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隣町

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rogan064

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だれでも歓迎! 編集
謝罪の言葉を繰り返す。
殴られた唇が切れて、血が滲む。
地面に叩きつけられた後頭部が痛む。
目じりを痙攣させながら、飼い主の竜が人間であるスラグの体を踏みつける。
息が止まる。
炭鉱の入り口、崩落防止工事のための足場の上、冷たい金属の上に押し付けられ、中での労働で使い果たした体力と体温をさらに奪われる。
スラグには絶対に理解できない竜語で呪いの咆哮を上げ、竜がスラグの首を両手で締め上げる。
喉を鳴らしながら、スラグは必死で両手をバタつかせる。
首を振る。
右手の指先が、木枠組み立てに使用する工具に触れる。
必死でそれを掴む。
12月の、寒い夜だった。

――同日、インボリュート
「まったく、首曲げっぱなしってのも結構堪えるな・・・。」
こぼしながら、鋳車杯戸(いぐるまはいど)は帰宅後すぐにPCの電源を入れ、竜としては平均的な体格のその体を窓際のソファーに沈めた。
部屋の隅に大き目の鞄を投げ込み、淡い青の体色に、濃紺のストライプの体を伸ばす。

20階建ての高層マンションの19階。
町外れの高層マンションの上層階からは、インボリュートのほぼ全景が一望できた。
マンションのすぐ傍、隣町のサイクロイドとこの町を繋ぐ貨物鉄道の終着地点である貨物駅を見下ろす。
「貨物」列車が駅に滑り込む。
駅周辺には、それを待ち構えていたかのような赤い回転灯の群れ。
列車が駅に停車し、暫くすると騒々しい音を立てながら病院だか保健所だかのそれぞれの目的地に向かって散る。
車を運転しているのは大抵人間で、竜は駅に残り、自力で移動できる「積荷」の保護に当たっているのだろう。
杯戸は翌日に控えた新たな同居人の到着を思い、ソファー脇の小型冷蔵庫から取り出したウィスキーをグラスに注いだ。

サイクロイドとインボリュートは、元々は1つの巨大な町だった。
土地の歴史は古く、数十世紀以上前から竜が移り住み始めていたと言う記録も存在するとか。
まあ、いい。
重要なのはここ10年のことだ。
12年前、町の中で労働力として最も頻繁に使用されていた生物である人間の、労働環境の改善を求める声が上がる。
現在のインボリュート市内は、昔から肉体労働があまり盛んではなく、事務、研究等の分野において人間を使用する例が多かった。
知ってのとおり、人間は発想、創造、理論的思考能力においては、生物の中で文句なく最高ランクの地位を獲得しており、そのため、人間の社会的地位は、長い年月の間に、インボリュートに限り、「ある程度保障されるべき」と言う風潮が広がったのだ。
もちろんその風潮は、肉体労働者としての人間の労働環境にも言及し、サイクロイド側にしてみれば(人間は元々竜に比べて壊れやすいため)、竜以上に良い環境を人間に用意せざるを得ない、と言う状況に陥った。
そこで起こったのが、通称、「グリーゾン・クリンゲルンベルヒの反乱」である。
その名称の由来はもはや定かではない、が、結果的に、現在のように「市の分裂」と言う事態を招くことになった。
サイクロイドからは日に1本、「貨物」線の名目で人間を乗せた列車が到着する。
飼い主の死亡や、大元の事業主の破産などが主な原因だが、中には「問題あり」として「処分」のために列車に「遺棄」される人間も存在する。
それは例えば、過度の折檻によって肉体、および人格に再起不能なほどの障害を負っていたり、何らかの暴動や犯罪行為を犯していたりする場合だ。
そのような場合と、栄養失調などが顕著で、設備の整った施設での措置を必要としている場合は、列車から降ろされたらすぐにそれぞれの収容可能施設に向かう。
そしてそれ以外、健康である場合と、応急的な処置(点滴程度で回復できる脱水症状)で対応できる場合は、「里親」と呼ばれる保護者が人間を引き取ることとなる。
サイクロイド側は、インボリュート市内の人間に関しては一切の干渉を許されないため、少なくとも行政的保護は万全、と言う仕掛けだ。
また、100歳以上の竜で、前年の年間所得が平均の6割増以上の場合は、最低1人の人間の保護が法律で義務付けられている。
人間は竜に比べて寿命が短いため、人間のこの町での自立は完全に保障されていると言っても良い。
が、現実はそううまく行かない。
列車に乗るまでに漕ぎ着けず、サイクロイドで一生を終える人間も少なくなく、また、仮に列車に乗ったとしても、インボリュートで生活の基盤を持つまでに至った事例は未だに殆ど存在しない。
ここには、竜と人間の人生観の違いが大きく関わっているのだろう。
長く見積もってせいぜい100年の一生を駆け抜ける人間と、その4~5倍の時を生きる竜とでは、価値観も当然大きく違ってくる。
客観的に見て、「両者が公平にその生活を築くこと」のハードルは、決して低いものではない。

「はぁ・・・。」
杯戸は息をつき、ロックグラスを開ける。
明日でちょうど100歳。
若いが、仕事は順調。
独身だが前途有望。
順風満帆を絵に描いたような人生。
慌しく動き回るヘッドライトと、家路を急ぎ、窓の高さの空中を飛び交う竜。
最近増えてきた車も、まだ渋滞が形成されるほどの数は存在しない。
人間が増えたとはいえ、人間の社会的地位も、所得も、竜のそれとは比較にならない。

精神的にも肉体的にも弱く、繊細。
自分には荷が重い。
かといって言語による意思疎通のできる生物をペット感覚で飼うわけにも行かないしな・・・。
立ち上がり、竜向けの建築物としては平均的な4mの天井に届こうとするほどに翼を広げる。
両手も伸ばす。
羽を広げた状態で、久々の遠出で凝った肩を揉む。
硬直した筋肉が、ごり、ごり、と音を立てる。
歩きながらもう一度伸びをすると、ほぐれかけていた筋肉が一気に砕けたような気がした。
「これで多少は労働時間減るかね・・・。」
流しにグラスを放り込み、独り言。
人間の保護期間中は、ある程度までは仕事による拘束時間が軽減される(特に1人目はそれが顕著だったが)。
製造業に従事する身としては、それはそれで有難い。
杯戸は、さほど有名ではないが大きな企業に勤めている。
給与は、良い。
月給制なので、労働時間の減少は給与の額には響かない。
「・・・ま、今更何言ってても仕方ないがな・・・。」
杯戸はPCの前に座り、最近世話になっている動画のディレクトリまで移動する。
タイマーでセットした風呂に、湯が入り始める音が鳴る。
最大化は敢えて行わないモニタのウィンドウ上で、再生が始まる。
最近見つけた掘り出し物。
杯戸のような趣味の竜はそれなりに多いが、あまり自慢できた趣味ではない。
・・・まあ、性癖を自慢げに語るような奴、聞いたこと無いが・・・。
モニタの中から、人間の、しかも雄の嬌声が響く。
複数の竜に囲まれ、性器を露骨に弄られてあえぐ人間。
杯戸の雄の部分が、脈拍にあわせて少しずつ起き上がり、やがて完全に露出する。
それを片手で握り、単調な刺激を加える。
呼吸が激しくなる。
マズルの先から湿った息が漏れ、舌が顔を覗かせる。
「うッ――。」
風呂が溜まるまでの間を使って達する。
頭の中を一杯にする不純な妄想を、呼吸が整うまでに追い出す。
「・・・明日か・・・。」
呟き、大まかに後始末をし、風呂場に向かった。

スラグは目を開けた。
列車が揺れる。
汚れた金属の壁に頭をもたげて、貨物車の隅にあいた酸化による穴から、もう暗くなり始めた車外を見る。
朝から食事が喉を通らず、元々貧相な食事も摂り損なった。
食欲も空腹感も無いので、問題ないと言えば問題ないが。
体を伸ばしたい。
抱えた膝に力を込める。
力の入った肩の筋肉をほぐそうとして力を抜くと、猛烈な吐き気に襲われる。
車両の片隅に置かれた排泄用のタライまで這い、嘔吐感を消化する。
水しか出ないが。
汚物入れに顔を突っ込み、吐き気を堪えて震える。
同じ車両には、顔は見えないが男女が合わせて5人ほど。
全員汚れた、疲れた人間。
自分も同じ。
堪えきれない嗚咽を、汚物入れに吐き出した。

「有り難う御座います、では、保険の方ですが・・・。」
無駄に明るい人間の受付の指示に従い、杯戸は書類を汚しにかかる。
まぁ、保険は掛け金無料の簡易で良いか・・・。
仕事を休み(明日から週末なので、珍しく3連休になった)、諸手続のために昼前からセンターで待たされたため、筆圧が弱い。
ホール・ローレンツセンター。
管理しているのは、まぁ、言ってみれば民間団体だ。
・・・市からの強力なバックアップを受けてはいるが。
要は人間とその保護者の竜との仲介組織であり、住民登録やら保健の管理やらを一手に引き受ける。
で、杯戸は、そこで半日待たされた(昼飯が出たので許すが)後、2時間以上掛けて書類をやっつける。
人間1人がずっとここに住んでたことにする、ってのは、結構面倒臭いってことだ。
「保険証の方は後で郵送いたしますので、御住所だけ控えさせていただけますか?」
「あー、はい・・・。」
住所を告げ、保険証が届くまでの代用となる紙切れを財布に入れる。
疲れた筆跡のままコピーされた自分の名前と住所を見送り、お疲れさまでしたを心待ちにしてから窓口を後にする。
ここに来た順番が遅かったため、もうそろそろ日が落ちようと言う時間になっていた。
外に出て伸びをし、道の反対側にあるヴェロシティ駅(ヴェロシティ・ターミナル)構内に入る。
本日限りのパスを提示すると、無条件で改札を抜け、パスなしでは本来は入れない0番線に向かう。
列車の到着にはまだ30分ほど間がある。
11月末、現在5時半で、あたりはもう真っ暗だ。
缶ではなく紙カップのコーヒーを買って、ベンチに座る。
人が少ないので、手足と尾と翼を広げ、間接の錆を落とす。
長い間暖房に晒されて、火照った体に抜ける風が心地良い。
ホームには、竜と共に立っている人間の姿も認められた。
やはり小さい。
身長は竜の肩あたりまでしかないし、腕やらの部品は捻れば取れそうな印象だ。
その気になればもぎ取れそうな頭の中に、竜のそれの数倍の早さで成熟し、朽ちて逝く脳味噌が収まっている。
ホームの向こうに、3つ並んだ貨物列車のヘッドライトが見えた。

冷たい風を切って進む金属の箱の内部は、手先、足先の体温を痺れるように奪う程度には寒い。
ともすれば、それ自体が心細い熱源ともなりうる、揺れる裸電球が作る陰の中に、自身の吐き出す白い息を認めることが出来る。
スラグは冷たい金属の床に触れる尻を締め、手近な筋肉に力を入れた。
膝を抱える両手をきつく握り、震えを押さえる。
肩に力を入れる。
奥歯を強く噛みしめる。
体が前方に引っ張られ、減速したな、と思った。

速度を落としながら、列車はホームに滑り込んだ。
金属同士が擦れる甲高い音と共に、連結器が派手な音を立て、列車が止まる。
それ自体が大きなコンテナのような貨物車の扉を、関係者と思しき竜が開ける。
指定の車両の前で待たされているので、事前の情報を元に、車両の中を覗き込み、目当ての人間を探す。
雌の人間が各車両一人ずつ中に入り、中の人間の状態を確認する。
反対側の扉も開け、いつの間にか群がった回転灯と、向かい側のホームに山と積まれたビニールパックが見えた。
1人ずつ簡単に状態を確認された後、サイクロイド側から郵送された資料を元に、その保護者を特定する。
「鋳車様ー。」
いきなり、名前を呼ばれた。
「あ、はいはい・・・。」
杯戸は貨物車の中に入り、自分に割り当てられた人間と対面した。
列車の隅、冷たい埃の堆積した一角に、歯をカチカチ鳴らしがら膝を抱えて座り込んだ人間が居た。
雌の人間が肩に手を置くのを黙って見る。
人間は一瞬体を強ばらせ、体を支えられる様にして立ち上がった。

スラグは列車を降りると、ホームを照らす灯りに目を細めた。
ずっと抱えていた膝は、伸ばして歩く度に妙に痛む。
鋳車と呼ばれた竜がスラグの後について貨物車から降りる。
スラグは、ああ、これが次の飼い主か、と思った。
声が嗄れている様子は無い。
怒鳴り慣れているようには思えなかった。
手先も綺麗で、屋外で土にまみれた仕事をしている様には見えない。
だとすると、とスラグは考える。
怒鳴られるのは確かに好きではない。
力仕事も、長時間にわたる屋外の労働ももう嫌だ。
でも、自分にはそれ位しか出来ない。
前の飼い主のときも、しょっちゅう怒られ、殴られながらも約1年半は生きてこられた。
自分をストレスの吐け口にされても良いから、捨てられたくない。
サイクロイドから逃げ出して隣町に捨てられ、此処でも要らないと言われたら、自分は何処に行けばいいのだろう。
列車から離れ、個室になった簡易テントに連れて行かれる。
女の人が竜に、点滴をするので多少時間が掛かるが、付き添うかどうか確認する。
竜が肯いたので、女の人はスラグの左手に細い針を差し込んで、竜と同じ部屋に残し、テントから出て行った。
スラグは無意識に体に力を込めて、膝を曲げる。
背中を丸める。
炭坑にいた頃、現場脇に作られた個室でよく殴られたのを思い出す。
広いところと同じくらい、狭いところも苦手だった。
人のいない環境に置かれて、竜が目の前に立っていて、スラグはもうどうしようもない程萎縮していた。

杯戸は目の前の人間を観察する。
細い体に精一杯力を入れて、叫び出したい衝動を必死に堪える。
恐怖心がよく見て取れた。
人間は今にも泣き出しそうな息をする。
資料を見た。
――呼称・スラグ(名字不詳)
――年齢・18(Jan.29.29)
――労歴・第2炭坑、最深
――労働時間・・・
「・・・いつ寝てんだよ・・・。」
杯戸は呟き、資料を読むのを止めた。
保険証代わりに貰った紙切れに残った空欄に、鋳車スラグと記入する。
人間・・・スラグは、相変わらず足を曲げて椅子の下の地面に爪先を付け、それが全身の震えに併せて地面を蹴っていた。
針の刺さっていない手で反対の肩を抱き、呼吸に併せて肩が上下する。
顔を見た。
・・・結構可愛い。
いや、冗談抜きで。
「・・・スラグってーのか。」
人間が顔を上げ、杯戸の方を見る。
はい、と返事をする。
掠れ、疲れ切った、蚊の鳴くような声だった。
「鋳車杯戸だ。よろしく。」
手を出して握手を求めるなんて事はしない。
余計ビビらせてどーする。

スラグは返事をせず、肯くだけにとどめた。
鋳車杯戸と名乗った竜は、体型に見合った大きな椅子に腰掛け(それでも前の飼い主より小柄だが)、ビニールパックから滴り、スラグの体内に流れ込む液体を眺めていた。
無言のまま、液体が血液に混ざる。
微量ずつ滴下される黄色がかった液体のリズムが遅くなる。
1滴落下するのに2秒ほど掛かるようになるのを見計らっていたかのように女の人がテントに入ってくる。
手際よく針を抜き取り、血液があふれる前に絆創膏を当てる。
「・・・歩けるか?」
杯戸はスラグが立ち上がるのを待って、自分の首ほどの太さの背中を支えるように、手を触れる。
スラグは一瞬肩を強ばらせ、思い出したように歩き始める。
人間の女が、必要なら車を出す、と言ったが、杯戸はそれを拒否し、一言礼を残して駅の外に出た。

帰宅した頃にはもう日が落ち、辺りには夜の帳が降り始め、杯戸は若干光量を落とした照明を灯した。
「まあ、とりあえず座りな。」
スラグにそれだけ言って、時間を早めて溜めた風呂を確認する。
市からの補助を受けられたので、トイレと風呂は人間と竜のハイブリッド使用になっているはずだ。
・・・風呂には段差がつき、トイレはやたら小さい便器を追加しただけだが。
大体3.6mの身長(立った状態で伸びてだが)の杯戸からすると、便器が下手な階段の段差ほどの高さだ。
部屋に戻る。
スラグは体型と不釣り合いなほどの大きさのロングソファーの端の方に遠慮がちに縮こまっていた。
体の震えは治まってはいるが、爪を噛んだり目を泳がせたりと、姿勢が安定しない。
近寄ると、立ち上がって距離を置こうとする。
「・・・ナンもしねーから。」
借りてきた猫だな、と杯戸は思った。
少し考え、杯戸も端に移動して、肘掛けと背もたれにもたれる。
「ほら、・・・怒らねーから、隣座れって。」
間をおいて、スラグはソファーに戻る。
・・・さっきと同じ位置に。
正面から見ると、杯戸とスラグがロングソファーの両端に座り、真ん中は盛り上がった空間になっていた。
「風呂・・・沸いてるから、先に入ってきてくれるか?」
スラグのほうを向かずに、杯戸は呟く。
「・・・先に・・・、入っていいんですか?」
スラグが杯戸のほうを見上げる。
「とりあえず必要っぽいものは浴槽の脇に固めてあるから大丈夫だ。」
「・・・はい。」

スラグは浴室に入り、まずは広さに驚き、次に清潔であることに驚いた。
「ああ、脱いだものは適当にそこら辺置いといて。」
杯戸が部屋で言った。
スラグはそれなりに大きい声で返事を返し、着ている物を一気に脱ぐ。
もうこれで着ることは二度と無いであろう、擦り切れて汚れた服を足下の隅につくねる。
時間制限を設けられなかったので、生まれてから今までで5本の指に入るほど念入りに全身を泡で拭う。
汗がいろいろなものと混ざり合いながら、排水溝へ渦を巻く。
浴槽内に設けられた90cm程の水深の段差に尻を付け、膝を抱えて座る。
昔から、風呂はそうやって入る物だった。
小さくなって風呂に浸かると、浴槽が本当に広い。
ずっと入ってた風呂とは違う感触。
そこを浸食する、場違いな自分。
スラグは列車と同じ格好で隅に座り、膝を抱える自分を見た。
列車と違って錆も汚れもない、綺麗な広い浴室を見た。
スラグはゆっくりと膝を伸ばす。
浴槽の壁にもたれる。
足を伸ばして、自分が思う楽な姿勢という物を探す。
緊張する。
力を抜く。
・・・。
力と一緒に息を吐き出す。
監視されていない。
こんな姿勢で、ノロノロ入浴しても怒られない。
なんとなくリラックスすると、今まで心に入っていた力も抜けた気がする。
・・・あー、そうか。
これが普通なんだ。
胸から何かがこみ上げ、スラグは水面に視線を落とした。

竜の聴覚は、鋭い。
聴覚と言わず、5感は基本的に鋭い。
浴槽のスラグの押し殺したような嗚咽が杯戸の耳に届く程度には。
スラグが出てくる前にタオルと突貫で買い揃えた着替えを入り口に置く。
そのとき杯戸の耳に入った嗚咽は、尾を引きながら部屋のソファーまで杯戸に引きずられてきたようだ。
・・・人間向きの温度だし、たぶん平気だよな・・・。
杯戸は今度もソファーの隅に座り、ぼんやりと窓の外を眺める。
高知能でナイーブな小動物の心中を推察する。
・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・。
流石に心配になって覗きに行こうとした頃、スラグが風呂から上がった。

「・・・加減、あれで良かったか?」
身構えて風呂から出るなり、そう問いかけられたスラグは、返事が出来ずに肯くことしか出来なかった。
それでも杯戸は納得したらしく、そうか、とだけ言って長い首の後ろを掻いた。
「・・・有り難う御座います、・・・色々と・・・。」
杯戸のその行動が照れと心配を察せられまいとするが故だと知ってか知らずか、とにかくスラグはそう言った。
ん、と言って、杯戸は鼻先でソファーの空いたスペースを指す。
「ま、座れや。」
スラグは今度はソファーの真ん中に座った。
杯戸は内心小躍りしそうな気持ちを抑え、スラグが居る方の腕を背もたれに乗せる。
スラグはその腕の下にちょこなんと収まり、組まれた杯戸の足先を見つめていた。
「・・・晩飯食えるか?」
杯戸がそう言うと、スラグはすぐに肯いた。
スラグの髪の毛が、杯戸の腕に触れて揺れた。

一週間経った。
スラグは与えられた部屋のベッドに座り、窓から下を見下ろす。
窓のすぐ脇を掠めるように飛んでいく竜と、下のほうを歩く虫の様な人間が見える。
相変わらず一人で居るときは、どうしても体に力が入ってしまう。
杯戸の居るところでは、なんとなく気を遣ってリラックスしている風を装ってしまうのだが。
正直、スラグにもどちらが自分の本心なのか良く分からなかった。
ただ、精神的には気張っているほうが楽だった。
やはり、本能的に植えつけられた警戒心と言うものはそう簡単に抜けるものではない。
西日が差し込む自室から、誰も居ないリビングダイニングに移動する。
今日は土曜だが、明日から年末の休みに入るための収めで、杯戸は朝から仕事に行った。
早く帰ってくるとは聞いていたが。
スラグはあまり詳しいことは聞いていないが、どうやらガスやら水道やらの配管を繋ぐ部分を作っているらしい。
そんなに使うんかね。
結構儲かっていると聞いたが。
冷蔵庫から適当な液体を取り出し、自分用のグラスに注ぐ。
「・・・風呂・・・、もうそろそろかな。」
そろそろ4時になる。
杯戸が早く帰ってくるとしたら、もうじきだろう。
スラグは風呂やらなにやらの準備に入るため、グラス片手にダイニングから出た。

杯戸が帰宅すると、スラグはいつも通り昼間の間に掃除を済ませ、風呂を溜め始め、乾燥機から洗濯物を出して待っていた。
「お帰り・・・なさい。」
「ただいま。」
一人暮らしが長いと、帰ってきたときに誰か居るとそれだけで肩の荷が下りる気がする。
最近はスラグも大分肩の力が抜けてきたようで、杯戸が急に体を動かしたりしないよう少しだけ気を配れば、表情をこわばらせることも無くなった。
スラグは杯戸の荷物を受け取り、上着をハンガーにかけて形を整える。
杯戸が肩を回すのを見ていたのか、
「疲れた?」
と聞いてきた。
「今日はもう新規の発注は無かったんだがな。NCのプログラムソース失くした奴が居てさ、その後始末。」
普段スイッチ押して中身入れ替えてるだけだから、たまにはこういうのも良いけど、と言って笑う。
杯戸が笑うのを見てスラグも安心したのか、ソファーに座る。

スラグの隣に、杯戸も腰を下ろした。
杯戸は笑ってはいたが、なんとなくとって付けたような感じがした。
十中八九、スラグに気を遣っているのだろう。
そう考えると、スラグも気が重くなる。
そんなこと一々気にするくらいだったら、もっと、自分の普段のこととか、・・・
・・・それを突っ込んでほしい?
気にしてほしい?
何故?
保護者だから?
ああ、そうか。
飼い主だからか。
飼い犬の体調まで監視する義務が、飼い主には有るから。
でも飼い犬は飼い主に気を遣わせないようになんてしない。
もっとも、犬は飼い主が帰ってくるのを待ち構えて、こんなことしてないけど。
風呂が溜まったのか、電子音が鳴った。

スラグが立ち上がり、杯戸はソファーに残った。
長いマズルの先を手に乗せ、肘掛に肘を乗せる。
風呂自体は全自動なので、確認する必要は無いのだが。
「・・・逃げられたか・・・。」
・・・決定的な所で避けられている気がする。
と、杯戸は思う。
人間から見たら、そりゃあ、竜の存在は大きい。
元々天敵たる存在なんだから、威圧感もある。
一週間でそれとの生活に、完全に慣れるのは、流石に不自然と言うものだ。
最初のうちは気を遣って、お互い少し無理をするのは分かる。
が、正直なところ、杯戸は自分が何か譲歩した気がしなかった。
精神的な意味で、だ。
風呂場を覗いて帰ってくるスラグを呼び止める。
明日から週末だ。
多少遅くなっても良い。
多少無理しても良い。
「ちょっと、ここ座れや。」
杯戸は自分の膝を指して、無造作に言った。
それは杯戸の素の口調であり、杯戸にこれといって他意はない。
が、スラグは、いつもと違う杯戸の口調に一瞬で怯んだ。
面白いように表情を一変させ、引きつった顔で拒否・・・、しない。
ああ、これはちょっと勘違いしてたな、と杯戸は思った。
杯戸は、スラグが拒否すると思ったのだ。
スラグにとって、少なからず警戒している相手に対し、いざとなっても抵抗できない、無防備な姿勢をとることは脅威のはず。
それを拒否できないほどに、スラグは怯えていた。
泣きそうな顔になりながら、杯戸に背を向け、膝の上に座る。

スラグの頭の中で、様々な光景が渦を巻く。
前の飼い主が「壊した」人間の残骸。
後ろから羽交い絞めにされて腕をもがれる自分。
それでも抵抗できない自分。
そうなることを承知の上で、杯戸に近づく恐怖。
足を止めてしまいたい。
が、そうする度胸も、スラグには無かった。
何が不十分だったんだろう。
炭鉱でのこと?
きっとそうだ。
アレがバレたんだ。
膝を笑わせながら、

スラグは杯戸の膝に腰掛けた。
浅く、だが。
杯戸はスラグの体に手を回し、自分のほうに引き寄せる。
杯戸が自分でチョイスしたシャンプーだが、良い匂いの髪だなしかし。
スラグは肩で息をしながら、背中を汗だくにしていた。
なにやら物々と呟いているが。

体を引きずり寄せる杯戸の腕。
太い。
重労働をしているわけではないが、その骨格が、遺伝子が違う。
人間のそれとは見た目も力も比べ物にならない。
ごめんなさい・・・。
口から心中が漏れる。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・。
怖い。
これは本当に殺されるのか。
謝罪の言葉をダダ漏れにする。

注意して聞くと、スラグは謝罪の言葉を呟いているようだった。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・。
ひたすら、震える声で、もう目に涙を溜めながら。
「・・・なあ、何があったんだよ・・・。」
資料には、サイクロイドを追われた経緯は書かれていない。
隣町で何が起こったかなど、杯戸は知る由も無い。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい・・・。
ただひたすらに涙を流しながら震えるスラグの肩に首を回す。
「怒ってないから、泣くな。」
スラグは太ももに乗せて握り締めた手に力を込めて、叫びだしたい衝動を抑える。
完全に、列車から降りた直後に戻っていた。
「謝る事なんて無いだろ・・・。・・・向こうで何かあったのか?」
単刀直入に核心を聞く。
両手で抱いていた胴体を片手にして、力を緩めた。
「・・・話したくなかったら話さなくても良い。・・・だから謝らなくて良い。」
スラグは、杯戸の口調が戻ったのを聞き、口を閉じる。
相変わらず恐怖からあふれ出てくる震えと涙はそのままだが。
「悪かったな、気づかなくて。・・・人間より鈍いんだな、竜って。」
杯戸は首を回し、スラグの顔を覗き込んだ。

杯戸の目と、涙と鼻水で顔をグチャグチャにしたスラグとの視線が重なる。
杯戸はスラグの目を見たかった。
しゃくり上げながら杯戸のほうを見つめるスラグの目。
栗色の大きな目が、まっすぐに杯戸を見つめていた。
ああ、と杯戸は思う。
こいつぁ本気で惚れるな。
「俺のこと、ずっと怖かったんだな・・・。」
スラグの頭を撫でる。
「辛かったな・・・。」
それが誰に向けられた言葉なのか、杯戸には分からなかった。
「んじゃあ――。」

スラグは杯戸に頭を撫でられ、もうどうしたらいいのか分からなくなった。
とっさに横を向く。
「んじゃあ――。」
杯戸はそう言って、両手でスラグを抱きしめた。
もう杯戸の顔は前を向いていたが、スラグは杯戸の胸に横顔を押し付ける形になった。
「ちょっと荒っぽいけど、怖くなくなったら言え。」
そう言ってスラグの顔を指でなぞる。
「・・・後、泣きたくなったら泣いていいぞ。」
スラグは、正直なところ、さっき泣いたばっかりだったが、今、泣きたくなった。
全身に詰め込まれていた石ころが、涙と一緒に外に流れる。
ずっとここにあった恐怖心が、嗚咽と一緒に吐き出される。
杯戸の胸にしがみ付いて、スラグは疲れ果てるまで泣いた。

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