三四郎池の歴史

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江戸時代以降の三四郎池の歴史を解説しています。


江戸初期

 現在,通称「三四郎池」と呼ばれて本郷キャンパスの憩いの場となっている池の周辺は,育徳園といわれる加賀藩の大名庭園であった。

 この地は,笹や草が生い茂る起伏のある地形をしている場所であった。そして,ところどころに住んでいるのは下層の庶民ばかりで,各所に茶畑が見られる場所であった。このような地を,慶長10年(1605)に前田利常が徳川将軍から賜ったのである。前田氏はしばらくこの地を放置していたが,寛永3年(1626)ころより邸内整備が行われた。寛永6年(1629)徳川秀忠,家光の二公があいついでこの邸に臨むにあわせて,殿閣を新たに修築し,庭園もそれとともに築設された。その後,寛永15年(1638)将軍家光の再度の臨邸にあたって大築造を施した。前田利常は性格豪にして風雅を好むといわれ,その後さらに庭園に修築を加えていった。利常の死後,前田綱紀がこれに補修を加え,ここに至って初めて庭園の完成を見る。育徳園と命名したのは綱紀である。「育徳」の言葉は,周代に大成された易学書『周易』に載るものである。『境之勝者八,景之美者八,合而名之曰育徳之園。取周易蒙所謂君子育徳之象也。(八境,八景の勝があるこの園を育徳の園と名付けるのは育徳のかたちをとる)』という言葉による。園中には,八境,八景の勝がありその泉水・築山・小亭などは数奇を極めたものだといわれている。育徳園はその景勝を誇り,当時江戸諸侯邸の庭園中第一の名園といわれた。

江戸後期

江戸後期の『江戸御上屋敷惣御絵図』に育徳園の絵図が載っている。この図には、うっそうと樹木が茂る山が描かれており、深山幽谷という表現が似合うような景観になっていたことが想像される。

明治以降

 この名園育徳園は,明治の初めに東京大学の敷地の中に編入され,その後多少の改修築をされたものの,当時の面影が努めて保存せられている。キャンパス内の森といっても過言ではない木立は,東京大学創立以前から生えていたと思われる背の高い樹木も多い。春の新緑,秋の銀杏の紅葉は見事である。また小鳥や水鳥だけでなく栗鼠などの小動物と出会うこともある。樹木・水・土・生物という自然の感触を味わうことのできる小さな楽園である。

 育徳園の池は形が「心」という字をかたどっていることから心字池と言われている。しかし,明治の東京大学を今に伝える夏目漱石の『三四郎』により「三四郎池」と呼ばれるようになった。

参考資料

  • 東京大学付属図書館常設展,白幡洋三郎(1997):大名庭園.講談社より引用