コーヒーブレイク/カネフォーラ

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 ──地下鉄はあまり好きになれない。
 ──ときどき車窓の向こうに
 ──黄泉の国が見えそうな気がするから。

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『コーヒーブレイク/カネフォーラ』

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 喉が渇いていた。

 この電車に乗り換える時に、何か買っておけばよかったかも、と少しだけ思う。ま、いまさら後悔しても手遅れだけど。

 白々しい蛍光灯の光で照らされた車内。充満する猛烈な騒音に閉口しながら、私は軽く右手を曲げて腕時計で時間を確認する。このペースなら、こなたのバイト先には午後のシフトが終わる前に到着できそうだ。かれこれ百年近く前に、この路線を建設するのにかかわった多くの人たちに感謝したくなる。

 日本、というより極東地域におけるもっとも長い歴史を持つこの地下鉄は、一九二七年に浅草~上野間で営業運転を開始した。当時のポスターでは『東洋唯一の地下鉄道』というキャッチコピーが使われたという。もしそれを考えた人が、今や十数本の地下鉄が縦横に走る現在の首都圏の様相を見聞したら、果たしてどんなコピーをひねり出してくれるだろうか。

 平日のラッシュアワーであれば、おそらく呼吸困難を覚えるくらい混雑するのだろうが、幸い今は日曜の午後ということもあってか、混み具合はそれほどでもない。窓の外は当然のことながら真っ暗闇。渋野あたりまで行けば少しは地上の風景も楽しめるはずだが、残念ながら今日はその予定はない。

 それでも、目の届く範囲のほとんどの席は埋まっている。立っている人も何人か。なぜか自分の右隣だけは空席になっているけど。

 横向きの長いバケットシートには、さまざまな人たちがそれぞれの思いを抱えて座っている。たとえば、まだ十代前半と思われるカップル。何年たってもかしましさだけは抜けないおばさん達。ひたすら読書にふける初老の紳士。なにやら汗をかきながらノートPCと格闘しているビジネスマン。ベビーカーに乗せた赤ちゃんを幸せそうに眺める若い夫婦。さらには何人かコーカソイド系、アフリカ系、東南アジア系と思われる人の姿も見える。このあたりは、さすが国際都市東京とでも言うべきか。

 地下鉄特有の騒音だけはどうしようもないが、それでもシャカシャカとヘッドフォンを鳴らす莫迦、通路の真ん中近くまで汚い足を投げ出して眠りこける莫迦、大声で携帯電話を怒鳴りつけている莫迦、そういった連中が目の届く範囲にいないだけでもマシなのだろう。

 飲み物を買うことをためらったのは大した理由じゃない。地下鉄だって、こなたに半ば無理やり押し付けられた回数券がなければ、あえて利用しようとは思わなかったはず。つまり、今日の財布はかなり軽いのだ。こんな遠出をする予定じゃなかったから。

 たまには、自分もバイトのひとつくらい、と思うこともないわけじゃない。みんなと帰り道に寄るマクドナルド、たまに出かける時の電車代、はやりの洋服、きれいな靴、かわいい小物、教養を深める本など、お金の使い道は果てしないから。でもそれは、できる限り避けたい道でもある。

 まだ高校生だから、学業が忙しいからと言うのも、まるっきりウソじゃない。だからといってお小遣いをせびるわけにもいかない。ふたりの娘を私立の高校に、さらに上の娘を大学にまで通わせているのだ。家計が決して楽ではないことくらい容易に想像がつく。

 バイトがしたい、と言えば、きっと父は反対しないだろう。ただ、ほんの少しだけ悲しそうな顔をして。おそらくそれが、私にとって最大の障害なのだと思う。

 だからせめて高校生の間くらいは、なんとかやりくりできる範囲で人生を楽しむように努力したい。やがて通うことになる大学、それも私立大学ともなれば、否応なしに頼らざるを得なくなるのだから。

 これもまた、自己満足という名の偽善にすぎないのだろうか。



 さて、と。車内の行先表示に目を向ける。もうすぐ目的地か。それにしても、なあ。

 うーん。
 うーん。
 うーん。

 ……。
 ……。
 ……。

 困った。
 本当に困った。

 なんか勢いでここまできちゃったけど。じゃあ、こなたに実際に会って。いったい何て言えばいいんだろうか。仕方がないから、軽くシミュレーションでもしてみるか。そうだなぁ……。

 たとえば、私と付き合ってください、とか……?
 たとえば、こなたのことが好きっ、とか……?
 たとえば、お嬢さんを私にください、とか……?
 いや、それだけは絶対に間違ってる。それはこなたのおじさんに言う台詞だ。

 それで、もしも、もしも、よ。
 付き合おう、とかいうことになったら。

 やっぱ、デートとかするのかな。
 早起きして可愛いお弁当作ったりとか……いやそれだけは無理。
 ってか、むしろそれはあいつの得意分野だし。

 じゃあ、とりあえずいっしょに出かけて。
 どこか歩いてみたり。
 喫茶店でお茶してみたり。
 おバカなトークに花を咲かせてみたり。
 ……って、これじゃいつもと変わらんな。

 じゃ、じゃあ……手、つないでみたり。
 それも指なんか絡めてみたり。

 それで別れ際には、
 ぎゅーっと抱きしめたり。

 そのうち夜景をバックに、
 キス……したり。

 それで、ある日、あいつの部屋に上がりこんで。

 ゲームしたり、本読んだり、そのまま泊まったり。
 それで、なんか妙に盛り上がって。
 そのままひとつのベッドに……。

 ちょっと待て。女同士でも、その……エッチとかあるのか。
 男の子とかなら、まだわかるんだけどな。
 要するにアレよね、入れて、出すわけでしょ。
 でも、こなたにそんなのついてる訳ないし。

 だから、そうだよね。
 きっとこんな感じで、指とか掌とか……それと、
 舌……とかが……。

 ……わっ、わわわっ。
 ス、ストッープッ!
 今のなし。なしなしなしっ!

 やばいよ、超リアルに想像できるよ。
 しかも意外に悪くないかも。
 おまけに、なんかこう……ドキドキしてきた。

 って、まだ付き合うとかいう以前の段階なのに、何考えてるんだ、自分。

 軽く頭を振りながら、妖しげな方向に全力疾走を始めたシミュレーションを中断する。さっきから何度やってもこの調子。これでは、こなたと会うことができてもロクな結果になりそうにもない。あーあ、もう一度最初からやり直すか。

 たとえば……。

「さっきからひとりで何やってんだ?」
「うひゃう!」
 急に声をかけられ、私は現実へと引き戻された。

 ──胸の鈍い痛みとともに。



  ◇

「なー、ここ空いてっか? 空いてるよなっ」
 私の返事も待たずに、声の主は私の右隣の空席に座り込んだ。
「おま……なんでこんなところにいるんだ?」
 彼女の名前は日下部みさお。私との仲は高校の同級生、というよりは中学からずっと同じクラスという、もはや腐れ縁的レベルにまで達している。背格好は私と似たようなものだが、部活で陸上をやっているだけあって、やや脂肪少なめで筋肉多め。おまけに思考パターンにいたるまで見事に体育会色に染まっている。ショートカットに八重歯、それがよく似合う笑顔がウリという元気いっぱいなヤツだ。ただ、どうにも飽きっぽいのが弱点なのだけど。
「柊は冷てーなー。愛ゆえに決まってんだろ」
「ストーカー行為は犯罪だぞ」
「やだなー。軽いジョークだよ、ジョーク」
 にこやかな笑顔を浮かべながら日下部は答えた。そう言いながら、鈍い銀色をはなつ杖を両脚で器用にはさみこむ。
「なんで杖なんか……怪我でもしたの。部活とかで」
「まあ、そんなとこ。大したことはないんだけどさ、念のため、かな。たまにみしっと痛んだりするし」
「だったら、家でおとなしく寝てたほうがいいんじゃないのか」
「いやー、そりゃそうなんだけど。なんかこう、もったいないじゃん。せっかくの休日を寝て過ごすってのも」
「妙なところでアクティブだな。ところで今日はひとりなんだ。峰岸は?」
「今日は……デート。兄貴と」
「そっか。あんたもいろいろと……けほっ……大変ね」
 なんとなくむせてしまう。やっぱり何か買って飲むんだったと、今日何度目かの後悔を繰り返す。
「ん、喉の調子でも悪いのか」
「まあね」
 すると日下部は、ブルゾンの左右のポケットからひとつずつ何かを取り出すと、厳かな口調でこう言った。
「よろしい、私は命をふたつ持ってきた。そのひとつをお前にやろう」
「それ、何かのネタなのか」
「え、これって常識じゃね?」
「いったいどこの国の常識だよ」
 激しい頭痛とめまいを覚えながら私は答えた。なんか知らんがこいつ、だんだんこなたに似てきたな。

「そういえばさー、白雪姫ってあるじゃん?」
「白雪……姫?」
「そそ。知ってっか? 白雪姫が王子のキスで目覚めるってのは……」
「ディズニー映画の改変なんでしょ。知ってるわよ、そのくらい」
「ウソ、マジで。これって世間の常識だったのか」
「あ、あたりまえでしょ。そのくらい」
 あとでみゆきに何かお礼しとかなきゃ。内心で冷や汗をぬぐう。あくまでも気分の問題だけどね。
 すると今度は、左手で缶コーヒーを持ち上げしげしげと眺めながら、日下部がこんなことを言い出した。
「じゃあこれは知ってっか? レギュラーコーヒーの豆は基本、アラビカ豆の系統だけど、缶コーヒーやインスタントコーヒーの豆はカネフォーラっていうんだ」
「へー、そうなんだ」
 まさか日下部の口からコーヒーの、しかもずいぶんとディープな話題が飛び出すとは。
「じゃあモカとかケニアってのは、実は全部同じ種類なの?」
「そゆこと。レギュラー系の名前は産地なんかから付けられてるだけ。その土地の気候風土によっても味が変わるから、ってことらしいぜ」
「そうだったのか。そんなこと今まで考えたこともなかったな」
「ふふふふ、驚け敬え。話はまだまだ続くぜー」
 そんなことをつぶやいてから、日下部はさらに言葉を重ねていく。
「缶コーヒーの表示はさー、『コーヒー飲料などの表示に関する公正競争規約』に基づく区分で、製品内容量百グラム中の生豆使用量によって、三種類に分けられるんだな」
「へえ」
 いろんな意味で意外だった。こいつの口からこんな仰々しい台詞が出てくるとは思わなかったし。そもそも『公正競争規約』ってなんだよ。
「コーヒーは五グラム以上、コーヒー飲料は二.五グラム以上五グラム未満、コーヒー入り清涼飲料だと一グラム以上二.五グラム未満って感じだ」
「ずいぶん詳しいな」
「まーな」と、日下部は自慢げに鼻をこする。
「製品に乳固形分を三%以上を含むものは『乳及び乳製品の成分規格等に関する省令』に基づき『乳飲料』になっちまう。カフェオレ、カフェラテ、コーヒー牛乳なんかがそうだ」
「……ほんとに詳しいな」
 なんだろう、この微妙な敗北感は。
 そんな私の思いも知らず、日下部は右手でプルタブを引き開けると、ごくごくと美味しそうに缶コーヒーを飲み始めた。そして顔を身体の正面に向けながら、誰に話すでもなく口を開いた。

 ──再び胸が鈍く痛むのだ。



「そもそも缶コーヒーって日本の発明なんだぜ」
「あー、それ知ってる。UCCでしょ」
「まあ、普通はそう思うよなー」
 ニヤニヤと笑みを浮かべながら日下部がちゃちゃを入れてくる。
「え、違うの?」
「歴史的には、UCCが缶コーヒーを発売する四年前、一九六五年に開発された『ミラ・コーヒー』が世界初の缶コーヒーって話」
「へー、それは知らなかった」
「もっともいろいろあってすぐ製造中止になったらしいから、あんまり知られてないんだよな。だから柊の認識もそんなに間違っちゃいないぜ」
 再び缶コーヒーをあおってから、日下部は続けた。私もつられて缶コーヒーに口をつける。甘ったるくてチープな味が口の中に広がり、カラカラに干からびた喉が癒されていく。まあ、たまにはこういうのも悪くないか。
「で、UCCな。一九六九年に上島珈琲が、コーヒー牛乳にヒントを得て日本初のミルク入り缶コーヒー『UCCコーヒー ミルク入り』を発売した。当時は瓶入りのコーヒー牛乳が外出先で購入できる一般的なコーヒー飲料だったけど、缶コーヒーの登場によって人々は自由にコーヒー飲料を持ち歩けるようになった。ただしアレは乳固形分の比率が高いから、実は『乳飲料』なんだけどな」
「さっきの『なんとか省令』ってやつね」
「そーそー。コーヒー五グラム以上というコーヒー規格の缶コーヒーは、一九七二年に発売されたポッカレモンの『コーヒープレミアムタイプ』なんだ」
「ほー」
「でもって、一九七三年。コーヒーは温めても冷やしても飲まれることに目をつけたポッカは、冷却と加熱の切り替えが可能な自販機を開発したわけ。これで、夏の飲み物だった缶コーヒーは一年中飲まれるようになったんだ」
「それまでは冷たい缶コーヒーしかなかったわけか。あんまり真冬には飲みたくないわね」
「そりゃそーだ。ポッカさまには感謝しなきゃ」
 そう言って日下部は、飲み終えた缶コーヒーを座席の下に置きながら、人なつっこい笑顔を私に向けた。
「じゃあこれはどうよ。銀座線は日本で……」
「日本で最初に出来た地下鉄、でしょ。それだって一般常識だろうに」
「ちっ、ちっ、ちっ。私の話はそこからさっ」
 人差し指を立てて軽く左右に振りながら、日下部は再び口を開いた。
「銀座線は最初の地下鉄だったから、他の線に比べ乗り場が浅くて、田原町や末広町、虎ノ門、外苑前、あとは……ま、いいか。とにかくほとんどの駅じゃ、階段を降りるとすぐに改札口があって、改札口の先にすぐホームがあるって感じになってんの」
「……ああ、そういえば、そうかも知れない。そんな気がする」
「それとさ、相対式ホームの駅だと、線路の間の柱がリベット組みの鉄骨なんだよな。これが日本で初めての地下鉄の歴史ってヤツらしいぜ」
「へえ、それは気がつかなかった。次の駅で気をつけて見てみようかな」
「そうしてみて。あ、じゃあ、こういう話はどう?」
 なにを思いついたのやら。一段とイタズラっぽい表情を日下部が浮かべる。それにしてもこいつ、ずいぶんと楽しそうじゃないか。

 ──なんだろう、この胸の鈍い痛みは。



「最初の計画では、新橋から浅草まで一挙に開通させるはずだったけど、関東大震災後による不況で資金不足になっちゃって。それで、当時は日本一の繁華街で高収益が見込める浅草から上野までの建設だけ先行させたの。開業当初は物珍しかったから、乗車時間わずか五分の区間に乗るため二時間待ちの行列ができたんだって。その後の経営も順調で、一九三四年──つまり昭和九年までに全面開通したの」

 ちょっと待て。

「それと、当時は新橋までは東京地下鉄道、そこから先は東京高速鉄道って別々の会社だったのね。だから、新橋には実は地下の駅がふたつあったの。もっとも片方の駅は現在では使われてないけど。そういうわけで、普段そこは立ち入り禁止。で、たまにイベントの時だけは一般の人も見学の為に入れるみたい。そんな事情があるから、鉄道ファンなんかの間では『幻の新橋駅』って呼ばれてるんだって」

 何よ、これ。

「それから、『劇場版機動警察パトレイバー2 The Movie』ってあるでしょ。あれの後藤隊長と荒川さんの最後の対決のシーンって知ってる? その場所にも使われたんだよ」
 もう私は答えない。さきほどから抱いていた疑念は、すでに確信へと変わっていたから。

 ふーっ。

 長く長く息を吐く。さらに三回深呼吸して気分を落ち着かせてから、考えに考えた台詞を口にする。
「いい加減、正体をあらわしたらどうなの。あんたが日下部じゃないってことぐらい、莫迦でもわかるわ」
「……どうしてそう思うの?」
 きょとん、とした顔。
「日下部はウンチクをたれるタイプじゃないの。そもそもアニオタじゃないしね。それに……」
「それに?」
 小首を傾げる。
「あんたはさっき、缶のプルタブを右手で開けてたわよね。でも日下部は左利き。だからいつも左手で開けるのよ」
「あ、そっか。それは気がつかなかったよ。やだなぁもう、少し調子に乗りすぎたみたい」
 にぱっと笑顔を浮かべる日下部……じゃない。日下部の姿をした何か。
「ごめんなさい。どうしてもおねーさんに一度会ってお話してみたかったの。ひかるがいつも気にしてるから。そして、どうやら似たような境遇みたいだし」
 私の沈黙を肯定と受け取ったのか、にこにこと笑いながら彼女は続ける。
「なんか、ひかるがいろいろ言ったみたいだけど、あんまり気にしないで。おねーさんはおねーさん達のことを考えて行動してほしい。あたしは強制とか好きじゃない。だってこれって、人間の信条とか生き方にかかわる問題だと思うから」
 そう言ってから、ふと表情に暗い影が差す。
「ひかるとふゆきは、今はあんな風になってるけど、きっと時間が解決してくれると思う。実を言うと、おねーさん達がふたりになにか変化をあたえてくれればなっていう期待も、少しはあった。認めちゃいます。でもね、やっぱりよくないと思ったな。さっきの──高良みゆきさんだっけ? あの人の行動には一片の私情もなかった。そして喪失という高い代償まで支払って。あれこそが高貴なる魂、とでもいうべきものなのかな」
 先ほど喫茶店『地球の緑の丘』で別れた、晴れやかな笑顔のみゆきの瞳に満たされた、深い哀しみの色を私は思い浮かべる。
「そうね、そうかもしれない。みゆきには本当に申し訳ないことをしてしまったわ」
「でも、それを重荷に思ってはいけないと思うの。背中を押されたことを言い訳にしてはいけないと思うの。全ての行動の最終的責任は自らが負うべき。でなければ、周りに責任を押し付けて生きるだけの愚か者になってしまう。あたしはそんな風に思うんだ」
 不思議なことに、日下部の仮面を外した彼女はぐっと知的な雰囲気を増してきた。もっとも、話の内容とその口調とがまるっきりかみ合っていないのがアレだが。そんな風変わりな少女に対し、どういうわけか私は興味と親しみを覚え始めていた。



「ところで、あなたのことを私はなんて呼べばいいのかしら」
「うーん、どうしようかな。別に教えてもいいけど、それじゃ少しつまらない」
 おとがいに手を当て、わずかに考える仕草を見せてから。
「そうだ、ひかるかふゆきに聞いてみてよ。たまには、あたしのことも思い出してもらいたいから。あ、でも二人とも、あたしのことなんか忘れちゃってるかも。そうだなー、身長一五〇センチくらいの、ちょっぴり発育不良で片足の不自由な中二の女子に心当たりがないか、って聞いてみて。そう言えば、きっと思い出してくれるから」
 にっこりと微笑んだ。まるで地上に舞い降りた、いや、迷える魂に手を差し伸べるために地下世界を訪問した大天使のような微笑だった。しかしそれもすぐに崩れてしまい、今度は何か探るような顔で私を見つめてくる。
「あ、そうだ。あたしからもおねーさんに質問があるんだけど、いいかな」
「私に答えられることなら」と予防線を張りながら私は答えた。この娘にもわからないことなんてあるんだろうか、などと思いながら。
 すると、彼女は予想もしない質問を投げかけてきた。
「中学と高校って、どう違うの? 高校に通ってよかった、と思う?」
 ふたつの瞳が私の心を射抜く。

 果たして、これほどまでに返答に窮した質問を今まで受けたことがあっただろうか。

「ごめんなさい、ヘンなことを聞いちゃって。ただ、とってもうらやましかったから。一度でいいから、女子高生ってモノになってみたかったなー」
 うっとりと夢見るような表情を浮かべる少女。

 許されない。
 このどこまでも真っ直ぐな心根の問いに、嘘も逃げもごまかしも許されない。
 私はいったい、何と答えればいい?

 だけど。
「ああ、ごめんなさい。そろそろ行かなくちゃ」
 残念そうな表情を浮かべながら。
「ふたりによろしく。それから、おねーさんとお相手さん、それから高良さんにも幸運を。きっとこれから先、いろいろと大変だと思うから」
「あ、ちょ、待って。まだ話は終わってない」
 立ち上がろうとする彼女を引きとめようと、思わず手を伸ばしてしまう。空になったコーヒー缶が私の手を滑り、甲高い音を立てて電車の床に跳ねた……。



 たちまちいくつかの視線が集中する。床を転がっている空き缶。手を離れ飛び去ってしまったそれを回収すべく、私はあわてて席から立ち上がる。さきほどまで右隣に座っていたはずの彼女の姿は、すでに影も形もなかった。

 さっきのあれは夢だったのだろうか。

 そんな風に思いながらも缶を拾い上げて振り返り、先ほどまで自分が座っていた席に戻ろうとした時、まるで小さな墓標のように座席の下に置かれた、もうひとつの空き缶が目に入った。

 夢や幻のたぐいじゃない。確かに彼女はここにいたのだ。つい先ほどまで。

 私は通路にしゃがみこんでその空き缶を手に取ると、すでに何の気配も感じられない虚空へと視線を向けた。

 ──またいつか、どこかで、必ずや再会を。
 ──名前も知らない、天原先生の可愛い恋人さん。

 果たして私の声は、彼女に届いただろうか。



  ◇

 間抜けな音を立てて開いた電車のドアをくぐり、私はホームへと降り立った。

 どうしようかと迷ったが、空き缶を両手に握りしめて街中を歩き回る図、というのはあまりにも恥ずかしすぎる。後ろ髪を引かれるような思いを感じながら、構内のゴミ箱に捨てていくことにした。

 ただしその前に、二本の空き缶を床に並べ、ケータイで写真撮影しておくことにする。もちろん、誰に見せるわけでもない、私自身の記憶のひとつとして大切に保存しておくためだ。なにやら周囲の同情的な視線を感じるが、かまうもんか。

 写真を撮り終えてから、あらためて缶を拾い上げ、ゴミ箱に一本ずつ放り込んだ。

 ごめん。
 チープな味だなんて言ってごめん。
 あなたのおかげで喉の渇きも癒えたから。

 そして。

 私はいかにも、という感じの人々に混じって自動改札を通り抜けた。そこで、さきほどの彼女の言葉をようやく思い出し、もう一度ホームへと目を向ける。先ほどの話どおりに、線路の間の柱はリベット組みのむき出しの鉄骨で出来ていた。

 それを確認すると、やや歩みを速めながら地上に出る階段へと向かった。

 懐かしい光が、生命の光が見えてくる。
 地下世界から地上世界へ。
 黄泉の国から常世の国へと私は帰還する。

 階段を昇り切って歩道へと出る。
 東京都千代田区外神田。
 ただし、ごく一部では別の名前で呼ばれているようだ。
 聖地、秋葉腹と。

 しばしの間、照りつける陽光を一身に感じて。
 それから私は再び歩き出す。

 さあ、行こうか。
 私たちの運命が待ち受ける場所へ。

  (Fin)



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