喪失したもの

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 パンッ!

 乾いた音が教室内に鳴り響いた。
 後に残ったのは、左手のじんじんとした痛みと、驚きの感情。
 そして、やり場の無い怒り――。

「…あんたとはもう絶交よ…」

 理性を見失い、その思いの丈を捲くし立てた後、そんな一方的な言葉を告げて、私はその場から逃げ出した。
 親友だった少女の前から――。


    「ふとしたことで~喪失したもの~」


 教室から一度も足を止める事無く、停車中のバスに駆け込んだ私は、怪訝そうな視線を向けるまばらな乗客を無視しながら、周囲に誰も居ない最後列の座席に座り込んだ。
 キリキリと沁みるような肺の痛みを堪えながら、私は必死に息を整える。

 ……何やってんだろう…私…。

 深呼吸をして、徐々に冷静さを取り戻して来た私の思考に、そんな言葉が浮かんでくる。
 いくら、相手が悪かったとは言え、私は病気の友人を放って逃げ出してしまったのだ。
 私の心に僅かな罪悪感が生まれる。
 でも、そんな罪悪感も、私の受けた甚大なショックの前では何の意味も持たなかった。

 初めてのキスは、好きな人とロマンチックに交わしたい。

 女の子として生まれてきたんだ。そんな事を夢見て何が悪い。
 それなのに、アイツは……こなたは、そんな私のささやかな夢を踏み躙った。
 なんでよ…。なんでなのよ…。何か私が悪い事でもした…?

 バスの発車を告げるブザーが鳴る。
 バスの中にアイツの姿は無い。
 ドアが閉まり、徐々に加速していくエンジン音。
 車内灯が閑散とした車内をぼんやりと照らし続ける片隅で、私は誰にも気付かれないよう、声を押し殺しながら涙を流した。

§

 その日から今日に至るまで、私はこなたの姿を見ていない。
 風邪を拗らせて、ずっと学校の休んでいるらしい。
 純粋にこなたの事を心配するつかさ達を尻目に、私はアイツの姿を見掛けない事に安堵していた。
 単純に、今の私はアイツに会いたくなかったのだ。
 正直、アイツの事を考えるだけで、今でもあの時の情景がフラッシュバックしてしまう。
 そして、その度に、私は得体の知れない嫌悪感とどこにも埋める事の出来ない悲しみを覚える。
 さすがに、一時の感情に流されて、絶交を告げたのはやり過ぎだったと自分でも思う。
 でも、アイツがしたあの行為だけは今になっても許す事が出来ない。
 私とアイツは友達だから――いや、親友だからこそ、あんな心無い過ちは犯して欲しく無かったのだ。

 明日は土曜日だ。
 けんたとのデートの約束が入っている。
 あの日以来、ずっとキスのショックから立ち直る事が出来ず、用事があるからと帰りに糟日部駅で会うのを断っていたけれど、さすがに明日は会わないといけない。
 明日、私はけんたとどういう顔をして会えば良いのだろう?
 今まで普通に出来ていた事すらも、明日はやれる自信が無い。
 もしも、けんたが私の異変に気付いたら?
 そして、事故とはいえ、私が違う誰かとキスしてしまった事を知ってしまったら――?
 折角恋人に会えるというのに、私の心は不安という感情で張り裂けそうになっていた。

§

「かがみ。どこか具合でも悪いのか?」

 翌日。案の定、けんたは私の異変に気付いてしまった。

「えっ!? べ、別にそんな事は無いわよ!?」
「…嘘だな。さっきから無理矢理笑おうとしてる」

 私は慌てて誤魔化そうとしたものの、酸いも甘いも知り尽くした幼なじみである彼が、それに誤魔化される筈などない。

「どこかでちょっと休もうか? 俺も歩き通しで疲れたし」

 けんたはそう言うと、私の顔を見て優しく微笑んだ。
 私の好きな顔――。
 でも、そんな表情でさえも、今は恋人を裏切ってしまった事に対する罪悪感を募らせるスイッチでしかない。
 この笑顔を失いたくない――!

「…そ、そうね。じゃ、じゃあ、あそこで休憩しよっか!」

 そう言って、私が指差したのは、男女が愛の営みを交わす場所――ラブホテルだった。

「なっ! ちょっ、おい、かがみ!」

 表情なんて見なくても、その語気で理解できる。
 俺はそんな意味で休もうって言ってるんじゃないと抗議するけんたの腕を無理矢理引っ張って、私はその中へと彼を連れ込んだ。
 何度か強引に引き止めようとする彼を無視して、私は独断で手続きを済ませ、彼を部屋に連れ込んだ。
 ずっと嫌がってるけんたの姿を見て、彼は本当にそんな行為を望んでいないのだろうかとか、彼にとって私は魅力的な女性では無いのだろうかとか、こんな強引な行為に果たして愛はあるのだろうかとか、色んな思いが私の中で堂々巡りを繰り返す。
 そんな思考とは裏腹に私はスタスタと、極彩色のダブルベッドの前までやってくる。
 すると、けんたは焦燥し切った顔色で、私の前に回り込んで、私の両肩を掴んで抑えに掛かる。

「かがみ、いい加減にっ――!」

 何も言わず、私はそのままけんたを押し倒した。

「止めろっ! 俺はこんなの望んでな――」
「忘れさせてよ! 何もかもをっ!!」

 体の上に跨り、けんたよりも大きな声で、私はようやく思いの丈をけんたに告げる。

「私を無茶苦茶にして――。私の全てをあんたの色に染め上げてっ――!」

 何もかもを消して欲しかった。
 恋人を裏切った罪悪感も、それを知れば捨てられてしまうんじゃないかという不安も、望まないキスを交わしてしまった事に対する悲しみも――こなたに対して抱いた嫌悪感も――何もかもを。

 …それでも、けんたの体は微動だにしなかった。

「…なんで、なんで私に何もして来ないのよっ!?」
「……あのな、かがみ。俺達最初に話し合って決めたよな? キスも、その後の事も、無理なんかしないで、自分達のペースでやって行こうって」
「無理なんてしてないっ!!」
「…じゃあ、なんでさっきからずっと泣きっぱなしなんだよ…」
「えっ…?」

 けんたに言われて、私はようやく自分自身が涙を流している事に気付いた。

「あれ……? どうして…わたし…わたしっ……」

 自覚した途端、私は自分の感情をコントロールする事が出来なくなった。
 部屋中に私の嗚咽が反響する。

「…そんな無理に絆を深めようとしなくても良いだぞ? 俺はずっとここに居るんだから…」

 けんたが優しく私を抱き寄せる。
 そうなんだ…。コイツはいつもこうやって気性の激しい私に対して兄のように優しく包み込んでくれる。
 生まれた時から、ずっとつかさの姉として立ち振る舞ってきた私が、一人の女の子として居られる事を許してくれた唯一の場所…。
 思えば、この時になって、ようやく私は本当の意味での“彼”との再会を果たせたのかもしれない。
 懐かしい匂いのするけんたの胸に縋り付くように、私は涙を流し続けた。



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  • クソ……誰も悪くないだけに行き場のないこのジレンマ…… -- 名無しさん (2010-09-21 09:18:43)
  • なんともいえない雰囲気・・・。
    次回へ急げ!! -- 名無しさん (2009-08-20 00:05:05)
  • うぅん… こういうドロドロした人間関係の醍醐味みたいなものを
    素直な文体で切々と綴れる氏の文章力に脱帽。
    久し振りに心臓に風穴が開いた感覚を味わえました。

    果たしてこの人間模様がどう丸くこなかが分に収斂してゆくのか…
    続編に期待します。 -- 名無しさん (2009-02-24 00:37:22)


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