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アキラ編―第二話―」(2006/08/05 (土) 22:25:24) の最新版変更点

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大河内アキラは、泳ぐことが好きだった。 大袈裟かもしれないが、彼女の生きる理由と言ってもいい。 水の感触が好きだった。飛び込みの緊張感が好きだった。ターンの時の水中回転が好きだった。 息継ぎの直前の、息苦しくて気が遠くなりかけるあの感覚さえも好きだった。 3-Aでは珍しく、物静かで自己主張の少ない彼女だったが、それもある意味、水泳があったから。 大声で自己を主張するまでもなく、彼女の中に確固たる軸が存在したから。 プールの中では、彼女は人が変わる。文字通り水を得た魚。 「……これからも朝練、やろうかな……」 泳ぎながら、アキラは考える。 朝早く起きるのは大変だし、前日の夜のTV番組をいくつか諦めなければならないわけだが。 こうして人の居ないプールで泳ぐのは、実に気持ちがいい。 夜間の外出禁止が解けても、時々やろう。時々こうして、泳ぎに来よう。 「……ッ!?」 と、突然に。 彼女の足が、思うように動かなくなる。バタ足が止まり、速度が落ちる。 「攣った?!」 しかし攣ったにしては痛みがない。そして次の瞬間、アキラはさらに驚愕する。 もう片方の足も動かない。手が動かない。腕が動かない。 まるで水の中、見えない網に絡め取られたように、手足の自由が利かない。 もがきかけた不自然な格好のまま、身体がキツく縛られたかのように動かなくなり。 そのまま、沈み始める。プールの底へと、ゆっくり沈んでいく。 ---- 「……!」 アキラは混乱する。 今までも、泳いでいる最中に足が攣ったことはある。ターンで壁を蹴る時、足首を捻ったこともある。 けれど、こんな風に急に全身が動けなくなったことなどない。 そして足が攣った時でも、冷静になって体の力を抜けば、自然と浮かぶものだ。 なのに――今、この場においては、まるで身体が浮かばない。 石のように、沈んでいく。 「ゴボッ……ゲボガボッ……!」 アキラの口から、空気が漏れ泡となって浮かんでいく。 水の中で、ほぼ唯一自由になる頭を振り乱す。帽子が外れ、長い髪が水草のように大きく揺れる。 誰か。誰か気づいて。 心の中で叫ぶが、アキラの中の冷静な部分が、「誰も居るはずがない」という冷酷な事実を告げる。 誰も、助けてくれない。 本気で、死ぬ。 アキラはそして、生まれて初めて恐怖する。水の中という環境に、とてつもない恐怖を覚える。 視界に入るのは煌く水面。あまりに遠すぎる水面。 揺れる黒髪に、自分の口と鼻から噴き出す泡。 視界が霞む。意識が遠のく。呼吸の限界がすぐそこに迫ってきているのを感じる。 「嫌ッ、死にたく、な……!」 アキラの最後の言葉は、しかしゴボゴボという泡になって、誰に届くこともなく、消え失せた。 「……ケケケッ。ホラ、シッカリ泳イデ、自分ヲ助ケナ」 アキラが意識を失ったのを見て、「それ」はようやく動き出す。 水の中に伸びた人形繰り用の糸を操り、アキラの身体を操る。 意識のないアキラの身体が、ぎこちないフォームで泳ぎはじめる。 岸に着き、プールサイドに上がり、そしてその場にゴロンと横たわる。 ---- アキラの異常、それはもちろん、ゼロのちょっかいによるものだ。 空気中でも不可視の人形繰り用。水に入れば操りにくい代わりに、尚更目につきにくい。 そして泳いでいる最中に糸が絡まれば、溺れてしまうのも当然だろう。 抵抗力を失ったアキラを、操り人形にして水から引き上げて、そしてゼロはアキラの腹の上に飛び乗る。 衝撃で口からゴボゴボと溢れるプールの水。ゼロはアキラの口元に耳を寄せる。 ……大丈夫、かなり水を飲んではいるが、息を吹き返した。 元々、殺すのが目的ではない。酸欠で痛めつけるのも目的ではない。 酸欠で、脳に障害が出るようなことになれば、それはそれで面白いだろうが…… 今回はゼロにとって、そういう趣向ではなかった。昨夜へし折り損ねた鳴滝姉妹の精神、その再挑戦。 「んッ……ううん……」 「ケケケッ。デハ、始メルカナ」 聞きようによっては色っぽい声を上げ、ゆっくり頭を振るアキラ。 意識が戻りかけ、しかしまだ朦朧としている隙をついて、ゼロは彼女の顔を覗き込む。 精神的に弱くなっている隙間に、邪悪な言葉を、滑り込ませる……! 「……あれ? 私は、いったい……」 ――十分後。 大河内アキラは、目を覚ました。そして辺りを見回して、頭を押さえる。 少し記憶が混乱している。 確か、1人で泳いでいて、急に足が攣って(?)、そして溺れかけて…… そしてどうして今、プールサイドで寝ているのだろう。あの状態からどうやって助かったのだろう。 考えるアキラは、そしてふと時計を見て、慌てる。 「あッ、いけない……! もうこんな時間……!」 のんびりしていては学校に遅刻してしまう。シャワーを浴び着替える時間を考えたら、もうギリギリだ。 彼女は慌てて、更衣室の方に走る。 プールの方は、とうとう振り返らなかった。そしてそんな不自然な自分に、気付きもしなかった。 ---- 学校の授業が、淡々と続く。 空席の目立つクラス。覇気のない学級。 アキラはいい加減、もう慣れてしまった。慣れてしまった自分が、ちょっとだけ悲しかった。 今日は隣の史伽の席が空席。姉の風香と共に、昨夜寮の近くで襲われたという。 アキラはぼんやりと、またお見舞いに行かなきゃな、と思う。夕方の部活が終ったら行ってこようか。 慌てて全てを差し置いて病院に行こうとしない自分に気付き、また溜息。 感覚が、完全に麻痺している。最初の犠牲者・和泉亜子の時には、あんなに心配したというのに。 「……え? 木乃香、意識戻ったの?」 「うん、さっき刹那さんから連絡あった。千雨ちゃんも目を覚ましたって。  まだ調子は完全じゃないらしいけど……お昼休みにでも、ちょっと顔出してくる」 遠くの席で、美砂と明日菜が話している声が聞こえる。 どうやら先週の金曜に襲われた千雨と、土曜に「体調を崩した」木乃香が回復したらしい。 ああ良かったな、と意識の上っ面だけで考える。まるで心が動かない。 たぶんこんな感覚は、アキラだけではないのだろう。 見渡せばクラスに残っている誰もが、暗い顔をしている。余裕のない顔をしている。 ……そういえば、休職させられたというネギ先生は、今、どんな気持ちで居るのだろう? アキラはちょっとだけ気になったが、それっきりだった。 夕方。 アキラは浮かない気持ちのまま、プールに向かう。 「……うん、泳げばきっと、気持ちも晴れる」 根拠のない考えで、自分を奮い立たせる。こういうときは、動いて気持ちを紛らわせるのが一番。 彼女は帽子をしっかり被り、プールサイドに立って…… ---- 「……え?」 グラリ。 煌く水面を見た途端、世界が揺らぐ。 いや違う、アキラの側が眩暈を感じたのだ。貧血の時のような、激しい眩暈。 プールに入らねば。あの水面に飛び込まねば。 そう頭で考えるのに、身体が動かない。眩暈が酷くて、立っていられない。 ガクガクと、膝が震えだす。呼吸が、できなくなる。 「……アキラ?」 「ちょっとどうしたの? 顔色悪いよ、調子悪いの?」 周囲の部活仲間が彼女の顔を心配そうに覗きこむが、アキラは答える余裕がない。 訳が分からない。プールを見ただけで……水面を見ただけで、こんな風になってしまうなんて。 自分の身体はどうなってしまったのだろう。自分の心は、どうなってしまったのだろう。 「これ、これって……こ、こわ」 口に出してみて、初めてアキラは気付く。 怖いのだ。 どうしようもなく怖いのだ。 プールが、水が、怖いのだ。 また溺れたらどうしよう。また水中で手足が動かなくなったらどうしよう。 また沈んで、今度は誰も助けてくれなかったりしたら、どうしよう。 強烈な恐怖が、アキラの足を竦ませる。 「恐怖」という感情を自覚する前に、無意識に身体がプールを拒絶する。 「い……い……いやぁぁぁぁぁッ!」 そしてアキラは、逃げ出した。唖然とする仲間も何もかもほうり捨て、プールから泣きながら飛び出した。 恐怖を自覚してしまった今、プールサイドに残っていることはできなかった。 ---- 「……どうしちゃったんだろう、私……」 逃げ帰ってきた学生寮。アキラは1人、溜息をつく。 こんなことは、一度もなかった。生まれて始めての体験に、彼女はどうしたらいいか分からない。 「……とりあえず、お風呂入ってこよう……」 アキラはのろのろと準備を整え、大浴場へ向かう。まだ時間は早いが、もう入れるはずだ。 汗を流して疲れを取って、さっぱりすればまた考えも変わるはず。 今日はきっと、自主的な朝練で疲れ過ぎていたのだ。 今夜は休んで明日部活のみんなに謝って、また頑張ればいい。きっとみんな許してくれる。 そういえば双子へのお見舞いも結局行かずに帰ってきたけれど、これもまた明日になれば…… ガラッ。 そんなことを考えながら、大浴場の扉を引き開けたアキラは…… 瞬間、凍りつく。 湯気の向こうに煌く、広い広いプールのような水面。実に豪華な大浴場。 アキラの動悸が、再び早くなる。眩暈がする。顔が蒼ざめる。膝が笑いだす。 あの浴槽の中で、足が攣ったらどうなるんだろう。また身体が動かなくなったらどうなってしまうんだろう。 目の前に乱れる泡の幻覚が浮かぶ。息苦しくなる。呼吸ができない。 怖い。怖い。怖い怖いこわいこわいコワイコワイコワイコワイ…… 「い……いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!」 アキラは悲鳴を上げる。入浴道具を撒き散らし、その場を逃げだしてしまう。 服を着る間さえ惜しむかのように、全裸で寮の廊下を逃げていく。 他の寮生の驚きの視線すら、まるで気にならない。全くもってそれどころではない。 怖い、怖い、怖い。1秒だってあんな場所に居られるものではない――! ---- ――恐怖症。 特定のあるものに対する、過剰な恐怖反応。 精神疾患の一種とされているが、しかしその発生の仕組みは今でも謎が多い。 よく知られるのが、高い場所に対する高所恐怖症。開けた場所に対する広場恐怖症。 そして、海やプールなどに対する恐怖症。「深く広い水」に対する、恐怖症。 単に「何かが怖い」というレベルではない。 恐怖症という精神疾患は、もうその恐怖の度合いと恐れ方が常識を逸しているのだ。 ただアキラの場合、本当にそれは精神医学に言う「恐怖症」なのか? となると…… 「……ケケケッ。『刷り込み』ハ上手ク行ッテルミテーダナ?  楽シイネェ、アアヤッテ右往左往シテルノヲ見ルノハヨ」 小さな邪悪な影が、廊下を裸で走り去るアキラを見送っていた。 茶々丸の頭の上に乗った、チャチャゼロ。ゼロが溺れたアキラにかけた、催眠術。 ある意味、通常の恐怖症よりもタチが悪い。 悪意を持って精神に仕込まれ、悪意をもって構築され、そして、自然に克服されることはありえない。 彼女がこの恐怖を克服することは、決して。 プールの中では、水を得た人魚のようだったアキラ。 しかし今やその水こそが彼女の最大の恐怖。 生きる理由を失い、魂の最大の支えを失い、いずれ、彼女の落ち着きも失われるだろう。 そんな未来を思い浮かべ、ゼロは含み笑いを隠しきれない。 「ケケケッ。ソンナモンニ心ノ拠リ所ヲ求メテルカラ、俺ミタイナ悪イ奴ニ狙ワレルンダヨ。  今度ハモット安全ナすぽーつヲ選ブンダナ。キャハハハッ!」  NEXT TARGET → -[[???>ハルナ編―第一話―]]

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