禁忌の報い

    

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活発な人と物資の流れに栄えるノーランド王国。
隣国の領土へと伸びる幾本かの街道を除けば周囲をグルリと深い森に囲まれているこの国の名は、ほんの6、7年程前までは非常に危険な国の代名詞でもあった。
決して、国の治安が悪かったわけではない。
国の兵達は皆健康で団結心が強く、今は隠居している当時の王も民に善政を敷き大いに慕われていた。
だがこの国に向かって延々と深い森の中を突き進む街道やその周辺の森には自由に人間に姿を変えることのできる危険なドラゴン達が数多く巣食っており、それらが道行く人々を襲っていたのだという。

やがて大勢の死者や行方不明者が後を絶たなくなって数ヶ月が経った頃、王はようやく森に棲むドラゴン達の退治に乗り出した。
元々強大な兵力を持っていたノーランドの軍勢はドラゴン達との戦いで夥しい犠牲者を出しはしたものの、約1年後には街道でドラゴンに襲われたという話はほとんど全くと言っていい程に聞かれなくなったという。
そしてその噂が各方面に広まったお陰で、ノーランド王国には多くの人々が各地から移り住むようになった。
これから語るのは、そんなノーランド王国で生まれ育ったある男の不思議な体験である。

「はーあ・・・今日も退屈だなぁ・・・」
たった1つの窓も、たった1人の人の気配もない殺風景な城の通路。
その突き当たりにある宝物庫の前で、俺は大きな溜息とともにそう独りごちた。
俺が両親に勧められて城の衛兵に志願したのは、つい去年のこと。
だがこんな大きな国では他国との戦争などそう簡単には起こるはずもなく、俺は今日もこうして閑職である宝物庫の見張り番をしているというわけだ。
胸から提げたこの鍵を使えば人々の憧れの宝物庫も自由に覗くことができるのだが、正直中には城下町の人々が期待しているような大した物など置いていない。
確かに金銀宝飾の類は数え切れぬくらいにそこかしこに保存されているものの、それだって3日も見ていれば流石に飽きがくるというものだ。

まあいい・・・あと1時間もすれば、今日の仕事も無事に終わるだろう。
いつもは家に帰るなりドサリとベッドに倒れ込んで眠ってしまうことがほとんどなのだが、今日くらいは少し夜の町にでも繰り出して羽を伸ばすのもいいかも知れない。
疲れを取るというよりも、今の俺には何か新しい刺激が必要だ。
誰もやってくる気配のない静かな回廊の先へと目を向けると、俺はもう1度小さく溜息をついていた。

夜になって家に帰ると、俺は早速兵装を着替えて賑わいを見せる町中へと出かけていった。
酒場で若い娘達の踊りでも眺めながらゆっくり時間を潰せれば、あの退屈な仕事にも少しはやる気が出るだろう。
やがて夜の熱気に活気付く酒場の前へと辿り着くと、俺は久し振りの夜遊びに胸をときめかせながら店の中へと入っていった。
いくつもの蝋燭の明かりに照らされた薄暗い店の奥で、ステージの上に上がった1人の美しい娘を大勢の客が取り囲んで囃し立てている。
端整な顔立ちにスラリとした細い脚。
真っ赤な長髪を靡かせながら躍る彼女の服の端からは生白い肌がチラチラと顔を覗かせていて、遠巻きに見ているというのになんだかゾクゾクという昂ぶりすら感じてきてしまう。
だがそんな魅惑的な娘の躍りからも何とか視線を引き剥がすと、俺は熱い喧騒と距離を置くようにしてカウンターにそっと腰を下ろしていた。

「あの踊り子、綺麗な娘だな。一体誰だい?」
「ああ、イザベラのことかい?彼女は5年程前に町へ移り住んできた子さ」
透き通ったグラスを磨いていた店主は俺の言葉を聞くと、相変わらず酔った客を熱狂させているステージの方をチラリと見やりながらそう答えた。
「森に棲んでたドラゴンどもがいなくなって他の町から流れてきたんだろうが、今じゃうちで1番の人気者だよ」
店主にそう言われて、俺もビールを一杯もらうと他の観客達に混じってイザベラのショーを観賞させてもらうことにした。

彼女の年齢は17、8歳くらいだろうか?
小柄な体つきの割にその顔には何だか妙に大人びた落ち着きが備わっていて、見る者を強く引きつけるような不思議な魅力がある。
それでいて時折観客達を舐めるように見回すその眼差しは、まるで美味しそうな獲物を目の前にした雌豹のよう。
そんな神秘的な表情と扇情的な艶かしい腰付きに、俺は早くも彼女に一目惚れしてしまったらしかった。
手にしたビールを飲む時間も惜しむように彼女の躍りを眺めていると、何だか妙な疼きが沸き上がってくる。
結局俺はその日、明け方近くになって酒場が一旦店を閉めるまで1杯のビールで粘ることになった。

翌日、俺はいつもと同じように城の宝物庫の前で番をしながらずっと夕べの出来事に思いを馳せていた。
仕事が終わったら、今夜もあの酒場に行ってみるとしよう。
店主に聞いてもイザベラがどこに住んでいるのかまでは教えてくれなかったが、案外彼女に直接聞けば家の場所を教えてくれるかもしれない。
胸の内でそんな告白の決心をつけると、俺は仕事が終わるまでの時間を財宝の鑑賞で潰すことにした。
そしておもむろに首にかけていた大きな金の鍵を取り出し、宝物庫の扉に差し入れる。
やがてガチャリという大きな音とともに鍵が外れ、観音開きの扉が大きく開かれた。

「ふぅ・・・それにしても、いつ見ても変わり映えのしない部屋だな・・・」
様々な宝石や貴金属でできた装飾品の数々が、所狭しと壁や棚に飾りつけられている。
確かに目の眩むような輝きが辺りを覆い尽くしてはいるのだが、それもあのイザベラの美しさに比べたら小さく霞んでしまうような気さえしてしまう。
尤も、目の前にある宝の山よりもたった1人の若い娘の方に興味を示してしまうのは、俺が宝物庫の番をしているような人間だからこそなのかも知れないが。

カタン、ガラッガララッ
「おっと、しまった」
ぼーっと考え事をしながら財宝に埋もれた通路を歩いていたせいか、俺はうっかり棚からはみ出していた黄金の盾を腰に引っ掛けて床に落としてしまっていた。
思わず慌てて拾い上げてみたものの、幸いどこにも傷はついていないらしい。
まあ仮にどこかに傷がついていたとしても、それに気付く者など誰もいないだろうが・・・
だが盾を元に戻そうとしたその時、俺は盾の陰に隠れるようにして置かれていた妙な小ビンに目を止めていた。
ドロドロの緑色に濁った液体の入っている、高さ15cm程の厚いガラスの小ビンだ。

「何だこりゃ?」
俺は小ビンを取り出してから盾を元の場所に収めると、その不気味な液体の正体を確かめようとビンの蓋を開けてみた。
別に、これといって酷い臭いがするわけでもなさそうだ。
軽くビンを振ってみても中に何かが沈殿しているとか溶けているとかいった様子もないことから、もしかしたら何かの薬なのかもしれない。
確か、書物室に宝物庫に保管されている物の品書きがあったはずだ・・・後で調べてみるか。
「さて、そろそろ時間だな・・・さっさと家に帰って、酒場へ繰り出すとしよう」
俺は空いている棚の上に小ビンを戻すと、ウキウキしながら宝物庫から出ていった。

心地よい緊張感を抱きながら酒場の扉を潜ると、店内は昨日以上に熱く盛り上がっていた。
ほとんど薄布1枚といった透けた衣装に身を包んで観客達を手招きしているイザベラの姿に、男達がやんややんやと騒ぎ立てている。
踊り子としての仕事に徹しているのかもしれないが、彼女はまるで裸を晒すことにこれっぽっちの羞恥すらも感じていないかのようだ。
「いらっしゃいお客さん。はは・・・あんたもすっかりイザベラの虜かね?」
「あ、ああ・・・まあ、そんなとこだ・・・」

俺は昨夜と同じようにグラス1杯のビールを受け取ると、無理なくステージが見渡せる席にゆったりと腰をかけた。
それにしても、なんと美しい娘なのだろうか。
今までにだって、俺は他の女性と付き合ったことがないわけではない。
だがこのイザベラという娘は、まだ成人すらしていないというのにこれまでのどんな女性よりも完璧に見える。
今日も閉店まで粘ったら、思い切って彼女に話し掛けてみるとしよう。

深い紫色に染まっていた空にいつしか薄っすらとした朝日の気配が滲んできた頃、酒場にいる客はもう俺だけになっていた。
酒もほとんど飲まずにずっとイザベラの踊りを見ていた俺は、相当彼女に入れ込んでしまっているのだろう。
やがて長い夜のショーを終えて微かに汗ばんだイザベラがステージから降りてくると、俺は意を決して彼女に声を掛けることにした。
「やあイザベラ、お疲れ様」
「あらあなた、あたしの名前覚えてくれたの?ありがとう」
初めて聞くイザベラの透き通った声は、少なくとも俺にはとても10代後半の娘の声には聞こえなかった。
どちらかというと、もう世の酸いも甘いも知り尽くした熟女のような落ち着きが備わっている。

「君の躍り、最高だよ。今度、俺と一緒に食事でもどう?」
「ふふふ・・・あたしを誘ってるのね?いいわよ、いつでもあたしの家を訪ねてきて」
彼女はそう言うと、テーブルの上にあったコースターにさっと家の場所を書いて俺に渡してくれた。
やった・・・!
彼女が、俺の誘いを受けてくれたぞ!
それに家の場所も教えてくれるなんて・・・もしかして、結構俺に脈があったりするのかも・・・
店主の元へと歩いていくイザベラの背中を見つめながら、俺は内心飛び上がりたくなるような衝動を必死に抑えていた。

次の日、俺は朝からフワフワと雲の上を歩いているような気分だった。
確かに一晩中起きてて朝帰りをしてしまった疲れも残ってはいるのだが、それ以上にイザベラのことが頭から離れなかったのだ。
だが、仕事は仕事。せめて昼の間くらいは、こちらに頭を切り替える必要がある。
確かに宝物庫の番は死ぬほど退屈な仕事には違いないが、それでもしっかりこなさなければならない。

そんな良心と煩悩の葛藤に耐えながら城の通路を歩いていた時、俺はふと書物室の前に差しかかったことに気がついた。
そういえば、昨日は宝物庫で妙な小ビンを見つけたんだっけな・・・
あれの正体も、正直気にならないと言えば嘘になる。
仕事が始まるまでにはまだ少し時間があるから、調べ物をしていくのも悪くはないだろう。
とにかく、今は少しでも彼女のことから意識を逸らさなければ。

俺はそっと書物室の中に入ると、仕事柄過去に何度か目を通したことのある宝物庫の品書きが置いてある棚を目指して真っ直ぐに歩いていった。
そしてぎっしりと本の詰まった書棚から1冊の冊子を取り出し、パラパラと中をめくってみる。
これは何か宝物庫に保管されるような品物があった際に、城の学者達がその由来や入手の経緯について調べたことが記載されているのだ。
「えーと・・・ああ、あった・・・多分これのことだな・・・」
俺は宝物庫に展示されている数多の財宝と品書きの内容を1つ1つ照らし合わせながら、ようやく例の小ビンについて書かれていると思われるページを探り当てていた。

それによると、どうやらあの不気味な緑色の液体は"竜化薬"と呼ばれる秘薬の1種であるらしい。
その由来はかつてノーランド王国周辺の森に巣食っていたドラゴン達を退治した際に、城の学者達が殺したドラゴンの死体を丹念に調べ上げたが故の産物なのだという。
「あの竜化薬を1口飲むことで、ほんの数時間だけ竜の姿になることができる・・・だって!?」
詳しい内容についてはここには書かれていないが、ここに書かれている内容から読み取れることから察するにどうやら城の学者達はドラゴンがどうして人間に姿を変えられるのかというその理由を解明できたらしい。
そしてその変身方法を応用することで、人間がドラゴンに化けることができる薬を開発したというのだ。

「こいつは凄いな・・・ん・・・他にも何か書いてあるぞ・・・?」
確かにそこまでは随分と魅力的な説明が続いていたのだが、品書きの最後にはこんな注意書きが付されていた。
「ただし竜の姿となって人間を喰らった場合、2度と人間の姿には戻ることができなくなる・・・?」
まあ・・・流石にこれはないだろう。
いくら強大な竜の姿になったとしても、それで人間を襲うなんてことは良心が許すはずがない。
「おっと、そろそろ仕事の時間だ」
壁に掛けられた時計が退屈な仕事の開始を告げているのを目にすると、俺は手にしていた品書きを書棚に戻してそそくさと書物室を出ていった。

「竜に姿を変えられる薬か・・・見た目は不気味だけど、確かに少し試してみたいような気はするな・・・」
何食わぬ顔で持ち場である宝物庫に戻ると、俺は早速例の小ビンを手に取って中身をしげしげと見つめていた。
これくらいだったら、たとえこっそり持ち出したとしても誰も気がつかないだろう。
なにしろ、ここしばらく宝物庫の番人をしていた俺でさえもが昨日始めてこいつの存在を知ったくらいなのだ。
この城には毎日財宝を眺めては顔を綻ばせているような性格の悪い妃もいなければ、俺が仕事をサボッてやしないかと見回りに来るような勤勉な兵士もいやしない。
第一、普通宝物庫の見張りなんてのは2人1組が基本だろう。
それが戦も経験したことのないようなたった1人の兵士に宝物庫の鍵を持たせて全権を任せるなど、無用心にも程があるというものだ。

まあ、ノーランド王にしてみれば所詮ここの財宝などその程度の価値しかないということなのだろう。
宝物庫の品書きを見てもここにある物のほとんどは退治したドラゴンの住み処から見つかったものばかりで、他国からの贈り物だとかどこかの国と戦って得た戦利品の類等は全くと言っていい程見当たらない。
やがて長い長い仕事の時間がようやく終わりを迎えると、俺はこっそりと宝物庫の中からあの小ビンを持ち出して扉の鍵を閉めた。
ようやく明日は、待ちに待った週に2度の休みの日。
この薬の効果を試してみたいのもあるし、イザベラとの約束のこともある。
明日は今までで1番楽しい休みになりそうだ。

次の日、俺は目を覚ますなり昨日宝物庫からくすねてきた例の小ビンを手に家を飛び出していた。
流石に2日間も夜更かしをしたせいか、昨夜は酒場へ遊びに行くどころか家に帰るなり強烈な眠気に襲われてしまい、バタンとベッドに倒れ込んで眠ってしまったのだ。
だが、昼間はまずこの竜化薬とやらの効果を試してみるとしよう。
俺は人目につかないように町の外れの森へと入って行くと、周囲に人の気配がないことを確認してポケットから小ビンを取り出した。
そしてキュポッという音とともにビンの蓋を取り外し、もう1度中を覗いてみる。
その毒々しい深緑の液体は、木漏れ日の中で見ると更に不気味な印象を放っている。

「・・・飲んでみるか・・・」
俺は薬を飲む前にゴクリと息を呑み込むと、その液体をほんの少しだけ口の中へと注ぎ込んだ。
「うっぐ・・・」
味はない。苦味も、甘味も、塩辛さも、それはまるでよく濾過された清水のように無味無臭の液体だった。
にもかかわらず舌に感じたのは、まるで熱湯を飲み込んでしまったかのような激しい熱さ。
手に持っている小ビンからはそんな熱さなど微塵も感じないというのに、一体これはどういう・・・
だが次の瞬間、俺は自らの体に起こっている異変に気がついていた。
体中の皮膚という皮膚が薄っすらと緑色に変色し、角質が鱗のように硬くなり始めている。
腰の辺りからは何か長い肉の塊が背後へと伸びていく感触があり、背中からはグバッという激しい勢いで1対の翼がせり出していた。
更には手足の先からは円錐型に尖った硬く鋭い爪が伸び、顔の形がまるでワニのような細長いそれへと変化していく。

「お・・・おお・・・・・・」
その約1分後、俺は紛れも無く大きな竜へとその姿を変えていた。
体高は3~4mといったところだろう。
周囲に立ち並んでいる木々が妙に寸詰まりの低い木になってしまったのが見て取れる。
新たに備わった長い尾と翼は面白い程に思い通りに動かすことができるし、何よりも驚くべきは体がこれほどの変化を遂げたにもかかわらず一切の苦痛を感じなかったことだ。
「こいつは凄いな・・・」
試しに手にしていた小ビンを地面に置いて肌色の翼膜が張られた翼を大きく羽ばたいてみると、まるで重力など感じていないかのように巨体がフワリと宙に浮いていく。
そしてそのまま、あまり人目につかないように低空ではあるが森の上を自由に飛び回ることができた。

バサッ、バサッ・・・
「何て清々しいんだろう。空を飛ぶのがこんなに気持ちがいいなんて」
やがて楽しい遊覧飛行を終えて森の中へ降りていくと、丁度眼下で1匹の野兎が草を食んでいるが目に入った。
その獲物の姿を見た途端に竜としての本能が目を覚ましたのか、口の中にジュルリと熱い唾液が湧き出してくる。
よし・・・あいつを食ってやろう・・・
俺はどこからともなく湧き上がったそんな衝動に身を任せると、極力音を立てないようにそっと翼を広げて滑空しながら何も知らず最後の食事に勤しんでいる憐れな野兎に襲いかかっていた。

ガッ!
「ギャッ!」
低くくぐもった、それでいて命の危険を感じさせる兎の悲鳴。
その小さな空気の波が辺りの木の葉をそっと揺らした時には、既に小さな野兎が俺の手で鷲掴みにされていた。
人間の姿であれば両手で抱え上げなければいけないようなぷっくりとした野兎も、巨大な竜の姿であれば片手の掌に軽く収まってしまう。
捕食者に捕えられた憐れな獲物は早くも抵抗を諦めたのか、長い爪の伸びた俺の手の中でフルフルと小刻みに身を震わせていた。

「へへへ・・・美味そうだな・・・」
普通の人間なら、そんな小動物が怯える姿を見れば誰もが情けをかけてやりたくなるものだろう。
だが俺はまるで心の中に宿った残酷な竜の思念のようなものにでも操られていたのか、恐怖に身を強張らせる兎を高々と持ち上げるとその真下で大きく顎を開いた。
ガバァッ
「クッ・・・クー!」
自らを呑み込もうとしている恐ろしい巨口が足元で開いた気配に、兎が息の詰まるような声を上げながらバタバタともがき始める。
だが俺はそんなことも意に介さず、獲物にクルンと長い舌を巻きつけるとそれをひょいっと口の中へ引き込んだ。

バクン
そして勢いよく顎を閉じると、真っ暗闇になったであろう広い口の中へ舌で絡め取った獲物を放してやる。
兎は遅すぎる自由を取り戻して口内から逃れようと分厚い舌を必死に掻いたり蹴ったりしていたものの、俺が少し舌を波打たせてやるだけで恐ろしい牙と舌の牢獄の中を右へ左へとまるで飴玉のように転がった。
そんな絶体絶命の獲物が漏らす声にならない恐怖の喘ぎが口腔を通して耳へと届き、何だかうっとりとした恍惚の表情を浮かべてしまう。
熱い唾液に塗されながら何度もコロンコロンと柔らかな弾力のある肉の上で弄ばれるうちに、俺は兎の体力が見る見るなくなっていくのを舌越しに感じていた。

「プク・・・クゥ・・・」
やがてたっぷりと唾液に浸されたスポンジのようになった兎がゴロッと舌の上で動かなくなったのを確認すると、俺はゆっくりと天を仰いで力尽きた獲物を喉の奥へと滑り落としてやった。
ゴクッ
美味い・・・!
鼻腔や舌に感じられる獣独特の泥臭さではない。
逃れようのない肉の牢獄の中で思う存分無力な獲物を蹂躙し嬲り尽くす感触。
舌先に伝わる死を前にした獲物の震えや、何とか生を掴もうとする無駄な足掻きを呆気なく叩き潰す快感。
そんな嗜虐心を満たす例えようもない爽快感が、素晴らしい美味となって俺の脳に伝わってくるのだ。
これは、癖になりそうだ。

それからしばらくすると、俺は全身から何やら薄っすらと靄のようなものが立ち上り始めたのに気がついた。
きっと、薬の効力が切れたのだろう。
そのまま待っていると、大きかった体が少しずつ萎んでいく感覚が全身に広がっていく。
硬い鱗に覆われていた腕や足は元の肌の色を取り戻し、翼や尻尾はまるで退化していくかのように小さくなって背や尻へと消えてしまった。
更には鋭い凶器と化していた手足の爪はポトリと根元から外れ落ち、元の人間の爪がその下から顔を覗かせる。
「ああ、よかった・・・ちゃんと元通りになるんだな・・・」
体が巨大化したお陰で最初に着ていた服はすっかり破れ落ちてしまっていたものの、俺は差し当たって元通りの人間の姿になれたことに安堵と、そして一抹の未練を感じていた。

「さてと・・・服が破けちまったな・・・家に帰るとするか」
俺は地面に落ちていた服の残骸と薬の入った小ビンを拾い上げると、元来た道を引き返し始めた。
だがその途中で、森の奥の方を歩いていた1人の人影が目に入る。
「おっと・・・こんな姿を誰かに見つかったら大変だな」
林の向こうを歩いている人間に見つからないようにそっとその場にしゃがみ込むと、俺は茂みの陰から向こうを歩いている人間をじっと見つめた。
どうやら、歩き方や仕草から見て女性らしい。
それも、まだ成人を迎えていないような若い娘だ。
それにあの髪の色・・・彼女の燃えるように真っ赤な長髪に、俺は見覚えがある。

「イザベラ・・・?」
どうして、彼女がこんな所に・・・?
いや、踊り子の仕事は夜からだろうから、昼間彼女が何処にいようと自由なのは知っている。
だがこんな森の奥にたった1人で入って来て、彼女は一体何をしようとしているのだろうか?
俺は予期せぬ場所で出会ったイザベラの行動が気になって、そっと彼女の後を尾けてみることにした。
深い木々に覆われた薄暗い森の中だ。
意図して探そうと思わなければ彼女が俺の存在に気付くとは到底思えないが、万が一こんな裸同然の姿を見られたりしたら彼女との食事の約束だってなかったことになってしまう。

茂みから茂みを転々と走り抜け、俺はイザベラと一定の距離を保ちながら彼女の行き先を見守っていた。
やがて10分も歩いた頃だろうか・・・唐突に森の木々がなくなり、視界が大きく開ける。
そこにあったのは、直径100m程の小さな湖だった。
「この森にこんな場所があったのか・・・知らなかったな・・・」
まあ、産まれた時からノーランドの国で暮らしていたとはいえ、つい数年前までこの森は恐ろしいドラゴン達の巣窟だったのだ。
森の中に入ったことなんて、今日を含めても片手で足りる程度しかない。
背の高い茂みの中からじっと息を殺してイザベラの様子を窺っていると、彼女は湖の辺でおもむろに着ていた服を脱ぎ始めていた。
そして俺が見ている目の前で美しい裸の姿を曝け出すと、ザバッという音とともに彼女が勢いよく湖に飛び込む。

冷たい水の中を気持ち良さそうに泳ぐ赤髪の娘・・・俺はその光景をみて、ようやくイザベラがここへ水浴びにやってきたのだということを理解していた。
深い森の中を迷うこともなく真っ直ぐここへやってきたところから察するに、彼女はきっと足繁くこの湖へ通っているのに違いない。
それにしても、一体何故わざわざこんなところまで水浴びにやってくる必要があるのだろうか?
家にはもちろん風呂があるはずだし、昼とはいえうら若い娘が1人で森の中をうろつくのは色々とよくない。
第一裸でいるところを誰かに見られでもしたら・・・
そこまで考えて、俺は正に今自分がその覗き行為をしていることに気がついた。
これ以上はいけない。
今日のところは早く家に帰って、夜にまた酒場で彼女に会うことにしよう。
俺はもう少し覗いていたい欲求を無理矢理に振り切ると、破れた服の切れ端を体に纏って帰路へとついていた。

その日の夜、家で破れた服を着替えてから酒場へ入っていくと、イザベラはいつものようにステージの上で観客達を熱狂させていた。
相変わらずの美しさだ。
彼女が水浴びしているあの湖に、何か特別な美容効果の1つでもあるのだろうかとさえ考えてしまう。
だが流石に水浴びの現場を覗いていたとは言えず、俺は長い長い夜のショーが終わった後に彼女と話をした時もそのことについては胸の奥に固くしまっていた。
「イザベラ、明日は君の家に行ってもいいかい?」
「そうね・・・ここで仕事があるときは、あたし昼間に少し用事があるの。でも休みの時なら・・・」

昼間に用事・・・か。
ということは、週に1度彼女がショーの仕事を休む日以外は、ほとんど毎日のようにあの湖へと足を運んでいるのだろうか?
「今度の休みはいつだい?」
「とても残念だけど、昨日休んだばかりなの。知らなかった?」
「あ、ああ・・・昨夜は連日の徹夜で疲れて寝ちゃってたから・・・」
仕方ない・・・そういうことなら、お楽しみは来週まで待つより他ないだろう。
「ふふ・・・それじゃあ、あなたとの食事は来週までお預けね」
まるで俺の心の中を見透かしたように、イザベラが微笑を浮かべる。
「そ、そうだね」
まあいいか・・・楽しみは待てば待つほど幸福を感じられるというし・・・
一頻り閉店後の酒場で彼女との楽しい会話を満喫すると、俺は欠伸を噛み殺しながら家へと帰っていった。

翌日、俺は昨日と同じく例の小ビンを手に森を訪れていた。
この前は人に見つからないように大分遠慮して空を飛んでいたものだが、今回は思い切ってずっと上空まで飛び上がってみることにしよう。
昨日と同じ失敗を繰り返さないように予め木陰で着ていた服を全て脱ぎ去ると、俺は手にした小ビンの蓋を取り外した。
緑色に輝くその秘薬は、あと残り2口分あるかないかといったところだろうか。
誤って全部飲んでしまわぬように慎重にビンに口を近づけると、俺はコクンと喉を鳴らして竜化薬を1口だけ飲み下した。

長く伸びた首を巡らしてほんの1分足らずの間にみるみる変貌を遂げた自分の体を眺め回しながら、空が開けた場所まで出て大きく翼を広げる。
バサッ、バサッ
そしてピンと張った翼膜が大気を叩き、ぶらんと垂れ下がった尻尾の先までが地を離れたその途端、俺は勢いよく翼を羽ばたいて森の遥か上空まで一気に舞い上がっていた。
ノーランド城が、その下に広がる城下町が、そして王国を取り囲んだ広く深い深緑の絨毯が、まるで1枚の壮大な絵画のように眼下へと広がっていく。
町の中を忙しなく歩き回る民衆や森に切れ込んだ街道を行く旅人達はもう森に棲んでいたドラゴン達の存在など記憶の彼方へと消し去ってしまったのか、緑色の竜が舞っている空を誰1人として見上げる者はいない。

更にノーランドの国から離れるように森の上を飛び回っていると、やがて昨日イザベラが水浴びをしていたあの湖が見えてきた。
上空から眺めてみると、まるで草原にできた水溜りのような小さな小さな湖だ。
その湖の辺で、今日も赤い髪を揺らす娘が恥じらいもなくその生白い肌を露わにしていた。
「イザベラ・・・」
彼女の方も、まさか2日間にわたって俺に水浴びを覗かれているとは夢にも思っていないことだろう。
やがて背泳ぎを始めた彼女に見つからないようにサッと森の陰へと身を隠すと、俺は5日後に迫った彼女とのデートに意識を飛ばしながら体が元に戻るのをじっと待ち続けていた。

次の日の朝、俺は3日振りに城へと足を運んでいた。
だが、何やら城内が騒がしいような気がする。
大勢の兵士達がそこかしこでなにやらガヤガヤと話し合っていて、まるでどこかからか敵兵でも攻めてきたのかといったような喧騒が辺りに満ち満ちていた。
とにかく、誰かに事情を聞いてみないことには始まらないだろう。
俺は慌しくそばを駆け抜けていこうとした1人の兵士を捕まえると、この騒ぎの原因を問い質した。
「お、おい、どうしたんだ?何かあったのか?」
「竜が出たんだ。昨日、森の上空を1匹の緑色の竜が飛んでいたのが見つかったんだよ」
何だって・・・?
ということは、昨日俺が竜に姿を変えて空を飛んでいたのが誰かに目撃されたのだろうか?
「で、でも、森に棲んでた竜なんて数年前に皆退治されたんだろ?」
「そりゃそうさ。ここ数年は、竜による被害なんて全くと言っていい程無かったからな」
「じゃあ、またいきなり現れたっていうのかい?」
何とか真相を悟られまいと畳みかけてみたものの、どうやら事態はもっと深刻な状況らしかった。
特に、宝物庫の番をしていた俺にとって。

「まさか!本物の竜が空を飛んでたりしたら、もっと大事になっているはずさ」
「どういうことだ・・・?」
「見つかったのは本物に比べて大分小柄な奴だったそうだ。だから、人間が化けた竜じゃないかって言われてる」
人間が化けた・・・もしかしてあの薬の存在を知っている、いや、存在に気付いた人間がいたというのだろうか?
「人間が化けただって?そんなことができるのか?」
「その話を聞いて学者が言ったそうだ。何でも、この城の宝物庫には竜になることができる薬があるんだとさ」
「じゃあ、この騒ぎは宝物庫からその薬のビンを盗んだ奴を探してるってことなのか?」
だがそこまで聞いた時、俺は心の内で自らの失態に気がついていた。

「お前・・・どうして薬がビンに入ってるって知ってるんだ?」
「え?いや、それはその・・・なんとなくだよ」
彼は俺の返事に対して大層訝しげな表情を浮かべると、そっと辺りで動き回る兵士達の様子を窺った。
さっき見た時はちょっと気がつかなかったが、幾人かの兵士が手に黄色い羊皮紙の束を持っているのが目に入る。
「彼らは今、城下町で最後に宝物庫の番をしていた奴の人相書きを配ってるんだ」
「その番人が、薬を盗んだっていうのか?」
「そいつが盗んだとは限らないが、ここ数日姿が見えないらしい。たまたま休んでいたのか、それとも・・・」
まずい・・・城の兵士達は入れ替わりが激しいお陰で互いの顔や名前などはロクに覚えていないものだが、人相書きが配られているとなると話は別だ。

彼らと一緒に宝物庫を探した際にポケットから例の小ビンを取り出して何事も無かったかのように誤魔化すという手もあるかもしれないが、いかんせん薬の残りが少な過ぎる。
こんな1口分しか残っていない薬のビンをあの財宝の山の中から探り出して見せた所で、却って自分が犯人だと認めてしまうようなものだろう。
結果はどうあれ、宝物庫から宝を盗んだことが知れれば重罪になる。
温厚なノーランド王ならまさかそれで死刑にはしないかもしれないが、それでも長い間、或いは一生暗い地下牢に閉じ込められることにはなるかもしれない。
こんなに間近で話をしているというのに俺の正体に気付いていない所を見ると、幸い彼はまだ俺の人相書きには目を通していないらしい。
それなら、今の内に早く逃げなければ・・・!
「そりゃ大変だ。俺も彼らと一緒に人相書きを配るのを手伝ってくるとするよ」
「あ、ああ・・・」
そんな彼の不審げな返事にも構わず、俺は兵装のヘルメットで顔を隠すと慌てて城の外へと駆け出していった。

人相書きの効果かそれとも単に不審だったのか、道行く人々の多くが俺の方へと疑い深い視線を投げかけてくる。
そんな身の竦むような焦燥に追われながら、俺は城下の町を駆け抜けると深い森へと足を踏み入れていた。
ここまで来る途中に路上に投げ捨てられていた人相書きとやらを何度か目にする機会があったのだが、流石に城のお抱えの絵師に描かせたものらしく見る者が見れば一目で俺だと判るほど精巧にできている。
これが家の近所にまで回ってしまったとしたら、もう自分の家にも帰ることができなくなってしまうだろう。
「あっちだ!」
「森の方に逃げたらしいぞ!」
「手分けして探すんだ!」
任を果たそうとする兵士達の声か、それとも妙な正義感に目覚めてしまった市民の群れなのか、町の方から大勢の人間達がこちらに向かってやってくる気配を感じる。

「くそっ・・・はあ・・・はあ・・・こんな・・・こんなはずじゃなかったのに・・・」
ドラゴンに姿を変えられると知って浮かれたり綺麗な彼女とのデートの予定に胸をときめかせていた昨日とは、あまりにも突然に俺の周囲を取り巻く環境が違ってしまっていた。
幾度も地面から突き出した石や木の根に躓きながらも必死に町から遠ざかろうと走っている内に、あまりの情けなさに涙が込み上げてきてしまう。
あの生まれ育ったノーランドの中には、もうどこにも俺の居場所がなくなってしまったのだ。
それにこのまま森を走るどこかの街道に出て隣国にまで無事に逃げ延びたとしても、俺はノーランド王国の国宝を奪った犯罪者として一生追われる身になってしまうに違いない。

やがて盗人を追う人々のざわめきが聞こえなくなるくらいまで森の中をひた走ると、俺は大きな大木の陰にドサリと腰を下ろした。
これからどうしよう・・・
呪うべきは己の浅はかさであることに違いはないのだが、突如として幸せの絶頂から暗い絶望の縁へと叩き落されてしまったような気がする。
いや、自ら足を滑らせて落ちていってしまったというべきだろうか。

ゴソッ・・・
「ん・・・?」
とその時、俺はポケットの中で何か固くて小さな物が動いたのに気がついた。
反射的にそっと手をやってみると、俺を今のような状況に追い込んだ張本人であるあの小ビンが指先に触れる。
魅惑の竜の姿を手に入れられるこの薬も、残りは最早たったの1口分しか残っていない。
「これが・・・こいつさえなければ・・・」
これくらいなら盗んでもバレやしない・・・
そんな悪魔の囁きに耳を貸してしまった結果が、こうして深い森の中で独り身を震わせている今の俺なのだ。
この1口でたった数時間などとケチなことは言わず、一生竜の姿でいられたらどんなにいいことか・・・!

そんな考えが頭の中を過ぎった次の瞬間、俺はあの宝物庫の品書きに書かれていた言葉を思い出していた。
"ただし竜の姿となって人間を喰らった場合、2度と人間の姿には戻ることができなくなる・・・"
「そうだ・・・こいつを飲んで人間を食えば、一生竜の姿のままでいられるんじゃないか・・・!」
どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのだろう。
いや、きっと俺はそれほどまでに気が動転していたのに違いない。
俺は小ビンの蓋を力任せにギュポッと引き抜くと、それを地面の上へと投げ捨てた。
そのまま最後の竜化薬をグイッと一気に飲み干し、空になったビンも茂みの向こうへと放り投げてやる。
そして自分の体が見る見るうちに竜の姿へと変貌を遂げていくのを見守りながら、俺はこれで終わりを迎えるであろう人間としての人生を振り返って顔に切ない苦笑いを浮かべていた。

硬い鱗を纏った太い手足、丈夫な翼膜を張った翼とゴツゴツした長い尻尾が揃い、俺は三度大きな緑色の竜へとその姿を変えていた。
だが、こんな奇妙な変身の光景を見るのもこれが最後・・・
後はどこかで人間を襲って食い殺せば、俺は一生この姿のままで生きていくことになる。
どこにも居場所のない人間の生活になど、もう2度と戻ることはないだろう。
そしてその憐れな生贄に一体誰を選ぶのかは、もう既に心に決めていた。

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