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水佐波市の外れには一軒の古書店が存在する。
狭い店内には至る所に書物が天井近くまで積み上げられ、足の踏み場もなく、
その奥には煙管を咥えた甚平姿の男が暇そうな顔で店の本の頁を繰っているという。
六、七十年前から時間が止まったかのようなその古書店に、客が訪れることは殆どない。
何せその店に足を踏み入れるには“結界”を越えなければならないのだから――



「んー……」

まだ正午を回ったばかりだというのに薄暗い店内の一番奥で、
古書店の主人、蔵馬鉄人は新聞をめくっていた。

『早くも猛暑到来? 市内各所で今年最高気温を記録 熱中症に注意を』
『地デジ完全移行 対応テレビ求め列 市内の家電量販店は軒並み在庫切れ』
『市内の動物園で飼育されていたライオン(六歳 オス)が急死 遺体は専門家の元に搬送』
『台風6号 来週にも最接近 気象庁が発表』

地域欄にざっと目を通す。見たところ、これといって目に付く記事はない。
水佐波市は今日も平穏だ。……少なくとも、表向きは。

「まだ“事”は始まっていないのか、それとも……」
「鉄にぃいいいいいい!!」

突如、かび臭い店内に甲高い叫びが響き渡った。
鉄人は新聞紙を机に置く。その向こうにいたのは……

「……な、夏海!? お前学校はどうしたんだ!?」
「それどころじゃないんだよ!」

高坂夏海。額から汗を流し、呼吸を荒らげた彼女がそこに立っていた。
そしてその後ろに、

「ちょっ……そんなに強く引っ張らないでください!」

もう一人、夏海と同じ制服を着た少女がいた。
彼女も肩で息をしながら、困惑した表情で夏海と鉄人を見ている。

「突然こんな所に連れてきて……一体何のつもりなの? 夏海」
「えーと、話すと長くなるんだけど、この人は蔵馬鉄人って言ってあたしの親戚のお兄さんなの。鉄にぃ、この子はあたしの友だちの志那都みこと」

志那都みこと。その名は鉄人も何度か夏海から聞いた覚えがあった。
志那都家の一人娘。都市開発企業の役員を両親に持つお嬢様。
最近彼氏が出来たせいで遊んでくれないとかなんとか……

「その子が一体どうしたって言うんだ? そもそも此処にはあまり他人を連れてくるなと前にも……」
「これ見て! これ!」

夏海が強引にみことの制服の袖を捲り上げる。
顕になる白い二の腕。そしてその上にくっきりと浮かび上がった文様に鉄人は目を見開いた。

「これってさ、やっぱアレだよね……」
「あ、ああ間違いない……」
「……あなたたちさっきから何を言ってるんですの?」

みことが怪訝な表情を夏海と鉄人に向け、二人は顔を合わせて眉を顰める。

「何て説明したらいいんだろうな……みこと君、と言ったね?」

鉄人が頭を掻きながらみことに向けて言った。

「君は選ばれてしまったんだ――この、聖杯戦争の“マスター”に」



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「……………………というわけなんだ」
「というわけなんだよ、みこと」
「というわけなんだ、と言われましても……」

聖杯戦争。
その概要を説明されても、みことの頭には困惑しか浮かんでこなかった。
一体どう受け止めろというのだ? 遥か昔に死んだ英雄の魂を現世に召喚して闘わせる……そんな儀式がおこなわれているなどと言われて。

「信じられないのも無理はない。けど君の腕に現れた文様を見る限り間違いない。
 それは令呪と言って、聖杯戦争の参加者に選ばれた証であり、それを使えば召喚した英霊……サーヴァントのあらゆる行動を律することが出来る絶対命令権でもある。
 夏海もそうだったが、君も何かの偶然でサーヴァントを召喚してしまったのかもしれない」
「それは……はい、心当たりは」

みことは昨晩のことを思い出す。
祭殿で祈りを捧げていた自分の前に、雷光と共に現れた何者かの姿を。
やっぱりあれは……夢ではなかったのだ。


「……でも、わたくしの前に現れた者は、すぐにどこかに行ってしまいましたけど」
「じゃあみことはサーヴァントとちゃんと契約してないってこと?」
「契約? 何ですの、それは?」

みことは首を傾げ、夏海と鉄人は不穏な表情を浮かべる。

「通常なら呼び出されたサーヴァントが召喚者を確認して契約を締結させるはずなんだが……
 陣も呪文もなしで強引に召喚したせいでサーヴァントの記憶に不備が出たのかもしれない。
 或いは、運悪く精神の錯乱した英霊を呼び出してしまったという可能性もあるが」
「はぁ……」

鉄人の言葉に、みことは溜め息の混じった返事をかえす。
いまいち要領を得ない話しだが、何にせよ自分がおかしな事態に巻き込まれたことは間違いないらしい。
はぁ、とみことはもう一度深々と溜め息をついた。
どうして自分なんかが……しかもよりによって“こんな時”に……

「一体、誰が何のために、そんな訳の分からないことを始めたと言うんですの……?」
「主催者が何者なのかは現時点では分からない。だが目的は間違いなく聖杯の入手だろう」
「聖杯……ですか」
「そう、聖杯を手に入れて己の願いを叶えること。聖杯戦争はそのための儀式なんだ。他にはないだろう」

聖杯。その言葉にみことは心の中で苦笑する。
これではまるでおとぎ話の世界ではないか。
聖杯を手に入れて、己の願いを叶えるだなんて――

「……願い……」
「まあ、令呪を捨てマスター権を放棄すれば安全に離脱することは可能なはずだ。今回の聖杯戦争にいるかは分からないが監督役を探して……」
「ちょ、ちょっとお待ちください。今、“願いを叶える”とおっしゃいました?」

みことは鉄人に問いかける。

「ああ、他の参加者が脱落し最後の一組になれば聖杯が召喚される。それを使えばどんな願いでも叶えられるという話だ。だから……」
「なんですってぇッ!?」

古書店の店内に、にわかに絶叫がこだました。
鉄人と夏海が目を丸くする。

「そっ、それは例えば治る見込みのない怪我人を復活させるといったことでも可能ですの……!?」
「……え、あ、ああ……勿論出来るだろう。聖杯に不可能はないはずだ」
「――!」

鉄人の返答に、みことは総身が震えた。
“彼”を救い出す可能性。その希望が自分の前に現れたのだ。
救える――この戦いに勝ち抜けば“彼”を救えるのだ!!

「……ふ、ふふ……ふふふ……」

体が歓喜と共に武者震いをし、口からは期せずして笑いがこぼれ出る。
ああ、やはり神様はわたしを見捨ててはいなかった。
わたしの祈りを聞き届けて、チャンスを与えてくれたのだ。
この聖杯戦争という一世一大のチャンスを!

「――どうすればいいんですの?」
「……え?」
「この戦いに勝利するためにはどうすればいいのかと聞いているんですの!!」

叫びとともに、みことは掴みかからんばかりの剣幕で鉄人に詰め寄った。

「と、とりあえず君の場合、自分のサーヴァントと合流することが先決だろう。何とかして探し出して……」
「……左様ですか」

その時、鉄人と夏海は気づいた。
みことの左袖の下から、淡い燐光が放たれていることに。

「要するに――呼び寄せればいいのでしょう? わたくしの元に」

それは令呪から発せられた光だった。
みことの魔術回路が励起し、それに呼応して彼女に刻印された令呪は急速に輝きを増して行く。

「これを使えばあらゆる行動を律することが出来る……そうおっしゃいましたね、鉄人さん?」
「……! いや、確かにそうだが、それは――!」

鉄人が制止するより先に、みことの左腕の令呪はその法外な魔力を覚醒させて激しく光を迸らせる。
そして閃光と共に、みことは高らかに宣言した。

「さあ我がサーヴァントよ! 聖杯を手に入れ“彼”を救うため、今すぐここに飛んできなさい!!」

――その瞬間、
轟音と共に一個の人型が三人の眼前に降り立った。



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「我を呼び、我を求め、キャスターの座を依り代に召喚せしめた者……問おう、汝が私のマスターに相違ないのだな……?」
「左様! このわたくしがあなたを召喚したマスター、志那都みことに違いありませんことよ!!」
「……………………では、ここに契約は成立した。我らの手に聖杯の奇跡がもたらされんことを……」

みことの呼び声と共に現れた古めかしい外装の男性がそう宣言する。
こうして、水佐波市を舞台にした聖杯戦争の最後の一組――七番目のマスターとサーヴァントは契約を完了した。

「あなたがわたくしのサーヴァント……キャスターと言いましたわね」

みことは改めて自分の眼前に立つ男の姿を凝視した。
偉丈夫と言っていいだろう。みことより頭一つ分以上高い長身に、絵画のように均整のとれた肉体。
だがその身には剣も槍も、それどころか寸鉄の一つすら帯びていない。
身に纏っているのも具足の類ではなく、何の変哲もない布の服だ。
どこをどう見ても戦士とか騎士とかいった人種だとは思えない。
そして何より目を引くその相貌……そこに刻まれた表情はひたすらに陰鬱で、闘気や覇気といった気配はあまりに薄い。

(……こんな様子で満足に戦えるのかしら?)

みことは怪訝な表情を浮かべる。だが望もうが望むまいがこれが自分に配られたカードなのだ。
自分はこの男を従えて勝負するしかない。みことは毅然とした態度をキャスターに向ける。

「良いことキャスター! このわたくしの配下になった以上、脆弱さは許しませんわ!
 持てる力の全てを使って、何としても聖杯を手に入れるのよ!」
「……盛り上がっているところ悪いんだが」

そこに鉄人が天を仰ぎながら、口を挟んだ。

「何ですの? 今は下の者を叱咤するのに忙しいので後にしてもらえません?」
「悪いが緊急を要する。“アレ”は一体どうしてくれるんだ……?」

鉄人が仰ぎ見た視線の先、そこには文字通りの“天”が見えていた。
先ほどみことがこの場に呼び寄せたキャスター……彼は高速で空から落下してきて、まさしく自分たちの前に“降り立った”のだ。
恐らく「今すぐここに飛んできなさい」などという文言で命令したためであろう。あらゆる手段でサーヴァントを統べることを可能にする令呪は
みことの言葉をまったくもって正確に実行してキャスターをこの場へ飛来させたのだ。
……その結果が鉄人の視線の先の、天井に穿たれた大穴だった。

「あら、ちょうど篭った空気が換気されて良かったんじゃありません? それに心配しなくても今日は一日晴れですわよ」
「そういう問題じゃないだろ!? 屋根なしでまともに生活が出来るか!」
「しょうがないですわねぇ、では請求書をわたくしの実家宛に送ってくださいな。傘下の建築会社に無償で修理させますから」
「……そうしてくれると有難いが問題はそれだけじゃない。さっきの衝撃で結界が完全に破られた。もう一度張り直すのにどれだけ時間がかかるか……」
「結界? よく分かりませんが地鎮祭なら工事の前にちゃんとやって差し上げますわよ。叔父が神主をやっておりますので」
「だからそういう話ではなくてだな……!」
「ま、まぁまぁ落ち着いてよ二人とも」

噛み合わない口論を始めた二人の間に夏海が割って入った。

「あら、いたのね夏海。ずっと声が聞こえなかったから帰ったのかと思いましたわ」
「ずっといたよ! 何か話に入るタイミングが掴めなかったから黙ってただけだよ!」

鉄人に詰め寄られても、夏海に抗議されても、みことは飄々とした態度で受け流す。

「まったく、みことはこれだから……」

呆れたような態度で応じながら、夏海は心の中で安堵していた。
そうだ。この超然とした物腰こそがみことの本当の姿なのだ。
彼女の左腕に令呪を見つけたときはどうなることかと思ったが、聖杯戦争によって彼氏を救えるかもしれないという希望を持つことで
みことは昔の、元気だった頃の彼女を幾らか取り戻せたようだった。

「……」

ふと、夏海はみことが呼び寄せたサーヴァント、キャスターに目を向けた。
英霊。その称号に恥じぬ、神々しさすら感じられる風采。だが表情も全身にまとった空気も華やかさとは縁遠く、ただただ痛ましい程に暗い。
頭は自然と俯くように下がり、彫りの深い眼窩は泣き付かれたかのように力なく窪んでいる。
その様子に夏海は既視感を覚えた。

(なんかこの人……昨日までのみことみたい……)

キャスターは押し黙ったままただじっと、何かを観察するかのような目でみことを見ていた。


「……やれやれ、話が逸れてしましましたわね」

鉄人と話がついたのか、みことは踵を返しそのまま出入口の方へと向かっていく。

「こんな所でグズグズしてはいられませんわ。他の者たちに遅れをとるわけにはいきません。
 さぁ行くわよキャスター! わたくしに付いて来なさい!」
「断る」
「まずは手始めに大橋を落としましょう! 都市間の経路を塞いで敵を追い詰め――」

言いかけて、みことは足を止め己のサーヴァントの方を振り返った。

「……今、何とおっしゃいました?」
「聞こえなかったのか……?」

自分のマスターに向けて、キャスターは眉一つ動かずにきっぱりと言い放った。

「断る、と言ったのだ。私は君に付いて行くつもりはない」
「な――」

みことは目を見開いて、噛み付かんばかりの勢いでキャスターに詰め寄った。

「どういうことです!? あなたはつい先程わたくしと主従の契約を結んだはずでしょう!!」
「……確かに契約はした。君は私のマスター、それは事実だ。だからといって君と行動を共にするつもりは一切ない」

声を荒げるみことに対し、キャスターは冷たく応えた。

「君は魔術師ではないな? 私を召喚し限界させている以上、魔術回路は持っているようだが魔術の素養も知識もまるでないと見える。
 そんな君がのこのこ戦場に顔を出して一体何の役に立つというのだ? 敵マスターとの戦闘どころか私の援護も出来はしないだろう。
 はっきり言って足手まとい以外の何物でもない」

眼前の小柄な少女を、文字通り見下しながらキャスターは告げた。

「この戦いに勝ちたいなら君はどこかにシェルターでも作って閉じ篭っていてくれ。君に出来るのはそれくらいだ」
「…………!」

あからさまな侮辱にみことは拳を震わせた。
ここまで言われて黙っている訳にはいかない……みことは左腕の文様に意識を集中させた。

「……ひょっとして令呪を使うつもりか?」
「ええ、そうです。これを使って命令すればあなたは逆らえないのでしょう……!」

左腕の令呪に力が満ち、淡く輝きだしていく。

「このわたくしを侮辱した罪、きっちり償わせてさしあげますわ!
 さぁ今すぐそこに跪いて――」
「一応訊くが、令呪が三回しか使えないことを承知でそうするというのだな?」
「――え?」

キャスターの発言にみことは虚を突かれ静止した。
きょとんとした表情で鉄人の方を振り返る。

「……そうなんですの?」
「ああ……令呪は一人三画しかない。君の場合既にキャスターを呼ぶのに一画使っているから残りは二回までだ」
「そ、そういうことは先に言ってくれませんこと!?」

狼狽するみことを、キャスターは一層冷たさを増した視線で見据える。

「やれやれ……まさか基礎的なルールすら把握してないとは。
 これで分かっただろう。聖杯戦争の表舞台に君の出る幕などないということが」
「くッ……」

何も言い返せず、怒りに身を震わせながらみことはキャスターを睨み返す。
激情の込められたその視線を、何ら意に介さずに受け止めてキャスターはみことの傍らを横切った。

「……ついでに言っておくが」

出入口へと向かいながら、キャスターは振り返りもせずに言った。

「私は君のような感情的で騒々しい女が大嫌いでな、近くにいられるだけで虫酸が走る。
 分かったら私には干渉しないでくれ。聖杯は私一人で手にいれてみせる。
 心配しなくても君にもちゃんと“使わせてやる”から、大人しく待っていたまえ……」

そう言い残し、キャスターはみこと等の前から姿を消した。



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「うああああああああああああああああああああああッ!!」
「み、みこと落ち着いて! みこと!!」

キャスターが去ってから後、怒声を上げながら暴れかけたみことを夏海は必死で抑えこんでいた。

「……はぁ……はぁ……!
 あの男よくもぬけぬけと言ってくれましたわね……!!」

息を切らしながら、それでもなお怒り収まらぬ様子でみことは言った。

「こうなったら何としてもヤツの鼻を明かしてやらなければ気が済みませんわ……
 待ってなさいキャスター! あなたより先に敵の一人や二人打ち倒して目の前に叩きつけてやりますから!!」
「おい、ちょっと待て!」

矢も盾もたまらずに駆け出そうとしたみことを鉄人が背後から制した。

「夏海の言うとおりだ、みこと君。もう少し落ち着きたまえ」
「ですが……!」
「苛立つのも無理はないが……あのサーヴァントの言うことも最もだ。
 君は魔術師ではないし、聖杯戦争のこともよく分かっていない。
 おまけにサーヴァントと離れた状態とあっては他の参加者からしたらいい鴨でしかない」
「……それは……」
「このまま闇雲に飛び出していっても犬死にするだけだぞ」
「……」

鉄人の言葉に気を削がれ、みことは黙って握り締めた拳を降ろした。

「いいか、聖杯戦争は言葉通り“戦争”、殺し合いだ。
 しかも相手は真っ当な人間じゃない。魔術師や英霊といった超人が手段を選ばず君の命を狙ってくる。
 そんな危険なことに君は参じようとしているんだぞ」
「……それは……わかっていますわ」

戦争。殺し合い。この戦いは間違いなく自分の死の危険と隣り合わせだろう。
だがそれでも――自分には戦わねばならない理由がある。

「ですがこの戦いに勝利すれば願いを一つ叶えられるのでしょう……
 だったらわたくしはやらないわけにはいきません。それで“彼”が救えるなら……」
「さっき“治る見込みのない怪我人を復活させられるか”と聞いていたね。それが君の願いかい?」

鉄人の言葉にみことは頷いた。

「確かに君の気持ちは分かる。だがもう一度よく考えてみてほしい。
 本当に自分がこの戦争に参加するべきなのかどうかを。……夏海」

鉄人は、心配そうな面持ちでみことの傍らに立っている夏海に声をかけた。

「とりあえず今日は帰りなさい。夏海、お前はみこと君を送っていってやれ。
 あと人通りのない道は通らないよう注意するんだ」
「う、うん。分かった……行こう、みこと」
「……ええ……」

鉄一に促され、古書店を後にする夏海とみこと。
二人を送り出し、鉄人は大きく息をついた。

――この時、彼は気づいていなかった。
天井に穿たれた穴から一匹の雀が、
……正確には一匹の雀の“死体”が、店内の様子をずっと覗き込んでいたことに――。



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水佐波海上都市。
その沿岸部はリゾート地として近年めざましい発展を遂げ、周辺には幾多のホテルが軒を連ねている。
その中でも特に富裕層向けに特化したラグジュアリーホテルのスイートルームの一室で、
ファーティマ・アブド・アル・ムイードはベッドに腰掛けていた。

「ふむ……」

褐色の肌に黒い髪。南欧の雰囲気を色濃く漂わせた美女である。
眼鏡の奥の瞳は理知的で、白衣のような純白の衣装と相まって科学者か数学者のような印象を与える。
その連想は当たらずとも遠からず。ファーティマは確かに研究者を生業としている。
ただしその研究対象は“魔術”という、科学とはかけ離れた分野であったが。


「まさかこんなに早く見つかるとは思わなかったわね」

水佐波市内に放っておいた使い魔の内の一匹、その視覚から送り込まれて来た映像を確認してファーティマは満足気に呟いた。

「素人同然のマスターに、それを構わず放置するサーヴァント。
 これほど与し易い相手が現れるなんて。幸先がいいわね、ライダー」


ファーティマはそう、己のサーヴァントに声をかけた。

「ふふふ、しかしあんな相手では手応えがなさすぎて貴方のお気には召さないかもしれないわね」

ファーティマは呼びかけながら振り向いた。
……が、そこに目当ての姿はない。
ファーティマはぐるりと室内を見渡す。


「…………ライダー?」



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『さぁ逃げますのはブルートルネード そしてビッグゴールド それからトウカイトリック、トウカイトリック二番手
 ブルートルネード先頭、トウカイトリック二番手 三番手に内へ入ってビッグゴールド
 外へシルクフェイマスであります それからトウカイカムカムがいて、リンカーンは早めに行っている
 リンカーン早め五番手から六番手 ナリタセンチュリー、ローゼンクロイツ
 そして相変わらず、相変わらずディープインパクト、後ろから2頭目のポジションであります
 悠然と後ろから2頭目で前の15頭を見ている さぁ1コーナーから2コーナーに
 ペースが落ち着く1コーナーから2コーナーへ ファストタテヤマの外へディープインパクト
 現在後ろから2頭目であります さぁ逃げるのはブルートルネード その外の方へ、二番手にトウカイトリック
 シルクフェイマス三番手 内へビッグゴールド その後ろからリンカーン早々と五番手に入っている
 リンカーン早々と五番手であります 滴るばかりの緑の中を行く、17頭であります この位置11番リンカーン
 その後ろ6番のトウカイカムカム ナリタセンチュリー、ハイフレンドトライがいてアイポッパー
 マッキーマックスがいて、いた、いた! 7番! ディープインパクトは相変わらず後ろから3頭目ぐらいであります
 アスコットへ、ロンシャンへ、夢大いに膨らむディープインパクト
 今3,4頭を交わして後ろから五番手ぐらいに上がってまいります 薫風に乗って第3コーナー、さぁ勝負所』

「…………何をしているの、ライダー」

先程ファーティマがいた部屋、その隣のリビングルームにかの人物はいた。

「あぁ? 見りゃ分かるだろ。テレビ見てんだよ。テレビ」

瀟洒に拵えられた長椅子に悠々とふんぞり返ったまま、その人物は愛想なく応じた。
金色の髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの男だ。
無駄なく引き締められた肉体を軽装の戦支度でピッタリと包み込んだその姿は、さながら一本の革鞭のようである。
野性的な光をたたえたその瞳は、呼びかけたファーティマに向けられることなく目の前のプラズマディスプレイに注がれていた。

『17頭がほとんどひと固まり ディープインパクト、ゆっくりと今、ゆっくりと今、先頭集団に上がってまいりました
 先頭集団に上がって場内大歓声であります さぁ800の標識で早くもディープは四番手、四番手から三番手
 ローゼンクロイツの外へ馬体を併せに行きました 早々とディープインパクトは先頭だ
 早くもディープインパクト先頭で、あとゴールまで600mの標識を過ぎている
 さぁ第4コーナー、二番手はローゼンクロイツ シルクフェイマス
 外から猛然とリンカーン、左ムチが飛んでいる 大外からマッキーマックスとストラタジェム
 マッキーマックスとストラタジェム リンカーン追い込んだ、リンカーン追い込んだ
 逃げる! 逃げる! 逃げる! 逃げる! 懸命に逃げるディープインパクト
 あと200m、差は詰まらない! ディープインパクト、三馬身、四馬身のリードがある
 二番手はリンカーン 三番手ストラタジェム 先頭は依然ディープインパクトです、ディープインパクト!』


「これは……競馬の中継?」


早口で捲し立てられた実況アナウンスの声がスピーカーから響き渡り、
画面の向こうでは何頭もの馬が抜きつ抜かれつ緑眩しい野芝の上を駆けている。

「姿が見えないと思ったらこんなものを見ていたの、ライダー」

テレビに釘付けになっている己のサーヴァントの姿にファーティマは呆れたように嘆息した。
ライダー。その呼称の通り、この男は『騎兵』のサーヴァントだ。
その中でも特に彼は馬と縁深い英霊である。トラックを走る騎手と競走馬の姿に何か感じ入るものがあったということか。
いや、それともあるいは……

「ひょっとして貴方、自分が現世で乗るための馬の品定めでもしていたのかしら?」
「はぁ? まさか」

そこでようやく、ライダーはファーティマに顔を向けた。

「どの馬も毛並みは見事だが軟弱すぎてオレの好みじゃねえよ。
 オレの家でも代々馬を飼育してたがアイツらは凄かったぜ。
 気性が荒すぎて、気に入らない人間が背中に乗ると振り落としてそのまま食い殺しちまってたくらいだ。
 ま、オレとしちゃそれくらいの暴れ馬でないと乗った気がしなかったがな」

そう言ってライダーは不敵な笑みを浮かべた。

「まぁでもあのタケって乗り手はなかなかの腕だな」
「それはそうと、ライダー」

ファーティマはようやく本題に入った。

「先ほど敵マスターの所在を捕捉することに成功したわ。直ちに奇襲を仕掛けます」
「……ようやく出撃か。だがそれには――」
「ええ、勿論用意は出来ている」

ファーティマはチラリとバスルームの方へ目を向けた。
その方向から微かにだが、地鳴りのような重い唸り声が聞こえてくるのをライダーは感じた。

「この現世の戦場を駆け抜けるための“騎馬”、こちらも調整が完了したわ。
 きっとお気に召すはずよ。貴方が手綱を掛けるに相応しいよう、飛びっ切り凶暴に仕上げておいたから」
「ほぅ……そりゃあ楽しみだ」

ファーティマの言葉にライダーは口の端を吊り上げる。
それは獣が牙を剥くような、獰猛極まる笑みだった。




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蔵馬鉄人の古書店を出た後、
高坂夏海と志那都みことの二人は水佐波自然公園に立ち寄り、
一角のベンチに並んで腰を降ろしていた。

「あーっ、それにしてもまだ腹のムカつきがおさまりませんわ!」

先ほどの古書店でのキャスターとのやり取り、それを思い出しただけでみことは苛立ちに歯噛みする。

「まったく何なんですの!? あの人を馬鹿にしきった態度は! 夏海もそう思うでしょう!?」
「……え? う、うん。まあ」

みことの迫力に隣りに座った夏海は若干たじろいだ。

「何とかして落とし前を付けさせてやらないと気が済みませんわ……。幸い令呪はまだ二画は使えるのですし
 どうにかしてあの男をギャフンと言わせるような命令を……」
「あー、それなんだけどさ」

ぶつぶつと恨み言を呟くみことに、夏海がおずおずと声を掛ける。

「やっぱりさー、みことはあのキャスターって人とちゃんと仲直りしたほうがいいと思うんだけど……」
「――何ですって?」

夏海の発言に、みことは露骨に嫌悪の表情を浮かべる。

「鉄にぃも言ってたけど、実際あたしたちってサーヴァントがいなかったら何も出来ないんだよ?」
「それは……わたくしだって分かってます」

確かにそれは事実だ。だからと言って自分をあれだけ侮辱した男にこちらから頭を下げて守ってくださいとお願いしろというのか?
そんなことはこの志那都みことのプライドが許さない。

「だからさー、もうみことの方から謝って早く仲直りしちゃいなよ」
「なッ、何でわたくしの方が謝らないといけませんの!?」
「そうよね。こうしている間にも敵のサーヴァントに後ろから刺されないとも限らないし」
「冗談じゃありませんわ! 誰がそんなこと――」

そこでふと、みことは違和感を覚えた。

(……今、知らない人の声が聞こえたような……)

その時、誰かがポンとみことの肩を叩いた。
振り向くと――いったいいつからいたのだろう。全身を黒い装束に包んだ女性がみことのすぐ後ろに立っていた。

「だ――」
「あ、アサシン!?」

誰、とみことが言うより先に夏海がその女性を呼んだ。

「しっ、あまり大きな声を出さないで……」

アサシン。そう呼ばれた女性は人さし指を口元に当てて夏海を制した。

「い、いつからいたの?」
「ナツミたちがあの古書店に入る前からずっと貴方たちの後ろにいたわよ。気づかなかった?」

唖然とする女子二人をよそに、アサシンはみことの方に顔を向け艶然と微笑みかけた。

「はじめまして、ミコト。妾身(わたし)はアサシン。ナツミと契約したサーヴァントよ」

それは考えてみれば当然の話である。マスターの証である令呪、みことがそれを夏海の左手の甲に発見したのが今回の事の始まりなのだ。
で、ある以上夏海もマスターの一人としてサーヴァントを従えているのは当然の成り行きだといえた。

「だから、貴方とは敵同士ということになるのかしらね?」
「なっ……」
「ちょ、ちょっとアサシン!?」

アサシンの不穏な発言に、夏海が語気を荒げる。

「変なコト言わないでよ! 確かにあたしは聖杯戦争に参加するって決めたけどみことと戦うつもりなんて……」
「はいはい、分かってるわよ勿論」

アサシンは夏海の口に手を当てて声を封じ、そのまま再度みことの方に顔を向けた。

「主の大事なお友だちである以上、妾身は貴方に手を出すつもりはないわ。
 でも他のサーヴァントたちは違う。それは理解できるわよね?」

アサシンの言葉にみことは黙りこむ。
“こうしている間にも敵のサーヴァントに後ろから刺されないとも限らないし”
先の彼女の発言が脳裏をよぎる。もしこのサーヴァントに殺意があったなら、自分はとっくに殺されていたに違いない。

「貴方が聖杯に賭けてるのは分かるわ。妾身や他のサーヴァント、マスターだって同じだもの。
 でも貴方の願いのために、本当に自分がするべきことが何なのかは、ちゃんと考えたほうがいいわ。
 でないと取り返しの付かないことになるわよ」
「そう……ですわね……」

みことはすっかり怒気を削がれた様子でアサシンに応じた。
聖杯に望みを託しているのは自分だけではないのだ。
キャスター。あの男だって、何か切な望みがあって召喚に応じたのかもしれない。

「……そういえば、夏海はどうしてこの聖杯戦争に参加することにしたんですの?」
「え、あたし?」

不意のみことの問い掛けに、夏海は困ったような表情を浮かべた。

「あなたにも何か叶えたい願いがあったのですか?」
「そういうのとはちょっと違うんだけど……何て言ったらいいのかな。
 みことにも話したことなかったけど、あたし……霊が視えるんだよね」
「……はい?」

唐突な夏海の発言にみことは唖然とする。

「いや、冗談とかじゃないんだよ! 霊感っていうの? そういうのが昔から強かったみたいでさー」

夏海の話によると、彼女は小さい頃から霊を見ることができたということだった。
だが霊というのは姿が見えるだけで意思の疎通は行えず、大半は死亡時そのままの苦痛にまみれた状態のままで現世に留まっていながら
それを救う手立ては何もなく、そのせいで夏海は随分歯がゆい思いをしたらしい。
そんな折、今回の聖杯戦争のマスターに選ばれた彼女は、サーヴァントという“意思を持つ霊”と出会った。

「それで思ったんだ、今まで見てきた死んだ人の霊に何も出来なかった分、
 この聖杯戦争で呼び出されたサーヴァント……英霊の願いはなるべく叶えてあげたいなって」
「そ……」

そんなことで? そう言いかけてみことは口を噤んだ。
死者の無念を救いたい……それは決して下らないことではない。むしろ貴いとさえ言える。
だがそのために自分の命を掛けて死地に赴くことができる人間がいるだろうか?

「じゃあ夏海は、自分のことはどうでもよくてただ他人のためだけにこの聖杯戦争に参加したというの?」
「んー、まぁそうなるのかな」
「そんなのって……」
「別にそんなにおかしなことじゃないと思うけど。それにみことだって赤城くんを助けたくて参加することにしたんでしょ?
 それだって“他人のため”に戦うってことじゃない?」
「それは……」

夏海のあっけらかんとした物言いにみことは言い淀む。
確かに自分は“彼”を救うために聖杯を勝ち取ろうと決めた。
だがそれは自分にとって“彼”が特別な存在であるが故である。
夏海はそれとは違い、自分とは殆ど無関係な見ず知らずの者のために戦おうと決めたのだ。
そんなのは……それこそ『英雄』のような行動ではないか。

「お話し中のところ悪いんだけれど」

不意に、背後からアサシンが言った。

「そろそろ日が暮れ始めるわ。これ以上、外をうろつくのは危険よ。
 人の気配がなくならない内に帰った方がいいわ」

空を見ると、既に若干赤みがかかっていた。
周囲を見回すとまばらだかが人の姿は確認できる。
木に登って遊ぶ子ども、ジョギングをする老人、デート中らしきカップルの姿なども伺える。
この広い平原かつ衆人という環境ならば、無理に仕掛けてくる相手もいないだろう。

「そうだね、帰ろうか。みこと」
「そうですわね……」

そう言って二人はベンチから立ち上がった。
その時、みことは視線の端で捉えた。
木登りをしていた子ども、その一人が高枝から真っ逆さまに落下するのを。

「……えっ?」

数度瞬きしてもう一度そちらに目を向ける。
落下した子どもは地面に倒れ伏せたまま身動きひとつしない。

「大変……!」
「あ、ちょっと……みこと!?」

みことは即座に倒れた子どもの元へ駆け寄った。事態を察したのかすぐに夏海も後を追う。
そして横たわる子どもの体を抱き起こした瞬間、みことは息を飲んだ。

「冷たい……」

体温をまるで感じない体。手首に指を当てても案の定脈拍はない。

「みこと、その子……」
「と、とりあえず救急車を呼びましょう。ひょっとしたら助かるかも……」
「ちょっと待って」

狼狽する二人に向けて、夏海の背後に影のように寄り添っていたアサシンが言った。

「ミコト……今、貴方“冷たい”と言った?」

アサシンのその言葉にみことははたと気づいた。
もしこの子どもが先ほどの落下で命を落としていても、今この時点で体温が冷たいなどということは在り得ない。
これではまるで、とっくの昔に死んでいたみたいでは――

「――その子から離れなさい! ミコト!」

叫びと共にアサシンがみことの元へと飛び出し、その腕から子どもを払い除ける。、
次の瞬間、子どもの上半身が爆音と共に破裂した。
夥しい量の肉片と骨片が血しぶきと共にみことへと浴びせかけられる。
炸裂弾のごとき勢いで飛来したそれらは、しかしアサシンの振るう拳足によって残らず叩き落とされ、みことは僅かに血で顔を汚す程度に留まった。

「ミコト、大丈夫!?」
「……あ、あ……」

怪我はない。だがすぐ目の前で巻き起こった血肉と臓腑が飛び散る悪夢の光景は脳裏を打撃し
みことは顔面を蒼白にしてへなへなとその場に座り込んだ。

「アサシン、これって……!?」
「恐らくは敵マスターの仕掛けた罠ね。……迂闊だったわ、人目に付く場所なら安全と思っていたけど……」


夏海とみことはふと周囲の気配の異状に気づき、そこで更に背筋の凍るような光景を目にした。
公園内にいた老若男女さまざまな人々、それら全員がその場に立ち止まってじっとこちらを見ているのだ。
そして、それら人々の目は一つ残らず“瞳孔が開き切っていた”。

「――ここにいるのは最初から皆、生きてる人間じゃないわ……!」

アサシンが表情を引き締める。
そして次の瞬間、死者の群衆が夏海たち目掛けて殺到した。



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小さな子どもの肉体が木っ端微塵に爆裂し、骨肉を四方八方へ飛び散らせる。
その醜怪な光景を離れた場所からライダーは憮然とした面持ちで眺めていた。

「アレがお前の仕掛けた魔術なのか? ファーティマ」
『ええ』

念話によって脳裏に直接返事が届く。
今、ライダーが見た光景は感覚共有の魔術によってマスターであるファーティマにも視認されていた。

『死体爆弾……オーソドックスな死体人形にスーサイドボムという攻撃手段を付加したものです。
 自爆というのは奇襲性の高い有効な攻撃だけどどうしてもコストが掛かるもの。
 でもこれは元が死体ですから実質的な損失はゼロ。よくできてるでしょう?』

そこはかとなく誇らしげな色合いを含んだ声がライダーの脳裏に響く。
高坂夏海と志那都みこと、二人のマスターを発見したファーティマは彼女たちが公園に入り込むと周囲に人払いの結界を張り、
一般市民を遠ざけると同時に近隣に配置されていた使い魔――『生ける屍』たちを集結させたのだ
そして怪我した子どもを偽装しての自爆攻撃という悪辣極まりない一発を皮切りに、
周辺を包囲していた死体人形が一斉に群がり、夏海とみこと目掛けて一つまた一つとその肉体を四散させてゆく。
だがそれらは皆、一人の黒装束の女の手によって余さず薙ぎ払われ、標的である二人の少女には骨の一片すら突き刺さるには至らない。

『あのサーヴァント意外とやりますね』
「別に意外という程でもないがな」

アサシン。マスターの少女はあのサーヴァントをそう呼んでいた。
その風体からも鑑みて、黒装束の女は暗殺者の英霊と見て間違いないだろう。
直接的な戦闘能力は低いクラスだがそれでも英霊の端くれ、あの程度の攻撃を捌くことなど造作もあるまい。

『あの程度の相手なら使い魔で充分討てるかとも思ったけど、やはり貴方に出てもらう必要があるようね、ライダー』
「当たり前だろ。元よりこっちはそのつもりだ」

体内に沸々と滾る闘気を剥き出しにしてライダーは応える。
幾百幾千という年月を隔て、久方ぶりに感じる戦場の空気に体が自然と武者震いする。

『ところで、“馬”の調子はどう?』
「あ?」

ライダーはちらりと自分の傍らに目を向ける。
そこには一頭の獣が侍っていた。
轡を噛ませられ手綱を締められ、それでもなお内に秘めた凶暴さが噛み締めた牙の隙間から漏れでてくるような生粋の猛獣。
これこそが、ライダーのためにファーティマが用意した乗機たる“騎馬”である。

『あれね、少しばかり急拵えなんで不備がないか心配なのだけど』
「……特に問題はなさそうが」
『そう、なら遠慮はいらないわ。存分に蹴散らして差し上げなさい、ライダー』

たった一つの明瞭な指示を残し、ライダーの頭の中の声は途絶えた。

「“馬”ねぇ……」

ライダーは一人そっと呟く。

「……コイツのどこに馬の要素があるんだよ」




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肉が爆ぜ、臓物が飛び散り、血と脳漿が宙を染める。
群がり爆発するヒトのカラダ。もういったい幾人目なのか、みことはとっくに数えてなどいられなくなっていた。
人肉の焼け焦げた匂いと血臭が渾然となった悪臭に、思わず口内に酸っぱい物がこみ上げてくる。

「……みこと、大丈夫?」
「夏海……」

蒼白の顔色で俯くみことの背中に、夏海がそっと手を置く。

「な、夏海は平気なんですの? こんな、酷い有様を見て……」
「あー、……あたしは何ていうかその……見慣れてるから」
「……見慣れてる?」
「ほら、さっきも言ったけどあたし霊感が強くて……で、霊って死んだ時の姿のまま彷徨ってるのが多いから……」

ぎこちなく苦笑いを浮かべながら話す夏海。
その内容に、みことは戦慄を禁じ得なかった。
あのような無残に破損した人体の成れの果てを、思い出すだけで頭が痛くなるグロテスクな代物を
彼女はずっと見つめながら生きてきたというのか……。


「……終わったの? アサシン」
「ええ、一応」

気がつくと、周辺を包囲していた死体の群れは、残らず爆破されてのか動いているものはもう一つもなくなっていた。
辺りには自爆の後に残った腕や下半身が散らばり、自然公園の一角はさながら地獄の如き有様である。

「死体人形の方は片付いたわ。でも――」

立ち上がり、前に出ようとする夏海を手で制し、アサシンは一層表情を険しくする。

「――どうやら本命のご登場みたいよ」


そのとき突如として、先程までの死者たちが巻き起こしていた爆発など問題にならぬ衝撃と風圧が三人を襲った。
迸る一陣の颶風、それに付随して巻き上がった土煙にみことは身を強ばらせる。
何かが、隕石もかくやという勢いで目の前に降り立ったのだ。
いったい、何が……。

「……!?」
「な、何アレ……!」

はたして、濛々と立ち込める土煙の中から現れたのは……
――男だ。癖のある金髪を短く刈り込んだ、野性的な雰囲気漂う一人の男。
神秘的なまでに整った端正な容貌に、不釣合なほど獰猛な闘志を滾らせたその居住まいは、誰であれ瞠目せざるを得ないだろう。
サーヴァント……アサシンはもとより、背後の夏海、みことにも目の前の男がそれであることは一目のうちに察せられた。
だが、このとき三人が真っ先に目を奪われたのは男自身ではなく、男を背に乗せた一匹の“騎獣”の姿だった。
頭部と前肢はライオン。だがその後ろに付随した胴体と後肢は山羊のそれだ。
獅子の頭の後ろからはその山羊の首が生え、尻から尾のように伸びているのは鎌首をもたげた一匹の大蛇。
黄金色に輝く手綱で括られたその獣は紛れもなく、ギリシャ神話に登場する異形の怪物“キマイラ”の様相そのものであった。

「ふん」

呆気に取られた様子の夏海とみことを一瞥して鼻を鳴らし、

「女の分際でのこのこ戦場に出てきた挙句、腰を抜かして震え上がるだけとは笑う気にもならん無様さだな」


そう言うと、男は背中から長柄の得物を抜き放った。
先端に取り付けられた槍の穂先、その根元には人間の頭程の大きさの金属球がくくりつけられている。
スピアとメイスを無理やり一纏めにしたような竿状武器。それを男は腕一本で軽々と振りかざす。

「マスターの方はどうにもならん有様だが、貴様はもう少し骨のある所を見せてくれるだろうな」
「あら、殿方たるもの女性は怖がらせるのではなく守ってあげるのが務めというものではない?」

放たれる闘気を平然と受け止めながらアサシンは眼前の敵を観察する。
獣の背にまたがって、左手で手綱を握り、右手には騎乗槍。
このようなスタイルで戦場に赴いたとなれば、該当するクラスは一つしかない。

「ライダー……と呼べばいいのかしら」
「いかにも。尋常に名乗りを交わすことも出来んとは下らん戦もあったものだ。
 最も……貴様に戦場で名乗りを上げる程の名があるとは思えんがな、アサシン」

さも不愉快げに口元を歪めて、ライダーは獣の上からアサシンを睥睨する。

「一騎打ちに駆り出され、その相手がこともあろうに暗殺者風情とは。全く誉れのない戦もあったものだ」
「あらあら、そちらから仕掛けておいて随分な言い草ね」

ライダーの傲岸すぎる言い分にアサシンは呆れたように苦笑する。
その尊大な態度と口調から鑑みるにこのサーヴァント、恐らくは高名な英霊なのだろう。
他者を見下すことを当然とするその様子からは、生前の位の高さも伺える。

「でも、そういう貴方こそ一体どこの英霊なのかしら?
 そんな得体のしれない怪物に乗った騎兵の話なんて聞いたことがないけれど」

そう口にした瞬間、黙れと言わんばかりにライダーの携えた槍の鋒がアサシンへと突き付けられた。

「……あまり余計な口を叩くなよ暗殺者。何が貴様の最後の言葉になるか分からんぞ」
「あ、アサシンっ!」

何か逆鱗に触れるものがあったのか、アサシンの一言を皮切りに男は更なる強さで剥き出しに殺意を放射し始めた。
そのあまりの迫力に、思わず夏海が後ろから声を出す。

「心配いらないわ。でも危ないからもうちょっと離れてて」

背後の少女二人に退避を促すと、アサシンはそっと自らの後頭部に手を触れる。
すると、一体どこに仕舞われていたのか――アサシンの手には一本の匕首が握られていた。
鍔のない、刃そのもののような凶器。それを胸前に構えてアサシンはライダーと対峙する。

「大丈夫、早く帰れるよう速攻で片付けてあげるから」
「はッ、言ってくれるな――!!」

ライダーの怒声と共にキマイラの後肢が地を蹴り、その巨体が弾丸のごとく放たれる。
かくして此度の聖杯戦争、現世に蘇った英霊達の激突は幕を開けた。



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志那都みことは、ただ驚愕に息を呑んでいた。
いま眼の前で繰り広げられる光景の度外れた凄まじさ。
ライダー、敵のサーヴァントが従えているキマイラはまさしく怪物であった。
踏み締める足は地面を穿ち、爪を振るえば風圧だけで近くの街灯が割れ、樹木が砕ける。
映画の中でしか見られないような非現実的なモンスター。それが今、現実のものとして自分の目の前で猛然と暴れているのだ。
ライダーを乗せたキマイラは大型獣とはとても思えない身軽な動きで縦横無尽に跳び回り、
ハリケーンの如き颶風を迸らせながらアサシンへと襲いかかる。
二本の前肢が振るう爪撃は音速に達し、更に獅子の頭が隙あらばその肌に牙を立てんと喰らいつく。
それだけでも充分に驚異的だが、この怪物はそれに加えて双角を携えた山羊の首が猛然と頭突きを繰り出し、
おまけに尾のごとく生えた蛇はその身を正面まで長々と伸ばして、鞭のような挙動で獅子頭と山羊頭の間を縫ってアサシンへと噛み付きを仕掛けてくる。
キマイラ。複数の生物を合成した異形の体が生み出す連撃は、尋常の獣には到底不可能であろう。
だが――

「くッ……コイツちょこまかと……!!」

キマイラの全身を使った猛攻に、更に鞍上のライダーが繰り出す槍撃を加えた圧倒的手数の連撃連打。
その全ての攻撃が一つ余さず、標的のアサシンに掠りもしないのだ。

「あらあら、段々速度が落ちてきているけど大丈夫? 疲れてるんじゃない?」

まるで風に舞う木の葉のようにひらひらと、爪を、牙を、槍を紙一重で躱し続けるアサシン。
一発でも食らえば致命傷になりかねない鏖殺の嵐の真っ只中にいながら、まるで焦る様子もなくアサシンは軽口を叩く余裕すら見せる。

「ほざくなよ兇手ごときが……!!」

平然としたアサシンとは対照的に、一方的に責め立てているライダーの方が焦燥の表情を浮かべる。
これだけの猛攻を回避し尽くし、そればかりかこのアサシンは騎乗槍と短刀という絶望的リーチ差を軽々と飛び越えて
鞍上のライダー目掛けて幾度も刺突を繰り出してきているのだ。
今のところはライダーも傷は負わされていないが、あと一歩で首が落とされかけたという窮地は一度や二度ではない。
アサシンなど所詮、闇に紛れて背後から刺すだけが能。正面から対峙して真っ向勝負に持ち込めば容易く破れる……
そのように考えていた自分の甘さを省みて歯噛みする。

(この女、尋常の暗殺者ではない……!)

そのとき、にわかにキマイラが躓くように膝を折り動きを止めた。
ライダーが背上から仰ぎ見ると――いかなる事か、キマイラの右前肢の脛の肉が抉れ、罅割れた骨がその隙間から覗いていた。

「ふぅ」

倒れ伏せたキマイラから間合いを取り、アサシンが息をつく。

「ようやくダメージが出てきたようね。まったく何て頑丈なの……もう五十回は蹴ったかしら」
「なっ……」

アサシンの発言にライダーは驚愕する。
この女、あれだけの攻撃を躱しながら、その間隙にキマイラに攻撃を加えていたというのか?
しかも上に乗った自分にまったく気づかれずに……

「さぁ、どうするライダー? “脚”が使い物にならなくなった以上、騎兵の貴方はもう戦えないのではない?」

ふふん、と微笑みながらアサシンが告げる。
万全の状態ですら攻め切れなかった以上、それが手負いではもう有効打を放つことは望めまい。

「…………フ、フフフ……」

だが、ここにきてライダーにはまるで戦意が失した様子はない。
それどころか放たれる闘気は一層鋭さを増していく。

「この程度でオレを御したつもりでいるのか? 笑わせるなよ暗殺者風情が!!」
『GUUUUUURUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!』

ライダーの怒声。それに応じるかのように跨下のキマイラが咆哮を上げる。
そしてその異形の肉体がここにきて更なる変成を見せた。
『翼』。キマイラの背部から皮膚を突き破って一対の羽翼が広がったのだ。
蝙蝠か、あるいは中生代の翼竜を思わせる膜構造の翼。それを猛然とはためかせ、キマイラはライダーと共に宙へと飛び上がった。

「きゃっ…!」

その巨大な翼が巻き起こした羽ばたきは、軍用ヘリの離陸に匹敵する風圧を地面に叩きつける。
吹き荒れる乱流。それによって撒き散らされた粉塵は離れて様子を伺っていた夏海とみことの元にまで達し、彼女らにか細い悲鳴を上げさせる。

「生憎だがアサシン、オレの“脚”たる獣は見ての通り有翼だ。足部を砕いたところで止められはしないぞ!」

土煙の立ち込める地上を悠然と見降ろしながら、ライダーは宙空より言い放つ。
これで形勢は逆転した。空中を飛行し頭上から攻め立てれば地を這うしかない人間には為す術がない。
猊下を注視しながら更にキマイラを上昇させる。あとは噴煙が晴れると同時に降下して――

「――?」

だが、ライダーの意に反して、濛々と煙る粉塵が去ったあと、アサシンの姿は忽然と消えていた。
ライダーは空から地上を一望するもどこにもその姿は見えない。
……敵のクラスはアサシン。その気配遮断能力を持ってすればいかなる場所であろうと身を隠すことは容易いだろう。
だが身を隠したままでは戦闘には及べないはず。ならば撤退か? ……マスターを置いて? まさか――
疑問と思考を巡らせる最中、予想だにしない方向から声が投げかけられた。

「――――さっきからどこを見てるのかしら? ライダー」

ライダーは反射的に声が聞こえた方を向き、そこで信じがたいものを目にした。
声が発せられたのはライダーの“真横”から。
なんとアサシンは羽ばたくキマイラと同じ高さで宙を舞っていたのだ。
それは“跳躍”などでは断じてない。
この女、完全に空を“飛行”している――!?

「馬鹿な、人の身が単独で空を飛んでいるだと……有り得ん!」
「あら、知らないの? 人間鍛えれば誰だって空くらい飛べるようになれるものよ」
「そんなわけあるかッ!」

ライダーは一喝するも、眼の前の光景は疑いようがない。
翼も何も無しで、この女は自在に宙を駆けることが出来るのだ。
空を飛ぶアサシン。その不可解な存在を前にして、ライダーの心中には疑問よりも先に怒りの念が湧き上がった。
神聖なる天空を、卑賤のものが我が物顔で飛び駆ける。それはこの英霊にとって何物より許しがたい咎であった。

「……外道働きが相応の分際が、悪ふざけも大概にしろよアサシンッ!!」

怒号と共にキマイラの双翼が空を叩き、怪物と騎兵はアサシン目掛けて流星のごとく飛翔する。
アサシンとライダー。二体のサーヴァントの死闘は舞台を空へと移し、今またその火蓋が切って落とされた。



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古書店を去ってから後、
サーヴァント、キャスターは一人街を歩いていた。

「“Ο γιος μου, τι θα φέρει το πρόσωπό σας έτσι φοβισμένα;(我が子よ、何をそんなに怖がっているのだ)
   Ο γιος μου, είναι κομματάκι ομίχλης(我が子よ、それが霧がたなびいているだけにすぎない)……”」

2メートル近い長身を、蒼古とした衣装に身を包んだその姿、往来を歩けば人目をひくこと憚らないだろう。
だが、キャスターの周囲の人々は彼の姿などまるで気に留める様子もなく淡々と歩み去っていく。

「“Να είστε ήρεμοι, μείνετε ήρεμοι, το παιδί μου?(我が子よ、落ち着きたまえ)
    Ψίθυροι του ανέμου σε ξερά φύλλα.(その音は枯葉のざわめき)
     Το παλιό ιτιές Εκεί φαίνονται τόσο γκρίζα.(その姿は古い柳を見間違えただけ)……”」

キャスターの口から淡々と紡ぎだされる詩のような文言。
それを耳にした人々は知らず知らず意識を逸らされ、キャスターの姿を確りと見定めることができず、
あるいは目撃したとしてもその記憶をすぐに薄れさせていった。

(全く、何ということだ……)

呟くように呪文を詠唱しながら、キャスターは心中で落胆を露にした。
聖杯戦争。生前果たされなかった望みを叶えることができるという千載一遇のチャンス。
その好機をついに掴んだというのに、よりにもよってあのような娘に召喚されることになろうとは……
聖杯戦争とはマスターとサーヴァントという二人一組の単位で行うもの。
ゆえに、他の参加者と戦う際は必然的に二対ニの様相を帯びることになる。
そこでマスターの側がまるで魔術を扱えぬとなれば、その時点でもう半分負けているも同然だ。
何故、あのような人間に呼び出される羽目になったのか……
キャスターは落胆を通り越して疑問すら感じていた。
魔術的知識を持たない以上、触媒を用いて指定召喚したわけではあるまい。
そういう場合、召喚に応じる英霊はマスターと精神性が似通ったものになるというが、とてもそうは思えない。
それどころか、あのような気性荒く言動の喧しい女は彼にとっては嫌悪の対象でしかなかった。
何せこの英霊は“そういう女たち”の手にかかってその命を落とすことになったのだから。


(状況はとても良いとはいえない……)

自分も英霊の座に祀られる身である以上、幾らかの武勲なり功業なりを成してはいるが、
それでも、生涯を通じて戦場を駆け続けたような生粋の勇士かといえば決してそうではない。
山野の中で出会ったセイバー、あれはまさしくそういった戦場の華たる英霊だろう。
ランサーやアーチャーといった他のクラスにもそのような豪傑が招かれている可能性は高い。
そういった面々を相手に、素人同然のマスターを抱えて勝ち抜こうとなれば、よほど周到に立ち回らなければ叶わないだろう。
ますはこの街の地理と霊脈の流れを把握。なるべく格の高い霊地に拠点を構え、そして――


「……ん?」

そこでキャスターはふと気がついた。
考え事をしながら歩みを進めている内に、妙な場所に迷い込んでいたことに。
屋外ではない、建物の中だ。清潔な白い壁に、微かに空気に篭る薬品の匂い。
リノリウムが冷たく光る廊下を、白衣を来た男女が忙しなく歩き回っている。
ここは病院だ。聖杯から与えられた知識によってキャスターは理解する。
しかもかなり奥の方まで入り込んでしまっている。そんなにも長い間自分は漫然と歩いていたのだろうか?

……いや、

最初から自分はここに来なければならなかったような……
ここに来て、“誰かを救わなければ”ならなかったような………


(いかんな、まだ記憶の混濁が残っているのかもしれない……)

不鮮明な意識を振り払い、キャスターは踵を返す。
このような場所に用はない。立ち去ろうした、その時だった。


「――――志那都さん、今日はまだお見えにならないのかしら」

その名前に反応して、キャスターは咄嗟に立ち止まる。


「あの子も偉いわよね、毎日ちゃんとお見舞いに来てくれて」

話しながらやってきた二人の看護師は、キャスターの正面の病室の扉を開ける。
呪文による意識操作によって傍らのキャスターの存在を気取るもことなく、看護師はベッドに横たわった患者に声を掛ける。

「具合はいかがですか? 赤城さん」

その患者は、まさしく見るも無残な有様だった。
両足は膝から下で切断され、左腕は肩口から全て失われて最早その痕跡すら見えない。
頭部は首までびっしりと包帯が巻かれ、胴体からは何本も管が生えベッドの周りを取り囲む機械類に接続されている。

「待っててください、今包帯を取り替えてあげますからね」

反応のない患者に話しかけながら、看護師は頭部の包帯を解く。
元はどのような面貌だったのか想像も出来ぬほど大きく崩れた顔面が顕になり、キャスターは思わず眉を潜めた。

「……それにしても志那都さんも気の毒にねぇ」
「本当。彼氏がこんなことになるなんて、私だったら耐えられないわ」

二人の看護師は痛ましい表情でため息をつく。

「まだ付き合ったばかりだったんでしょう? 可哀想に……」
「凄い大恋愛だったって、ちょっとした噂になるくらい睦まじいカップルだったのに、まさかこんなことになるなんてねぇ」
「何とか意識だけでも取り戻してくれたらと思うけど、難しいわよね今の医学じゃ」

死体も同然の傷だらけの身体で伏している患者。
その姿に、看護師たちの語る内容を重ねれば、その背後に起こった出来事の察しはある程度つく。


「……………………………」



――この時、気を取られていたキャスターは気づいていなかった。
窓の向こうから一匹の雀が、
……正確には一匹の雀の“死体”が、病室内の様子をずっと覗き込んでいたことに――。



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地上戦から空中戦へと様式を変え、現世に蘇った英霊の闘いはますます非現実的に苛烈さを増していった。
ライダーが駆るキマイラはロケット噴射もかくやという急加速をもって御敵たるアサシンへと突進する。
それを迎撃せんとアサシンの手から鏢(びょう)が放たれる。風を切り裂きながら投擲された四本の寸鉄は一つ余さずライダーの急所へ狙いを定めて飛来する。
圧倒的な相対速度を持って襲いかかる刃に、しかしライダーは臆することなく手綱を繰る。
即座にキマイラの巨体がバレルロールを描き、投剣を躱す。急激な旋転によって周囲の空気を竜巻のように荒立たせながらライダーはアサシンへと肉薄する。
進行方向へ真っ直ぐ槍を構えての騎馬突撃(ランスチャージ)。弾丸のごとき飛行速度に怪物の重量を掛け合わせた膨大な運動量を穂先に乗せて放たれたその必殺の刺突を
アサシンは急降下によってキマイラの腹下をくぐるような軌道で辛くも回避する。
突撃が回避されたと察するやいなや、ライダーはキマイラの機首を強引に引き上げ、殆ど直角に近い角度で急激に進行方向をねじ曲げて、
すぐさま宙空で反転(インメルマンターン)し、すれちがったアサシンへと追撃を掛ける――。


「……あれが……サーヴァントの同士の戦い……」

遥か上空で繰り広げられる飛行格闘戦を目の当たりにして、みことは唖然とした面持ちで呟いた。
彼女の視力では両者の動きを捉えきることは叶わず、空に描かれる残像の線をもって辛うじて戦況を認識するに留まるが、
それでもその闘いの度外れた凄まじさは理解できた。
キマイラ。あのような大型の四足獣が背中に生えた翼で空を飛ぶというだけでも信じがたい現象だが、
真に驚嘆すべきなのはそんな不自然な乗機で、まるで航空戦闘機のような曲芸飛行をおこなうライダーの操舵術であろう。
コンピュータ制御によるマニューバ演算などとは程遠い、ただ一本の手綱を繰るという極めて原始的な手段で跨下の獣をあそこまで自在に操ることができるなんて……。
……だがそんな騎兵の神業めいた空中機動をもってしても、相対する黒衣の暗殺者には届かない。
先ほど地上で行われた白兵戦、ライダーの繰り出す猛攻連撃をことごとく回避し尽くしたアサシン。
その構図は舞台を空中へと移しても全く変わることなく再現されることとなった。
ライダーの槍を、キマイラの爪を、アサシンは上へ下へと自在に抜き躱し、すれ違い素早く匕首で反撃を放ちつつ離脱する。

「こいつ……卦体な術を使いやがって……!!」

ライダーの騎乗技術がいかに優れてるといえども、キマイラによる飛行はあくまでも条理に則ったものだ。
推進力を得るためには羽ばたくという動作が不可欠になるし、旋回するためには翼を広げて空気抵抗を制御しなければならない。
だが、敵手たるアサシンはそのような航空力学をまるで無視したありえない挙動でライダーとキマイラを翻弄していた。
風を起こしているわけでもない、魔力を放出しているわけでもない。推進手段も姿勢制御手段もまるで見当が掴めないが
上昇性能、加速性能、旋回性能、そのどれをとっても、アサシンの飛行能力はキマイラのそれを上回っていた。

「ほらほらどうしたのライダー。攻めが緩んできたわよ?」
「……貴様ッ!」

アサシンの揶揄にムキになって槍を振り回すも、難無く回避され、黒衣の影が背後に抜けると同時にキマイラの脇腹に匕首が突き立てられる。
もう何十合打ち合ったことだろう。残像が虚空に∞の字を描き、両者が宙空でランデブーする度に、ただただキマイラの身体にばかりいたずらに傷が増えていく。
アサシンの攻撃力は決して高くはないが、こうも連続して打ち込まれれば蓄積したダメージは無視できない大きさになる。
現にその翼のはためきも、爪を振るう腕も、その勢いを目に見えて落とし始めていた。

(この女……!)

ライダーは屈辱に相貌を歪ませる。有翼の獣に跨り空を駆ける――それは彼が最も得意としていたスタイルであった。
そしてそれは一度とて破られたことはない。ひとたび天に舞い上がれば、地上の雑兵どもは為す術もなくただ己の勇姿を呆然と仰ぎ見ながら討たれていくだけだった。
いつだってそうだ。自分は見上げられる側の人間だった。戦場では常に、敵を見下ろしながら一方的に勝利を手にしてきたのだ。
それをこの女は、天に立つ自分と『同じ高さ』からこちらを攻め立ててきている……!

追加の一撃が右翼に打ち込まれ、キマイラの巨体が大きく揺れた。
幾度と無く斬りつけられたダメージがついに限界に達したのだろう。右の翼には大きく亀裂が走っていた。
ライダーは強引に両翼の動きを制御して姿勢を立て直すも、もはやこの状態では空中戦の続行が不可能なのは明らかだった。

「どうやらここまでのようね、ライダー」

背後からアサシンの言葉が投げかけられる。

「そんな怪物をこうも自在に乗りこなすなんて大したものだけど、三次元的な空間認識が甘いわね。
 貴方、ひょっとして『空対空』戦の経験はないんじゃない?」
「……ッ」

アサシンの指摘に、ライダーは返す言葉もなく歯噛みする。
そしてアサシンは進行方向を直角にねじ曲げ垂直上昇。数十メートルの距離を一気に駆け上がると頂点で反転し、ライダー目掛けて急降下した。
自身の推進力に落下速度を動員した突撃はこれまでのドッグファイトを遥かに凌駕する鋭さで繰り出される。

その攻撃に、ライダーは一瞬反応を迷った。
無理もない。何せこの騎兵にとって『真上から攻撃される』などという事態はついぞ経験したことがなかったのだから。
上から攻撃を仕掛けるのは常に自分、それを為す術もなく受けるのが敵。
その構図が今、完全に覆されたのだ。
敵が真上から猛然と襲いかかり、真下の自分は為す術もなくそれを見上げている。
……この自分が? 敵を? 見上げて?

「――こ、」

上空、己より高い位置から向かってくるアサシン。
その面貌を仰ぎみた瞬間、ライダーの双眸が憤怒の炎に燃え上がった。

「このオレを――見下してんじゃねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

直後に生じた爆発音。何であろう、それはキマイラの大翼が音速を突破する速度で空気を叩いた破裂音だった。
傷ついた翼で強引に大気を掻き、キマイラにまたがったライダーはまさしく爆発的な速度で急上昇、降下するアサシンに真っ向から突進し、
そのまま手にした槍を投げ放った。

「落ちろアサシンッ!!」

雄叫びと共に槍が翔ぶ。アサシンが認識するライダーの間合いよりも遠方より先んじて放たれたそれは通常ならば避けようのない奇襲だっただろう。
両者の相対速度と相まって刹那の内に迫る槍。だがそこで予想だにしない事が起こった。
今まさに槍で貫かれんとしたアサシンの姿が忽然と消え失せたのだ。
ライダーは思わず目を見開く。だが見間違いなどではなく、アサシンは影も形もなく、
そこには代わりに一匹の羽虫が――

「……ッ!?」

だが、次の瞬間に羽虫の姿は消え、アサシンの黒影がその姿を現した。
そこでライダーははたと気づいた。両者は出たり消えたりしているわけではない。
アサシンと羽虫、この二つは最初から同一の存在。
コイツ、虫に身体を“変化”させて投槍を回避したのか――!

「獲ったり、ライダー!」

槍を投げ、丸腰となったライダー。
その隙目掛けてアサシンの刃が迫る。

「やった……!」
「行けー! アサシンッ!!」

この瞬間、アサシンも、地上で見守る夏海とみことも、皆がその勝利を確信していた。
ただ一人、



「 屠 獣 (カ ウ ン タ ー)―――――」


このライダーを除いては。


「――――― 熔 鉛 (キ マ イ ラ)!!」



――その言葉を皮切りに発生した現象は、アサシンにとって全く慮外のものだった。
ライダーの投げ放った槍、その穂先の根元に括りつけられていた金属球がにわかに膜状に広がり、
食虫植物のような動きで背後からアサシンへと襲いかかり瞬く間にその身を包み込んだのだ。

「――なっ」
「え……?」

呆然とした夏海とみことの前に、ドスンと重たい音を立てて落下する鉛球。

「あ――アサシン!?」

夏海は己のサーヴァントの名を叫ぶも、それに応じて姿を表す影はない。
直径2メートル近い大きさにまで膨らんだその中に、彼女らの頼みの綱であったサーヴァントが封じ込められたのはもはや動かしようのない事実だった。
槍の柄に括りつけられていた金属球、それは単なる球型柄頭などではない。
自在に展開し標的を包み込む流体金属。これこそが、ライダーの切り札たる宝具『屠獣熔鉛(カウンター・キマイラ)』の真の姿であった。

「……まさか、こんなに早い段階でこいつを使う羽目になるとはな」


一拍遅れてキマイラに乗ったライダーが地面に降り立つ。
向こうに鎮座する自身の宝具を見て、彼は苦々しげに口元を歪めた。



「たかが暗殺者と侮って掛かったツケが高くついたな……おい」

舌打ちすると、ライダーは視線を二人の少女へと向けた。

「あの鉛球に閉じ込められた以上、もはや奴が自力で脱出することは不可能だ。
 勝負は決した。お前らもこの聖杯戦争に挑んだ以上、負けた時の覚悟くらいは出来てるよな……?」

一歩ずつゆっくりと、騎兵を乗せた怪物がこちらに迫ってくる。
全身に傷を追いながらも、その獰猛な闘気は損なわれることなく全身から放たれている。
キマイラに携えられた獅子の面。その双眸と視線が交錯した瞬間、みことは本能で察した。

「あ、あ……」

自分は――まもなく目の前の獣に“喰われる”のだと。

「……ま、待って!」

まさしく蛇に睨まれた蛙のように身じろぎできなくなったみことの前に、夏海が身を乗り出した。

「アサシンのマスターはあたしなの。だから殺すのはあたしだけで……!」
「駄目だ」

夏海の訴えを、ライダーはにべもなく封殺する。

「そっちの女もマスターの一人なんだろ? だったら生かしておいてやる道理はない」

ライダーの言葉と共に、キマイラの獅子頭が牙を剥く。
その白く冷たい輝きを、みことは呆然と眺めていた。
……自分は一体何をしているのだろう。
“彼”を救うと息巻いておきながら、肝心要とサーヴァントとは喧嘩別れし、
今こうして為す術もなく犬死に同然に殺されようとしている。
おまけに自分だけではない、たった一人の、掛け替えのない親友の命すら危険に晒して……。


「二人仲良く――あの世へ行きな!」

大きく口を開いたキマイラが猛然と突進する。
剥き出しの牙を、今まさにその身に突き立てんと――



“――――Σταματήστε(止まれ)”


……反射的に目を閉じたみことの傍らを、そのとき澄んだ一声が通り抜けていくのが聞こえた。

「――なっ!?」

直後、ライダーが驚愕に声を荒げる。
おずおずと目を開くと、いかなる事か―――みことの眼前で、キマイラは今にも噛みつかんとした姿勢のまま、
まるでその場に縫いつけられたかのように動きを静止していたのだ。

「どういうことだ……キマイラ、動け! 何故動かない!?」
「……あ、あれ?」

夏海も目をぱちくりさせて驚きを顕にしている。
三者揃ってこの状況は慮外の出来事であったらしい。
ならばこの現象は――


「……!? 誰だ貴様っ!」

ライダーがみことらの背後に怒声を放つ。
それに反応して自分も後ろを向く。そこには一人の男が立っていた。
古めかしい衣装、月桂樹の葉の髪飾り、そしてその陰鬱な面貌。

「……キャスター!?」

見間違うはずもない、それはみことが呼び出したサーヴァントに他ならなかった。

「ど、どうしてここに……」
「……マスターが甚大な危機に陥ればサーヴァントにはそれが分かる。知らなかったのか?」

素っ気無く答えると、キャスターは身を寄せ合っているみことと夏海の眼前に割り込み、
目の前の怪物、そしてその手綱を取る騎兵の姿を見据えた。

「何があったのかと思って来てみたら、まさか敵のサーヴァントに襲われているとはな……
 だから安全な場所に閉じこもっていろと忠告したのだがな。案の定これだ」
「……う」

キャスターの言葉に、みことは顔を赤くして項垂れる。
ことここに至ってはもう言い返す言葉もない。


「……貴様、もう片方の女のサーヴァントか」

一方のライダーも、目の前に現れた男を凝視する。
キャスター。確かにマスターの女は男をそう呼んだ。
戦場に赴きながら一切の武装も伴わないその姿を見ても、目の前の男が魔術師の英霊なのは瞭然だ。
ならば、キマイラの全身の筋肉が麻痺したかのように硬直したのは何らかの魔術を仕掛けたということか?


「――“Δεν μπορεί να σταθεί στο χορό”」


キャスターの呟きと共に巨大な影がライダー目掛けて飛来する。
ライダーは手綱を思いっきり引き、キマイラの硬直した肉体を僅かに駆動させてギリギリのところで回避する。
難を逃れたライダーだったが、飛来した物体の正体を見極めたところで彼は愕然となった。
『樹』――おそらくは周辺に植えられた公園樹の一本であろうそれが、根をまるで足のように用いて眼前に“立って”いたのだ。

「“Δεν μπορεί να σταθεί στο χορό(どうして踊らずにいられるだろうか)
   Δεν κάνει καμία προσπάθεια να(こんなにも労せず舞うことができるというのに)……”」

キャスターの詠唱に呼応するかのように樹木が身を躍らせる。
それは、見ようによってはメルヘンチックな光景だと言えたかもしれない。
樹木が根を動かしてステップを踏み、茂る枝葉を振ってダンスを踊るかのように動いているのだ。
まるで絵本の中のような光景だが、しかしてその勢いが尋常ではない。
乱流の如き風圧を纏って大きく横薙ぎに幹を振るう樹木。それは攻城戦の破壊槌もかくやという勢いでもってライダーへと襲いかかる。
だが、それを受けるライダーとて尋常の兵ではない。キマイラの動きが本調子でないと見るや手綱から手を離し、
両手で握った槍でもって迫る樹木を一振りで両断してみせたのだ。
本業の槍兵にも劣らぬ槍技の冴え。だがその業前を嘲笑うかの如く、樹木は再び身を躍らせる。
両断された樹幹は何とその勢いを全く衰えさすことなく、二本となった樹身で双方向からライダーへと襲いかかっていった。

「なッ…!?」

ライダーは即座に槍を振るい、二つに分かたれた樹幹を連続で切り落とす。
だが、そうして生まれた四本の木片は、今度は四方から突撃を繰り出してくる。
これでは迎撃しても敵の手数を増やすだけ……そう察するも、キマイラの機動力を奪われたライダーは槍で応戦するしかなく、
振り払い、砕いていく度に宙を舞う木片はその数を増やしていく。


「“Πόσο μεγάλη είναι η χαρά(なんと大きな喜びだろう)
  Ας αργά ή νωρίς(早朝でも、夕暮れ時でも),
   Επιπόλαιες float(谷と丘の上を)
    Πάνω από την κοιλάδα και τους λόφους.(気軽に舞うことは)……”」

何合にも渡る打ち合いを経て、キャスターが操る踊り手の総数はいつしか二十を超えていた。
これほど手数に差が出ては、ライダーにも防ぎきることは叶わない。機銃掃射のごとき乱撃の中、打ち漏らした木片が幾つも身体に叩きこまれ、
その身には痣や傷がじわじわと増え始めてきている。

「……すごい……」

その光景を、みことは感嘆と共に眺めていた。
魔術の知識をもたない彼女にも、キャスターの操る術の高等さは理解できた。

「……」

一方のキャスターはそんな主の驚嘆も、敵の驚愕もまるで意に介さずただただ冷ややかに術の制御に精神を集中させていた。
敵を打ち倒さんというのではなく、まるで障害物を取り除こうとでもしているかのような淡々とした態度。
おおよそ闘争に臨んでいるとは思えぬ振る舞いが、対手たるライダーに激昂を滾らせる。

「貴様……舐めるのもいい加減にしろッ!!」

手綱を引いて、キマイラを強引に後方へと引き下がらせる。
すぐさま追撃せんと飛来してくる木片の群れ。
そこにキマイラの獅子頭が大きく口を開け、何とそこから紅蓮の炎を吐き出した。
口腔より噴出した火炎によって幾十もの木片は灰と化し、ついにその動きを止めた。

「……ほぅ」

これには少しばかり驚いたのか、キャスターが声を漏らす。

「随分と好き勝手してくれたな……だがこれで終わりだ!」

手綱から伝わってくる感触から、ライダーはキマイラの動きを縛る魔術の効果が既に薄れてきているのを悟った。
アサシンにやられた傷も、驚異的な再生力によって半ば治癒している。
万全ではないとはいえ、相手は白兵戦能力を持たないキャスターのクラス。真っ向からの全力突撃を放てば押し切れない道理は――


「……“ηρεμία(鎮め)”」

今、まさに飛びかからんと大地を踏みしめたキマイラの巨体が、そのときキャスターの一言によって制せられた。
一度目の時と同様に、まるで見えない鎖で縛られたかのように硬直するキマイラの肉体。
背上のライダーは、信じがたいという表情で目の前のサーヴァントを凝視する。

(……まさか、今の詠唱だけで術を掛けたというのか!?)

有り得ない出来事だった。今、ライダーが手綱を握るキマイラは正真正銘の『魔獣』――幻想種だ。
本来ならば幻想の中にのみ生存する獣。在り方そのものが神秘である彼らは、それだけで魔術を凌駕する存在だ。
その神秘の格はモノによっては五つの魔法と同等。その肉体は儀礼呪法クラスの大魔術とて簡単には通さない。
だというのに、たかだか一小節や二小節の詠唱だけで、こうも容易くその動きに干渉するなど……。

「“Μην βιάζεστε, διαμονή, (急ぐな、立ち止まれ)
   Ιδού, ο ίδιος παραμένει το μόνο σύννεφο billowed έξω.(見よ、月は留まり、去っていくのは雲だけ)……”」

術式を補助するための礼装も、陣もなく、ただ口頭での詠唱だけでキマイラを縛るキャスター。
続々と呪文が紡がれ、キマイラの肉体への負荷が刻一刻と増していくのをライダーは感じていた。
このままでは完全に動きを封じ込めれれ、下手すれば支配権を乗っ取られる可能性すらある。
焦燥感に苛まれ歯噛みする。そうこうしている最中にもキャスターはまるで歌うように滑らかに呪文を発し、術式を上乗せしていっている……

「……」

そこで、ライダーの思考ははたと立ち止まる。
“まるで歌うように”というよりも、これはむしろ――

「……なるほど」

ライダーの眼の色が変わる。と、同時に騎兵は右手に掴んだ槍を振り上げ、

「そういう――ことかッ!」

それを跨下のキマイラの脇腹へと思いきり、鞭のように叩きつけた。

『GUUUUURUUUUUUUUUUUOOOOOOOOOOOAHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH!!』

全身を走る激痛にキマイラが堪らず絶叫を轟かす。
突風と見まごうほどの莫大な音圧が、そのとき周囲の全ての音を一瞬でかき消した。
無論、それはキャスターの呪文も例外ではなく――


「―――!」

驚愕の表情でキャスターは口を動かすも、そこから発せられているのであろう言葉はキマイラの咆哮に掻き消され、ライダーの耳には聞こえない。
“聞こえない”。それを認識すると同時に、キマイラの肉体が戒めから解き放たれたのを感じた。

(やはりか……!)

本来、魔術師が唱える呪文というのは自分自身に訴えるためのもの。つまるところ自己暗示のためのスイッチでしかない。
だがそれとは逆に、呪文を“聞かせる”ことによってその相手に直に干渉する特殊な魔術体系も存在するという。
呪文に旋律をつけ、唄うように発する『呪歌』……眼前のキャスターが用いた魔術も恐らくはこのタイプだったのだろう。
そして相手に聞かせることで発動するというのなら、より大きい音で掻き消すことが出来れば術は打ち消されるということに他ならない。

『GUUUUUUUUUUUUUUUUUUUUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!!』

雄叫びとともにキマイラの巨体が地を跳ねる。
呪歌による枷から解き放たれた怪物はこれまでの鬱憤を晴らすが如く筋肉を躍動させ、砲弾も同然の勢いで跳びかかる。
キャスターとの間合いはもはや十歩に満たず、その間を阻む障壁は皆無だった。

「その首、貰ったぁッ!」

勝利の確信と共にライダーは鬨(どき)の声を上げる。
しかしその快哉は、


「――“θα κοιμηθεί απαλά στα χέρια μου( 安 ら か に 眠 れ 我 が 腕 の 中で)”」


潸然と響き渡った一節の歌声によって阻まれた。



X          X          X          X          X



……何が起こったのか、ライダーは理解できなかった。
まずキマイラの咆哮。周囲の大気をあれほど激しく震わせていた轟音が、いかなる事か一瞬にして消え去ったのだ。
前兆も脈絡もなく訪れた一瞬の静寂。そこに覆い被さるように紡がれたキャスターの呪文。
それによってキマイラの挙動はまたも標的の目前で制止させられることとなった。
ライダーは改めてキャスターを瞠目し、そこで眼前のサーヴァントの手に握られた“それ”に気づいた。
キャスターの手にいつの間にか握られていたもの、それは一挺の『竪琴』だった。
陽光のように淡く輝く竪琴(キタラ)。そこに張られた弦の一本一本が、内側で膨大な魔力を渦巻かせているのをライダーは霊感力によって知覚する。
推し量るまでもなく、あの竪琴はキャスターの宝具に相違なかった。
――あれを使って、奴はキマイラの咆哮を無効化したというのか?

「……音というのは、その実態は空気を伝わる波だ」

ポン、と竪琴の弦を一本弾いてキャスターは口を開いた。

「だからこうやって何らかの形で“全く位相が逆の音”を発すればどんな轟音だろうと相殺し無音に戻すことができる。
 驚くことはない、ごく単純な原理だ……」

何でもないことのように言い放つキャスター。だがそれを聞いてライダーの驚愕は一層大きさを増す。
確かに理論的には可能なのかもしれないが、あの一瞬でキマイラの咆哮の音域を見極め、
更にそれと全く逆位相の音を竪琴を弾いて正確に発するなどということを、現実に行える者がいるというのか?

(……いや)

心当たりはある。これほどの楽才、魔力を持った歌声、そして何より自身の象徴たる宝具を“竪琴”に定めた英霊となれば……

「オルフェウス――貴様、“竪琴弾き”のオルフェウスか!?」

これだけ揃えばもはや間違えようがない。
目の前のサーヴァントはギリシャ全土にその名を知らしめた歌聖、オルフェウスに相違なかった。

「お、オルフェウスですって……?」

その名を聞いて、みことは己のサーヴァントを瞠目する。

「……え、誰? 有名な人なの?」
「ちょっ、夏海知りませんの!?」

オルフェウス、類まれな音楽と歌の才能を持った神代の歌人。
彼の奏でる調べは鳥や獣をも虜にし、草木を踊らせることすら可能にしたという。
その伝説は数多くの芸術作品に主題として取り上げられており、知名度は充分にあるはずだが……。

「いやー、あたしあんまり本とか読まないからそういうの疎くって」
「夏海、あなた……」

みことは呆れたように肩をすくめ、改めてキャスターに目を向ける。
宝具を出した時点で覚悟はしていたのか、真名を看破されたことで取り立て狼狽するような空気は見られない。
相も変わらず、暗澹たる面持ちのまま眼前のライダーと向き合っていた。

「なるほどな、道理で……」

ライダーはようやく得心したという様子でキャスターを捉える。
真名が明らかになった今では、魔獣キマイラにああも容易く術を掛けたのも納得がいく。
その歌と竪琴の調べは、かの地獄の番犬すらも調伏したと言われているのだ。
幻想種相手の魔術戦は不得手どころかむしろ奴にとっては真骨頂と言えるだろう。

「まさか、かの竪琴弾きと矛を交える機会があるとは……くく、これが聖杯戦争の妙というものか」
「……そういう君は」

そこで、ふとキャスターが口を挟んだ。

「そういう君は、もしやベレロフォンではないか? ライダー」
「ッ!?」

キャスターの発言にライダーが目を見開く。

「あれほど自在に魔獣を乗りこなす騎乗術。それに何よりその黄金に輝く手綱、
 同郷の人間なら見間違うはずもないさ。“天馬騎兵”ベレロフォン」
「………」

真名を看破し返されたライダーは、むしろ清々しいほどの様子で表情を引き締める。
古代ギリシャにて、戦女神から手綱を授かり、天馬ペガサスに跨って大空を駆けた英雄、ベレロフォン。
それこそがライダーの真なる威名であった。

「……そうだな。当たりだよ。
 全く驚きだぜ。こんな所で“同じ格”の英霊と相まみえることになるとはな」

竪琴弾きのオルフェウス。
天馬騎兵ベレロフォン。
直接の面識はない二人だが、両者の繋がりは同じギリシャ神話にその伝説が綴られたというだけには留まらない。
ギリシャ神話に登場する数多の英傑たち。その中でも筆頭とされる七人の英雄。
その名も高き“ギリシャ七英雄”。キャスターとライダー、彼らは共にその一角を担う存在であった。

「だが、何故今の君はキマイラなどに乗っているのだ? それは君が討ち倒したはずの怪物では」
「それは聞くな」

キャスターの問いかけを黙殺するライダー。
だが彼の言うとおり、ベレロフォンは“ペガサスに乗ってキマイラを打破した英雄“だ。
それがキマイラに乗って戦っているなどということは普通に考えれば有り得ないことではある。



『――ペガサスはいない、ですって?』

ライダーが現世に召喚された夜、召喚者たるファーティマも同じ疑問を口にした。

『ああ。この聖杯戦争というシステムだが、どうやら生物をそのまま宝具として再現することまでは出来ないようだ。
 自前で幻想種を召喚する能力があれば呼び出すことも出来るんだろうが、あいにくオレにはないのでな』
『じゃあ……』
『何、心配は無用だ』

そう言って、ライダーは虚空から金色に輝く一本の手綱を出現させてみせる。

『こいつは括りつけた騎乗物に“何であれ”魔獣の格と力を与えることが出来る。
 生前は天馬がいたから能力を発揮する機会もなかったが、こいつがあれば乗機には事欠かねぇよ』

それは、『屠獣熔鉛(カウンター・キマイラ)』と共に彼が携えたもう一つの宝具、
戦女神アテナより賜りし神器、『黄金の手綱(ポリュエイドス)』に他ならなかった。

『馬乗りが本分とはいえ、オレなら他の獣だって十全に乗りこなせる。
 獅子でも虎でも、好きな得物を持ってくりゃあいい』
『ふぅん……』

何の気なしに発せられたライダーの言葉に、ファーティマは何やら考えこむような仕草を見せる。
この時、ライダーは知らなかった。自身を召喚したマスターが“死体細工”を専門とする魔術師であったことを。
その後、ファーティマはどこからか素体となる獣の骸一式を調達し、あろうことか彼の宿敵たるキマイラの複製を創り上げたのだ。

『どう、よく出来てるでしょう? これに貴方が手綱を掛ければまさしく神代の怪物をこの世に再現できるわ』

ファーティマの仕事は完璧だった。獅子の頭、山羊の銅、蛇の尾、まるっきり異なる生物同士の筋肉と神経を繋ぎ合わせ全ての部位を駆動可能にし、
おまけに如何なるからくりか、肺腑から炎を生成し噴出する器官まで精緻に再現してのけたのだ。

『……何、気に入らないの? 少なくとも貴方が生前乗ってた羽の生えた馬より余程実戦的だと思うけれど』

自分のマスターという立場でなかったらその場で括り殺してやってもいい憤慨ものの発言だったが、
業腹ながら認めざるを得なかった。これほど凶悪無比な騎獣など、現世では他に望むべくもない。
それに、そもそもこの怪物の恐ろしさは『自分が一番良くわかっている』のだ。



――しかし、その謹製のキマイラも今はハリボテ同然の有様だった。
キャスター、オルフェウス。その魔性の歌声に骨抜きにされたのか、
魔獣は全身の筋肉を完全に弛緩させ、ぐったりと四肢を投げ出して意識を失っていた。

「……まあ良い。何れせよ、そのキマイラはもう覚めることのない眠りについた」

キャスターがその手に顕現した宝具、『魂響の竪琴(フォルミンクス・アポロ)』。
その音色と共に発せられた呪歌は魔獣キマイラの持つ抗魔力を完全に突き抜け、その調べは魂の深奥にまで響き渡っていた。

「先ほどのように時間経過による劣化も起こらない。私自らが解呪するまでその獣は目覚めはしない。
 どうする、ライダー? 騎獣を封じられては戦闘の続行は不可能ではないか……?」
「……」

ライダーは目を眇めて、敵手たる同郷の英霊を見据える。

「なるほどな、流石はその名も高きオルフェウス。見事な業前だ。
 同じギリシャの英雄として敬服しよう。―――だがな」

しかと手綱を握りしめ、ライダーはカッと双眸を見開いた。

「この程度でオレを縛ったなど――思い上がるなよ楽士風情が!!」

咆哮とともにライダーの全身から魔力が迸る。
湧き上がった力は握りしめた手綱を通して跨下のキマイラへと流れこむ。

“……目覚めろ、キマイラ! このオレの騎獣となった以上、無様に倒れ伏すことなど断じて許さん!”

確たる一念を持ってライダーは手綱を引き上げる。
それに呼応するかのように、意識を失った筈のキマイラの四肢があろうことかゆっくりとその身を持ち上げ始めた。

「……何だと……!?」

その光景にキャスターは驚愕する。
『魂響の竪琴(フォルミンクス・アポロ)』によって強化された呪歌は完全な形でキマイラの心身を拘束した。
外部から他者が解呪することなど出来るはずがない。
……いや、そもそもライダーは何ら魔術的な措置は行ってはいない
信じがたいが、あのサーヴァントは『獣を乗りこなす』という技能だけでもって、魔術的に拘束されたキマイラ覚醒させている――!

そうはさせんとキャスターが再び竪琴を爪弾く。術式の補強によってキマイラの四肢はみるみるその力を萎えさせる。
だが、ライダーが強引に手綱を繰ると、またも怪物の巨体は魔歌の鎖を引きちぎらんとその筋肉を奮わせる。
――オルフェウスとベレロフォン。どちらも共に“魔獣を従える”ことに特化した技能を有する英雄同士。
両者の振るう神代の御業は、今ここで完全に拮抗していた。


「“Δώσε μου το χέρι σου, είσαι όμορφη και απαλή πράγμα!(手をお出し、美しく繊細なるものよ)
   Είμαι φίλος και όχι να τιμωρήσει.(私は君の友であり 罰するために来たのではない)
    Έχε θάρρος! Δεν είμαι άγριο(心をしずめて。私は君を傷つけないから)……!!”」

竪琴の奏でる調べと共に、キャスターは更なる呪歌の詠唱を重ね掛け、キマイラの動きを封じこめんとする。
ライダーが送り込んだ魔力によって、今キマイラの肉体に脈動するエネルギーは先程までとは比較にならないレベルに膨れ上がっている。
ここで呪歌による拘束を振りきって飛び出されたら、その勢いは自身と、その後ろに控える二人の少女を一瞬で粉砕してもおかしくはない。
一部の気の緩みも許されない。拮抗しているようでいてその実、今の自分は追い詰められたも同然の状態だ……!!



「うぅぅぅぅぅぅぅうおぉぉぉぉぉおぉぉぉおおおおおおおおおお!!」

一方のライダーも、キャスターの呪歌に対抗せんと激しく両手で手綱を振るう。
何とかして一刻も早くこの拮抗状態を打破せねば……! ライダーは眼球を一瞬チラリと動かし、離れたところに鎮座する巨大な鉛球の様子を伺った。
『屠獣熔鉛(カウンター・キマイラ)』。それは、包まれた相手が内側から壁に攻撃を加えればその衝撃を相手へと跳ね返す効果を持つ。
ゆえに一度拘束されれば内側から破ることは決して叶わない。
だが、展開拘束状態の『屠獣熔鉛(カウンター・キマイラ)』はその維持にかなり大きく魔力を消費する。
キマイラを起動させるために魔力を注ぎ込んだこともあって、その拘束の持続には限界が近づいていた。
キャスターも、後ろのマスター二人も気づいてはいないようだが、既にその表面はボロボロと剥離し始めている。
相手が無知な獣であれば、攻撃の反射などお構いなしに暴れまわってとっくに自滅していてもおかしくはないのだが、
今、中にいる暗殺者の英霊はそんな蒙昧ではない。むしろ宝具の限界を察して飛び出す機会を虎視眈々と伺っていると考えるのが常道。
ゆえに、この状況が長引けは自分は圧倒的不利に立たされることとなる。
一部の気の緩みも許されない。拮抗しているようでいてその実、今の自分は追い詰められたも同然の状態だ……!!


キャスターとライダー。二人の英霊の手によってキマイラは覚醒と昏倒を連続で繰り返し、痙攣も同然の有様でその巨体を小刻みに振るわせる。
二人のサーヴァントがせめぎ合う極限状態は、背後のみことと夏海にも呼吸すら忘れさせるほどの緊張をもたらしていた。

「みこと……」

耐え切れず、夏海が不安げな声を漏らす。

「……大丈夫よ、落ち着きなさい」

そう宥めてみるも、内心穏やかでないのはみことも同様だった。
今にも眩暈を起こして倒れそうなほどに、心中はざわめき極度の不安と緊張で押しつぶされそうになる。
だが、ここで倒れる訳にはいかない。今、自分たちを守ってくれているサーヴァント、
それを現世に留めているのは他ならぬ自分自身なのだ。
体内にひりつくような痛みを感じる。あの夜、キャスターを召喚し実体化させた時のように
みことの全身はサーヴァントの力を引き出すために今も魔力を生み出しているのだろう。

「今は、信じるしかないわ……キャスターを」

二人の少女が見守る中、騎兵と魔術師は互いの持てる技を駆使して鎬を削りあい続ける。
何人たりとも割りこむことなど出来ぬ英霊二人の拮抗状態。
そこに、不意に言葉が投げかけられた。


「――――随分と苦戦しているようね、ライダー」

四者が一斉に声の主へと目を向ける。
いつの間に現れたのか、一人の女の姿がそこにあった。
みことらよりも幾分年上だろう。褐色の肌に、黒い髪。眼鏡を掛けた理知的な風貌の美女だ。
サーヴァントの気配ではない。にも関わらずこの状況に首を突っ込んできたとなれば……

「……ファーティマ!?」

最初に反応を示したのはライダーだった。

「何故ここに……お前、工房にいたはずじゃなかったのか!?」
「ええ、そうよ。でも見ていられなくなってしまって」

二人のやり取りを見て、残りの三人も理解する。
この女が、ライダーのマスターに違いない――

「初めまして、お嬢さん方。私はファーティマ・アブド・アル・ムイード。
 ライダーのサーヴァントを召喚し、此の地で開かれた聖杯戦争に挑むマスターの一人です」

女は微笑を浮かべながら朗々と名乗りを告げる。
そのあまりの慇懃さに逆に不気味なものを感じ、みことと夏海は後退り距離を取る。

「まあ、そう警戒なさらないで。私は話し合いがしたくて参っただけですから。
 ……志那都みことさん?」

不意にフルネームを呼ばれて、みことはビクリと身を震わせた。

「実は折り入って貴方に交渉したいことがあるのです」
「い、一体どういう用件ですの!?」

自分の名前を一方的に知られていたことで、みことは一層警戒の念を深める。
だが次に続いた言葉は、彼女の全く予期せぬ内容だった。

「はい、もし私の願いを聞いてくれたならその御礼として、
 “貴 方 の 恋 人 の 身 体 を 修 復 し て”差し上げます」


――――それを聞いた瞬間、みことは目を見開き、心臓を大きく高鳴らせた。


「な、何で……」
「何で知っているのか、ですか? それくらいちょっと調べれば分かることです。
 貴方の恋人は重傷を追って入院中。今も意識は不明。
 もはや治る見込みもなく、貴方は最後の手段たる願望機を求めてこの聖杯戦争に参加した。そうですね?」

みことは絶句する。ファーティマ……この女の言うことは何から何まで事実だった。

「ですが、医学では治る見込みがなくとも、私の魔術の業をもってすれば貴方の恋人を修復することは可能です。
 全ての破損部を修復し、以前のように歩けるように、喋れるように、笑えるようにして差し上げますよ」

最早どうやって調べたのかなどと問いただすことも忘れて、みことは衝撃に打ち震えていた。
“彼、”を元通りに戻すことができる……それが事実なら、自分は――――

「……本当に、そんなことが……」
「ええ、勿論です。そのためには、ただ一言」

ファーティマは優しくみことに微笑みかけ、そして告げた。

「こう言ってくれるだけでいいんです。“令呪を持って命ずる。キャスター、自害せよ”と」

その発言に、その場にいる全員に戦慄が走った。

「な、何を言ってやがるファーティマ!!」

ファーティマが提示したその内容。
それに最初に反応を示したのはまたも彼女のサーヴァントだった。

「キャスターはオレがこの手で打破する! 余計な真似をするんじゃねえ!」
「強がりはよしなさい。それが出来そうにないからわざわざこうして出向いてきたんでしょう。
 いいから貴方はキマイラの制御に集中して、そのままキャスターを抑え込んでいればいいから」
「……!!」

にべもなく糾され、ライダーは屈辱で口元を引きつらせる。
対照的にファーティマはにこやかな雰囲気を崩さず、再度みことに問いを投げかける。

「どうです? サーヴァントを失えば貴方の脱落は確定ですが、
 そもそも貴方の目的は『勝利すること』ではなく『恋人を元通りにすること』。
 その願いが叶うなら、敗退したところで問題はないはずです」
「そっ、それは……」

みことはそっと己のサーヴァントの様子を疑う。

「……」

相変わらず陰鬱一辺倒の面持ちを崩さぬまま、ただ眼前のキマイラに集中しているキャスター。
一見しても狼狽の色は伺えないが、自分の命を身代金も同然に扱われてるこの状況で一体何を思っているのか。

「私が約束を違えるかもしれないと心配しているなら、誓いを反故に出来ぬよう魔術的に契約を交わしても構いません。
 何なら自己強制証文(セルフギアス・スクロール)を作ってもいいですよ。……といっても貴方にはピンと来ないでしょうか」
「……」

ファーティマの言い分は最もだ。最後まで勝ち抜けるかどうかも分からない闘いを命懸けで続けるよりも、
今ここで彼女の交渉に応じたほうが確実に望みは遂げられる――――

「いかがします? 悪い話ではないでしょう」
「そう、ですわね……決めましたわ」

微笑むファーティマに、みことは毅然と表情を引き締め、そしてキッパリと口にした。

「その申し出―――――お断り致しますわ」
「……えっ?」

断られるなどまるで思っていなかったのか、ファーティマは鳩が豆鉄砲食らったように目を見開く。

「な、何故です? これなら貴方の望みは確実に叶うのですよ?」
「確かにわたくしの望みは叶うかも知れません。でも、それではわたくしのサーヴァントの願いは果たされません」

そう言ってみことはキャスターに言葉をかける。

「キャスター、あなたが聖杯に掛けた願いというのは、あなたの妻エウリュディケを復活させることなのではありませんか?」
「――ッ」

その名前を聞いて、キャスターはついぞその鉄面皮に変化を見せる。
オルフェウス。彼の主たる伝説とは愛する人の喪失と再生を巡る物語だ。
婚姻の直後に、愛する妻を毒蛇の一噛みによって失ったオルフェウス。
彼はその死を受け入れることが出来ず、単身で死者の国、冥府へと降り立った。
門を守る番犬も、死の川を塞ぐ船渡しも、その竪琴と歌が織り成す調べで魅了してくぐり抜け、彼は冥府の王の元へと辿り着く。
自らの悲痛な想いを歌に乗せて訴えかけた彼は、冥王の心までをも動かし、亡き妻を地上に連れ戻す許可を得る。
だがそこで交わされた“地上に戻るまで決して後ろを振り返ってはならない”という約束。彼はあと一歩というところで不安に駆られて後ろの妻を振り返り、
そして、最愛の人を永遠に失うこととなった―――――

「あなたの物語、小さい頃に読んだことがありますわ。
 愛する人を取り戻したい……その気持ち、今のわたくしには痛いほど分かります。
 ですから決めました、わたくしはあなたと“共に”聖杯を勝ち取ると!
 分かったらそんなところで立ち止まってないで、さっさとケリを付けなさい!!」
「…………」

みことの叫びに、キャスターは沈黙によって応じる。
言葉による返答はなかったが、何かに感じ入るように目を閉じたその面貌は、心の動きを雄弁に物語っていた。


「……はぁ、そうですか」

そこで、ファーティマが呆れたように肩を竦めた。

「そこまで言うなら私からはもう何も言いません。
 ですが、忘れていませんか? 貴方のサーヴァントは私のライダーと膠着して身動きがとれない状態」

ファーティマはすっと右手を上に掲げる。

「この状況で私が攻撃すれば、貴方がたにそれを防ぐ手段はないということを――!!」
「……貴方こそ」


――――そう言い放った直後、
褐色の女の首は一刀のもとに切り落とされた。


「誰か一人、忘れているんじゃないかしら。マスターさん?」

ゴロン、と音を立てて転がる生首。
断面から噴水のように鮮血を迸らせながら膝をつく首無の骸。
その後ろに立っていたのは――――

「……あ、アサシン!?」
「ごめんなさい。待たせたわね、ナツミ」

刃に付いた血を振り払いながら応じる黒衣の影。
それは鉛球に閉じ込められていたはずのサーヴァント、アサシンに他ならなかった。

「馬鹿な、貴様どうやって……!?」

驚愕の面持ちでライダーは『屠獣熔鉛(カウンター・キマイラ)』へ目を向ける。
剥落が進行し、幾らか崩れかけてはいるものの、まだ脱出できるレベルに達しては……
そこで、ライダーは思い出した。拘束の直前にアサシンが見せた術。
“小さな虫への変化”。あれれを用いれば、どこか一か所極小の穴が空くだけでヤツはその身をくぐらすことが出来る――――


「まさか、あんな宝具を持っているのは思わなかったわ……間一髪だったわね。二人とも怪我はない?」
「あ、あたしたちは大丈夫だけど……」

おずおずと、夏海は首と胴が分かたれたファーティマの肉体を覗き見る。

「この人……もう」
「ええ、死んだわ」

アサシンは躊躇いなく言い放つ。

「妾身が殺した。……そうしなければ、貴方たちが殺されていただろうから」
「……」

アサシンの言葉に夏海も、傍らのみことも黙りこむ。
目の前で人が殺される。そのような事態に遭遇したのは二人とも初めてなのだろう。
とりわけ、夏海にとっては自分のサーヴァントがこうもあっさり人の命を奪ったことに少なからずショックを覚えているのかもしれない。
だが、こればっかりは受け入れてもらうしかない。聖杯戦争に参加した以上、避けては通れないことだから。
アサシンは表情を引き締め、対峙する二人のサーヴァントへ顔を向けた。

「ライダー、貴方のマスターはたった今討たれた。
 もうじき貴方は現界を絶たれ、この世から消滅する」
「…………」

アサシンの宣告に、ライダーはうなだれるようにがくりと頭を垂れる。

「……………………………………オレの………………
 ………………………………オレの……負けだ……」

俯いたまま、かすれ消えそうな声でライダーは言った。

「………………だが……このまま消えるのは心憎い……
 最後まで闘いを全うしたい……アサシン……最後は、せめて……お前の手で……」
「……分かったわ」

アサシンはキマイラの上に飛び乗り、ライダーの背後に立った。
ライダーの身が小刻みに震え上がる。

「安心しなさい。痛みも感じないよう一瞬で終わらせるから」

匕首を構え、その首に狙いを定める。

「……じゃねぇ……」

そこでふとライダーが言葉を発した。
……今、何と言った? アサシンは手を止めてライダーの顔を覗き込む。

「……ふざけんじゃねぇぞ…………」

その相貌の凄まじさに、アサシンは思わず息を呑んだ。
大きく見開かれた目は炎のように滾り、噛みあわせた歯は自ら砕かんばかりにギリギリと音を立てる。

「……ライダー?」

正面に立っていたキャスターも異変を感じ、怪訝な表情を浮かべる。
これが今から死のうとしている男の顔か?
とてもそうは見えない。この表情はむしろ……


「……ふざけんじゃねぇぞファーティマァァァァァァァァァァァァァ!!」

怒り。その面持ちに瞭然と刻まれた激昂の感情そのままに、ライダーは絶叫を上げた。

「よくも……よくもこのオレに……“ 負 け た ”な ど と 言 わ せ て く れ た な!!」

それと同時に、信じがたいことが起こった。
みことと夏海の傍らに伏していた首無し死体。
それが猛然と飛び上がって、二人の少女の身体を押さえ込んだのだ。

「なッ……!?」

その光景を見てアサシンは悟る。
ライダーのマスター、あの魔術師は“死体を操る”ことが出来る。
先ほど自分が首をはねたのはマスター本人ではない。そのように偽装した死体だったのだ。
すぐさま二人のもとへ向かわんとするアサシンを、更なる衝撃が襲った。
キマイラ。その腹が突如として爆ぜ割れ、中から飛び出た腸が触手の如く伸び広がって瞬く間にアサシンと、正面にいたキャスターにも巻き付きその身を締め上げた。
両手両足に加えて顔面にも腸管が巻きつけられ、二人のサーヴァントは身動きも言葉を発することもできない。
それを驚愕の表情で見据えるライダー。どうやら彼も、自身の騎獣にこのような仕掛けがあるということは知らされていなかったらしい。


「仕方ないじゃない、この娘たちからアサシンを引き離すにはあれが一番手っ取り早かったのよ」

地面に転がった生首が平然と言葉を発し、ライダーに応える。

「しかし貴方も頑固ね。こころよく承諾してくれればわざわざ令呪を使う必要もなかったのに」

ゴロンと首を回転させ、ファーティマ――この場にはいない本物の彼女は、断ち切られた死体頭部の視覚を通じて
死体胴体部によって押さえ付けられた二人の少女に目を向ける。

「あ、あなたこんな卑怯な真似をして恥ずかしくありませんの!?」

死体の手で頭を地面に押し付けられながらみことは目の前を転がる生首に向かって糾弾する。

「そ、そうだよ! それにこんなふうに死んだ人の体を道具みたいに使うなんて、酷いと思わないの!?」

背中にのしかかられた夏海も同様に声を荒げる。

「卑怯? 酷い? 言ってる意味がよく分かりませんね。
 大体死体を使役することが酷だというのなら、この聖杯戦争はどうなるんです?
 遠い昔に死んだ英霊を蘇らせ使い魔とする――――それは屍人形と何が違うというのかしら」

最早根本的に価値観の異なる回答に、みことと夏海は絶句する。
……そのとき、二人は自分を押さえつけている死骸の体温が急激に上昇していくのを感じた。
そこで二人は気づく。そう、この女の操る死体はただ動くだけではない。
自爆――ライダーが現れる前に自分たちに襲いかかってきた死者の群れが行っていたそれを思い出し、全身に怖気が走る。
こんな密着状態で爆発されては間違いなく致命傷だ。おまけに先ほど守ってくれたアサシンも、キャスターも拘束されて身動きがとれない。
二人に打つ手はもう――――なかった。

「それではさようなら、お嬢さんがた。
 心配しないで。爆散した死体は綺麗に修復して、ちゃんと役立ててあげるから――!」


――――そこで、
今まさにその身を炸裂させんとした死体は“音もなく”バラバラになった。
体内の爆発機構が壊滅するほど細かくその身を寸断され、肉片が芝生の上へ舞い落ちる。

うつぶせにされていたみことと夏海も、巻きついた腸管で視界を封じられたアサシンとキャスターもそれを見ることは出来ず。
ただ、地面に転がった生首の両目だけが、その光景を目撃していた。


「――――ラ、
 ライ……ダー……?」

ファーティマの意識をトレースした生首は、唖然とした面持ちで目の前に立つ己のサーヴァントを凝視していた。
一瞬の出来事だった。みことと夏海を押さえ込んだ死体を爆破させようと術を繰ったそのとき、
キマイラの背上からライダーが疾駆の如く飛び出し、刹那の内に死体を槍でバラバラに切り裂いたのだ。

「な、何をしているの!? あと一歩で敵のマスターを二人まとめて倒せたというのに!」
「言ったはずだぞ、ファーティマ。余計な真似はするな、と」

もはや怒りの頂点を通り越したのか、冷たく凍るような視線でライダーは主の顔を模したその首を睥睨する。


「英霊同士の闘いに――――――茶々入れてんじゃねぇよ!!」

怒号と共に槍が振り下ろされ、女の首は原型も分からぬほどに砕け散った。


「……あれ?」
「な、え?」

自身を押え込んでいた圧力が消えたことにようやく気づき、みことと夏海をその身を立ち上がらせる。
主たるライダーがその身から降り、『黄金の手綱(ポリュエイドス)』の効力が失われたキマイラは、
その肉体を元の死体細工へと戻し、二度の戦闘にわたって蓄積したダメージの影響に耐え切れずぼろぼろと崩壊していった。
ほどなくして、腸管の拘束がほどけ、解放されたアサシンとキャスターが駆け寄ってくる。

「……ライダー」
「言っておくが、勘違いするなよキャスター」

ライダーは憮然とした面持ちで言い放つと、右手に携えた槍を背負った。
くい、指を手前に曲げると、展開された『屠獣熔鉛(カウンター・キマイラ)』が瞬時に野球ボール程の大きさに圧縮され、その掌中へと飛び込んだ。

「あんな形でマスターに水を差されて終わらせられるなど我慢ならなかったというだけだ。
 貴様とはいずれ、真っ向から決着を付けてやる。……アサシン、お前もだ。忘れるなよ」

ライダーはそう言い残し、瞬く間にその場から消え去っていった。


「……終わったの?」
「ええ、一応は」

夏海の問い掛けにアサシンが頷く。

「でも、勿論すべてが終わったというわけではないわ。
 聖杯戦争が続けばこういう死地に何度も遭遇することになる」
「……」

夏海は表情を曇らせる。……ふと、そこで、みことが蹲って何かを凝視しているのが見えた。

「夏海、これ……」


そこにはライダーが騎乗していたキマイラ、その残骸とでもいうべきものが残されていた。
獅子の頭に、ヤギの胴体……どうやらあの怪物は見た目通り複数の動物の死体を掛け合わされて作れたものらしかった。

「このライオンの頭、これってひょっとして……」
「……あ」

みことの言葉で夏海も思い出す。確か今朝のニュースで市内の動物円で飼育されていたライオンが急死したと伝えられていた。
そういわればその面影には見覚えがある。となればこの死体は……

「ううん、これに限ったことじゃない。他の動物も、それにあの人達だって……!」
「ええ、きっと自分で“用意”した死体なんでしょうね……」

みことの言葉に、夏海はぐっと拳を握り締める。

「この街を守るためにも、勝たなきゃならないよね……アサシン」
「そうね、妾身もそう思うわ」

アサシンは懐から小瓶を取り出し、その中身をキマイラの亡骸に降りかける。

「できればちゃんと弔ってあげたいところだけど……」

すると、その亡骸はみるみる内に水となり、地面に吸い込まれるように溶けこんでいった。

「これだけあると、そうもいかないしね。……それでもせめて土に帰すくらいはしてあげましょう」

同様の処置をそこら中に散らばった死体や肉片にも施し、数分と経たずに自然公園は普段通りの平穏な姿を取り戻した。
……だが、それはあくまで表向きの話にすぎない。
真の平穏を取り戻すためには、この聖杯戦争を終われせることしかないのだから―――




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憮然とした面持ちで、ライダーは根城たるホテルの一室に帰還する。

「おかえりなさいライダー。早かったわね」

そこに待っていた主は、ライダーの予想に反して実に安穏たる態度で出迎えた。
先ほど公園で行われた闘い。その最後に行ったライダーの行動は謀反と言ってもおかしくないものだった。
それなのに何ら糾弾する素振りもないとは……

「……怒ってないのか?」
「あら、何故私が怒らなければいけないの?」
「オレはお前の邪魔をしたんだが――」
「ああ、それならいいわ」

顔をしかめるライダーをよそに、ファーティマはにこやかに微笑んで応じる。

「令呪を一画消費してしまったのは惜しかったけど、収穫はあったわ。
 あなた、思ったより強いじゃない」
「……あ?」

その言葉に、ライダーはぽかんと口を開ける。

「最初にペガサスがないと言われたときはどうしようかと思ったけど、『黄金の手綱(ポリュエイドス)』の効果は予想以上に優秀だったし、
 特に、爆発直前で死体を一瞬でバラバラにされたのには驚いたわ。あなた、生身でも意外と強いのね。
 これなら今後の戦略を上方修正できるわ」
「……」

賞賛されてるのか侮辱されてるのかすらよく分からない発言に、ライダーは返す言葉もなかった。
一体、この女はどういう価値観で動いているのか……まるで理解できなかった。

「……そういえば」

そこで、ライダーはふと思いだした。

「お前あの時、相手のマスターの恋人の怪我を治すとか言ってたが、そんなことが可能なのか?」
「ええ、もちろん可能よ。完全に修復して元通りに歩いたり喋ったり出来るようにね」

ただし、とファーティマは指を一本立てて補足する。

「それには、彼女の恋人に一度“死体”になってもらう必要があるけど…ね」

ウインクしながらそう言い放つファーティマを見て、ライダーはいよいよ頭を抱えた。



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その日の夜。
みことは“彼”の病室を見舞いに訪れていた。

「……今日は本当に色々なことがありましたわ」

みことが言葉をかけてもいつも通り反応はない。

「聞いてください、赤城くんの身体を治せるかもしれない。その方法が見つかったんですの。
 ……いえ、“かもしれない”ではありません。必ず元のあなたに戻してみせますわ」

横たわる“彼”の手を握りしめ、みことは毅然たる態度で告げる。
今はこうしていても自分の手を握り返してくるような反応は見られない。
だがこの闘い、聖杯戦争に勝ち抜いて聖杯を手にすることが出来ればきっと――

「……ぁ…………が………」

握った手がにわかに痙攣を始めた。

「……ぐあ……が………あ……がががが……!!」
「あ、赤城くん……?」

まただ……また、拒絶反応による発作症状を起こしたのだ。

「ま、待っててください。今お医者様を呼びますから……!」
「ぁ……ガッ……ガ……ぁガ……ガガガガガ…!!」

ベッドに拘束されたま苦痛に身を捩り、悶絶する“彼”。
そのあまりの痛ましい様子に、みことは思わず目を背ける。
聖杯の奇跡、それを齎す戦いの参加権を得た所で
今の自分には何もしてやれない。その事実が歯がゆく、そして無力感となって突き刺さる。

「ガ……ガガガガガ…!! が……! ……ぁ―――」

そのとき、ふいに“彼”の呻き声が止んだ。

「……え?」

みことは“彼”の姿を瞠目する。
こんなにすぐに発作が収まったことは今までになかった。
いや、収まったどころではない。身悶えもなく、赤子のように安らかに眠るその表情は平時ですら見られないものだ。
まるで、“彼”の肉体を苛む苦痛が一片も残さず消えてしまったかのような――

そこで、みことは気がついた。
耳を澄ませば微かに聞こえる、病室の中にそっと響き渡るその音色に。
それは“竪琴”の音だった。



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病院の屋上の縁に腰掛け、猊下に街の夜景を一望しながらキャスターは竪琴を奏でていた。
その調べはかつて地獄で責めを受ける亡者の苦痛すら癒したもの。
この病院で床に伏せる患者たちを安らげるには充分に余りあるだろう。

弦を指でなぞりながら、キャスターは今日の戦いを回想する。
セイバー、ライダー、アサシン。この日彼が出会ったサーヴァントはいずれも劣らぬ英傑ぞろいだった。
自分が単なる一介の吟遊詩人としてこの現世に招かれていたのなら、喜んで彼らを題材に叙事詩を謳ったことだろう。
だが、今の自分にとってあの英霊たちは敵手。たった一つの聖杯を賭けて戦わねばならぬ相手なのだ。


「Ευρυδίκη(エウリュディケ)……」

最愛の女性の名を口にし、彼は覚悟を決める。


「“Ευρυδίκη, Ευρυδίκη(エウリュディケ エウリュディケ)!
  Ακριβά αποχρώσεις! Ω, πόσο μακριά είσαι;(亡き魂よ どこにいる)”」

一度ならず二度までも失った妻を想い、彼は歌った。


「“Ο άντρας σου, βυθίστηκαν βαθιά στο πένθος(汝の夫は 悲哀にくれ)
  και βασανίστηκε από τον πόνο,(苦痛を抱いて沈みゆく)”」

だがエウリュディケ。今度こそ、今度こそ君をこの手に取り戻してみせる。
もう決して振り返りはしない。



「“πάντα σας καλεί,(呼び続けよう 絶えることなく君の名を)
  απαιτεί ότι οι θεοί σας και πάλι.(神々が再び 君を返すその日まで)”」


負けるわけにはいかない。
逃すわけにはいかない。この好奇をどれほど待ち焦がれたことか。
勝つ。キャスターはそう決意を新たにする。
この戦争に勝利し、必ずや聖杯を手に入れて見せる。
私はそのために此処にいるのだ。
自分の愛する“彼女”を、


「“Οι άνεμοι, OH, απαγάγουν τις καταγγελίες του(たとえ風にその声を消されても)……”」


――――そして、自分の主が愛する“彼”を、死の淵から救い出すために。







    




             ───── Fake/firstwar fragments 『Der Tod und das Mädchen』  ~END~ ─────