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上水と江戸の発展


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天正18(1590)、徳川家康の江戸入府と同時に、良質な飲料水を得るために上水が造られたと伝えられている。家康は江戸の街づくりの第一歩として、何よりもまず飲料水の確保に目を向けたのである。家康は、江戸入城にともない上水道の整備を大久保藤五郎に命た。藤五郎は、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流した。これが、江戸の上水道の始まりであり神田上水の原型と言われている。(藤五郎はこの工事の功績により、主水の名を授かった)

徳川幕府の発展と共に、江戸の街も大きくなり、三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになったのに対応するため、上水設備の拡張工事が行われるようになった。当時は、いくつかの自然河川が江戸の街を流れていたが、その中で最大の河川だった井の頭池を水源とする川(つまり神田川)を利用して、神田上水が作られた(寛永六年)。江戸への供水は、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へ導かれ、その後地中の導水管へと続き、現在の水道橋のあたりで掛樋となって神田川を渡り、駿河台方面へと供水された。関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれた。上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流は神田川と呼ばれるようになった。神田上水の工事は今でいう一大公共工事だったため、多くの人間が工事に参加した。その中の一人には松尾芭蕉もいたと言われているその当時芭蕉が寝食を行った家が関口芭蕉庵として残されている。

承応3年(1654)には玉川上水が完成したことで、世界有数の100万都市江戸の人々の暮らしを支えた。多摩川の羽村の堰で取水された水が、江戸中央部へと給水を行い、神田上水は、小石川地区から神田川以南の日本橋、京橋、大手町地区に供水していた。また、本所、青山、千川、三田の4上水が整備され江戸周辺へと給水された。

   *玉川上水が出来るまで

江戸で使う水は最初、湧き水や溜池、周囲の小さな河川のものを使っていたが、人が増え、町が広がるにつれて、それだけでは足りなくなってきていた。

承応元年(1652年)徳川家綱が四代将軍になって早々、幕府は、清い水の豊富な多摩川から江戸に上水を引く計画を立て、工事を願い出ていた庄右衛門・清衛門兄弟に金7500両を払い、請け負わせた。

 承応2(1653)44日から工事に着工。羽村の取水口から四谷大木戸(現在の新宿御苑前)まで約40キロを、武蔵野台地の最も高い稜線に沿って掘り進んでいる。取水口から四谷大木戸までの標高は約92メートルで、その傾斜を利用して水が流れるよう設計してある。測量は暗闇の中で束にした線香や提灯の明かりを利用したといわれる。機械のない時代にクワやツルハシなどを使ってまったく人力で掘ったにしては、43キロもの長さをたった8ヶ月、11月15日に工事は完了した。当時の水道としては世界一の規模と言われている。

 幕府は庄右衛門・清衛門兄弟に玉川の苗字を名乗ることを許し、後に2百石を与えた。

 玉川上水は江戸の飲料水の貴重な水源だったが、1722年享保7年)以降の新田開発によって多くの分水が開削され武蔵野の農地へも水を供給し農業生産にも大いに貢献した

:玉川上水の出発点である羽村:

江戸時代では羽村・五ノ神村・川崎村の3つに分かれ、幕府が直接治める天領と数人の旗本の領地になっていました。水田は多摩川に沿った所に少しある程度で、大部分は畑でした。しかも、このあたりは多摩川が武蔵野台地を削ってつくった階段状の地形(河岸段丘)のため、水田のある所以外は水に乏しく、土もやせていて、野菜や雑穀がようやくできるといった状態だったようです。

こうした村の生活に、玉川上水ができたことで大きな変化が起こります。先に述べたとおり、玉川上水は長大な土木構築物です。特に羽村の堰には、多摩川を横切っている堰本体、二つの水門と余り水の吐き口、そして上水路の土手があり、それぞれが竹・石・木・土などを組み合わせてつくられた複雑な構造をしています。これらのどこかに少しでも不具合があると、江戸まで水が送れません。ですから日ごろのちょっとした補修はもちろん、大水の後には大掛かりな修理が必要なこともたびたびでした。また、水量の管理も大切です。刻々と変わる多摩川の水量と江戸で必要な水量を考え合わせて水門の開き具合を調節しました。
こうした玉川上水の管理をするために、羽村には陣屋と呼ばれる幕府の役所が置かれ、その下で実際の仕事、作業を請け負う水番人と呼ばれる人が働いていました。水番人は日常の管理の仕事のほか、大きな修理が必要なときは、工事の内容を決めた仕様書をつくります。それをもとに陣屋が入札にかけて工事の請負人を決めました。水番人はこの入札に個人として参加することを許されていました。
大水が出て緊急の時には、羽村・五ノ神・川崎の各村はもとより近隣の村々から人が集められて応急の処置にあたりました。これは幕府の命令で、夜中でも、畑が忙しくてもやらなければなりません。けれども、玉川上水で大きな修理があると、経済的に余裕のある人は入札に参加し、そうでない人も人足として働いて稼ぐことができましたから、村人にとってはひとつ働き口が増えたといえるでしょう。幕府は年間に600両という大金を堰の管理や修理のために使っていたことが記録に残っています。
水番人をはじめ、入札に参加するような農民は、いつでも必要な資材や、人手を集められるように準備するなど、現在の土木建設業に近いような仕事をしていました。玉川上水ができて以来、羽村にはこうした人が何人も出るようになり、まわりの村とはしだいに少し違った様子を持つようになりました。

http://park5.wakwak.com/~toshkish/index_ie.html 江戸なんでも工房

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「雑学大江戸事情」石川英輔 講談社文庫

「玉川上水 水と緑と人間の賛歌」アサヒタウンズ編 けやき出版