第1話

むかしむかし、まだこの国が黄金の国ジパングと西洋で信じられていた頃のこと。
平和で下々の民にまで富が行き渡っていると考えられていたこの国は、西洋人たちの理想とは大きく異なる様相を呈していました。

応仁の乱に始まり明応の政変で日の本全土に広がった戦火は、旧来の権威を失墜させ混沌の中に新たな秩序を生み出し、
卑しくとも力ある者が貴く力無き者に取って代わり奸智に長けた梟雄が暗愚な君子を追う、下克上の時代へと導いていたのです。
萌芽し始めた新たな時代の旗手となることを目指して日の本各地で諸侯が鹿を逐い、
勝った者は敗者を蹂躙し食らいつくしてさらなる飛躍のための力を蓄え、
敗れた者は戦場に屍を晒し、或いは勝者に臣従しつつ腹の中では反攻の機を窺っていました。
誰もが勝者たりえ、誰もが敗者たりえる。そこに身分の貴賤は関係なく、才覚の有無だけがすべて。
日の本が有史以来最大の混乱を迎え、それゆえに活力に溢れていた時代。

のちに戦国時代と呼ばれることになる、そんな時代の物語。



のぶながの野望 天翔記


第一話「遠い春」


永禄六年、奥州三戸。
戦乱の中心である畿内からはるか遠く北の果てのこの地にも、戦国乱世は及んでいたのでした。
三戸の主、南部晴政はその武力をたのみに「三日月の 丸くなるまで 南部領」と詠われる広大な領土を手に入れておりました。
南部家最大版図を築き、中興の祖として奥羽にその名を轟かす晴政でしたが、彼には二つ大きな悩みがありました。

一つ目の悩みは、47歳になる晴政には未だ強大な南部家を継ぐべき男児が生まれていないことでした。
この時代、家名を後世に残すことは武士にとって最大の課題でありました。
いかに晴政が武勇に優れ南部家を北奥の覇者に押し上げたところで、
晴政が志半ばで果てたときに南部家が断絶してしまっては意味がありません。
そのため晴政は自分の娘を一門の若者二人に嫁がせ、そのいずれかを自分の後継者にしようと考えていました。

ひとりめは晴政の覇業を軍事面で支える猛将、九戸政実の弟・実親。
九戸実親は温厚朴訥な性格で晴政によく仕え、晴政もまた実親をまるで実子のように可愛がっていたのでした。

そしてもうひとり。晴政の父・安信はその勢力伸張にあたって弟たちを領内各地に派遣し別家を立てさせていました。
安信の次弟である高信は津軽地方に派遣され、石川家を立て石川高信と名乗っておりました。
高信にはでぶながという名の息子がいました。この石川でぶながもまた、晴政の娘を娶っておりました。

しかしこの石川でぶなが、まだ晴政の娘と結婚しただけなのにもかかわらず、まるで実親の存在など頭に無いようで、

「( ,_`ゝ′)麻呂は三百五十年余の歴史を持つ南部家の後継者でおじゃる」

などと言い放ち、すでに南部家当主になったかのような乱行に明け暮れておりました。



実はこの石川でぶながの存在が晴政の二つ目の悩みだったのです。
はっきり言って晴政は石川でぶながのような男が大嫌いでした。
石川でぶながの顔を見るとつい刀に手が伸びるというのも一度や二度ではありませんでした。
しかし可愛い娘の夫である以上いかんともしがたく、また乱行三昧とはいえ大きな失態を犯したわけでもないので、
石川でぶながを苦々しく思いながらも晴政は彼に手を出せずにおりました。
しかし晴政も石川でぶながをこのまま放置しておくつもりはありませんでした。
この時代、明日は何が起こるかわかりません。
もしも九戸実親が急病で倒れでもしたら、自動的に南部家の跡目は暗愚で傲慢な石川でぶながになってしまいます。
天下には届かずともせめて晴政が広げた領土を守り通し次代に継承させられるだけの才覚は身につけてほしいと願い、
晴政はひとりの男を石川でぶながの後見人として津軽に送りつけました。

男の名は八戸のぶなが。
かつて南部宗家であった八戸南部家当主、八戸信長の嫡男であります。
八戸のぶながは表向きは晴政に従ってはおりましたが、内心穏やかではありませんでした。

「(,_´ゞ`) おのれ晴政め分家の分際でこの私を顎で使い、挙句でぶながのような貸すに仕えよとは…」

八戸のぶながは晴政にこき使われ、今またうつけと名高いでぶながの後見人という名の閑職に追いやられる己の不幸を嘆いていたのでした。



石川でぶながは八戸のぶながの予想を大いに上回るうつけ者でした。

「( ,_`ゝ′)仁君とは民がいかに暮らしているかを身をもって知らねばならんのだ」

と言っては強引に農作業中の農村に押し入り勝手なことをして田畑をめちゃくちゃに荒らしたり、

「( ,_`ゝ′)今日は商人の仕事ぶりを学ぶぞ」

と言っては商家に上がりこみ勝手に番頭をやって店創業以来の大赤字を計上させたのでした。

八戸のぶながも最初のうちは諫言を繰り返していましたが、石川でぶながのあまりのうつけぶりに失望し何も言わなくなったのでした。
しかも、石川でぶなが本人は善行のつもりでやっているため、なおのことタチが悪いのでした。
そのうちに津軽地方に住む国人たちは露骨に石川でぶながとその背後にある南部家を嘲るようになっていきました。

当然このような噂はすぐに晴政の耳にも届き、晴政はことあるごとに八戸のぶながを呼びつけたのでした。

「のぶながよ、お前の力量を高く評価しワシの女婿であるでぶながの後見役を言いつけたというのに良い噂は一つも届かん。
 いったいどうなっておるのだ。津軽の国人たちは池沼でぶながなどと言って嘲っておるそうではないか」

「はは、申し訳ございません。しかし、でぶなが殿は私のような凡人には御しきれぬ天下の奇才なのでございます。
 桶狭間で今川義元公を討った織田信長も、かつては大うつけと評判だったではありませんか、でぶなが殿は奥州の織田信長なのです」

八戸のぶながは面倒くさそうに適当なことを言ってみました。
八戸のぶながは、どうあがいても南部家当主になれるわけもない石川でぶながに尽くす気など毛頭ありませんでした。
そんな無駄なことをしている暇があるなら、猫と戯れているほうがよっぽどマシだと考えていたのです。

今まで武勇に生きてきた晴政は少々懐疑的ながらも、八戸のぶながの虚言を受け入れたのでした。

「ふうむ、だがこれ以上津軽の国人どもや出羽の連中になめられるわけにはいかん。出来るだけでぶながを外出させないようにするのだ」

晴政はそう厳命し、八戸のぶながを帰したのでした。



しかし、石川でぶなががそんな命令を素直に聞くわけがありません。

「( ,_`ゝ′)なんだとカス、麻呂はお外を歩き回りたいでおじゃる!!!!」

石川でぶながは晴政の命令を頑なに拒絶しました。
挙句八戸のぶながを晴政の犬と罵り、

「( ,_`ゝ′)犬なら犬らしく犬と戯れておれ!!ぬこ様なんかこうだ!!」

と叫んで八戸のぶながが可愛がっていた野良猫を蹴り飛ばしたのでした。
これには猫好きの八戸のぶながも怒りを隠せません。むしろ激怒しました。
石川でぶながの後見人を命じられて以来積もりに積もっていた石川でぶながに対する怒りが大爆発したのです。

「(,_´ゞ`) 甥貸す死にたいのか?」

「( ,_`ゝ′)あん?やんのかこら!!」

条件反射で喧嘩を買ってしまった石川でぶながはすぐに後悔しました。八戸のぶながが抜刀し突如切りつけてきたのです。
まさか八戸のぶながが本気で怒っているとは思ってもいなかった石川でぶながは斬撃を間一髪で避け、急いで逃げ出しました。

「( ,_`ゝ′)tdryふghじょいおおう!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

「・・・若?朝も早くから今度はいった・・・!!!!!!!!!
 の、のぶなが様!? だ、誰かー!のぶなが様ご乱心!のぶなが様ご乱心!」

石川でぶながの奇声を聞いて面倒くさそうに廊下へ出てきた小姓は、鬼気迫る形相で石川でぶながを追い回す八戸のぶながに驚き人を呼びました。

「(,_´ゞ`) ぬこ様に謝れ!!!!!!1謝らんか!!!!!!」

普段からは想像もできない怒声を放ち、刀を右に左に振り回しつつ石川でぶながを追いかける八戸のぶながは、
「その疾きこと走狗の如く、その五月蝿きこと春の猫の如く、近づきがたきこと悪酔いした暴漢の如し」と「南部晴政書状」にも記されております。
結局、石川家中総出で八戸のぶながを取り押さえ、宥め賺し、ようやく八戸のぶながが落ち着いたときにはもうすっかり日も高くなっておりました。



これには石川でぶながの父・高信も大弱りでした。
道を踏み外していたのは息子でぶながですが、今の八戸のぶながは石川でぶながの後見人、いわば家老のようなものなのです。
家臣が主君に刃を向けるなど本来であれば厳罰をもってあたらねばなりませんが、しかし八戸のぶながは南部一門筆頭格八戸家の嫡男。
南部一門でもそんなに地位の高くない石川家が簡単に裁断することなどできません。

しかたがないので高信は甥で南部家当主の晴政に判事を依頼しました。

「晴政殿、八戸のぶながめの処分いかがいたそうか・・・。あやつめ主たる我が子でぶながに刃を向けおった」

「・・・叔父上、八戸のぶながばかり責められるが責任の多くはでぶながにありますぞ。
 いくらワシの女婿とはいえでぶながの所業は当家の威信を揺るがす悪行。現に津軽の国人どもは当家を侮るようになった」

晴政の厳しい口調に高信は驚き、慌てて石川でぶながを擁護し始めましたが、時すでに遅し。
もともと生理的にあわない石川でぶながを何とかして排斥したいと常々考えていた晴政にとって今回の事件はまさに渡りに船だったのです。

「叔父上、喧嘩両成敗の原則に従い石川でぶなが、八戸のぶなが両名を追放処分とする!帰ってそう伝えられよ」

この一報に石川家は上へ下への大騒ぎになりました。
家臣団のうち血気盛んな者たちは八戸のぶなが殺害を訴えたり、さらに過激な連中は晴政に反旗を翻すことまで企みはじめたのです。
そして当の石川でぶながは狼狽し、八戸のぶながもまた呆然としておりました。

「(,_´ゞ`) ああ、これでは八戸の世など夢のまた夢ではないか」

座敷牢の隅で八戸のぶながは一人悔し涙を流すのでありました。



追放処分が執行される当日、石川高信は石川でぶなが、八戸のぶなが両名を呼びつけました。

「( ,_`ゝ′)父上、麻呂は納得いかぬでおじゃる!!麻呂は、麻呂は、南部家の次期当主でおじゃる!!」

見苦しいことに石川でぶながはこの期に及んで処分を下さぬよう高信に哀願していたのでありました。
石川でぶながはこれまで甘やかされて育ってきたため、城の外に一人で放り出されれば二月と持たずに野垂れ死ぬのは火を見るより明らか。
それはきっと本人だってわかっていたのでしょう。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら石川でぶながは父に縋りつきます。
高信もそんな情けない石川でぶながをとてもつらそうに、しかしその想いを必死に抑えながら優しく宥めていたのでした。
石川父子の姿を冷ややかに見つめていた八戸のぶながでしたが、彼もまた今後どのようにして生きていくか未だ妙案は浮かんでおりませんでした。

石川でぶながが泣き喚くのに疲れ、おとなしくなった頃合を見はかり高信は口を開きました。

「こうなった以上ワシにはもうどうしようもない。晴政殿のお心が静まるまでは文武に励み将器を磨いておるしかあるまい。
 でぶながよ、京へ上るのだ。京の都であればきっとそなたの力になってくれる文学や武芸の師が大勢おられることであろう」

高信はこう言って石川でぶながを諭しました。高信は息子が立派な将になればきっと晴政も赦してくれるだろうと考えていたのです。

「・・・のぶなが殿、貴殿は未だでぶながの後見人の役を解かれてはおらん。責任もって京まで護衛されよ」

高信は八戸のぶながを睨みつけながら一方的に言いつけたのでした。

「(,_´ゞ`) おいなぜ私がこの貸すのお守りをせねばならんのだ答えろ貸す!!!!!!11」

八戸のぶながの断末魔にも似た叫びは完全に無視され、石川でぶながと八戸のぶながは南部家を追放されたのでした。
時に永禄六年二月、奥州は寒風吹きすさぶ未だ厳しい冬の時期でありました・・・。

南部家を追われてしまった石川でぶながと八戸のぶなが、二人の運命やいかに?
続きは次回の講釈にて。


(v=ФωФ)ρ 第一話からしてgdgdなこの物語、需要は皆無だろうが俺が飽きるまでは続くのだ!!!!!!!1111

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最終更新:2008年07月25日 04:52