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夏海と別れてから後、
志那都みことは水佐波市中心部にある総合病院の一室を訪れていた。

「失礼します。……ご気分は如何ですか? 赤城くん」

そう言って、みことはベッドに横たわる“彼”を見た。

それは、まさしく見るも無残な有様だった。
両足は膝から下で切断され、左腕は肩口から全て失われて最早その痕跡すら見えない。
頭部は首までびっしりと包帯が巻かれ、胴体からは何本も管が生えベッドの周りを取り囲む機械類に接続されている。

「今日、久しぶりに夏海さんと会いましたの」

みことが話しかける。
それに対し“彼”は何の応えも返さない。

「夏海ったら、わたくしの成績を心配してノートを貸してくれようとしたんですのよ。
 いつも試験前になると慌ててわたくしにノート写させてと言ってくるあの夏海さんがですよ……ビックリでしょう?」

ぼろぼろの体で身じろぎ一つせず倒れ伏している“彼”は、端から見れば生きているようにはとても見えない。
ただ、接続された心拍計のピッ、ピッ、という電子音の断続だけが辛うじて“彼”の存命を伝えていた、

「でもそのノート、ぐちゃぐちゃに書かれてて何が何だかさっぱり分かりませんでしたの。
 おそらく板書と先生のおっしゃったことを一つ残らず書き込んでいたんでしょうね。
 まあ、その努力は素晴らしいと思いますけどあれじゃあ本末転倒ですわ。
 本当に、何をやってるんでしょうね……」

みことなおも“彼”に向かって話しかけ続ける。
……本当はみことにも分かっている。
こうして話しかけていても、自分の言葉は“彼”には一片たりとも届かないということを。
こんな行為は言うなればただの独り言。自己満足でしかない。

(だけど……)

それでもみことは、毎日のようにこの病室を訪れ、“彼”に話しかけ続けていた。
こうして話しかけ続けていればいつか、“彼”が返事をしてくれるのではないか。そんな淡い期待を込めて。
それが在り得ないことだと頭の片隅で理解しながらも。それでも――

「本当に……」

本当に、何をやっているんだろう。自分は。




「赤城くん……」

みことは一本だけ残った“彼”の右手を握りしめる。

「あの日も、こんな風に手を繋ぎましたね」

あの日とは変わり果てた姿になってしまっていても、こうして手を握れば
微かだが“彼”の体温と、脈動を感じらることができる。
“彼”は生きている。間違い無く生きているのだ。

「お医者様には、赤城くんが意識を取り戻すことは諦めなさいと言われましたわ」

“彼”の手を両手で包み込むように握り、頭を垂れ、みことは祈るような姿勢で言葉を発した。

「でも、わたくしにはあなたを諦めることなんて出来ません……。
 お願いです、わたくしに出来ることならどんなことでも致します。
 ですから、どうか……どうか目を覚ましてください。
 もう一度わたくしに笑顔を見せてください……!」

みことの悲痛な祈りに、しかれど応えるものは誰一人いない。

「赤城くん……!!」

……異変が生じたのはその時だった。


「…………ぅ……」

“彼”の口元から微かに呻き声のようなものが漏れた。

「……えっ」

みことは驚き頭を上げた。
“彼”が……喋った?

「…………ぅ……ぁ……」

みことは耳を澄ます。
気のせいなどではない、間違いなく“彼”が声を発している!

「せ、先生ッ!」

みことがナースコールのボタンを叩き、直ちに医師と看護師が駆けつける。
脳波計の表示を確認して彼らは一様に驚愕をあらわにした。

「信じられない……微かにだが意識が回復している」

医師の言葉を聞いて、みことは総身が震えた。
間違いない。自分の祈りは……“彼”に届いたのだ!

「赤城くん! 分かりますか! わたくしです……志那都みことです!!」
みことは“彼”の耳元で叫び掛ける。

「……ぁ……ぇ……が………」

それに対し、再度“彼”の口から小さな声がこぼれ出る。
内容は不明瞭だが、間違いない。自分の言葉に反応してくれている!

「ああ……!」

みことは歓喜した。
奇跡だ。奇跡が起こったのだ。
神様はまだ自分たちを見捨ててはいなかった。
これできっと“彼”は元に戻れる。
また自分に微笑みかけてくれる。
きっと―――

「…………ゴフッ!」

みことがそう確信した瞬間、
“彼”の口から赤い血が吐き出された。



「……え、」

突如、鮮赤に染まった彼の口元。
その光景にみことは目を見開いた。

「……ごふっ! ……ゴハッ…ぐ……ガ……ガガ……!!」

断続的に血を吐き出しながらガクガクと体を痙攣させる“彼”。
その姿はまるで地獄の責め苦に身をよじる亡者のよう。

「先生! 患者の心拍数が低下しています!」
「強心剤の投与を! それから鎮静剤もだ。急げ!」
「ガッ! ぁ……ガガガッ……ぁ……ガ……!!」

にわかに騒然となる病室。
忙しなく動きまわる医師と看護師。
そんな中でみことだけが一人、呆然と立ちすくんでいた。

「わ、わたくしにも何かできることはありませんか!?
 彼の助けになれるならどんなことでも……!!」
「申し訳ありませんが」

みことの必死の申し出を、医師は厳然たる口調で制した。

「今、あなたに出来ることは何もありません。むしろここにいられると邪魔になります。
 申し訳ありませんが、ご退出ください」
「…………」

みことは為す術も無く病室を出た。

「ガッ! ぁ……ガガガッ…」

固く閉ざされた扉の向こうから、“彼”の苦悶の叫びが聞こえてくる。

「ぁ……ガッ……ガ……ぁガ……ガガガガガ…!!」
「……もう」

みことは扉の前で崩れ落ち、自分の両耳を手で塞いだ。

「……もう、やめて……
 どうして……何で……!!」

何で―――こんなことになってしまったの?



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志那都一族の歴史は古い。
もともと志那都は神主の家系であり、古くから水佐波の祭祀一切を取り仕切っている一族であった。
過去には地域一帯の中でも強い発言力を持っていたのだが、信仰が薄れてゆくにつれて
そんな力も弱まり、だいぶ前からただの寂れた神社の管理人という程度の位置づけになっていた。

しかし現在、志那都家当主が神社を統治する傍らで、その弟――つまりみことの父親が、
水佐波市の海上都市開発計画に尽力し、見事にこれを成功させたことで状況は一変。
志那都家は多大な財産と各方面へのコネクションを築き上げ、過去とはまったく違う形で
水佐波市の中で大きな発言力を持つことになった。

そんな志那都家の“忘れられた方”である神社。その祭殿の中心に、
志那都みことは一人、鎮座していた。


 たかあまのはらにかむつりますかむろきかむろみのみこともちて
「高天原爾    神留坐須   神漏岐   神漏美乃 命以知低……」

一心不乱にその口から紡ぎ出される言葉は『祝詞』。
神道における、神に捧げる祈りの言葉である。


 すめみおやかむいさなきのおほかみつくしひむかのたちばなのをとのあはきはらに
「皇親神伊邪那岐乃大神筑紫   日嚮乃  橘乃   小門乃  阿波岐原爾……」

みことの両親は彼女が幼い頃から多忙を極めており、兄夫婦に娘を預けることが多かった。
そのため小さい頃から幾度も伯父の祭事を見ていたせいで、みことはこの手の文句を粗方暗記していた。


 みそきはらひたまふときにあれませるはらへとのおほかみたち
「禊祓比給布時爾     生坐世留     祓戸乃大神等……」

もう一体、どれだけの時間こうしていることだろう。
とうに日は没し、伯父夫婦が既に眠りついたあとも、みことは一人止むことなく祈り続けていた。
祝詞を唱えながらみことは思い出す。
“彼”の苦悶。その悲痛な叫び声を。

……あの日、事故現場から近隣の病院に搬送された際、“彼”は間違いなく助からないと言われた。
肉体の損傷は完全に致命的なレベルに達しており、最早死を待つよりほかないと。
そんな“彼”に対し、みことは志那都家の力を使って何がなんでも“彼”を死なせぬよう取り計らった。
方々の医療機関にコンタクトを取り、国内では局の認可が降りていないような最先端の医療まで用いて、
結果、危篤状態の“彼”を奇跡的に延命させることに成功した。


もろもろまかことつみけかれをはらへたまひきよめたまふとまをすことのよしを
「諸々禍事罪穢乎    祓閉給比     清米給布登   申須事乃由乎……」

だが今日の“彼”の苦痛。あれはその先進医療が原因だった。
人工臓器の接続に不具合が生じ、肉体が拒絶反応を起こしたということだった。
“彼”はあの後数十分間苦痛に悶え、そしてまた意識を失いった。
まだ人体への影響が充分に解明されていない試作品。その使用を、“彼”が助かるなら構わないと推し進めたのは他ならぬみことだった。
勿論、“彼”の家族にも了承は得ている。だが決定を下したのは紛れもなく自分だ。

……わたしがやったことは、結局ただ“彼”の苦痛を長引かせているだけなのではないか?


 あまつかみくにつかみやほよろつのかみたちともに
「天津神     地津神    八百萬神等共爾……」


それに元を正せばわたしがあの日、デートしようなどと言わなければあんな事故は起こらなかったのだ。
或いは、あの日わたしが動物園に行きたいなどと言い出さなければ
或いは、あの日わたしが寝坊したりしなければ、
或いは、わたしが“彼”に告白なんてしなければ、
      .  ................
わたしが“彼”を好きになったりなんてしなければ―――


あめのふちこまの みみふりたてて きこしめせと かしこみかしこみもまをす
「天乃斑駒乃     耳振立低     聞食世登    畏美畏美母白須……」


みことは考える。
何でこんなことになってしまったのだろうか、と。

……何を、馬鹿な。そんなこと考えるまでもない。
       .............
そんなもの、わたしのせいに決まっている。

わたしと関わらなければ“彼”は傷つくことも苦しむこともなかった。
わたしが彼を地獄の淵に送り込んだのだ。

そうだ、わたしが悪い。わたしが。わたしが!
わたしのせいで。わたしのせいで……!!


「………ぅ……っく……ぅ……うううううう……!!」

祝詞はいつしか嗚咽へと変わり、閉ざされた祭殿にすすり泣きがこだまする。
それでも祈らずにはいられない。
わたしは自分の大切な人を傷つけ、苦しませ、そして何の助けにもなれずにいる。
だからせめて、せめてこうやって祈らせてほしい。


「………だれか……」

もう誰でもいい。神でも、悪魔でも。


誰でもいいから、“彼”を死の淵から救い出してほしい。
どうか、誰か、わたしの願いを聞き届けてください。


「それが叶うなら……」


もしそれが叶うなら、わたしは
この魂を捧げてもかまわないから――!!


…………みことが心の中でそう念じたが刹那、
祭壇から膨大な光の奔流が溢れ出た。
まるで雷が落ちたかのような閃光。そして轟音。

「……ッ! な……何……!?」

そしてその光の中からゆっくりと、『誰か』が姿を現した。
逆光で顔はよく見えないが、男だ。かなり上背のある体格。
大きな一枚布から作られた簡素な衣服を身に纏い、髪には月桂樹の葉が簪のように挿されている。
とても現代日本に暮らす人間とは思えない。
まるで古代神話の登場人物のような……

神話。
その言語を連想した瞬間、みことは己の考えに戦慄した。

「か……
 神…様……?」

まさか、本当に現れたというのか?
わたしの祈りを聞き届け、“神”が。
予想だにしなかった事態にみことは驚愕とともに放心する。
だが、それはすぐさま新たな別個の驚愕によって塗り替えられた。

「――いッ…!?」

激痛。まるで高圧電流を流されたかのような鋭い痛みがみことの全身を駆け抜けた。
喉が締まり、悲鳴すら上げられずにみことは床に倒れ伏せた。

「た……たす……け……」

祭壇より現れた男に助けを求めようと手を伸ばす。
その時、ようやく収まった閃光の影から浮かび上がった男の表情にみことは瞠目した。

“悲愴”
彫刻のように整った顔立ちに浮かぶ感情は、ただその一つに集約されていた。
悲痛、沈痛、哀愁、哀切。
あらゆる言葉を以てしても表現しきれないほどの深い悲しみを、男はたたえていた。


「…………Πού είμαι; ?」

男が口を開く。
発せられた言葉はみことの聞いたことのない言語だった。

「ιατί είναι ότι είμαι εδώ……」

男はみことに一瞥すらくれず、祭壇を降りてゆっくりと歩き出す。
その目の前には錠の掛けられた扉。


「……“ανοιχτό”」

男がそう口にした瞬間、正面の扉が誰の手も触れずに“ひとりでに”開いた。
……その光景でみことは確信する。
間違いない、本当に現れたのだ。神様が!
みことは男に追いすがろうと立ち上がるが、すぐさま自身の体を貫く激痛によって直ちにその場に崩れさせられる。

「ま、待って……!」

自身を阻む正体不明の激痛に焦燥し、困惑するみこと。
今の彼女には知る由もない……志那都一族に流れる異形の血、
その血が彼女の肉体に刻み込んだ『魔術回路』という神秘の機構が
彼女の生命力を『魔力』という超常のエネルギーへと作り替え、
それによって生じた反発が全身の神経に激痛を送り込んでいようなどと。

「“Ευρυδίκη, Ευρυδίκη!
  Ακριβά αποχρώσεις! Ω, πόσο μακριά είσαι;
   Ο άντρας σου, βυθίστηκαν βαθιά στο πένθος
    και βασανίστηκε από τον πόνο,……”」

何事かを呟きながら男は祭殿から去ってゆく。


「“πάντα σας καλεί,
  απαιτεί ότι οι θεοί σας και πάλι.
   Οι άνεμοι, OH, απαγάγουν τις καταγγελίες του.……”」


みことは崩れ落ち為す術も無く、薄れ行く意識の中でその光景を見ていた。
相変わらず男の発する言語の意味は分からない。何を喋っているのか……

――――いや、
喋っている、のではない。
内容までは分からないが、これは……


(…………歌……?)

そこで、みことの意識は闇に消えた。



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翌日、朝。
志那都みことは陰鬱な表情で通学路を歩いていた。

あの後、みことは祭殿の中で倒れているところを伯父夫婦に発見され、目を覚ました、
起きてから聞いた話によると、伯父夫婦がやってきたとき祭殿の扉は閉じたままで、しっかり内側から鍵も掛かっていたらしい。

(夢だったのかしら……)

あれほど身を苛んだ激痛も今では余韻すら残っていない。
祭壇周辺もあれから散々調べたが何の異常もなかった。
人が隠れられるような隙間も、ましてや外部から出入りできるような箇所は一切無い。
何もかも夢の中の出来事。そう考えるのが一番妥当だろう。

(でも……)

それでも、みことには一つだけ気になる事象が残っていた。
その存在に気づいたのは目を覚ました後なのだが。

「それならば、これは一体……」

みことがふと自分の左腕に目をやった……その時、
正面から一台の自動車がみことに向かってやおら信じがたいスピードで猛然と突っ込んできた。

(え?)

みことは目を見開く。
この角度、このスピードなら間違いなく自動車は自分に衝突する。
避けなくては――そう、考えるより先に、みことの思考は全く別の意識に埋め尽くされた。
向かってくる自動車。
その光景に、反射的に思い出してしまった。

あの日も……

そう、あの日もこんな風に車が突っ込んできて、
そして“彼”はあんな“ぐちゃぐちゃ”な体になって……

「――ッ」

“彼”の変わり果てた姿が脳裏に浮かび、全身が硬直する。
避けなきゃ。そう思っても体が言う事を聞かない。脚がすくんで動かない。

(……死、)


“死ぬ”
そう、みことが思った瞬間、自動車の四輪が突如として回転を止め、
地面との急激な摩擦で金切り声のような怪音を轟かせながら、
車はみことの紙一重手前で停止した。

「あっ……」

助かった……?
緊張の糸が切れ、みことは腰が抜けてその場にへたり込んだ。
心臓が激しく鼓動を打つのが感じられる。
その時、運転席から一人の男が姿を現した。

「おっとワリィ、驚かせちまったな嬢ちゃん。ほら立てよ」

白いスーツを羽織り髪をオールバックにまとめたその男は、
へたり込んだみことの手首を掴んでそのまま強引に立ち上がらせた。

「ちょっとよそ見してたもんでな。怪我はしてないか?
 ちゃんと歩けるか? 何ならお詫びに学校まで送ってってやるよ」
「…………い、いえ大丈夫ですわ。心配いりません」

ようやくみことは平静を取り戻した。
だがそんな彼女を無視して男は助手席のドアを開ける。

「別に遠慮するこたァねえって。ほら乗れよ」
「……いや、あの、本当に結構ですので……」

そこで、みことははたと気づいた。
男が乗っていた車は全体が黒塗り。ウインドウは全てスモークフィルムが貼られ車内の様子はまるで見えない。
それにこの髪型。この服装。
この男の人、ひょっとして……

「いいからごちゃごちゃ言ってねェでさっさと乗れって。話は事務所でゆっくり聞いてやるから……」
「けっけけけけけけ結構ですわ!!」

みことは男の手を振り払い、そのまま脱兎の如く逃げ出した。



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「あっ、……おいちょっと待て!」

怒声を発するも志那都みことは止まらず、猛スピードで走り去っていってしまった。

「……チッ、逃げ足の速ぇガキだ」

白スーツの男――菅代優介は苦々しげに舌を打った。

『これはこれは、振られてしまいましたなぁ主殿』

突如、優介の頭の中に人の声が聴こえてくる。
姿は見えないが、それを聴くだけで優介には声の主のニヤニヤした顔がありありと浮かんでくる。

『で、首尾の方は如何だったんでござるか?』
「両手の甲を確認したが、どっちにも令呪はなかった」

頭の中の声に返答し、優介は車に乗り込んだ。

「車で突っ込んだ時もサーヴァントを呼び出す素振りはまるでなかったしな……」
『となるとやっぱりあの娘子はハズレだったのではござらんか?』
「んー、この辺で他にマスターに選ばれそうなのはあとはあのガキくらいしかいねェはずなんだがな……」

革張りのシートに体重を預け、大きく息を吐き出す。

「それに令呪は手の甲以外の場所に発現してた可能性もある。
 クソッ、やっぱり無理やり引っ張り込んで裸に剥いちまえばよかったぜ」
『うっわー、その発言は正直逮捕モノでござるよ。ぶっちゃけ拙者マジでドン引きしてるでござる』
「てめぇ、そんな言葉遣いどこで覚えたんだよ」

優介は呆れたように言う。
未だに信じられない。こんな男が……過去にこの国で“英雄”として崇められていたなどと。

『でも結果的に良かったのではござらんか? もしあの娘子がサーヴァントを従えていたら、
 主殿、車ごとぶっ飛ばされてたかもしれなかったでござるよ』
「……そうならないようにてめぇを待機させてたんだろーが、アーチャー」

優介は眼球だけを動かして正面のビルの屋上を見やる。
彼は自身のサーヴァント――アーチャーをそこに待機させ、何かあったらすぐに援護射撃を行うよう命じていた。
アーチャーは「任せるでござるよ!」などと調子づいていたが、
今思うと、当てが外れたおかげで命拾いできたのではないか……。そう優介は思った。

その時、不意に屋上に立つ豆粒ほどの人影が動きを見せた。
遠すぎてよく見えないが、何やら手を振っているような……

(……まさか)

そちらに視線を向けたことに……気づいたというのか?


『それにしても珍しいでござるなあ、主殿がかような危ない橋を渡るなど。
 此度の戦、あまり乗り気でないのではござらんかったか?』
「乗り気じゃねえよ。……だが、あの手のシロートがマスターに選ばれて考えなしに戦ってみろ。
 色んな意味でこの街は終わりだ。そうなる前に手は打たなきゃならねえ」
『ほうほうなるほど、それは確かに。主殿は意外と仕事熱心なんでござるな』
「別にそんなんじゃねえ。オヤジの件でただでさえ協会に睨まれてんだ。これ以上揉め事増やされちゃ困るんだよ」

優介は内ポケットから取り出したタバコに火をつける。
紫煙が心地ゆく肺に満ちていく。
とりあえず志那都みことの件は保留。
何せやらなければならないことは他にも山ほど残っているのだ。

「ッたく……」

メンドくせぇことになっちまったな……。



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「あー」

昼休み。
市立水佐波高校の学生、高坂夏海は購買で買ったトマトサンドをぱくつきながら校舎裏をぶらぶらと歩いていた。


「ねっむー……」

昨日の夕方、アサシンが突如として発動させた予知能力。
それを聞いて昨夜は夜通し警戒を続けていたのだが。

「でもさー、結局昨日の夜は何もなかったね。
 アサシンが“始まるとしたら、今夜”とか言うからあたしスッゴイ心配してたのに」
「あら、妾身(わたし)は“始まる”と言っただけで、別にナツミに危機が訪れるとかそんなことは一言も言ってないわよ」
「えー! そういうことは早く言ってよー。おかげで午前中の授業、眠すぎて全然内容が頭に入ってこなかったんだからー」
「授業の内容が頭に入らないのはいつものことでしょ?」
「うっ、それは……」

ぐぬぬ、と歯噛みする夏海。
それを見てアサシンはふふん、と艶然に微笑み返す。
微笑み……だと思う、多分。

アサシンは実体化した状態で、校舎の壁に寄りかかっている。
全身黒装束という昼間の学校には不釣合すぎる格好にも関わらず、
周囲の風景に驚くほど自然に溶けこんでおり、“そこにいる”と分かっている夏海ですら
ちょっと気を抜くとその存在を見失いそうになる。
気配を、消す。
漫画などでしょっちゅう目にする言葉だが、それをこれほど忠実に実演できる存在がこの世にいるなんて。
おまけにこの程度の“気配遮断”は、彼女にとっては本気でも何でもないのだ。

「まあでも、昨夜何かが大きく動いたことは間違いないわ」

アサシンはそう言うと、校舎から離れてぐっと膝を屈める。

「ちょっと近場の様子を探ってくる。何かあったらすぐに念話で呼びなさい。いざとなった令呪を使っても構わないから」

夏海にそう言い残し、アサシンは地面を跳ねる。
次の瞬間にはもうその姿は完全に見えなくなった。
夏海は思う。今、彼女が見えなくなったのは気配を完全に断ったからなのか、
それとも一瞬で遥か遠くの視界外まで移動したからなのか、どっちなのだろうと。

(……たぶん、“両方”なんだろうな)

夏海は改めて、背筋がわななくのを感じた。




「……あー、それにしても」

夏海はぐっと背筋を伸ばす。
緊張した筋肉がほぐれて気持ちいい。

「泳ぎたいなー! 海でもプールでもいいから思いっきり!」

もう一体何日間この手と足は水を掻いていないことだろう。
水佐波のクロマグロたる高坂夏海にとってこれはもう生死に関わる問題だった。

「でもやっぱこれがなくなるまではちょっとムリかなぁ……」

夏海は左手に巻かれた包帯に目をやる。
これのせいで夏海は水泳部の活動も、体育の水泳の授業も見学せざるを得なかった。
彼女は生まれて初めて知った。楽しげに泳いでいる人間を陸地からただ見るだけ……これがどれほどの拷問なのかを。

「もういっそ適当に三回使って消しちゃおうか?」

夏海は包帯の結び目をそっとほどき、その下にあるものを覗き込む。
彼女の皮膚に、鮮やかに刻み込まれたその文様。
それは最初に出現したときと同じように、夏海の手の甲に断固たる存在を主張していた。

「んー、でも鉄にぃによく考えて使えって言われたしなー。さすがにそれはちょっとマズイか……」
「さっきから一人で何をブツブツ言ってるんですの?」

唐突に背後から掛けられた声に、夏海は心臓が縮み上がった。

「み、みこと!?」

振り返ると、そこに立っていたのは誰であろう志那都みことであった。

「きょ、今日は休んでたんじゃなかったの?」
「登校はしていました。ずっと保健室にいましたけれど」
「そ、そうなんだ……」

夏海は改めてみことの顔を見る。
彼氏の事故以来、心労でその相貌は日に日にやつれていっている。
目の下の隈はもう何日消えていないだろうか。

「大丈夫? あんまり寝てなさそうだけど」
「そうですわね……最近はひどく夢見が悪いもので」
「そ、そう……」

夏海は言いよどむ。
会話が途切れる。
沈黙。

「そ、そういえばさー。みこと何でこんなところに来たの?」
「この辺は日陰で夏は涼しくてオススメって、夏海に聞いたからですけど」
「あ、そ、そういえばそうだっけ……」

会話が途切れる。
再度、沈黙。

(……昔はこんなことなかったのに)

夏海がああ言えば、みことはこう言う。
それで幾らでも喋り続けていられるのが常だった。
一体、どうしたらみことは昔のような彼女に戻ってくれるのだろう。
アサシンに言われたとおり、今は放っておくしかないのだろうか。
自分にできることは何も無いのだろうか?


(……あー! もうどうしたらいいのかわかんないよ!!)

夏海は両手で頭をぐしゃぐしゃとかきむしる。
そんな彼女の姿をみことはじっと見つめ、そしてふと口を開いた。

「…………それは何ですの?」
「……え? 何が?」
「ですから、左手のそれは……」

そう言われて夏海はようやく事態に気がついた。
彼女の左手の包帯。それが手首までほどけ落ち、手の甲――そしてそこに浮かぶ文様が完全に露わになっていたのだ。


(――やばッ!)

しまった……さっき一度結び目をほどいたあと結び直すのを忘れていた!

「刺青ですの?」
「ちっ、ちちち違うよ! そんなワケないじゃん!」
「じゃあ何なんです?」
「あの、えーとね、あの……」

マズい、見られたときの言い訳を全く考えていなかった!
どうしよう……何といえばごまかせる?
この質感。この形状。これは――

「み、みみずばれ!」
「……はい?」
「これはみみずばれなの! あたしね、あの……タコ! そう、タコに触られるとアレルギーでこうなっちゃうの!
 何か模様っぽく見えるけどそれはただの気のせいだから!」
「アレルギー……」
「そう! 結構多いんだよ! ウチの家族なんて全員こうなるから!」
「……はぁ」

……………。
ごまかせた……かな?

「アレルギー……ですか」
「う、うん! もうホントいやんなっちゃうよねー! ……あ、そういえばみことはアレルギーとかないの? 花粉とか猫とかさー」

夏海は何とか話題を自分の左手から逸らそうと懸命に奮戦した。

「……特にはないですけど」
「そ、そうなんだー。いいなー……」
「……でも」

そう言って、みことは自分の左袖をまくりあげる。

「わたくしも今朝気づいたら……その“みみずばれ”が出来てたんです。
 タコに触った記憶は、ないですけど……」

露わになるみことの左腕。
そこにあったもの。
それは、紛れもない『令呪』であった。



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一人の男が、あてもなく山野を彷徨っている。
古色蒼然とした風体に、覆いきれぬほどの悲愴を携えて。


(…………ここは……)

見知らぬ土地で、男は考えていた。


(……ここは一体、どこなのだ?)

昨夜、自分は気がついたらこの地に足を踏み入れていた。
だが、いかなる形でいかなる所以で自分が此処を訪れたのか、その記憶が脳裏から欠落している。

(……どうして自分は此処にいるのだ?)

私が此処にいる理由。
思い出せない……何か、何かあったような気がするのだが。
何か……
自分は、何かとても大事な使命のためにやってきたのではなかったか――?

(……馬鹿な、ありえない)

己の考えに、男は自嘲めいた苦笑を浮かべる。
使命? 何を馬鹿な。そんなもの、あるはずがない。
この世界で自分がやるべき事などもう何も無い。
“彼女”のいなくなった、この世界になど何の意味も――


「現世の空気の味はいかがですかな? 英雄殿(ディエヘルデン)」

不意に、澄んだ声音が木々の間を通り抜ける。
目を向けると、一人の女がそこにいた。
白金のような長い髪。気高く凛然たる意志を伺わせる瞳は炎のように赤く輝く。
宗教的と言ってもいいほどの浮世離れした美貌。
だがそのような幻想的な雰囲気を、軍服と腰の拳銃が大きく否定していた。
異様。あまりに異質な存在感。

――何者だ? この女。


「おっと、自分としたことが偉大な先達に対し名乗りを怠るとは。
 失敬。無礼、許されよ。英雄殿(ディエヘルデン)」

男の心中を察したのか、軍装の女は恭しく頭を垂れ、そして言った。

「我が名はヒルデ。ヒルデガルト・フォン・ノイエスフィール。
 一騎のサーヴァントを従え、此度の戦争(クリーク)に参戦したるマスターが一角である」

高らかに、堂々と、軍装の女は名乗りを告げた。
だが、それを聞いて男は混乱にますます拍車を掛けることになる。
サーヴァント? マスター?
聞きなれない単語に眉をしかめる。さっきからこの女は何を言っているのだ?

男は改めて、ヒルデガルトと名乗った女を注視する。
彼女の漆黒の軍服、その腕に掲げられた鉤十字(ハーケンクロイツ)。
伊達や酔狂でそんな格好をしているでなければ、この女は紛れもなくナチス・ドイツゆかりの者だろう。
だがこの時代にはナチスはとうに滅んでいるはずなのだが――

(……?)

そこで男ははたと気づいた。
ドイツ。ナチス。軍服。拳銃。
何故自分はそんなものの知識を有しているのだ?
そんなものはどれも自分の生きた時代は存在していなかったのに……

(…………自分の……生きた……時代……!?)

そのことに気づいた瞬間、男は頭を押さえその場に蹲った。
在り得ない。だがはっきりとそう認識している。
自分は遥かな昔に、とっくに“死んでいる”ということを。
……ならば何故、今私は此処にいるのだ!?


「ふむ」

苦悩の面持ちでがたがたと身を震わせる男を見て、ヒルデガルトは呟く。

「どうやら記憶の認識に不具合が生じているようだな。召喚が不完全だったのか?
 気を、確かに。卿(けい)は時空を超えてこの地に召喚されたのだ。
 万能の願望機を賭けた、この戦に勝利せんがために」

ヒルデガルトは蹲る男の顔を直立姿勢で見下ろし、告げた。

「この――――“ 聖 杯 戦 争 ”に」


聖杯戦争。
その言葉を聞いた瞬間、男は全てを思い出した。
脳に電流が走り、情報の断片がみるみる内に一本の糸へと繋がっていく。
ああ、そうだ。何故今まで忘れていたのだろう。
私は英霊。死後に“座”へと至り、そして今サーヴァントというカタチを得て再びこの大地へ蘇ったのだ。
聖杯を勝ちとり、己が願いを、
狂いそうなほど思い焦がれた願いを叶えるために!!

「卿が最後の一騎、七番目に召喚されたサーヴァントだ。
 これより開戦の火蓋は切って落とされた」

男は立ち上がり、覚醒した瞳で軍装の女を見据える。
ヒルデガルト。七人のマスターの内の一角。
自分と聖杯を争う――対敵。


「……………ひとつ…………」
「ん?」
「…………ひとつ……聞きたいのだが…………」

ゆっくりと、男は言葉を置くようにヒルデガルトに質問する。

「…………何故……お前は私に……そんなことを……教えたのだ……?
 私の記憶が不確かなままにしておいたほうが……お前には……都合がいいだろうに……」
「ああ、それか」

ヒルデガルトは腰の拳銃を抜きながら答えた。

「自分は卿らに全力を持ってこの戦に臨んでもらいたいのだ。惚けた頭で来られては意味がない」

ホルスターから抜き放たれたそれはワルサーP38軍用自動拳銃。
装弾を確認する。問題ない。


「卿らが全身全霊で力を揮う姿。それを自分は“見たい”のだよ。英雄殿(ディエヘルデン)」

そう答え、ヒルデガルトはワルサーP38を自分のこめかみに押し当てた。
撃鉄を上げる。あとは引き金を……

「……ん?」

待て。
さっきから自分は一体何をしているのだ?
何故、自分で自分の頭に拳銃を押し当てているのだ?


「……そう……か………………」

ゆっくりと、言葉を投げかけてくる男。
そこでヒルデガルトははたと気づいた。

「……………………Ο…………θάνατος, ………… 」

詠唱。
この男……自分に話しかける言葉の合間に小声で呪文を詠唱している!

「“………Ο(おお)…………θάνατος,(死よ) ……
   ……όταν θα έρθεις(いつになったら来てくれるのだ)……
    τη σφοδρή επιθυμία μου;(わたしの恋しい死よ)……”」

一体いつから始まっていたのか。ヒルデガルトの肉体は最早完全に男の術中に嵌り、
必死で抵抗を試みるもその指は引き金を絞らんと万力のように動き続ける。

「……我ら英霊の全力の闘い……それが望みだと言ったな……」

囁く声で、まるで歌を口ずさむように詠唱を続けながら男は言った。
あと一押し、あと一節を口にすればこのマスターは死を迎える。

「……ならば望みどおり見るがいい。我が力を…………!!」

――しかしその刹那、
一振りの剣が彼の意図を断ち切った。



「!?」

全ては一瞬の内に起こった。
今まさに最後の一節を唱えんとした男目掛けて
突如として飛来した一本の大剣。
彼がそちらに反応したと同時に、一迅の突風が二人の間を吹き抜けた。
突風はヒルデガルトの持つ拳銃を瞬時に粉砕し、
そのまま彼女を十数メートルほど向こうへ運び去っていった。

「――よくぞ参った。間一髪であったぞ、セイバー」


ヒルデガルトは彼女を救った“突風”に向けてそう言った。
自分を抱きかかえている、己が配下のサーヴァントに。

(……セイバー……だと)

それは、一人の男だった。
鍛えられた肉体を白い外套に包み、豊かな金髪はまるで獅子の鬣のよう。
獅子。だが百獣の王たるその名を以てしても、この男を喩えるにはあまりにも小さいと言わざるをえないだろう。
この男こそ剣の英霊、セイバー。
聖杯戦争に招かれし七騎のサーヴァント、その超常集団の中でも“最優”とされる存在なのだ。

「……約束が違うぞ、ヒルデ」

セイバーは腕の中の女に言う。

「決して危険な真似はしないと……そう誓ったはずだろう」

セイバーはその眼光を、己のマスターを殺めんとした男に向ける。
ただそれだけで、男の総身が戦慄に粟立った。
これだけ距離が開いていながら、自分が今まさに噛み殺されんと牙を突き立てられているような、そんな感覚を覚える。

「何を言うか。私は約束を違えた覚えなどない。
 貴様を従えた私に、一体何の“危険”があるというのだ? セイバー」

そう言うとヒルデガルトはひょいとセイバーの腕から降り、
今さっき自分を殺そうとした男を平然と見据えた。

「しかして卿の技も実に見事であった。あれほど容易く術を掛けられたのは生まれて初めてだ。
 敬服致す、英雄殿(ディエヘルデン)。……いや、キャスター殿と呼べばよろしいかな」
「…………」

男は沈黙をもって肯定する。
キャスター。魔術師のクラス。それこそが今、彼を現世に留まらせている依り代だった。

「おまけにその剣、あの一瞬で術を起動させて止めたのだろう? 素晴らしい魔術の冴えだ」

ヒルデガルトにそう言われ、キャスターは傍らに目を向ける。
突如自身に向かって飛来した大剣。おそらくセイバーが投げ放ったのであろうそれは
キャスターの肌に触れる紙一重のところで縫い止められたように空中に“静止”していた。
彼女の言うとおり、自身の術で動きを制されたその剣をキャスターは改めて注視する。
その刀身にも柄にも、呪符らしきものが何十枚も貼りつけられておりディテールはまるで分からない。
恐らくは宝具としての真名を隠すためにマスターが処置したのだろう。
だが、それら呪符の端からはみ出ている刃の縁、そこから隠しても隠しきれないほどの禍々しさが滲み出ている。
魔剣――そうキャスターは確信する。それも相当に高位のものだ。


「しかし、敵に向かって剣を投げ付けるなど騎士のやることではないぞ。セイバー」

直立姿勢のまま、首を後ろに向けてヒルデガルトはセイバーに言う。

「それとも、そんなにまで私のことが心配だったのか? ん?」
「…………」

セイバーは何も答えなかった。

「……まあいい。ところでキャスター殿」

ふと、ヒルデガルトはキャスターへ向けて足を踏み出した。

「おい! ヒルデ!」
「動くな、セイバー」

追いすがろうとしたセイバーを、ヒルデガルトの言葉が制する。

「貴様はそこで待機していろ。尚、私の許可なしに攻撃行為をおこなうことは許さぬ」

ヒルデガルトは背後のセイバーにそう言い残し、
十数メートルの距離を詰めてキャスターと間近で対峙した。

「キャスター殿。その剣は我がサーヴァントの唯一の武器なのだ。返還を要求したい」

後ろで腕を組み、直立姿勢。
完全に無防備な態勢でヒルデガルトはそう告げた。

「……」

キャスターは困惑する。
この女は何を考えているのだ?
ちらりとセイバーに目を向ける。彼はキャスター以上に困惑した面持ちで、それでもマスターの命を守ってかその場から動かずにいる。
少なくとも、二人の間で綿密に打ち合わせられた作戦などでは断じてない。

「要求、聞き入れてくれぬか? キャスター殿」

困惑する二人の英霊に挟まれて、軍装の女はあくまで平然と、口には笑みさえ浮かべながら言った。

「……“τέλος(終)”」

キャスターが呟くと、宙空に静止した大剣はカランと音を立ててヒルデガルトの足元に落下した。

「謹啓。感謝致す」

ヒルデガルトはその剣を拾い上げようと腰を曲げ、
手を伸ばした――その刹那、


「――“Pierce(突き立て)”」

剣が“ひとりでに”立ち上がり、ヒルデガルトの胴を両断せんと刃を振るう――!!



…………だが、キャスターの目論見はまたも崩されることとなる。
やはり全ては一瞬の内に過ぎ去った。
後方に待機していたセイバーがにわかに信じがたい速度で駆け付け剣を止めたのだ。
術の起動の瞬間、剣とヒルデガルトの間の距離は数十センチメートルしかなかった。
高速で駆動する剣が彼女の肌に触れるまでに要する時間は数百分の一秒にも満たないだろう。
その刹那でセイバーはあれだけの距離を詰めて剣を掴んだのだ。
尋常ならざる反応速度……だがそれを更に上回る光景がキャスターの目の前に存在していた。

「す、素手で……!?」

セイバーは己の宝具たる大剣の切っ先を、素手で掴んで止めていたのだ。
見ているだけで肌が切れそうなほど鋭い魔性の刃。
それを押さえつけているセイバーの手のひらの皮膚には、いかなる事か血が滲んですらいない。

「…………キャスター……」

眼前。
密着するほどの至近距離でキャスターはセイバーと視線を交錯させる。
怒気と殺意をありありと込められた眼光を間近で浴び、キャスターは一瞬意識が昏倒しかけた。
『私の許可なしに攻撃行為をおこなうことを許さぬ』
ヒルデガルトのこの言葉がなければ、間違いなく自分は殺されていたと確信する。
一体どれほどの力を秘めているのだ、この英霊は……

「見事な攻防であったぞ、両雄」

セイバーの背後からヒルデガルトが姿を現す。
その態度には微塵の動揺も感じられない。
『貴様を従えた私に、一体何の“危険”があるというのだ?』
先程の発言は虚勢でも何でもない。心から本気で、彼女はそう思っているのだ。
そしてその認識はまったくもって正しい……キャスターはそう認めざるを得なかった。

「しかして、今日は貴様に二度も命を救われてしまったな。セイバー」

ヒルデガルトはそう言って哂う。
セイバーは何も言わずに大剣を背負った。

「よいものを“見せて”もらった。此度はこれにてよしとしよう」

ヒルデガルトが指を鳴らす。
すると地面から炎が吹き上がり、キャスターと二人の間を壁のように遮った。

「さらばだ(アウフヴィーダーゼーエン)、英雄殿(ディエヘルデン)。
 この先も存分に、その奇跡の御業を揮われるがいい」

炎の壁の向こうで、二人の姿が蜃気楼のように揺らめいていく。
ヒルデガルトがキャスターに笑いかける。
白髪の乙女のその笑顔が、彼には“死神”のそれに見えた。


「さすればきっと、聖杯はその器を満たすであろう―――」

炎の壁が消える。
その向こうに二人の姿はもうなかった。

「…………」

キャスターは立ちすくんだまま呆然とその光景を見ていた。

「あれが……」

あれがサーヴァントとマスター。
この聖杯戦争における対敵。
あのような傑物があと五組、自分の前に立ちはだかっているというのか。

(……だが)

それでも、負けるわけにはいかない。
逃すわけにはいかない。この好奇をどれほど待ち焦がれたことか。
勝つ。キャスターはそう決意を新たにする。
この戦争に勝利し、必ずや聖杯を手に入れて見せる。
私はそのために此処にいるのだ。

「もう一度……」


       ..  .........
もう一度、“彼女”を死の淵から救い出すために。