甘いというテーマの没ネタ

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つかさが倒れた日の事は、よく覚えている。

その日はアキバで事件があって、包丁を持って通行人を次々と刺殺した男が即座に逮捕された日だった。私は真っ先にこなたを思い出して気が気じゃなくて、携帯で電話をかけようとしたけど電波が悪いのか繋がらなくて、黒い想像にずっと付き纏われながら落ち着かなくその日を部屋で過ごすしかなかった。
実際、その日にこなたはつかさと一緒にアキバに居て、惨劇の大変な様子を直接ではないにしろ目撃して、戦場のように騒然としたアキバの一部始終を眺めていたのだ。男が逮捕され、怪我人が運ばれ、全てが終わって帰りの電車の中で眠りについたつかさは、こなたがどんなに揺すっても、声をかけても、決して目を覚まさなかったそうな。どうしていいか分からず電話をかけてきたあいつの、切羽つまった声を私はよく覚えている。
 病院に運び込まれたつかさの体には一切の異常はなかったが、ただ唯一、目を覚まさないという事だけが、重大な問題として残ったのだった。


 ………


 初夏の日差しが放課後の校舎の窓から差し込んでいる。
 生徒たちは早々と自宅へ帰り、静まりかえった校舎の中に水っぽく差し込む光のせいか、校舎の中は水槽のように冷え冷えと感じられた。
 つかさが目を覚まさなくなって、一週間になる。
 夕食時のいつもの団欒もぎこちなく、ぽっかりと空いた空席はますます大きくなるばかりで、巨大な欠落感が毎日のように私や、他のみんなをも苦しめているのが分かる。この一週間に、私は一回でも心から笑っただろうか?
 放課後の教室で、つかさのいない家に帰るのも気が重く、最近の私は何をするにも動作が鈍くなっているのを感じる。大きなストレスは、人間の動きを鈍くする、と言う言葉を、呪文のように私は唱えてみる。でも当然、その呪文は何も解決はしない。

 つかさ……目を覚ましてよ。

 何の異常もないから、すぐに目が覚めると思ってた。でも、何の異常もないのに一週間も寝たままだったら、お医者さんだってどうしていいか分からないよ。
 生まれてからずっと一緒だったつかさが、病室で点滴だけを栄養として眠り続けているのを見ると、その余りにも健康そうな頬や瞼に、目が覚めないという事実を忘れそうになる。それでも、どんなに願ってもつかさは目を覚まさないのだ。

 もしずっとこのまま、目を覚まさなかったら?

 私は泣きそうになるのをぐっと堪える。
 父さんも母さんも姉さんたちも、今度の事ですっかりまいってる。私は、しっかりしなきゃ駄目だ。しっかりしなきゃ……。
 溢れそうになる涙をこらえて、誰もいなくなった教室でのろのろと立ち上がると、聞きなれた声が私に向けてかけられた。
「かがみ、まだ帰ってなかったんだね」
 そう言って声をかけてきたのは、小学生みたいに背の低く、床につきそうなくらい髪の長い少女……こなただった。
「こなた……」
「せっかくだから一緒に帰ろ?」
「……うん」
 こなたと並んで歩きながら、初夏の温い空気が静かに私達を取り囲んでいるのを感じる。足音は必要以上に大きく響き、硬い校舎に反射して消えていく。
「ねえ、かがみ……」
 こなたはぽつりと、ひとしずくの水を水槽に落とすように、私に声をかけてきた。見上げてきた目が、透明に澄んだ光を湛えて私の目をとらえる。その目が余りに綺麗で純粋で、内心微かにどきりとして、私は掠れる声で答えた。
「なあに、こなた?」
 こなたはためらいがちに、沈む声で言った。
「最近、元気ないよね……」
 その言葉は自然と私の心を暴くように刺さり、澄んだ目は私の全てを見透かしているように思え、もはや動揺を私は隠せなかった。
「そ、そんな事ないわよ。私は、いつも通りよ?」
 誰にも心配かけないように、しっかりしなきゃ、と私は思う。
 こなたに見抜かれるようじゃ、まだまだだわ。と強がる私に、追い討ちのようにこなたは言う。
「みんな心配してるよ、みゆきさんも、みさきちも」
「へえ、みんな心配性ねえ、私はこんなに元気なのに」
 こなたに見抜かれるどころか、みんなに見抜かれていたのだ。そういえば峰岸も、柊ちゃん大丈夫?と最近しょっちゅう言う気がする。どんだけ分かりやすい人だ私は。
「かがみ、元気なんかじゃないじゃん」
「何言ってるの、私は元気だってば」
「嘘だよ、かがみ、無理してるよ」
「そんな事ないって」
この話題を早く流そうと、私は急いで自分の靴箱に駆け寄ってこなたから離れた。私は認めたくなかったんだ、つかさがいないだけで、こんなにも脆くなっている自分を。
 認めたら、泣いてしまいそうだったから。
 急いで靴を履き替えて、私は気持ちを切り替えようとする。みんなつかさがいなくて不安なんだ。私はしっかりしなきゃ、明るく、楽しそうに振舞わなきゃ……。
 靴を履き替えたこなたが追いついて、私達は並んで校舎を出た。何か言いたそうなこなたの視線から逃れて、私は前ばかり見て歩いた。初夏のまぶしい日差しは放課後の世界を明るく照らしていて……。
 ああ、世界はこんなにも明るいのに、つかさは、目を覚まさない。
 遠くに鳴く気の早い蝉の声が、私の心を暗く蝕むような気さえ、した。
「かがみ……」
 私はこなたに袖を引かれ、立ち止まった。振り返れば、そこには。

 泣きそうなこなたが居た。

「こなた!?」
「無理してるかがみを見るのは、苦しいよ」
今にも泣きそうなこなたが、じっと私を見つめた。遠い蝉の声だけが私達の沈黙を満たして、明るすぎる日差しはかえって私達の影を濃く長く伸ばした。暑い空気が私をじっとりと汗ばませて、沈黙している私達は影絵のように動かず、時間だけが引き延ばされたようにゆっくりと流れた。
「私は、無理なんか……」
「嘘だよ」
きっぱりと断言するこなたは、私だけを見ている。他の何も、目に入らないみたいに。
「この一週間、ずっとかがみを励まそうと、いつも以上に、楽しく明るい私でいようと思ったよ。でもかがみはずっと上の空で、本当は辛くて辛くて仕方ないのに、無理して笑顔を作ってた」
「そんなこと……」
「ないって言う気!?嘘だよ!見てれば分かるよ!高校に入ってから、ずっとかがみを見てたもん!」
こなたは叫んで、ぐっと涙を堪えて唇を噛み、震える声で言った。
「私だって、つかさがいなくて悲しいよ、どうしていいか分からないよ、でもかがみが、かがみがそんな風に無理してたら、私はもっともっと辛いよ。本当は、かがみだって、私よりずっと辛くて、泣きたいほど苦しい筈だもん!」
「こなた……ごめん」
私は俯き、自分のつま先を見つめる。
「でも、沈んでたって、しょうがないじゃない。沈んで何とかなるなら、幾らでも沈むわよ……」
「私は……せめて、私とか、親しい人にだけは、本音を見せてほしいだけだよ……」
「本音……?」
ああ、蝉の声が、凄くうるさい。
日差しは余りにも暑すぎる。
つかさは眠り続けているっていうのに、世界は何事もないみたいに回り続けて、太陽はまぶしくて、日々は過ぎていって、こんなの、余りにも不公平じゃないか。
「本音を言えっていうならね……苦しいわよ……辛いわよ……どうしていいのかだって、もう……分からない……!」
 今まで吐き出せなかったものが、堰を切ったようにあふれ出すのを感じる。それはもう、止める事が出来なかった。
「なんで、なんでつかさは目覚めないの!?このまま、つかさが目覚めなかったら、って思うと気が狂いそうになる!でもそんなの、言ったってしょうがないじゃない!どうにもならない!どうにもならないんだから……!」
気づけば私はみっともなく泣いていて、涙は後から後からぽろぽろと溢れた。こなたはそんな私にぎゅっと抱きついて、そして私と同じように涙を流した。
「かがみ……私達がこうしてつかさを思って泣くこと、絶対、無駄じゃないよ」
そう言うこなたの言葉が静かで、まるでスポンジが水を吸うように私の心に染み込んでいく。私達がつかさを思って泣くことで、少しでもつかさの心に届くなら……
つかさ……お願いだから、帰ってきてよ。
私は泣きながらこなたに抱きつき、二人は抱き合いながら厳しい日差しの下、涙を流し続けた。
ここにいないつかさを想いながら。
「ねえ、かがみ……」
「なによ……こなた」
「かがみは、つかさが大事だよね」
「当たり前じゃない!」
 私はグスグスと鼻を啜りながら、涙も拭かずに答える。同じように涙でぐしゃぐしゃの顔のこなたが、私に向かって決意で石のように硬くなった声で言った。
「つかさに会わせて欲しい」
「……いいけど?」
 つかさは体に異常はなく、眠り続けているだけのため、面会謝絶でも何でもなく、ただ病院のベッドに寝ている。毎日父さんや母さん、時間があれば私や姉さんも様子を見に行っている。こなただって、一度は見舞いに来た筈だった。
「ありがとう、その後、もしかしたら遠出するかも知れないけど……かがみもついてきてくれる?」
「いいわよ?」
日差しの中で影になるこなたの表情は見えなかった。
私達は泣いたばかりのぐしゃぐしゃの顔のまま、強い日差しの中へ歩いていく。
病院に向かって。


 ………


病室の窓から温い風が入って、花瓶の花を揺らしている。

白いシーツの清潔なベッドの上で、つかさの胸が小さく上下している。点滴が繋がった細い腕は悲しいくらい痩せて、閉じられた目は最初からそうだったみたいに固く閉ざされ、開く気配がない。
ベッドの中で眠るつかさの表情は穏やかで、苦しむ様子のないことだけが救いだった。つかさはもう一週間、このままぴくりとも動かず眠り続けている。
こなたはそのベッドの脇の丸椅子に座ると、つかさの手をとって目を瞑る。小さく祈るようなその姿が、窓から入る風に晒されて、髪が踊るように揺れた。
その時不意に、強い風が吹き、思わず私も目を閉じる。

 目を閉じると急に周囲の温度が下がったような、奇妙に冷たい感覚に襲われる。背筋がぞくりとして、一気に現実感を喪失した。

 そして私は、幻覚を見る。


 暗闇の中で、つかさが立っていた、強い風に吹かれながら、そこには私と、こなたも居た。

 まるで夢の中みたいにふわふわしていて、それでいてぞっとするほど奇妙なリアリティが、その暗闇にはある。
 遠い宇宙の話を聞くような、確かに現実なのに実感の湧かない、そこにある暗闇、つかさはそこで氷のように透明な何かに閉じ込められている。

 こなたは迷わず、その、私達とつかさを隔てる透明なものに触れた。

 その瞬間、どっと冷気が噴きだして、周囲の暗闇が白い霧で埋まった。まるでドライアイスみたいに冷たい空気が、私達の体をその芯から冷え切らせる。震えながらこなたに駆け寄ろうとする私は、なぜか自分が一歩も動けない事に気づき、こなたはみるみる白く染まって、冷たい冷凍庫の中で作業する人のように白い息を吐きながら霜だらけになった。
(こなた!)
 こなたはみるみる、その透明な何かに飲み込まれようとして、私は必死に手を伸ばし、恐ろしく冷たいその暗闇の中で叫んだ。

「こなた!!」

 気づけばそこはただの病室で、目を開けた私に向かってこなたが振り返り、不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの?かがみ」
「……何でもない」
 目は開いている、一瞬、立ったまま夢を見ていたのだろうか?
 こなたは立ち上がり、名残惜しそうにちらりとつかさを見て、それから病室を出るために歩き出す。私もつかさに小さく挨拶して、一緒に病室を出た。
「つかさ、起きないね」
 病院の廊下からは、夏の青空が見えた。窓枠の作る影が長く、清潔な廊下に伸びている。患者や看護婦さんの歩く遠い音が私達に聞こえていた。
「あのさ、かがみ……」
 こなたは暗く翳る瞳で、少し困ったように私に言う。
「一緒に、お参りに行かない?」
「お参り?」
 うん、と奇妙に静粛な雰囲気でこなたは頷き、言葉を続ける。
「私さ、つかさと一緒に、あの事件の現場、見てたんだ。トラックが歩道に突っ込んで、ナイフを持った男が車から降りて、道行く人を刺していった……本当は、私もつかさも現場は見てないんだけど……たくさんの人が悲鳴をあげて、慌てた救急隊員が駆けていって……私達の居た場所は遠かったし、人が多くて現場には近づけなかったし、近づこうとも思わなかった。なのに、見えたんだよ」
「どういうこと?」
「分かんない。でも、つかさにも見えたんだと思う。あの事件ね、七人の人が死んだんだ」
 ニュースでもそう言っていた、生き残った人にも、重傷だった人は多い。考えれば考えるほど、気が重くなるばかりだ。どうして世の中は、こんな事になってしまうんだろう?
「犯人は捕まって、死刑も確定だろうけど……ねえ、かがみ、私たちに、何ができるんだろう?」
「何って……」
 死んだ人や、苦しむ人たちのために、って意味だろうか?
「何も出来ないわよ、多分……」
 こなたは頷く。
「そうだよね。でもね、祈る事だけはできる、と思わない?」
「祈る?」
「うん……上手く言えないけど、この世界には暴力が存在して、苦しむ人たちがいて、私たちは無力で……だから祈ることしか出来ないっていう風にも思えるけど……それは、祈る事だけはできるって事だから」
 そう言うこなたの澄んだ目は、写真で見たこなたの母親に似ていた。
 夏の影が病院を覆っている。
 こなたは伸びる影の中で、誰も知らない深い森の奥にある静かな湖のように、静謐で神秘的な雰囲気を纏っている。いつの間にか足音は消え、ただ静寂だけが病院の中で沈殿し、無言で私たちを包んでいた。
 私は奇妙なほどに心を揺らし、言葉にならない不安を覚える。
「だから、お参りに行こう?」
 そう言うこなたの言葉に頷いていたのは、その不安のせいだったかも知れない。

 この世界には、暴力が存在する。


 ………


 遠く電車に揺られながら、夕日の差す車窓を眺めていた。車内に緊張した夕日の色が満ちて目に染みる。
 隣に座るこなたが奇妙に静かで、何かを考え込むようにじっとしていた。
「どうしたの?こなた?」
「ううん、何でもないんだけど……」
 車内で座る人々の影が黒く長い。席に座ったまま眠り込むサラリーマン、杖を持った猫背のご老人、子供をつれた生活の重みを背負う母親、彼ら一人一人の影が、まるで実体的な重さを持つように車内の空気を沈殿させていた。
「あのね、お母さんが私を生むとき、産んだら危ないかも、って言われてたんだって」
 と不意にこなたが言った。
「……そうなの?」
 私はこなたが不意に話しだした話題が、重く感じられて内心で動揺した。何故なら実際にこなたのお母さんは、こなたを産んですぐに亡くなってしまったからだ。
「だから私が無事に産まれるように、お母さんは神社にお参りに行ったんだよ」
「そうなんだ……」
 私は上手い言葉を見つけられず、できるかぎり慎重に相槌をうつ、薄い氷の上を歩くみたいに、それを踏み割らないように……。
 私が恐れていたのは、こなたが、自分は生まれるために母親を殺した、というような論法を持ち出さないかという事だった。何の過失もない罪を背負おうとするのは、不健康であるし、自分の背負う罪の匂いをぷんぷん撒き散らすような人間を見るのはやりきれない。
 私はだから、この時、こなたを恐れていた。
「その神社に、今から行きたいんだ」
「ふうん……」
「ごめんね、つき合わせて、急いで行きたかったから」
「いいわよ、つかさのためでしょ。そこはご利益があるわけ?鷲宮神社より?」
神頼みを信じない私は……神社の娘としてそれはどうかと思うけど……こなたがそんなに神社に行きたがるのが不思議だった。大体、神社ならうちの神社もあるのに。
「ご利益はあるよ、現に私は産まれてるじゃん」
と言ってこなたは笑った。
 電車は揺れながら長く線路を走っていく。こなたは不意に思い出したように言う。
「昔この辺でね……あ、いま通り過ぎたけど」
 とこなたは車窓の外を見ながら言った。
「女の子がバラバラにされて殺される事件があったんだ。でも当時丁度とても大きな社会的事件があってね、そのせいか殆ど報道されなくて……警察は必死に捜査したけど犯人は捕まらなくて、事件は迷宮入りになったんだ……」
「そうなの?」
 こなたが何故、唐突にそんな不気味な話をしだしのか分からず、私は当惑した。こなたは深淵を覗く昏い目をして私を見ている。
「だから今でもこの辺では、少女をバラバラにした犯人がのんびり暮らしてると思うんだ。そう思うと、この辺を通るたびに、少し怖くなるんだ、私」
「それは……」
「ねえ、かがみ、日本の犯罪検挙率は九割だって言うけど、それって一割は全くの無法だって事だよね。ううん、一割は大げさで、たとえば99パーセントが法の届く範囲だとしても、絶対に100%にはならない。だから残りの1%は必ず、光の届かない闇のはびこる世界になるんだよ。そしてある選ばれた人間にとっては、その1%が無限の広さを持つ事になるんだ。つかさも私も、多分その、『1%の世界』を覗いてしまったんだと思う」
「それは、あのアキバの事件で、ってこと?」
「うん……私たちはあそこで、闇を覗いてしまって、つかさは闇に覗き返された。ただアキバを歩いていただけで、何の意味もなく殺されてしまう……たとえば、死んだのは私やつかさでもおかしくなかった。その事自体が、この世界に闇があるって事だと思う……」
「こなた、こなたの言うこと、わかんないよ」
 私はなぜか、こなたがどこか遠くへ行ってしまう気がして、引き止めなければと強く思う。こなたはそれに対して、全く感情を見せずに私に尋ねるのだ。
「ねえ、かがみ、つかさがバラバラにされて、犯人が捕まらなかったらどうする?」
 こなたの目はただ、無限の虚無を映している。私はつかさがもしも、死んでしまったらと考えて、耐えられない思いがした。
「どうするって……そんなの、絶対許せないわよ」
「でも今でも、被害者の遺族はその許せない苦しみの中に居るんだよ。犯人はたぶん、この先も捕まらない。それにつかまったとしても、つかさは帰ってこない。かがみ、私たちに何ができると思う?」
「何って……」
「世界では今でも、誰かが殺されたり、酷く損なわれたりして、それでいて犯人が野放しになったりする事があるんだよ、やっぱり」
 誰かが殺されて新聞に載っても、犯人が捕まらない事がある。新聞に載るような殺人事件でさえ、そうなのだ。暴力団は蔓延り、暴走族は我が物顔で道路を走り、警察は必ずしも機敏に動く訳ではない。
 一般市民が殴られて入院した、恐喝された、強姦された、などという、新聞に載ることもない事件たちは果たしてどうなっていくのか。それらはまったく目に見えないうちに、誰も知らない暗闇に飲み込まれていくのではないのか。
「こなた、それってなんだか……怖いよ」
 アキハバラでは人が殺され、外国に人が誘拐され、やくざは人を脅して、学校で生徒がいじめ殺され、家では親が子供を虐待死させる。そんな暗黒の暴力が、目に見えないところで確かに息づいているのを、こなたの言葉で私は意識せざるをえず、それが私を心底から恐れさせた。

 ああ、なぜ、つかさは目覚めないのだろう。

 そんなこの世界が、恐ろしくなったからなのだろうか?
「ねえかがみ、私たちにできることってあるのかな?」
 こなたの問いかけに、必死に私は恐怖を押し殺して、平静を装い掠れる声で言った。
「もしそれが社会的な問題なら、それに対する怒りがきっと、社会構造とか、そういうものを変えて、問題を解決に向かわせると思う……」
「そうだね……でも、今本当に私たちにできるのは……」
 人生に突然現れる暗い縦穴に、不意に人は嵌まり込む、他人事のように普段は感じるそれは、確かにそこにあって、その普遍的な暗闇は、本当は無くならない。穴だらけの道を、私たちは目を瞑って歩く。穴の中には悪意と恐怖と暴力が詰まっている。そしてその穴を避ける方法はないのだ。
 どんなに社会構造を変えても、それはなくならない。社会構造を変えること、対策を行うことは決して無駄ではないが、しかし本質的にそれが完全に無くなるという事はないのだ。
 それに、たとえばいま、つかさが死んだら、一体私たちに何ができるというのか。
 社会構造?問題の解決?
 そんな事は関係がない。
 失われたものや、世界を覆う普遍的暴力の前に、人間は余りにも無力で、それは……。
「かがみ」
 と、こなたが私の、暗く、より暗く沈んでいく思考を断ち切るように声をかけてきた。
「祈ろう」
 こなたが私の手をぎゅっと握り、目を瞑った。不意に胸が暖かくなり、問題は何も解決していないのに、何故かとりあえず大丈夫だと思える。こなたの手からまるで暖かさが流れ込んでくるように感じられて、こなたは目を閉じ、何かを懸命に祈り、それに合わせて私も目を閉じた。
 暗闇の中でもこなたの声は聞こえて、それが私を導くように、意識だけを前に進ませた。現実の私は揺れる電車の席に座って動いていないのに、意識だけが進むような感覚が、確かにある。
「かがみ……多分、どんなに社会制度を変えても、不意の暗闇に取りつかれた狂気が、レンタカーを借りて交差点で人をひき殺すことや、電車を加速させてマンションへぶつける事を止めさせる事はできないんだよ」
「うん……」
「私たちにできることは、ないのかも知れないけど……祈る事だけはできるから」
 つかさを想って泣いたこと、無意味じゃないよ、と言ったこなたの言葉を思い出し、目を開けた。電車は今から、暗闇のトンネルに入るところだった。
 こなたは私の手を握ったまま、じっとこっちを見上げて言う。
「ねえ、かがみ、この電車が脱線しないように祈って」
「え?」
 昔、そういえば尼崎で脱線事故があった。そして誰も止める事の出来ない人生の縦穴が、多くの人間を飲み込んでいった。
 たとえばこの電車の車掌が狂気に取り付かれ、今から電車を最高速で走らせて、線路から外そうとしていたら、私にはもう止める事が出来ない。

 そういえばこの電車、妙に速くない?

 私は不意に、本当にこの電車が脱線しようとしているように思えて、恐怖にかられた。電車の速度が、怖いぐらいグングン上がっていく。誰も止めることの出来ない人生の暗闇と、その暴力、それの牙が今にも私に襲いかかりそうに思えて、恐怖に飲まれそうな私に、こなたの声が聞こえた。
「祈って」
「でも」
「祈って」
 有無を言わせないこなたに従い、私は祈る、つかさが目覚めること、世界が平和であること、みんなが健康であること、ありふれた他愛無い日常が守られることを。
 電車がトンネルの中に入って、車内が一気に暗くなる。ゆれる電車のガタンゴトンという音と、トンネル独特のごう、と唸る音が車内に満ちた。電車の速度が止まる事なくあがっている気がして、次のカーブを曲がりきれず、電車が脱線し、つぶれたトマトのような死体になる私が脳裏に浮かぶ、こなたがぎゅっ、と私の手を握った。
「大丈夫」
 車窓の向こうに流れる暗闇、そして電車の先頭には、トンネルを抜けた先にある光が見える。
「たとえば、世界中で何百万、何億人という人が平和を願って祈っていたら、それが全て無意味になるなんて事はないと思うんだ、かがみん。みんながそう思っている、そう祈っている、という事自体が、きっと力になるって、そう信じてるから」
 こなたの言葉に不意に反応したように、電車は速度を落とし、トンネルの暗闇を抜ければそこは緑の広がる田園風景だった。夕日に輝く緑がまぶしく、電車はゆっくりとカーブを曲がっていく。
「次の駅で降りるから」
 とこなたが言って、電車は、のどかな緑の世界を進んでいく。



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