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『レイニー・レイニー』」(2023/02/28 (火) 16:01:04) の最新版変更点

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雨の降る中で私は空を見上げた。 泣き出した空から降り注ぐ大粒の雫に、私の頬が、頸が、二つに結んだ髪が、制服が濡れていく。 例えば、雨の中で濡れながら、濡れた草を踏んで、裸足で歩くこと。 『それは自分が生きているという実感がすることだ』と、ある映画のヒロインが言っていた。 ――生憎、私は映画のヒロインではないけれど。 そして、私は裸足ではなく、靴を履いているけれど。 降り注ぐ水の中で、自分の心臓の音や体の温度が輪郭を持ち始めるのを感じていた。  『レイニー・レイニー』 雨が降ると、気持ちが沈む。 一概に、すべてがそうだとは言えないけれど。 例えば、雲の所為で太陽が見えない暗い空や、湿気のこもった室内の匂い。 外に出れないこととか、歩くときに靴下が汚れること。 そういう小さな雨の憂鬱が積み重ると、『雨が降ると気持ちが沈む』ということにはなるのかもしれない。 ――雨の日は憂鬱。 目の前に座る親友も、その言葉の例に洩れないようだった。 こなたはいつもの眠そうな目をさらに眠そうにして、どことなく物憂げに空を眺めていた。 そんなこなたの様子を見て、つかさが言う。 「こなちゃん、今日元気無いねー」 つかさの声にこなたは微かに目を大きくすると、ゆっくりと振り返って顔を向けた。 「んあ……そかな」 普段に比べて、心持ち少ない声量で呟いた。 それからまた窓の外を眺めて、「きっと、雨の所為だネ」と言う。 「ここのところ長く、雨が続いていますからね」 その呟きに、みゆきが響く。 「やっぱり長雨が続くと、気持ちが沈みやすくなりますよね」 それから彼女は、眼鏡の向こうでその長い睫を瞬かせた。 私は頬杖をつきながら、何となく黙ってそのやりとりを聞いていた。 天気予報が梅雨を知らせ始めた、六月の中旬。 私たちの住む町には長い雨が降っていた。 しとしとと、時にざあざあと。 緩急をつけながらも止まない雨は、なんだかんだでもう五日も続いている。 もう随分と、太陽の姿を見ていない。 そんな日のお昼休み。 ご飯も食べ終わった私たち四人は、とりとめない話をしていた。 B組の教室はこんな雨の日に一体みんな何処に行ってしまったのか、あまり人がいない。 私たちの他には二、三人だけ。みんな息を潜めるようにして言葉を交わしている。 どこか大きな声を出すことが憚られるような、でも穏やかな空気の中で、つかさが囁くようにみゆきに問いかけた。 「ゆきちゃんは、雨キライ?」 みゆきは唐突な質問に驚いていたけれど、誠実そうに考えて、「少し苦手かもしれません」と苦笑いをしながら答えた。 「私の髪は癖が強いので、雨が降ると朝の支度が大変なんです。寝癖がなかなか直らなくて」 そう言って「お恥ずかしながら」と頬に手を当てる。 それに私たちは揃って小さく笑った。 「寝癖のみゆきさんもそれはそれで萌えだけれどネ」 こなたがにまっと笑って、いつもの軽口を叩いた。 「お前はまたそれか」 私はいつもどおりに突っ込みをいれる。 そしてまた笑い声。 いつもと同じリズム。私たちの言葉。会話。やりとり。 でもそれは少しだけいつもより、テンポが緩慢。 やっぱりそれは雨の所為なのだろうか? 「そっかー、寝癖は困っちゃうよね」 つかさが自分の髪を触りながら言った。つかさも寝癖には毎朝苦労させられている一人なのだ。起きるのが遅いから尚更。 私が支度を終えている横で、ドライヤー片手に悪戦苦闘しているのを朝の洗面所でよく見かける。 「でもね私、雨って、キライじゃないんだ」 自分の髪を撫で付けながら、つかさは「雨が降るとね」と話し始めた。 「コンクリートの匂いがするでしょ。あれ、好きなんだー」 言われて私は思わず自然に周囲の空気の匂いを、くん、と嗅いだ。 開け放った窓から流れ込んでくる空気は、つかさの言っている匂いに近い気がした。 「それからね、木が元気になるのも好きだよ。いい匂いだよね。あと、靴が濡れちゃうのはイヤだけれど、お気に入りの傘がさせるのも好き」 そう言うと、つかさは私たちの顔を見回して、「エヘヘ」と笑った。 その笑顔は身内の私が言うのもヘンだけれど、抱きしめたくなるくらい可愛かった。 「そうですね」 つかさの屈託の無い表情に、みゆきが優しげな微笑を浮かべる。 「私も雨の匂いは好きですよ。水や緑の匂いには癒しの効果があると言われていますしね」 「マイナスイオン?」 「ええ、マイナスイオンです」 つかさの言葉にゆったりと答えるみゆき。 そんなみゆき自身からこそマイナスイオンが出ているような気がして、私は頬杖をついたまま低く笑った。 賛同者を得られたつかさは、身体を軽く揺すって喜びを示していた。 そのままつかさとみゆきが会話を始めたので、私は何となくこなたの方を見た。 彼女は前に向かって伸びをしていた。 そしてそのまま口をもぐもぐ動かすと、机の上に丸くなる。 その一連の仕草はまるで猫みたいだった。 そう言えば、猫は湿気や濡れるのが苦手なので、雨が苦手だという。 だから、こなたも雨は苦手なんだろうか。 「んにゃ? どったのかがみ?」 こなたがいつの間にか私の視線に気付いて、その顔を上げていた。 その上目遣いのくりくりとした大きな瞳は、本当に子猫みたいに愛くるしい。 「あんたって猫みたいよね」 私は思ったままを口にしてみた。 するとこなたは俄かに口角を上げた。 「ねこ、ってどっちの?」 意味が分からなかったので私は眉を顰めて返した。 「どっちのって、他に何があるのよ」 「キャットの方?」 「キャット以外に何があるのよ」 「いやー、ほら、いわゆる受けの人のことを専門用語でネコと言…」 「言っても言わん! ていうかそっちの活用で『ネコみたい』って普通言わないだろ!」 「あるいはかがみなら」 「言わねえよ!」 とんでもないことを言い出しやがる。 雨の憂鬱と静寂を吹っ飛ばす勢いで突っ込む私に、こなた口元に手を当てて、にまあっと厭な笑いを浮かべた。 「ていうかかがみ、そっちの活用知ってたんだネ」 思わぬ反撃に、顔に一気に血が上るのを感じる。 しまった。 顔を紅くするのはこなたの思う壺だと分かっているのだけれど、こればかりはどうしようもない。 私は赤面症なのだ。 自分がすぐに顔を紅くするということを、私はこなたに出会ってから知った。 「一体何処で知ったのかな?かな?」 「う、うっさいな! 本に出てきたのよ! だから偶々よ、偶々!」 しつこく絡んでくるこなたを振り払っていると、つかさが不思議そうに首を傾けた。 「ねえ、こなちゃん。『いわゆる受け』ってどういう意味?」 とんでもないことを聞きやがる。 こなたは目を光らせた。 「うむ、よくぞ聞いてくれたネ。いわゆる受けというのは」 「余計なこと教えるな」 私はこなたの後頭部を掴んで机に押し付けた。 潰されたこなたは「むぎゅ」という小さな悲鳴を上げる。 ちょっとだけ、可愛かった。  + + +  雨が降れば、気持ちが沈む。 そんなに人間って単純なものじゃないと思うけれど。 雨の日だって、楽しい日はある。 いつかのレインコートで走り回っていた子供のように、雨の日を謳歌することだってあるだろう。 でも、今日の私はそういう気持ちではないようだった。 連日続く雨は頭のどこかを腐らせていくみたいで、倦怠感ばかりが募っていく。 それはこなたも同じようで、雨が降ってからは毎日気だるそうにしているので、そう思っているのは私ばかりではないんだなと思う。 放課後。 廊下を一人で歩いていた私は、溜め息を吐いて窓の外を見た。 雨は昼休みの時より強くなっていた。 ざあ、というノイズのような音が途切れることなく耳朶を打つ。 「早く止まないかなあ…」 遠くに見える土の校庭は、まるで大きな水溜りのようになっていた。 こんな場所で駆け回る運動部はきっと悲惨なことになるだろう、と私は思った。 ――もっともこの雨が止まない限り、このグラウンドで活動することもできないのだけれど。 すう、と息を吸い込むと、濃い雨と土と緑の匂いがした。 つかさが好きだと言っていた匂い。 みゆきも好きだと言っていた。 「そう言えば…」 こなたはどうなんだろう。 あの時は何も言っていなかった気がする。 ――こなたは、雨の匂いは好き? どうしてか聞いてみたい気がした。 でも今日は私は委員会で遅くなることがわかっていたので、彼女たちには「先に帰っていて」と言ってある。 こなたもつかさもみゆきも、もう多分学校にはいない。 私は窓から視線を外して、廊下の突き当たりの壁にある時計を見た。 時間はもう下校時刻に近い。 この雨で多くの部活動が休みになったのか、周りの教室にも、渡り廊下にも、見えるところに人の気配は無かった。 ――なんだか今日の学校は、妙に、人がいないような気がする。 そう考えると、すう、と何だか寒くなったような気がして、私は身震いした。 (早く帰ろ) 私は荷物が置いてある自分のクラスに行くために、早足で廊下を歩いた。 (ん…?) しかしB組の前を通り過ぎたとき、視界の端に見慣れた影を見た気がして、私は数歩戻って、教室を覗いた。 窓際の席に、小さな背中が見える。 机に顔を伏せているけれど、頭に立つクセ毛でそれが誰と知れた。 「……こなた?」 私は名前を呼んだ。 とうに帰ったと思っていたのに。一体何をしていたのだろう。 さっと教室を見渡してみるけれど、つかさやみゆきがいる様子もない。 彼女は一人で、電気もつけずに、小さな身体をさらに小さくするようにして、机に伏せていた。 「こなた」 もう一度呼びかけても、その背中は動かなかった。寝ているのだろうか。 私は教室に足を踏み入れた。 きっ、きっ、と小さく床を軋ませながら、私はこなたに近づく。 私の声は、雨の音に紛れて聞こえなかったのだろうか。 ――それとも顔が上げられないとか? そう考えた途端、私は何故か唐突に『こなたが泣いているんじゃないか』という気になった。 こなたが泣いているところなんて、一度も見たことが無い。 でも何故か私はその時、その小さな背中を丸めてこなたが泣いているように思えた。 私は彼女の傍に半ば駆け寄ると、その顔を覗き込んだ。 結論を言うと、こなたは泣いてなどいなかった。 ただ目を閉じて、規則的な息を吐いて眠っているだけだった。 「何よ…」 ほっとして私は息を吐いた。 大体、どうして泣いているなどと思ったのだろう。 長雨で私もどこかおかしくなっているのかもしれない。結露で部品が錆びるみたいに。 「…ていうか、コイツはここで何してるんだ」 寝ている相手に突っ込んでも仕方が無いことだけれど。 確か昼休みに、私が先に帰っててと言った時は「わかったー」といつもの間延びした口調で返事をしていたはずなのに。 それが下校時刻も近づいた今、暗い教室で一人で眠っている。 結構音を立てていると思うのに、こなたが目を覚ます様子はなかった。 完全に熟睡している。 「……私が来なかったらどうするつもりだったのよ」 巡回に来た警備員さんにでも起こされて、お説教を食らったのだろうか。 その様子を想像して私は、くくっと笑った。 そしてこなたを起こそうと手を伸ばした瞬間。 私はその手を止めてしまった。 こなたの寝顔を見ていたら、起こすのが憚られてしまったのだ。 それは登下校のバスや電車で何度も見た、いつものこなたの愛嬌のある寝顔ではなくって。 静かであどけないのに、どこか疲れたような寝顔。 まるで、待ち疲れて眠ってしまった子供の寝顔だった。 母親の帰りを待っている子供みたいだ、と続けて考えて、私ははっとなった。 こなたにはお母さんはいない。 「んん……」 こなたが寝息を漏らした。 起きたのかと思って黙っていると、また再び規則的な寝息が聞こえてくる。 私はこなたの前の席の椅子に静かに座った。 ――自分の頭の中の声が聞こえるわけが無いんだけれど。 何だか私はこなたに悪いことをしてしまったような気がして、その髪を撫でた。 こなたの髪は、柔らかで指に優しい感触がした。 それでも起きる様子が無いので、私はこなたの寝顔を観察し続けた。 ――こなたは、誰を待っているのだろうか? まず現実的に委員会に行っていた私のことを待っているのだろうか、と考えた。 それから少し非現実的に、考えてしまった。 それとも。 待ち疲れて眠ってしまうほど、子供のこなたが、ずっと待っていた人。 心の底で、もしかして。 でももう、その人は――。 そこまで考えて、胸がずきっと痛んだ。 こなたは「気にしてない」と言っているのに、こんなことを考えるなんて。 こなたに失礼だ、と思った。 これ以上一人でじくじく考えていると、思考が止まらなくなりそうだったので、私はこなたの肩を思い切って揺さぶった。 「んあっ…?」 身体を大きく揺さぶられたこなたは、流石に目を覚ました。 私が何か声をかけようとした瞬間、そのとろんとした瞳が、すっと私の方へ向く。 すると、さっきまで考えていたことが見透かされたような気がして。 私は言葉を呑んでしまった。 こなたの瞳が私を捉えて、止まる。 私はその瞳に捕えられて、動けなくなった。 窓の向こうから聞こえる。 ざああ、と止まることのない雨のノイズが耳朶を打つ。 私たちが言葉をつむがない代わりに、それらが沈黙を埋める。 薄暗い教室で、私たちは無言で視線を合わせ続けた。 「………」 ゆっくりと、こなたの瞳が時間をかけて、焦点を合わせる。 「……かがみ?」 「……」 どうしてか、言葉が出ない。 やっぱり雨で私も何かおかしくなってるんだ。 機能不全になってる。絶対にそうだ。 「………………………………何で帰ってないの?」 とても時間をかけて私は、やっとそう口にした。 こなたはそれを受けて、いつものように猫のような口を作って笑う。 「いやぁ、ネ」 こなたは未だ自分の髪に触れたままの私の手に驚いた後、妙に明るい声を出して手を振った。 「六限の世界史爆睡してたら、放課後黒井先生に呼び出されちゃって。遅くなっちゃったから、かがみでも待っていようかと思って」 こなたの声はどうしてか少し上ずっていた。 「あ、つかさとみゆきさんには先に帰ってもらったヨ?」 言いながら、ちらちらと自分の髪に触れている私の手に視線を送る。 私はそれでやっと「触りっぱなしで変だ」ということに気がついて、こなたの髪から手を離した。 「ん……で、かがみはどしたの?」 さっきから黙りっぱなしの私に流石のこなたも奇を感じたたらしい。 訝しげに眉を顰めて、顔を横に傾けた。 「別にどうもしてないわよ」 「そ? ――いや、やっぱ変だよ」 私が突っぱねると、こなたは軽く首を振ってみせた。 そして続けた。 「そう言えば、昼休みからなんか変だったよね?」 そう言われて私は驚いた。 「はあ?」 「ウン。なんてゆーか、妙に口数少ないし」 こなたは言いながら確信めいたものを感じたらしく、一人でウンウン頷き始めた。 「――っ、それを言うなら」 あんただってそうだったじゃない、と続けようとして、私は言葉を失った。 こなたが穏やかな表情で私を見つめてきたからだ。 私が言葉を飲んでしまったのを見て、こなたが続けた。 「かがみんのことならなんだってわかるのだよー」 それはからかう様な、いつもの口調なのに。 笑顔が酷く優しかった。 「いつも、一緒にいるからネ」 やっぱり、私は変だ。絶対変だ。 だってそんなこなたのいつもの軽口にどうしてか、泣きそうになってしまったのだから。 「かがみん、帰ろっか?」 こなたは立ち上がると、いつもの調子に戻ってそう言った。  + + + 「最低だわ…」 生徒玄関の前で、私は半ば諦観の心地で呟いた。 あの後、帰る為に自分の教室に傘と鞄を取りに行ったのだけれど。 傘箱の中に私の傘は無かった。というか傘箱自体がからっぽだった。 考えられる理由は二つ。 間違えて持って帰られてしまったか、盗まれてしまったか。 (こんなことならビニール傘なんかじゃなくって、つかさみたいにちゃんとした傘を買えばよかった) ビニール傘は安価だけれど、その分持っていかれやすくもある。 私が思うにビニール傘を使う人間には、「いつか何処かで傘を失くすだろうと思っている」心理があると思う。 私自身ももいつか出先で失くすだろうと思って、ビニール傘を選んだ。 ――しかし、それが、何も、今で無くてもいいじゃない。 私は空を見上げた。 屋根の途切れた先から見える、滝のような雨。 教室にいた少しの時間で雨は本降りになっていた。 「どうしろっていうのよこれ……」 「あれぇっ、かがみん、傘は?」 昇降口で待ち合わせをしていたこなたが、ととと、と歩いてきた。 私は大仰に溜め息を吐いて言った。 「間違えて持ってかれた。もしくは盗まれた。でも他の傘残ってなかったから、多分盗まれたんだと思う」 それを聞いて、こなたは眉を寄せた猫口顔になる。 そしてこう言った。 「ブルータス、お前もか」 「お前もか、って」 まさか、と思うと、こなたは鞄しか持っていない手を私にひらひらと振って見せた。 「私も持ってかれちゃったみたいなんだヨ」 そういえばこなたも今朝はビニール傘だったと私は思い出した。 「ビニール傘は持っていかれやすいのが難点だよね」 私がさっき考えていたのと同じようなことを口にする。 そして探偵よろしく、顎に手を当ててみせた。 「盗む時に罪悪感が少ないからかな?」 「盗みは盗みだろ」 私が指先を額に当てた。 こなたはくふーっと、妙な溜め息を吐いた。 「んー、コンドルのジョー亡き後の地球の人心は荒廃してるネ」 「そんな人は最初から現実世界にはいない」 「続編でサイボーグになって現れてるけれど、私としてはあそこで散っているのが男のロマンだと思うんだよネ?」 「知るか!」 「まあそれはともかく」 こなたは左手の指先をくるくると空中で回した。 「ビニール傘って、盗まれたり無くなったりしても何かお互い様って感じするよネ」 「それはまあ…わからなくもないかな」 「自分のがどれだかわかんなくなることよくあるし。そういう時、適当にそれっぽいの持ってきちゃうこと無い?」 「おま、そういうことするから最終的に私たちみたいのが出るんだろうが!」 「んー、『ビニール傘は天下の回り物』?」 「回すな」 ざあざあざあ、と私たちの鼻先で雨は降り続けている。 「でも朝も雨降ってたのに。ソイツどうやって学校来たんだろ」 「うーん、朝はここまで土砂降りじゃなかったしねえ。ま、とにかくそろそろ、バス停行こっか」 言うなりこなたは土砂降りの中を普通に歩き出した。 「ちょっ! こなた!」 「んん?」 雨の中でこなたが振り返る。 十秒もしないうちにこなたはあっという間にずぶ濡れになった。 その青空の欠片みたいな髪が翻って、雫を落とす。 「だって、こうするしかないじゃん?」 こなたは雨の中で軽く手を広げて見せた。 その間も雨雫はこなたの前髪や頬や顎を伝って地面に落ちていく。 「次のバス逃すと当分来ないし」 「――こなたは」 ほんの五メートル先。ずぶ濡れのこなたが立っている。 「雨が好き?」 私は思わず口にしていた。 するとこなたは目を少し丸くして、私の瞳を見つめ返す。 そして、ゆっくりと苦笑いを浮かべてこう言った。 「嫌いだヨ」 ざあ、ざあ、ざあ、ざあ。 私は一歩踏み出す。 屋根が途切れた瞬間、幾千の雫が私に降り落ちる。 泣き出した空から降り注ぐ大粒の雨は、私の頬を、頸を、二つに結んだ髪を、一瞬にして濡らして行く。 ――例えば、雨の中で濡れながら、濡れた草を踏んで、裸足で歩くこと。 『それは自分が生きているという実感がすることだ』と、ある映画のヒロインが言っていた。 ――生憎、私は映画のヒロインではないけれど。 そして、私は裸足ではなく、靴を履いているけれど。 降り注ぐ水の中で、自分の心臓の音や体の温度が輪郭を持ち始めるのを感じていた。 また一歩、こなたに近づく。 鼻先を雨雫が掠めていくけれど気にしない。 私はこなたの目の前に立つと、その顔を見下ろして言った。 「……私も嫌いよ」 自然と見上げる形になるこなたは、降ってくる雨に目を細めていたけれど、私の目をしばらく見つめると、くしゃっと笑った。 「同じだネ」 と、言って笑ったこなたは、何だかいつもより大人びた顔だった。 そして私たちはバス停に向かって、走り出した。 雨が騒ぎ立てる中で、走りながらこなたが何かを言い始めた。 「――雨が、降ると」 「え?」 ざああああ。 自分が水溜りを蹴立てる足音と、跳ね回る雨の音とでよく聞こえなかったので、私は聞き返した。 しかしこなたは聞こえていようがいまいと構わないようで、意に介さず言葉を紡ぎ続ける。 「――雨が――と、空が見えな――るからイヤだ」 雨の向こうで途切れ途切れに、こなたの声が聞こえる。 聞き返そう、と私は口を開いた時、こなたは足を踏み出しながら、一際微かな声で言った。 「青は――――んの色なのに」 それは聞こえなかったはずなのに。 私の胸は音を立てた。 ざあ、ざあ、ざあ、ざあ。 私たちが走っていく先の道路で、バスが飛沫を上げて停車するのが見えた。  + + + エンジンが唸りを上げて、洪水のような雨の中を進んでいく。 バスの大きなワイパーがフロントガラスを拭っても、すぐに雨が滑り落ちてくるのが見えた。 私とこなたはバスの車両の真ん中辺りに並んで立っていた。 他に乗客はいなくて、私とこなただけだったけれど、二人とも全身濡れ鼠だったのでシートに座らず立っていることにしたのだ。 床に小さな水溜りをいくつも作って、私たちはバスの揺られていた。 隣のこなたが小さくくしゃみをしたので、私は「寒い?」と聞いた。 「んん…」 少し鼻を啜ってから、こなたが応える。 「少し」 その時、大きな窪みを通ったのか、がったん、と車内が大きく揺れた。 私とこなたはいつものように足で踏ん張ってバランスを保とうとしたのだけれど。 いつもと違って足元は水溜りだったから、こなたが「ふぉっ!?」と声を上げて足を滑らせた。 私はとっさにこなたの手首を掴んで支える。 間一髪こなたは転ばずに済んだ。 「大丈夫?」 「あ、ありがとう」 目を白黒とさせたこなたが体勢を整える。 そして、私に掴まれた手首を見た。 しばらくじっと見つめると、こなたはゆっくりと掴まれた手を解いて、その手のひらを私の手のひらに絡ませた。 そして、私の手をぎゅっと握った。 繋いだ手のひらから、雨で濡れた肌の感触と、こなたの体温が伝わってくる。 「かがみの手は温かいね」 そのまま繋いだ手を、私たちの間に落とす。 「これくらいじゃ、温かくないでしょう」 「ううん……温かいよ」 そう言ってこなたはまた鼻を鳴らした。 こなたは体が小さい分、冷え易いのかもしれない。 私はこなたに握られた手をぎゅっと握り返した。 すると、こなたが驚いたように顔を上げた。 真っ直ぐな眼。 途端に私は恥ずかしくなって、視線を窓の外に投げた。 「す、少しは温かいでしょ? あんたが寒いって言うから…」 「ツンデレ」 こなたがぼそりと言う。うるさい。 でもその口調は何処か嬉しそうだったから、そのままにさせて置くことにした。 景色が畑を抜けて、雨に滲む街が姿を現し始める。 駅が近づいてきた。 私の髪から、ポツリと緩やかに雫が落ちた。 そして、その雫のように、口も言葉が零れる。 「…雨」 「ん…?」 「早く止むといいね」 「ウン」 こなたが微かに手を握り返してくる。 ――いつも、一緒にいるからネ。 さっき、教室で聞いたこなたの言葉を思い返す。 きっと深い意味なんて無いんだろうけれど。 こなたの小さな手を感じながら、私も、この子の側に出来るだけいたい、と思った。 雨が止んだのは、それから二日後だった。 -[[子供の時間>http://www13.atwiki.jp/oyatu1/pages/629.html]]へ続く **コメントフォーム #comment(below,size=50,nsize=20,vsize=3) - 感動的。そしてユリウス・カエサルみたいな小ネタを随所に入れていてよく作り込んでるなぁと… -- 名無しさん (2018-09-12 23:05:01) - Gj -- 名無しさん (2014-08-26 01:17:45) - なにか知らないけど心にじわっと来ました! -- 名無しさん (2010-11-15 22:54:01) - 今日は雨が降っていたから、ふと読み返した。 &br()こなたが雨を嫌いと言っていたシーンを思い出した。 &br()なんだかとても悲しい気持ちになった。 &br()あなたの書く作品はどれも素晴らしくて心に染みる。。 &br()このSSを作ってくれた事を感謝します。読ませてくれてありがとう。 -- H1-52 (2008-10-05 23:29:01) - うーん、これはすごい &br()作品から雨の降り続く日の情景がにじみ出ているようです &br()それにすごく文章が上手いですね &br()続きも楽しみにしています -- 名無しさん (2008-05-21 00:38:05) - 心に染み入る名作だこれは・・! -- 名無しさん (2008-05-20 15:48:40)
雨の降る中で私は空を見上げた。 泣き出した空から降り注ぐ大粒の雫に、私の頬が、頸が、二つに結んだ髪が、制服が濡れていく。 例えば、雨の中で濡れながら、濡れた草を踏んで、裸足で歩くこと。 『それは自分が生きているという実感がすることだ』と、ある映画のヒロインが言っていた。 ――生憎、私は映画のヒロインではないけれど。 そして、私は裸足ではなく、靴を履いているけれど。 降り注ぐ水の中で、自分の心臓の音や体の温度が輪郭を持ち始めるのを感じていた。  『レイニー・レイニー』 雨が降ると、気持ちが沈む。 一概に、すべてがそうだとは言えないけれど。 例えば、雲の所為で太陽が見えない暗い空や、湿気のこもった室内の匂い。 外に出れないこととか、歩くときに靴下が汚れること。 そういう小さな雨の憂鬱が積み重ると、『雨が降ると気持ちが沈む』ということにはなるのかもしれない。 ――雨の日は憂鬱。 目の前に座る親友も、その言葉の例に洩れないようだった。 こなたはいつもの眠そうな目をさらに眠そうにして、どことなく物憂げに空を眺めていた。 そんなこなたの様子を見て、つかさが言う。 「こなちゃん、今日元気無いねー」 つかさの声にこなたは微かに目を大きくすると、ゆっくりと振り返って顔を向けた。 「んあ……そかな」 普段に比べて、心持ち少ない声量で呟いた。 それからまた窓の外を眺めて、「きっと、雨の所為だネ」と言う。 「ここのところ長く、雨が続いていますからね」 その呟きに、みゆきが響く。 「やっぱり長雨が続くと、気持ちが沈みやすくなりますよね」 それから彼女は、眼鏡の向こうでその長い睫を瞬かせた。 私は頬杖をつきながら、何となく黙ってそのやりとりを聞いていた。 天気予報が梅雨を知らせ始めた、六月の中旬。 私たちの住む町には長い雨が降っていた。 しとしとと、時にざあざあと。 緩急をつけながらも止まない雨は、なんだかんだでもう五日も続いている。 もう随分と、太陽の姿を見ていない。 そんな日のお昼休み。 ご飯も食べ終わった私たち四人は、とりとめない話をしていた。 B組の教室はこんな雨の日に一体みんな何処に行ってしまったのか、あまり人がいない。 私たちの他には二、三人だけ。みんな息を潜めるようにして言葉を交わしている。 どこか大きな声を出すことが憚られるような、でも穏やかな空気の中で、つかさが囁くようにみゆきに問いかけた。 「ゆきちゃんは、雨キライ?」 みゆきは唐突な質問に驚いていたけれど、誠実そうに考えて、「少し苦手かもしれません」と苦笑いをしながら答えた。 「私の髪は癖が強いので、雨が降ると朝の支度が大変なんです。寝癖がなかなか直らなくて」 そう言って「お恥ずかしながら」と頬に手を当てる。 それに私たちは揃って小さく笑った。 「寝癖のみゆきさんもそれはそれで萌えだけれどネ」 こなたがにまっと笑って、いつもの軽口を叩いた。 「お前はまたそれか」 私はいつもどおりに突っ込みをいれる。 そしてまた笑い声。 いつもと同じリズム。私たちの言葉。会話。やりとり。 でもそれは少しだけいつもより、テンポが緩慢。 やっぱりそれは雨の所為なのだろうか? 「そっかー、寝癖は困っちゃうよね」 つかさが自分の髪を触りながら言った。つかさも寝癖には毎朝苦労させられている一人なのだ。起きるのが遅いから尚更。 私が支度を終えている横で、ドライヤー片手に悪戦苦闘しているのを朝の洗面所でよく見かける。 「でもね私、雨って、キライじゃないんだ」 自分の髪を撫で付けながら、つかさは「雨が降るとね」と話し始めた。 「コンクリートの匂いがするでしょ。あれ、好きなんだー」 言われて私は思わず自然に周囲の空気の匂いを、くん、と嗅いだ。 開け放った窓から流れ込んでくる空気は、つかさの言っている匂いに近い気がした。 「それからね、木が元気になるのも好きだよ。いい匂いだよね。あと、靴が濡れちゃうのはイヤだけれど、お気に入りの傘がさせるのも好き」 そう言うと、つかさは私たちの顔を見回して、「エヘヘ」と笑った。 その笑顔は身内の私が言うのもヘンだけれど、抱きしめたくなるくらい可愛かった。 「そうですね」 つかさの屈託の無い表情に、みゆきが優しげな微笑を浮かべる。 「私も雨の匂いは好きですよ。水や緑の匂いには癒しの効果があると言われていますしね」 「マイナスイオン?」 「ええ、マイナスイオンです」 つかさの言葉にゆったりと答えるみゆき。 そんなみゆき自身からこそマイナスイオンが出ているような気がして、私は頬杖をついたまま低く笑った。 賛同者を得られたつかさは、身体を軽く揺すって喜びを示していた。 そのままつかさとみゆきが会話を始めたので、私は何となくこなたの方を見た。 彼女は前に向かって伸びをしていた。 そしてそのまま口をもぐもぐ動かすと、机の上に丸くなる。 その一連の仕草はまるで猫みたいだった。 そう言えば、猫は湿気や濡れるのが苦手なので、雨が苦手だという。 だから、こなたも雨は苦手なんだろうか。 「んにゃ? どったのかがみ?」 こなたがいつの間にか私の視線に気付いて、その顔を上げていた。 その上目遣いのくりくりとした大きな瞳は、本当に子猫みたいに愛くるしい。 「あんたって猫みたいよね」 私は思ったままを口にしてみた。 するとこなたは俄かに口角を上げた。 「ねこ、ってどっちの?」 意味が分からなかったので私は眉を顰めて返した。 「どっちのって、他に何があるのよ」 「キャットの方?」 「キャット以外に何があるのよ」 「いやー、ほら、いわゆる受けの人のことを専門用語でネコと言…」 「言っても言わん! ていうかそっちの活用で『ネコみたい』って普通言わないだろ!」 「あるいはかがみなら」 「言わねえよ!」 とんでもないことを言い出しやがる。 雨の憂鬱と静寂を吹っ飛ばす勢いで突っ込む私に、こなた口元に手を当てて、にまあっと厭な笑いを浮かべた。 「ていうかかがみ、そっちの活用知ってたんだネ」 思わぬ反撃に、顔に一気に血が上るのを感じる。 しまった。 顔を紅くするのはこなたの思う壺だと分かっているのだけれど、こればかりはどうしようもない。 私は赤面症なのだ。 自分がすぐに顔を紅くするということを、私はこなたに出会ってから知った。 「一体何処で知ったのかな?かな?」 「う、うっさいな! 本に出てきたのよ! だから偶々よ、偶々!」 しつこく絡んでくるこなたを振り払っていると、つかさが不思議そうに首を傾けた。 「ねえ、こなちゃん。『いわゆる受け』ってどういう意味?」 とんでもないことを聞きやがる。 こなたは目を光らせた。 「うむ、よくぞ聞いてくれたネ。いわゆる受けというのは」 「余計なこと教えるな」 私はこなたの後頭部を掴んで机に押し付けた。 潰されたこなたは「むぎゅ」という小さな悲鳴を上げる。 ちょっとだけ、可愛かった。  + + +  雨が降れば、気持ちが沈む。 そんなに人間って単純なものじゃないと思うけれど。 雨の日だって、楽しい日はある。 いつかのレインコートで走り回っていた子供のように、雨の日を謳歌することだってあるだろう。 でも、今日の私はそういう気持ちではないようだった。 連日続く雨は頭のどこかを腐らせていくみたいで、倦怠感ばかりが募っていく。 それはこなたも同じようで、雨が降ってからは毎日気だるそうにしているので、そう思っているのは私ばかりではないんだなと思う。 放課後。 廊下を一人で歩いていた私は、溜め息を吐いて窓の外を見た。 雨は昼休みの時より強くなっていた。 ざあ、というノイズのような音が途切れることなく耳朶を打つ。 「早く止まないかなあ…」 遠くに見える土の校庭は、まるで大きな水溜りのようになっていた。 こんな場所で駆け回る運動部はきっと悲惨なことになるだろう、と私は思った。 ――もっともこの雨が止まない限り、このグラウンドで活動することもできないのだけれど。 すう、と息を吸い込むと、濃い雨と土と緑の匂いがした。 つかさが好きだと言っていた匂い。 みゆきも好きだと言っていた。 「そう言えば…」 こなたはどうなんだろう。 あの時は何も言っていなかった気がする。 ――こなたは、雨の匂いは好き? どうしてか聞いてみたい気がした。 でも今日は私は委員会で遅くなることがわかっていたので、彼女たちには「先に帰っていて」と言ってある。 こなたもつかさもみゆきも、もう多分学校にはいない。 私は窓から視線を外して、廊下の突き当たりの壁にある時計を見た。 時間はもう下校時刻に近い。 この雨で多くの部活動が休みになったのか、周りの教室にも、渡り廊下にも、見えるところに人の気配は無かった。 ――なんだか今日の学校は、妙に、人がいないような気がする。 そう考えると、すう、と何だか寒くなったような気がして、私は身震いした。 (早く帰ろ) 私は荷物が置いてある自分のクラスに行くために、早足で廊下を歩いた。 (ん…?) しかしB組の前を通り過ぎたとき、視界の端に見慣れた影を見た気がして、私は数歩戻って、教室を覗いた。 窓際の席に、小さな背中が見える。 机に顔を伏せているけれど、頭に立つクセ毛でそれが誰と知れた。 「……こなた?」 私は名前を呼んだ。 とうに帰ったと思っていたのに。一体何をしていたのだろう。 さっと教室を見渡してみるけれど、つかさやみゆきがいる様子もない。 彼女は一人で、電気もつけずに、小さな身体をさらに小さくするようにして、机に伏せていた。 「こなた」 もう一度呼びかけても、その背中は動かなかった。寝ているのだろうか。 私は教室に足を踏み入れた。 きっ、きっ、と小さく床を軋ませながら、私はこなたに近づく。 私の声は、雨の音に紛れて聞こえなかったのだろうか。 ――それとも顔が上げられないとか? そう考えた途端、私は何故か唐突に『こなたが泣いているんじゃないか』という気になった。 こなたが泣いているところなんて、一度も見たことが無い。 でも何故か私はその時、その小さな背中を丸めてこなたが泣いているように思えた。 私は彼女の傍に半ば駆け寄ると、その顔を覗き込んだ。 結論を言うと、こなたは泣いてなどいなかった。 ただ目を閉じて、規則的な息を吐いて眠っているだけだった。 「何よ…」 ほっとして私は息を吐いた。 大体、どうして泣いているなどと思ったのだろう。 長雨で私もどこかおかしくなっているのかもしれない。結露で部品が錆びるみたいに。 「…ていうか、コイツはここで何してるんだ」 寝ている相手に突っ込んでも仕方が無いことだけれど。 確か昼休みに、私が先に帰っててと言った時は「わかったー」といつもの間延びした口調で返事をしていたはずなのに。 それが下校時刻も近づいた今、暗い教室で一人で眠っている。 結構音を立てていると思うのに、こなたが目を覚ます様子はなかった。 完全に熟睡している。 「……私が来なかったらどうするつもりだったのよ」 巡回に来た警備員さんにでも起こされて、お説教を食らったのだろうか。 その様子を想像して私は、くくっと笑った。 そしてこなたを起こそうと手を伸ばした瞬間。 私はその手を止めてしまった。 こなたの寝顔を見ていたら、起こすのが憚られてしまったのだ。 それは登下校のバスや電車で何度も見た、いつものこなたの愛嬌のある寝顔ではなくって。 静かであどけないのに、どこか疲れたような寝顔。 まるで、待ち疲れて眠ってしまった子供の寝顔だった。 母親の帰りを待っている子供みたいだ、と続けて考えて、私ははっとなった。 こなたにはお母さんはいない。 「んん……」 こなたが寝息を漏らした。 起きたのかと思って黙っていると、また再び規則的な寝息が聞こえてくる。 私はこなたの前の席の椅子に静かに座った。 ――自分の頭の中の声が聞こえるわけが無いんだけれど。 何だか私はこなたに悪いことをしてしまったような気がして、その髪を撫でた。 こなたの髪は、柔らかで指に優しい感触がした。 それでも起きる様子が無いので、私はこなたの寝顔を観察し続けた。 ――こなたは、誰を待っているのだろうか? まず現実的に委員会に行っていた私のことを待っているのだろうか、と考えた。 それから少し非現実的に、考えてしまった。 それとも。 待ち疲れて眠ってしまうほど、子供のこなたが、ずっと待っていた人。 心の底で、もしかして。 でももう、その人は――。 そこまで考えて、胸がずきっと痛んだ。 こなたは「気にしてない」と言っているのに、こんなことを考えるなんて。 こなたに失礼だ、と思った。 これ以上一人でじくじく考えていると、思考が止まらなくなりそうだったので、私はこなたの肩を思い切って揺さぶった。 「んあっ…?」 身体を大きく揺さぶられたこなたは、流石に目を覚ました。 私が何か声をかけようとした瞬間、そのとろんとした瞳が、すっと私の方へ向く。 すると、さっきまで考えていたことが見透かされたような気がして。 私は言葉を呑んでしまった。 こなたの瞳が私を捉えて、止まる。 私はその瞳に捕えられて、動けなくなった。 窓の向こうから聞こえる。 ざああ、と止まることのない雨のノイズが耳朶を打つ。 私たちが言葉をつむがない代わりに、それらが沈黙を埋める。 薄暗い教室で、私たちは無言で視線を合わせ続けた。 「………」 ゆっくりと、こなたの瞳が時間をかけて、焦点を合わせる。 「……かがみ?」 「……」 どうしてか、言葉が出ない。 やっぱり雨で私も何かおかしくなってるんだ。 機能不全になってる。絶対にそうだ。 「………………………………何で帰ってないの?」 とても時間をかけて私は、やっとそう口にした。 こなたはそれを受けて、いつものように猫のような口を作って笑う。 「いやぁ、ネ」 こなたは未だ自分の髪に触れたままの私の手に驚いた後、妙に明るい声を出して手を振った。 「六限の世界史爆睡してたら、放課後黒井先生に呼び出されちゃって。遅くなっちゃったから、かがみでも待っていようかと思って」 こなたの声はどうしてか少し上ずっていた。 「あ、つかさとみゆきさんには先に帰ってもらったヨ?」 言いながら、ちらちらと自分の髪に触れている私の手に視線を送る。 私はそれでやっと「触りっぱなしで変だ」ということに気がついて、こなたの髪から手を離した。 「ん……で、かがみはどしたの?」 さっきから黙りっぱなしの私に流石のこなたも奇を感じたたらしい。 訝しげに眉を顰めて、顔を横に傾けた。 「別にどうもしてないわよ」 「そ? ――いや、やっぱ変だよ」 私が突っぱねると、こなたは軽く首を振ってみせた。 そして続けた。 「そう言えば、昼休みからなんか変だったよね?」 そう言われて私は驚いた。 「はあ?」 「ウン。なんてゆーか、妙に口数少ないし」 こなたは言いながら確信めいたものを感じたらしく、一人でウンウン頷き始めた。 「――っ、それを言うなら」 あんただってそうだったじゃない、と続けようとして、私は言葉を失った。 こなたが穏やかな表情で私を見つめてきたからだ。 私が言葉を飲んでしまったのを見て、こなたが続けた。 「かがみんのことならなんだってわかるのだよー」 それはからかう様な、いつもの口調なのに。 笑顔が酷く優しかった。 「いつも、一緒にいるからネ」 やっぱり、私は変だ。絶対変だ。 だってそんなこなたのいつもの軽口にどうしてか、泣きそうになってしまったのだから。 「かがみん、帰ろっか?」 こなたは立ち上がると、いつもの調子に戻ってそう言った。  + + + 「最低だわ…」 生徒玄関の前で、私は半ば諦観の心地で呟いた。 あの後、帰る為に自分の教室に傘と鞄を取りに行ったのだけれど。 傘箱の中に私の傘は無かった。というか傘箱自体がからっぽだった。 考えられる理由は二つ。 間違えて持って帰られてしまったか、盗まれてしまったか。 (こんなことならビニール傘なんかじゃなくって、つかさみたいにちゃんとした傘を買えばよかった) ビニール傘は安価だけれど、その分持っていかれやすくもある。 私が思うにビニール傘を使う人間には、「いつか何処かで傘を失くすだろうと思っている」心理があると思う。 私自身ももいつか出先で失くすだろうと思って、ビニール傘を選んだ。 ――しかし、それが、何も、今で無くてもいいじゃない。 私は空を見上げた。 屋根の途切れた先から見える、滝のような雨。 教室にいた少しの時間で雨は本降りになっていた。 「どうしろっていうのよこれ……」 「あれぇっ、かがみん、傘は?」 昇降口で待ち合わせをしていたこなたが、ととと、と歩いてきた。 私は大仰に溜め息を吐いて言った。 「間違えて持ってかれた。もしくは盗まれた。でも他の傘残ってなかったから、多分盗まれたんだと思う」 それを聞いて、こなたは眉を寄せた猫口顔になる。 そしてこう言った。 「ブルータス、お前もか」 「お前もか、って」 まさか、と思うと、こなたは鞄しか持っていない手を私にひらひらと振って見せた。 「私も持ってかれちゃったみたいなんだヨ」 そういえばこなたも今朝はビニール傘だったと私は思い出した。 「ビニール傘は持っていかれやすいのが難点だよね」 私がさっき考えていたのと同じようなことを口にする。 そして探偵よろしく、顎に手を当ててみせた。 「盗む時に罪悪感が少ないからかな?」 「盗みは盗みだろ」 私が指先を額に当てた。 こなたはくふーっと、妙な溜め息を吐いた。 「んー、コンドルのジョー亡き後の地球の人心は荒廃してるネ」 「そんな人は最初から現実世界にはいない」 「続編でサイボーグになって現れてるけれど、私としてはあそこで散っているのが男のロマンだと思うんだよネ?」 「知るか!」 「まあそれはともかく」 こなたは左手の指先をくるくると空中で回した。 「ビニール傘って、盗まれたり無くなったりしても何かお互い様って感じするよネ」 「それはまあ…わからなくもないかな」 「自分のがどれだかわかんなくなることよくあるし。そういう時、適当にそれっぽいの持ってきちゃうこと無い?」 「おま、そういうことするから最終的に私たちみたいのが出るんだろうが!」 「んー、『ビニール傘は天下の回り物』?」 「回すな」 ざあざあざあ、と私たちの鼻先で雨は降り続けている。 「でも朝も雨降ってたのに。ソイツどうやって学校来たんだろ」 「うーん、朝はここまで土砂降りじゃなかったしねえ。ま、とにかくそろそろ、バス停行こっか」 言うなりこなたは土砂降りの中を普通に歩き出した。 「ちょっ! こなた!」 「んん?」 雨の中でこなたが振り返る。 十秒もしないうちにこなたはあっという間にずぶ濡れになった。 その青空の欠片みたいな髪が翻って、雫を落とす。 「だって、こうするしかないじゃん?」 こなたは雨の中で軽く手を広げて見せた。 その間も雨雫はこなたの前髪や頬や顎を伝って地面に落ちていく。 「次のバス逃すと当分来ないし」 「――こなたは」 ほんの五メートル先。ずぶ濡れのこなたが立っている。 「雨が好き?」 私は思わず口にしていた。 するとこなたは目を少し丸くして、私の瞳を見つめ返す。 そして、ゆっくりと苦笑いを浮かべてこう言った。 「嫌いだヨ」 ざあ、ざあ、ざあ、ざあ。 私は一歩踏み出す。 屋根が途切れた瞬間、幾千の雫が私に降り落ちる。 泣き出した空から降り注ぐ大粒の雨は、私の頬を、頸を、二つに結んだ髪を、一瞬にして濡らして行く。 ――例えば、雨の中で濡れながら、濡れた草を踏んで、裸足で歩くこと。 『それは自分が生きているという実感がすることだ』と、ある映画のヒロインが言っていた。 ――生憎、私は映画のヒロインではないけれど。 そして、私は裸足ではなく、靴を履いているけれど。 降り注ぐ水の中で、自分の心臓の音や体の温度が輪郭を持ち始めるのを感じていた。 また一歩、こなたに近づく。 鼻先を雨雫が掠めていくけれど気にしない。 私はこなたの目の前に立つと、その顔を見下ろして言った。 「……私も嫌いよ」 自然と見上げる形になるこなたは、降ってくる雨に目を細めていたけれど、私の目をしばらく見つめると、くしゃっと笑った。 「同じだネ」 と、言って笑ったこなたは、何だかいつもより大人びた顔だった。 そして私たちはバス停に向かって、走り出した。 雨が騒ぎ立てる中で、走りながらこなたが何かを言い始めた。 「――雨が、降ると」 「え?」 ざああああ。 自分が水溜りを蹴立てる足音と、跳ね回る雨の音とでよく聞こえなかったので、私は聞き返した。 しかしこなたは聞こえていようがいまいと構わないようで、意に介さず言葉を紡ぎ続ける。 「――雨が――と、空が見えな――るからイヤだ」 雨の向こうで途切れ途切れに、こなたの声が聞こえる。 聞き返そう、と私は口を開いた時、こなたは足を踏み出しながら、一際微かな声で言った。 「青は――――んの色なのに」 それは聞こえなかったはずなのに。 私の胸は音を立てた。 ざあ、ざあ、ざあ、ざあ。 私たちが走っていく先の道路で、バスが飛沫を上げて停車するのが見えた。  + + + エンジンが唸りを上げて、洪水のような雨の中を進んでいく。 バスの大きなワイパーがフロントガラスを拭っても、すぐに雨が滑り落ちてくるのが見えた。 私とこなたはバスの車両の真ん中辺りに並んで立っていた。 他に乗客はいなくて、私とこなただけだったけれど、二人とも全身濡れ鼠だったのでシートに座らず立っていることにしたのだ。 床に小さな水溜りをいくつも作って、私たちはバスの揺られていた。 隣のこなたが小さくくしゃみをしたので、私は「寒い?」と聞いた。 「んん…」 少し鼻を啜ってから、こなたが応える。 「少し」 その時、大きな窪みを通ったのか、がったん、と車内が大きく揺れた。 私とこなたはいつものように足で踏ん張ってバランスを保とうとしたのだけれど。 いつもと違って足元は水溜りだったから、こなたが「ふぉっ!?」と声を上げて足を滑らせた。 私はとっさにこなたの手首を掴んで支える。 間一髪こなたは転ばずに済んだ。 「大丈夫?」 「あ、ありがとう」 目を白黒とさせたこなたが体勢を整える。 そして、私に掴まれた手首を見た。 しばらくじっと見つめると、こなたはゆっくりと掴まれた手を解いて、その手のひらを私の手のひらに絡ませた。 そして、私の手をぎゅっと握った。 繋いだ手のひらから、雨で濡れた肌の感触と、こなたの体温が伝わってくる。 「かがみの手は温かいね」 そのまま繋いだ手を、私たちの間に落とす。 「これくらいじゃ、温かくないでしょう」 「ううん……温かいよ」 そう言ってこなたはまた鼻を鳴らした。 こなたは体が小さい分、冷え易いのかもしれない。 私はこなたに握られた手をぎゅっと握り返した。 すると、こなたが驚いたように顔を上げた。 真っ直ぐな眼。 途端に私は恥ずかしくなって、視線を窓の外に投げた。 「す、少しは温かいでしょ? あんたが寒いって言うから…」 「ツンデレ」 こなたがぼそりと言う。うるさい。 でもその口調は何処か嬉しそうだったから、そのままにさせて置くことにした。 景色が畑を抜けて、雨に滲む街が姿を現し始める。 駅が近づいてきた。 私の髪から、ポツリと緩やかに雫が落ちた。 そして、その雫のように、口も言葉が零れる。 「…雨」 「ん…?」 「早く止むといいね」 「ウン」 こなたが微かに手を握り返してくる。 ――いつも、一緒にいるからネ。 さっき、教室で聞いたこなたの言葉を思い返す。 きっと深い意味なんて無いんだろうけれど。 こなたの小さな手を感じながら、私も、この子の側に出来るだけいたい、と思った。 雨が止んだのは、それから二日後だった。 -[[子供の時間>http://www13.atwiki.jp/oyatu1/pages/629.html]]へ続く **コメントフォーム #comment(below,size=50,nsize=20,vsize=3) - (≧∀≦)b -- 名無しさん (2023-02-28 16:01:04) - 感動的。そしてユリウス・カエサルみたいな小ネタを随所に入れていてよく作り込んでるなぁと… -- 名無しさん (2018-09-12 23:05:01) - Gj -- 名無しさん (2014-08-26 01:17:45) - なにか知らないけど心にじわっと来ました! -- 名無しさん (2010-11-15 22:54:01) - 今日は雨が降っていたから、ふと読み返した。 &br()こなたが雨を嫌いと言っていたシーンを思い出した。 &br()なんだかとても悲しい気持ちになった。 &br()あなたの書く作品はどれも素晴らしくて心に染みる。。 &br()このSSを作ってくれた事を感謝します。読ませてくれてありがとう。 -- H1-52 (2008-10-05 23:29:01) - うーん、これはすごい &br()作品から雨の降り続く日の情景がにじみ出ているようです &br()それにすごく文章が上手いですね &br()続きも楽しみにしています -- 名無しさん (2008-05-21 00:38:05) - 心に染み入る名作だこれは・・! -- 名無しさん (2008-05-20 15:48:40)

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