別の機会にごはん食べにいきましょう。それか何か贈りものください」 「前半はともかく、後半おかしくない?」  桜夜楽は拗ねたようにそっぽを向いた。 「女の子の御機嫌とりは男の使命ですぅ。私の折れそうな心を慰めてください」 「ごめん、意味が分からない」  本当に意味が分からなさそうな宿彌の表情に桜夜楽は深くため息をついた。 「ともかく、女の子っていうのはそういうものなんです。機嫌の悪い子には贈り物がてっとり早いんですよ。ものとか花とか。まあ一番いいのは二人きりの時間のプレゼントなんでしょうけど……なんちゃって」 「ふうん。参考までに、精神的に不安定な女の子にはどんなものを贈ればいいんだい?」  半端に生々しい設定に、桜夜楽は小首を傾げた。それでも、好きな人のためだと思いなおし、真面目に答える。 「疲れてるなら、アロマセラピーとかどうです? お香やアロマオイルがスタンダートだと思いますけど、他に良い香りのする石鹸や入浴剤とか……あるいはお守りとか?」 「お守り?」 「でも今だと結構少ないですよね。旧時代は寺社仏閣とか教会とかそこらじゅうで売ってたらしいですけど、戦争中にかなり数が減りましたからね。そもそもああいうのって信じてない人には効果ありませんし。それなら親兄弟とか信頼のおける人物からもらった思い出の品のほうが、よほどお守り効果ありますよね」 「そういうものかな?」  宿彌の不思議そうな声に、桜夜楽は力強く頷く。 「イワシの頭も信心といって、信じる力っていうのはかなり強力なんですよ。特に恐怖とか焦りっていうのは、大丈夫だよっていって守ってくれる人がいると鎮静化しますから。子どもが熊のぬいぐるみと一緒に寝るのと同じです。くまさんがいるから大丈夫って」 「その熊の人形には高性能の警備ロボでも仕込んであるのかい?」 「そういう即物的な問題じゃなくて……心の安心です」  がっくりと桜夜楽は肩を落とした。何かがすれ違っている。 「ほら、人間って産まれてから死ぬまで一人でずっと頑張らないといけないでしょ? でもそれって疲れちゃうじゃないですか。そういう時に背中を預けてくれる人間がいるといいんだけど、常にそういう人がそばにいるとは限らないでしょう? だから代用品というか、擬似的な母親のような存在としてぬいぐるみと一緒に寝るんです」 「ふうん。でも何で熊?」  どうでもよさそうに宿彌は尋ねた。彼は熊のぬいぐるみにいまひとつ価値を見いだせていないらしい。  そういうところもクールだわ、と乙女なことを思いながら桜夜楽は説明する。 「別にどんな物体でもいいんでしょうけど、熊というのは心理学的には母性のイメージらしいですよ。だからじゃないですか? 人間誰でも昔は子供で、子どもが本能的に頼るのは母親ですから。もっとオカルティックな感じの説だと、ぬいぐるみっていうのは子どもの悪夢を食べてくれるんだなんていうひともいますね」 「そっか」 「いやでも私は母親って感じじゃないですけど、宿彌会長に頼ってほしいなっていうか、その、なんと言うか……」  もじもじと呟いて桜夜楽は視線を床に落とした。そして再び顔を上げる。 「私は社長に負けるつもりはありませんから。だって、私は……」  宿彌はすでにいなかった。  振り返るとぱたんと扉が閉まった。そして扉越しに、「そろそろ仕事に戻ってね」という呑気な声が聞こえる。 「…………」  桜夜楽はこぶしを握った。 「ま、負けないんだから!!」  気分はよくない。かといってどうやればこの苛立ちがなくなるのかも分からない。珠月はため息をついた。しいて言うならば焼身自殺でもすればいいのかもしれないが、それはそれで負けたようで腹が立つ。そもそもジェイルなどという自分の弱点そのものが大手を振って歩いていなければ、こんなことにはなりはしないのに。 「……後で偽名で不死コンビにでも依頼書送ろうかな」  倒せるとは思えないが、憂さ晴らし程度にはなるだろう。それにあのジェイルのことだから、不死コンビの方に不快感と軽傷以上の損害が出るとも考えにくい。どっちに転んでも被害は微細だ。 「よし、仕事が終わったらやろう」  怖いことを決断して、珠月はサイン済の書類をうずたかく積み上げた。短時間でかなりの量の書類が積み上がっている。それを静かに部下が下げていった。珠月の機嫌が悪いのであえて話しかけてはこない。怖い独り言にツッコミをいれるなどもってのほかだ。  部下も未処理の仕事もなくなった空間で、珠月は大きく伸びをした。そして頭の中で本日の予定を再確認する。珍しく今夜は予定が開いている。久しぶりに古い友人の家にでも押し掛けようかと珠月はぼんやりと考えた。その時、軽く扉が叩かれる。 「カゴモ、いる?」「いるよ」  声から宿彌と判断し、心の中で舌打ちする。なにか説教されるようなことはあったかと思考を巡らすが心当たりはない。その間に扉が開いて数時間前に顔を合わせたばかりの上司が入ってくる。手になにやら包みを持っているのを見て、珠月は何かあったかと小首をかしげる。 「どうし」「あげる」  ぼふっと柔らかい音がして珠月の腕の中に包みが落とされる。薄いブルーの袋と赤いリボンを見て、珠月は目を瞬かせた。 「えーと、郵便物?」 「違う。あげるよ」  リボンを引っ張るとそれはたやすく解けた。そして中から包みと同じ赤いリボンをした黒いテディベアが現れる。 「…………クマ」 「珠月が頑張ってるみたいだから、御褒美。でもあんまり頑張りすぎなくてもいいんだよ。まだ学生なんだから」 「………………頑張り、すぎてるかな?」 「うん。だからクマ」  珠月はテディベアを見下ろした。触り心地がよく、いい生地を使っているのが見ただけで分かる。古いものではないが大量生産品でもない。流石に完全手作りまではいかないだろうが、小さな工場か工房で数量限定として作られたものだろう。珠月の服に合う黒い毛と沈んだ赤のリボンがシックな雰囲気を生み出している。  わざわざ自ら店に出向いて選んでくれたのだろうか。彼の性格上、ファンシーショップの類に出入りするのに羞恥心を覚えることはないだろうが、それでもわざわざ選んでくれた事実が嬉しい。珠月は珍しく純粋に顔をほころばせた。 「……ありがとう」  思いがけないプレゼントに何だか嬉しくなり、同時に窘められたようで少し落ち込む。  頑張りすぎだろうか。  珠月はここ数日を振りかえる。苛々しているときは仕事に没頭するに限る。余計なことを考えずにすむし、うじうじと悩まないから。しかし、それがはたから見て無理をしているように見えたなら問題だ。そういえば、やたらと喋る量が増えた気もするし、ついつい手口が荒くなってしまったかもしれない。珠月は心の中で反省する。 「うん。嬉しい」  焦りやいら立ちを見抜かれていることは悔しい。けれどそれ以上に気づいてくれることが嬉しい。ただの仕事仲間でも気遣ってくれるのは嬉しいことだ。逆にいうと、ただの仕事仲間に気遣わせるほどに苛立ちが外に滲んでいたということだ。  今後は迷惑をかけないように気をつけないといけない。素直に珠月はそう思った。 「ごめんね。心配かけた」 「君が素直に謝ると気持ちが悪いな」  お礼なんて言わなきゃよかった。  珠月は心の中で思ったが、すぐにそういえばこういう奴だったと思いなおす。気にしていてはやっていけない。 「そういえば……なんでクマ? 宿彌ってこういうもの好きだっけ?」  愛らしいテディベアと無感動な宿彌の取り合わせがどうも納得できない。袋からクマを出して両手で抱えながら、珠月は宿彌を見上げた。 「ん。なんかよく分からないと不安そうで焦ってる人には何を上げればいいかと聞いたら、クマのぬいぐるみはどうかって言われたから」 「言われた?」  嫌な予感がした。ぬいぐるみを抱く珠月の腕に力がこもる。 「誰に? 翔? それとも紅? まさか桜夜楽じゃないよね?」  比較的まともな人格とまともな感性を持ち合わせている二人の取締役の名前を、珠月は期待を込めて尋ねた。しかし返ってきたのは最悪の答えだった。 「桜夜楽だよ。丁度、用事があったみたいで会長室に来たから」  珠月は大きく人形を振りかぶった。そして手足が痛まないぎりぎりの力を込めて振り下ろす。殺意のない攻撃に反応しきれなかった宿彌の頬をテディベアの右手が殴る。間接ビンタだ。それなりに痛い。 「っ、カゴモ、いきなり何」「この馬鹿!!」  桜夜楽は宿彌に惚れている。それは第三者からみてあきらかである。そもそも管理職とはいえ秘書でも取締役でもない桜夜楽が頻繁に宿彌のところを訪ねるのは、顔を見るために色々と口実を作って通っているからだ。そういう自分を好きな相手に、他の女へのプレゼントを聞くなんてデリカシーが足りないにもほどがある。  しかし、繰り返すが宿彌はその気持ちにまったく気づいていない。テディベアにしたところで、苛々している部下を励ます以上の意味はない。だから、殴られた意味が分からず宿彌は目を瞬かせた。 「………………何故、クマをあげて殴られる?」 「自分の胸に聞け。もういい。今日は早退する。クマありがとう」「早退は給料から引かれるよ」「勝手に引け」  音を立てて扉が閉まった。後には不思議そうに首をかしげる宿彌だけが残された。  翌日、会長室を訪れた序列30位【グラビスフィアジョッキー(重力圏騎手)】万里小路翔(までのこうじ しょう)は奇妙な物体を見つけて、顔をしかめた。 「会長、これは何ですか?」 「ん。カゴがくれたんだけど、どうしようかと」  それはケーキのように見えた。見えたというのは、10号はあろうかという巨大なケーキでチョコや焼き菓子で作られたデフォルメされたクマのような生き物が縦横無尽に暴れまわっているデザインだったからだ。しかも可愛らしい顔なのに口には鋭い歯が生えていて、どんなものでもばりばり噛み砕いて食べてしまいそうだ。可愛いといえないこともないケーキだが、かすかな悪意を感じた。 「昨日ぬいぐるみを上げたお礼だってさ」 「へえ……今日は機嫌よさそうに見えたんですけどね」 「色々どうでもよくなったとか言ってたよ。肩の力抜けたみたいでよかったよかった」  翔は手を伸ばしてチョコレートのクマをつまみ食いした。濃厚なミルクチョコレートが口に広がる。口に入れる前に見たところ、そのクマは砂糖菓子のハートを両手で持っていまにも食おうしているような体勢だった。別のホワイトチョコレートのクマは、隣のクッキー細工の家にパンチを繰り出して、しかも家の壁を破壊している。ビターチョコレートのクマはなぜか手に持ったイチゴを別のクマの頭にたたきつけようとしている。一番気になるのは飴細工の鉈や鎌を持っている熊だ。普通の武器ではないところがやたらと生々しくて嫌だ。他にもケーキの中から生えているクマやら、膝蹴りで手に持ったハートを破壊しているクマやら、背負い投げをしているクマやら、攻撃的なクマが目立つ。 「…………」  昨夜、上司の心理状態に何があったのか激しく気になる造詣である。 「会長、何したんですか?」 「何だろうね。昨日は――――」  二分後、宿彌は翔からも乙女心のなんたるかについて説教を受けることになった。 おわり

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