始まりは一歩から

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200X年8月○日(月)晴れ

──夏の晴れた空はまるであんたみたいね。

そう言ってこなたに笑われたのはいつだったかな。
暑い夏空の下、学校帰りに蒼髪をたなびかせながら駆け回る後ろ姿にそう声をかけたことがあったよね。
空とこなたとを隔てるものは何も無く、青い風になって空を駆け上がるように走る姿は、まるで空の精が地上に舞い降りたかのようだった。
どこまでも澄んでいる空はこなたの心そのものを表しているようで、気がつけばそんなことを口走っていた。

こなたはひとしきり私をからかった後、本当に太陽みたいなまぶしい笑顔を見せてくれたね。
私は日に焼かれたように真っ赤になりながら笑ってた。
こなたの光を受けて輝くように笑ってた。

こなたが笑うと世界は晴れる。
ううん、例えこの世界で雨が降っていても、私の心は晴れ渡った空のように爽やかになる。
こなたの見せてくれる笑顔は、私の心を明るく照らす太陽なんだ。


『始まりは一歩から』



「ふう、あともう少し」
きりのいいところまで問題を解き終え、んーっと背伸びをする。
凝り固まった肩の緊張をほぐしてリラックス。
開けた窓から時折吹き込む爽やかな風がとても気持ちいい。
部屋に差し込む朝の光は明るくて、見上げた先にある天井は真っ白に輝いている。
気分は上々、万事順調に進んでる。

今日は朝から夏休みの宿題に取り掛かっていた。
いつも学校に行く時間よりも早起きをして、机の上に積み上げられた課題の山を次から次へと片付けている真っ最中だ。
どうしてこんな朝早く起きて勉強してるのかというと、理由はひとつしかない。
それは昼間暑くて集中できないから。
早起きは三文の徳ということわざがあるけれど、今まさにそれを実践しているわけだ。
普段形式ばっているわりに余りそういう格言の類は信じていないのだけど、このことわざだけは間違いないと思う。
特にこの暑い季節になると、早朝の効果は絶大。
疑うのなら試しに真昼のうだるような蒸し暑さの中で勉強してみればいい。
エアコンをつければ済む話といえばそうだけど、不思議なことに昼間は気分的に暑く感じてしまって集中力が落ちるのだ。
夏休み中の勉強は涼しくて頭の冴えている朝にするというのが、長年まじめに取り組んできた私なりのやり方だ。

シャーペンをノックしながら、目の前にある英文の並び替え問題に取り掛かる。
──はぁ、またこの問題か。
幸い基本的な文法が身についていれば、それほど困る問題ではない。
条件反射のように問題をこなしながら、我ながら真面目だなあと、どこか他人事のように冷めた目で自分を見つめていた。
そもそもどうして私はこんな朝早くに起きて頑張って勉強してるんだろう、
なんて疑問を感じることも昔はなかったのに、最近やたらとそう思うことが多い。
──昔と比べて治ってきた証拠なのかな。
それが良いことなのか悪いことなのか、一概には言えないけど、私に限って言えば良い傾向だと思う。
近頃は適度に力を抜くことも覚えたし、無駄な力が入ってガチガチだった昔と比べればかなりマシになってきた。
そうとは言え、勉強だけはしっかりさぼらず続けている。
こればかりはおろそかにするわけにはいかないからね。

でも、こんな朝早くから勉強に取り組んでいる私は、ちょっと普通じゃない。
時計に目をやると、まだ朝の7時。
つかさなんかはまだ熟睡してる時間だ。
6時ちょっと前に起きたから、もうかれこれ1時間は勉強していることになる。
昼は暑いからというのも確かに早朝の勉強(略して早勉?)の理由のひとつだけれど、もっと別の理由があるはずだ。
そうでなければ夏休み中の学生ならまだ寝ているような時間に起きてまで勉強はしない。

強いて挙げるなら、早く宿題を仕上げて受験勉強をしなければならないからだろうか。
まだ先の話とはいえ、いつまでもだらだらと宿題に時間をかけて受験のための勉強をおろそかにするわけにはいかない。
おそらくどこの誰が見ても今の私は立派な受験生として映るだろう。
宿題する理由を紙に書いて先生に提出すれば、“たいへんよくできました”の判子つきで返してもらえそうだ。
でも、それは優等生として振舞う際の見栄であって、本当はそんなでっち上げの理由ではないと思う。

──優等生か。
嫌な言葉を思い出してしまった。
きっと私は苦虫を噛み潰したような顔をしてると思う。
かつて優等生と呼ばれていた私は、その華々しい姿の裏に隠されているどろどろとした感情を知っている。
今でもそう見なされてはいるが、かつての私と比べるとかなり控えめになったほうなのだ。

みゆきのように知識を吸収することに無上の喜びを見出す域にはまだ達していないけど、
これまで勉強することに苦痛を感じたことは無かった。
昔から勉強することが当たり前だったし、それを疑問に思うことも無かった。
こう言うとただの真面目な学生に見えるかもしれないけど、私の場合は違った。
私にとって勉強はある種義務のようなものだった。
学生はすべからく勉強するべきだから、それに従って勉強する。
そこに私の主体性や目標は無く、ただただ従順で、疑問を感じることを知らなかった。
そんな本来の自分を置き去りにして勉強ばかりの生活を続けていれば、優等生と呼ばれるのも当然だった。
今にして思えば昔の自分は周囲の期待や評価ばかり気にしていた気がする。
それが結果的に自分を追い込んでいくのも知らず、愚かにも優等生と呼ばれることに誇りのようなものすら感じていたんだ。

──あー、また嫌なこと思い出そうとしてる。
一人で勉強していると、たまにこうやって昔の自分を思い返してしまうことがある。
思い出とは全てが良いものでできているはずはなく、当然思い出したくも無いようなこともいっぱい詰まっているわけで。
思い出さないようにと強く念じれば念じるほど思い出してしまうで、こういうときはそのまま気が済むまで放っておくことにしている。

自然と目に浮かんでくるのは、小さな頃の私。
思い出の中の私は、泣きべそをかいたつかさをなだめながら手を引いていた。
そんな姿が象徴するように、私は昔からしっかりした真面目なお姉ちゃんと呼ばれてきた。
姉としての立場上つかさよりしっかりしなきゃと気負って、周囲の期待に応えるように人一倍勉強に励んできた。
そうして努力した結果を褒められるのはとても嬉しかったし、
お姉ちゃんすごいねとつかさから言われるたびに、私の自尊心は満たされていった。
でもそうやって努力してる内に、だんだん私は意固地で融通のきかない性格になっていったように思う。
どこで間違ったんだろう。
ただ私は認めてもらいたかっただけなのに、どこでおかしくなってしまったんだろう。
勉強してよい点数を取っても、いつの間にかそれが当たり前になっていって。
あいつはもとからできる奴なんだって勝手に周囲から決め付けられて、私が積み重ねてきた努力は無視されるようになった。
分からない問題があってもそんな素振りを見せるのが怖くなって、それでなおさらがむしゃらに勉強して。
人に弱みを見せることも、辛いときに甘えることもできなくなっていた。
努力を認めてもらえない悔しさと、自分の心を理解してくれない周囲への怒りに心が押しつぶされそうになることもあった。
お父さんやお母さんはそんな私のことを気にしてくれていたけど、
これ以上余計な心配を掛けたくないという思いから素直に相談することもできなかった。

小さい頃ってどうしてああも素直になれなかったんだろう。
どうして自分のやりたいことをやらなかったんだろう。
ほんの少し余裕が出てきた今になって振り返ってみると反省すべき点が多くあったと思う。
他人にも自分と同じように厳しく接して、正しいと思ったことには妥協せず、私は意地を貫き通していた。
そしていつしか私は近寄りがたい存在と思われるようになっていた。

『柊って、冷たいよな』
だからそれは言われて当然の言葉だったのかもしれない。
中学3年のときだったと思う。
いつものように次の授業の準備中、隣の席に座っていたクラスメイトに宿題を見せてくれと頼まれたときだった。
高校受験を控えた時期だったこともあり、私は勉強は自分でしなければいけないこと、
宿題を写しても結局は自分のためにならないことを切々と語った。
別に出し惜しみをしたわけでも、意地悪をしたのでもない。
本当にその人のためにならないと、相手のことを思って言ったつもりだった。
でも私の思いは伝わらなかった。
私の言葉はことごとく裏目に出て、返って来たのは冷たいという一言だけだった。

すごく、辛かった。
他人から直にその言葉を突きつけられて、私ってそんな風に思われているんだと嫌でも思い知らされて。
今以上に敏感で多感な時期だった私は、その言葉に大きく傷ついた。
努力は認められず、正しいと思っていたことも打ち砕かれ、思うようにならない現実に私は挫けそうになった。
数少ない友達である日下部や峰岸がフォローしてくれなかったらと思うと、今思い出してもぞっとする。

──そうして高校に入り、こなたと出会ったんだ。
窓から差し込む日差しが強くなり、温かな太陽の恵みが私の部屋へ差し込んでくる。
こなたの笑顔のように明るい光が私の心にも差し込んできて、暗くなった心の中にぱっと明かりを灯してくれた。
こなたは私を明るくする。
私を幸せにしてくれる。
その心地よい温かさに私はすこし微笑んだ。

こなたとの出会いは今も忘れられない。
入学して間もない頃、私はつかさから昼休みに友達を紹介するねと言われて一人教室前の廊下で待っていた。
つかさが見知らぬ外国人に道を尋ねられていたところを助けてくれたお礼もしたかったし、
それに人見知りをする妹が珍しくすぐに仲良くなった友達ということもあり、興味を引かれたのだ。

待ち合わせの時間より少し遅れて、つかさは小学生かと見まごう程の小さな女の子を連れてやってきた。
床に届くかと思われるほど長く伸ばした青髪に、吸い込まれるようなエメラルドの瞳。
容姿もさることながら、それ以上に驚かされたのは、私を見るや否や理解不能な言葉を放ちつつ
嬉しそうに私の元へ駆け寄ってきたことだった。
こういう言い方をするとまるでこなたが危ない人のように聞こえてしまうが、
あいつはいたって正常だし、それにすごく可愛かったし……。
……で、近寄りがたいオーラを発していた当時の私は、どちらかというと恐る恐る話しかけられることが多くて、
いきなり親しく話しかけられたり、駆け寄ってこられたりすることに慣れていなかった。
それに追い討ちをかけるように意味不明な言葉の羅列を投げかけられれば、まごつくのも当然。
驚きと戸惑いの中どう対応すればいいのか分からず、まるでいきなり外の世界に放り出された小さな子供のように唖然としてしまった。
あのときのこなたの姿と戸惑う私を思い出すと、今でも噴出しそうになる。
失礼にならないようにと、わざわざ人に会う時のマナーと儀礼用の笑顔を思い出しながら待っていた私は、今思い返しても滑稽だ。
それはそうだ、まさか出会って早々ツンデレでツインテなんて当時の私、
いやほとんどの人にとって訳の分からない用語を連発されるとは思いもしなかったのだから。

衝撃の初対面から立ち直ると、こなたは表情を一転させて真面目な顔で私の目をじっとのぞき込んできたのを覚えている。
くるくると変わる態度にまたしても混乱しそうになったけど、それを引き止めたのはこなたの目だった。
一切の曇りの無い、どこまでも透き通った純粋な目。
人は余りにも美しいものに出会ったとき、その美しさを表す言葉が見つからないものらしい。
だから後になってそれを神秘的という言葉で表すのだろうか。
ただの私の目の錯覚だったのか、それとも私の心の動揺がそう見せただけなのかは分からない。
純粋で透き通っているがゆえにどこまでも深みに落ちていきそうな目は、
その小さな外見には似合わないほどの落ち着きと物事を深く見抜く目を感じさせた。
矛盾していると自分でも思う。
でも、私がそれまで優等生を演じるために被ってきた仮面をすり抜け、
心の奥底にある弱い本当の自分を見透かされているような気がして、怖くなって目を逸らしてしまった。
──見られたくない。
目の前の初めて会う人に自分の弱さを見抜かされることが、ともて怖かった。

こなたが私の心に何を見たのかは分からない。
満足したのか急に笑顔に戻ると、その日何度目かになる『ツンデレだっ』と確信めいた言葉を口にした。
その言葉の意味は全く分からなかったけど、こなたの口調がさっきまではしゃいでいた時とは異なり、穏やかなのに気付いた。
とても優しい口調だったと思う。
当時の私では上手く言葉で表すことができなかったけど、その言葉を聞いてとてもくすぐったくなったのを覚えている。
久しく感じることの無かった気持ち。
昔感じたことのある懐かしい気持ち。
それを何て呼び表すのかは分からない。
でも、まるで私の心を覆っていた氷のひとかけらがはがれ落ちていくように心がすっと軽くなっていくのを感じた。

その時からだろうか、自分の心の中に違和感を覚えるようになったのは。
不快な感情とも違うそれは、こなたと会うたびに私をくすぐったくさせた。
まるでしもやけになった手で温かい部屋に入ったときのような、とでも言えば伝わるだろうか。
当初はこなたと再び会うつもりなんか無かったけど、おっちょこちょいの妹の面倒を見るために、
私は何度もつかさのクラスに足を運ばなければならなかった。
つかさはこなたと喋っていることが多かったので、必然的に私は二人に声をかけることになる。
できることならばこなたと話したくは無かったのだけれど、一人だけ無視するわけにもいかず、
仕方なくといった風に私は話しかけていた。
別にこなたが嫌いになったから話さなかったんじゃない。
ただ、どうしようもなく私の心の中がざわめいて、むずがゆくなるのを止めることができなかったんだ。
それに──あの全てを見通すような純粋な目がどうしても苦手だった。

こなたはそんな私の態度を気にも留めず、嬉しそうにどんどん話しかけてきたのを覚えている。
その不自然なほどの馴れ馴れしさに違和感を覚えたが、何より不思議だったのは
どうしてこんな私に平気で話しかけてくれるのかということだった。
近寄りがたいオーラを全身から放ち、自分のクラスでも話しかけてくれる人がほとんどいない
私の一体どこが面白いのか、私は不思議でならなかった。
こなた風に言えば終始ツンツンしているのが面白かったのかもしれない。
本当の理由を知る由も無い私は、変わった奴だなと思いながら生返事をしているだけだった。
それでもこなたは飽きることなく、ぶっきらぼうな私に話しかけてくれた。
それがどれだけ得がたいものか、今ならはっきりと分かる。
こなたなりにずっと私に気を遣ってくれていたんだ。
こなたにとっても、生返事しか返さない私に話しかけ続けるのは心の折れる作業だったに違いない。
それなのに──私はそんなこなたを傷つけるようなことを言ってしまった。

こなたと会うようになって1ヶ月程経ったある日の放課後、私はつかさと一緒に帰るため、妹のクラスを訪れようとしていた。
窓から外をのぞくと、空はもう赤く染まり始めていた。
押し付けられて嫌々なった学級委員長の仕事の処理に追われ、帰りが遅くなってしまったんだ。
急がなきゃとかばんをつかんで教室を出ようとすると、ひとつだけ列からはみ出していた机に足をとられバランスを崩してしまった。
『いったぁ……』
したたかに打った膝をさすりながら、はぁーっと大きなため息をつく。
正直に言って、その時の私は色んな面倒ごとが積み重なって疲れていた。
真面目な性格の私は委員長に相応しいからという理由で、なりたくもない役を押し付けられただけでも面倒なのに。
ホームルームで議事を進行させようとすれば不平不満が起こり、
それでもきちんと委員長の役目を果たそうと仕事をこなしても、誰も私のことを見てくれなかった。
私がどれだけ頑張っても何の感謝もされないのだ。
中学の時と同じだと思った。
いつまでこんな学生生活が続くのか、行く当ても無く暗闇の中を歩き続けているような不安に押しつぶされそうになっていた。

疲れた足取りで教室にたどり着くと、そこにはつかさと、そして予想していなかったこなたの二人だけがいた。
──泉さん……。
疲れた私の心が、ふっと軽くなる。
相変わらずぶっきらぼうで生返事ばかり返すような私だったけど、
そんなこと気にせず話しかけてくれるこなたに、いつしか好感を持つようになっていた。
当然そんな態度は微塵にも出さなかったけど、話しかけられなかった日はずっと不機嫌に過ごしていた。
これじゃあ、こなたにツンデレだと言われても仕方がない。
その時もこなたと話せることをほんの少し期待しながら、憩いを求めるように教室に入っていった。

『──って面白いよね』
『そうかなあ?』
──えっ?

だから、つかさとこなたがその話をしているのを聞いた瞬間、私の足は止まった。
前に何度か経験したことのあるイヤな雰囲気。
自分の知らないところで悪口を言われている感じ。
否が応でも昔陰口を叩かれた記憶が蘇る。
そういう空気に敏感になっていた私は不安でならなかった。
いったい何の話をしてるんだろう。
もしかして、私のことじゃあ……。

『どこが面白いの?』
『そうだね、ずっとツンツンしてるし』
『ツンツン? そういえばそうかなあ』
『うんうん。かがみさんってからかいがいがあるし』
──っ!!

私の名前が出た瞬間、はっきりと血の気が引いていくのを感じた。
手の先は冷たくなって、体温が急激に下がっていく。
──不器用な性格の私をからかって面白がってただけなの?
こなたの笑顔が記憶の中でなお私をあざ笑い続けるかつてのクラスメイトの顔と重なり合う。
──これまで私に話しかけてくれたのも、私をおもちゃにして遊ぶためだったの?
心臓がぎゅっと握りつぶされたようで、鼓動が速くなる。
──今まで笑顔で私に接してくれたのも、全部私の反応を楽しむためだったなんて……。
そう思うと目の前が真っ暗になって。
──もういい、……分かった。
ついに我慢できなくなった。

『でもね、ほんとは──』
『泉さん、そうやってずっと私のことからかって面白い? 』
地の底から響くような声で話しかけると、こなたはびくっと驚いた。
『えっ、ううん、からかってなんかないよ』
『嘘よ。さっきそう言ってたじゃない』
『違うよ。嘘じゃないよ。そんなつもりで言ったんじゃ──』
『お姉ちゃん、これはちが──』
『じゃあ、どうして!!!』

どうして、こんなつまらない私なんかにずっと話しかけてくれたのよ。
同情してくれてるの?
私はそんな憐れみの目で見られていたの?
そんなもの、いらない。
あなたまでそうやって私をもてあそぶんだ。
いい人だと思ってたのに。
そんなことする人じゃないって信じてたのに。
私の心を少しでも軽くしてくれると思ってたのに。
そんな声にならない激情に体が震え、どこまでも無情な現実がどうしようもなく悲しくて涙が出てきた。

『どうして……どうしてよぉ……』

こんな私は見捨てられて終わりのはずだった。
こなたの気持ちを考えず、自分勝手な思い込みで怒鳴りつけた私は見捨てられて当然だったのに。
こなたはしばらく私の目をじっと見つめた後、怒りも、悲しみも、全てを包み込むような笑顔で応えてくれた。

『……やっと、私のこと見てくれた』
『あっ……』

その笑顔を目にした瞬間、私の心の奥深くに閉じ込められていた氷が崩れ落ちていった。
急速に静まる怒りの後には、ただ、ただ後悔のみが胸を占めていって。
心の中で溶け始めた氷が雪解け水となって怒りを押し流し、火照った私の体を冷やしていく。
でも同時に、心の奥底に明るい火種がぽっと灯るのを感じた。
それはとても温かくて、柔らかくて、優しくて、どうしようもなく私をくすぐったく、恥ずかしい気持ちにさせて、私の頬は真っ赤になってしまった。
怒りにまかせて叫ぶなんてことの無かった私はどうしていいのか分からず、ただただ顔を赤くして下を向くことしかできなかった。

一歩一歩こなたが私の元へ近づいてくるのを感じる。
ぎゅっと手を胸に当てて軽く目を開けると、上目遣いで私の目を見つめていた。
──あっ……。
その目は初めて会ったときと同じように不思議な色に満ちていた。
深いエメラルドグリーンはどこまでも透き通っていて、深く、深く私はその中へと沈んでいく。
どこまでも深く潜っていくと、やがて泣いている私が現れた。
どれも、見たことのない私の姿。
これまで人前で涙を見せることなんてなかったのに。
目の前に現れた私はずっと泣いていた。
これは本当に私なの? 昔の私? それとも……こなた自身なの?
どこまでが私で、どこまでがこなたなのか分からなくなるほど見つめあった後、
こなたはまたいつものニコッとした微笑みを見せてくれた。
さっき怒りにまかせて叫んだことも、私の近寄りがたい雰囲気も気にせず、
私が築いてきた心の壁も何もかも全て飛び越えて接してくれた。

『ツンデレさん』
そう言ってこなたは私の涙をぬぐうように、頬に温かい手を添えてくれた。
それが心に宿った火種をさらに燃え上がらせる。
心を覆っていた氷が、勢いを増して崩れ落ちていく。
こなたの手。
とても柔らかくて、あったかい手。
私の頬に触れる手はこんなにも小さいのに、こんなにも私を大きく包んでくれる。

でもその手は──震えていた。
私は自分の勘違いに気付いた。
落ち着き払ったように私を包み込んでくれた笑顔も、全部私のために精一杯作ってくれていたんだって。
怖くないはずがなかったんだ。
ずっと親しく話しかけていた人間にいきなり大声で叫ばれて、それでも笑顔のまま私に接してくれて……。
──どうしてそこまで。
気が付けばまた涙が溢れてきた。

『一緒に、帰ろう』
『……うん』
その震える手を、私に差し伸べられた手を二度と放さないようしっかりと握り締めた。
この小さな手が、精一杯私に向けてくれた笑顔が崩れてしまわないように、
その震えが止まるまで私はずっと、ずっと握り続けた。
それが、こなたとの関係を始めるために私が踏み出した第一歩だった。

「あっ……」
額に鈍い痛みを覚えて鏡を覗き込むと、すこし赤くなっている。
どうやら、少しまどろんでいたらしく、その間に打ってしまったんだろう。
それに目も赤い。
私はうっすらと涙ぐんでいることに気付いた。
「こなたっ」
あいつは今側にいない。
だから当然返事もこない。
でも、いつもそうしているようにその名を呼んでみたくなった。
そうしていると、とても大切な存在を側に感じることができるから。

結局高校に入っても優等生としての私の性格が急に変わるようなことはなかった。
けれど、ひとつ決定的に変わったことがある。
それはいつも私の側にこなたがいてくれるようになったこと。
こなたと何度も会う内に、私の心も次第に変化を見せるようになっていった。
こなたはいつも私に分からない話をして、それが分からず私は突っ込んで、
こなたはそれが嬉しいのかますます訳の分からないことを言って。
肩肘張らず、自然に力を抜いて話しているこなたといると、私も余計な力が抜けていくのを感じた。
相変わらずむずがゆい感じはなくならなかったけど、次第にそれも心地よいと感じるようになっていって。
ぽつぽつとではあるけれど、私からも話をするようになっていった。

こなたと普通に話せるようになった頃、どうして私に話しかけてくれたのか一度聞いたことがある。
最初こなたは困ったような顔をして『別に』とごまかしていたけど、
食い下がる私に根負けして『似たもの同士だから』と恥ずかしそうにポツンと呟いた。
じゃあこなたもツンデレなのねと私が切り返したときのこなたの様子は見者だった。
きょとんとした顔をした後、顔を赤くして猛烈にツンデレとは何かについての講釈を始めたのだから。
きっとこなたなりの照れ隠しだったんだろうけど、必死に巻き返しを図ろうとするこなたがとても可愛くて、
初めて私は心の底から笑うことができた。
口を開けて、声を出して笑うことなんて、前にしたのはいつだっただろう。
こなたはそんな私を見て、私と同じように笑い始めて。
しばらくの間私たちは二人して笑い合った。
楽しくて、心が晴れ晴れとして。
こなたとの掛け合いが楽しいって、心の底から思えた瞬間だった。
それに嬉しかった。
私のきつい性格もツンデレだって、私のダメな所を長所として捉えなおしてくれて。
あるがままの私を受け入れてくれたことがほんとに嬉しかった。

『ハァ……もうっ。仕方ないわね』
そんな口癖を使うようになった頃には、こなたと一緒に怪しいグッズを買うのにも付き合うようになって。
最初はバカにしていた趣味も、とても楽しそうにしているこなたと色んなものを見ているうちに面白い物もあることが分かってきて。
こんな世界もあるんだって、井の中の蛙だった私の世界を確実に豊かにしてくれた。
こなたの存在が私の高校生活をどれだけ実り豊かなものにしてくれたのか、一言で言い表すことなんてできない。
こなたが私に歩み寄ってくれたから、私も一歩を踏み出せた。
ずっと一緒に歩いている内に、こなたとの距離も縮まっていって。
今はずっと先の未来まで一緒に歩いて行きたいと思ってる。
ただ、その一歩がまだ踏み出せないでいるんだ。

それから、もうひとつ私を変える大きな出来事があった。
それは同じ学級委員長のみゆきと出会ったこと。
最初は嫌々やっていた委員長の仕事を続けることができたのも、彼女の存在に負う所が大きい。
私が一人悩んでいたときも、その豊富な知識で的確なアドバイスを与えてくれて、多くの面で助けてもらった。
それにみゆきと出会えたことで、私の勉強に対する取り組み方も大きく変わった。
それまでの私にとって勉強とはただの義務であり、周囲からの評価を勝ち得るための手段だった。
でも、みゆきは違った。
成績学年トップにとどまらず、並々ならぬ知識を有しながらもそれを一切鼻にかけず、
知らないことは相手が誰であろうと謙虚に学び、そして自分の中に広がる世界を豊かにしてくれたことにお礼を言う。
そんなみゆきの姿を見て、私はこれまでの自分を恥じた。
自分はこれまで勉強と言うものを自分を良く見せかけるための手段として利用しているだけだった。
そういう使い方しか知らなかった。
そんな低い地位に甘んじていた勉強を、みゆきは本来の輝かしい地位に返り咲かせてくれた。
知ることは喜びなんだと、学ぶことの本当の喜びを私は教えてもらったんだ。

医者になりたいんですと、ある日彼女は自分の夢を語った。
漫画やドラマの世界なんかではよくありふれた台詞なのかもしれないけど、現実世界では初めて聞く言葉だった。
でもその言葉が冗談じゃないということは、みゆきの目が物語っていた。
とても意思の強い目でずっと遠くの未来を見据えながら立つ姿は、大人を感じさせた。
『お恥ずかしながら』とはにかむ姿もとても嬉しそうで。
その笑顔を見て、私は自分がまたひとつ大きな勘違いをしてきたことに気付いた。
誰のためでもない、勉強は自分の目標のためにするものなんだって、そんな当たり前のことすら私は知らなかった。
みゆきの落ち着いた態度も、自信に溢れた表情も、ぴしっと伸ばした背筋すら自分の夢をかなえるという大きな夢があるからなんだって気付いて。
初めて私も自分のために勉強しようって、大きな目標を持ってそれに向かって努力しようと思うことができたんだ。

ほとんど奇跡と呼べるほどのめぐり合わせがあったおかげで、今の私がいる。
こなたに救われて。
つかさに助けられて。
みゆきに教えられて。

──今私はかけがえの無い友人たちに支えられている。
その思いに、熱いものがこみ上げてきた。

「やだ、こんな朝からなに泣いてるんだろう」
涙は止まってくれなかった。
でも、全然辛いとは思わない。
だって、とても温かい涙だったから。

しばらく幸せな涙を流したら、心の中が晴れ渡った空のようにすっきりとした。
朝の柔らかな日差しに照らされて、体もぽかぽかしてあったかい。
私は今こんなにも幸せな気分になることができる。
だって、こんなにも素敵な人たちに私は支えられているから。
それに、心の中に広がる青空にこなたの輝くような笑顔が浮かんでいるから。
「こなた……」

私を救ってくれて、私を楽しい気分にさせてくれて、私を幸せな気持ちにしてくれる、
どうしようもなくオタクな私の大好きな人。
少し前に宿題で分からないところを教えてあげたとき、それを理解したときに見せてくれた笑顔が
心の中の笑顔と重なり合う。
その笑顔を目にしたとき、まるで太陽が大地を明るく照らし出すように、
私の心の中いっぱいに嬉しさが広がっていって。
自分自身の勉強のためだからといつものように言い訳をして、
嬉しさで顔が綻びそうになるのを必死に耐えながら、私は心の中で笑ってた。
自分が教えることによって理解してくれることが、感謝してもらえることが、
こんな私でも頼りにされてるんだって強く実感できて。
そのことがとても誇らしかった。

──そっか、私こなたにちゃんと勉強を教えてあげたいんだ。
だから勉強会が明日に差し迫った今、必死で仕上げてる。

私はこなたのために勉強している。
そんな単純な答えにたどり着いたとき、私は自分の顔が熱を持つのを感じた。
からかわれたときに感じる羞恥でも反感からでもない、とても柔らかで心地よい温かさ。
部屋を吹き抜ける爽やかな風が、私の頬から熱を奪ってゆく。
その心地よさにしばらく目をつぶっていると、すごく幸せな気分になることができた。

──また、見てみたいな
そしてまた側で勉強を教えてあげたい。
ずっとあの笑顔の側にいることができたらどれだけ素敵だろう。
そんな幸せな空想に浸りながら目の前のノートに目を移すと、真っ白なままだった。
苦笑いを浮かべながらノートの上にシャーペンを置き、椅子の背もたれに倒れながらんーっと両手を高く伸ばす。
視界の端に映るカレンダーの明日の日付には、遠目からでも分かるように赤いマーカーで丸印が付けられている。
その下に書かれた“勉強会”の文字を見つけると、ふふっと笑みがこぼれるのを抑えることができなかった。
1泊2日の予定で、宿泊先はこの家、泊り客は私とつかさ、みゆき、そしてこなた。
泊まる場所は自分の家なのに、ちょっとした旅行のようにわくわくした気分になる。

気分転換に窓から身を乗り出して空を見上げると、まぶしい夏の日差しが照りつけていた。
その光に負けないくらい、元気いっぱいに輝くこなたと会える。
私をくすぐったくさせる甘えた顔も、猫のように人懐っこい顔も、全部見れるんだ。

──早く明日にならないかな。





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