Gib deine Hand, du schön und zart Gebild!
手をお出し、美しく繊細なるものよ。


bin Freund und komme nicht zu strafen.
私は君の友であり 罰するために来たのではない。


Sei gutes Muts! ich bin nicht wild,
心をしずめて。私は君を傷つけないから。


sollst sanft in meinen Armen schlafen!
安らかに眠れ 我が 腕の中で。  




            (シューベルト作曲 “死と乙女”より)




X          X            X



水佐波市の自然は豊かだ。
そう言うと、外部の人間には首を傾げられることが多い。
確かに、近年著しい発展を遂げている海上都市はいかにも近代然とした高層ビルが立ち並び、
海沿いのリゾートタウンを除けば、街にあるのは何もかも人工物ばかりの無機質な場所だ。
そちらのイメージが先行している者からすれば、疑問に思うのも無理はない。
しかしながら、市民の大多数が生活している陸上都市の方は都会の空気など全く感じさせない昔ながらの街並みだ。
正面に海を拝し、周囲を山や森に囲まれ、芝生に覆われた平原まで備えた陸上都市は至る所が自然の風合いに溢れ、
住宅地に植えられた街路樹は初夏の日差しを浴び、濃い緑色を煌々と輝かせている。
そんな水佐波陸上都市住宅街の一角を、志那都みことは全力で疾走していた。
「くっ……このわたくしという者が何たる不覚!
 まさかこんな日に限って目覚ましをセットせずに眠ってしまうなんて……!」
普段は常に余裕めいた笑みを崩さない端正な容貌を汗だくにしながらみことは走り続ける。
大急ぎで家を飛び出したせいで自慢の黒髪はろくにセットもできず、
潮風に煽られてますますその形を崩していく。
「ああもう! 折角の初デートなのにこんなみっともない格好で会わなければならないなんて……」
そう、今日は待ちに待った記念すべき“彼”との初デートの日なのだった。
といっても、“彼”と二人きりでどこかに出かけるということ自体はこれまでにも何度もあった。
しかし今日のそれは今までとは決定的に違う点が一つある。
今日はみことと“彼”が正式に、恋人同士になってから行われる初めてのデートなのだった。
(恋人……)
その言葉を脳裏に浮かべるだけで思わず顔がにやけてしまう。
そう、自分と“彼”は恋人同士なのだ。両想いなのだ。彼氏彼女の関係なのだ。
「ふっ…ふふふふ……こ・い・び・と。ああ何て甘美な響き……」
“彼”と互いの想いを伝えあい、結ばれた瞬間を思い出す。
自分と『彼』の間には最早誰も入り込む隙間はなくなったのだ。
これでもうあの女にも、あの女にも、はたまたあの女にだって金輪際ジャマさせるもんですか……!
「……これならギリギリ間に合いそうですわね」
手首の腕時計を確認し、一刻も早く“彼”との待ち合わせ場所に向かわんと更に力強く地面を蹴る。
あとはあの角を曲がれば――
「……えっ」
次の瞬間、
「んぎゃっ!?」
みことは不意に曲がり角から現れた人物に思いっきり顔面をぶつけた。

「いっ……!」
突然の衝撃と痛みにみことはその場に崩れ落ち尻餅をついた。
「痛た……な、何ですの?」
顔を押さえる手の指の隙間から様子を伺う。
眼を打ったのか視界はぼんやりと霞んでいる。
「ごっ、ごめん!」
みことの霞んだ視界の前に相手の手が差し出される。
「ほら、立って。大丈夫? 怪我してない?」
「ええ……」
優しそうな声にみことは安堵する。
うつむいて顔を手で押さえたまま、反対の手を引かれてみことは立ち上がった。
「こちらこそ不注意でしたわ。ご無礼お許しください」
まったく何をやっているんだか……みことは自分に呆れる。
しかし……
(曲がり角で見知らぬ人とぶつかるなんて……)
それはまるで、少女漫画で恋の始まりを告げるシチュエーションではないか。
(……って何を考えているのわたくしは!)
浮かんだ考えを頭から振り払う。
これから“彼”と会おうというときに、何を考えているのか。
「あの、すいません。わたくしこれから用事がありますのでこれで……」
「……あれ?」
相手は突然声のトーンを変えた。
「ちょっと待ってよ。ねえ、もっとちゃんと顔を見せて」
そう言って、離れようとしていたみことの体を無理やりに引き寄せ、顔を近づけてくる。
(なっ…)
強引な態度にみことは本能的な恐怖を感じた。
「や……やめてください!」
みことは反射的に相手を突き飛ばし、自分の肩を抱いて後ずさった。
「もっ、申し訳わりませんがわたくしには心に決めた方がおりますので! こっ、このような行為にはお応えできま……」
「あー、やっぱりそうだー」
毅然たる態度で拒絶の意思を示そうとしたみことを、相手の暢気な声が制した。
「誰かと思ったらみことじゃん、びっくりしたー。全然気づかなかったよ」
「……はい?」
……何故自分の名前を知っているのだろう? みことは困惑しながら両目をこすり、相手の顔を見る。
そこに立っていたのは……
「…………な、夏海ぃ?」
誰であろう、みことのクラスメイトにして“天敵”、高坂夏海その人であった。

「いやー、みことってばいつもと違ってやたらオシャレな格好してるんだもん。あたし知らない人かと思っちゃった」
「しっ失礼な! わたくしはいつもきちんとした格好をしてます!」
語気を荒らげて反論するみこと。
まあ、確かに今着ているサマードレスは今日のためにわざわざ新調した特注品だけど。
「大っ体……あなたにだけはそんなこと言われたくありませんわね、夏海」
そう言い、改めて夏海の姿を見やる。
無地の白シャツに、ジーンズの短パン。装飾品の類など髪留め一つ見当たらない。
こんな格好で平気で外を出歩けるなんて信じられない。きょうび男子小学生だってもうちょっとマシなファッションをしてるだろう。
「あなたもねえ、仮にも乙女なのだからもうちょっと身だしなみに気を使ったらどうなの?」
「いやー、あたしはいいよ、そういうの。どうせ可愛い格好したって似合わないしさー」
そう言って、まだ夏も初めだというのにすっかり日焼けした顔を崩して夏海は笑う。
「似合わない、ねえ……」
夏海の笑顔をじっと見て、みことは「はぁ」と溜め息を漏らす。
しっかりと見れば夏海の顔の造りは決して悪くない。
いや、悪く無いどころかむしろかなり上等と言ってもいいだろう。
だがそんな器量の良さもいつも馬鹿っぽい表情を浮かべているせいで殆どの人間に気づかれていない。
肌だって本当は凄く綺麗なのに何のケアもせず外を出歩くからこんなに日焼けさせてしまって……。
「まったく……本当にいつまで経ってもオコサマなんだから」
「あっ、オコサマって言ったな」
そう言って夏海はぷーっと頬をふくらませた。
「あら、オコサマにオコサマと言って一体何がいけないというのかしら?」
「……みことっていつもそうやってあたしのこと子供扱いするけどさー」
夏海はニヤっと笑い、ポン、とみことの『頭の上』に手を置いた。
「みことって、あたしより背ちっちゃいよね」
「なっ……!?」
夏海の身長は同年代の女子の平均より幾分高く、逆にみことは平均より低い。
間近に並ばれると両者の間には10cm近い差が開いていることに否応なく気付かされる。
「べ、別にわたくしは背がどうこうとかではなくあなたの性格の話をですね!」
「おやおやぁ~? みことちゃん突然慌てちゃってどうしたのかな? 悩み事ならお姉さんが言ってごらん?」
みことを下目に見ながらニヤニヤと笑う夏海。
この女、人がこっそり気にしてることをよくもヌケヌケと……。
「ええい、その手を離しなさい!」
頭に乗せられた夏海の手を振り払い、みことはキッと夏海を睨みつける。
「ははは。ごめんごめん、冗談だって。そんな怒んないでよー」
「……別に怒ってなんていないわ」
ゆっくりと息を吐き出し、余裕めいた笑みを浮かべながらみことは言った。
「そうね、確かに夏海の方が私より背は大きい。でも、一つ忘れてないかしら?」
みことはニヤっと笑いながら腰に手を当てて大きく『胸』を反らした。
「こっちの方は、わたくしの方がずっと大きいということを!」
「んなっ……!?」
みことの胸囲は同年代の女子より(かなり)大きく、逆に夏海は(かなり)小さい。
両者の間には最早並んで比べるまでもなく歴然たる格差が存在していた。
「べっ、べべべ別に今胸の話は関係ないし……」
「あらあらあらあら夏海ちゃんったらそんなに目を泳がせてどうしたのぉ~? 悩み事があるなら言ってごらんなさいな!?」
みことにそう言われ、夏海は「ぐふぅ」と呻きながら地に膝を付いた。
「ふっ」
それを見て、みことは勝ち誇った表情で優雅に髪をかき上げる。
勝負あった。

「……あ、そういえば」
立ち上がり、ふと何かを思い出したように夏海はポンと手を叩いた。
「あたしこれから海水浴に行くんだけどさ、みこともどう?」
「海水浴? あなた手ぶらじゃない」
「ああ、それは大丈夫」
そう言って夏海はぺろんとシャツの裾をまくって見せる。
「ほら、下に水着きてるんだー。頭いいでしょ」
「あなたってやることが何もかも小学生レベルね……」
しかもシャツの下に見える布地は紺一色……間違いなく学校指定のスクール水着だ。
「でも一人で行ってもやっぱりつまんないしさ。ねえ、みことも一緒に行こうよー」
そう言って夏海は仔犬のような目をみことに向ける。
「……お誘いのところ悪いのだけど、わたくしこれからデ・エ・トに行かなければならないの」
「デート? ……あー、赤城くんと?」
「そうよ。わたくしたちこの度晴れて恋・人・同・士になりましたの。だから悪いけど今日は夏海には付き合えませんわ」
「むー……」
夏海はふてくされたように唇をへの字に曲げる。
「あ、じゃあさ」
と、突然さも名案が思いついたかのように目を夏海は輝かせた。
「それなら赤城くんも連れて三人で一緒に行けばいいじゃん。やったね、これで解決だ」
「んなわけないでしょう!」
一喝した。
「えー、何でー」
「夏海、あなたねぇ……」
みことは頭を抱える。
「そんなに誰かと一緒に行きたいなら小日向さんか姫宮さんでも誘ったらいいでしょう?」
と親しいクラスメイトの名を出しても、やはり夏海の態度は変わらない。
「葵ちゃんは土日はずっとバイトだし、部長はプール専門で海は嫌いなんだもん。
 だからあたしにはみことしかいないんだよー。みーこーとー」
「……だーっもう、くっつかないでくださる!?」
無理やり抱きついてくる夏海を押し返しながらみことは言った。
「……それなら夏海もいっそ彼氏でも作ったらいいのではなくて?」
「うぇっ!? ……そ、それはちょっと」
「あなた、自分ではそう思ってないのかもしれないけど、夏海ならその気になれば彼氏くらいすぐに……」
「い、いやそれはいいよ」
そう言って夏海を手をばたばたと振って否定の意を示す。
「あたし恋愛とかそういうのよく分かんないし、それに……」
「……それに?」
まっすぐ夏海を見据えるみことの視線。
その視線から何か後ろめたい物を隠すかのように夏海は顔を背けた。
「とっ、とにかくあたしはそーゆーのはいいのっ! 興味ないの!」
「……ふぅん」
みことは訝しげに夏海の顔を見まわし、
「あなたそんな奥手だからみんなから“水佐波のマグロ女”なんて呼ばれるのよ」
と言った。

「……なっ……なな……!」
それを聞いて夏海の顔がみるみる茹でダコのように真っ赤に染まる。
「ちっ違うよ! あたしがマグロって言われてるのはずっと泳いでばっかいるからでそういう意味じゃないし!
 それに正確には“水佐波のクロマグロ”っていうあだ名だし!」
「あら? あら?」
みことは口元を釣り上げた邪な笑顔を狼狽する夏海の眼前に突きつける。
「そういう意味じゃないって、マグロという言葉に一体どんな意味があるのかしら? 是非教えていただけませんこと、な・つ・み?」
「……ぅ…ぅぁ……」
みことの詰問に、夏海は陸に上げれられた魚のように口をパクパクさせている。
そのコミカルな仕草にみことは思わず破顔する。
まったく、この子と一緒だと何時間でも飽きずにいられるわ。
何時間でも……
……時間?
「――はッ!?」
手首を返し時刻を確認し、みことは慄然とした。
「い、いつの間にこんなに時間が……夏海ッ!」
「……へっ?」
みことの怒号で夏海はようやく意識を取り戻した。
「わたくしもう時間がありませんのでこれにて失礼します」
「え……あ、うん」
まったく何をやっているんだろう、こんなに長々と時間を忘れて話し込んでしまうなんて。
(……そういえば)
こんな風に夏海と話したのは随分久しぶりだ。
それもそのはず、ここ最近は“彼”と過ごす時間が増え、必然的に夏海と絡む機会は以前よりだいぶ減っていた。
みことはちらりと夏海の方に視線を向ける。
「じゃあ、また。デート楽しんできてね」
笑顔でそう告げる夏海。
「みことと赤城くんが恋人同士になれて、本当によかったよ。
 みこと、ずっと前から赤城くんのこと好きだったもんね」
その笑顔が、何だかひどく――寂しそうに見えた。
「……夏海」
待ち合わせ場所の方角に視線を向けたままみことは言った。
「明日だったらいいわ」
「……え?」
きょとんとしている夏海にみことはニっと笑って、
「明日だったら空いてます。一緒に行きましょう、海」
と言った。
「……みこと……」
「ではまた!」
みことは再び全力で地面を蹴る。
「う、うん! 約束だよ! 絶対だからねー!」
そんな夏海の声を背に受け止めて、みことは走りだした。



「お、おはようございます! 赤城くん……」
“彼”の背後からみことは怖ず怖ずと声を掛けた。
夏海との会話で多大な時間を食った上、直前で乱れた髪を直したり汗を拭き取ったり全力疾走で荒れた呼吸を鎮めたりしているうちに待ち合わせの時間は完全にオーバーしてしまった。
「あっ、志那都さん」
“彼”が振り返る。
長い前髪の隙間から瞳が覗き、みことと視線が交錯する。
その瞬間、みことの心臓は高らかに跳ねた。
「ごっごごごごごごめんなさい! わたくしったら寝坊してしまってそれで……あの、その……」
「ああ、大丈夫だよ。ぼくも今来たところだから」
しどろもどろになっているみことに、“彼”はにっこりと微笑みかける。
それを見た瞬間、みことは自分の胸から『きゅぅぅぅぅぅん』という音が鳴るのを聞いた。
遅刻したわたくしを気遣って……なんて優しく寛大な人なんでしょう!
思わず腰が砕けて倒れそうになるがなんとか踏みとどまった。
「じゃあ行こうか。動物園ってこっちだったよね?」
「はっ、はい。さようでございますわ!」
そして二人は並んで歩き出した。
「いやー、動物園なんて何年ぶりかなあ。志那都さんはよく行くの?」
「え、ええ……まあ……」
みことは意味もなくきょろきょろと視線を泳がせたり、髪を指でいじったりと落ち着きのない挙動を繰り返す。
自分が緊張しているということが嫌でも自覚できる。こうして二人で並んで歩いたことは過去にも幾度もあるのだが……。
(でも今は……)
恋人。その二文字を意識してしまうと過去にはない緊張に襲われてしまう。
恋人同士というのは二人で歩いているときどういう話をするものなのだろうか。
「へー、じゃあ動物好きなんだね」
「え、ええ、動物は大好きですわ」
口の中が渇いていくのをみことは感じた。
大丈夫、今のところは普通に会話できているはずだ。きっと。多分。
「じゃあ志那都さんが一番好きな動物って何?」
「え、あっ、えーと……一番好きなのは……ライオン、ですわね」
「ライオン? そうなんだ、珍しいね。女の子なのに」
女の子なのに。
そう言われてみことは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
しまった……! 素で答えてしまったがここはもっと可愛い動物の名前を出して女らしさをアピールするべきではなかったのか!?
ウサギとかコアラとかプレーリードッグとか、そういう感じのにしておけば……
……いやいやいやいや、ちょっと待てよわたくし。『Q.一番好きな動物って何?』という問いならば
最適解は『A.それはもちろんア・ナ・タよ(chu☆)』だったのではないか!?
何たる不覚……こう答えておけばデート開始数分で早くも1チューゲットという電撃戦的展開まで持ち込めたものを……。
胸中に後悔が押し寄せる。だが今更やり直すことも出来ない。
「ライオンかー。ライオンのどういうところが好きなの?」
「え、あ、えっとあの、その……」
俯きながらみことは考える。自身の思考がこれまで経験したことがない速度で回転していくのを感じる。
さあ迸れわたくしの脳内物質! 何か、こう、うまいこと、気の利いた感じの返事を導き出すのだ……!
「あ、あのですね……」
意を決して顔を上げるみこと。
“彼”の顔が自分へと向けられる。
「うん」
――それを見た瞬間、みことの思考は完全に停止した。

「……か、」
「うん?」
「…………かっこいい……」
そう、口に出して言い、そこでみことはハッと我に帰った。
(なんてこと! わたくしったら赤城くんに見惚れて思ったことをそのまま口に出してしまいましたわ……!!)
羞恥で顔が真っ赤になるのを感じる。幾ら何でも面と向かってそんなことを言ってしまうなんて。
「あ、あの今のはですね! その……」
慌てて言いかけたみことに“彼”はニコリと微笑みかける。
「あー、そうだね。かっこいいもんねライオンって」
「……えっ」
ライオン……そうだ、自分たちは好きな動物の話をしてたんだった。
そんなことまで忘れていた。……どこまでのぼせ上がっているのだわたくしは。
「そっ、そうなんです! かっこいいところが好きなんですのよ!」
「そっかー。じゃあ動物園に着いたら一番に見にいこう」
「え、ええ……」
「ちゃんと見れるといいんだけど。土曜日だからやっぱり混んでるのかな」
「か、かもしれませんね……」
そう言ってみことは“彼”の手に目を向ける。
この流れは……チャンスかもしれない。
「じゃ、じゃじゃじゃじゃあもう少し急いで行かないといけませんわね!」
「うん」
「で、ですからその、その……」
「うん」
みことは大きく息を吸い込み、
「は、走って行きましょう!」
意を決して“彼”の手をぎゅっと握りしめ、そのまま走りだした。
(に、握っちゃった……!)
“彼”の体温が手のひらを通じて自分に伝わってくる。
その暖かな感覚にみことは陶然としたものを感じた。
「わわっ……ま、待ってよ志那都さん!」
慌てたように“彼”が言うのが聞こえる。
「だ、だめです! 待ちません!」
普段は落ち着いている“彼”のそんな声にみことは嬉しくなる。
二人でいるといつも焦ったり慌てたりしてるのは自分ばかりだ。
“彼”にだってもっとドキドキしてほしい。
もっと色々な感情、色々な表情を見せてほしい。
今日はそのための時間なのだ。
いや、今日だけじゃない。これから先もずっと、わたくしの、恋人として――
「ああ……そんなに強く引っ張るから」
“彼”の声が遠くから聞こえてくる。
「僕の手―――取れちゃったよ」
「いやですわもう、赤城くんったら何を言って……」
“彼”が冗談を言うなんて珍しい。
そう思いながらみことは振り向いた。
「る、んで……」
その瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは“彼”の笑顔ではなかった。
『肉』。
真っ赤な血を滴らせながら蠢くピンク色の肉。
みことが握った“彼”の左腕――その肩口の『断面』だった。
「……え、」
なに……これ?
「待ってよー、志那都さーん」
10メートルほど向こうから、左腕の千切れた“彼”が、傷口から血を噴き出させながらこちらへ駆け寄ってくる。
「わっ」
転んだ。
“彼”は立ち上がろうとするが、すぐにまた転倒する。
無理もない。何せその両足はどちらも
 ... . . . .. . . . ... .. .
膝から下がちぎれ飛んでしまっているのだから。
「――――な、な」
みことは思わず後ずさる。
それに何とか追いすがろうと迫る“彼”。
「待ってよー。置いてかないでよ志那都さーん」
一本だけ残った右腕で地面を掴んで体を引きよせるという、尺取虫のような動きで“彼”がこっちへやってくる。
ずる、ずる、ずると、地面に真っ赤な血の跡を引きながら。
「――――う、ぁっ……」
何?
何?
何なの?
何が起こったの?
自分は何を見ているの?
何故……
 .. .. .. .. . ... .. ..
何故こんなことになってしまったの?

「待ってよ志那都さん。待ってって。ねえ待ってよ志那都さん、志那都さん、志那都さん
 志那都さん、志那都さん、志那都さん、志那都さん、志那都さんしなとさんしなとさんしなとさん
 しなとさんしなとさんしなとさんしなとさんしなとさんしなとさんしなとさんしなとさんしなトサン
 シナトサンシナトサンシナトサンシナトサンジナドザンジナドザンジナドザンジナドザン―――!!」

「……いぃやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



X          X            X



「……さん、志那都さん……志那都さん!」
ガクン、と。
どこからか落下するような感覚と共に、志那都みことは目を覚ました。
「あ……」
「よかった……気がついたのね」
目を開けて最初に見えたのは白い天井と、自分を心配そうに覗き込む白衣の女性。
「大丈夫? あなたずっとうなされていたのよ」
「……」
みことは自分の置かれている状況を思い出す。
そうだ、ここは保健室だ。
授業中に気分が悪くなってここのベッドに寝かせてもらい、そして
そして――また『あの夢』を見た。
「ええ、もう大丈夫ですわ。今は……」
みことは壁の時計に目を向ける。もうとっくに下校時間を回っていた。
「本当に大丈夫? まだ具合が悪いならお家の方に連絡するけど」
養護教諭の女性の言葉にみことは首を振った。
「いえ、結構です。一人で帰れますから……」
みことはベッドから降り、一礼して保健室を後にした。


何故こんなことになってしまったのだろう。
あの夢を見るたびにみことはそう考えてしまう。
すべてが上手くいっていると思っていた。
もう十日ほど前になる。
あの日、“彼”と恋人同士になった後の最初のデートの日。
寝坊し、大慌てで家を飛び出し、途中で夏海とぶつかって他愛のない口喧嘩をし、
“彼”と会い、二人で動物園に向かっている途中で、惨劇は起こった。
交通事故。
唐突に、何の前触れもなく、突っ込んできた自動車に撥ねられ“彼”は鮮血とともに宙を舞った。
奇跡的に一命は取り戻したものの、入院先の医師の言葉では怪我の完治は……
いや、それどころか意識を取り戻すことすらもう絶望的だと――
「…っ」
目眩。
崩れそうになる体と心を何とか奮い立たせて、みことは校舎を出た。
(……本当に)
本当に……何故こんなことになってしまったのだろう。
「――み、みことっ!!」
不意に、背後から声が掛けられる。
振り向くと、そこに立っていたのは高坂夏海だった。
「きっ、奇遇だねぇ~。今、帰るとこ?」
「そうですけど……」
「じゃ、じゃあさ一緒に帰ろうよ! 途中まで方向一緒だし!」
「……」
そして二人は並んで歩き出した。

「いやー、みことと一緒に帰るのなんて結構久しぶりだよね」
「そうですわね……」
“彼”の事故以降、心身ともに参ってしまったみことはここ最近は欠席や早退を繰り返しており、授業にも殆ど参加していない。
こうやって夏海と顔を合わせるのも、もう何日ぶりになるだろうか。
「みことさー、最近全然授業でてないでしょ。このままじゃ期末危なくない?」
「そうかもしれませんわね……」
「だっかーらー、……ほら、見て見て」
夏海は鞄からノートを取り出し、みことに開いて見せた。
「あたしのノート貸してあげるよ。みことが休んでるあいだに出た所もちゃんとまとめてあるから」
「……」
みことはノートを覗き込む。
「あのね今この辺りを勉強してるんだけど」
「……ぐっちゃぐちゃで何書いてあるのかさっぱり分かりませんが」
「え、そ、そう? ごめん、あたし普段ノート取らないから……」
「……」
いそいそとノートを鞄に戻す夏海。
それを見ていたみことはふと、あることに気づいた。
「その左手、どうしたんですの?」
鞄を持つ夏海の左手、その手首から先が真新しい包帯でぐるぐる巻きにされていたのだ。
「こ、これ? あー、これはその……そう、ちょっと怪我しちゃって」
「……怪我?」
「け、怪我っていっても別に全然たいしたことないんだけどね! 心配する必要は全然ないから!」
「はあ……」
なんだかよくわからない。
まあ、こうして鞄を持てるくらいなのだから実際大したことはないのだろう。
「まあ、そんなことよりさ。みこと次の休み一緒に遊びに行こうよ!」
「遊びに……?」
「うん! どこでもいいよ、みことが好きなところ。そうだなー……」
夏海はぽん、と手を叩いて言った。
「動物園とかどう?」
「……動物園?」
「そう! みこと動物好きじゃん? だから動物園行ったらきっと元気出る……」
言いかけて、不意に夏海は言葉をつまらせた。
「動物園……ですか?」
「あ、いや、その」
「すいませんがそれは……」
そこは、どうしたって“彼”を思い出してしまう場所だ。
“彼”と、“彼”を襲った惨劇を。
「……だ、だよねー! はは、あたしったら何言ってんだろ……
 そうじゃなくてさー、ほら、あの……えーと、あの……」
口をパクパクさせている夏海を、みことはじっと見やった。
いつもは溌剌とした笑顔に彩られている夏海の顔は、今は困惑と自責で今にも泣き出しそうなほどだ。
本当に、心から自分を心配して、気を使ってくれているのだろう。
みことにもそれは痛いほどよく分かる。
でも、今は……
「申し訳ありませんが」
くるっと踵を返し、みことは夏海に背を向けた。
「わたくし、今はそういう気分ではありませんので……失礼します」
「え……あ、ちょっと……みこと!」
呼び止める夏海の声を無視してみことは歩き出した。
夏海の気持ちは分かる。有難いとも思う。
でも今はそれに応えられるだけの余裕が自分の中になかった。
(そういえば……)
歩きながら、みことはふと思い出した。
(一緒に海に行く約束、破ってしまいましたわね……)



X           X            X



「はぁ~……」
みことが歩き去っていき、夏海は大きく溜め息をついた。
「あたしってば何やってんだろう。元気だしてもらうはずだったのにあれじゃ逆効果だよ……」
「あの子が、この間ナツミが言っていたお友だち?」
「うん。彼氏が事故にあってからずっと元気がなくて、何とかしてあげたいんだけど……」
夏海はがっくりと肩を落とす。
こういうとき、気の利いた言葉の一つも掛けてやれない自分がつくづく嫌になる。
「気にすることはないわ。きっとナツミの気持ちはあの子にも伝わったはず。ただ、今あの子には時間が必要なのよ」
「でも……」
「心の傷は時の流れで癒していくしかない。それはいつの時代も同じよ。まあ、大人なら酒飲んで忘れるって手もあるけどね」
「うーん……」
時間。それに任せるしかないのだろうか。
傷ついた親友を前に、自分には出来ることは何もないのだろうか。
そもそも……困っているときに何の力にもなれないなんて、それで『親友』などと言えるのか?
「そんなに悩まないの。アナタまで元気なくしてどうするのよナツミ」
「それはそうだけど……」
「いいから、今はそっとしておいてあげなさい」
「でもさー」
「なぁに? 妾身(ワタシ)の言うことがそんなに信用できないのかしら?」
「べ、別にそういうわけじゃないけど……」
そう言いかけて、夏海は不意に気づいた。
道行く人々が、何やら可哀想なものを見るような目で見ていることに。
「――あ、」
はたと、夏海は自分の置かれている状況に気づいて震え上がった。
今のあたしって、端から見たら『ひとりで喋ってる』ようにしか見えないんじゃ――
「ちっ、違うんです! あたしそういうんじゃありません!」
大声で周囲の人間に弁明する夏海。
だがその行動によってますます人々の目は冷たくなってく。
「うっ……」
夏海は顔を真っ赤にし、
「うわああああああああああああ!」
全速力で路地裏へと逃げこんでいった。


「あーもぅ……今日は最悪だよ」
「だから、人のいる場所で会話するときは念話を使いなさいって何度も言ってるじゃない」
「だってアレ何か気持ち悪いんだもん。頭の中に直接声が聞こえるなんてさー」
「じゃあ今日の件は自業自得ね」
「うー」
頬をふくらませて夏海は呻いた。
先程と同様、夏海の周囲には誰の姿も見当たらない。
端から見れば一人で喋っているようにしか見えないだろう。
「それはそうとナツミ」
その時、突然。
何の前触れもなく、夏海の傍らに黒衣の女が出現した。
「さっきあの子に左手の包帯について訊かれた際の態度。あれは幾ら何でもちょっとマズいわね」
……正確に言えば、『出現した』という表現は間違っている。
この女は、ずっと夏海の隣にいた。
                    . .. . . . . . . . . .. ..
ただ、みことも街を歩く人々も、誰一人その存在に気づかなかったのだ。

「あれじゃあ見る人が見れば一発で何を意味しているのか気づかれるわ。隠している意味がまったくないわね」
「そ、そんなにヒドかったかな?」
夏海は包帯が巻かれた自分の左手を見る。
そして、その『下』に隠されたものの存在を思い出す。
「でもさー、まだちゃんと始まったわけじゃないんでしょ。その……」
「確かに、まだ七騎すべてが召喚されてはいないようだけど、それでも事前の下準備……『諜報戦』はとっくに始まっているわ。
 いいこと、ナツミ。戦いで本当に大事なのはこの『事前準備』なの。
 実際に矛を交える段階まで進んだら、その時点でどちらが勝つかはもう十中八九決まっている。そういうものなのよ」
そう、朗々と語る黒衣の女。
小柄な女だ。背は夏海よりも低く、華奢な体?をしている。
一体誰が想像できるだろうか。この柔らかな肌の下に、虎を一撃で屠るほどの膂力が息巻いていようなど。
「だから余計なことは口にしないよう注意すること。分かった?」
穏やかな口調と表情で、黒衣の女は夏海を諭す。
そうしている間も、女は周辺環境のどんな微細な変化も見逃さんと尋常ならざる鋭さで眼を光らせ続けている。
後ろで束ねた長い黒髪に、黒い覆面。黒一色の装束。
闇そのもののような全身の中でただ一点、眼光だけが刺すような視線を放ち輝いている。
まるで『黒豹』――そんな印象を与える。
「でもさ、アサシン」
アサシン。
黒衣の女を夏海はそう呼んだ。

「アサシンだって結構重要なこといつも普通に話してるじゃん」
「あら、妾身はいつも夏海にしか聞こえないように声を出してるから大丈夫よ。今だってそう」
「え、全然普通に喋ってるじゃん」
「そういう発声法があるのよ。教えてあげようか? 妾身は修得に二年ほどかかったけど」
「そ、それはいいです……」
アサシンの発言にたじろぐ夏海。
未だに信じられない。こんなすごい人が、あたしの……『使い魔』になったなんて。
「はぁー……」
思わず溜め息がこぼれる。自分がこんなことに巻き込まれるなんて想像したことすらなかった。
(でも……)
夏海はだれた姿勢を正す。
もっとしっかりしなくては。
自分は決めたのだ。この――――に挑むことを。
「……いつごろ始まるんだろうね」
暮れゆく空を見ながら、夏海は呟く。
不意に、アサシンが立ち眩みを起こしたようによろめいた。
その場にしゃがみこみ、俯いて顔を手で覆っている。
「……アサシン!?」
夏海は駆け寄ってアサシンの顔を覗き込んむ。
「どうしたの? 具合でも悪く――」
言いかけて、夏海は息を飲んだ。
覗き込んだアサシンの顔。
指の隙間から覗く瞳が、磨き上げられた鏡のように七色に煌めいている。
「――――今夜、」
搾り出すような声でアサシンが言った。
「えっ?」
「間違いない……」
アサシンが立ち上がる。
瞳の色はもう元に戻っていた。
「始まるとしたら間違いなく、今夜よ」