1.

「んー……やっぱりもう、夏も終わりかなぁ……」

 ぺったぺった。
 ゴム製のサンダル特有の足音を響かせながら、夏海はそう一人ごちた。
 港湾区から住宅地の自宅までのんびりと歩いて30分ほど。
 そこで着替えてから山の方に向かって歩き出して15分。
 昼過ぎまで遊んで、其処から小一時間も経てば――もう夕方だ。
 あれほど煩かったアブラゼミの鳴き声が急に消え、変わってヒグラシの鳴き声が聞えてくる。
 それにしても、どうしてヒグラシの声はあんなに寂しそうなんだろう?

「夏にお別れを言っているんだって、お婆ちゃんは言ってたっけ」

 何年も何年も土の中で過ごして、たった一度の夏を過ごして、死ぬ。
 生きて、生かしてくれてありがとう、さようならと、夏に告げて。
 だからヒグラシが鳴くのは、夏の終わりなんだよ、と。
 人間の尺度で捉えれば、夏しか生きられない彼らの命は儚いものだけれど、
 でもセミ達にとっては――果たしてどれほどの時間なのか。
 彼らはどんな気持ちなんだろう?
 精一杯生きたのだろうか。後悔は無いのだろうか。
 そんな物思いにふけりながら彼女が歩いていると――

「……あれ?」

 道の端をひとり、とぼとぼと歩く人影に気がついた。
 ――女の子だ。
 真っ赤なランドセルに、黄色い帽子。
 小学1年生くらいだろうか。一人で、寂しそうに歩いている。

「……………」

 ちょっと小走りになって、女の子の横に並ぶ。
 だけど、彼女は夏海の方に目もくれない。
 当然だ。見えていない。この子はもう何も見てはいないのだ。

「ね。もう、その……こんな事しなくって良いんだよ?」

 声をかけるが、当然反応は無い。
 困ったなと頬を引っかきながら、女の子の歩調に合わせてとぼとぼと道を行く。
 山の方に向かうにつれて、道も緩やかな坂道へと変わりはじめる。
 海上都市の建設が始まって以降、ただの港町だった水佐波も随分と発展した。
 第一大橋、第二大橋という海上都市まで続く橋の間の浜辺はすっかりリゾート地だし、
 それに伴って街の中心部も大分近代化が進んできている。
 とはいえ、ちょっと離れればすぐに昔ながらの風景に戻ってくるのだけど。
 この山の辺りは、まさにそれだ。
 まだ住宅街と言う風情だけれど、もう少し行って民家が疎らになれば――。


「――――――あ」

 不意に視界に飛び込んだ景色に、思わず彼女は声を上げた。
 ぐしゃぐしゃに歪んだガードレールと、その傍に備えられた花束。
 驚いて横を振り向けば、既に女の子の姿は無かった。
 何があったのかは一目瞭然で。だからこそ夏海の胸は苦しくなる。
 この女の子は、これを延々と繰り返しているのだ。
 自分がどうなったのかを気付くことも無くて。
 きっとあの子は、学校に戻ったに違いない。
 学校から、自分の家に向かう帰り道。
 そして、ここで――……。

「………。やんなっちゃうなぁ……」

 幽霊に出逢ってしまった事ではなくて。
 何度も通っていた道なのに、今日まで女の子の存在に気付かなかった事に。
 『視る』事ができるのだから、ひょっとしたら何か出来たのかもしれないのに。
 そんな感傷的な想いに、彼女は其処に立ち止まった。

 ――高波夏海は幽霊を『視る』ことができる。

 幼い頃から、どうしたわけか『視える』。
 霊感があるとか、特殊な力があるわけでもなく、ただ『視える』。
 だが、それだけだ。
 別に幽霊と話せるわけでも、触れるわけでもない。
 とはいえ彼女の祖母や、兄に言わせれば「話せるわけがない」のだそうだが。
 幽霊というのは単なる記録に過ぎないのだという。
 強い想いの残滓が、まだ世界の中に残っているだけ。
 いずれ消えてしまう存在。
 死ぬ直前までの行動を延々とリピートする記録映像。
 其処には意思もないし自我もない。

「わかっては、いるんだけどねぇ……」

 はぁと溜息を吐き、夏海は再びペタペタと歩みを再開した。
 しばらく行くと右に左に傾きながら、だらだらと何処までも続く坂道に出る。
 半ば以上まで坂を登れば、其処からは時の止まったような土塀と竹薮が左右に続く。
 水佐波の海上都市における発展や、陸上都市の衰退からも忘れ去られた場所。
 夏海は幼い頃から何度もこの辺りに脚を運んでいるけれど、やっぱり少し不思議だった。
 ここだけ世界が違うような、そんな雰囲気が漂っている。
 だが、彼女は躊躇しない。ぺたぺたと間の抜けた足音が続く。
 坂を登りきった先に、彼女の目指す場所があるのだから。

 それはまた、随分と時代がかった庵だった。

 其処にあると注視していなければ見落としてしまいそうな、小さな庵。
 一応は『蔵馬屋』などと看板が出てはいるものの、本当に店としてやっているんだろうか?


「いっつも思うんだけど、よく兄さんは生活できてるよね」

 こんな所でやってる古書店で、食べていけるほど儲かっているのかどうか。
 まあ生活してるんだから儲かってるんだろう。其処を深く考えたりはしない。
 遠慮なく引き戸に手をかけて、がらりと横に押しのける。

「おーい、兄さん、きたよー」

 ――――返事がない。
 山積みにされた古書や古文書に占拠された店内には人の気配がなかった。
 入り口に置いてある勘定台に店主の姿はない。しかしこれ、地震でもあったら埋まってしまうんじゃないか。

「兄さーん? ……来いって言っておいて留守なのー?」

 勝手知ったる人の家、というよりも半ば以上我が家だと思っている店内へと入る。
 ぽいぽいとサンダルを脱ぎ捨てて畳に上がり、古書を崩さないよう気をつけて奥に進めば――

「おう、来たか」

 ――奥まった座敷で、煙管を噴かしてる男がいた。
 蔵馬鉄人。
 いつも甚平やらを着込んで煙管を片手に持っているこの人物こそ、この店の主だ。
 仕草も何処か年寄り臭く、ぼさぼさの黒髪は無精の証のようなものだが、
 不思議とそういったものが良く似合う男だった。
 とはいえ夏海にとっては単なる親戚に過ぎないのだが。
 最も家系図なんか見たことがないので、どういう関係なのかもわからない。
 だから「親戚の兄さん」と呼ぶようになって――それが定着した。

 煙草盆に煙管を叩き付けて灰を落とした鉄人は、その顔に渋い表情を浮かべる。
 と言っても、いつも不機嫌そうな顔をしているから、見た目に大差は無いのだけれど。
 ただ、夏海にはこの男の表情は良く判った。伊達に長い付き合いではない。

(あっちゃー……怒ってるよ、兄さん)

 予想通り、鉄人はじろりと夏海を睨みつけて言い放つ。

「まァた幽霊に関わってたろ」
「あ、あはは……うん」

 頬を引っかきながら笑って頷く夏海を見て、鉄人は深く溜息を吐いた。
 鉄人は何故か置いてある壷に手を伸ばすと、其処から塩を一掴み取り、夏海に振り掛ける。
 無論『視える』夏海が気にしていないのだから"憑いてきている"事は無いのだろうが。
 まあ、気休めのようなものだ。或いは昔気質な彼の癖か。

「ったく、優しいのも考えもんだなァ……。あんなのに関わっても時間の無駄だろうに」
「う、そりゃ返事がない事くらいわかってるけどさー……」
「返事があったら困るだろうが。
 反応するって事ァ、幽霊じゃなくて悪霊とかの類だからな。
 それこそ憑いて来て殺されっちまうぞ」
「でも、さぁ……。見えるんだから、何とかしたいじゃない」
「何ともできねェんだっつってるんだろ。あんま婆ちゃんに心配かけるな。
 ―――――ま、良いから座れ。別に小言聞かせたいわけじゃねぇんだ」
「うん」
「あと茶でも飲んでけ。茶請けにドラ焼きもある」
「おー、良いね。うん、貰うー」

 言われるがまま、夏海は卓袱台を挟んで鉄人の対面に腰を下ろす。
 一方の鉄人は慣れた様子で急須から湯飲みとマグカップに茶を注ぎ、
 ドラ焼きを乗せた皿と共に、クッションに座っている夏海の前へと差し出した。
 他の座布団が渋い緑色なのに対し、この青色のクッションは彼女が持ち込んだ物だ。
 いわば夏海専用の特等席。マグカップも同様で、持ってきたのは――確か中学生の頃だったっけか。
 両手に持って鉄人が淹れてくれたお茶を啜りながら、上目遣いで彼女は兄の様子を伺った。

「で、だ。 電話でも言ったが――ま、たいした用事じゃないんだ」
「わざわざ呼び出したのに?」
「呼ばなくたって来るだろうが、お前は」
「まぁねー。兄さんのお茶、美味しいし」

 ついでに言えば彼の用意してくれるお茶請けも美味しい。
 ドラ焼きやら羊羹やら饅頭やら大福やら、あまり若者向けのお菓子ではないけれど、
 祖母と一緒にお茶を飲むことが多かった夏海にしてみれば、こっちの方が馴染み深い。
 みことや葵なんかは大変らしいが、特に体重計が天敵というわけでもないし。
 餡子と皮の感触を楽しみながら、ドラ焼きを頬張った。

「まあ、小言に聞えるかもしれんが、そうじゃない。割と真剣な話だ」
「うん」
「明日から二週間――かねぇ。ま、そんぐらいの間は、あんま夜遅くまで出歩くな」
「へ? 兄さんがそーいう事に口出しするの珍しいね」
「だから小言じゃねえって。 ちぃっとばかし、物騒になるんだ。
 友達にも遅くまで出歩くなって言った方が良い。できれば海にも行かない方が良いんだが」
「海は無理。 ――――でもさ、なんでまた突然?」
「あー……。盆じゃねえけど、幽霊とかが強くなる時期みたいなもんだ。感じなかったか?」
「………………あ」

 そういえばと思い出したのは、来る途中に出逢った女の子。
 今まで一度も見なかったのに今日になって突然『視えた』。
 それはそういう事なのかと、小さく頷いて。

「ん、わかったよ。気をつける」
「本当か?」
「本当だってば。お婆ちゃんに心配かけるような事はしないもん、あたし」
「…………本当だな?」
「…………ラジオ体操なんか行っちゃったりとかしたら―ー」
「やめとけ。今更、絵の具セット欲しがる歳でも無いだろ」
「……はぁーい。あ、それなら本とか持って行って良い? 退屈だしさ」
「あー……。わぁった、好きに持ってけ」
「やたっ! 兄さん、太っ腹ーっ」


 ちゃんと返せよという兄の声を背に受けて、パタパタと店舗部分へと戻る。
 品揃えが多い、というか雑多に過ぎるこの店には、本当に大量の本が置かれている。
 その上、商売をやっているから当然なのだが、気付くと品揃えがガラッと変わっているから驚きだ。
 幼い頃から本を読ませてもらっていた夏海でも、読んだ事のない本の方が多いのではなかろうか。
 最も、象形文字紛いの域にまで至った書体なんかは完全にお手上げだが。
 埃っぽい紙の山の間を行ったり来たり。本を傷めないよう気をつけつつバサバサとひっくり返す。
 後を付いて来た鉄人が呆れ顔なのにもお構いなしだ。

「おお、洋書もあるんだ。Rhinogradentia? 何語?」
「フランスの学術本だ。和訳の『鼻行類』がそっちの山にある」
「んじゃあこれ。『完全和訳ロガエスの書』ってのはー?」
「あー、それはやめとけ。つかエノク語なんざ翻訳できるか」
「だったらこの『後家の庭』とか。日本のでしょ、これ」
「……そいつは艶本の類だな」
「おおっと」

 そうして古書の山を引っ掻き回すこと暫し。
 ふと夏海が、一本の巻物を探り当てた。随分と古い。

「ねえ兄さん、これ解いて見て良い?」
「今更聞くな。構わんよ」

 許可を求めてから紐を解くと、まず最初に飛び込んできたのは漢字だった。
 とはいえ漢字だという事がわかるだけで、何が書いてあるのかはさっぱりわからない。
 そのままコロコロと転がしていくと――思わず彼女は目を見開いた。

 其処に描かれていたのは、美しい女性の絵姿。
 長く艶やかな黒髪。豹の姿が織り込まれた、ゆったりとした着物。
 穏やかな表情――どこか飄々とした、風のような微笑。
 繊細な筆運びによる水墨画。玄人の作ではないだろう。
 だが――丁寧で、心が篭っていた。
 そのことだけは、芸術に疎い夏海にも、よくわかる。

「こりゃ漢書だな。唐宋か……その後くらいかね」
「兄さん、この巻物が何かわかるの?」
「いや、この間纏めて仕入れた奴だからなぁ……」
「ダメじゃない。店主なんでしょー、それでも」
「わぁったよ、後で調べておく――で、どうするんだ?」
「んー……」

 既に何冊か選んでスポーツバッグに仕舞っている。
 いるが――何故かこの巻物の絵は気に入っていた。
 少し悩んだ後、それも一緒に持って帰る事にする。

「うん、これで良いよ」
「後でちゃんと返せよ。あと汚すなよ。つか、そろそろ帰れ」
「わかってるって。兄さんの大事な商品だもん。って、もうこんな時間か」

 慌ててカバンを抱え、放り出したままのサンダルをつっかけて。

「それじゃあ――また今度遊びにくるねー」

 そう言って手を振り、夏海はペタペタと足音を立てて戸口の外へと駆け出した。
 続いて下駄を履いた鉄人が見送りに出ると、もう彼女の姿は夜闇の中に消えている。
 夏も終わりに近づき、大分夜が早くなってきたのだろう。
 ヒグラシの鳴き声を聞きながら、鉄人は小さく顔を顰め、煙管を口元に運んだ。
「まったく……嫌な予感しかしないってェのは、どういう事だ。糞」


 ぺたぺたと、間の抜けた足音と共に夜道を行く。
 特に変わったことの無い、いつも通りの日だった。
 兄さんに呼び出されて注意されたっていうのは驚いたけれど、
 あの古書店に遊びに行くのは他の日だって変わらない。

 泳いで、友達と遊んで、騒いで。
 兄さんのお店でお茶を飲んで、話して。
 あとは家に帰って、お婆ちゃんとご飯食べて。
 そういえば宿題を少し進めておかないと。
 受験勉強も始めないといけないなー。
 でもあたし、大学行くのかな。どうしよう。
 そうだ。明日、兄さんに進路について相談してみようかな。

「……………あれ?」

 既視感を覚えて、夏海は脚を止める。
 夕暮れ時に女の子と出逢った辺りに、また別の人影が立っていた。
 今度は――ひとことで言うなら、チンピラだ。
 だらしない服装をしていて、片手にジャラジャラとストラップの下がった携帯。
 大声で何か喋っているみたいだけれど、それは聞えない。
 彼女にできるのは『視る』事だけ。
 そう、その男は『視えた』のだ。
(――もう、死んでるんだ。この人も……)
 兄が言っていた事を思い出す。
 『幽霊が強くなる時期』だとか。
(そりゃあ、まあ。あたしだって自分で何とかできるとは思ってないけどさ)
 きょろきょろと周囲を見回す。誰も見ていない。
 まあ、あの兄さんは出不精だからつけられている事は無いだろうけど。
「明日から、って約束だもんね」
 うんと頷いて、先刻と同じように小走りで男の横に並ぶ。

「あのー……。その、貴方は、もう、死んでるんですよ……?」

 と声をかけた瞬間、男の顔が此方を向いた。


「…………ッ!?」

 一瞬、自分の声に反応したのかと思ったが――違う。
 彼が見ているのは、彼女の背後。
 坂道と平行して続いている、竹薮の奥だった。
 続けて、男の霊が走り出した。反対側の竹薮に向かって。
 ――――つまり、何かが現れたのだ。この男の目の前に。

「ちょ、ちょっと……待って!」

 慌てて夏海が後に続いて、竹薮に飛び込んだ。
 必死に走る男の背中を彼女もまた賢明になって追い駆ける。
 ――そう、必死なのだ。
 追いつかれれば死ぬ。
 それがわかっているかのように、男は走っていた。
 すぐに引き離され、男の姿が見えなくなっても、夏海は走る。
 尋常でない事はすぐにわかる。後を追うのも容易かった。
 竹がなぎ倒され、真新しく一本の道が出来ていたのだから。

 思えば、高波夏海は引き返すべきだったのかもしれない。
 少なくとも、今ならばまだ戻ることが出来たのだから。
 だが、夏海は引き返さなかった。
 得体の知れない何かが、彼女を突き動かしていた。
 持ち前の優しさか、それとも好奇心なのか。
 或いは、陳腐な表現をするならば、やはりこう呼ぶしかあるまい。

 ―――――運命。

 びしゃりと踏みしめた赤色の何かが、夏海にとっての運命の扉だった。

「―――え?」

 竹薮の奥には、赤色が広がっていた。

 真ん中には、かつてヒトガタだったなにか。
 その傍には、ヒトガタをしている何か。
 荒く息を吐きながら、赤色の中に口を突っ込み、貪っている。
 食べてるんだ。
 そう理解した瞬間、彼女は胃からこみ上げるものを感じ、口元を手で押さえた。
 ――食べてる。
 食べられてる。
 これは。
 これは、一体。
 何なんだ。


「なんだ、おまえ――……その、右手――……」
「……あ、え……みぎ、て……?」

 獣とばかり思っていた影が、掠れた声を吐き出した。
 人の言葉。呆気にとられた彼女だったが、つられて右手甲を見やる。
 ――痣だ。海辺で気付いたあの痣。
 それが、昼間にも増して赤くなっている。

「令呪……な、のか……? だったら――マス、ター……」
「え、ちょ、ちょっと……れいじゅ、って……これ、ただの痣―ー」
「なら―――」

 掠れた声が、どこか昂ぶったように感じた。
 後悔してももう遅い。
 ダメだ。聞いちゃいけない。
 逃げなくては。逃げなくては。
 逃げなきゃ―ー

「殺して、良いんだな?」

 殺される。
 殺される。
 殺されて、殺されて、殺されてそして――

「ランサァーッ!!」
「………ッ!」

 喰われる。
 フラッシュバックする赤色が、彼女の足を突き動かした。
 次の瞬間、夏海は逃げ出した。
 草や枝でむき出しの腕や脚が傷つけられるのも構わずに。
 文字通り脱兎の如く、だ。
 本能的に理解していたから。

「はぁっ!は…ッ!んっ…はぁ…っ! あぅう……ッ」

 背後からは何者かの足音が迫る。
 速い。今にも追いつかれそう。でも――……。

(嬲られてる……!?)

 追い詰められた動物染みた直感が、そう告げていた。
 食べられてしまった男の人よりも自分は明らかに遅い。
 あの人が必死で走って、それでも追いつかれて殺されたのに。
 なのに自分はまだ生きていて――……
 "アレ"は、こうやって自分の後をついてくる……ッ!

「はぁ……! はぁっ……はぁッ……うぐぅっ!?」

 竹薮を抜けて先ほどまでいた道路に出た瞬間、背中に強い衝撃が打ち込まれる。
 焼けるような痛みと共に、衝撃で思わず脚が縺れ、転んだ。
 打たれたのだと理解した時には、既に追跡者が間近にまで迫っていた。

 長く伸ばした黒髪。闇の中でも見える髭。
 素人目にも実戦的だとわかる甲冑。豪奢なマント。
 まさしく王者。

 だが。

 この男が王であるならば。
 ――間違いなくそれは暴君であるに違いない。

 爛々と輝く瞳は人のそれではない。
 亀裂のように裂けた口の中の赤色は、冒涜的なまでに色鮮やかだ。
 この距離であっても漂う呼気は、喩え様もなく生臭い。

 地に伏したまま呆然と男を見上げる夏海に対し、
 この男は情け容赦など欠片も有していない目を向ける。

「げほっ………うあぁあああッ!」

 次の瞬間、夏海の鳩尾へと、無慈悲にも爪先が突き込まれ、
 そのまま彼女の身体はボールのように軽々と宙を舞う。

「か…は……」

 反対側の竹薮の中へと放り込まれ、背中が地面に叩き付けられた。
 なんでこんな所に開けた場所があるのか疑問に思う暇も無い。
 あまりの衝撃に、肺の中の空気が全て押し出される。
 ぶつけるか切るかしたのだろう。全身が酷く痛む。
 もう一歩も動けない。指一本も動かせない。
 痛い。
 怖い。
 痛い。
 怖い。
 怖い……!

(――あ、もうダメだ)

 逃げようなんて気は、とうに失せた。
 彼方から近づいてくる、具足のがちゃがちゃという金属音。
 それを聞くだけで、身体中が震え、息がつまる。

「悪く思うでない。――これもまた因果というものだ」
「お…願……やめ……て…」

 そう言って男が剣を抜いた。
 月光に切っ先が煌く。
 呼吸ができない。声が出せない。
 これは、昔似たような事が。
 溺れたときと一緒だ。
 息が詰まる。苦しい。
 視界が暗くなる。怖い。
 このまま堕ちてしまいそうで。
 消える。周囲からじわじわと押しつぶされるように。
 海という世界に潰されて、消されてしまう。
 口を開く。酸素を求めて舌が伸びる。だが、声すら出ない。
 怖い。死にたくはない。思考が途切れそうになる。
 我慢していたのに、目尻からは涙が零れ落ちた。
 怖い。怖い。怖い。怖い怖い怖い。怖い……!

(こんなに怖いんだもん。そりゃ、幽霊になるわけだ)

 死への恐怖が齎す窒息に苦しみ、喘ぎながら、ぼんやりと夏海は思った。
 思考の全てが怖くて怖くてたまらないと叫んでいるのに、頭の奥のほうには冷静な部分が残っている。
 その部分が、吹き飛ばされた際に地面に散らばったバッグの中身に目を留めた。
 土に塗れて酷い有様になってるだろう。ひょっとすれば破けているかもしれない。
 紐が解けて転がった巻物が、すぐ間近にまで届いていた。

(兄さん、怒るだろうなぁ。ごめんねぇ……)

 縋るように手を伸ばす。辛うじて、指先が触れた。
 右の手がいやに熱い。
 振り上げられる剣。
 観念して目を閉じた。

 そして――――


 そして――――

 ――救い手は本当に、奇跡のように現れた。

 ごうと吹き抜ける風の音。
 水面まで一気に昇った時のような爽快感。
 肺に空気が入ってくる。

「もう眼を開けても大丈夫」

 鈴の音のような声。
 恐る恐る瞳を開けば――月が間近に見えた。
 自分が空中にいるのだと認識した刹那、え、と意識が混乱する。
 慌てて身動きしようとした手足を、しなやかな指先がそっと抑えてくれた。

「え、えと…………」

 見れば、彼女を抱えているのは女性だった。
 長く艶やかな黒髪。豹の姿が織り込まれた、ゆったりとした着物。
 穏やかな表情――どこか飄々とした、風のような微笑。

「安心してくださいまし。わらわはそなたの敵ではありんせん」

 そして、あの血溜りこそが夏海にとっての運命の扉であるならば。


「問おう。そなたがわらわのマスターか?」


 この言葉こそが――その扉を叩く、運命の音だった。