好きで好きで仕方がないことってあると思う。その人のことを考えるだけでばーっと脳に血が巡って、頬が熱くなってくるひと。
 そうやって彼のことを考える、布団の中で、学校への坂を歩くとき、授業中にふっと。その全部がすごい幸せな時間だった。
 顔を見るとそれだけで嬉しくて涙が出そうだった。わたしは涙もろいんだって、彼を好きになって初めて知った。

 ―――だから、今は何も考えられなかった。

 呆然と宙をさまよう視線。何かを見ているのが辛いのに、目を閉じることはもっと苦しい。広がる腕の痛みも、刺す足首の腫れも気にならない。
 白衣のお姉さんが慰めるように肩をさすってくれた。お礼を言えたかどうかは覚えていない。
 先生がわたしの怪我のことを言っていた。すぐに治るとか、運がよかったとか。
 でも、そんなことはどうでもいい。わたしの怪我が軽かったのは当たり前だ。トラックが突っ込んできたとき、あのひとがわたしを庇ってくれたんだから。

 病院の奥にある赤いランプ。彼はその先に運ばれていって、まだ戻っていない。
 俺は大丈夫だよ、みこと。揺れる車の中、苦しそうな声で彼は言っていた。わたしの居ない方に向って、何度も囁いた。
 先生に彼のことを訊いた。声が出るか不安だったけど、蚊が鳴くみたいな音が出てくれた。
 大丈夫だよ。先生は言っていた。彼と同じように。

 朝が来て、病院で別の先生の話を聞いた。
 これから先、彼は起き上がることはない。目を開けることもない。そんなことを遠まわしに説明された。

 迎えに来たお母さんと帰る前に、チューブに繋がれた彼を見た。
 彼はよく笑っていた。苦労ばかり押し付けられても、湯たんぽみたいに温かくて、いつも優しかった。
 彼のことが好きだって言うと、笑う人も居た。でも、わたしは誰よりも彼が素敵なひとだと思う。
 彼は絶対に誰かを責めたりしない。叱ることも怒ることもあったけど、相手をぺしゃんこにするようなことはない。本当に強いひとなんだ。
 そんなひとがもう笑えないなんて、信じたくなかった。

 だから、かみさま。どうか彼を助けてください。

 わたしは何日も裏手の神社で夜に祈った。風が飛ぶ中、目を閉じて、願いの橋が架かるのを待ち続けた。わたしにできることなら何でもしますからって。

『―――汝、願いの成就を欲する者か?』

 地面の裏側から声が響く。
 目を開けると、そこには救いの使いが待っていた。

 ―――汝、聖杯の前に最強を証明せよ。されば祈りに手が届かん。

 こうしてわたし、志那都みことは裏返った世界に身を投じることとなる。
 日常全てがひっくり返るような道、その短く遥かな旅を共にする相棒と。

 わたしの前に立っていたのは―――

1:荒野に迷う兄弟殺し
2:蓮の化身
3:祭り上げられた女王


 わたしの前に立っていたのは可愛い顔をした女の子だった。線が細いっていうより、未熟で華奢な体をしている。たぶんわたしより年下だ。四つ、もしかしたら五つぐらい違うかもしれない。
 何がなんだかわからないって、このことだと思う。その子は神社の拝殿の奥からきた。じゃあ本殿の中に居たってことになる。
 でも、わたしはこの子を今まで見たことがなかった。神社は伯父さんたちが切り盛りしていて、わたしも時々手伝いに来る。本殿まで入れるような子が居るなら、紹介されていないのはおかしい。

「サーヴァント・アーチャー、ここに参上した。俺を呼び出したのはあなたか」
「さあばんと……ああちゃー……?」
「ああ、そうだ」

 女の子は大人ぶった素振りで頷いた。しゃらん、と腕輪がきれいな音を鳴らす。
 わたしが首をかしげると、女の子も一緒に首をかしげた。

「マスター。何か問題でもあるのか?」
「マスター……ねぇ。なるほど」

 わたしは立ち上がって、拝殿に上がった。
 女の子は口をへの字に曲げて、わたしを見上げている。結われた髪は艶があって、瞳は輝く黒曜石のよう。頬は桜の色の真珠、あごは職人技の工芸品みたいに繊細ですっきりした線だった。
 やだ。この子ったら、ものすごく可愛い子だ。でも然るべきときにはちゃんと叱ってあげないといけない。

「こらっ、どうやって入ったの!」
「は?」
「勝手に入ったら駄目でしょう!」
「え……?」
「今回は大目に見てあげるけど、二度とやっては駄目よ。さ、帰りなさい。お父さんお母さんが心配してるわ」
「……はあ?」
「明日の学校が終わったら、また来なさい。そうしたら一緒に遊んであげる」
「…ああ?」
「家はどこ? 送ってあげるわ」

 わたしが手を取ると、わたしが手を取ると、女の子は目を逆三角形にして、頬が真っ赤に染まった。柔らかいカーブを描く睫毛がすっと際立って、ああ、どうしよう、本当に可愛い。胸の奥がきゅーっと締めつけられる。

「ふ、ふざけるな! どういうつもりなんだ!?」
「どういうつもりも何もないわ。最近は物騒なんだから、夜遅くに女の子を一人にしておけないでしょう」
「な……俺は男子だぞ!」
「はいはい、そうね」
「後悔するぞ、マスター! 俺はアーチャーだぞ! サーヴァントなんだぞ!」
「うん、あーちゃーね」

 みゃーみゃー騒ぐ女の子の言い訳を聞き流して、わたしは手を引いた。女の子はマスターとかアーチャーと連呼しながら、トテトテと付いて来る。
 それにしても、一体何の『ごっこ』をしているんだろう。衣装まで用意して、すごい熱の入りようだなあ。

「俺はおまえに呼ばれて来たんだぞ!」
「女の子が俺なんて言っちゃ駄目でしょ。あと、年上の人をおまえって呼ぶのも止めなさいね」
「おーれーは男だーー!」
「夜中に騒ぐんじゃありません。めっ」

 女の子は金魚みたいに口を開けて、それきり黙ってしまった。口を尖らせて、それから我慢、耐えろ、師父の教えを守らないと、なんて呟いていた。
 わたしは笑いをかみ殺しながら、ぶつぶつ言う美少女を見ていた。柔らかい手がぎゅーとわたしの手を握り締めている。
 あとで気付いたのだけれど、わたしはあの日以来初めて事故のことを忘れていた。事故からずっと北風が吹いて、つららが大きくなっていったわたしの胸の中。でも、このときは芯から包み込む温かさがあって、まるで冬の陽だまりの丘のようだった。