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ひいらぎレールジャーナル第二回

    

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第二回「夜を駆ける蒼い流れ星、再デビューした特急」



 東海道新幹線の開業は東海道本線・山陽本線の昼間のダイヤを大きく変えた。特に東海道本線を走る昼間の特急が全てリストラされたことが当時の時代の転換を象徴していると言える。



 一方、夜を駆け抜ける寝台特急列車は 「蒼い流れ星」 とも呼ばれるブルートレインの人気が絶賛上昇中であった。
 新幹線が出来たと言っても大阪までだったので、九州へ行く人にとってはまだまだ夜行の方が有利だったのである。


 そんなわけで1・2列車 さくら 、3・4列車 みずほ 、5・6列車 あさかぜ 、7・8列車 はやぶさ に続いて、5番目の蒼い星が流れ出したのだった。その列車は9・10列車と番号がふられ、この愛称が付けられた。




富士


と。


 富士の名は元々戦前、最初の特急列車の愛称として登場し、近年 「はやぶさ」 と共に最後の九州ブルートレインとして残り、2009年3月14日に廃止されたということで有名であるが、この寝台特急の 新しい人生 の始まりはまさにこの時である。


その時のダイヤがこちら



富士の編成は電源車1両と14両の客車の15両編成で、1号車と8号車に1等寝台車(今のA寝台車)、2号車に食堂車、7号車に2等座席車(今の普通車)、その他が2等寝台車(今のB寝台車)という内容。8号車から14号車は東京~下関でのみ連結される付属編成だった。

 この編成内容 「みずほ」 と同様である。
 当時は1等寝台車の中でもA,B,Cと三種類のグレードが存在し、みずほと富士はBのみが存在。 さくらはやぶさ はAとBの2グレード構成とやや格が高め。
  あさかぜ もAとBだが、1等寝台車自体が6両もあり、ブルートレインの中でもフラッグシップ的な存在だった。
 これで見ると富士はみずほと共に格下の感があった。


 他の寝台特急が全て博多を通り、九州の西側や南側を結んでいるのに対して、富士は日豊本線を通り九州の東側の輸送を担う列車となった。
 その後年を経て宮崎や西鹿児島まで運転される時代もあり、富士は廃止の日まで日豊本線を代表する寝台特急として存在し続けるのであった。



 ところでこの富士、寝台特急として再デビューを図る前に2度の人生を送っている。


 1度目は先にも述べたが、最初の特別急行列車。走り始めたのは明治45年(1912年)だがこの時はまだ愛称と言うものがなかった。
 実際に愛称が付いたのは昭和4年(1929年)と世界恐慌の煽りをうけ、日本も大不況の真っただ中という頃。

 どうにか世の中を明るくできないかと考えていた鉄道省(JRの前身の国鉄の前身)は東京~下関を結ぶ2本の特急に一般公募によって愛称をつけることを思いつく。
 そして数ある応募の中から見事1位に輝いたのが「富士」であり、2本のうちの片方に付けられた。
 ちなみにもう1本の特急には3位の 「櫻」 という愛称が付けられた。2位には 「燕」 が入っていたが、これは後に東京~大阪・神戸を当時としては恐るべきスピードで駆け抜けた特急の名前になる。

 そういうことで各特急の最後尾にはその列車の愛称が書かれたテールマークが取り付けられ華々しく東海道を駆け抜けたが、そのうち戦争が始まると鉄道は徐々に軍需輸送に特化されていく。
 1942年には関門海峡トンネルが開通し、九州は長崎まで運転区間が伸びたものの翌年
には「特急」というものがなくなってしまい、富士は 第一種急行 という種別に変更されてしまう。そして戦争が激化した1944年に廃止となった。命名から15年で消えるという運命にさらされたのだった。



 戦争が終わり16年が経った昭和36年(1961年)10月、全国で大規模なダイヤ改正が行われた。ファンの間では サンロクトオ と呼ばれている。

 この改正は7月に 「もはや戦後ではない」 と経済白書が歴史的名フレーズを残した通り、戦後からの復興が終息し、次の高度経済成長を見据えたものだった。
 事実この頃から列車の混雑は増す一方、大幅な列車の増発が必要だった。


 そんな状況から実に13本の特急が登場したのだが、その中に「富士」の姿があった。今度は電車の特急として東海道本線の降臨。1日2往復が設定され、1往復は東京~神戸だが1往復は東京~宇野で運転。当時の宇野は宇高連絡船を介し当時の宇野は宇高連絡船を介し四国の高松に連絡するための重要拠点。富士は四国連絡の役目も担い、 つばめ・はと・こだま・おおとり と言った名だたる特急達と共に東海道を疾走したのだ。


 しかし新幹線建設はすでにこの頃より前から既に始まっていた。電車特急として再デビューしたと同時に余命宣告をされた瞬間でもあった。


 結局、富士が電車特急として君臨したのはわずかに3年。新幹線の開業に伴い特急達はそれぞれ転勤を命ぜられる。こだまは新幹線へ。つばめ・はとは山陽本線へ。おおとりは北海道へと大異動しているがそれはまた別の話。

 その頃、寝台特急みずほは熊本行きと大分行きの2つの行き先を持っていた。だが門司で大分行きを切り離すと7両編成。少なくとも博多まではフル編成が欲しかったし、さらに増える需要を考えると大分行き編成を独立させてもう1本寝台特急を仕立てるべきと考えた。


 そんな背景から東京~大分の新しい寝台特急の任は職にあぶれかけてる富士に託されることになった。特急として3度目の門出となった富士は1度目は15年、2度目は3年の命だったのに対し、実に45年もの間走り続けることになるという安定感を世に見せつけた。
 西鹿児島行きの時は1574.2kmを24時間かけて走りぬく定期最長距離列車ともなった。


 こうして富士はブルートレインの衰退によって一つまた一つと消えゆく僚友を見送りながら最後まで残り続け、東京対九州ブルートレイン終焉を自らの幕引きで飾ったのであった。


 ところで本州と九州を結ぶ寝台特急は消えても寝台特急が消えたわけではない。東京からは高松行きと出雲市行きの電車寝台特急、 サンライズ瀬戸・出雲 が出ているし、豪華寝台特急、 カシオペア と、 トワイライトエクスプレス は健在だ。また今なおブルートレインで東北・北海道方面へ向かう、 あけぼの や、 北斗星 は当分安泰のようだ。

 さらにJR九州によると九州を1周する豪華寝台特急を計画中だと発表している。昔とは寝台特急を使う動機が変わってきてはいるが、まだまだ可能性がなくなったわけはない。

 今後の寝台特急の動向にも注目である。

2012年1月22日
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