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2006/5/31


J・D・サリンジャー?の『ライ麦畑でつかまえて?』を読みました。白水社?の野崎孝訳です。

境界の文学

誰かが安岡章太郎?の作品のことを「境界の文学」と呼んでいましたが、『ライ麦畑でつかまえて』も非常に安岡作品に似ている印象を受けました。まあどちらかといえば安岡がサリンジャーに影響を受けたのではないかという見方の方が適切かもしれませんが。安岡作品が短編が多く、読みやすいのに比べると、ちょっと冗長できざったらしいように感じるかもしれません。実際私も最初読み出したときはだいぶ読みづらい作品だなぁと思いました。

安岡は青年期の人間をよく主人公にして、青年期特有の相対性、中立性をもった独自の視点から、公私の接する間、プライベートとパブリックの接する境界付近を文学の主題として好んで選びました。

サリンジャーのこの作品も青年期の主人公の目から、大人の社会、周りの同級生たちといったものを、少年でもなく大人でもない相対的な、それゆえに非常に主観的な美学意識から独自に描き出していく体裁をとっています。ほとんどの文章が主人公の評価を含んでいて、作品全体が主観的に構成されており、その意味でなにか独自の哲学意識によって世界を跡付けている主人公の思考を追う形で、既成の道徳や社会規範がなにかしら欺瞞を持っており、価値としての生はそれを超越したどこかにあって、それを主人公が探し当てようとしている姿こそが読者に感動を起こさせているのでしょう。主人公が最後にフィービーの姿に、美しさを感じて救われている情景は非常に鮮やかで素敵です。

しかし原書を読んだことがないので何とも言えませんが、安岡の作品に比べると、くどいほどに主人公の主観が地の文にまで入り込んでいるのは、読み手を多少選ぶとも言えますし、また主観あるいは刹那的な願望・欲求の絶対性を礼賛するように見えることは誤解を招きやすいとも思われます。一部の犯罪者がこれを愛読していて、そのために犯罪を助長する傾向があると非難もされるのですが、よく読んでいただければ、作品中衝動的な主観を美化しているのではなくて、主人公自身も実は衝動的な主観にとらわれたり、世界観を自分の美意識だけで跡付けてしまうことには深い嫌悪感や後悔を抱いている、ということに気づくと思います。主人公自身は既成道徳や社会規範のなかにも一定の有用性があることを見いだしており、できればそれらに順応したいと思っているにも関わらず、激しく拒否したくなる自我を持てあましているだけです。そうして行き場をなくしているところに、彷徨の挙げ句フィービーにたどりつき、無条件で肯定できる外部者としてフィービーの美しさに感動するとき、フィービーに反射されるかたちで自己の唯一性を見いだして、生を発見したのだというのが私の解釈です。まあこういう見方をしてしまうと、それじゃあデカルト?の焼き増しじゃないかという方もたぶん多いでしょうけどね。

したがって、もし『ライ麦畑につかまえて』に後日談があるとすれば、主人公のホールデンは既成道徳に対するアンチヒーローに成長していることはなく、生の意味を見いだした一人のオーディナルなパーソンとして描かれているものと私は想像します。それは物語としては非常につまらないものだと言う人もいるかもしれませんがね。それでもホールデン自身は自分の力でインチキじゃない意味をそれらに見いだしてくれたと、私は思いたいですね。

みなさんはどう思われるでしょうか。

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カテゴリ: [読書] - &trackback() - 2006年05月31日 00:20:24

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最終更新:2006年09月17日 14:56