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ラーゲル クヴィストの雫

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ラーゲルクヴィストの雫


龍が、舞い上がる。
風という踊る舞台を与えられ、地面から舞い上がる木の葉が、
狂ったように私の前をちらつく。
時折、私の眼にめがけてワルツを踊り、
近づいてくる木の葉を訝しそうに手で払う。

龍の翼を広げたその体は、ただ禍々しく私の視界を埋め尽くす。

翼がひとつ羽ばたくたびに、私の体から覇気が削がれていく。
削がれていく覇気を逃すまいと、私はその手に握った木の枝を握りなおした。

私は、がむしゃらに突進する。
もちろん、届かないことは承知の上、
逃げるその背中に一撃を加えられ、犬死するより、
このまま体に開いた傷から血が流れ落ち尽くして、犬死するより、
勇敢に立ち向かって犬死する方が、格好が付く。

死ぬと分かりきれば、どんな事をすることもできるのだ。
翼がひとつ羽ばたく間に、私は十の歩を進める。
間合いが詰まった所で、私はその龍の体に飛び掛った。
精一杯振り下ろした木の枝は、その暗褐色の鱗で簡単に折れた。
私は、空中にいるところを翼で打たれ、そのまま弾き飛ばされた。
地面を転がり衝撃を受け、すくんでしまった体を、龍がその脚で右肩を踏みつける。
仰向けに押さえつけられた私の体に、ゆっくりと体重をかけ、徐々に力を増していく。
きしんで行く私の体が、反射的に悲鳴に近いうめき声を漏らす。
その音を聞いて、龍は、悲しそうな眼をした。

龍は、少し力を抜くと、私に鳴きかけた。
耳に聞き取れない、低く唸る声。
しかし、その唸りは法則的に高さを変え、音を変え、律動を変えている。
龍が私に何か言っている。
「あ、ああ…分からない、…んだ。」
衝撃の蓄積されたその胸を酷使して、私は自分の言語を龍に投げかけた。

その私の唸りを聞いた龍は、突然かがみこみ、顔を私に近づけた。
私は、恐怖で反射的に目を閉じた。
食べられると思ったのだ。
しかし次の瞬間、悲鳴を上げようと大きく開けた私の口が、何かに塞がれた。
このうるさいあごから噛み砕かれるのか。
いや、龍は器用に首を曲げ、私の口と自らの口を重ね合わせただけだった。
開いたままの私の口腔に、龍の舌が入る。
そして、鋭利な舌先を私の舌に絡みつかせる。
龍は、私の舌をそのまま自らの口へと引き込もうと、舌に力を加えた。
私は、それに従うままに行動した。
口をさらに開け、龍の口へ進入しようとした瞬間、
突然、無防備になった私の喉へ何かが流し込まれた。
私は、それを飲み込んでしまった。
それは、炎そのものに違いない。
焼け付いた私の喉が、一瞬にして水分を失う。
二度と声を上げられなくなった私の喉が、
もう出ることの無い悲鳴を上げようと、痙攣した。
痛みに反応した意識は閉鎖され、私はそのまま暗闇に落ちた。


ふと、気が付くと、私は倒れていた。
仰向けに、転がったまま、空を見上げている。
何のことは無い普通の青空に、雲が浮かんでいる。
(あの雲、龍に見えるな。)
そう思った刹那に、私は、痛みを思い出し、喉をかきむしろうと手を伸ばした。
しかし、私の手が触れたのは何の傷も無い喉で、
焼け爛れた肉塊ではなかった。
何度か喉をさすってみたが、異常は見つからなかった。
試しに声を出してみた。
すると、耳に聞き取れない、低く唸る声。
しかし、その唸りは法則的に高さを変え、音を変え、律動を変えている。
(そ、そんな…!)
私の喉から漏れるのは、先程の龍と同じ唸り声だけ。

後ろの方で別の唸り声がした。
法則的に高さを変え、音を変え、律動を変えているその音。
しかし、私にはしっかり意味を拾うことができた。
「あら、お目覚め?」
さすがに、声から察することはできないが、言葉遣いから察して、女性なのだろう。
「お、俺は?」
私が唸ると、
「ごめんなさい。こうするしかなかったの…。」
龍はそう答え、悲しそうに首を振った。
「俺の声は?」
「もう、戻らないわ。」
「そんな。返せ!」
衝撃の残る体を起こそうとしたが、強い痛みで私は倒れこんだ。
「だめよ。あなたのようなか弱い種族が、私とやりあったのよ。
しばらくは動けないわ。」
そして、龍はその手で私の頬をなでながら言った。
「声は…、戻らないわ。だって、雫を飲んでしまったのだもの。」
「し、雫?」
「あなたが気絶する前に私から受け取ったものよ。」
「あ、あの、喉が焼きつく思いがしたものか?」
私の声は、流暢な唸りに変換され外に出る。
「そう、その雫よ。あなたは、もう私たちとしか会話できないわ。
…そして、あなたの半分が私達になる。」

龍が、私の体に開いていたはずの傷を撫でた。
しかし、そこには穴の代わりに龍の皮膚で埋められていた。
「どうなるんだ。俺は…。どうして、こうなるんだ。」
「あなただけには、迷いがあったわ。
あなた以外の仲間は、みんなその欲だけで動いた眼をしていたの。
あなたの仲間が私に攻撃を加えてきたときも、
あなただけは、私に攻撃を仕掛けることがなかった。
ただ悲しそうな眼で立っているだけだった。

私のひと薙ぎで、散ってしまう様なかわいそうな者たち。
あなたまで巻き込んでしまった。
傷を受けたあなたは、私に向かってきたわ。
一本の木の枝を持って。
どうして、その腰につけた剣を使わなかったのか。
それは、あなたの最後の抵抗だったから。
私への抵抗ではなく、この間違った争いへの抵抗。
そして、私の過ちへの抵抗。

どのみち、あなたはこの傷で死ぬはずだった。
あなたが死んでしまうのは、犠牲でしかないわ。
もちろん、あなたにこうなってしまったことを許してもらうつもりは無いわ。
ただ、償いきれない罪の小さな償いをしただけ。」

無抵抗な者を傷つけたという、償いきれない罪。
それならば、私は、もっと大きな罪がある。
ただ、上のものに従うがままに、駆逐を続ける部隊にい続けたという罪。
私の部隊が駆逐した龍たちは、
悲しみを秘めたまま虐殺されたのだろうか。
アリにたかられたカマキリのように、
脚を取られ、腕をむしられ、はらわたを食いちぎられ、
生きたまま、自分がバラバラにされていく。

「ああ、そんな…。
俺、生きている。
もっと大きな罪、持っているのに…。」
そう言った途端、眼から不覚にも涙が出てしまった。
龍は、両手で私の体を抱きかかえた。
鱗に包まれたその体は、意外にも暖かく、
困憊した体は、私の意識を急速に眠りへと誘った。


それは、生物だけが作り出すことができる柔らかな熱。
暖かく包まれた感覚。
ゆっくりと開けた眼に映るのは、夜。
龍は、私を囲むようにうずくまり、目を閉じている。
…眠っているのだろうか。
私は、もう一度目を閉じた。
閉じた眼の裏に、幼かった頃の思い出が再生された。
私が寝る前に、抱きしめ、おやすみを言ってくれた母の暖かさ。
当の昔に亡くなった母を思い出すなんて、自分でも可笑しかった。
今までだって、一度も思い出した事なんか無い。
同じ人間に、遊び半分に殺された一般市民。
龍の暖かさは、私のところどころ凍りついた意識を溶かすには、十分だった。


日の光が、まぶたから進入し、その眩しさで意識を取り戻す。
龍は見当たらない。

衝撃の取れた体は、いつもより調子が良いくらいに回復していた。
それどころか、体に残るはずのあざや傷は、全て消えていた。
しかし、塞がった傷からは、ところどころあの龍と同じ鱗が見えていた。
何の気なしに、私は、めくれ上がった皮膚をつまんでみた。
ペリペリとかさぶたが剥がれるように取れた皮膚の下から鱗が出てきた。

私は、舞い上がるような焦りを感じた。
慌てて顔を触ると、骨格が微妙に変わっている。
そのまま驚いて立ち上がり、とにかく顔を映す物は無いかと、辺りを探した。
そして、立ち止まると、自分の腰につけた剣を引き抜き、
鏡面反射を起こすその刃先に、自分の像を見た。

雑兵用の形ばかりの服を来た龍がそこに立っていた。
ところどころ、人間の皮膚がこびり付いているが、ほとんどは龍の鱗に置き換わっている。
人間の面影の代わりに、尖った鼻面、開いた口には臼歯など無く全て牙。
せいぜい同じなのは、人間としての骨格のみ。
私は、虚脱に襲われ、膝から崩れ落ちた。
どうして、こんなにも絶望として感覚になるのか。

全く意味の無い殺しを平気で行う人間との決別。
しかし、私は喜ぶことなどできない。
どうして、喜ぶことができないのか、自分でも理解しがたかったが、
とにかく、力が抜け、何のやる気も出なくなったのだ。

剣に映した自分の姿を見ながら呆然とする私を、空を飛んでいた龍が見つけた。
慌てたように着陸し、その両手に持っていた木の実や果実を落とすと、私の駆け寄ってきた。
龍は、私に触れようと近づいたが、
震えている私を見ると、ビクリとたじろぎ、そのまま悲しそうに肩を落とした。
「…ごめんなさい。」
龍がポツリと言った。
しばらく経って、私は言った。
「いいさ、人間という種族と決別できたんだから…。」
「でも、でも、心は人間のままよ!体つきだってそうだわ!
それに、それに…、その眼。その…。」
龍は、取り繕うように御託を並べた。
「いいんだ。…何も言わないでくれ。」

私はそういって立ち上がると、私より一回り大きいにもかかわらず、
怯えきって小さく見えるその背中から手を回した。
「…ありがとう。」
私はただ一言そう言った。
それは、私にできる精一杯の償いだった。
龍は、涙を流し、私に向かって頷いた。

私は、地面に落ちたままの果物を拾い上げると、龍に話しかけた。
「これ、食べて良いのか?」
龍は涙をその手で拭き取ると、言った。
「え…、ええ。それは、あなたのために採ってきたものだから。」
私は、手の中でくるくると回したその赤い果物に歯を立てた。

今までの歯とは違うことを忘れて物を噛んだ私は、果物が前歯に刺さったまでは良いが、
そのまま果物を噛み切れず、上あごに果物をぶら下げたまま、龍へ振り向いた。

あまりに滑稽なその姿は、悲しみという揺らぎを吹き飛ばすには十分なものだった。
龍は、可笑しさに耐え切れずおなかを抱えて笑い、今度は別の涙を流した。


私が街に戻る術はもう無い。
しかし、街に戻らなかった所で、私が失うのは自分の家と家具くらいであることに気付いた。
家に置いてきた虎の子のパソコンが気になったぐらいで、
考えれば考えるほど、私と街をつなぐ接点はぼやけていく。

龍が棲むと言われ、忌み嫌われるがの如く放置されてきたこの区画は、
今でも豊かな自然と動物たちが暮らしている。
人間が恐れおののく生物が潜む区画は、こうして自然のままの自然を保っている。
しかし、そう言った脅威が駆逐され、人間の手が加えられるようになった森は、
整備され、人間が見やすく通りやすい人口も森へと置き換えられていった。
遊歩道、テラス、道路、駐車場。
人間が通る道は、清掃車が通り、そのまま寝転べるほどの艶やかなアスファルトで覆われている。
しかし、その道を少しでも外れ、目に付かない所には、ゴミが落ちている。
土産屋でも決して売っていないような都会向けの製品の包み紙やそれ自体が平気で捨てられている。
転がった空き缶やゴミに苦情を言いつけていた家族連れが、
平気で自分たちの居たところにゴミ袋を残していく。
そんな馬鹿馬鹿しい光景を、私は目撃するたびに、
そんな家族連れに対して、そしてその行為を止められない自分に対して、嫌悪感を抱いていた。
胸の中に刺々しい何かが潜んでいて、私の内面を傷つけ、内側から腐らせていく。

そのうちに、私の意識が凍りつき始めた。
母を忘れ、父を忘れ、良心を忘れ、希望を忘れた。
代わりに、小さい頃、悪いことと教わってきた行為を行うことに対して鈍感になって行った。
とにかく、傷つきたくなかっただけなのかもしれない。
自分から何かを考えれば、それは、全て自己責任において始末をしなければならない。
しかし、他人や社会任せにしていれば、責任が私に回って来ることは稀だ。

そんな私だから、兵役に嫌とも言わず徴兵され、こうしてドラゴン駆逐に参加したのだ。
決して加害者にならない龍を、平気で被害者にする人間。
その神々しい力の塊りであるような姿を、逆に悪魔に見立てる人間達。
逆に、その禍々しい力の塊りであるような姿を、神の使いに見立てる人間達。
どちらにせよ、己の欲がささやくままに行動している点では同じこと。
ただ、そうすることが自分のプラスになるから働いていること。

私は、流されるままに悪魔に見立て駆逐する側にいたということだけ。
そんな私が、こうして「悪魔」であるはずの龍に助けられ、
その上、自身がドラゴン化してしまった。
運命というものは、どうしてこうも捻くれているのだろうか。

平和にぼやけきった空は、青を抱きながらその広大な懐で、
音も無くゆっくりと飛ぶ雲と鳥を抱いている。
そんな空に時折、銀色に輝く鉄の塊りが横切っていく。
ノイズを撒き散らし、燃やし尽くせなかった廃棄物を空に撒き散らしながら…。
ついこの前まで、私の隣で寝息を立てている龍を駆逐するために乗ってきた飛行機。

飛行機の立てるノイズが気になったのか、龍が首をもたげた。
空をしばらく凝視して、音の正体を確かめている。
ふと、私に見つめられていることに気付いた龍が、
私に向き直ると、淋しそうに笑顔を見せた。
「かつては、あの飛行機のように堂々と空を舞っていたドラゴンも、
今では、こうして護るべきものを護るために、地面に縛り付けられている。
ある龍は、険しい山岳地帯、またある龍は、海の孤島。
また、ある龍はこうして森を守っている。
人間は、何を護っていると言うのだろうか。
己の地位、名誉、財産のみでは無いか。」
私は、既に完全にドラゴン化した手を強く握り締めながら言った。
「俺の指は5本、ドラゴンの指は4本。
俺は、やはり人間なのだ。
ドラゴンにも、人間にもつけない存在になってしまった。
俺は、どうしたら良い?」
手を見つめたままの私を、龍はゆっくりと抱き寄せた。
「ごめんなさい、在り来たりの言葉しか返せなくて…。
でも、あなたは、あなたよ。
あなたがしたいことをすればいいわ。
今のあなたなら、私以上になんだってできるんですもの。」
龍が私の型に首を下ろした。
無意識的に、私も龍に手を回した。
「そういえば、まだ、名前を聞いていなかったな…。」
私は、変な恥ずかしさを覚えて、慌てて話題を変えた。
お辞儀をしながら、名前を述べる。
「私の名前は、クヴィスト。」
「クヴィスト?」
「そう、祖父が考えてくれたそうだ。」
龍も、真似して首を下げ、お辞儀をしながら言った。
「私の名前は、ドラゴンだーよ。」
「え、ドラゴンだー?」
私は、呆気にとられた。
「違うの?」
龍は、首を傾げて言った。
「違うの、と聞かれても…。」
「だって、私を見るたびにあなたたちが
ドラゴンだ~、ドラゴンだ~、って騒ぐじゃない?」
「いや、でも、それは種族名であって、俺が聞いているのは、君の名前。」
「あら、ドラゴンだーは種族名だったの。
そうねぇ、生まれてからずっと名前なんて考えたことも無かったわ。」
「名前が無いと不便なのでは?」
「そんなこと無いわ。動物たちだって名前が無いもの。
人間だけよ、名前という個体を識別するようなものを付けるのは…。」
「う、じゃあ、俺は君をなんて呼べば?」
「ドラゴンだーでいいじゃない。」
「それじゃ、しっくり来ない。」
龍は、ふっと鼻を鳴らした。
「じゃあ、あなたが好きに呼べばいいじゃない。
私、名前があるのって素敵だと思うわ。
でも、自分に自分で名前をつけるのって、何か違うなって思ってた所なの。」
私は、真剣に悩みこんでしまった。
今まで、名前をつけたものといったら、自分で自分に付けたハンドルネームと、
飼っているペットの名前くらいなものだ。
どちらにせよ、ピンと来た名前をなんとなくつけただけだったので、
簡単に名前をつけることができた。
しかし、隣にいる龍に名前をつけるとなると話は別だ。
龍は、ちゃんと自我がある。
下手な名前は付けられない。

「どう、決まった?」
待ちきれなくなった龍が、隣で悩んでいる私に聞いた。
「ま、待って、難しすぎる。」
「あら、どうして?
名前って、フィーリングでつけるものじゃないのかしら。
それとも、あなたは、私に何も感じなかったの?」
「う、いや…。」
龍に逢い、感じたもの。
…母の暖かさ。
「ラーゲル…。」
それは、亡くなった母の名だった。
「ラーゲル。何なのかしら、それは?」
「え、それはだな。」
まさか、私の母の名だ、などと言うわけには行かない。
「…彗星の名だ。」
慌ててそう取り繕った。
「彗星の名を私に?
いいわね、素敵だわ。
…ラーゲル。」
龍は、そういって自らの名を呟き、私に微笑みかけた。
「クヴィストとラーゲル。」
ドラゴンことラーゲルは、私と自分を交互に指さしながら、名を繰り返し、また微笑んだ。

「それで、話があるんだ、…ラーゲル。」
「なあに?クヴィスト、ふふふ。」
うれしそうな声だ。
「俺は、ここにいてもいいのだろうか?」
「あら、どうしてそんなこと聞くの?」
ラーゲルは、不思議そうに目を瞬かせた。
「いや、俺のような劣等種族がこうしてラーゲルのいる森を汚していいのだろうかって思ったんだ。」
ラーゲルは、怪訝な眼でこちらを見た。
「そんなこと言うなんて良く無いわ。
私達にとって人間は劣等種族かもしれないけど、
自分で、自分を非難するのは、もっと劣等な者がすることだと思うの。
私がそう思っていたとしても、ちゃんと自分には誇りを持たなくてはいけないわ。
だってこの世に、本当は優だの劣だのなんて、存在しないのだから。
ただ勝手に私たちが決め付けているだけ…そう思っているだけよ。」
ラーゲルが、私の肩にポンと、手を置きながら言った。
「それに、私にこの森についてどうこう言う権利は無いわ。
だって、私はこの森を護っているだけなんですもの。
いいわ、私がこの森の長たちに聞いてあげる。」
ラーゲルは、そう言うと、私を残して飛び去った。
…ああそうか、私には羽も無いんだ。
(ラーゲルは、守護者であって、この森の長ではない?
この森にもっと強いものが…?)

しばらく経ってラーゲルが帰ってきた。
「みんなもうすぐ来るそうよ。
やっぱり、眼で見て確かめないと決められないって。」
「…みんな?」
長は一人だけではないのか?
考え込む私の耳に、無数の足音と羽音が聞こえてきた。
…現れたのは、森の動物たち、おそらく全てではないかという大群だった。
しばらく、その大群の無数の目に凝視され、
私はどぎまぎしたまま時間を過ごした。
その仲の一匹の熊が何かうめいた。
「お前は何ができる?ですって。」
ラーゲルが通訳した。
「何ができるといわれても…。
まぁ、人並みに…いろいろ。」
ラーゲルは、熊に何か話した後、私に耳打ちした。
「人間のできることなら、何でもできるって言っといたわ。」
私がそれは困るという顔をしたらしく、ラーゲルは笑っていた。
今度は、小リスが何か言った。
ねずみのようなチュッチュという声しか聞こえなかったが、
「お前は、俺たちを食べるのか?…だそうよ。」
私が何か言わないうちに、ラーゲルが小リスに言葉を返した。
「食べるかもしれないけど、それは、熊さんと同じでしょって言っておいたわ。
それに、よほどのことが無い限りは、あなたたちと同じ木の実を食べるってね。」
私が小リスに振り向くと、小リスは実に堂々としたものだった。
私に食べられるかもしれないと分かっても、特に問題は無いようだった。

しばらく、また凝視された後、
大群の中の一匹が何か声をあげた。
それは、私に問いかけるものではなく、大群に語りかけたようだった。
大群は、それに呼応するようにいっせいに声を上げた。
「みんな、信用できないですって…。」
…当たり前のことだった。
私は、人間なのだから…。
「でも、私とあなたの顔つきに免じて仮に住ませて上げるって…。」
パッと顔を上げた私の眼には、大群の柔らかな優しい眼が映った。
これだけ人間にむごいことをされても許容する優しさ。
種族を恨まず、個を恨む。
…私にできる限りのことをしよう。
私は、止まらない涙を抑えるため、両手で顔を覆いながらそう思った。




ある日、森の中が騒がしくなった。
人間たちが、この森に侵入してきたというのだ。
早く隠れようとラーゲルに言うと、
「待って、何かおかしいわ。
人間たちが、こことは、全く別の場所へ行こうとしているらしいの。
罠かもしれない、下手に動くのは危険よ。」

しばらくして、大きな黒い塊り2つが森から出て行ったと、動物たちから報告を受ける。
「どうやら、目的は私たちではなかったようね。」
ラーゲルは、そう言うと寝息を立てた。
半分起きたまま眠る。
それが、ラーゲルの睡眠だった。
私は、眠るか起きるか片一方のことしかできない。
見張りはラーゲルに任せて、私は完全な眠りへと落ちた。

しばらくして、ラーゲルは小さなノイズが聞こえることに気付いた。
動物たちが言うには、人間が一人黒い塊りにのってこちらに向かっているということだ。
それなら逆に、動く方が危ない。
位置を特定された上逃げられれば、今度こそ大群でやってくるだろう。
それに、ラーゲルは、自分の懐で寝息を立てている龍人をそんなことで起こしたくなかった。

ラーゲルの耳に、人間の言葉が入る。
意味は聞き取れないが、クヴィストの名を呼んでいる。
敵意を感じられない人間。
ラーゲルは、このまま様子を見ることにした。

しばらくして、人間がラーゲルの姿を見つける。
ラーゲルは、人間に向かって眼差しを向ける。
首をもたげた拍子に、クヴィストが起きてしまった。
人間を見たクヴィストが驚いている。
「ク、クヴィスト…?」
人間の呼びかけにクヴィストが頷いた。
人間が何か言った後、クヴィストに飛びかかろうとした。
いや、抱きしめている。
クヴィストは、出せないはずの人間の言葉を口にし、その人間に手紙を渡した。

人間は、手紙を握ったまま震えている。
薄々、茂みからこちらに近づく、人間の存在には気付いていたがラーゲルは、
二人の言葉の意味を何とか全て聞き取ろうとしていたので、その人間の次の行動が読めなかった。

次の瞬間、その人間が、クヴィスト目掛けて飛び掛った。
その顔は、ドラゴン化する前のクヴィストに似ていた。
ラーゲルが、その人間を弾き飛ばそうとするより早く、人間がクヴィストをかばった。
何か口にした人間は、そのまま事切れた。
人間を刺した人間は、悲鳴に近い声をあげ血に染まる人間に近寄った。
クヴィストが泣きじゃくる人間に近づく。
この裁量は、クヴィストに任せるべきなのだろう。
クヴィストは、人間の肩を叩き、首を横に振った。
そのまま、立ち去ったので、ラーゲルもその後に続いた。


歩きながら、先に口を割ったのはクヴィストだった。
「あれが誰かって聞きたいんだろう?」
「ええ、まぁ。でも、触れられたく無いなら無理にとは言わないわ。」
うつむいたまま、クヴィストが答えた。
「俺の、親父さ。軍に自分から志願して、子供にろくに会いもしなかったような奴だった。
でも違ったよ、会いたくなかったんじゃなくて、会えなかったんだなって…。」
クヴィストは目をこすった。
「ラーゲルと一緒にいると、俺のいろんな凍っていた思い出を思いだすんだ。
父さんだって、たまに帰ってきたことがあったんだ。
そんなときは、飛び切りの笑顔で俺の相手をしてくれていたのに。
そんな思い出まで凍りつかせて生きていたんだな、俺…。」

「でも、いいの?あの人間…。」
「帽子を取って、首元を差し出した。
そこまでされて、その首を手に掛けることができるものなどこの世にいるのだろうか。」

最後に、自分が愛されていたのだということを思い出したにも関らず、
唯一だった肉親は、目の前で失われてしまった。


時が過ぎても、あの人間は時折同じ場所に来ては、花を置いていった。
ある日、人間が石を背負い込んでこの場所に来た。
それから、人間は、3日ほどかけて不思議な石の物体を作り上げていった。
「あれは、なんなの?」
ラーゲルが聞く。
「あれは、墓だよ。
弔っているつもりなのだろうか。」
「あなたのお父さんの?」
クヴィストは頷くと、それ以上何も言わず、その場を立ち去った。

クヴィストは、それからもずっと、あの自分そっくりな人間が此処に来て、
父に花を手向けている姿を見た。
時折、人間がクヴィストがいることに気付く。
人間は、現れるたびに少しづつ年老いていった。

既に老化から開放されてしまったことにクヴィストは気付く。


あの人間が、この森の権利を買い取り、
手付かずのまま保存しようと骨を折っていたことを知ったのは、
あの人間が来なくなって、
それからずっと後のことだった。




広大な砂漠。
そんな砂漠の真ん中に小さなオアシスがある。

オアシスの岩陰から人影が覗く。
日が落ちてから、その人影は活動を開始し、オアシスを開墾し始めた。
ラーゲルという名の龍が最後に落とした涙の雫は、そこに草木を芽吹かせた。
「ラーゲル、俺は、いつまで生きるんだろうか。
どうして、何も口にしなくてもこうも動けるのだろうか。
ラーゲル、私が口にした雫は、もしかして、お前の命そのものだったのか?」

あの人間が来なくなった。
クヴィストも、それには薄々気づいていた。
最後に来た時の、あの人間の歳具合を思い出せば、
来たくても来れない事は容易に想像が付いた。
あの人間に会うことが習慣のひとつになっていたクヴィストは、
もう、話す人間が一人もいなくなってしまった。
ラーゲルと暮らす日々は、平穏で刺激が無かった。
もちろん、彼女と共に暮らす日々に文句などあるはずが無い。
ただ、自分が人間との接点を完全に失ったことに、焦りに近いものを覚えていたのだった。

人間が来なくなった日々が、日常という言葉に埋め尽くされ始めたある日、
森に人間がやってきたのだった。
森は切り取られ、少しづつその広大な地を失っていった。
妨害しに行こうとしたクヴィストをラーゲルが止めた。
「ごめんなさい、あなたを危険にさらすことはできないわ。」
「でも、森が…!」
ラーゲルが、クヴィストを掴む手に力を込めた。
「私にはもう森を護る本当の力は無いの…。」
「でも…。放っておけないじゃないか。」
ラーゲルは、何も言わず首を横に振った。しかし、クヴィストを掴むその手を決して離さなかった。

森を切り取った祟りが無いことに気付いた人間は、森を急速に侵食し始めた。
10年も立たない間に、その広大な森はその役割を終えた。
隠れ住めなくなたと悟ったラーゲルは、クヴィストを背中に乗せると、羽ばたいた。
「ドラゴンだ!ドラゴンがまだいたぞ!」
森を侵食した鉄の塊りから人間が叫ぶ。
ドラゴンは、そんな人間たちの上を低く飛び、最後に風を起こし、
鉄の塊りをすべてなぎ倒して飛び去った。


「クヴィスト、大丈夫?」
息を切らしながら苦しそうに、ラーゲルが背中に乗っているクヴィストに聞いた。
「ラーゲル、一体いつまで飛ぶんだい?
もう、君だって疲れ果てているじゃないか!」
クヴィストが叫んだ。
「もうすぐよ…。あなたが安全に暮らせる場所が見つかるまで…。」

一体、いくつの夜を迎えたのだろうか。
ラーゲルの飛ぶ速さは、日の暮れを追いかけ、夜を振り切り、世界を幾たびも回った。
クヴィストは、自分がどれだけの時を過ごしたのか全く分からなくなった。
ただいえることは、自分がそうしている間にもラーゲルは、飛び続けているということだけだった。
「ラーゲル!もういい、降りよう。
安全な場所なんてこの世界にはもう無いんだ!」
クヴィストがそう叫んでも、ラーゲルは決してその羽を休めようとしなかった。


クヴィストは、自分が地面に叩きつけられる衝撃を感じて、意識を取り戻した。
どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
ラーゲルが飛んでいる間は、せめて励まし続けようと、止めさせようとあれだけ決心したというのに…。
ふらつく意識を乱暴に呼び起こす。
軽いめまいを覚えたが、ラーゲルが倒れているのを見て、いっきに吹き飛んだ。
「ラーゲルっ!」
ありったけの声で叫び、駆け寄った。
「ラーゲル…?」
その体を揺する。
しかし、ラーゲルは苦しそうに目をつぶったまま動かない。
「ああ、ラーゲル、そんな…。」
ラーゲルの頭を撫でる。
何度も何度も撫でているうちに、自然に涙が出た。
グスグスと音を立てていると、ラーゲルが目をつぶったまま声を出した。
「ああ…、クヴィスト。泣いちゃ、駄目じゃない…。」
クヴィストは、叫んだ。
「ラーゲルがこんなことするから!
どうして、そんなになるまで…。」
ラーゲルがクヴィストの背中に手を回した。
「だって、私は誓ったのだもの。あなたを護るって…。」
「ばか…。そんなことのために…。」
ラーゲルが強くクヴィストを引いた。
クヴィストの口をラーゲルが奪う。
龍同士の口はうまく合わず、互いの口をくわえ込むかのように首を曲げ、
その舌の感触を確かめた。
喉の奥に、焼け付くような感触を覚えた。
それは、かつてクヴィストがラーゲルに助けられたときに感じたあの感触と同じものだった。

「私達は、キスはしないわ…。だって、うまくできないもの…。」
口を離し、ラーゲルがそう言った。
「じゃあ、何で…。」
クヴィストが聞く。
「あなたに、渡したいものがあったから…。
あなたを護りたかったから、
そして、あなたが好きだったから。
私達に無い、人間たちの素敵な愛の表現…。」
そういうと、ラーゲルは何も言わなくなった。
「ラーゲル?」
ラーゲルは微動だにしない。

クヴィストの心がラーゲルの死を認識する。
その現実から逃れようとするかのように、
白く何も無い空間へと意識が飛んでいく。
焦点の定まらないクヴィストの目の前で、
ラーゲルの体は、徐々に石化し、そして岩になった。
「ラーゲル、愛していたのに…。」
かすれるように、クヴィストが呟いた。
その瞬間、ラーゲルの眼から、一粒の涙が流れた。


オアシスの岩陰から人影が覗く。
日が落ちてから、その人影は活動を開始し、オアシスを開墾し始めた。
ラーゲルという名の龍が最後に落とした涙の雫は、そこに草木を芽吹かせた。
「ラーゲル、俺は、いつまで生きるんだろうか。
どうして、何も口にしなくてもこうも動けるのだろうか。
ラーゲル、私が口にした雫は、もしかして、お前の命そのものだったのか?」

私は、雫を二度も授かってしまった。
本来、龍は無限の生命を持つといわれる。
無限の半分も無限。
ラーゲルは、しかしその命を絶った。
この世界には、もう純粋な龍が暮らす場所が無い事を、
空を飛んでいるうちに気付いてしまったのだろう。

龍でも人でもない私ならば、ラーゲルができなかったことをやることができる。

ラーゲルから芽吹いた草木は、砂漠を肥やし、人間が生み出した毒を癒し、
少しづつ本来の土に砂漠を浄化させていく。

「龍は、護るべき場所を護る生き物なの。」
人間がそう語り継ぐ。
ラーゲルは、最後に護ったのだ。
それは、ラーゲルがクヴィストと会った場所。

ラーゲルが飛び立ち、地上ではどれだけの歳月が流れたのか。
その間に、人間は戦争を起こし、
ラーゲルと言う名の龍が守り抜いたその地さえ、兵器と言う闇で染め抜いてしまっていたのだ。
それは、世界全てを埋め尽くす闇がついでに巻き込んだにすぎなかった。
その光景をラーゲルは見たのだ。


クヴィストと呼ばれる龍人が住む森。
人間が作り出した闇をその懐に抱く森は、
かつて、ラーゲルと呼ばれた龍が護っていた地。
生き物がいなくなってしまったこの世界で、クヴィストはただこの森を護っている。

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