-8.


 水佐波市。
 首都圏から離れた場所に位置する、沿岸都市だ。
 山、森、海と日本の自然が全て揃った、静かな地方都市である。
 近年になって海上に埋め立て島を作るなどして開発が進んでいるが、
 その一方で昔ながらの漁村や住宅街も、しっかりとまだ残っている。
 時代の流れに伴って、少しずつ変化している――何処にでもある街。

 しかしそんな水佐波にあって尚、時の流れとは無縁の存在があった。

 住宅街から離れて歩くこと暫し。
 右に左に傾きながら、だらだらと何処までも続く坂道がある。
 その坂の向こうが見えるほどまでに登れば、其処からは土塀と竹薮が左右に並んでおり、
 まるで時の流れが止まったかのような印象を、見るものに与える風景が続く。
 水佐波の海上都市における発展や、陸上都市の衰退からも忘れ去られた場所。
 そんな山に程近い区画に、時代から取り残された、小さな古書店がある。

 老人が目指しているのは、まさにその店であった。

 そう、彼は老人だった。
 少なくともその一点においては、雰囲気に合った存在と言える。
 しかし着込んだ衣服が場違いだった。決定的なまでに場違いだった。
 何せ派手な花柄の木綿シャツ――つまりはアロハシャツなのだから。
 がらりと古びた戸を開けて店内に足を踏み入れると、店主の顔がすぐに見える。
 勘定台で煙管を噴かしていた店主が、実に嫌そうな顔をしていた。
 もっとも、この店の主はいつだって不機嫌そうなので、老人は特に気にしない。

「何しに来やがった」
「随分な言い草じゃな。折角本を買いに来てやったというに」

 呵呵と笑う老人に対し、店主――蔵間鉄人は眉間に皺を寄せた。
 甚平を着込み、煙管を噴かすこの男。
 いつ何時訪れても、山と詰まれた古書に埋まった勘定台に座っており、
 丸で店の一部とでも言うような佇まいをみせるが、外見は二十代半ば。
 だというのに、ともすれば目前の老人よりも年寄りめいた雰囲気がある。
 奇妙な人物である。ただ一言で表すならば、だが。

「とはいえ、そいつは建前でな。あんたに頼みたい事があるんじゃよ」
「勘弁してくれ。俺ァそういうのとは手を切った」
「あんたの事だ。どうせ調べて、少しは話を聞いておろう?」
「誰が好き好んで戦争なんぞに関わるか。あんなのは一度で十分だ」
「あんたの存在を見逃してやってたのも、こういった時の為なんだがのぅ……」
「勝手に恩を売った気になるんじゃねえ。俺ァ元からこの街の人間だ」
「しかし、事はわしだけに留まらんぞ。わしの息子。あんたの大事な娘子も――」
「くどいぜ"坊"。手前の尻は手前で拭え。こっちに押し付けるな」
「………そうか。なら邪魔をしたな」

 そう言うと老人は、近場に詰まれた古書から一冊を手に取った。
 革張りの表紙の、随分と古びた洋書である。ただし銘は無い。
 いかにも曰くありげな本。
 だが老人は躊躇せずにページを開き、流し見てから頷いた。

「こいつを貰っておこう。お幾らかな」
「1000円だ。とっとと出てけ」


 老人が静かに戸を閉めて立ち去ると、鉄人は苦虫を噛み潰したような顔になる。
 要するにますます不機嫌な顔になった、というだけの事だ。
 彼の平素の顔を見て感情の度合いを汲み取れる者は、そう多くはいない。
 苛立たしげに、かつりと煙管を煙草盆に叩き付ける。
 ――それにしても厄介な事になった。
 戦争だと? 糞ったれめ。

「………………やれやれ」

 実に大儀そうな仕草で立ち上がると、彼は古書の山の中へと手を突っ込んだ。
 しばらく紙束を引っ掻き回して手繰り寄せたのは、これまた時代がかった黒電話である。
 滅多に此方から掛けることも無く、また掛かってくる事も無い代物だった。
 何せ用のある相手は、好き勝手に店先へやって来るのだ。特に必要も無い。
 ――が、今回は少々事情が違った。
 あの娘の事だから今日の夕方にもまた来るかもしれないが"かも"では困る。
 確実に呼び出して、しっかり釘を刺しておかねば。

 ジーコロロと古臭い音を立ててダイヤルを回し、受話器の向こうで呼び出し音が鳴ること暫し。

「…………。ああ、夏海か? 俺だ」
『あ、兄さん? もー、あたしの携帯なんだから、あたし以外出るわけ無いじゃん』
「そうかい? どうにも俺ァ、そういうのが良くわからんのだがね」
『まあ、兄さん機械音痴なのは昔ッからだけどさ。で、どうしたの。電話するなんて珍しい』
「悪いが、後でちぃとウチの方に来てくれないか?」
『良いけど……何か用事?』
「んにゃ。別に手間は取らせん。すぐに済む事だが、話しておかなきゃならん事ができたんでね」
『わかった。それじゃあ夕方ぐらいに行くよ。今、みことと遊んでた所でさ』
「あいよ。気ィつけてな」

 がしゃりと受話器を電話機に置く。
 戦争なんてのは随分と前に終わった筈だってのに。
 外から響くのは、蝉の鳴き声。

「半世紀経っても変わらないのは自然くらいだと思ったんだがねぇ……」


-7.

 何年経っても自然というのは変わらないものだ。

 初めてこの風景を見たのは、確か冬だったように思う。
 荒れ狂う風。岩をも打ち砕かんと迫る強烈な波。
 寒さ自体には慣れていた。慣れざるを得なかった。そういう環境に彼はいた。
 吹き荒ぶ雪の痛みも、足を絡め取る泥の重さも知っていた。
 それこそが冬なのだと、彼は思っていた。
 だが――これはどうした事だろうか。
 足を踏み入れる事など生涯想像しなかっただろう極東の冬。
 その冬は、彼にとって想像もしない表情を見せてくれている。
 だが驚くべきは、それだけではない。
 人類の技術が作り出した船ですら、いとも簡単に破壊できるだろう波の中にあって、
 それを物ともせずに泳ぎ続ける魚たちの存在ときたら!

 船の甲板に立っていた彼は、呆然とその海を見つめていた。
 全身を濡らす水飛沫を気にする余裕は無く、ただ只管に圧倒されたのを良く覚えている。
 長い年月を生きてきたつもりであっても、未だに自然は彼の心を奮わせた。
 自然、或いは地球という惑星は、それほどまでに雄大かつ強大なのだ。
 人としての範疇を多少外れた道に入ったからこそ、それが良くわかる。
 だが、あれから長い年月が過ぎた。
 今は冬ではない。

 ――夏。

 かつて荒れ狂っていた海は、実に穏やかに凪いでいる。
 美しく澄んだ海。燦々と光を降らせる太陽。遠くから聞えるウミネコの声。
 波によって飛び散った水飛沫が、きらきらと煌き、彼は目を細めた。
 目を細めれば海中を行く

 季節は巡り、月日は過ぎ、星辰の順列も変化した。
 汗ばんだ胸元に風を送り込むべく襟元を緩め、更にそれを実感する。
 変わらないのは自然と、自分くらいのものだ。
 かつてと同じ景色を甲板の上から眺め、彼は皮肉げに口元を歪めた。
 人も時代も移ろい行く。
 祖国は滅び、かつて友と呼んだ男達は皆逝き、傍らにいた女も消えた。
 ――いや、消えてはいないのか。

「閣下、そろそろお時間ですが……」

 不意に背後から聞えた声。凛とした鈴のように涼やかな、女性の声。
 "閣下"と呼ばれた彼は、ゆっくりと頷いて其方へと振り返る。
 其処には、声から想起されるのと寸分違わぬ雰囲気を纏った少女が立っていた。

 肩まで伸ばされた、雪のような――彼にとって雪とは灰色だった――色合いの美髪。
 年端もいかぬ娘でありながら、研ぎ澄まされたように鋭い紅色の瞳。
 人為らざる者の美しさ。大昔の人間ならば魔女と形容するだろう美貌。
 身に纏うのが黒衣であるという点もまた、そんな印象を強める一因だ。

「もしかしてお邪魔でしたでしょうか?」
「いや、時間を忘れていた。呼びにきてくれて助かったよ、ヒルダ」

 少女の姿を一瞥すると、彼は小さく首を横に振って応えた。
 ヒルダ――ヒルデガルト・フォン・ノイエスフィールは、それを聞いて安心したとばかりに笑みを浮かべる。
 花の綻ぶような微笑。氷のような姿と裏腹に、何処か暖かみのある表情であった。

「船内に戻る前に、貴官も一度見ておくと良い。あそこが我々の"戦場"になる」
「――ミナサバですか。聞いていたよりも、美しい土地なのですね」

 海上からも良く見える。
 美しい海。見事に広がった森林。雄大な山。
 漁村のように見える沿岸部に牧歌的な住宅街。
 橋を渡れば近代的な海上都市と、浜辺にはリゾート区域。
 夏という行楽シーズンであるにも関わらず、記録によれば其処まで旅行客がいるわけでもない。
 こんな見事な自然に囲まれているのに、平凡な地方都市に過ぎないというのは信じがたかった。

「拠点設営が終わり次第、貴官には向こうに上陸して貰う事になる。
 其処からは精一杯働いて貰うぞ。覚悟をしておくと良い」
「はッ」

 カチリと踵を合わせての見事な敬礼。
 少女の容貌には不釣合いな仕草であるが、実に様になっている。
 その様子を見て、彼の巌のような顔にも僅かに笑みが浮かんだ。

「ではそろそろ戻るとしよう。到着までは間があるのだし、珈琲を飲むくらいの時間はある筈だ」
「宜しければ、私もご一緒して良いでしょうか?」
「構わんよ。ヒルダは珈琲でなく、ココアだったか」
「はい、よく練った物を好んでいます。それでしたら、先に行って準備しておきますね」

 弾けるように駆け出したヒルダが船内に姿を消すと、彼の顔から笑みが消えた。
 長い年月を経た岩。無骨な表情は、それ相応の苦労と思考を伴ったものだ。
 彼は最後にもう一度、己の"戦場"となるだろう土地を睨み付ける。

「鷹は舞い降りた――、か」

 海から降りるのでは締まらんな。冗談とも本気とも取れぬ呟き。
 そしてナチスと呼ばれた組織の生き残り、亡国の残党が集った場所、
 度し難い大馬鹿者達の集団、秘密結社――グラムヘイム、
 その極東支部長ヴィーダー・ベレーブング大佐がハッチの中へと潜り込み、
 かくてUボートXI型潜水艦は、深く静かに水底へと潜行する。

 ――――――どこまでも、どこまでも。


-6.

 ――――――どこまでも、どこまでも。

 慣れ親しんだ街並みの中にある、一直線に伸びる道。
 時々、本当にどこまでも歩いて行けると思ってしまうから、困る。
 高波夏海にとっては、水佐波の海こそが其れだった。
 潮の匂いと、遮る物の無い紺碧。いつまでも潜っていられそうだ。

(まあ、無理なんだけどさ)

 肺が空気を求めて騒ぎ出す感覚に、人間が陸上生物である事を思い知らされる。
 どんなに海が大好きで、ずっと遊んでいたくても、海は自分を拒絶する。
 ひょっとして自分は海に嫌われてるんだろうか、なんて。
 子供ながらも真剣に悩んだものだった。

(結局、答えなんかでなくって。お婆ちゃんに聞いたんだよねー)

 海には海の都合があるんだよ、と祖母は優しく教えてくれた。
 だから人間の都合で無理なお願いをしちゃいけないんだ、と。
 友達の嫌がる事をすれば喧嘩になるだろう?
 喧嘩するのが嫌なら、海のお願いを聞かなきゃならない。
 だって海は、みんなに魚をくれたり、普段から一杯頼みを聞いてくれるんだから。

(ありがとう。――またね)

 しなやかな脚で力強く水を蹴り、上へと昇る。

 そう。それがお婆ちゃんから最初に教わったこと。
 海の傍で暮らすなら、忘れちゃいけない考え方。
 夏海にとって、この海は大事な友達で、故郷で。
 だから水佐波が大好きなのだ。

 しばらくすると水面越しに、太陽がきらきら輝いているのが見えた。
 息を止めたまま一気に其処を目指し、そして――。

 ――世界が切り替わった。

 今まで青一色だった世界に、他の色が戻ってくる。
 肺一杯に空気を吸い込んで、吐き出して。

「あぁもう気持ち良いなぁーっ」
「ほんと、夏海さんは海に入ると楽しそうですわねぇ」
「そりゃもう。水を得た魚って奴よ」

 先に海面まで上がってきていた友人――志那都みことと笑いあう。
 短い赤毛、健康的に日焼けした肌という夏海と対し、艶やかな黒髪と、雪のように白い肌。
 加えて常々夏海がけしからんと思っている、女性的な丸みを帯びた体型もまた対照的だ。
 どうしてあんな大きなものを二つもぶら下げているのに、泳ぎがこんなに速いのだろうか。
 水泳部部長から『水佐波のクロマグロ』なる有難くない渾名を頂いた夏海に対し、
 納得のいかない事に、彼女はそれに勝るとも劣らない速度を出せるのだ。
 世の中って不公平だと夏海は思う。

「でも部長も来れば良かったのに。夏に海で泳がないなんてバチが当たるよ、ほんと」
「そりゃあ部長さんは海が苦手ですもの。それに夏海さんは季節なんて関係ないじゃない」
「まぁねー」

 ざばざば水を掻き分けて――水中と水上とじゃ泳ぐ気分も大分違うもんだ――砂浜に上がる。
 日光に晒されて熱を持った砂の感触が、海水で冷やされた足の裏に心地良い。
 水佐波も一部の砂浜がリゾート開発されているとはいえ、この辺りはまだ昔ながらの漁村だ。
 盗まれる心配もないと砂浜に放り出したスポーツバッグからタオルを取り出し、水滴を拭い取る。

「……あれ?」

 と、夏海は自分の手の甲に奇妙な痣があるのに気がついた。
 はて何処でぶつけたのだろうと考えても、思い当たる節が無い。
 恐る恐る触ってみても痛みは無いし、怪我と言うほどの事もなさそうだが。

「まあ良いか。すぐに治るでしょ」
 特に気にする必要もないと頷いて、彼女はそれを意識の外に押し出した。
 さて今は何時だろうかと時間を確かめるべく携帯を取り出そうとして――

「あ、っと、っとととと、ちょっと待ってね、と」

 突然、携帯が震えだした。
 マナーモードにしたままだったと、慌てて携帯を開いて受信する。
 続いて聞えてきたのは実に馴染み深い、酷く落ち着いた男性の声だった。

『ああ、夏海か? 俺だ』
「あ、兄さん? もー、あたしの携帯なんだから、あたし以外出るわけ無いじゃん」
『そうかい? どうにも俺ァ、そういうのが良くわからんのだがね』
「まあ、兄さん機械音痴なのは昔ッからだけどさ。で、どうしたの。電話してくるなんて珍しい」
『悪いが、後でちぃとウチの方に来てくれないか?』
「良いけど……何か用事?』」
『んにゃ。別に手間は取らせん。すぐに済む事だが、話しておかなきゃならん事ができたんだ』
「わかった。それじゃあ今から行くね。ちょっと、みことと遊んでた所でさ」
『あいよ。気ィつけてな』

「……珍しいなぁ」
 あの兄さんが電話してくるなんて滅多に無いんじゃなかろうか。
 パタリと携帯を閉じてバッグに放り込み、水着の上からシャツを羽織る。
 ――と、同じく水着の上から肩に服を引っ掛け、髪を拭いながらみことが声をかけてきた。
「どうかしたんですの?」
「あ、ごめんね、みこと。兄さんから着信が入っててさ」
「あらあら、殿方からの連絡だなんて。夏海さんも罪な女ですこと」
「別にそんなんじゃないってばー。普段めったに電話かけてこないんだもん、兄さんは。
 それにみことの方こそ、男子から人気あるじゃない。罪作りなのはどっちよ」
「わたくしは彼一筋ですもの。他の殿方なんてアウトオブ眼中!
 人の恋路を邪魔する野暮な方々はスポーツカーに撥ねられて死ぬべきなのですわー」
「はいはい、ごちそーさま」


 くるくる回るみことに苦笑交じりに呟いた。まあいつもの事だ。
 みことと彼は、自他共に認める街一番のバカップル。
 そりゃあもう水佐波市全体を巻き込んだ大騒動の末の告白だったから、知らない者は誰もいない。
 というか毎日のようにイチャイチャしたり惚気話を聞かされてれば知らなくても慣れる。

「それでお兄さん、何か御用だったんじゃなくて?」
「うん。あたし兄さんに呼ばれてるから、今日のお茶会は抜けるね」
「あら、小日向さんがレーヴェンスボルンに呼んで下さったのに」
「ごめんねー。部長達にも謝っておいて」
「それでしたら折角ですし、お兄さんも連れていらしたらどうかしら?」
「んー……兄さん、出不精だからさぁ」
 頬を引っかいて苦笑い。もっと出歩けば良いのにとは常々言っているのだが。

 ――と、不意に排気音が響き渡った。
 視線を上げれば、浜に近い道路を疾走する車の姿が目に入る。
 まさに先ほどの会話に出てきたスポーツカー然とした外観。
 この道がリゾート地に向かう事を考えれば、乗っているのも相応の人物なのだろう。

「あら、素敵な車ですこと」
「凄いよねぇ……あんなのに乗ってたら気分良いだろうなぁ」


-5.

「ったく、学生どもめ。さぞかし良い気分なんだろうな」

 光岡自動車製ファッションスーパーカー「大蛇」のハンドルを切りながら、管代優介は毒づいた。
 浜辺で暢気に過ごしている女学生など、彼が今最も見たくない存在の五指に入る。
 今自分が――そして街の住人が置かれている状況について、懇切丁寧に説明してやりたい。

 まったく面倒な事になった。
 いきなり親父が行方不明になって、自分が跡継ぎとなった段からしてキナ臭かったのだ。
 有り余る金をつかって生涯働かずにのんびり過ごせると思っていたら――全く。
 どうしてこう厄介事に巻き込まれなければならないのか。 
 地位だとか権力だとかなんかいらないから、のんびり生きていけるだけの金さえあれば良いのに。

 そもそもこの大蛇にしたって別に金持ちの道楽で購入したわけではない。
 居住性の高さ、静かなエンジン音、そして運転のし易さなどを考慮し、
 単に一番「面倒くさくない」と思える車両を選んだだけに過ぎない。
 街の有力者の息子が安っぽい車を運転していれば、色々と面倒な勘繰りをされるかもしれないし、
 見栄えが良くて運転のしやすい車で、他の高級車と比べて安価な物と言えば、大蛇位のものだ。
 加えて言えば、蛇と言うのは風水の上では金銭を象徴する生き物なのだし、悪くは無い。
 悪くは無いんだが、糞。

「あーもう面倒臭ぇー……」

 ハンドルを握り締める自分の手を見ると、ひどく苦々しい思いに囚われる。
 右手の甲に浮かび上がった奇妙な印。
 痣のようでもあるのだが、独特の文様は刺青のようにも見える。
 これが意味する事を知っている優介にとってみれば、まさに具現化した疫病神だ。

 ああ、糞。今の状況だって『人に言える部分』だけを抜粋すれば羨ましがる奴が増えるんだろうなぁ。
 仕事の関係とはいえ、高級ホテルで外国人の女性と密会。しかも写真を見る限りかなりの美女ときてる。
 勿論、あくまで表向きは、だが。

「僕ァのんびり過ごしたいだけなんだけどなぁ……」

 ダメな親父を持つと苦労する。
 極度の面倒臭がりである自分を棚にあげて、優介は呟いた。
 変わって欲しいと思う奴がいるなら変わってやりたいよ。

 牧歌的な港湾区を抜けて、彼の大蛇は海上都市を横目にリゾート区へと入った。
 遠目に見ても巨大だった高層ホテルがぐんぐんと迫り、その大きさが嫌と言うほど良くわかる。
 件の女性はこのパレス・ミナサバの最上階を貸しきっているというが、まったく。

「良い眺めなんだろうなあ、糞」


-4.

「本当、嫌になるほど良い眺め」

 ファーティマ・アブド・アル・ムイードは眼下に広がる街を見下ろし、そう一人ごちた。
 白衣を着た女性――と表現するには何処か幼さが残っている彼女。
 正確に言うならば「大人びた少女」と形容すべきか。
 大きな丸眼鏡が、更にその印象を強調する。理系の女学生といえば皆が信じるだろう。
 その一方、仕草の端々が妙に艶っぽい。
 漆黒の髪に褐色の肌、そして神秘的な碧眼と、オリエンタルな――神秘的とも呼ぶべき色気を彼女は纏っていた。
 少女のような容貌。大人びた表情。不可思議な色気。アンバランスな要素。
 古来から多くの西洋人がイメージしただろう『東洋の美女』そのものと言える。

「極東の辺境都市なんて退屈するに決まってると思ってたのに、綺麗な街なのね。
 これだったら家具から何から持ってくる必要も無かったかも。
 長期滞在するとなれば、慣れ親しんだ調度品があった方が落ち着くかと思ったのだけれど……。
 此方で色々作っても良いかもしれないわね。きっとその方が楽しそうだし。
 ねえ、父様、母様、兄様も、そう思わない?」
「ああ。そうだな、ファーティマ」
「ええ。私もそう思うわ、ファーティマ」
「そうだね。良い考えだよ、ファーティマ」

 いつもの習慣なのだろう。ポケットから革表紙の手帳を取り出して走り書きながら、彼女は背後を振り返る。
 其処に立っているのは穏やかな表情を浮かべた初老の男女と、三十台程の若者だった。
 ファーティマの言葉に頷く彼らは、彼女の言葉通りであるならば家族となるのだろう。
 だが――

「母様、約束の時間まであとどれくらいかしら?」
「あと十五分程よ、ファーティマ」
「それなら準備をするべきね。どんな服が良いかしら、父様?」
「此方が招いたんだ。正装で迎えるべきだろうな、ファーティマ」
「ならもう着替えた方が良さそうだわ。兄様、手伝って」
「ああ、良いともファーティマ」
「母様と父様は、その間にお持て成しの準備をお願いね」
「わかったわ、ファーティマ」
「わかったよ、ファーティマ」

 ――明らかに、奇異な点があった。
 彼女が優雅な仕草で腕を伸ばすと、すぐさま兄が傅いてシャツのボタンを外しにかかる。
 両親はファーティマの指示通り、客人の為のお茶と菓子とを用意するべく動き出している。
 そう、全てはファーティマの為に。ファーティマの指示に従って。
 末娘である筈の彼女が、まるで一家の主であるかのように振舞っているのだ。
 だが、誰もそれを疑問には思ってはいない。それが当たり前なのだというように。
 兄の手によって次々に衣服が取り払われ、瞬く間にファーティマは一糸纏わぬ姿となる。
 傷一つない滑らかな黒蜜色の肌を、自信を持って眺めていた彼女は、
 その視線がある一点に止まると共に、誇らしげな様子で微笑んだ。
 左手に浮かんだ幾何学的な文様。ぼんやりと輝くそれを愛しげにみやる。

「本当、神に感謝しなくてはならないわね」


-3.

「これも御仏の導きよ。ありがたやありがたや」

 一面を緑に囲まれた山中深く。
 その僧侶は猪の額に手刀を打ち込むなり、高らかに言い放った。

 袈裟を内側から押し上げる筋肉、顔中に生えた髭。
 身に纏った装束を抜きにすれば、とても坊主とは思えぬ姿。
 実に獣染みた容貌の男である。
 否、その印象は姿形だけに留まらない。
 この刹那。男の一撃を受けた猪は、どうと音を立てて地面に倒れこんでいた。
 見ればその額が完全に割れ、砕けた骨と血と脳漿とか毀れている。
 悲鳴を上げる暇もなく命を奪われた事は明らかである。
 正しく人間離れした膂力であった。
 筋力に留まらず、突進してきた獣の額に正確無比な攻撃を打ち込める辺り、
 およそ武術とは縁遠い人物にも、事の異様さがわかる事だろう。
 両手の血を拭うことなく腰から短刀を引き抜き、嬉々として獣を解体しているこの僧侶。
 彼は、それを児戯であるかのように軽々とやってのけたのだ。

「しかし――拙僧も夢想だにせなんだ。このような土地に、このような試練があったとは」

 手早く火をおこし、引き剥がした獣肉を炙りながら、坊主はしみじみと呟いた。
 全く躊躇することなく命を奪い、肉を食らわんとするこの男、名前を無道と言う。
 多くの僧侶が認めたがらないだろうが、これでも立派に俗世を捨てた身である。
 無道は自らの心身を鍛えあげ、修行をする為に全国行脚をしている修行僧だ。
 この水佐波を訪れたのも、風の向くまま気の向くまま、好き勝手に旅をした結果に過ぎない。
 しかし、無道に言わせればそれこそが御仏の導きであったのだ。
 右手甲に浮かびあがった不可解な文様こそが、その証左。
 いわばこれは挑戦状のようなものだと、無道は知っていた。

 ありとあらゆるモノの挑戦を、無道は受けた。
 立ち塞がる障害、ありとあらゆる試練は、この身一つで乗り越える事ができる。
 ――否、乗り越えてしまった。
 如何なる人間であろうとも、試練を超えれば先へと進める。
 だが、無道には如何なる障害であろうと、試練にはなり得なかったのだ。
 高みに昇りたくても、そこへ至る手段が無い。
 無道は常にその事実に打ちのめされ、半ば以上絶望していた。
 どんなに肉体を鍛えても、どんなに精神を鍛えても、己は高みに昇れない。
 この世界で、自分はただ生きていくだけのことしか許されないのか。
 無道は悩み、苦しみ、そして絶望した。


 だが――これはどうだ?

 恐らく、どんな人間にも想像できない戦いが繰り広げられるだろう。
 この障害を越えて勝利する為には、どれだけ鍛えても足りないだろう。

 世界にこれ以上の試練があるわけがない。

「拙僧の過去は、今この時の為にあったのだ」

 今、無道は確信を持ってそう言えた。
 この聖杯戦争に参加する為に、今の今まで心身を鍛え上げてきた。
 そう思えば、ただ無為に過ごしてきたと思った三十余年の人生が、急に価値を帯びる。
 昂ぶる想いは身を震わせ、世界に絶望していた心に喜びが蘇る。
 否、まだ足りない。まだ自分は満足していない。
 用意されただけの試練を受けるのは、無道の流儀ではない。
 試練は自ら選び、自ら背負うものだ。
 であるならば、彼の選択はただ一つだった。
 自らにより重荷を背負わせるべく、万全を期して夜を待つ。
 その為には肉が足りない。酒が足りない。
 今はただ只管に食らい、啜り、心身の状態を整えるのだ。
 そう言い聞かせて尚、逸る気持ちを押さえ込む事など出来そうにも無い。
 無道はその顔に鮫のような笑みを浮かべた。

「――――血が騒ぐわい」


-2.

 ――――血が騒いでいた。

 地べたを這い回り、泥を飲み、木の根を齧って飢えを抑えて数日が過ぎた。
 どうしても我慢できない時は小動物の血を啜った。それでも飢えは治まらない。
 当然の話だ。
 これは胃や臓腑を始めとする肉体とは無縁の飢えなのだから。
 彼という存在自体が餓えており、その為に身体を突き動かそうとする。
 だが、それはできない。
 周囲には大量に食事が存在するというのに、我慢し続けるのは拷問以外の何者でもない。
 だというのに、それだけは出来ないのだ。
 人でありたいのならば、人間を襲う事だけはしてはならない。

 そう、彼は人ではなく、人であろうとするだけの存在だ。
 否、彼が認めていないだけで、その肉体も精神も既に人外へと変わっている。

 彼はカール・ノイマンという名前の人間――だった。

 かつて人であり、人でなくなった男。それが彼だ。
 今の彼は、生きる為に人間の血液を欲する化け物――吸血鬼である。
 だというのに彼は、血を啜ることを是としない。
 自分は人間なのだ。断じて化け物ではないと。
 故に我慢する。
 人間を襲う事を必死になって我慢する。
 だが、我慢するだけで飢えから逃れられるわけもない。
 我慢が極限に至る度、彼は人間を襲った。
 彼自身の判断で『吸血しても良い』人間を選んで。
 殺さない程度に気をつけて、血を啜った。 


 だが、その時点で既に破綻していた事に、彼は気付いていなかった。
 考えても見てほしい。
 人間であるならば、生きる為に人間を襲う必要は無いのだ。
 人が人を殺す理由とは、生存の為ではなく欲望の為。
 少なくとも自分が人を襲う事を是としなければ、カールは人間足り得ない。
 だが、彼はそれを否と言った。
 最早自分が人間ではないと認めなければならないのに。

 不毛な話である。
 救いようのない存在である。

 それがカール・ノイマンという名前の吸血鬼だ。

 だが、彼にとって希望が無いわけではなかった。
 希望は右手に浮かんだ刻印の形をしていた。
 彼はこれが自分を救ってくれると信じていた。

 だからこそカールは水佐波にいる。
 こうして林の奥で小動物の血を貪り、自分は人間であると言い聞かせながら。

 ――救いようの無い話である。

 誰に助けを求めるわけでもなく。
 誰かに縋ることもせず。
 今、この異郷の地において。

 カール・ノイマンは只管に孤独だった。


-1.

「というわけで、わたくしは孤独なのですわ!」
「つまりそれは恋、というわけか」
「脈絡が無いよ、みこと、冴子」
「………………」
「やーちゃん、クッキーにフォーク刺してどうかしたのー?」

 女三人集まればかしましいとの事だったが、五人ともなれば別格だ。
 喫茶店レーヴェンスボルンは、華やかかつ騒々しい雰囲気に包まれていた。

 海上都市にある比較的安価かつお洒落な喫茶店と言えば、それはもうこの店以外には有り得ない。
 女子高生を始めとして、OLから旅行客まで幅広く愛されている優良店だ。
 中でも常連客として知られているのが、水佐波女子高校の水泳部女生徒陣だった。

 水泳部のエースである夏海、みことを始めに、部長の姫宮冴子、新人の黒崎八重、
 そしてレーヴェンスボルンの看板娘(アルバイト)でもある小日向葵。
 これに冴子の幼馴染だからか常に一緒にいる二条忍を入れて以上六人。
 彼女達は定位置である窓際の日当たりの良いテーブルに陣取って、毎日のようにお茶会をやっていた。
 今日は一人足りないとはいえ、これだけ揃えば賑やかにも華やかにもなるというものだ。

「ええ、聞いてくれますか皆さん!
 あろう事か……あろう事か、彼が――……」
「彼がどうしたんだ、志那都。浮気でもしたのか?」
「とんでもありません!
 彼が家族旅行に行くから、しばらく逢えなくなってしまうのです!」

 ばん、とテーブルを叩いて力説するみこと。
 呆気に取られたり納得したり大変だねえと言ったりする面々の中で、
 真っ先に反応したのが、先ほどまでみことを睨んでいた黒崎八重だった。

「……志那都さん、それはちょっと贅沢すぎる悩みではなくて?」
「んー。でもやーちゃん、わたしは少しわかる気がするよー。
 さえちゃんも、しーちゃんも、そうじゃないかなー?」 
「まあ、わからなくもないな。
 愛しい人と逢えず、火照った身体を毎夜のように慰めると体力が持たん」
「冴子、ちょっとそれは下品」
「む、そうは言うがな、二条。近頃は少女マンガだってその位は――」
「真夏の夜を涼しくする稲川先生の怪談百物語」
「――自重しよう、うむ」


 まあ、大体がこんな感じだ。
 脈絡も無いことを誰か(大概はみこと)が言い、それに夏海か八重が突っ込みを入れ、
 葵が場を和ませつつ話を引き継いだところで、部長が茶々を入れ、忍が突っ込む。
 メンバー内に多少の軋轢があるとはいえ、彼女達は比較的仲良しだといえた。
 少なくとも悪くは無い。その事は確信を持って言える。 

「とはいえ、志那都。今後も彼とは離れる機会があるだろう?
 その度にそうして暴れていては、それこそ身が持たんぞ」

 今回だって右手に痣が出てるじゃないか、という冴子の指摘も何のその。
 みことは更に大きく両手を振って――今度は喜びに満ち溢れた表情を浮かべる。

「だから今夜は彼とデートでーすーわぁーっ!」
「成程、みことは結局こう持っていきたかったわけか」
「つまり志那都の惚気か。今夜は暖めて貰うのか?」
「はしたないですわね、部長。婚前交渉なんて致しませんわ!」
「…………………………………………」
「やーちゃん、やーちゃん、クッキーが粉になってるよー?」
「八重には葵の『ほにゃあ』も通用しないな」

 ぎりぎりと歯軋りをしながら恋敵を睨みつける八重を見て、忍は小さく溜息を吐いた。
 この辺り、みことが八重の敵意に気付けばどうにかなるのだろうけれど、
 天真爛漫というか唯我独尊というか評価のわかれる彼女は、一向にそれに気付かない。
 それが良い事なのか悪いことなのかは、わからないが。

「……まあ、黒崎にとっては不快な話だろうなあ」
「恋と戦争はどんな手段も許されるとは言うけどね……」


0.

 それは戦争だった。

 求めるのはたった一つの願望器。
 集まるのは七人の魔術師。
 競う手段は七騎の英霊。

 人知を超えた戦い。常識以上の闘争。
 魔道と神秘とが夜を翔け、神話の時代が再現される。

 即ちそれは世界で最も小さい戦争。

 名前を聖杯戦争という。


 そして今。
 海底深く、偽りの聖杯がごぼりと静かに蠢いた。


『Fake/first war』


 第一次水佐波聖杯戦争、開幕。