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追憶の闇

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rogan064

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「はぁ、はぁ・・・」
一面尖った石ころに覆われた地面に両手をついて荒くなった呼吸を整えると、私は遥か山頂付近に顔を覗かせた大きな洞窟の入口を振り仰いだ。
あと少し・・・あと少しで、長く辛かった迷走の人生にも終わりを告げる時が来る。
私はこの絶望に彩られた半年の間、周囲の人々に好奇の目を向けられようとも、或いは心無い人々の嘲笑の的になろうとも、ひたすらにある目的の為に生き続けてきた。
全ては、あの洞窟を見つけるため・・・そして、ある復讐を果たすため。
私は目前にまで迫った目的地に気力を奮い起こすと、1歩、また1歩と洞窟までの距離を縮めていった。

私がやっとの思いで目的の洞窟へと辿り着いたとき、朱に染まった夕日は既に西の地平線に足をつけていた。
だがだんだんと薄暗くなっていく洞窟の中へも躊躇うことなく立ち入ると、何者かの気配を必死で探っていく。
やがて10メートル程奥へと進んだところで、突然私の耳に空気を震わせる大きな声が聞こえてきた。
「人間の娘よ・・・この私に、何か用でもあるというのか?」
「ええ、あるわ!」
まるで予定調和であるかのように淀みなく応えると、私は広間のようになった洞窟の最奥へと足を踏み入れた。
その瞬間、生傷の痛みと疲労で鉛のように重くなっていた体がフワリと軽くなる。
そしてその広間の真ん中には、全身を真っ白な体毛で覆った1匹の老ドラゴンが静かに蹲っていた。
「やれやれ・・・その様子では、何か余程の覚悟があると見えるな・・・」
「本当に、私の願い事を聞いてくれるの?」
そう聞くと、ドラゴンはフゥーと長い溜息をついてゆっくりと答えた。
「・・・そうだ・・・この私にできることなら、何でも1つだけお主の望みを叶えてやる・・・」

そのドラゴンの返事を聞くと、私はホッと安堵の息を漏らした。
よかった・・・生涯に1度だけ人間の願い事を叶えてくれるドラゴンがいるという噂は、本当だったのだ。
「それなら、私の望みを言うわ」
グルル・・・というくぐもった鼻息を吹き出して、巨大な白竜が先を促す。
私は1度頭の中で慎重に言葉を選ぶと、大きく息を吸い込んで一息に言葉を絞り出していた。
「ここから遥か西のサファス山に棲む黒いドラゴンを・・・殺して欲しいの」
「何だと・・・!?」
ドラゴンはその願い事に相当驚いたのか、大きな眼を見開くと私の顔をまじまじと覗き込んできた。
「この私に、同胞を殺せというのか?一体何故だ?」
「・・・できないの・・・?」
深い失望の念を滲ませた私の問い掛けに、ドラゴンがしどろもどろに答える。
「で、できぬわけではないが・・・その必要は無い・・・あの山に棲む黒竜なら、もう既に死んでおる」

「え・・・?」
私は一瞬、頭の中が真っ白に塗り潰されていた。
あ、あの黒竜が・・・もう・・・死んでいる・・・?
「ほんの一月程前、竜殺しの人間に殺されたそうだ・・・恐らく、近隣の村から贄でも取っていたのだろうな」
「そ、そんな・・・では・・・私は一体何の為に・・・」
短い間だったとはいえ何とか上り詰めた希望の頂から再び絶望の淵に叩き落とされ、私は両手で顔を覆ってその場に泣き崩れた。
「ああ、レオル・・・う、うぅ・・・ごめんね・・・」
「何か訳がありそうだな・・・私でよければ、聞いてやろう・・・話してみるがいい・・・」
穏やかな声で促され、私は目から零れ落ちた涙を乱暴に拭うと事の経緯をドラゴンに向かって語り始めていた。



半年程前、私は今いる岩山よりもずっとずっと西にある、サファス山の麓に佇む小さな村に暮らしていた。
サファスという山の名は、生贄を意味する言葉から取られているらしい。
その名の通りこの山には遥か昔から1匹の凶暴なドラゴンが棲んでおり、5年に1度というゆったりした周期で村を襲っては成人前の若い娘を1人生贄に差し出させていた。
つまりこの村で15歳の誕生日を迎えた娘達は、たった1度だけ恐ろしいドラゴンの生贄候補として選ばれるのだ。
そしてほんの数日前18歳になったばかりの私にも、ついにその修羅場に立たされる日がやってきたのだった。

「おはよう、お姉ちゃん」
ベッドの上で窓から差し込む暖かい朝日に身を擦りつけていると、弟の甲高い声が私の耳に突き刺さった。
「ん・・・おはよう、レオル・・・どうしたの?」
「お腹が空いたの」
「わかった・・・今行くわ・・・」
レオルは、私に残された唯一の家族だった。
両親は私が14歳の頃に重い病気で亡くなり、それ以来私は今年で9歳になるレオルをまるで自分の子供のように可愛がってきたのだ。
幸い村の人々は若くして両親を失った私達にとても同情的で、時折身の回りの世話も焼いてくれている。

私は心地よいベッドから名残惜しげに這い出すと、弟の朝食を作るべく台所へと向かった。
「レオル、何が食べたいの?」
「何でもいいよ、野菜炒めとかでも・・・あ、でもピーマンは入れないでね」
「ふふっ・・・だめよ、好き嫌いしちゃ」
そうは言いながらも要望通りのおかずを作ってやると、レオルはいつも美味しい美味しいと言って私の料理を食べてくれるのだ。
だがそんな幸せな一時を過ごしていると、突然外から甲高い悲鳴や怒号が聞こえてきた。
何事かと思って窓から外を覗くと、村の入口に真っ黒な色をした巨大なドラゴンが立っている。
両手の先から生えた鋭く長い爪、朝日をキラキラと反射する光沢に覆われた黒鱗、血のように紅く光る眼・・・
それは紛れも無く、両親が亡くなる直前にも見た生贄を取っていくあのドラゴンだった。

あの時はそう・・・よく私の遊び相手になってくれていた隣の家のお姉さんが生贄になったのだ。
彼女が生贄として森の中へと連れて行かれたその日、彼女の両親が大声で1日中泣き叫んでいたのを覚えている。
「お、お姉ちゃん・・・何・・・あれ・・・?」
その時、窓の外を見つめていた私の背後からレオルの震える声が聞こえてきた。
彼は小さかったせいで覚えていないのか、初めてドラゴンを見たというように私の陰で酷く怯えている。
「大丈夫よ・・・心配しないで」
私はこれ以上弟が怯えないように努めて冷静を装ってはいたものの、内心では弟と同じように身を震わせていた。
何しろ、今年は私があのドラゴンの生贄に捧げられるかもしれないのだから・・・

「・・・わかっておるだろうな?明日の夜までに贄を1人寄越さねば、村の人間どもが皆殺しの憂き目に遭うぞ」
鋤や鍬といった武器を持った男達に囲まれながらも、邪悪な黒竜が村長に向かって余裕たっぷりに言い放つ。
「も、もう許してくだされ・・・ワシらはあなたに若い娘の命を、もう100年以上にわたって捧げてきたのですぞ」
「フン、それが何だというのだ?贄を断るというのなら、1人と言わずこの村の全員を食らってやるだけだ」
「そ、そんな・・・」
無力感に苛まれてその場に崩れ落ちた村長の様子に嗜虐的な笑みを浮かべると、ドラゴンは小さな刃物を自分に向けている周囲の男達をギロリと睨みつけて森の奥へと引き返していった。
人間1人くらいなら容易く丸呑みにできるであろう巨口が体の向こう側へと消え、代わりに長く伸びた尾がゆらゆらと村人達を嘲笑うかのように振られている。
そして暗い木々の間に溶け込むようにしてドラゴンの姿が見えなくなると、村長は村人達の助けを借りてようやく体を起こした。
「うぐ・・・うぐぐ・・・こ、今年もまた・・・死に行く若い娘を選ばねばならぬのか・・・」
家に戻る途中、彼は恐ろしいドラゴンの威容に立ち竦んでしまった老体を罵りながら悔し涙を零していた。

「お姉ちゃん・・・」
「ほら、もう行ったわ・・・」
まだ震えが止まらないのか、私に抱きついてきたレオルの体から小刻みな振動が伝わってくる。
私は可愛い弟の小さな頭を撫でてやると、留守番をするように言って家を出ていった。
他の家々からも、不安げな面持ちの両親とともに数人の娘達がぞろぞろと姿を現し始めている。
これから、村長の家で生贄の人選が始まるのだ。
村の人々は最早抜け出せない悪習と化してしまったこの光景を見る度に胸を痛めているが、本当に泣きそうな程に恐ろしい思いをしているのは他ならぬ生贄候補の娘達の方だろう。
何しろ私を含めて村長の家へと向かう若い娘達を襲っているのは決して、何をされるか分からないドラゴンの棲む森の中へ連れて行かれるというような漠然とした恐怖ではない。
あの長い牙や爪、それに睨み付けられるだけで心臓が止まってしまうのではないかと思えるような鋭い視線・・・
そんなドラゴンの持つ恐怖のイメージが、すでに先程の一件で皆の脳裏に刷り込まれてしまっているのだ。
あのドラゴンの前に生贄として差し出されれば、確実に食い殺されてしまう。
これから村長の家で行われることは、そんな理不尽で恐ろしい死を迎える人間を選ぶということだった。

15・・・16・・・18人。
村の中では一番大きい村長の家に、生贄候補として集められた娘達の人数だ。
明日の夜にはこの18人の内の誰かが、助けを求めることも許されずに暗い森の中であのドラゴンの餌食になる。
村長は私達の顔を1人1人じっくりと覗き込むようにして眺め回すと、フゥーっと諦めの混じった息をついた。
「申し訳ない・・・ワシはまたしても、あの恐ろしい黒竜に逆らうことができなかった・・・」
村長の口からもたらされたその暗いニュースに、娘達の多くが高鳴る鼓動を抑えようと胸に手を当てている。
「とても残念なことだが・・・今年もまた生贄を1人・・・お前達の中から選ばなければならぬ」
誰1人、それに対して抗議の声を上げることはなかった。
皆、ドラゴンと村長のやり取りを自分の家の窓から見ていたのだろう。
この村の中に、あのドラゴンに太刀打ちできるような人間は誰1人としていないのだ。

「あまり時間をかけてお前達を苦しめたくはない・・・生贄の人選は、籤を引いて決めるとしよう・・・」
そう言うと村長は部屋の奥から使い古された小さな壷と、紙でできた細長い籤の束を取り出してきた。
過去100年以上にわたり、村の為に命を捧げる娘達を選んできた禍禍しい陶器の壷・・・
その中に、18本の籤がザラリと無造作に投げ入れられる。
「1本だけ、籤の先端に赤い色がついておる。さあ、誰からでもよい・・・この籤を・・・」
流石に籤を引けと強要することはできなかったのか、村長がそこで言葉に詰まる。
だがもうすぐ20歳になるこの中では1番年長の娘が前に進み出ると、決して逃げることの許されない恐怖の籤引きが始められたのだった。

恐怖に引き攣った表情を浮かべる娘達が、恐る恐る壷の中へと手を入れて籤を引き始める。
1本、2本と空の籤を引く度に小さな安堵の息が漏れ、その様子をそばで見ている村長の顔にも少しずつ緊張の色が増していった。
しかし、もう10本以上籤が引かれたというのに未だ色のついたそれを引き当てた娘はいなかった。
もう籤の本数も残り少ない。
私は他の誰かが当たりを引いてくれることを密かに期待しながら自分の順番を待っていたものの、いよいよ私が引く段になっても未だその死の籤は壷の中に入ったままだった。
中を見ないようにしてそっと壷に手を入れると、残り4本となった籤がカサカサと乾いた音を立てる。
ああ・・・だめ・・・どれが当たりかなんて全然わからないわ・・・
次々と指先や手の甲に触れる籤が、何だか全て当たりのような気さえしてきてしまう。
まるで鎌の代わりに牙と爪を持った死神が壷の中で這い回り、私の手に当たり籤を押し付けているかのようだ。

たっぷり30秒も耐え難い沈黙の中で迷走した末、ようやく1本の籤をその手に掴んで壷の中から勢いよく引き抜く。
「あ・・・・・・」
そして籤の先端を目にした瞬間、私は視界を埋め尽くしているありとあらゆる物の色がサーッと暗い灰色に変わっていくのを感じていた。
そのモノクロになった絶望の世界の中で、籤の先についた真っ赤な塗料の色だけが煌煌と映えている。
「そん・・・な・・・」
決して引いてはいけない唯一の当たりを自分が引いてしまったと自覚した時、私の脳裏に過ぎったのはあのドラゴンのことなどではなく、たった1人残されることになる弟のことだった。
私が死んだ後、まだ幼いレオルは1人で生きていくことができるのだろうか・・・
だがそんな私の心配事を読み取ったのか、村長が申し訳なさそうに声をかけてくる。
「残念だ・・・だがレオルのことは心配せんでくれ・・・このワシが、責任を持って無事に育てると約束しよう」
「え、ええ・・・お願いします・・・」
今にも消え入りそうな声でそう言った瞬間、私は全身の力が抜けてその場に崩れ落ちていた。

重い足取りで家へ帰る途中、私はレオルのことで頭が一杯だった。
今後のことについて村長といろいろ話をしていたせいで、いつしか空は薄暗い夕闇に覆われている。
家に帰ったら、弟に一体何と言えばよいのだろう・・・
多分レオルはまだ、あのドラゴンのことについては何も知らないはずだ。
ましてや村を守るための生贄の話や、私がそれに選ばれてしまったということなど、到底理解できるはずがない。
だが弟に暗い顔を見せるわけにはいかないとなけなしの気力を振り絞ると、私はぎこちないながらも笑顔を浮かべて玄関の扉を開けた。
「ただいま」
その声を聞きつけて、レオルが家の奥からひょっこりと顔を覗かせる。

「お帰りお姉ちゃん。どこに行ってたの?他の家のお姉さん達も皆出かけてたみたいだけど・・・」
「何でもないわ・・・ちょっと村長の家で集まって、お話してきたのよ」
「あの・・・ドラゴンのこと?」
レオルの口からドラゴンという言葉が聞こえた途端、私は驚きのあまりに思わず飛び上がりそうになった。
まさか生贄のことを知っている・・・?い、いえ・・・そんなことはないはずよ・・・
「そ、そうよ・・・」
私はできるだけレオルに悟られないように努力してみたものの、乾いた口から出た言葉がまるで鏡のように私の動揺を映し出してしまう。
「どうしたのお姉ちゃん?何か、様子が変だよ・・・?」
「ううん、本当に何でもないの・・・ほら、夕食にしましょう・・・」
だめ・・・とても本当のことなんて言えないわ・・・
私は複雑な感情を押し留めるようにギリッと奥歯を噛み締めると、まだ何か言いたそうな弟を無理矢理に促して夕食の準備を始めていた。

昨夜あまり上手く寝つけなかったせいか、私は翌日のお昼前になってようやく目を覚ました。
私の隣では、レオルが可愛い顔でまだ寝息を立てている。
弟とはいつも別々の部屋で寝ているのだが、今夜だけは一緒に寝て欲しいと私の方から誘ったのだ。
寝床に誘ったその時はレオルも素直に嬉しがっていたものの、私の心情には敏感な弟のこと、この時間になっても目を覚まさないのはもしかしたら私と同じように眠れぬ夜を過ごしていたのかも知れない。
だがそれでも平和そうな弟の顔を見ていると、私は不思議と恐怖らしい恐怖を全く感じなくなっていた。
今日の夕方頃にはこの子と引き離されて、帰らずの森の中へと連れていかれるというのに・・・

昼過ぎになって私が昼食を作っていると、ようやくレオルが眠そうに目を擦りながら起き出してきた。
「ふあ・・・おはよう、お姉ちゃん・・・よく眠れた?」
「え?どうして?」
「だって昨日、夜遅くまでずっと起きてたでしょ?」
やはり、これ以上レオルに事実を隠してはおけないのかもしれない。
だがそうかといって、私はこの幼い子供に一体何から話せばいいのかについては全く見当がつかなかった。
「レオル、よく聞いて・・・お姉ちゃん、今夜ね・・・」
コンコン・・・
何とか覚悟を決めた末に苦しい告白を始めようとしたその時、玄関の扉がノックされる音が私の言葉を中断する。
扉を開けてやると、村長夫婦と若い男が2人、玄関の前に暗い面持ちで立っていた。

「村長・・・」
「レオルには・・・もう話したのか?」
「いえ、まだ話していません・・・」
私はそう答えると、テーブルについたまま不安げにこちらの様子を窺っている弟の方を振り返った。
「それなら、後でワシから話しておこう・・・そろそろ準備をせねばならぬから、ワシの家へきてくれんか?」
「い、今すぐですか?」
夕方くらいまでは弟とゆっくり過ごせるものと思っていた矢先にそう言われ、私は思わずゴクリと唾を飲み込んでいた。
「そうだ・・・あやつの棲む森は深い・・・明るい内に中へ入らねば、道に迷うてしまうでな」
「・・・わかりました・・・レオルをどうか・・・」
「お、お姉ちゃん・・・?」
わかっているというふうに頷いた村長に連れられて、私は弟に声をかける間もなく2人の若者に連れられていった。
弟のことは、村長の妻が面倒をみてくれるという。
若者達に支えられるようにして歩く間にも、私はもう2度と戻ることのない我が家を何度も振り返っていた。

村長の家に辿り着くと、私はまず体を洗わされた。
家のそれなどとは比べ物にならぬ程大きな浴槽に浸かりながら、ドラゴンに食われるために体を洗っている自分がだんだんと情けなくなってくる。
だが誰かがドラゴンの犠牲にならなければ、私はもちろん弟も、そして他の村人達までもが殺されてしまうのだ。
風呂から上がって薄手の服に着替えさせられると、いよいよドラゴンの巣食う森に入る時がやってくる。
「準備はよいな?」
村長にそう言われて見送りに出てきている村人たちの中に弟の姿を探してみたものの、彼はまだ何も知らずに村長の妻と私の家で過ごしているらしい。
「さよなら、レオル・・・」
私は誰にも聞こえないように小声でそう呟くと、大きく息を吸い込んで頷いていた。

「お姉ちゃん、遅いね」
昼食の途中で突然村長達に連れて行かれたままなかなか帰ってくる気配のないお姉ちゃんを待ちながら、僕は村長と一緒に暮らしているおばさんと遊んでいた。
僕に何も言わずに出ていったくらいだからすぐに戻ってくると思ったのに、窓の端から見える空にはすでに夕焼けがかかり始めている。
「ごめん、ちょっとトイレ」
その時、僕はおばさんに一言言いおくと再び不意に催してきた尿意を我慢してトイレへと駆け込んだ。
お姉ちゃんが出ていってから、僕は何だか酷く緊張しているみたいだ。
昨日、あの恐ろしいドラゴンの姿を見たからだろうか?
それとも、お姉ちゃんが何か思い詰めたような顔をしていたから・・・?

あれこれと色々な考え事をしながら用を済ませると、僕は手を洗うために水場へと走っていった。
その途中、廊下の窓から外に集まっている人だかりが目に入る。
「何してるんだろう・・・?」
外にいた大勢の人達は、ほとんど全員が森の方を眺めたままじっと立ち尽くしていた。
もしかしたら、お姉ちゃんもあそこにいるのかもしれない。
もう少し暗くなってもお姉ちゃんが帰ってきそうになかったら、ちょっと様子を見に行ってみるとしよう。

森の中を歩く時も、私は村長と2人の若者に付き従われていた。
村長はともかくとして、多分この若者達は私がこの場から逃げ出さないようにと見張っている役目なのだろう。
尤も大抵の場合村に大切な人達を残してきている生贄の娘には、最初から逃げることなどできないのだが・・・
30分程森の中を歩いた頃だろうか・・・ここまでの道のりはさして険しいわけではなかったものの、なるほど確かに暗くなってからではこの場所を無事に見つけることは難しかっただろう。
何しろそこには、仰々しい祭壇もなければあのドラゴンの棲む大きな洞窟も見えなかった。
ただ森の木々がその一帯をぽっかりと避けるように立ち並んでいて、ごく自然にできた広場のようになっているだけなのだ。
だがその広場の隅に生えていた一際大きな木に目をやって、私は思わずゴクリと息を呑んでいた。
100年以上もの永きにわたって太い幹に刻みつけられた、何本もの生贄を縛る縄の跡・・・
その木の根元にも、朽ち果てた縄の残骸が無数に散乱している。
更にはまるで巨大な熊手を振り下ろしたかのような深い爪跡が、そこら中の木に暴竜の凶行を映し出していた。
過去に数十人のうら若い娘達が、この場所であのドラゴンに襲われて命を落としたのだ。

肌寒い風の吹き荒れる辺りに耳を澄ませば、今にも彼女達の恐怖や絶望、あるいは孤独や悲しみや怨嗟といった苦悶の声が聞こえてくるかのようだった。
そんな呪われた磔架にも等しい太い木に、若者達が苦々しい表情を浮かべながらも私の体を縛りつけ始める。
ギッ・・・ギッ・・・ギュゥッ・・・
「あぐっ・・・」
絶対に外れないようにということなのか私の足や腕には幾重にも麻縄がかけられ、思わず呻き声を上げてしまうほどにきつく縛りつけられていった。
やがて縄を巻き終わると、若者の1人が白くて細長い布で私に猿轡を噛ませる。
ドラゴンの生贄には、悲鳴を上げることも許されないというのだろうか・・・?
「あんな暴虐なドラゴンにも逆らえぬ・・・無力なワシを許してくれ・・・」
「う・・・うぐ・・・」
私は早くも滲み始めた大粒の涙を湛えて村長達を見つめていたが、彼らは私に向かって深々と頭を垂れるばかり。
やがて村へと帰る彼らの姿が見えなくなると、私はたった1人暗い墓場に取り残されてしくしくと泣いていた。

峻険なサファス山の稜線に夕日が沈み、村にはいつも通りの夜が訪れ始めていた。
相変わらずお姉ちゃんが帰ってくる気配は一向に感じられず、挙句の果てにおばさんは僕を村長の家に連れていこうと頻りに話しかけてくる。
昨日のドラゴンの出現から色々と不可解なことが起こり過ぎて、僕はお姉ちゃんを探しにいく決心を固めていた。
だが時間も時間だし、少なくともあのおばさんは僕に何か重大なことを隠している。
堂々と玄関から出ていったのでは、きっとおばさんや他の村の人達に止められてしまうだろう。

僕はおばさんの目を盗んで裏手にある窓から静かに家を抜け出すと、なるべく人目につかないように建物の陰を伝って村の入口まで行ってみた。
今まであまり村の外に出たことがないせいで特に気にも止めたことはなかったが、よく見れば村を出てすぐの所に森の中へと続く小道が走っている。夕方頃、村の皆が見ていた方角だ。
この時間になっても帰ってこないということは、お姉ちゃんは皆に見送られてあの道に入っていったのだろうか?
もし仮にそうだとしても・・・一体何の為に・・・?
僕はそっと村の外へ出ていくと、真っ暗な森の中へと続く小道を恐る恐る覗き込んでみた。
暗くて何も見えないが、確かについ最近誰かが通ったことを示す数人分の足跡がくっきりと残っている。
「お姉ちゃん・・・待ってて・・・」
僕は不安で今にも押し潰されそうになるのをグッと堪えると、大きく息を吸い込んで漆黒の森の中へと駆け出していった。

ピクリとも身動きができないほどの無慈悲な拘束は、それだけで著しく体力を消耗するものだ。
私はすでに限界を迎えた疲労でギシギシと軋む体を少しだけ伸ばすと、不意に遠くから聞こえてきた小さな音と振動に耳を澄ませた。
ドス・・・ドス・・・
とてつもなく巨大な体を持つ何かが、緩慢なペースで地面を踏み締める重い足音。
その足音の主が誰なのかはすぐに想像がついたものの、私は敢えてそれを頭の隅へと無理矢理に押しやった。
あの恐ろしいドラゴンが、私を食い殺しにここへとやってくる・・・
そんなことを考えたまま死神の到着をただ待っていることなど、今の私には到底耐えられそうにない。
だがどんなにそれを考えないように必死に努力してみたところで、少しずつ大きくなっていくドラゴンの足音が私の思考の中へと強引に割り込んでくる。
やがてドスンという一際大きな足音が聞こえると、ついに私の前に凶悪な黒竜がその姿を見せていた。

漆黒の闇の中に溶け込むかのような滑らかな黒鱗が木々の葉の間からわずかに降り注いでくる月明かりを反射し、2つの燃えるような赤眼が獲物となった私の姿を真っ直ぐに捉えている。
「ん・・・んんっ・・・」
恐ろしいドラゴンの姿を間近で見せつけられ、私は声にならぬ悲鳴を上げながら必死で身を揺すっていた。
想像を絶する死の恐怖に震える以外何もできない私を、ドラゴンが愉快そうに眺め回す。
そして指先から生えている鎌のように鋭く湾曲した爪を持ち上げると、ドラゴンは私の口にはめられた布の猿轡をブツリと切り裂いた。
「ひっ・・・あ・・・ああ・・・」
数時間振りにようやく声が出せるようになったというのに、痙攣した喉から声が上手く出てこない。
そんなパクパクと口を開けて喘ぐ私の頬を、ドラゴンが巨大な舌でズルリと舐め上げた。
「ククククク・・・今年の贄も、なかなか悪くはなさそうだ・・・」
「い、いや・・・誰か・・・助けて・・・」
大きく開けられた見上げるような巨口の中では牙の先からツツッと唾液が糸を引いて流れ落ち、生暖かいドラゴンの吐息が私の体に吹きつけられていく。
これからたっぷりとこの身に刻みつけられるであろう苦痛と恐怖の予感に私は1度は固まりかけた死の覚悟が粉々に砕け散ってしまったのを感じていた。

ニヤニヤと不気味な笑みを浮かべたドラゴンの指先が再び振り翳され、今度は私の着ていた薄手の服の襟元にその切っ先が当てられる。
「あぅ・・・ぅ・・・」
そして少しずつ深い絶望の底無し沼に沈んでいく私の顔を眺めながら、ドラゴンが衣服をゆっくりと切り裂き始めた。
プチッ・・・ブチッブチッ・・・
「クククク・・・」
「や、やめて・・・ああっ・・・!」
故意か偶然か鋭い爪の先が私の胸元に少しだけ食い込み、小さな切り傷とともに真っ赤な血が滲み出す。
「あまり動かぬ方が身のためだぞ・・・クク・・・その悲鳴も、嫌いではないがな・・・」
「ううっ・・・は・・・ぁ・・・」
プチプチと生地の張り裂ける音とともに胸元が肌蹴ていく感触に、私は必死で歯を食い縛っていた。
やがて麻縄で木に縛りつけられた体勢のまま細切れにされた服の切れ端が、パラパラと夜風に舞い散っていく。
目の粗い麻縄から唯一肌を守っていた服を破り取られ、私はいよいよ少しの身動ぎも許されなくなってしまった。
少しでも身を捩ろうとすれば、ささくれ立った縄の刺が皮膚を傷つけてしまうのだ。

「お、お願い・・・せめて・・・一思いに殺して・・・」
私が恐怖に顔を歪める度、痛みに喘ぐ度、そして苦しみに呻く度に、ドラゴンがその嗜虐的な顔にこの上もなく幸せそうな表情を貼り付けていく。
「クク・・・何だ・・・我がただ腹を満たすためだけに贄を取っているとでも思っていたのか・・・?」
「え・・・?」
予想と反したドラゴンの言葉に、私はきつく閉じていた目を少しだけ開いて眼前の悪竜を見つめ返した。
「我は深い絶望に瀕した人間の苦悶が何よりの好物でな・・・」
震える耳元でそう囁きながら、ドラゴンが逆さに翻した指の爪先で私の顎をそっと掬い上げる。

ツツッ・・・
「あ・・・痛っ・・・」
「特に貴様のような若い生娘の声はまた格別よ・・・我の腹を満たすことなど、そこらの獣で十分に事足りるわ」
だがそうは言うものの、これまで生贄に捧げられた娘達の中に生きて帰ってきた者がいないことを考えれば、やはり私には最終的にドラゴンに食われるという運命が待っているのだろう。
「そ、そんな・・・ああ・・・なんて惨いことを・・・」
「ククク・・・何とも心地よい声よ・・・我の雄も、実に興奮しておるわ」
ドラゴンはそう言いながら不意に立ち上がって股間から醜悪にそそり立っている肉棒を私の目の前に曝け出すと、ペロリと舌を舐めずりながらジリジリとこちらににじり寄ってきた。
「な、何を・・・いや・・・来ないで・・・い、いやああああああっ!」

僕は真っ暗な闇の中を手探りで進みながら、森に入ったことを心底後悔していた。
もしかしたら、最初からこの先にお姉ちゃんなどいないのかもしれない。
今頃は何処からともなくフラリと家に帰ってきて、逆にいなくなった僕のことを心配しているのかも・・・
「いやああああああっ!」
だが半ばお姉ちゃんの捜索を諦めかけて道を引き返そうかと考え始めたその時、森の奥から突然若い女性の悲痛な叫び声が聞こえてきた。
「お、お姉ちゃん・・・?」
突如として辺りを支配し始めた不穏な空気に、心臓がまるでお湯の沸騰したヤカンのように激しく暴れている。
それでも僕はその悲鳴がお姉ちゃんのものだと確信すると、声のした方向に向かって全力で駆け出していた。

ドラゴンに犯される・・・
これから私を貫こうとしている巨大な肉棒から目が離せぬまま、私はあまりの恐ろしさに必死でその場から逃れようと暴れていた。
生白い肌の上を麻縄が擦り上げ、あちこちにジンと痺れるような痛みとともに小さな擦り傷が走っていく。
「クククク・・・クハハハハハハッ!」
泣きながら暴れ傷ついていく私の姿がよほど気に入ったのか、ドラゴンが大声で満足げな笑い声を上げる。
だが依然として、雄の象徴である凶悪な尖塔はゆらゆらと揺れながら確実に私の身に迫ってきていた。

ガッ!
「ウグッ!」
だがその時、突然ヒュンという音とともに森の暗闇の中から飛来した石が笑っていたドラゴンの顔へと直撃する。
「や、やめろ!」
続いて聞こえてきた聞き慣れた声・・・それは紛れもなく、弟レオルの声だった。
見れば、相当思い切り走ってきたのかハアハアと肩で息をしているレオルが広場の端に立っている。
「レ、レオ・・・ル・・・?」
「おのれ小僧・・・この我の邪魔をすればどうなるか・・・わかっておるのだろうな・・・?」
石をぶつけられて怒り狂うかと思ったものの、ドラゴンは背筋の凍りつくような静かな声で弟を威嚇していた。
血のように真っ赤に輝く竜眼にギラリと睨み付けられ、まだ9歳にも満たぬ小さな子供の足が竦む。

「あ、あう・・・ぅ・・・」
蛇に睨まれた蛙というのは正にこのことをいうのだろう。
勢いでドラゴンの前に飛び出してきたはいいものの、僕はドラゴンに睨まれた瞬間まるで体が石になったかのように動かせなくなってしまっていた。
そんな僕の様子を見て、ドラゴンが詰まらぬ奴だとばかりに鼻息をつく。
「フン・・・貴様になど興味はないわ・・・今すぐ消え失せるなら、特別に見逃してやるぞ・・・」
その言葉に、木に縛り付けられていたお姉ちゃんの顔に微かな安堵が浮かんだ。
だがこのままでは、お姉ちゃんがドラゴンに殺されてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「ふ、ふふ・・・ふざけるな!お姉ちゃんを放せ!」
「レオル・・・!」
その瞬間、僕ははっきりと見てしまった。
お姉ちゃんの顔には不安と恐怖の表情が、ドラゴンの顔には不気味な笑みが広がっていったのを・・・

「クク・・・ククク・・・なるほど・・・貴様らは姉弟というわけか・・・」
「や、やめて・・・その子には・・・レオルには手を出さないで!」
だが私の必死の懇願を涼しく聞き流すと、ドラゴンは獲物の対象を明らかに弟へと切り替えていた。
「ひっ・・・・・・」
殺気のこもった、それでいて終始薄ら笑いの貼り付いたドラゴンの視線に、レオルが後ろに転んで尻餅をつく。
「は、早く逃げて・・・レオル逃げてええぇ!」

お姉ちゃんの叫び声に、僕は腰を抜かしたままその場から離れようと土の地面の上を這い出していた。
だがほんの1メートルも逃げないうちに、シュルリと伸びてきたドラゴンの尻尾が僕の右足に巻き付けられる。
そして次の瞬間、締め付けられた足がグイグイと引っ張られ始めた。
ズル・・・ズルル・・・
「あ・・・う、うわっ・・・うわあああっ!」
僕は何とか地面に爪を立てて踏ん張ろうとしてみたが、そんな些細な抵抗などまるでなかったかのように恐ろしい力で少しずつドラゴンの方へと引き寄せられていく。
「お願い!やめてぇ!」
「い、いやだ・・・助けて・・・ああ~~!」
既に深夜を迎えた深い森の中に、僕とお姉ちゃんの甲高い悲鳴が響き渡っていた。

ズル・・・ズル・・・グルルッ
なおも逃げようともがくレオルをいとも容易く手元まで引き寄せると、ドラゴンが長く伸びた尻尾でその体をグルグル巻きにしていく。
そして真っ黒な大蛇のとぐろに捕えられた弟の姿を見せつけるように、ドラゴンが尻尾で絡め取ったレオルを私の眼前へと近づけた。
「クククク・・・」
「お、お姉ちゃ・・・あはっ・・・ぁ・・・」
レオルが声を上げた瞬間グギュッという音とともにドラゴンの尻尾が引き絞られ、助けを求める声が途中から苦悶の吐息へと変えられてしまう。
ギリッ・・・ギッ・・・ミシッ・・・
「は・・・ぁ・・・かっ・・・」
「レ、レオル・・・!」
私の上げた悲鳴とも取れるような上ずった声に、ドラゴンが満足げな笑みを浮かべた。
レオルが息を吐き出す度に締め付けがますます強くなり、その小さな肺から空気を残らず押し出していく。
ロクに声を上げることもできないまま顔を真っ赤に腫らして酸欠の苦しみにのたうつ弟の姿を見て、私は既に傷だらけになった体をさらに捩っていた。

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