プレクルソリス

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堆い城壁に囲まれた広場は深い沈黙に包まれていた。
唯一、金属のきしむ音だけが淡々と風を揺らし続けている。
豊穣の季節の終わりを告げる冷ややかな空気に抱かれたそれは、言い知れない虚無感を帯びていた。
「罪人、前へ」
静寂を破る、地を這うような低い声。
その主たる男は厳粛な表情で唇をかみ締めていた。
掲げた手のひらが微かに震えているようにも見える。
男は静かに手を下ろすと、まぶたを閉じてゆっくりと息を吸い込み、再び両目を見開いた。
彼の声によって広場の内周を囲う兵士が円陣を整え始める。
やがて、奇妙なほどに美しい円を描いた陣列から、二人の兵士が歩み出た。
それぞれの片手に握られた綱に力が込められ、壮年の男が青白い顔を広場に晒す。
その瞬間、錆びた風がまるで嵐のようにしゃりしゃりと音を立てて荒れ狂った。
驚いた群集が後退る足音など、誰の耳にも入らなかったことだろう。
「キャプテン!」
広場の中央でうずくまっていた茶色い塊から長い首が現れ、甲高い声を上げた。
それは紛れもなく竜であった。
大理石模様の身体に巻きつけられた鎖が激しくきしむ。
竜はそれを意に介すこともなく、キャプテンと呼んだ男を眼前に見据え、がむしゃらに地面を蹴った。
石畳が丸ごと削り上げられるような衝撃と轟音。
間もなく、竜は拘束具に引き戻されて無惨にも地面に叩き付けられた。
竜が駆け寄ろうとしたであろう男の顔が苦痛に歪む。
なおも後ろ足の鉤爪から砂塵を巻き上げて鎖を引き千切ろうとする竜に、
男が満身創痍の体を体を引きずりながら駆け寄った。
「プレクルソリス…」
男が竜の名を呼ぶと、再び広場に沈黙が戻った。
腫れ上がった左頬にはうっすらと血糊がこびり付いている。
耐え難い光景を目の当たりにした竜は淡いグリーンの瞳を震わせた。

──男はフランスの亡命貴族だった。
自らの信念に基づいて新政権から離反し、諸国を転々とした。
王政の復活を信じて母国と戦い続ける彼と竜の努力もむなしく、
ナポレオンの軍勢は拡大の一途を辿った。
気がつくと、いつ反逆者として捕らえられてもおかしくない状況が目の前に迫っていた。
もしそうなれば、ナポレオンは容赦なく自分と竜の首を刎ねるだろう。
皮肉にも、男の決断は己が半身である竜の幸福を脅かしていたのだ。
揺らぐ決心の中、男はついに行動を起こした。
英国への諜報活動、そして暗殺。
あらゆる危険を冒してでもナポレオンに許しを請う道を彼は選んだ。
全ては竜のために。だが、男はしくじった。

現行犯で引きずられてゆく男の横で、竜の身体はたちまち鎖で巻き上げられた。
広場を動けばキャプテンの命はない、そう告げられた。
しかし、竜は気づいていた。
それが自分を縛り付けるための脅し文句でしかないことに。
反逆罪の代償くらい人間の法に疎くても察しがつく。
命令への従属に関わらず、キャプテンは然るべき贖罪を迫られるだろう。
自らの、命を以て。

「キャプテン、わたしに命令を。助けろ、と。ただそれだけでいい。
 最期まで、あなたと共にありたい」
竜の翼に巻きつけられた鎖が、ぴんと張った。
その言葉が何を意味しているのか、男にはすぐに分かった。
命令を得た竜は己の翼を引き千切って自分を助けようとするだろう。
例え見張りから鉄砲の雨を浴びせかけられようとも、
英国のドラゴンに四肢を引き裂かれようとも、だ。
男は静かに竜に身を寄せ、そっと頭を抱いて頬を添えた。
緊張の糸が途切れたかのように、竜が低くうめく。
それはさながら人間の嗚咽のようでもあった。
「幸せに。たくさんのドラゴンに出合って、たくさんの人に出会って、
 美しい景色に胸を躍らせて、家族に囲まれて…」
そこまで続けて、男は口をつぐんだ。
ただ頬を摺り寄せるしかできない男に、震えた声で竜が問う。
「それが、命令?」
「ああ、そうだ」
絞首台に縄が吊り上げられゆく。もう時間は残されていない。
男は竜から身を離そうとした。が、その肩を鉤爪がぎゅっと捉える。
「行かないで、ショワズール」
幼竜のような甲高い声。
男は懇願する竜に再び身を寄せ、目の前で微笑んだ。
そして、自らの胸から古びた布切れを引き千切った。
辛うじて赤色であることを認識できるほどに白く色あせた古い勲章。
初陣を称える刺繍と共に、ショワズールとプレクルソリスの名が刻んである。
男と竜を最も深く結びつけた、大切な証。
「わたしは、ずっとここにいるよ」
男は竜の角に勲章を結び、手のひらを添えてこう続けた。
「これで、わたしはもうショワズールじゃない。
 ここにいるのは、君の知らない卑しい罪人。
 君が悲しむことなんて、これっぽっちもないんだ」


そうして、男が振り返ることは二度となかった。


──春陽の中、新芽に映える茶色の竜は今日も誇らしげに空を仰ぐ。
頭上のキャプテンが、それを望んでいるから。



感想

  • プレクルソリスが気の毒でならなかったのですが、
    この話で救われました。ありがとう! -- 名無しさん (2010-08-29 22:00:43)
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