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**「放送禁止歌」 ■時 2007年??月??日 ■場所 民俗学研究会部室 ■利用図書 『放送禁止歌』 森達也 知恵の森 ■参加者 サトミ、原口勇希、マエノソノ ■感想文 以下参照 **感想文 ■原口勇希 &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99" ><tr><th>題:感想</th><tr><td><font size=2> 歌とか演劇とか映画とか小説とか表現行為と呼ばれるものはそれが人前にさらされて初めて成り立つもので、それが断たれるということは本書にもありましたが、「誕生間もない子供を殺されたようなもの」だろうし、いきなりそういうところにまで判断が及ぶというのが驚きと言っても今さらですが、しかしそうしてしまうとあらゆる表現の角がとれて丸くなってしまって面白くなくなるまでにはならないかもしれませんが、味気ない感じになってしまうのは否めないかなとも思ってしまいます。でも放送禁止になるほどの表現ってあまたある表現行為のなかでもよっぽどのもので、それがよっぽどのものとされるのはタブーに抵触していたり、いわゆる公序良俗に反していたりするからなのでしょうが、だったら故意にそうしようとするのも表現でしょうが、それだけでないのも表現の魅力で今回取り上げられた本に載っている歌詞にしても、いたずらにタブーに抵触しようというのではなくて、それを上回る何かがあると感じられるし、それが本当に表現したいものなのかもしれません。</font><br><font size=2> つまるところ、表現する人とそれを受けとる人という図式が頭から離れないのですが、今回の読書会で話し合ってみたいことで、表現行為(ここでは報道とかジャーナリズムは除いて)は受け手に委ねられると言われることが多いように思われるのですが、本当に委ねられているのでしょうか。またその逆も気になるところです。</font><br><font size=2> どんな表現行為でも魅力的に映るためには、ありがちなものではなくて珍しいもの、難しいことを成し遂げたものに拍手が送られるのだとどこかで聞きました。放送禁止歌になってしまった歌を作った人たちがそれを目指したと言い切ってしまうのは分かり易すぎて、本書に書かれていることを顧みるにそれが、いかに複雑な問題を孕むのかを忘れてしまいそうなのですが、読んでいる最中、読み終わったあとにもそれが気になっていました。</font></td></tr></table>) ■サトミ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:「放送禁止歌」</th><tr><td><font size=2> 私達の周囲には様々な歌が溢れています。CDショップではもちろん、商店街やスーパーの中でも耳にしますし、CD・MDウォークマンやiPodを持ち歩いて音楽を聴くこともできます。そして今、この感想を書きながら私も好きな音楽を聴いています。(ちょっと集中しにくいですが。)歌はこんなに身近なものであるにもかかわらず、今回のテーマ「放送禁止歌」について、私はあまり知識がありません。放送禁止歌の存在くらいは知っていましたが、ちゃんと聴いたこともなければ、放送禁止となった背景もしりませんでした。</font><br><font size=2> 「放送禁止歌」全体の感想とはすこし話がずれるのですが、作品の中に出てきた「ヨイトマケの唄」を父親が昔、聞いていたことを思い出しました。当時の私は「そんな古臭そうな歌・・・」と聞きもしませんでしたが、父親はしみじみと聞いていたように思います。この歌が放送禁止となった原因は『土方』という言葉が差別用語であるからだそうですが、私の父を見る限りでは、そのような言葉一つ一つを気にしているようには見えませんでした。</font><br><font size="2"> 放送禁止歌において差別用語(と思われる言葉)や部落問題、性表現など規制される原因は様々です。いくつかの歌の歌詞を見て「これはちょっとやりすぎなのでは・・・」と思うこともありました。けれども、これらの歌は放送禁止歌となったことで、より内容が強調されたのではないかと思うのです。特にそう思うのは部落に関する歌です。私は部落問題に詳しくないので大きなことは言えないだろうし、述べる内容も正しいのかどうか分かりませんが、こういった歌を放送禁止にすることによって、部落問題から目を背けているようにも考えられるのではないかと思います。また、「放送禁止となる→なぜ?→部落に関する歌だから」といった一連の流れは、時には悪い影響を与えたりするのではいか?とも。たとえば、より差別を生むことになるとか。それならば、もともとこういう内容の歌を作ったりしなければよいだとか、やはりメディアでは流すべきではないという意見が出るのでしょうけれど、私は何もしらないより知る方がいいと考える人間なので、放送禁止としたことに疑問を感じてしまったのかもしれなません。他の人はどう思うのでしょう?</font><br><br><font size="2"> 最後に。今回この本を読んで、私がふだん聞いている歌の歌詞を見ていると不思議な感じがします。規制される言葉遣いなどが以前と変わっていないのであれば、今、私が耳にしている歌の歌詞は、実はとても無難でつまらないものなんじゃないかと思ったりするからです。大衆に受け入れられるには大事なことかもしれませんが。<br><font size="2">でも、歌というものは伝えたいこと(個人の思い・考え・内面など)を自由に表現するものだと思います。著しく不快な歌は遠慮したいのですが、放送する側のみが「聞かせるか・聞かせないか」を決定するのは、聞く側の私達からいろんな可能性を奪っているように感じられます。</font></td></tr></table>) #comment(size=40,vsize=16,nsize=10) &counter()
&html(<font size=5>「放送禁止歌」</font>) ■時 2007年??月??日 ■場所 民俗学研究会部室 ■利用図書 『放送禁止歌』 森達也 知恵の森 ■参加者 サトミ、原口勇希、マエノソノ ■感想文 以下参照 ■原口勇希 &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99" ><tr><th>題:感想</th><tr><td><font size=2> 歌とか演劇とか映画とか小説とか表現行為と呼ばれるものはそれが人前にさらされて初めて成り立つもので、それが断たれるということは本書にもありましたが、「誕生間もない子供を殺されたようなもの」だろうし、いきなりそういうところにまで判断が及ぶというのが驚きと言っても今さらですが、しかしそうしてしまうとあらゆる表現の角がとれて丸くなってしまって面白くなくなるまでにはならないかもしれませんが、味気ない感じになってしまうのは否めないかなとも思ってしまいます。でも放送禁止になるほどの表現ってあまたある表現行為のなかでもよっぽどのもので、それがよっぽどのものとされるのはタブーに抵触していたり、いわゆる公序良俗に反していたりするからなのでしょうが、だったら故意にそうしようとするのも表現でしょうが、それだけでないのも表現の魅力で今回取り上げられた本に載っている歌詞にしても、いたずらにタブーに抵触しようというのではなくて、それを上回る何かがあると感じられるし、それが本当に表現したいものなのかもしれません。</font><br><font size=2> つまるところ、表現する人とそれを受けとる人という図式が頭から離れないのですが、今回の読書会で話し合ってみたいことで、表現行為(ここでは報道とかジャーナリズムは除いて)は受け手に委ねられると言われることが多いように思われるのですが、本当に委ねられているのでしょうか。またその逆も気になるところです。</font><br><font size=2> どんな表現行為でも魅力的に映るためには、ありがちなものではなくて珍しいもの、難しいことを成し遂げたものに拍手が送られるのだとどこかで聞きました。放送禁止歌になってしまった歌を作った人たちがそれを目指したと言い切ってしまうのは分かり易すぎて、本書に書かれていることを顧みるにそれが、いかに複雑な問題を孕むのかを忘れてしまいそうなのですが、読んでいる最中、読み終わったあとにもそれが気になっていました。</font></td></tr></table>) ■サトミ &html(<table border="0" bgcolor="#ffcc99"><tr><th>題:「放送禁止歌」</th><tr><td><font size=2> 私達の周囲には様々な歌が溢れています。CDショップではもちろん、商店街やスーパーの中でも耳にしますし、CD・MDウォークマンやiPodを持ち歩いて音楽を聴くこともできます。そして今、この感想を書きながら私も好きな音楽を聴いています。(ちょっと集中しにくいですが。)歌はこんなに身近なものであるにもかかわらず、今回のテーマ「放送禁止歌」について、私はあまり知識がありません。放送禁止歌の存在くらいは知っていましたが、ちゃんと聴いたこともなければ、放送禁止となった背景もしりませんでした。</font><br><font size=2> 「放送禁止歌」全体の感想とはすこし話がずれるのですが、作品の中に出てきた「ヨイトマケの唄」を父親が昔、聞いていたことを思い出しました。当時の私は「そんな古臭そうな歌・・・」と聞きもしませんでしたが、父親はしみじみと聞いていたように思います。この歌が放送禁止となった原因は『土方』という言葉が差別用語であるからだそうですが、私の父を見る限りでは、そのような言葉一つ一つを気にしているようには見えませんでした。</font><br><font size="2"> 放送禁止歌において差別用語(と思われる言葉)や部落問題、性表現など規制される原因は様々です。いくつかの歌の歌詞を見て「これはちょっとやりすぎなのでは・・・」と思うこともありました。けれども、これらの歌は放送禁止歌となったことで、より内容が強調されたのではないかと思うのです。特にそう思うのは部落に関する歌です。私は部落問題に詳しくないので大きなことは言えないだろうし、述べる内容も正しいのかどうか分かりませんが、こういった歌を放送禁止にすることによって、部落問題から目を背けているようにも考えられるのではないかと思います。また、「放送禁止となる→なぜ?→部落に関する歌だから」といった一連の流れは、時には悪い影響を与えたりするのではいか?とも。たとえば、より差別を生むことになるとか。それならば、もともとこういう内容の歌を作ったりしなければよいだとか、やはりメディアでは流すべきではないという意見が出るのでしょうけれど、私は何もしらないより知る方がいいと考える人間なので、放送禁止としたことに疑問を感じてしまったのかもしれなません。他の人はどう思うのでしょう?</font><br><br><font size="2"> 最後に。今回この本を読んで、私がふだん聞いている歌の歌詞を見ていると不思議な感じがします。規制される言葉遣いなどが以前と変わっていないのであれば、今、私が耳にしている歌の歌詞は、実はとても無難でつまらないものなんじゃないかと思ったりするからです。大衆に受け入れられるには大事なことかもしれませんが。<br><font size="2">でも、歌というものは伝えたいこと(個人の思い・考え・内面など)を自由に表現するものだと思います。著しく不快な歌は遠慮したいのですが、放送する側のみが「聞かせるか・聞かせないか」を決定するのは、聞く側の私達からいろんな可能性を奪っているように感じられます。</font></td></tr></table>) #comment(size=40,vsize=16,nsize=10) &counter()

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