薔薇乙女寿史料館

ひいらぎレールジャーナル鉄道の日スペシャル

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healagi

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日本人と汽車の出会い



 1825年、イングランドのダーリントンとストックトン・オン・ティーンズの間に「ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道」という貨物鉄道が開業した。

 この鉄道こそ世界で初めて開業した商用鉄道であった。それまでにも馬車でレールを走る馬車鉄道は存在したが、ジョージ・スチーブンソンが設計した蒸気機関車「ロコモーション号」で貨車で牽引するのはこれが初めてだったのだ。

 この鉄道で採用された線路幅1435mm(4フィート8.5インチ)が後に世界基準となり、標準軌と呼ばれるようになった。


 5年後の1830年、同じくイングランドのリヴァプールとマンチェスターの間に「リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道」が開業する。

 この鉄道は世界で初めて客車に人を乗せて走る、旅客鉄道として開業した。


 この2つの鉄道により、陸路で大量の人や物資を運べるという鉄道最大のメリットが注目され、ヨーロッパはもちろん世界中で鉄道建設ブームが巻き起こる。


 しかしこの鉄道ブームに全く関わってない一つの国が。



 はるか極東に位置する国、日本である。

 当時の日本は鎖国中。唯一欧州で繋がりのあるオランダからようやくレイルウェイ(当時まだ「鉄道」という単語がなかったとされる)という存在を知らされたのはそれから10年も経った1840年のことだった。

 しかもただあると言うことしか聞いてないのか実感もわかないのかそれだけであった。


 日本人が初めて鉄道に乗ったという記録は1845年、アメリカに漂流したジョン万次郎が現地で乗ったというのがある。


 1853年、異国の軍艦4隻が長崎の港にやってきた。


 ロシアエフィム・プチャーチン率いる使節団が日露和親条約を結ばんとやってきたのだ。


 条約締結のおみやげとして持ってきたのが蒸気車の模型であった。半年に渡る交渉期間中、日本人を艦上に招きその模型を見せ、懇切丁寧に欧州の技術力を解説していたという。

 招待された幕府の旗本、川路聖謨(かわじ としあきら)や佐賀鍋島藩の
本島藤夫や飯島奇輔らはその模型を見てすごかったとコメントしている。



 続いて1854年、アメリカのマシュー・ペリー率いる使節団が2度目の来日を果たし、日米和親条約を結ぶに至った。


 その過程でペリーは13代将軍徳川家定に大型の鉄道模型を献上した。


 模型とはいえ蒸気機関車に機関士が乗って運転できるもので、客車には乳幼児くらいなら乗せる事が出来るほどのものだった。

 この模型を横浜で実演走行させることになったのだが、幕臣・河田八之助が「屋根にまたがれば乗れるのではないか」と言ってその模型に「乗車」した。

 日本人が日本の地で初めて客車に乗った瞬間だった。

 模型列車は意外とスピードが速く、時速20マイル(およそ32km/h)まで達したと言う。
 そのスピードに振り落とされないよう必死にしがみついていた河田についてペリーの遠征記に滑稽に書かれてしまっていた。

 またこの時、幕府の代官江川太郎左衛門は自ら機関車を運転したいと申し入れ、見事運転を成功させている。


 これらの出来事に興味津津だったのが佐賀藩。


 からくり儀右衛門の異名を持ち、東洋のエジソンとも呼ばれた田中久重を中心としたチームによって全長27cmほどの機関車模型を完成させた。

 この機関車模型はアルコール燃料で自走する事が可能。模型とはいえ日本人が初めて作った機関車となった。

 余談だが田中久重は後に芝浦製作所、後の東芝を作ることになる。


 ここまで模型ばかりだったが、1858年には長崎に本物の蒸気機関車が持ち込まれ、1ヶ月間に渡ってデモ走行が行われた。
 これはイギリスが中国向けに造った期間762mmの軽便鉄道用機関車であった。



鉄道は国家プロジェクトで


 これだけのイベントが起こるから、日本人の間にも「自分の国で列車を走らせてみたい」という願望がふつふつと湧きおこってくる。

 事実、影響をうけまくった佐賀藩をはじめ、薩摩藩や幕府でも鉄道を作ろうという声が上がっていた。

 実際に明治になる1年前の1867年、幕府の老中である小笠原長行はアメリカ領事館のアントン・ポートマンあてに江戸~横浜間の鉄道設営の免許を与えていた。
 これは日本人は土地のみを提供し、経営はアメリカに任せると言うものだった。

 明治維新後にこの免許の履行を新政府に迫ったが却下された。「この書面の幕府側の署名は、京都の新政府発足後のもので、外交的権限を有しないもの」とのことである。


 しかし明治新政府の元、西洋を見本に近代化を推し進める中で近代化の象徴の一環として、鉄道を敷設しようと言う声をあげた人物がいた。


大隈重信伊東博文である。

 近代化に伴い、人や物資の輸送量は膨大になりつつある。元々長けていた海運だけでなく、陸上交通も効率化を図りたい思いがあった。


 しかし西郷隆盛を中心とする軍隊などからは反対の声が上がった。

 この頃、版籍奉還によって各藩が抱えていた借金を政府が肩代わりするようになったため、国から出る予算が難しかった。
 また、ヨーロッパのアジア方面への植民地化が活発だったゆえ、それに対抗するために軍隊の強化を先にするべきだという考えも多かった。

 それでもまずは実物を見せなければ話は進まないとされ、モデルケース的な鉄道を一つ作ろうという考えに至った。

 そして1869年、ついに江戸改め東京と港のある横浜の間29kmを結ぶ鉄道の建設が決定された。


 ちなみに「鉄道」という日本語を作ったのは1万円札でおなじみ、福沢諭吉であるらしい。


 この決定が下された時に動いたのがイギリスの駐日資本家カンフェルらである。
 彼らは経営権をこちらが持つ代わりに資本やノウハウを提供することを申し入れてきた。

 しかし大隈らはこれが植民地化の布石になりかねないとしてこれを却下。事実インドの鉄道という例が既にあった。


 とはいえ、素人同然の日本人に自力で鉄道を建設するなど到底無理な話であった。そこで技術力などの援助をイギリスに要請した。
 イギリスを選んだのはやはり鉄道発祥の国としての技術力の評価であろうが、駐日公使ハリー・パークスの提言がとても建設的だったからだともされている。


イギリスからの支援で念願の開業へ


鉄道建設が決定し、イギリスからの技術支援も行われる事にもなり、いよいよ建設が実行されるにあたって1人の技術者がお雇い外国人として来日した。


彼はその名をエドモンド・モレルという。


 これまでオーストラリアやセイロン島の鉄道建設に関わっており、その実績や職務への忠実さからパークスの推薦で建築師長に任ぜられた。


 そのモレルと大隈との間で鉄道建設においてもっとも重要な事が決められた。


 ゲージ(軌間)である。


 敷設用地、トンネルや鉄橋の大きさ、車両と言ったものは全てゲージが基準になって作られる。
 ゲージが決まって鉄道全体の企画が決まると言って良い。


 しかし当時の大隈らにはその重要性がすぐには理解できなかったようだ。なにしろ大隈は実物の鉄道を見た事がなかったのだから。

 伊藤博文は長州藩時代にイギリスに留学していてそこで鉄道を見ているようだが鉄道のシステムについては十分知識があったとは考えにくい。


 そんな中モレルはオーストラリアやセイロンでの鉄道建設の経験から狭軌(1067mm=3フィート6インチ)を採用する事を進言した。当時の日本の経済事情、また土地の狭さを考えると標準軌(1435mm)よりも狭軌の方が適してると考えたのかもしれない。
 大隈もまた知識の乏しさからなるべくモレルに任せてその中からなるべく手っ取り早く安くすむ方法を採った結果が狭軌だと思える。


 そんないい加減さを思わせるのが50年後のコメントで、狭軌採用が間違いだったと自ら認めるのである。


 事実、鉄道開業から140年くらい経った現在でも日本の鉄道は軌間の問題に直面し続けているのである。


 ゲージの決定はgdgdであったが、1870年にモレルの指導のもと本格的に工事が始まった。
 日本側では井上勝が1871年に鉱山頭兼鉄道頭に就任。
 井上は数々の鉄道事業に関わり「日本の鉄道の父」とまで呼ばれるになったがそのキャリアの第一歩であった。


 鉄道敷設に際し、枕木は金属製のものを使う予定であったが、モレルの進言では「日本は森林が豊富なので木材を使った方が予算的にも合理的」ということで木材の枕木が使用された。
 ここで木材を使ってなければ枕「木」という言葉にならなかったかもしれない。


 さて、計画当初は軍からの反発もあったわけだが建設中にも反対の声は上がり続けた。


 兵部省は太政官に浜離宮周辺を海軍用地としたい旨を伝えたが、民部省が同地を鉄道停車場(後の初代・新橋駅)にするべく工事を開始してしまったたためこれに抗議、鉄道建設反対の建議書を提出している。

 また途中、薩摩藩邸付近を通過することになるがその近隣からも反対運動が起きてしまい、結局会場に築堤を設けその上に線路を敷設する海上線路になった。
 全長29kmあるうち、およそ3分の1にあたる10kmが海上線路である。


 このようなゴタゴタもあったがなんとか建設工事は終了し、列車の試運転が行われそれに伊藤博文も乗り合わせていた。

 あとは停車場の整備を順次進め、1872年5月7日(この日付は旧暦でグレゴリオ暦では6月12日になる。)品川~横浜(今の桜木町)で仮営業が開始された。

 この時1日に2往復、途中停車駅なしというものだったが、翌日には6往復の運転に、そしてのちに川崎駅と神奈川駅(現・廃止)が開業した。


 仮営業は順調に進み、新橋駅(のちの汐留貨物駅、現・廃止)~横浜間が9月12日(グレゴリオ暦では10月14日)に開業した。



 開業式典は新橋駅で行われ、その最初の列車には明治天皇が乗車した。これが最初のお召列車である。

 出発時には日比谷練兵場(現在の日比谷公園)にて近衛砲兵隊による101発の祝砲が、品川沖に停泊していた海軍の軍艦からは21発の礼砲が轟いた。
 ずっと建設に反対していた軍隊がこのように鉄道開業を祝うのは皮肉な話である。

 翌15日には正式に本格営業が始まった。1日9往復。全線の所要時間は53km。表定速度は32.8kmであった。


 これを記念の日とするべく1922年には10月14日を「鉄道記念日」と設定した。
 のちに1994年には現在の「鉄道の日」と改称されている。

そして鉄道網は急速に広まる



 さて、開業当初の鉄道であるが、車両は全てイギリスから輸入された。
客車は上等・中等・下等の3階級に別れており、料金は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘。
 下等でも米が5升半(約10kg)買えるほどの高額料金だったとされる。


 鉄道員は士族が多かったことから乗客への態度は横柄であったと言われる。


 イギリス方式をモデルにしたからか機関車の運転やダイヤ作成はもっぱらイギリス人が行っていた。かれらの給料は日本の高官をしのぐほどの高給だったと言われている。


 開業当初の営業成績は好調で大幅な利益を得たことから、「鉄道はもうかる」という認識が広まり、全国に私鉄を中心に鉄道網が広がった。


 極東のずっと鎖国していた国が維新からわずかな時間で鉄道を開業させただけでなく、その後30年で7000kmを超える鉄道網を展開させたのは驚愕すべき事実であり、またこれが近代化を支えてきたと言えよう。


 今年で鉄道開業140年。絶えず進化・変革してきた鉄道はこのような原点を持っているのである。


2012年10月14日


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