氷炎の恋物語2

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掟を破ったことでどんな咎めを受けるのかなど、最早知ったことではない。
だが失意の底に溺れながら火山地帯へと向かって飛ぶ間、私はずっと彼女のことばかり考え続けていた。
彼女のあの悲しげな表情が脳裏に浮かんでくる度に、すぐにでも引き返したくなる衝動を必死に押さえ付ける。
やがて不安と後悔を胸に秘めたまま住み処の傍までやってくると、案の定数匹の仲間達がまるで周囲を監視するかのように待ち構えていた。
そんな不穏な雰囲気の山間部へ向かって、堂々と正面から降りていく。
その瞬間私の姿を見つけた仲間の1匹が、慌てた様子で私のもとへとやってきた。
「おい、最長老様がお前のことを探していたぞ。何かやったのか?」
どうやら、彼らは事の詳細を知らされぬまま私を探していたらしい。
もし彼に真実を告げたなら、彼は一体どんな反応を示すのだろうか?

「ああ・・・わかっている」
私は力無くそれだけ言い置くと、燃え上がる火山の中腹にある巨大な洞窟へ向かってゆっくりと滑空していった。
最長老・・・炎竜の一族の中でも僅か数匹の年長者だけがそう呼ばれ、この広大な火山地帯の数ヶ所に点在するようにして暮らしている。
そして最も近場にあった最長老の住み処に降り立つと、私は足音を殺しながら暗い洞窟の中へと入っていった。
やがてその広い洞窟の最奥にある広間に、巨大な炎竜の姿が見えてくる。
私の優に100倍は生きているのであろうその荘厳な雄の巨竜が、洞窟に入ってきた仲間の存在に気付いて地に伏していた顔を上げた。

「私をお呼びですか・・・?」
「うむ・・・お主、北方の湖で1匹の氷竜と会っていたそうじゃが・・・それは真の話か・・・?」
「本当のことです」
今更、事実を隠し立てする必要などないだろう。
私は自身の何倍もある巨竜の顔を見上げながら、微塵も臆することなくそう答えていた。
「会い始めてからどのくらいになる?」
「もう2ヶ月になります」
それを聞いた最長老の顔に、苦々しい表情が浮かぶ。
「お主も一族の掟は知っておるはず・・・それなのに一体何故じゃ・・・?」
「その前に、何故氷竜と関わりを持ってはならないのかをお教え願いたい!」
掟が一体何だというのだ。
私と彼女との間に、その関係を阻むものなどあっていいはずがない。
「氷竜と関わりを持てば、そこに必ず悲劇が生まれるからじゃ」
「一体どんな悲劇が生まれるというのです?私は彼女を愛している。心の底から彼女を想っているというのに!」
やがて私がそう叫ぶと、最長老が持ち上げていた顎をゆっくりと組んだ腕の上へ降ろしていた。

「では聞くが・・・互いに手を触れることもできぬ相手と一体どうやって愛を育むというのじゃ・・・?」
「触れる必要などありません。彼女と共に幸福な時間を共有できるのなら・・・私はそれで十分です」
確かに、彼女に触れることができないのは私にとっても辛いことだ。
だがこの2か月間、彼女とともに過ごした時間は何よりも楽しかった。
この老竜は、そんな幸福な一時さえも忌々しい掟の1文字で私から奪い去ろうというのだろうか。
「それ程までにお主がその氷竜のことを想っているのなら尚更のこと・・・もうその者に近付いてはならぬ」
「何故です!」
「皆まで言わせるでない。お主には監視の者をつけよう。彼の氷竜を忘れ去るまで、勝手な行動は許さぬぞ」

最長老はそれだけ言うと、じっと押し黙ったまま目を閉じてしまっていた。
もう私の話を聞くつもりはないらしい。納得がいかぬ。
だがむしゃくしゃした気分のまま洞窟の外へと出た途端、すかさず2匹の仲間達が私の傍へと近づいてくる。
私に監視の者をつけるだと?ふざけるな!
だがそうかといって事情もよく知らぬ彼らに当たってみたところで、事態が好転するわけでもないだろう。
私は仕方なく彼らに付き添われながら自分の住み処に戻ると、他にすることも見当たらずゴロゴロと地面の上を転がった。

彼女との突然過ぎる悲しい別れから、早くも一月半が経とうとしていた。
私の監視に付けられた者達は数日置きに交代しながら、外での私の行動をずっと付け回している。
狩りの他には特にこれといって行き場のない私にとって、今の生活に別段不自由はなかった。
それにしても彼らは、一体何時までこの私の見張りを続けるつもりなのだろうか?
確かに私の心の中には、今もなお彼女の美しい姿が刻み付けられていた。
監視の目が無くなれば今すぐにでも彼女に会いに行きたいという強い気持ちは変わっていないが、私を監視している彼らにはそんな心の奥底など見えぬはず。
なのに彼らが今もこうして私の行動に目を光らせているのは、一体何故なのだ?

その夜、私はどうにも上手く寝付くことができずに洞窟の外で交わされる見張りの者達の声に耳を傾けていた。
「我らは一体、何時まであの者の見張りを続けねばならんのだ?」
「仕方がなかろう。あ奴の会っていたという氷竜が、まだあの湖に来ておるというのだからな。油断はならぬぞ」
何だと・・・?
あれからもう随分と時が経つというのに、彼女はまだあそこで私を待っているというのか・・・?
北の果ての氷山から広大な海を越えてくることだけでも、相当な疲労を伴う重労働のはずだ。
だが彼女はまだ、私と再会することを諦めていない。
それなのに肝心のこの私がこんな所で腐っているようでは、情けない奴だと彼女に笑われてしまうことだろう。
見張りの者達を張り倒してでも、私は彼女に会いに行くべきだったのだ。
やがて胸の内にそんな強い決意が芽生えたのを感じ取ると、私はさっきまでの寝付きの悪さなど嘘のように深い夢の世界に落ちていった。

次の日の昼過ぎ、私はいつものように狩りへ出掛けると背後をついてくる2匹の仲間を燃える翼越しにチラリと一瞥していた。
彼らさえ何とかすることができれば、私はまた彼女に会いにいける。
彼女はこの一月半、ずっとこの私を信じて待ち続けてくれた。
もうこれ以上、彼女に寂しい思いをさせるわけにはいかぬのだ。
やがて遠く荒野の向こうに、雄大な岩山の連なる山脈が顔を覗かせ始める。
その幾本もの穂先のようにも見える峻嶮な稜線を目にすると、私は密かに顔を綻ばせていた。

しばらくして互い違いに並んだ歪な円錐型の山間をヒラヒラと縫うように飛び抜けると、背後の仲間達の視界から外れた頃を見計らって谷底を流れる細い川に目掛けて一気に急降下する。
それが功を奏したのか、遥か頭上から消えた私を探して慌てふためく仲間達の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
これでいい・・・
私の行き先を考えればいずれは追手がかかることになるだろうが、今はそんなことなどどうでもいい。
そして折角撒いた仲間達に見つからぬよう巧みに岩陰に身を隠しながら険しい山岳地帯を通り抜けると、私はクルリと向きを変えて彼女の待つ湖へと向けて思い切り翼を羽ばたいていた。

逸る気持ちを抑えながら深い森の上空を飛ぶ1本の炎の矢。
愛する者のもとへ急ぐのに、特別な理由など必要ない。
やがて例の湖が視界の中に滑り込んでくると、私はその水辺に佇んでいた1匹の氷竜の姿を見つけていた。
やはり、彼女はあれからずっと私を待っていてくれたのだ。
胸の内に彼女に対する申し訳なさが苦い泉のように溢れ出してくるが、不甲斐無い自分を責めるのは後でいい。
彼女の方も私を見つけたのか、その顔には激しい驚愕と歓喜が綯い交ぜになった表情が浮かんでいた。
そして互いに押し黙ったまま久し振りの湖畔にそっと舞い降りると、一月半もの長い空白を埋めるようにじっと彼女と見つめ合う。

「戻って・・・きてくれたのだな」
「待たせてしまって済まなかった・・・そなたには、とても詫びの言葉が見つからぬ」
「よいのだ・・・お前が目の前にいるだけで、私のこの一月半は無駄ではなかったのだから」
できることなら愛しの彼女と抱き合って再会を喜び合いたいものだが、どうしてもそれができないことだけが私は歯痒くて仕方がなかった。
それに、今はここでいつまでもゆっくりしている時間はない。
早くこの場を離れて何処かに身を隠さなければ、私はまた理不尽な掟の名の下に彼女と引き離されてしまうのだ。
「とにかく、仲間に見つからぬ内にここを離れるとしよう。何処か遠くに逃げ延びて、ひっそりと隠れ住むのだ」
やがてその言葉の示す逼迫した状況を悟ったのか、彼女が私の目を見つめたまま小さく頷いた。
そして不意に空へと飛び上がった私の後に彼女がしっかりとついてきたことを確かめると、手頃な隠れ場所のある東方の岩山へと向かって力一杯加速する。
遥か前方に聳え立つ天を衝くような高い岩山を目指して、青と紅の番いが緑の絨毯の上を低く飛び続けていた。

次第に眼下を覆い尽していた木々の気配が後方へと遠のいていき、ゴツゴツとした尖った石や岩の塊が辺りに散乱しているのが目に付き始める。
もう少しだ・・・もう少し進めば、仲間達も知らぬ隠れ家が見えてくるはずだ。
やがて谷底を流れる美しい渓流に沿って川の上流を目指すと、その先にようやく目的の巨洞が見えてくる。
そして何の躊躇いもなくその暗い楽園に舞い降りた私の背後に、少し遅れて彼女がゆっくりと着地した。
「よくこんな所を見つけたものだな」
楽しげに声を弾ませながら周囲を見回すそんな彼女の姿に、何だか緊張に荒れていた気分が少しずつ癒されていくような気がする。
「我らは自分だけの狩り場を見つけるために方々を飛び回るのでな・・・こういう場所なら幾つも知っている」
「これでもう、私達の間を引き裂こうとする者は誰もおらぬのだな」
「そうだな・・・新たな狩り場を見つけるのは少々骨が折れるだろうが、そなたと暮らせることを思えば・・・」

それからというもの、私は昼も夜も彼女と共にいられる生活を存分に楽しんだ。
互いの体には一切触れることができぬというのに、愛し合った異種族の雌雄が寝食を共にする不思議な暮らし。
幸い私達の隠れ住んでいる岩山の傍に小さいながらも仲間達にはまだ知られていない格好の水場が見つかり、どうやら食料の調達にも不自由をしなくて済みそうだったのが何よりの救いだったと言えることだろう。
だが彼女との隠遁生活を始めて10日程経ったある日・・・それはあまりにも突然にやってきた。
「う・・・うぅ・・・ぐぅ・・・」
初夏の涼しげな風の吹き込む朝方の洞窟の中で、互いに寄り添うように、だが決して触れ合わぬように蹲って眠っていた彼女から、不意に奇妙な呻き声が漏れ始めたのだ。
それを聞いて目を覚ました私も初めはそれを寝言か何かだろうと思って聞き流していたものの、やがて闇に慣れた私の目に酷く苦しそうに歪められた彼女の顔が飛び込んでくる。

「ど、どうかしたのか?」
慌ててそう訊いてみると、震える彼女の口が何かを言おうとして微かに動いた。
「わ、わからぬ・・・だが・・・あ、熱いのだ・・・体中が・・・燃えるように・・・う、うああっ・・・!」
熱い・・・だと?一体何を言っているのだ・・・彼女は氷竜なのだぞ?
体の中がというのならともかく、彼女の全身を覆った青と白の皮膜などは触れた雨粒や涙を一瞬にして氷の粒に変えてしまう程の冷たい冷気を放っているはずなのだ。
しかし注意深く彼女の体を観察してみると、確かに皮膜の表面に薄っすらと汗をかいているのが見て取れる。
極寒の体が汗をかくなど、普通に考えれば到底有り得ない話だ。
だがそうは言っても、彼女が私の眼前で酷い苦しみにのたうっているのは紛れもない事実。

「しっかりするのだ!私はどうすればいい?何をして欲しいのか言ってくれ!」
焦燥に駆られた声でそう訊ねてみるものの、もう声を上げる力も無いのか彼女からの返事は返ってこない。
そして思わずぐったりと項垂れた彼女を揺すってやろうと右手を伸ばしかけ・・・
私はすぐにハッとしてそれを引っ込めていた。
おのれ!おのれ、おのれ、おのれぇ!
無力な己自身に対する憤りが、洞窟の岩壁に思い切り頭を打ち付けたくなるような衝動となって込み上げてくる。
どうすればよいのだ!?彼女が・・・彼女が死んでしまう・・・!
目の前で彼女が瀕死の苦しみに喘いでいるというのに、私は何もしてやれぬのか!

数分後・・・洞窟の地面の上に突っ伏すようにして泣いていた私はおもむろに顔を上げていた。
諦めてなるものか。たとえどんな運命の悪戯があろうとも、彼女だけは助けなければならぬ。
そして先程からピクリとも動かずにハァハァと虫の息を吐き出している彼女を一瞥すると、私は声を掛ける間も惜しんで洞窟の外へと飛び出していた。
もしかしたら、これが彼女との本当の別れになるかも知れない。
だが今は、彼女を助けるために何もかもを擲つ覚悟が必要なのだ。
もしあのまま何もせずに彼女の最期を看取ったとしたら、私は生涯悔やんでも悔やみ切れぬ心の傷を残すことだろう。

永遠にも思えるような長い長い1時間の飛行の末、ようやく住み処のある火山地帯が見えてきていた。
私を探しているのか数匹の仲間達がその上空を旋回するように飛んでいたが、今はそんなことなどどうでもいい。
やがて火山へと近づく私の姿を見つけたのか、彼らが私のもとへと近付いてくる。
ブゥン!
「邪魔をするな!」
だが私を捕まえようと迫る仲間達を力任せに振り回した燃える尾で牽制すると、私はそのまま最長老の住み処である中腹の巨洞へと飛び込んで行った。
「最長老!」
そして洞窟の奥に広がる闇へ向けてそう叫びながら、最長老の待つ広場へと急ぐ。

「一体どうしたというのじゃ?」
切羽詰まった私の声に驚いたのか、最長老が不意に住み処へ飛び込んできた小さな仲間を怪訝そうに見つめる。
「彼女が・・・愛しの氷竜が死にかけているのです。一体どうしたら彼女を救えるのですか?」
それを聞いた最長老の顔には、私の予想を裏切って深い悲しみの表情が表れていた。
「やはりな・・・だからあれ程言ったではないか・・・お互いのために、もう氷竜には近づくなと」
「教えてください最長老!あなたは一体何を知っているというのです!?」
その問いに答えようとしてか、最長老が大きく1つ深い息をつく。
「最長老というのは、かつて氷炎の竜達が共に暮らしていた時代を生きていた者を指す呼び名なのじゃ」
つまり今私の目の前にいる巨竜は、その幻の時代の生き残りということか。
「そして・・・ワシにもおったのじゃよ。お主と同じように、恋い焦がれた雌の氷竜がな」

愕然とした思いが、私の頭の中を真っ白に塗り潰していった。
「だが彼女と共に暮らし始めて数日が経った頃・・・突然彼女に発作が起きたのじゃ」
「発作・・・?」
「氷竜達は常にその全身から、触れた物を瞬時に凍り付かせることができる程の冷たい冷気を発しておる」
そんなことは知っている。
だがそれと彼女の発作とやらに、一体どんな関係があるというのか。
「それは言い換えれば、常に周囲の物から膨大な熱を奪っているということ。故に彼らは・・・」
「元々寒冷な土地でなければ生きてはいけぬ種族だと・・・?」
「うむ・・・しかも我らが傍にいるだけで、その高熱に耐えることが出来ず殊更に彼らの命を縮めることになる」
では・・・彼女があれ程までに苦しんでいるのは・・・この私のせいだったというのか・・・?
「数日に1度会う程度であれば大した影響はないが・・・結局我らは、氷竜と共には暮らすことができぬのじゃ」
「どうすれば・・・彼女を救えるのですか・・・?」
彼女の苦しみの原因が自分にあることを知って、その声の勢いはさっきまでよりも大分衰えてしまっていた。
「大量の水を与え、その者の身を冷やしてやるのじゃ・・・だがワシは・・・彼女を助けることができなかった」
その瞬間、私は最長老の住み処を勢いよく飛び出していった。

水だ・・・水が要る。
だが一体、どうやって彼女のもとまで水を運べというのだろうか?
この灼熱の身で水に触れれば忽ち蒸発させてしまうだろうし、そうかと言って触れても燃え尽きずに耐え切れる大きな器などがそう簡単に見つかるはずもない。
第一、冷たい水でなくてはならぬのだ。
炎竜である私に・・・それはあまりにも荷が重過ぎる。
私には・・・彼女を助けられぬのだろうか・・・
かつてあの最長老も、きっと今の私と同じ苦悩と葛藤を味わったのに違いない。
ただただ衰弱に命を削り取られていく彼女を前に何もしてやることができず、身を引き裂かれるような深い自責と後悔に幾度となく苛まれたことだろう。
そしてそれが、炎竜と氷竜を分かつきっかけになったのだ。

もう、元気な彼女の顔を見ることは出来ぬのだろうか・・・
フラフラと当てもなく空を漂い続ける私の脳裏に、この数ヶ月の記憶がまざまざと蘇ってくる。
初めて会った時に彼女が見せた、あの悲しそうに俯いた横顔。
私のために自らの空腹を我慢してまで一心に魚を獲り続けていた、あの一途な後姿。
そして長い長い空白の時を経て再会した彼女の・・・あの嬉々とした明るい笑顔。
それらが全て記憶の中だけのものになってしまうなど、私には到底耐えられそうにない。
次から次へと溢れ出してくる彼女と過ごした甘酸っぱい記憶の波に流されそうになりながら、それでも私は辛うじてその中に淡い希望の切れ端を見つけ出していた。

そうだ・・・彼女を救う方法が、まだたった1つだけ残っている。
だがそれには、ある1つの大きな壁を乗り越えなければならなかった。
不干渉の掟という鎖を幾重にも巻かれて補強されてしまった、種族という名の高い壁。
果たして、この私にそれができるのだろうか・・・?
しかしこうしている間にも、あの洞窟で独り孤独に待つ彼女の命は刻一刻と死に向かって擦り減っているのだ。
やるしかない。
私は突然目の前に垂れ下った一縷の望みに顔を上げると、北に向かって全力で翼を羽ばたき始めていた。

しばらくすると、深い森の上空を急ぐ私の眼下をあの思い出の詰まった湖が一瞬にして過ぎ去っていく。
そしてなおも遠くまで続く木々の絨毯を見下ろし続けていると、やがて緑の森が短い海岸を挟んで唐突に青い海へとその姿を変えていた。
遠い遠い、しかし彼女が毎日欠かさずに飛び越えてきた、碧き水を湛える大海原。
何処までも果てることを知らないその広大過ぎる海の威容に、早くも心が折れそうになってしまう。
いや・・・彼女は私に会うために、こんな遠い旅路を幾度も続けてきたのだ。
殊にあの空白の一月半の間、彼女は一体何を支えに無駄骨かも知れぬ渡海をやってのけられたのか・・・
それはきっと、また私と再会できるかもしれないという小さな希望を最後まで捨てなかったからに違いないのだ。
なのに私が・・・彼女が死にかけている今、この私が挫けてしまってどうするというのか。
誰も知らぬ山中の洞窟で孤独に死を迎えようとしている彼女を想起して、私は微かに疲労の溜まり始めた翼に鞭を打ちながらまだ見ぬ北方の氷山目指して飛び続けていた。

もう、何時間そうしていたことだろうか・・・
間もなく夕刻を迎える太陽が西の水平線に触れようと身を屈めた頃、ようやく遥か前方の彼方に氷で覆われた白い台地が姿を見せ始めていた。
グングンと近付いてくるその氷竜の住み処が、寒々しい静寂とともに私の到着を待ち構えている。
そして眼下を埋め尽くす雪と氷の世界にじっと目を凝らしてみると、幾本もの大きな氷洞が連なった、分厚い氷壁がそこに聳え立っていた。
住み処の外に出ている氷竜達の姿は無く、生物の気配が何処にも感じられない。
だが、迷っている時間はない。
私は無数に並んだ氷竜達の住み処の1つに勢いよく飛び込むと、何も見えぬ奥の暗闇に向かって声を張り上げていた。

「誰か!誰かいないのか!?」
その声に、闇の中から何かが顔を出す。雄の氷竜だ。
頭に生やした彼女とそっくりな数本の氷角をいからせながら、突然の侵入者を激しく警戒している様子が窺える。
「な、何だお前は・・・炎竜・・・?お前は我らの交流が掟で禁じられているを知らぬのか?」
「そんなことは無論知っている。だが、これはそなたらの仲間の命に関わる問題なのだ」
「どういうことだ?」
流石の彼も、仲間の命が危ないと知っては掟を盾に私を無視することができなかったらしい。
だが、まだ問題は山積している。
徐々に溶けて沈み始めた足元の氷穴から手足を引き抜いて平らな地面に移動すると、私は未だ闇の中から全貌を見せようとしない彼を外へと誘うかのようにゆっくりと後退さり始めていた。

そしていざ風雪吹き荒れる氷洞の外に出てみると、先の私の声が聞こえていたらしく何時の間にか数匹の氷竜達がその周囲をグルリと取り囲んでいる。
「誰だお前は!?どうして炎竜が我らの住み処をうろついている!」
「掟も知らぬならず者め!」
「さっさとここから出て行け!」
どうして彼らは、これ程までに掟に縛られているのだろうか。
初めて彼女に会った時に私が言った言葉を逆に叩き付けられて、私は苦笑いを浮かべながらも大声で叫んでいた。
「そなたらの仲間が南の大陸で死にかけているのだ!彼女を救うために、どうしてもそなたらの協力が欲しい!」
「南の・・・大陸だと?」
「どうしてそんな所に仲間が?」

それは、至極当然の反応だったのだろう。
氷竜達にとっては、この雪と氷の台地が生活の全てなのだ。
彼らの多くは、この台地から遠くかけ離れた外の世界など1度も見たことがないのかも知れない。
だがそんな周囲の冷たい反応にもめげずに、私は先を続ける。
「今すぐ大量の氷が必要なのだ。それに、そなたらの冷たい体も。私には・・・とても彼女を助けられぬ・・・」
その瞬間今にも死にかけている彼女の姿が脳裏を過ぎり、私は力無くその場に崩れ落ちていた。
この氷竜達の協力が得られなければ、もう彼女に助かる見込みはない。
私のせいでこうなったというのに、自分では何も出来ぬという無力感が執拗に私を責め苛むのだ。

やがてしばしの不気味な静寂を挟んだ後に、不意に私の耳にゴソリという物音が届いていた。
何事かと思ってゆっくり顔を上げてみると、3匹程の雄の氷竜が氷山の一角から切り出したと見える大きな氷塊をその両腕に抱えたまま高台から私を見下ろしている。
「今回はお前を信じてみるとしよう・・・早く我らをその仲間のもとに案内するのだ」
私の願いが、彼らに通じたのだろうか・・・?
だがそんな考えを、私はすぐに振り払っていた。
あんな掟があるせいで私はこの氷竜達をまるで敵か何かのように考えていたものの、彼らも言うなれば最長老の時代から連綿と受け継がれてきた遠大な歴史の犠牲者に他ならないのだ。
今更改めて言うまでもなく、誰もが皆一族の者達の身を案じている。
なればいかに関わることを禁じられている炎竜の頼みとはいえ、彼らが仲間を見殺しにするはずがなかったのだ。
例えようもない深い感謝の念に押されてバッと空に飛び上がると、私は後に従った3匹の氷竜達とともに勢いよく氷の台地を飛び出した。
そして懸命に苦しみに耐え続ける彼女のもとへ救いの使者を導くべく、疲弊しきったはずの翼に力を込める。
美しく澄み切った夜空に浮かぶ大きな上弦の月と煌く星々が、深い藍色に染まる海を越えて南へと急ぐ我々を淡く照らし出していた。

数時間後、月の光の届かぬ岩山の谷間を縫うようにして飛びながら、私は激しい焦燥に駆られていた。
彼女はまだ無事なのだろうか?
もし万が一手遅れになっていたとしたら、私はその辛すぎる現実を受け止め切れるのだろうか?
そんな脳裏に去来する様々な思いを噛み締めながら羽ばたき続けていると、やがて彼女の待つ大きな洞窟が視界の中に入ってくる。
そして3匹の氷竜達を伴ったまま勢いよくその闇の中へ飛び込むと、私は真っ先に彼女の安否を確かめにいった。
弱々しく開けられた彼女の眼に、まだ微かな生気が残っている。
よかった・・・私は間に合ったのだ!
だが喜んでばかりはいられない。まだ彼女は、この極めて危険な状態を脱してはいないのだから。

「さあ、その氷を私に・・・そして彼女の体を、そなたたちの身で冷やしてやってくれ」
そう言って1匹の氷竜から大きな氷を受け取ると、私は溶け出した水が流れていきやすいように円錐状に尖った先端を彼女の口の中へと優しく差し入れていた。
両手から伝わる高温の熱気があっという間に大きな氷塊を痩せ細らせていき、氷の表面を流れ落ちる冷水が彼女の渇きを少しずつ癒していく。
そして同時にその火照った体を冷やすべく、手ぶらになった氷竜が彼女の上にドサリと覆い被さっていた。
それを見た私の心中に何とも言えない嫉妬にも似た感情が湧き上がってきたものの、今は自分の役目に徹するより他に道がない。
徐々に回復していく彼女の様子にホッと胸を撫で下しながら、氷炎の竜達による必死の看病は夜明けまで続いた。

翌朝になって、彼女はすっかりと元の元気を取り戻していた。
「本当によかった・・・そなた達には、礼の言葉が見つからぬ」
「仲間同士が助け合うのは当然のことだ。お前こそ、よく我らに知らせてくれた」
そして3匹の氷竜達とそんなやり取りを終えると、その内の1匹が彼女の方へと首を振り向ける。
「さあ、里へ帰ろうぞ」
その返答に困った彼女が物言いたげに私の顔を見つめたものの、私は何も言わず静かに頷いていた。
やはり、彼女と一緒に暮らすことはできない。
「そなたのためだ・・・もし今度同じことが起こったら、次もまたそなたを助けられるとは限らぬ」
「そんな・・・」
「私は、そなただけは失いたくないのだ。共に暮らすことが危険だというのなら、私は潔く身を引こう」

それを聞いた彼女の顔に深い悲しみの表情が浮かぶと、私は思わず言葉を失ってその場に頭を垂れていた。
彼女の方も、こうなった原因が私にあることは薄々感じているはずだ。
先程から食い入るように私の顔を覗き込みながらも彼女が抗議の声を上げようとしないのは、きっと心の何処かに躊躇いが芽生えてしまった動かぬ証拠なのだろう。
「もう・・・私と会ってはくれないのか・・・?」
透き通った輝きを湛える彼女の青い瞳が、また微かに潤み始めている。
私は、一体何度彼女を泣かせれば気が済むのだろうか。
だが思わず返答に詰まって俯いた私の様子を見るに見かねてか、それまで沈黙を保っていた雄の氷竜達が突然予想外の提案を持ち掛けてきた。

「お前さえよければの話だが、我らの里で彼女と共に暮らすというのはどうなのだ?」
「それはいい!それならもしまた同じことがあっても、すぐに我らの助けが呼べるだろうしな」
「だ、だが・・・あの土地は、炎竜の私が暮らしていけるような所ではないだろう?」
氷竜達の住み処は、一面が厚い雪と氷に覆われた世界だ。
全身から熱気を放つ私がそこで一晩眠ったとしたら、朝方には深い氷の穴の底で目を覚ますことになるだろう。
「なぁに・・・寝床となる岩を1枚、外から持ち込んでくればよいだけではないか」
「彼女のために精一杯尽くしてくれたお前なら、仲間達も快く受け入れてくれるとも」
正直、私の心は揺れ動いていた。
何と答えていいのかわからずに彼女の方へ視線を振ってみると、その顔に貼り付いた心底嬉しげな表情が私の目に飛び込んでくる。
そうだ・・・私は、またこの笑顔が見たいがためにあれ程必死になれたのだ。
やがて返事を待つ氷竜達の方へ向き直った私の目に、もう迷いはなかった。
「そうだな・・・そう言ってもらえるのなら、お言葉に甘えさせてもらうとしよう」


視界一面を白銀に塗り潰す、とめどない雪と氷に支配された冷たい世界。
そんな不毛な台地のとある片隅で、禁じられたはずの氷炎の竜の番いが暮らしていた。
広い氷洞の奥には炎竜の寝床となる厚い岩床が設けられ、そのすぐ横の地面の上で全身に青白い皮膜を纏った雌の氷竜が静かに夫の帰りを待っている。
もう間もなく、氷海に住む獣を仕留めた炎竜が意気揚々と妻のもとへ帰ってくることだろう。
お互いにその身を触れ合うことすら許されぬというのに、彼らの未来は燦々と氷原に降り注ぐ太陽のように明るい輝きに満ち溢れていた。



感想

  • 良かった…本当に良かった!ただそれだけ -- 名無しさん (2008-06-24 17:23:34)
  • ベタだな・・・・だがそれがいい!!b -- 名無しさん (2009-03-03 03:41:18)
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