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2006/6/6

ール・シュミット?は今日ではナチスの御用学者として知られる、ワイマール期ドイツを代表する政治学者です。この著作は「科学技術の進歩によって紛争や犯罪はなくなるのか」ということを政治学の立場からシュミットが考えを述べた講演を文書としたものです。(→は『合法性と正当性』)

「中立化」とは、技術的進歩によって政治問題の対立が解消されていく過程、「非政治化」とはそれに伴って今日政治的に解決される問題そのものが政治的解決によらずに解決されていく過程を表します。したがって「中立化と非政治化の時代」とは、技術的進歩によって政治問題が核心からはずされてしまう、あるいはそれを期待する時代風潮ということです。

現実に、私たちは科学技術の進歩によって今日起こっている様々な問題を解決できると信じています。農業技術の進展によって飢餓がなくなるとか、ガンはいつか克服されるとか、これらはおそらく真実であろうと思われます。しかし国家間の問題や民族紛争が、果たしてこれらの問題と同じように、科学技術の進歩によって乗り越えられるのか。

結論から言ってしまえば、シュミットは技術の進歩によって政治問題がより道徳的に解決されるということが保証されないと考えることで、この問題を否定的に論じます。

シュミットによれば科学技術というものは目的にはなりえず、つねに手段として表れる性質を持っています。たとえば戦争において、軍事技術は敵にも味方にも奉仕する。つまり技術自体が道徳的価値や倫理基準というものを持っていないために、技術の進歩は道徳的価値の向上とは全く関係がない、というのです。

そういえばユルゲン・ハーバーマス?は『イデオロギーとしての技術と科学』の中で、技術至上主義は人間の目的を物象化し、精神を抑圧すると述べました。

小泉政治が国民の政治離れを改善したというような報道がされます。私はそうは思いません。小泉首相こそ私には脱政治化された日本政治の典型のように思われます。

小泉首相は郵政改革であるとか、有事法案であるとか改革の成果ばかりを強調します。小泉以前の日本より、小泉以後の日本の方が合理的になったというようなことを言いたいのでしょうか。

確かに「改革」はしました。ただ改革というのは手段に過ぎないということを忘れてはいけません。改革によって利益を被るもの、不利益を被るもの、改革によって捨てられたもの、現れたもの。果たして私たちはそれを見極めているのか、改革という言葉を、あるいは改革された結果の数値を、単純にいいものだと思って受け入れていないか。少なくとも数値は一面においての相対的な指標に過ぎず、別の面から見れば別の数値というものが見えてくるということさえ意識せずに。

小泉政治に欠けているもの、それは誰のための改革であるかということが全く焦点にされていないということです。郵政改革が国民全体の利益になるというのは虚偽です、一部の国民の利益になるということは言えても。その一部が多数であったとしても、不利益をこうむる人も当然いるのであり、彼らも税金を払っているのです。利益をこうむる人が多数であるから政策としてより優れているというような理由は、直接的には虚偽です。多数の人の望むままに税金を使うということは、多数の人が少数の人から税金を搾取するということです。

内閣も自民党も民主党もマニフェストやら支持率やら数値的なことばかり追い求めて、「誰のための改革か」ということはつねに隠蔽され続けています。小泉首相の国会答弁を聞いていればわかりますが、彼自身誰のための改革であるか考えていないのだと思います。彼は自分の直面した問題を一つ一つその場しのぎで解決するたびに、それを「改革」だと言えばよい、そう思っているのではないでしょうか。これはマニフェストを「数値として出すこと」に固執している民主党にも言えることですがね。小沢さんで変わってくれることに期待しています。


カテゴリ: [読書] - &trackback() - 2006年06月06日 18:56:52

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最終更新:2006年09月17日 14:55