始まりは一歩から(4)

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「えーっと、これと、あとは……これで全部かな」
一通り明日の勉強会に必要なものをバッグに詰め込み終わり、ふうっと一息つく。
すぐに終わると思っていた準備も、行方不明になった世界史の資料を探すのに手間取ってしまい、
結局押入れの中までほじくりかえす一労働になってしまった。
今夜は空気もカラッとしていて涼しかったから冷房を入れずに作業をしていたんだけど、
さすがに動くと暑い。
手の甲で額の汗をぬぐうと、予想以上に自分が汗をかいていることに気づいた。
じっとりと汗で濡れた肌にはTシャツがはりついていて、まるでピチピチのシャツを着たかのように
体のラインをくっきり浮かび上がらせている。
鎖骨からお腹にかけて描かれたほぼ垂直の起伏の少ない断崖絶壁は、
凄腕のロッククライマーが挑戦するのには最適なロケーションだろう。
「いいもん、ステータスだもん」
じっと自分の胸を見下ろしていると悲しくなってきたので、代わりにバッグに目を落とした。

「それにしても……」
見事なまでにパンパンになったバッグを目の前にして、ため息をつかざるを得ない。
一体何が入ればこれほどバッグの中身がいっぱいになるっていうんだろう。
そりゃあ、教科書やノート以外にも”ほんのちょっと”漫画やゲームを詰め込んだとはいえ……。
「持てるのかな」
今にもはちきれそうなほど膨らんだバッグを片手で持ち上げようとすると、
「うっ」
重い。
まるでフローリングに根を張ったかのようにピクリとも動かなくて、
思わず前につんのめりそうになってしまった。
「まいったなぁ」
軽く20冊は超えようかという本の重みは想像以上だった。
普段学校に置き勉していたとは言え、教科書類を全て持ち歩くとこんなにも重くなるとは知らなかった。
みんなこれほどではないにしろ、この重い教科書類を全部持って帰って勉強しているんだろうか?
「私には真似できないよ」
こんなの毎日肩に掛けてたら姿勢が悪くなりそうだ。
きっと背骨も曲がって健康に良くないんじゃないかな。
うん、そうに違いない。
「健康が第一だよね」
極めて真っ当な理由で置き勉を正当化し終え、もう一度バッグを持ち上げようとする。

そこでふと思い出した。
前に大量の漫画や同人誌を整理したとき、お父さんが私にかっこいいとこ見せようと思って
数十冊の本を持ち上げようとしたときのことだった。
お父さんは腰をかがめて踏ん張った時まるで時間が止まったかのようにそのままの姿勢で固まったかと思うと、
直後崩れ落ちるように床に倒れた。
尋常でない事態に私も慌てふためいたものの結局はぎっくり腰だったようで、
私がほとんど背負うようにして悶絶するお父さんを部屋まで運んだんだ。
私の前で格好をつけた手前示しがつかなかったせいか、うつぶせになった姿は色あせたように哀愁を漂わせていて。
さすがにかわいそうになったので背中とお尻に湿布を貼った姿は見なかったことにしてあげた。

私までお父さんの二の舞になってしまっては困るので、重量上げの要領で腰を落としバッグの肩紐を肩に掛けてみる。
そのまま持ち上げると肩紐がぐっと食い込んで少し痛かったけれど、持ち歩けないことは無い。
「ううっ、でもこれを持って行くのか」
なんでこんな大変な思いをしてまで勉強しにいかなければならないんだろう。
そんな夏休みを迎えたばかりの学生にとって至極当たり前な考えを抱いてもばちはあたらないんじゃないだろうか。
この中身が全部漫画や同人誌だったら重さなんて気にならないのに、
教科書だと倍近く重く感じてしまうのはどうしてだろう。
そんなことを考えていたら、ますます肩紐が食い込んだような気がしてきた。

釈然としない思いを抱きつつ、なかば八つ当たりをするように学問の重みがぎっしり詰まったバッグを床に放り出す。
すると一体何の恨みか、バッグの底に押し込んでいた重量級の辞書の角が足の小指にぶつかった。
「~~~っ!」
私に改心の一撃を加えた衝撃で、さっき山積みの本の下からサルベージした世界史の資料が飛び出し、
パラパラとページがめくられていく。
陰鬱な色調で統一された中世ヨーロッパの見開きのページが開いたかと思うと、
いかめしい顔をした昔の偉い人がカメラ目線で私を見つめてきた。
「くっ……」
学問は強かった。
至らない私に教育的指導を加えた教科書をジト目で睨むも、一体何と戦ってるのか虚しくなってきたので、
その場にぺたんと座り込んでため息をついた。

痛む足の小指をさすっていると、ふわっと私の傍を風が通り抜ける。
乾いた夜の風がまるで慰めるように私の体と小指をさすってくれた。
開け放たれた窓の外を見上げると、星空が四角い窓のフレームに縁取られ、きれいに瞬いている。
まるで一枚の風景画のように静けさを保った夜空も時折吹き込む風がカーテンを柔らかくはためかせ、
パタパタと気持ちの良い音だけがその静寂に彩を添えていた。
立ち上がって窓から体を乗り出すと、かすかに吹く風が火照った肌を優しくなで、
熱と一緒に今日一日の疲れを取り除いてくれるようだ。

以前学校の行事で林間学校に行った時もそうだったけど、こういうイベント前日の夜って
妙にフワフワした気持ちになるのはどうしてだろう。
根拠はないけれど、きっと明日は良い日になるって素直に思えるんだ。
明日への期待に小さな胸を膨らませ、わくわくしながら明日を待つ。
そんな様子を子供っぽいって言って馬鹿にする人がいるけれど、それって悪いことなんだろうか。
私はそうは思わない。
どんなことも冷めた目で見て、イベントを楽しむことができないのってとても不幸だと思うんだ。
だから明日を信じてわくわくできることって、すごいことだと思う。
どんなイベントでも精一杯楽しんだ方が、楽しまないより良いに決まってる。
それもまあ、……試験のイベントだけは例外なんだけどね。

いたずらな風が私の長い髪をたなびかせ、鼻の辺りをくすぐるように撫でていく。
額を濡らす汗に髪がくっついて、少しこそばゆかった。
髪をかきあげながら、こんなにも明日が待ち遠しいって最後に感じたのはいつだったろうと思う。
コミケとかの大きなイベントの前も確かにわくわくするけれど、それとは違う期待感に満ちている。
熱に浮かされるって言うんだろうか。
明日は勉強会だから当然私の嫌いな勉強がメインになるんだけど、そんなこと関係ない。
今、旅行やコミケに行くときと同じぐらい気分が高揚してる。
ううん、同じぐらいというのも正しくないかな。
きっとこれまでのどんなイベントよりもドキドキしてるよ。

「いよいよ明日だね」
誰もいない空に向かってつぶやくと、それに応えるように梢がざわめく。
その音を聞くと、以前星降る夜空の下かがみと川辺を歩いたことを思い出した。
川のせせらぎや葉のこすれあう音を聞きながら、かがみと二人っきりで歩いたこと。
──明日になればかがみと会えるんだ。
そんなどきどきする思い出が明日への不安を夜の風に乗せて運び去り、
替わりに希望に満ちた明るい未来を運んでくれるようだった。

しばらく夜風に吹かれながら鼻歌を歌っていると、人懐っこい声が私の耳に届いた。
「あっ、その曲聴いたことがある。何の曲だっけ?」
くるりと身を翻すとドアの隙間からひょいと小さな顔をのぞかせている。
ゆーちゃんだ。
「これはね~、かがみんのテーマソングだよ」
床に落ちたままだった世界史の資料を拾い上げバッグに詰め込むと、
ゆーちゃんは面白いものでも見つけたように私の元に駆け寄ってきた。
「わっ、すごく大きなバッグだね」
「うん、明日泊りがけになるからね。替えの服とか教科書、ノートも全部持ってかないとダメなんだ」
そう言って私はバッグの中に忍び込ませていた漫画やゲームを見られないよう、素早く上から服をかぶせた。
さらにわざとらしくその上に教科書とノート、それに参考書を配置。
よし、これでカムフラージュは完璧だ。
「すごく重そうだけど大丈夫?」
「平気だよ。大量の本を持ち歩くのは慣れてるからね。有明に参戦した後に比べればこれぐらい軽いものだよ」
「ふーん? そうなんだ?」
おっと、今の例えは分かりにくかったかな。
それでもクエスチョンマークを頭の上にいっぱい付けながら、なんとか納得してくれたみたいだった。

「お姉ちゃんなんだかご機嫌だね」
ゆーちゃんは私の顔を見つめた後、はにかむような笑みを浮かべて言った。
「そう見える? 明日は勉強会だからね」
聞きようによっては勉強が楽しみという風に聞こえてしまったかもしれない。
でも、本当はかがみと会うのが楽しみだなんて言えないから、こう答えるしかないよね。

──明日……なんだよね。
そう思うと口元が緩むのを抑えきれず、ゆーちゃんは私の顔を見てますます輝くような表情を見せてくれた。
「うん、すごく嬉しそうだよ。何かいいことあるみたい。でも夏休みなのに勉強合宿だなんてすごいね。
さすがお姉ちゃん、受験生さんなんだなぁ」
「ふっ、受験生たるもの夏休みなんて存在しないのだよ」
そんな期待の目で見られては、応えてあげるしかない。
いかにも受験生ですよという雰囲気を醸し出しながら、普段よりキリッとした表情で返事をした。
ついでに両手を腰にあて、ステータスを誇示するよう胸を張ってみる。
うん、このポーズばっちり決まったね。

「いつ帰ってくるの?」
「明後日の夕方頃かな」
「1泊2日なんだ」
「そだよ」
「お泊まりなんて、うらやましいな。あ、でも遊びに行くわけじゃないから、
うらやましいって言うのもおかしいのかな」
うーんと人差し指を口元に当てて考えた後、今度は真面目な表情で聞いてきた。
「ねえお姉ちゃん、受験生って夏休み中もずっと勉強しなければならないって
聞いたことがあるんだけど、ほんと? 私も3年になったらそうなのかな?」
「うっ、そ、そうだねぇ……」
ゆーちゃん、人によって答え辛い質問というのもあるのだよ。
陵桜はいちおう進学校なだけあり、今の時期から頑張ってる人は当然いるとは思う。
でも、実際に勉強してる姿なんて学校でしか見たことないし、
みんな家で一生懸命机にかじりついたりしてるのかな?
スルーする訳にもいかないし、どう答えよう。
ああ、でもかがみは夏休みに入ってから毎日勉強してると言ってたっけ。

「うん、ほんとだよ」
「ふーん、やっぱりそうなんだ。でも、すごいなぁ」
そう言って両手を胸の前で組むと、きらきらと光る期待の眼差しで痛いほど私を見つめてきた。
えーっと、ゆーちゃん?
今してるのは成績優秀な人の話であって、もしかして私が毎日勉強してると勘違いしてないよね?
もしかしてまずい選択肢を選んでしまった?
「えっと、今の話は──」
「じゃあお姉ちゃん毎朝起きるのが遅かったのも、夜遅くまで勉強してたからなんだ」
「うぐっ……」
「すごいなぁ、頑張ってるんだなぁ」
「いやっ、それはですね……」
「私もお姉ちゃんみたいに頑張らなきゃ。毎日大変だと思うけど、お勉強がんばってね」
「ふ、ふふふ……」
ああ、ゆーちゃんの純粋な瞳がまぶしい。
尊敬の眼差しが痛いほど私に突き刺ささる。
なんだかゆーちゃんの周りが光って見える。
天使のように輝いてるよ、まぶしいよ、ゆーちゃん。

私の必死の現実逃避も虚しく、容赦ない追い討ちに腰に当てた手がぷるぷると震え始める。
まずい、このまま毎日勉強地獄の日々を送って精も根も尽き果てて干からびてしまうのだけはごめんだよ。
ゲームのようにセーブポイントに戻ることができない以上、ここは一度立ててしまったフラグを
強引に破棄するしかない。
普段は使わない頭をフル回転させる。
「で、でもね、受験生といっても息抜きは必要だと思うんだ」
まずは一般的な話を振って。
「毎日勉強ばかりしてると精神的にきつくなるし、適度に遊ぶことも勉強の内なんだよ?」
「へえー」
遊びを勉強と絡めることで、遊びの高感度をアップ。
よしよし、いい感じだ。
「それに、前にみゆきさんに聞いたことがあるんだけど、人間って90分以上集中することができないんだって。
だから無理して詰め込んでも身につかないと思うんだ」
「ふーん、そうなんだ?」
「うんうん、だから“たまたま”私が遊んでたりしても、それは息抜きだからね?」
「う、うん……ん?」
うろ覚えの知識を強引に展開し、私の面目を保ちつつ勢いでこの場を乗り切る!
ああ、いたいけな少女をだますなんて、私はいけない子です。
神様、仏様、かがみ様、私をお許しください。

なんとか強引に納得(?)してもらうことに成功し、ほっと胸をなでおろした。
はぁ、なんか最近自爆してばっかりなのは気のせいだろうか?
不用意に発言して墓穴を掘ることだけは気をつけないといけない。
私が安堵の余韻に浸っていると、ゆーちゃんは何か思い出したかのようにぽんっと手を打った。
「あっ、そうだ、お姉ちゃんにお土産渡そうと思ってたんだ」
「お土産?」
「うん、今日お店に寄ったとき買ったんだ。今持ってくるからちょっと待っててね」
そう言って小走りで部屋を出て行くと、小さなサテン地のリボンで綺麗にラッピングされた紙袋を抱えて戻って来た。
「はい、これお姉ちゃんに」
「ありがとう。中身は何かな。開けてもいい?」
「うん」
袋を破らないよう注意しながら開けると、中から出てきたのは犬や猫、
うさぎ、羊など動物をかたどった消しゴムだった。
どれも愛嬌のある顔をしていて、デフォルメされた形が動物の特徴をよく表している。
特にうさぎのピンッと凛々しく立ったひげに対して、ヘニャッとしおれた長い耳、
それに恥ずかしそうに笑っているらしい口元が、私の思い描くかがみのイメージにぴったり重なった。

「顔が個性的で面白いね。見てると楽しくなってくるよ」
「そうでしょ? それに可愛いかったから、私ついいっぱい買っちゃって」
「ゆーちゃんらしいね。でも、すごく分かるよ。私もそういうことよくあるから」
店で気に入ったキャラのフィギュアやグッズが安く売られてたりすると、
置く場所も考えずつい衝動買いしてしまうんだよね。
ゆーちゃんが買うようなものとは違うけど、きっと似たような心理なんだと思う。
「でね、とっても気に入っちゃったからお姉ちゃんにもプレゼントしようと思って。
お勉強するときにも使えるし、ちょうど良かったかも」
「そうなんだ、ありがとう。大切に使わせてもらうよ」

ゆーちゃんは嬉しそうに頷くと、えへへっと照れ笑いしながらまるで内緒話をするように小声で言った。
「あとね、こんな話もあるんだ。おまじないなんだけど、新しく買った消しゴムに
好きな人の名前を書いて、それを誰にも見つからずに使い切ったら両思いになれるんだって」
「あー、そういうのジンクスって言うんだよね」
「うんうん、田村さんそういう話も詳しくて教えてもらったんだ」
「へーえ」
あのひよりんがペンケースに消しゴムを潜ませて、一人物思いにふけりながらため息をつく
乙女チックな姿は、ちょっと想像しにくい。
ひよりんと言えば、ネタが思い浮かばなくて頭を抱えていたり、締め切りが迫って唸っていたり、
入稿後に魂が抜て真っ白になってる姿とか……いずれにせよ同人がらみであがいてる姿こそが
彼女の真骨頂のように思える。
常に面白いネタがないか探している──そんな同人作家の鑑のようなイメージがあるんだよね。
そうそう、そういえば私とかがみが学校で二人きりで喋ってたとき、何度か視線を感じることがあったんだ。
私たちの周りに何の前触れも無く百合の花が咲いたように見えたことがあったんだけど、
あれはひよりんの仕業だったんだろうか?
柱の影に身を潜めてネタになりそうなシーンを収集していたのだとしたら、実に油断ならない相手だ。

「あっそうだ、ひよりんで思い出したけど、連れて行ってもらったんでしょ、
池袋の例の通りに。どうだった?」
ゆーちゃんは手元にあるキョトンとした顔のリスの消しゴムそっくりになると、何ともいえない表情を見せた。
「…………うん、とっても面白いお店だったよ」
前半の微妙な間は何?
そうか、頑張ったんだね、よしよし。

ゆーちゃんはしばらく手元にある消しゴムをじっと見つめると、考え込んでいるようだった。
何かを思いついては、それを打ち消す。
そんな風に不安そうな顔を覗かせては、何かを迷うように頭を振っていた。
ようやく決心したのか体をぐっと私の方に寄せると、真っ直ぐに私を見つめて聞いてきた。
「ねえ、お姉ちゃんはジンクスって信じる?」
なるほど、そうきましたか。
実はこういうおまじないごとについては余り信じていない方だったりする。
正直に言ったほうがいいんだろうか。
「うーん、そうだね、……私はどちらかというとそういうの信じてなかった方かな」
「そうなんだ……」
がっかりしたように肩を下げて、シュンとしてしまった。
あちゃ、もうちょっと気を使うべきだったかな。

私が小学生や中学生だったときにも、様々なジンクスが流行っていたことは覚えている。
周りの女子は好きな男子と両思いになれるとかで、腕に紐を巻いて切れないように頑張ったりと
涙ぐましい努力を重ねていたようだ。
当時私には好きな人はいなかったし、浮いた話には余り興味なかったからジンクスと関わりを持つことは無かった。
漫画やゲームなどの架空の世界にのめり込む一方、変なところで現実的な性格だった私は、
まるで熱に浮かされたようにおまじないを試す周囲の女子を冷めた目で眺めていたのを思い出す。
大体たいした努力もせず都合よく願い事が叶うなんて、まるで何の取り柄もない主人公が
女の子にちやほやされるエロゲのようで、まさに「それ何てエロゲ?」的な展開だ。
仮に願いが叶ったのだとしてもただの偶然。
それに、そんな軽いノリで願いが簡単に叶うなんてこと、私は絶対に許せなかった。

──そんなことしても無駄なのに、ほんとバカみたい。
小さかった頃私には会いたい人がいた。
どれだけ会いたくても会えない人。
それでも何度も会うことを夢見て、願って願って願い続けて。
そしていつしか願うことを止めた。
どれだけ願っても叶わないものは叶わない。
たとえそれがどれほど切実な願いであろうとも。
それを私は小さな頃に学んでいた。

「でもね、今なら信じてもいいかなぁと思うよ」
「ほんとに!?」
曇った表情から一転、ぱぁっと顔を輝かせるゆーちゃんに私は思わず苦笑いをしてしまう。
そう、今は違う。
今でも願いが簡単に叶うなんて思ってはいない。
けれど、そんな人の素朴な願いを素直に受け取れるようになった気がする。
いわゆる丸くなったというやつだろうか。
そんな風に思えるようになるまで、私なりにいろいろあった。
人は誰でも悩みや切実な願いを抱えて生きているんだって知ったこと。
辛いのは私一人だけじゃないんだって気づかされたこと。
ずっとお父さんや周囲の人に支えられていたんだって分かったこと。
そんな当たり前ではあるけれど気づきにくいことを教えられたんだ。
それから高校に入ってつかさやみゆきさん、そして誰よりもかがみと出会うことができた。
私を信じ認めてくれるかけがえのない親友のために、願いを叶えてあげたいとさえ思えるようになった。
そう思えるようになった私は、ちょっぴり成長したんだって胸を張ってもいいんじゃないのかな。

「ゆーちゃんはいるんだ、名前を書きたい人が」
「えっ、わっ、私はそんな……」
思わず口を滑らせて大事なことを言ってしまったという顔をしながらも、どこか嬉しそう。
そんな仕草が可愛くて、私は口元が緩むのを隠せなかった。
やっぱりゆーちゃんには隠しごとは向いていないと思う。
どこまでも素直で、正直で、純粋で。
こんなにも裏の無い、生まれたての笑顔を見せてくれる。
それは裏を返せば不器用とも言えるのかもしれないけれど、
それがゆーちゃんの良いところでもあるし、魅力なんだ。
「あのね、ずっと好きな人と一緒にいられるといいなって」
おずおずと口にしたのは、ゆーちゃんらしい素朴な願いだった。

──ずっと一緒、か。
私の手のひらにちょこんと乗ったうさぎの消しゴム。
頬の辺りをつんつんと突っついてみた。
コロンと転がったうさぎの表情が色んな角度から見て取れる。
光の当たり具合によって、嬉しそうだったり、悲しそうだったり、
笑いたいけれどもツンと澄まして何事も無かったようにしている表情まで、
色んな表情を見せてくれる。
──こんな小さな体にどれほど多くの人の願いを集めてきたんだろう。
自分のための願い、他人の幸せのための願い、素朴な願い、そして切実な願い。
そんな多くの願いをこの小さな身に受けて、みんなの幸せのためにこの小さなお願い事の神様は
奔走してきたんだろうか。
そして今度は私の願いも……。
──ねえ、ほんとに私の願いも叶えてくれるの?
そう心の中で問いかけ、両手で祈るようにぎゅっと握り締めた。

「……お姉ちゃん」
「んっ、どうしたの?」
「あ、……あの、お姉ちゃんも」
「私も?」
「あ、ううん、何でもないよ」
どこか焦った様子で両手をひらひらと振ると、ちらちらと私の様子を伺うように見つめてきた。
少し赤くなった頬がまるでさくらんぼみたいでとってもかわいい。
こんなゆーちゃんなら、きっと誰でも好きになるに違いない。

「じゃあ、そろそろ夜も遅いし勉強の邪魔しちゃ悪いから、私部屋に戻るね」
「うん、お土産ありがとね」
勉強の部分は聞かなかったことにして、素敵なプレゼントに感謝した。
「どういたしまして。それじゃあ、おやすみなさ……」
部屋を出て行こうとすると、ゆーちゃんは立ち止まって私の背後をじっと見つめた。
何か面白いものでも置いてあったのかと振り返っても、見えるのはベッドと積み上げた漫画、
そして壁に掛かったカレンダーだけだった。
相変わらず部屋の中は漫画やらフィギュアやらで混沌とした状態だったけど、それなりに整理はしている。
ゆーちゃんの目に触れてはいけないグッズを放置していることは無いはずだ。
安心してバッグからペンケースを取り出していると、ゆーちゃんの顔がさっきより
赤くなっていることに気付いた。
もしかして体調が悪くなってきたんだろうか。
連日蒸し暑い日が続いているし、今日遠くまで出かけたから、それが影響しているのかもしれない。

「大丈夫? 気分悪くなったの?」
そう心配して聞くと、ゆーちゃんはふるふると首を横に振った。
よく見ると、熱っぽいというよりも恥ずかしがっているようだ。
やっぱり、エロゲのパッケージでも隠れていたのかな?
気になって漫画を積んである辺りをよく見ても、せいぜいCDぐらいしか見当たらない。

「お、お姉ちゃん、頑張ってきてね!」
「へっ? う、うん」
ゆーちゃんは私の両手をしっかり握りしめると、いつになく真剣な目で励ましてくれた。
さっき少し調子に乗ってできるお姉ちゃんを演じてみせたけど、そんなにも私はゆーちゃんの目に
立派な受験生として映ったんだろうか。
そんなにも頼りになる姉として信頼されているんだろうか?
どこまでもまっすぐで真剣な眼差しで私のことを見つめてくれる。
その瞳の奥にある小さいけれど、確かな強い光りがまぶしくて。
私も本気で受験生としての気概を持たなくてはならないんじゃないかと、
たるんだ気持ちが一気に引き締まった。

「お姉ちゃん、私応援してるから」
「ゆーちゃん……」
「だから、諦めないで」
「大丈夫だよ。ちゃんと頑張るから」
「うん。約束だよ?」
「心配しないで。私だってやるときはやるんだから」
こんなにも私のことを心配して応援してくれるなんて。
麗しい姉妹愛に思わず目がうるうるしそうになった。

部屋を出て行く直前ゆーちゃんは「かがみ先輩によろしく」と言ったかと思うと、
はにかんだ顔でとてとてと嬉しそうに走り去っていった。
あれっ、なんでそこでかがみが出てくるんだろう?
何が何だかわけが分からない。

バッグの中身も一通り確認し終わり、目覚まし時計に目をやると、針は10時を指そうとしていた。
いつもならばネトゲを始める時間だけど、やっぱり今日も積極的にゲームをやろうという気にはならなかった。
普段の私から考えると絶不調なんだけど、明日の勉強合宿を前に控えた変なテンションのせいで、
不思議とそれも気にならない。
それに仮に今から始めてしまうと確実に日の出を拝んでしまうことになるだろう。
明日のお昼にかがみの家に行くことになっているので、少し早いけど今日はもう寝ることにした。

カレンダーに目をやると明日は日曜日。
すでに夏休みに入り曜日は関係ないとはいえ、いつもの習慣でワクワクしてくる。
絶対に忘れないようにと赤いペンで囲った明日の日付。
さらにその下に書かれたかがみの文字。
その横には小さなハートマークが添えられている。

──いよいよ明日だ。
そう思うだけで私の心は舞い上がる。
私の体は熱を持って、どきどきしてくる。
ほんの1週間ほど会えなかっただけなのに、こんなになるなんて。
「かがみ……」
その名を呟くと、明日頑張ろうって勇気が出る。
私を温かく包んでくれて、幸せな気持ちにしてくれるんだ。
緩んだ表情で明日の日付を眺めていると、……ん?
さっきは普通に読み飛ばしてしまったけど、スルーできないマークが名前の横に付けられているような……。

“かがみ(はぁと)”
どう見てもデートです。
本当にありがとうございました。

「うあああ、しまった……」
冗談交じりでかがみの名前の横にハートマークを書き込んだことをすっかり忘れていた。
ゆーちゃんはさっきこれを見てたんだ。
顔が、そして全身が燃えるように熱い。
きっとかがみもかくやというほど赤くなっているんじゃないだろうか。

こんな不甲斐ない姿を見られなかったことにひとまずホッとしつつ、
さっきのゆーちゃんの言葉を思い出してみた。
今ならその言っていた意味がよく分かる。
勉強の話だとばかり思っていたのに、そっち方面を応援されていたなんて。
明日は普通に勉強会に行くだけだったはずなのに、ゆーちゃんの台詞の意味を理解してからは
変に意識してしまいそうだよ。

──心配しないで。私だってやるときはやるんだから。
さっき言った言葉がふと蘇る。
「何を……やるっていうのさ」
そりゃあかがみをからかっていると色んな反応してくれて面白いし、
話をしているだけで嬉しくなったり、抱きついたとき胸がどきどきしたりするけど……。
けど、何なんだろう。
これまでなるべくその気持ちを意識しないようにしてきたけれど、
日を追うごとにこの気持ちは強くなっていって。
夏休みに入ってかがみに会えない日が続くにつれ、この想いは無視できなくなっていた。
どうしよう。
こんな状態で明日かがみと会ってどんな顔すればいいんだろう。

──私かがみのことが、好き……なんだよね。
その気持ちに名前をつけた瞬間、まるで想いがはじけたかのように次々とかがみの顔が思い浮かんできた。
嬉しそうな顔、怒った顔、ツンと澄ました顔、恥ずかしそうな顔。
そしてどんなときも最後には優しい眼差しで微笑んでくれたあの笑顔。

「かがみ……」
今すぐに会いたい。
会って、話をしたいよ。
話をして、そして……。

「かがみのことが……す、す」
はっきりと声に出さないと、想いは伝わらない。
たったそれだけのことなのに、まるで心の欠片が喉に引っかかっているように肝心の言葉が出てこない。
自分がこんなにヘタレだった事実に軽いショックを受けた。

「好き……です」
ふうっとため息をつくと、鏡を見なくても分かるぐらい顔が上気している。
そのまま倒れこむようにベッドにうつ伏せになると、枕をぎゅっと抱き寄せた。

「はぁ、何やってんだろ、私」
こんなことするなんて、私らしくない。
それに、好きだなんて言ったら……かがみ迷惑なんじゃないかな。
……うん、やっぱりそうだよね。
私たちずっと友達だったし。
好きだなんて言えない。
でも、……かがみのこと考えるといつものように振舞えない。
どうすればいいか分かんないよ。
さっきよりも強く顔を枕に押し付けると、そのまま目を閉じた。

ゆーちゃんが去った後の部屋は、さっきまでのどたばたが嘘だったかのように元の静けさを取り戻していた。
その中に身を横たえていると、どうでもいいことが気になり始める。
例えば目覚まし時計の針がコチコチと鳴る音がやけに大きく響いていることとか。
10、20と数えて60を越えたあたりで数えるのを止めた。
どうして今日はこんなにも時計の音が気になるんだろう。
……そっか、今日はネトゲをしていないからパソコンの電源を入れてないんだ。
いつも聞こえているファンの回転音が聞こえないんだ。
……こんなこと、別にどうでもいいことなのに。

そのまましばらくベッドの上で丸くなった後、仰向けになって手を高く天上に伸ばし、
うさぎの消しゴムを蛍光灯の光にかざしてみた。
逆光で顔がよく見えなかったけど、つぶらな瞳で私をじっと見続けていた。
ずっと握り続けたためか、ちょっぴり目の部分が手汗で濡れて泣いているようだった。

──昔はジンクスなんてバカにしてたのに。
起き上がってペンを取り、濡れたうさぎの目の部分を優しく袖の部分でぬぐった。
──誰も見てないよね。
周りに誰もいないことを確認すると、真新しいうさぎの体に素早く「かがみ」の名前を刻み込む。
それをペンケースに入れて、バッグの中へそっとしまいこんだ。

明日は怪しまれないよう、いつも通りに振舞おう。
うん、それでいい。
いつも通り振舞って、かがみをからかって、かがみに怒られて……それで何事も無かったように
勉強会を進めていくんだ。
かがみに分からないところを聞いて、教えてもらうついでにノートを覗き込んで、
そして写してるのがばれてかがみに怒られて。
そうやってこれまで学校で過ごしてきた日常のように勉強会は終わっていくんだ。
……でも、それでいいの?
それで終わりなの?

──私だってやるときはやるんだから。

その言葉だけが、ずっと頭の中にこだまし続けていた。



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  • こういう乙女チックなこなたは新鮮で良いですね。
    続きが待ち遠しいです。 -- 名無しさん (2009-06-07 02:38:11)


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