聖杯とは何なのだろう。あらゆる願いを叶えるっていうけれど、本当にそんなものがあるんだろうか。そんなもの、本当に必要なのかしら。

「鉄人さんは聖杯のこと、どう思います?」
「うーん、ちょっとわからないな。それはどういう意味だい?」
「……じゃあ、聖杯があるかどうかを」
「言葉通りのものなら、あるかどうかわからない。何でも願いを叶えるってこと自体がありえるのか疑問だからね。ただね、とんでもない代物があるのは間違いない。英霊を降霊する、そんなデタラメを可能にするものがね」
「セイバーもそう言ってたけれど……」
「一つ聞きたいんだけど、みことちゃんが気になってるのは、本当に聖杯の有無なのかい? 疑問に思ってるのは、この争いに参加するだけの意味があるのかってことじゃないかな?」

 そうなのかもしれない。聖杯が手に入るっていうけれど、わたしはそれに命懸けの争いをするほどの価値があるとは思ってない。あの子が、あんな血だらけになるような価値を、見つけられない。

「君が聖杯戦争に巻き込まれたことは変わらない。だから、命を守るためだけに戦うって割り切ってもいいと思うけど……それはできないみたいだね」
「……はい」
「じゃあ、他に理由があるかどうかだ。聖杯を手に入れたと仮定してみよう。何でも願いの叶う、夢みたいな代物だ。実際はどうあれ、そう仮定してみて。さあ、何を願う?」

 何でも叶う。世界がひっくり返ることも、星が海に沈むことも、ありとあらゆる金銀財宝を手に入れることも。どれもやってみたいとは思うけれど、心の底から願うことはない。
 不満も不安も沢山ある。もっといい世界になって欲しいし、もっと優しい世の中にもなって欲しい。戦争は嫌だし、飢えや病気も無くなってくれればと思う。でも、それの中のどれを願うだろう。
 想像してみる。静かで仄かに暗いどこかで、射す光の道にきれいな杯が降りてくる。神々しい、見たこともない光景。手を伸ばすと、少し冷たい淵が指に触れる。きっとそのとき、わたしの心にあるものは―――

「思いついたみたいだね」
「はい」

 だからわたしは顔を伏せる。わたしの望みは、わたしの思っていたとおりのもの。とてもじゃないけれど、顔を上げていられない。

「みんなが幸せになることって、できるんでしょうか」
「……それが君の願い?」
「いいえ。けれど、願いが叶うならそれが一番いいと思って」
「で、君はそのために戦えるのかな?」

 答えられない。答えるまでもなく、わかりきっていることだから。

「みことちゃん。いい悪いは抜きにしよう。君が願いたいことは何なんだい?」
「―――わたし、好きな人が居るんです」

 鉄人さんが顔を少し逸らして、鼻の頭に指をやる。わたしはもっともっと顔を下げて、膝を抱え込む。

「まあ……若いころはそういう願いでも構わないんじゃないかと思うよ」
「その人、病院に居るんです」

 月の夜は空気が濡れて、息をするのが辛い。かたかたと鳴る木の音は、どうして頭を痺れさせる。

「病院?」
「アーチャーが現れる数日前に、事故に、遭ったんです」
「その事故で怪我を?」
「それで、まだ目が覚めなくて、先生はもう起きないって……ベッドの上で、チューブをつながれてて……! わたしを……庇ったから……!」

 喋るのが、こんなにも苦しいなんて。途切れ途切れにしか喉を動かせない。忘れていられる間はまるで平気だったのに、思い出したら涙が溢れて止まらない。
 わたしの目の奥に溜まった涙が一息つくまで、鉄人さんはわたしの肩をさすってくれていた。

「彼を助けたいんだね」
「……はい」

 鼻声はくぐもって、返事一つもまともにできない。鉄人さんの顔を見るのも怖い。

「けど……そんなこと……願うのは」
「どうして?」
「だって、色んな人を危ない目に遭わせて……アーチャーも、鉄人さんも……なのに、わたしがそんな願い事をするなんて」
「別に、いいんじゃないかなあ。そのぐらいのご褒美を欲しがっても構わないだろう」

 肩が温かい。ぐじゅぐじゅの顔を上げると、ぐにゃぐにゃの世界。滲んで見える鉄人さんは、でも笑っているんだとわかる。

「いいんですか……?」
「僕はいいと思うよ。奪うわけでも、何かを独り占めするわけでも、傷つけるわけでもない、善良な願いだと僕は思う。それを願うことは許されるべきだと思う。君もそう思うだろう―――アーチャー」

 窓の向こう、背中合わせに。アーチャーはガラスに寄りかかっていた。

「ああ。好きな奴を助けたいのは、当たり前だろう」

 流れる黒髪の掛かった小さな後ろ姿。見上げているからなのかな。華奢な背中はとても広く、強いものに見えた。
 ガラス越しの頼もしさに、わたしの涙の栓はまた緩んでしまって。水の中で溺れてるんじゃないかっていうぐらい、目が潤んだまま。
 感謝を言いそびれることがあると聞いていた。びっくりしたからなのだと思っていた。相手が急いでいるからなのだと思っていた。その本当の理由、本当の気持ち。この夜、それはわたしの胸に降りてきていた。
 ああ。明日の朝には、涙が止まって、ありがとうって言えますように。