MAGISTER NEGI MAGI from Hell

アキラ編―第二話―

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大河内アキラは、泳ぐことが好きだった。
大袈裟かもしれないが、彼女の生きる理由と言ってもいい。
水の感触が好きだった。飛び込みの緊張感が好きだった。ターンの時の水中回転が好きだった。
息継ぎの直前の、息苦しくて気が遠くなりかけるあの感覚さえも好きだった。
3-Aでは珍しく、物静かで自己主張の少ない彼女だったが、それもある意味、水泳があったから。
大声で自己を主張するまでもなく、彼女の中に確固たる軸が存在したから。
プールの中では、彼女は人が変わる。文字通り水を得た魚。

「……これからも朝練、やろうかな……」
泳ぎながら、アキラは考える。
朝早く起きるのは大変だし、前日の夜のTV番組をいくつか諦めなければならないわけだが。
こうして人の居ないプールで泳ぐのは、実に気持ちがいい。
夜間の外出禁止が解けても、時々やろう。時々こうして、泳ぎに来よう。

「……ッ!?」
と、突然に。
彼女の足が、思うように動かなくなる。バタ足が止まり、速度が落ちる。
「攣った?!」
しかし攣ったにしては痛みがない。そして次の瞬間、アキラはさらに驚愕する。
もう片方の足も動かない。手が動かない。腕が動かない。
まるで水の中、見えない網に絡め取られたように、手足の自由が利かない。
もがきかけた不自然な格好のまま、身体がキツく縛られたかのように動かなくなり。
そのまま、沈み始める。プールの底へと、ゆっくり沈んでいく。



「……!」
アキラは混乱する。
今までも、泳いでいる最中に足が攣ったことはある。ターンで壁を蹴る時、足首を捻ったこともある。
けれど、こんな風に急に全身が動けなくなったことなどない。
そして足が攣った時でも、冷静になって体の力を抜けば、自然と浮かぶものだ。
なのに――今、この場においては、まるで身体が浮かばない。
石のように、沈んでいく。
「ゴボッ……ゲボガボッ……!」
アキラの口から、空気が漏れ泡となって浮かんでいく。
水の中で、ほぼ唯一自由になる頭を振り乱す。帽子が外れ、長い髪が水草のように大きく揺れる。
誰か。誰か気づいて。
心の中で叫ぶが、アキラの中の冷静な部分が、「誰も居るはずがない」という冷酷な事実を告げる。
誰も、助けてくれない。
本気で、死ぬ。
アキラはそして、生まれて初めて恐怖する。水の中という環境に、とてつもない恐怖を覚える。
視界に入るのは煌く水面。あまりに遠すぎる水面。
揺れる黒髪に、自分の口と鼻から噴き出す泡。
視界が霞む。意識が遠のく。呼吸の限界がすぐそこに迫ってきているのを感じる。
「嫌ッ、死にたく、な……!」
アキラの最後の言葉は、しかしゴボゴボという泡になって、誰に届くこともなく、消え失せた。

「……ケケケッ。ホラ、シッカリ泳イデ、自分ヲ助ケナ」
アキラが意識を失ったのを見て、「それ」はようやく動き出す。
水の中に伸びた人形繰り用の糸を操り、アキラの身体を操る。
意識のないアキラの身体が、ぎこちないフォームで泳ぎはじめる。
岸に着き、プールサイドに上がり、そしてその場にゴロンと横たわる。



アキラの異常、それはもちろん、ゼロのちょっかいによるものだ。
空気中でも不可視の人形繰り用。水に入れば操りにくい代わりに、尚更目につきにくい。
そして泳いでいる最中に糸が絡まれば、溺れてしまうのも当然だろう。
抵抗力を失ったアキラを、操り人形にして水から引き上げて、そしてゼロはアキラの腹の上に飛び乗る。
衝撃で口からゴボゴボと溢れるプールの水。ゼロはアキラの口元に耳を寄せる。
……大丈夫、かなり水を飲んではいるが、息を吹き返した。
元々、殺すのが目的ではない。酸欠で痛めつけるのも目的ではない。
酸欠で、脳に障害が出るようなことになれば、それはそれで面白いだろうが……
今回はゼロにとって、そういう趣向ではなかった。昨夜へし折り損ねた鳴滝姉妹の精神、その再挑戦。

「んッ……ううん……」
「ケケケッ。デハ、始メルカナ」
聞きようによっては色っぽい声を上げ、ゆっくり頭を振るアキラ。
意識が戻りかけ、しかしまだ朦朧としている隙をついて、ゼロは彼女の顔を覗き込む。
精神的に弱くなっている隙間に、邪悪な言葉を、滑り込ませる……!

「……あれ? 私は、いったい……」
――十分後。
大河内アキラは、目を覚ました。そして辺りを見回して、頭を押さえる。
少し記憶が混乱している。
確か、1人で泳いでいて、急に足が攣って(?)、そして溺れかけて……
そしてどうして今、プールサイドで寝ているのだろう。あの状態からどうやって助かったのだろう。
考えるアキラは、そしてふと時計を見て、慌てる。
「あッ、いけない……! もうこんな時間……!」
のんびりしていては学校に遅刻してしまう。シャワーを浴び着替える時間を考えたら、もうギリギリだ。
彼女は慌てて、更衣室の方に走る。
プールの方は、とうとう振り返らなかった。そしてそんな不自然な自分に、気付きもしなかった。



学校の授業が、淡々と続く。
空席の目立つクラス。覇気のない学級。
アキラはいい加減、もう慣れてしまった。慣れてしまった自分が、ちょっとだけ悲しかった。
今日は隣の史伽の席が空席。姉の風香と共に、昨夜寮の近くで襲われたという。
アキラはぼんやりと、またお見舞いに行かなきゃな、と思う。夕方の部活が終ったら行ってこようか。
慌てて全てを差し置いて病院に行こうとしない自分に気付き、また溜息。
感覚が、完全に麻痺している。最初の犠牲者・和泉亜子の時には、あんなに心配したというのに。

「……え? 木乃香、意識戻ったの?」
「うん、さっき刹那さんから連絡あった。千雨ちゃんも目を覚ましたって。
 まだ調子は完全じゃないらしいけど……お昼休みにでも、ちょっと顔出してくる」
遠くの席で、美砂と明日菜が話している声が聞こえる。
どうやら先週の金曜に襲われた千雨と、土曜に「体調を崩した」木乃香が回復したらしい。
ああ良かったな、と意識の上っ面だけで考える。まるで心が動かない。

たぶんこんな感覚は、アキラだけではないのだろう。
見渡せばクラスに残っている誰もが、暗い顔をしている。余裕のない顔をしている。
……そういえば、休職させられたというネギ先生は、今、どんな気持ちで居るのだろう?
アキラはちょっとだけ気になったが、それっきりだった。


夕方。
アキラは浮かない気持ちのまま、プールに向かう。
「……うん、泳げばきっと、気持ちも晴れる」
根拠のない考えで、自分を奮い立たせる。こういうときは、動いて気持ちを紛らわせるのが一番。
彼女は帽子をしっかり被り、プールサイドに立って……



「……え?」
グラリ。
煌く水面を見た途端、世界が揺らぐ。
いや違う、アキラの側が眩暈を感じたのだ。貧血の時のような、激しい眩暈。
プールに入らねば。あの水面に飛び込まねば。
そう頭で考えるのに、身体が動かない。眩暈が酷くて、立っていられない。
ガクガクと、膝が震えだす。呼吸が、できなくなる。
「……アキラ?」
「ちょっとどうしたの? 顔色悪いよ、調子悪いの?」
周囲の部活仲間が彼女の顔を心配そうに覗きこむが、アキラは答える余裕がない。
訳が分からない。プールを見ただけで……水面を見ただけで、こんな風になってしまうなんて。
自分の身体はどうなってしまったのだろう。自分の心は、どうなってしまったのだろう。
「これ、これって……こ、こわ」
口に出してみて、初めてアキラは気付く。
怖いのだ。
どうしようもなく怖いのだ。
プールが、水が、怖いのだ。
また溺れたらどうしよう。また水中で手足が動かなくなったらどうしよう。
また沈んで、今度は誰も助けてくれなかったりしたら、どうしよう。
強烈な恐怖が、アキラの足を竦ませる。
「恐怖」という感情を自覚する前に、無意識に身体がプールを拒絶する。

「い……い……いやぁぁぁぁぁッ!」

そしてアキラは、逃げ出した。唖然とする仲間も何もかもほうり捨て、プールから泣きながら飛び出した。
恐怖を自覚してしまった今、プールサイドに残っていることはできなかった。




「……どうしちゃったんだろう、私……」
逃げ帰ってきた学生寮。アキラは1人、溜息をつく。
こんなことは、一度もなかった。生まれて始めての体験に、彼女はどうしたらいいか分からない。
「……とりあえず、お風呂入ってこよう……」
アキラはのろのろと準備を整え、大浴場へ向かう。まだ時間は早いが、もう入れるはずだ。
汗を流して疲れを取って、さっぱりすればまた考えも変わるはず。
今日はきっと、自主的な朝練で疲れ過ぎていたのだ。
今夜は休んで明日部活のみんなに謝って、また頑張ればいい。きっとみんな許してくれる。
そういえば双子へのお見舞いも結局行かずに帰ってきたけれど、これもまた明日になれば……

ガラッ。
そんなことを考えながら、大浴場の扉を引き開けたアキラは……
瞬間、凍りつく。
湯気の向こうに煌く、広い広いプールのような水面。実に豪華な大浴場。
アキラの動悸が、再び早くなる。眩暈がする。顔が蒼ざめる。膝が笑いだす。
あの浴槽の中で、足が攣ったらどうなるんだろう。また身体が動かなくなったらどうなってしまうんだろう。
目の前に乱れる泡の幻覚が浮かぶ。息苦しくなる。呼吸ができない。
怖い。怖い。怖い怖いこわいこわいコワイコワイコワイコワイ……

「い……いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!」

アキラは悲鳴を上げる。入浴道具を撒き散らし、その場を逃げだしてしまう。
服を着る間さえ惜しむかのように、全裸で寮の廊下を逃げていく。
他の寮生の驚きの視線すら、まるで気にならない。全くもってそれどころではない。
怖い、怖い、怖い。1秒だってあんな場所に居られるものではない――!




――恐怖症。
特定のあるものに対する、過剰な恐怖反応。
精神疾患の一種とされているが、しかしその発生の仕組みは今でも謎が多い。
よく知られるのが、高い場所に対する高所恐怖症。開けた場所に対する広場恐怖症。
そして、海やプールなどに対する恐怖症。「深く広い水」に対する、恐怖症。
単に「何かが怖い」というレベルではない。
恐怖症という精神疾患は、もうその恐怖の度合いと恐れ方が常識を逸しているのだ。
ただアキラの場合、本当にそれは精神医学に言う「恐怖症」なのか? となると……

「……ケケケッ。『刷り込み』ハ上手ク行ッテルミテーダナ?
 楽シイネェ、アアヤッテ右往左往シテルノヲ見ルノハヨ」

小さな邪悪な影が、廊下を裸で走り去るアキラを見送っていた。
茶々丸の頭の上に乗った、チャチャゼロ。ゼロが溺れたアキラにかけた、催眠術。
ある意味、通常の恐怖症よりもタチが悪い。
悪意を持って精神に仕込まれ、悪意をもって構築され、そして、自然に克服されることはありえない。
彼女がこの恐怖を克服することは、決して。

プールの中では、水を得た人魚のようだったアキラ。
しかし今やその水こそが彼女の最大の恐怖。
生きる理由を失い、魂の最大の支えを失い、いずれ、彼女の落ち着きも失われるだろう。
そんな未来を思い浮かべ、ゼロは含み笑いを隠しきれない。

「ケケケッ。ソンナモンニ心ノ拠リ所ヲ求メテルカラ、俺ミタイナ悪イ奴ニ狙ワレルンダヨ。
 今度ハモット安全ナすぽーつヲ選ブンダナ。キャハハハッ!」

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