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2つの灯火

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匿名ユーザー

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家族を失う悲しみ。2度と味わいたくなかったその悲劇が、再び私の身に降りかかろうとしていた。
真っ白なベッドの上で蒼白な顔に玉のような汗を浮かべ、母がチラリと私の方に視線を向ける。
「お母様・・・」
思わず私の口から漏れた言葉に返事をしようとして、母は枯れた喉から声を出すのも辛そうに目を細めた。
不治の病など、この世にあっていいはずがない。
ましてやその恐ろしい悪魔を、よりにもよって母が患うなんて・・・。

15年前、まだ私があどけなさの残る少女だった頃、この村を取り囲むようにして広がっている森の中に1匹のドラゴンが棲んでいた。
定期的に村を脅かし、家畜や畑を荒らす禍禍しい獣。
それがくると、私達はみな家の扉を固く閉ざして恐怖と不安にひたすら震えていたものだった。
外を歩く重い足音、窓からわずかに覗く青黒い鱗、大地を揺るがすような甲高い雄叫び。
なぜか家の中にまでその魔の手を広げてくることはなかったが、私達にとってのそれはある種の天災に近いものだった。

そして、ある時1人の若者がドラゴンの退治を申し出る。それが、私の父だった。
父はみなが止めるのも聞かずたった1人で暗い森の中へと踏み入り、それきり帰ってくることはなかったのだ。
村の誰もが落胆と、そしてドラゴンの報復に怯えていた。
ところがどうしたことか父がドラゴンの退治に向かってからというものドラゴンがやってきたことは1度としてなく、それ以来村ではずっと平和な暮らしが続いている。
きっと、ドラゴンは父の手によって無事に退治されたのだろう。
だが父もまたドラゴンの前に力尽き、平和になった村の様子を見ることはできなかったのだ。
そして、その日から私にとってたった1人の家族であった母の命が、今また失われようとしている。
結局母は私の方を向いただけで、そのまま言葉もなく昏睡に落ちてしまった。
医者にも見放され、もはやただただ死を待つばかりの母を目の前にして何もできない自分自身を心の底から罵る。
薬草でもいい。清き水でもいい。いや、ほんのりと甘い、小さな木の実でもいいのだ。
母の苦しみを少しでも和らげることができるのなら・・・。

再び目を開けるかどうかも知れぬ母の顔に手を当て、焼き鏝のように熱く火照った顔から汗を拭い落とす。
そして寒気に震えるその紫色の唇にそっと口付けすると、私は井戸水を詰めた小さな水筒と籠を持って森の中へと走っていった。
居ても立ってもいられなかったのだ。たとえ私には何もできなくても、このまま母の死にゆく様をただ漫然と見続けていることなどできるはずがない。
すでに朱に染まり始めた空を見上げながら、木々を掻き分けて森の奥へと突き進んで行く。
一体、何を探せばよいのだろう?こんな森の中に、不治の病を治すどんな奇跡が眠っているというのか。
考えれば考えるほどに絶望が押し寄せてくるような気がして、私は無我夢中で足を早めていた。

ゴロゴロゴロゴロ・・・・・・
空になった腹が鳴る雷鳴のような轟音が、湿った洞窟の中に響き渡った。
腹が減った・・・
ここ数日、食料になるような獣達はおろか1匹の鼠すらも見ていない。
すでに冬を迎える準備が万端整ったかのように木の枝が茶色く枯らせた葉を降らせ、身にしみる冷たい風が笛のような音とともにやせ細った木々の間をすり抜けていった。
飢えで力尽きるような柔な身ではないが、空腹の苦しみには耐え難いものがある。
それに冷たい風から身を守るには、この洞窟は我にとって広すぎた。

固くとも滑らかな光沢を放つ青黒い鱗が冷え始めた空気を弾くと、我は半ば眠ったように半分ほど閉じられていた目を開いてゆっくりと身を起こした。
人里も襲わず、1日中孤独に森の中を歩き回ってようやく食事にありついては、暮れゆく陽を睨みつけながら今ひとつ物足りぬ腹を抱えて洞窟へと戻っていく。
15年もの間、我はそういう暮らしをしてきたのだ。
だが、さすがに5日間の絶食と喉の激しい乾きにはもう耐えられぬ。
我はヨタヨタとふらつく足で大きな体を支えて立ち上がると、冷たい風の吹き始めた洞窟の外へと足を進めた。
こんな調子ではたとえ目の前に足を怪我した鹿が大挙して歩いていたとしても、とても捕まえることなどできぬだろう。
降り積もった落ち葉の下に何か木の実の1つでも隠れてはいないかと、地面を這うようにして重い体を引きずっていく。
だがそんな都合のよいことがそうそう起こるはずもなく、我は諦観に歩みを止めるとノロノロとした動きで辺りを見回した。
「ん?」
見ると、ほんの数メートル先の木の根元に深い緑に黄色い筋の走った大きな草が植わっていた。
この辛い空腹を少しでも満たせるのなら、この際草でも何でも構わぬ。
あれを食えば、多少は元気も出るというものだろう。
全身の力を振り絞るようにして草の生えた木の根元まで身を寄せると、我はたっぷりと茂ったその草の束にがぶりと食いついた。

「う・・・うぬ・・・?」
だがその厚手の葉を噛み潰して漏れ出した汁が舌についたとたん、我は口の中が一気に焼けていくような痛みを感じた。
たちまち電流が走ったかのように指先から尻尾の先までがビリビリと痺れ、全身の力が抜けてしまう。
「こ、これは・・・毒草か・・・?」
麻痺した口からはみ出した葉の表面をよく見ると、深緑のキャンパスに黄色いペンキをぶちまけたような歪な文様の中にプツプツと赤い点のようなものが見えた。
うぐぐ・・・不覚だ・・・やはり、慣れぬことはするものではないらしい。
飢えてさえいなければこれしきの毒など物の数ではないというのに・・・
ブルブルと震える指先に視線を留めたまま、我は虚ろな目で地面の上に横たわっていることしかできなかった。

徐々に暗くなっていく空と同じように胸の内に失意を抱えて歩いていた私は、ふと前方の木の根元に何か大きな青黒い塊が蹲っているのに気がついた。
「?・・・何かしら?」
ゆっくりとその塊に近づくにつれて、様々なものが目に入ってくる。
しっとりと濡れたような青光りする細かい鱗。力なく地面に投げ出された太い尻尾。
虚ろに開いた双眸がブルブルと震えていて、半開きになった口の端からは鋭い牙が覗いていた。
「・・・ひっ・・・」
その正体に気づき、私は思わず口を押さえて悲鳴を押し殺した。
15年前に私の村を襲ってきた・・・そして、父の命を奪った憎くも恐ろしいドラゴンが、今私の目の前で断続的な痙攣に喘いでいる。
「い、一体何が・・・?」
よく見ると、半開きになったドラゴンの口の端から奇妙な色をした草切れがはみ出していた。
倒れたドラゴンに恐る恐る近寄りその不思議な草に手を伸ばす。
だが噛み千切られた葉の表面に視線を向けたとたん、私はビクッと手を引っ込めた。
うねるような緑と黄の乱模様の中に、まるで血が飛び散ったかのような真っ赤な斑点がいくつも浮かび上がっている。
それはあまり森の植物に詳しくない私にですら、毒の危険を促すサインに見て取れた。
「どうしてこんな毒々しい草を・・・」
これは、もしかしたら父の仇を討つチャンスなのかもしれない。
15年もの間村の平和が保たれた理由は今以って謎ではあったが、窓から覗いたあの恐怖に彩られた青黒い鱗は私の記憶の片隅に深く焼きついている。
簡単なことだ。この動かぬ巨獣に、とどめの一突きをくれてやればいい。

そう決心しかけようしたが、私は寸での所で思い留まった。
痛みと寒さと飢えにひたすら苦しむドラゴンが、この上もなく憐れな存在に見えたのだ。
たとえ昔は恐ろしい生物だったとしても、こんなに弱りきった命の灯火にとどめを刺すことなど私にはできない。
私は地面に落ちていた木の枝を拾うと、震えるドラゴンの口を押し開けて中に詰まっていた毒草を掻き出した。
毒液に触れぬように細心の注意を払いながら、噛み千切られた葉の欠片の1枚までもを慎重に取り除いていく。
そして吐き出させた毒草の残骸を足で遠くに蹴り飛ばすと、私はドラゴンの口元に膝をついて水筒を取り出した。
「さ・・・これを飲んで・・・」
水が漏れぬようにドラゴンの口を水平に寝かせると、私はぐったりと弛緩した口の中に少しずつ冷水を注ぎ込んだ。
「ん・・・んぐ・・・ごくっ・・・」
元凶を取り除いてやったせいか、先程までピクリとも動くことのできなかったドラゴンが自分で水を飲み下していく。
小さな水筒はあっという間に空になり、最後の一滴が乾ききったドラゴンの舌の上に吸い込まれた。
「はぁ・・・はぁ・・・」
まだ苦しいのか、それとも声が出せる程度まで回復しただけなのか、ドラゴンが荒い息をつきながら私の顔をじっと見つめている。
多少の輝きを取り戻したその目に吸い込まれるように、私も黙ってドラゴンの顔を見つめ返していた。

「娘・・・なぜ、我を助けたのだ?」
両膝を地面についたまま我を見つめる娘の目にかすかな恐れと憎しみの欠片のようなものを読み取り、我は相変わらず四肢に残った痺れに屈して地面に這いつくばったまま問い掛けた。
「さあ・・・わかりませんわ。でも、あなたの苦しむ様子が見るに耐えられず・・・」
空になった水筒を胸の前で支えながら、娘がおずおずと口を開く。
「お前は、我が恐ろしくはないのか?我は今、激しく飢えておる・・・お前を食い殺すかも知れぬのだぞ?」
「では、なぜそうしないのです?」
きっぱりとした返事を返す娘の毅然とした態度に、我は思わずたじろいだ。
「・・・ふん・・・今はその力がないだけだ・・・」
まるで我の心の内を覗き込もうとするかのような娘の視線に耐えられず、ふっと顔を逸らしてそう呟く。

「あなたはその昔、私達の村を襲っていたあのドラゴンなのでしょう?」
その唐突な問い掛けに驚いて娘の方へと視線を戻すと、ずっと押し留めていた感情が溢れ出したかのように娘の目から大粒の涙が零れていた。
「何故泣くのだ?」
「私の父を殺した憎い敵を・・・助けてしまったからですわ・・・」
「何・・・?」
この娘の父を殺した?この我がか?
馬鹿な・・・世に生まれてからこの数十年、我は人間を手にかけたことなど1度もない。
確かに人間の村を襲ったことはあるが、それでさえ飢えを凌ぐために秋から冬にかけて家畜や作物を少し奪ったことがある程度のはずだ。
「私の父は・・・15年前あなたを退治しようとして森の中に踏み入り、それきり戻ってはきませんでした」
「15年前だと・・・そうか、お前はあの男の娘なのか・・・それは気の毒なことをしたな・・・」
「・・・え?」
15年前・・・1つだけ思い当たることがある。
我が洞窟の中で人間の村から奪った家畜を貪っていた時、1人の男がやってきたのだ。

「ドラゴンよ!私の声が聞こえているだろう!」
突然耳に突き刺さったその大声に食事の邪魔をされ、我は不機嫌な顔をしたまま洞窟の外に目を向けた。
「何の用だ?・・・人間よ」
「もう、我々の村を襲うのはやめてくれ。見返りがほしいというのなら、私の命をくれてやる」
男はしとしとと湿った地面の上に座り込むと、手に持っていた剣と盾を遠く草むらの中へと投げ捨てた。
恐らく、初めからそうするつもりだったのだろう。
変わった人間だ・・・まあ、数日も放っておけば諦めて立ち去るだろう。
我はそう考えて黙殺を決め込むと、再び背を向けて獲物に食らいついた。
だが明くる日もそのまた明くる日も、男は洞窟の前でじっと我が応じるのを待ち続けていたのだ。
すでにちらちらと雪が降り始める季節だというのに、夜の間我の鼾を聞きながら寒さに耐え忍んでいたのだろう。
その男の辛さを想像して少し心が痛んだが、それでも我は頑なに男の要求を撥ね付け続けていた。
毎朝目を覚まして我が外を覗く度に、男が大声を張り上げて同じことを叫ぶのだ。
そして座り込みを始めて6日目を迎えた時・・・男は飢えと寒さに力尽きて座った格好のまま息絶えていた。
この我ですら丸5日間の飢餓には耐え切れぬというのに、ましてや人間がそれに耐えられるはずがない。
我は完全に、男の覚悟を見誤っていたのだ。

「そんな・・・」
「我が出ていって一言約定してやれば、お前の父は死なずに済んだのかも知れぬ。確かに、我が殺したも同然だ」
「うっうっ・・・うぅ・・・」
ドラゴンの口から語られた父の死の真相に、私は顔を両手で隠したまま嗚咽を漏らしていた。

ようやく重い体を持ち上げるだけの力が戻ったのか、ドラゴンは泣き崩れた私の前に大きな頭を近づけてきた。
顔を塞いだ手の隙間から青黒く光る鱗が動いたのが見え、思わずビクッと身を縮める。
いや・・・恐れる必要はない。このドラゴンは人間を殺すような残忍な獣ではないのだ。
事実私が泣き止むのを待つかのように、ドラゴンが鱗に覆われたその顔に心配そうな表情を浮かべている。
ようやく落ち着きを取り戻してドラゴンの顔を見つめると、私を気遣うようにその口がゆっくりと開いた。
「ところで・・・お前のような娘が1人でこの森に入ってくるとは、一体何の用があったのだ?」
ドラゴンの発したその言葉に、私は病床に臥せった苦しげな母の顔が頭に浮かんだ。
そうだ、今は過去を嘆いている場合ではない。母を救わなくてはならないのだ。
だが凍える寒さに森の獣達も姿を消し、毒草の生い茂ったこの暗い森に明るい希望を見出すことなど、失意の底に沈んでいた私には到底無理な相談だった。
「母が危篤で、明日をも知れぬ命なのです。せめて何か、その苦しみを和らげられるものでもあればと・・・」
まるで誰かに打ち明けたかった心のしこりを吐き出すように、私はドラゴンに向かって語り出していた。
「病にかかっているのか?」
「不治の病だそうですわ・・・お医者様ももう見離してしまって・・・ああ・・・私一体どうしたら・・・」

せっかく落ち着いたと思った矢先に再び泣き出してしまった娘を見ながら、我は不憫な思いにとらわれていた。
察するに、たったひとり残った家族なのだろう。
唯一の心の支えを失ってしまうかもしれないという娘の不安は、生来孤独に生きてきた我にもよくわかる。
「娘よ・・・お前の母親を助ける術がないわけではないぞ」
「・・・え?」
「我を救ってくれた礼だ。我の血は人間にとっては万病薬になる。命を長らえさせることぐらいはできるだろう」
だがそう言って腕に鋭い爪を突き立てようとした我を、娘が慌てて制止した。
「そんな、いけませんわ。毒と飢えに弱ったその身でさらに血を流すなど・・・」
「だが、お前は母親を助けたいのだろう?」
「それは・・・」
さすがの娘にも、その問を否定するだけの決心をつけることはできなかったようだった。
「さあ、その器を差し出すがいい・・・」
依然として左手に固く握り締められたままの水筒を目で指し示しながら、歯を食い縛って己の腕に爪を突き刺す。
ズブッという鈍い音とともに、青黒い鱗の隙間から真紅の鮮血が滴り始めた。
「ああっ・・・」
流れ出した血の雫に慌て、娘はハッと我に返ると手に持っていた水筒を我の傷口にあてがった。
「ぐ・・・うう・・・」
小さな水筒の中に血が流れ込んだのを確認し、さらに傷を深く抉る。
一振りで獲物を絶命させ得る凶器が引き締まった腕の肉を割ると、ドクドクと脈打つように霊薬が溢れ出した。

身を裂く痛みか、それとも血を失う苦しみか、あるいはその両方なのか。
ドラゴンは辛そうに目を閉じて体を震わせながら腕に力を入れると、流れ出ていた血をピタリと止めた。
そして疲れきったようにグッタリと地面に体を横たえ、細々と呟く。
「早く飲ませてやるがいい。我の心配など、お前がする必要はなかろう・・・?」
「ああ・・・ありがとうございます・・・感謝しますわ」
私はなんとかそれだけ言うと、踵を返して家へと急いだ。
すでに日は沈み辺りには深い闇が垂れ込めていたが、両手に抱えた一縷の望みがその闇を切り裂いていく。
助かる・・・母が助かる!
頭の中が明るい希望で埋め尽され、私は必死に村に向かって足を早めていた。

私は一体どれくらいの間走り続けていたのだろう。
ハァハァと大きく肩で息をしなければ倒れてしまいそうな程疲れ果てた頃、ようやく森の切れ目が見えてきた。
出てきたときと同じように明かりの消えたままの我が家を視界に捉え、
胸に抱き抱えた水筒を両手でギュッと押さえる。
逸る気持ちを抑えて家の中に飛び込むと、私はランプに火を灯して母の元へと急いだ。
バンッ
まるで蹴り開けるかのような勢いで寝室の扉を開けると、母はベッドの上で穏やかな表情を浮かべたまま眠りについていた。
顔中に浮かべていた玉のような脂汗は跡形もなく消え去り、焼き鏝のように熱かった頬も額も、すでに元のほんのりとした温かさを取り戻している。
「お母様、薬を持ってきましたわ」
だが母は耳元で囁いたはずの私の声がまるで聞こえていないかのように、何の反応も示さなかった。
おもむろにベッドの中へ手を差し入れ、やせ細った母の手を探り出す。
その妙に冷たい手を握るようにして、私はもう1度呼びかけてみた。
「お母様・・・?」
まさか・・・
一瞬脳裏を過ぎった嫌な予感に、思わず持っていた母の手を取り落としてしまう。
支えを失ったその腕が、力なくベッドの横にだらりとぶら下がった。
「ああ・・・そんな・・・お母様!」

安らかな寝顔を浮かべたまま、母はすでに事切れていた。
「う、うぅ・・・うああああああ・・・」
希望とともに握り締めていたはずの水筒が手の中からするりと床へ滑り落ち、ゴトッという乾いた音を立てる。
「どうして・・・どうして皆私を置いていってしまうのですか・・・?折角薬が手に入ったというのに・・・」
母の胸の上に突っ伏すようにして、私は目から溢れ出た涙を押さえることもできずに泣きじゃくった。
なまじ希望があっただけに、母を助けられなかった自分がこの上もなく恨めしい。
どうせ救えぬ命だったのなら、せめて最期の瞬間までそばにいてあげればよかった。
「お母様・・・あうぅ・・・お願い、目を開けて・・・」
父も母も、私の知らない内にいなくなってしまった。
一体誰が、こんな酷い仕打ちを仕組んだというのだろう。
あのドラゴンのせい?・・・いいえ、私が悪いんだわ。
思えば父が出ていった日の前夜、私は村を襲ってきたドラゴンに恐れをなして父に泣きすがったのだ。
あんなことをしなければ、父も決死の覚悟で出て行くことはなかったはず・・・。
そして母は、私を養うために身を粉にして働いてくれた。
過労にその体が弱っていくのも意に介せず、私の幸せだけを願ってくれていた。
それなのに私は・・・
己の愚かさと母を失った悲しみに打ちのめされ、私はずるずると床の上へと崩れ落ちた。
もう、生きていく希望もない。22歳の若さにして、私は癒すことのできない孤独の淵へと叩き落されたのだ。

やがて涙が枯れ、私は生気を失った虚ろな目でフラリと立ち上がると深い紫色の闇に包まれた表へと出た。
涙で濡れた胸に、顔に、冷たい風が痛くしみる。
儚く消えた灯火の傍らには、ついに開けられることのなかった水筒がぽつんと転がっていた。

「ふぅ・・・」
長い長い休息を終え、我はようやく幾分か力を取り戻した。
失った血液を作り出すかのように四肢をうねらせ、傷ついた腕をさする。
相変わらず空腹には苛まれていたものの、娘のくれた水のお陰で渇きの方は大分癒されていた。
あの娘は、無事に母親を救うことができただろうか?
これまで人間のことなど特別気にもとめたことはなかったというのに、
何とはなしに胸騒ぎがするのは何故だろう?
我はフラつく足取りで体を起こすと、洞窟の方に頭を向けた。
まあいい・・・もう我には関係のないことだ。
このまま夜を明かすのはなんとも辛いところだが、獲物が見つからぬのだからしかたがない。

だが気力を振り絞って足を前に出しかけた時、我は背後に何者かの気配を感じた。
一瞬獣か何かが通りかかったのかと思い、勢いよく後ろを振り向く。
「お前は・・・」
だがそこに立っていたのは、先程我の命を救ってくれたあの娘だった。
そして我の顔を見るや否や力なく地面に泣き崩れる。
「う、ううぅ・・・」
「一体どうしたと・・・」
そこまで言いかけて、我は口をつぐんだ。娘の様子を見れば、何があったのかは聞かなくてもわかる。
「そうか・・・間に合わなかったのだな・・・」
我の言葉を肯定するかのように、娘が何度も首を縦に振る。
絶え間なく漏れ出す嗚咽が、娘の声を奪っていた。
半端な希望を持たせてしまったが故に、母親を失った悲しみとショックが何倍にも膨れ上がったのだろう。
一体、我は何をやっているのだ・・・人間を襲うような真似はせぬなどと言っておきながら、我が今までしてきたことは何の罪もない1人の若い娘を深い悲しみと絶望の淵に追いやっただけではないか。
我は娘を怯えさせぬようにゆっくりと歩み寄ると、その小さな体を優しく抱き抱えた。
「済まぬな・・・我がお前にしてやれることは、もうこれだけだ・・・」

巨大な腕に支えられ、私は滑らかな鱗に覆われたドラゴンの胸に顔を埋めて泣き続けた。
「あう・・・あうぅ・・・」
つい数時間前まで、私はドラゴンを父の敵として心の底から憎んでいたはずだった。
なのにこのドラゴンは私の母を救うために弱りきった身で血を流し、
枯れたと思っていた私の涙を受け止めてくれている。
両親という心の支えを失った私を、恐ろしい底無しの闇から引き上げてくれようとしているのだ。
「お前にはもう身寄りはいないのであろう?・・・ならば、我とともに暮らさぬか?」
「・・・え?」
唐突にかけられたその言葉に、私は思わず顔を上げてドラゴンの顔を間近で見つめた。
「人並の暮らしはさせてやれぬかも知れぬ。だが孤独に生きていくことの辛さは、誰よりも知っているつもりだ」
そこまで言うと、ドラゴンは両手で私の体をさらに引き寄せた。
ほんのりと温もりのあるドラゴンの体に包まれ、ささくれ立っていた心の傷が少しずつ癒されていくような気がする。
「今更許してくれなどとは言わぬ。ただ・・・お前の父親を奪ってしまった償いをさせてくれ」
父親という言葉に、私の目から抑えようとしていた大粒の涙がポロリと溢れ出した。
「ええ・・・ええ・・・ありがとう・・・でも、私はもう父のことであなたを恨んでなどおりません」
「・・・本当か?」
「だって、あなたは約束通り村を襲うのをやめてくださったでしょう?父の死は無駄にはならなかったのですわ」

身を寄せ合った娘とドラゴンは、そのまま悲しみに満ちた長い夜が明けるまでずっと抱き合っていた。
彼女は人間としての暮らしを捨て、ドラゴンとともに生きていく道を選んだのだ。
その未来には、今よりもっと辛い事も苦しい事もあるかもしれない。
だが悲しみを乗り越えた彼女のそばにはきっと、決して消える事のない力強い灯火がいつまでも煌煌と燃え続けていることだろう。



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