――――Interlude/2 The princess mermaid and Conflagration.


 月下の海には星々が浮かぶ。二つの空の狭間、水面の上に小魚舞う。
 それは船、そこにあるのは七のうちの一。彼女の名は高波夏海。波間と揺れる宇宙を好む度合いは海から上がった人魚に等しい。
 そう、夏海は水が好きだった。泳ぐのが好きだった。波に身を委ね、漂うのが好きだった。上下の感が消える水の中、足元から射す太陽の光、つま先まで行き渡る浮揚感。どれも彼女の心を強く捉えた。
 だが沖に出たことはあっただろうか。彼女の家は地元の漁師たちにあまり好かれていない。祖父の代に少しばかりの因縁があったのだという。だから夏海は浜で泳ぐことはあっても、大海原に進み出た記憶はなかった。

「わあ……」

 夏海の頬が緩んでいく。未知の体験、憧れへと届いた手、子供のような高揚感。満天の星空に囲まれた世界は美しく、少し恐ろしく、とてつもなく神秘的だった。
 底に沈んでいるだろう怨嗟の声も、陸の見えない孤独感も夏海の胸に影を落とすことはなかった。頬に打ち付ける冷たい潮の匂いでさえ、今の彼女には喜ばしい。

「海、さいっこおおお!」

 誰にともなく夏海は叫んだ。恥ずかしさなど大自然の前には無用の長物。夏海は子供の如く瞳に星を湛え、ただありのまま心に膨れる歓喜を表現した。
 それを見つめ、男は誇らしげに笑った。

「すごい、すごい! ずっとこんな風に海に出てみたかったんだ!」

 夏海は喜色満面、男に振り返ってぴょんぴょんと飛び跳ねた。一通りパフォーマンスを終えると、彼女は男の手をとって、もう一度飛び跳ねた。

「ありがとう、ライダー」

 雲が僅かにかかった月。漏れる光が夏海たちを隠す。
 至福は夏海を彩り、影が彼女を美しく彫り上げる。匂い立つ色香などと縁のない夏海にも、このときばかりは芸術の神が味方していた。

 そして雲は過ぎ、月明かりは彼女の手の先、ライダーの姿を照らし出す。
 白い光が描き出したのは―――

1:天馬を駆った英傑の姿
2:大陸を蹂躙した覇道の礎、蒼き狼と白き鹿の末
3:恐怖の代名詞、海賊の王



 長身ではないものの頑健な肉体。隆々たる筋骨はその身に纏う獣の皮を以てしても隠し切れない。
 ライダーは鷹揚な笑いを海に滑らせた。その響きは豪快さの中に人としての温かさを感じさせる。
 されど瞳は鋭く、そして奥底は冷たい。それは己を絶対とする矜持の故。彼の心は何物をも愛でる度量があろう。しかし同時に全て彼の前では等しく塵芥、彼のためだけに存在する。
 彼は暴虐の王、偉大なる征服者。己を最上とし、全てを屈服させることに喜びを見出す。倣岸自尊さこそが彼の彼たる証明だった。

「どうやら存分に楽しんだようだな」
「うん。ずっと沖に出てみたいと思ってたんだ。ちっぽけな夢だけど、叶うとすごく嬉しいもんだね」

 夏海は笑う。王も笑う。それが夏海の喜びでもあった。
 現の世に囚われた妄執、かつて生きた者の残り香。世に言う幽霊、常人には見えぬそれが夏海には見える。その無念の声は彼女の耳に否応なく届き続ける。
 彼女を彼らに出会う度、彼らを救おうと努めてきた。だが霊とは世に焼きついた妄執の痕跡に過ぎず、いかなる手段でも救いが成ることはありえない。彼女は己の無力を思い知らされ、しかし決して魍魎たちから解放されずに生きてきた。
 なれば想像できよう。かつて死に、今この世に舞い戻った英霊と出会ったときの衝撃を。明確な願いを持ち、その実現に彼女の助力を請われたときの昂ぶりを。
 彼女の頬は無念を晴らさんとする意気に染まり、胸は熱に沸き、瞳には希望の曙光が宿る。
 天災にも似た偉大な王は、抉るような冷静さで彼女を見つめていた。

「実によし。賜った褒美が臣下を喜ばせぬとあっては、王の立つ瀬がないからな」
「わたしは家臣になんてなった覚えはないってば」
「主従の約は確かに逆のものだ。だが王は誰の下風にも立ちはせぬ。王に許されるのはただ君臨することのみよ」
「はは。大丈夫、自分を主人だなんて思ってないから。わたしたちはパートナー、一緒に頑張ろうよ、ね?」

 夏海は無邪気に王の手を取る。王は情け深くもそれに応じる。しかし瞳の奥には、やはり氷の刃が潜む。

「さて、ではこれからどうする」
「うーん、行ってみたい島もあるんだけど、やっぱりもう戻ろう。あんまり勝手に使うのはまずいし」
「この小船を戻すというのか?」
「そりゃ、そうでしょ。これ、昼間しか借りれないんだから。本当はこれ、犯罪なんだよ?」
「ほう。我が行いを罪と申すか」
「……ええっと、あのさ、嬉しかったのは本当なんだ。わたし一人じゃ船を動かせないから、こんなことできなかった。だから感謝してる。でも借りたものはちゃんと返さないと」

 なけなしの貯金をはたいて料金こそ置いてきたものの、無断で船を進めたことに違いはない。夏海の心には背徳の重石が載せられていた。この上、船を奪い取ろうとは思えるはずもない。

「ふん。そう言うのならば、顔を立ててやらんでもないが」
「ん、ありがと」

 船は針を回し、街の灯りへ面を向ける。きらきらと輝く絢爛な光が夏海の目に映る。一つ一つは小さな光、消えてしまいそうな儚さがある。しかし人の営みが海に街を浮かび上がらせている。
 夏海は街の人々に想いを馳せた。家で待つ祖母と晩餐を憩うとしよう。その平凡な期待に胸を膨らませる。
 だが、そのささやかな望みは掻き消される。

「―――え?」

 街に灯った一つの光。それは一瞬にして膨れ上がった。
 大山鳴動は無く、前触れはたったのそれだけ。全てを赤く染める炎、その大渦に浮かぶ小船は呑まれ、呆気なくこの世から消えていた。


 それはさながら太陽を舞う炎の龍か。洋上の小さな揺り篭は、水平に伸びた焔に喰らい尽くされ、今や影も形もない。
 一部始終を確かに見届け、ヒルデガルト・フォン・ノイエスフィールは遠見の眼鏡を静かに下ろした。
 なめらかな頬、通った鼻筋、美麗なる眉目。白銀よりなお白く儚い髪の色もあいまって、無機質な精巧さを感じさせる容姿。だが唇や顎に残る僅かな幼さが、アンバランスな美貌を彼女に与えていた。

「出力を抑えながらこの威力とは素晴らしい。さすがは太陽剣、最強の魔剣の名に恥じぬ」
「称賛の言葉は素直に受取ろう、我が主よ」

 華やかな金糸の髪と宝石の如き青き瞳を持った青年は剣を鞘に収める。その姿は正しく英傑、存在そのものが眩く輝きを放っている。

「宝具の使用が不服か、セイバー」
「まあ、そうだな。儀式は始まったばかり、海で遊ぶ連中を狙い打つ必要があったのかどうか」

 冷笑的なセイバーの言葉に対し、ヒルダはまなじりを吊り上げる。血の色の瞳は臆することなく英雄を睨み付けた。

「宝具を使う必要ならば、あった。この街は海に囲まれている。水路も多い。水の上を動き回られては厄介なことになる。騎乗スキルを持つライダーは真っ先に叩いておかねばならぬ相手だったのだ。それに」
「それに?」
「我らの力を誇示しておく必要もあった。戦いを有利に運ぶため、敵に衝撃を与える。今の威力を見せられれば、臆病者どもの心も折れよう」
「―――は、はははは! なんと強気な女だ、おまえは!」
「何がおかしい。強気であることに問題でも?」
「まさか。戦に弱腰は無用だ。だが会う女会う女がこうも鼻っ柱が強いと笑いたくもなるのさ」
「ふん。笑いたいのなら笑っておけ。私は撤収する。閣下に報告せねばならん」

 軍服の裾を翻すヒルダをセイバーは眉を上げて見送る。微かな失望と嫉妬が彼の表情を曇らせる。

「やれやれ、また『閣下』か。おまえは俺好みだが、気に食わないものがあるとすればそれだ」
「貴様の与るところではない。これは私の問題だ」
「他人から与えられた理由で戦うなど愚かしいぞ?」
「それは貴様の経験からくる助言か、セイバー」
「俺は単に自分のために戦う方が意味があると言ってるだけさ。まったく勿体無い。それができれば、おまえはさぞかしいい女になるだろうに」
「ほざけ。女難で身を滅ぼしたおまえが言う事など信じるに足らん」

 軍服に身を包んだ白い妖精は立ち止まらず、路地の闇に姿を消した。海岸に残された剣の英霊は、寄せては返す潮を遠く見た。照らす太陽も既になく、冥府より深い暗闇が彼を見つめ返していた。


――――Interlude out