夢の中で、誰かが彼女に選択を迫っていた。
 イエスか、ノーか。
 望むか、望まざるか。
 選択の機会はただ一度のみ。保留はできない。やり直しもできない。熟慮のうえ、どちらか一方を選ぶのだ……。
 夢にありがちなことだが、状況はきわめて抽象的でつかみどころがなく、
 その記憶も目覚めと同時にぼやけ、ちりぢりになってしまった。
 ずっと後になって記憶の糸をたどってみたが、自分がどこにいたのか、
 語りかけてきたのが誰なのか判然としなかったし、選択の内容そのものも思い出せなかった。
 ただ、どちらを選択したかということだけは、なぜかはっきり覚えている。
 彼女はためらうことなく選択したのだ――「イエス」と。



 3/The Tower, La Maison de Dieu backnight Ⅲ Nicotiana



 その日、冬木市の夕刻の空は、目に染み入るほど鮮やかな朱の色で覆われていた。
 しかし自宅から真っ直ぐに友人の家へ向かっているアヴェンジャーの元には、
 華やかな夏の気配も、夕餉(ゆうげ)のカレーの匂いも届いていなかった。
 住宅街の道をひたすら前に突き進んでいく。顔を紅潮させ、少女への怒りを抱いて。

(薄気味悪い。どうやったら、見ず知らずの子供にあんな態度がとれるんだ? いい年してさ!)

 謎のイライラは、ここのところ珍しくなくなってきている。
 その中でもひときわ大きかった今日のイライラの原因は、下校時に出会った髪の長い女生徒にあった。
 小学校の校門のところで、彼女が通りかかるのを一人の女の子が待っていたのだ。
 手にしているラッピングの花柄が何ともかわいらしく、女の子の方も負けずに綺麗だった。
 贈り物を差し出してきたとき、色白の顔に、はにかみと期待の表情が浮かんでいた。
 包みにはピンクの封筒が添えられていて、後日返事が欲しいという心が、手紙の上から透けて見えるようだった。

「あの……」

 すぐには言葉を返せず、顔が赤くなる。情けないことに咄嗟に浮かんだのは、

(鬱陶(うっとお)しいことになった)

 という後ろ向きな感情だった。

(かわいい子からプレゼントを貰ったのに、何でこんなことを思わなきゃならないんだ)

 惨めな思いが胸にこみ上げてくる。女の子の笑顔は甘いお菓子のようだ。
 それでも、いやだからこそ、防衛本能が頭の中で、甲高い警告音を鳴らし始めている。

(よく考えて行動しないと、後で厄介(やっかい)なことになるぞ)

 ふと周りを見れば、門の脇に立つ二人を囲むように、生徒たちの輪が出来上がっていた。
 にやにや笑いがイリヤたちの周りを飛び跳ねる。小さなドラマの成り行きを、やっかみ半分、興味津々眺めているのだ。
 選択の余地はなく、イリヤは「ありがとう」と小さな声で礼を言い、包みに手を伸ばした。
 周りからの視線が期待の度合を高める。かわいい子じゃないか。
 どうするんだ? うらやましい、ねた妬ましい、早く続きを見せろよ、と。
 首筋が熱くて、笑い出しそうな気分だった。もちろんそんな態度をとるべき時ではない。

 さっさと校門を後にした。
 背中越しに女生徒が反対方向に歩み去る気配を感じる。
 これで今回の一幕はお終いだと分かったのか、二人を囲んでいた生徒たちの輪も崩れて散ってゆく。
 自分でも勝手な考えだとは思うものの、何となく腹が立ってくる。
 そんな荒れた気分のまま、夕暮れの道を友人宅の方角に向かって突き進んでいった。






 目の前に死体がある。
 アヴェンジャーにとって、それはかつてありふれた日常だったが、今は事情が違った。
 ここは穢れのない揺り籠の中で、仮にも今が二十一世紀である以上、死体の始末は以前ほど容易ではない。
 アーチャーは細い眉を顰(ひそ)め、傍らに立つ少女を責めた。

「なぜ拾ってきたんだ?」
「敷地内に死体があったら不味いでしょう?。まあ別に、適当に埋めてきてもよかったんだけど」

 アーチャーは煙草を銜(くわ)えたまま、肩を竦(すく)めてそう応えた。
 埋めればいいとわかっているなら、なぜ持ち帰ったのかという理由は明らかだ。
 真相究明の一環だろう。
 その証拠に、たった今気づいたような口ぶりで少女が呟く。

「ああ、貴方、子供の死体だけは苦手なんでしたっけ」

 その指摘に、アーチャーは答えなかった。
 自分が子供の死体だけは苦手としていることを、いつ知られたのかも曖昧だ。
 アーチャーにとってアヴェンジャーはどうにも得体が知れない存在だ。
 死体を前にして、アーチャーはアヴェンジャーを急かした。

「どうするんだよ? そろそろ1時間経過するんじゃねえか? そしたら埋めるか燃やすかするけど」

 アヴェンジャーは、青白く褪色(たいしょく)した死体の顔をじっと見た。
 天蓋つきのベッドに寝かされた死体は平凡な学生服姿で、ゴシック調のこの部屋では浮いた存在に見えた。
 緋色の絨毯(じゅうたん)もレースのカーテンもアヴェンジャー自身の好みではないが、
 アヴェンジャーの服装や雰囲気はこの部屋によく似合っていた。
 暫しの逡巡(しゅんじゅん)の後、アヴェンジャーは言った。

「子供は、屍鬼にはしない」
「子供ってほどの年じゃねーだろ。ほら」

 アーチャーが死体のポケットを漁り、手帳を取り出す。手帳は、写真つきの学生証だった。
 名前と住所、氏名、所属が記されている。
 衛宮士郎。十七歳。穂群原学園2年C組。それが死体のプロフィールだ。

「あんたと同じくらいの年か。役に立つかもしれないぜ」

 アーチャーの指摘通り、自身の見た目も十代半ばほどだ。
 実際に彼女の身体が確かな実体を持った時、彼女は十七歳ほどだった。
 それでも彼女が死体を『子供』と評したのは、死体こと衛宮士郎の顔が少し幼かったのと、自身が時間を超越した存在のためだろう。
 
 アヴェンジャーの指が、死体の首をそっと探り、頸椎(けいつい)が折れていることを確かめた。
 縊死(いし)なら残るはずの縄の痕がない。恐らくは事故か他殺だろうと推察された。
 躊躇っている暇はなかった。
 アヴェンジャーが今の身体で死体を仮初めとして蘇らせられるのは、死してから魂が離れてしまう短期間の間に限られる。
 本来なら、どれほど損壊の激しい死体でも蘇らせることができるのだが、現在の存在濃度ではそれが精一杯だ。
 たとえそれが、千の肉片に刻まれていたとしてもだ。

 あれから新たに判明したことがある。
 その一つが、1時間を経過したら、死体が屍鬼になるということだ。
 正確には、生きた人間ではなく、姿形を似せた人形が破損して停止しただけなのだが。
 その死体を前にして、アヴェンジャーが躊躇っているのは、これ以上屍鬼を増やしたくないからだ。
 
 彼をそのような存在に変えようとする、この現象の詳細はまだわからない。
 彼との邂逅時は、同じ屍鬼に貪れていた。そして、その者は自分たちによって滅せられた。
 夜中になると、どこからともなく現れ、彷徨(ほうこう)し続けながら、破壊活動を繰り返す。
 確認され、討伐された屍鬼はまだわずか六十六体。
 そのうち五十体は街路の陰で自分たちによって滅せられ、またある者は屍鬼同士で殺し合い、
 現存している屍鬼は、目の前にいる彼を含めて十六体のみだ。

(いっそ他の汚い屍鬼を見つけて、その家の庭に捨ててきてくれたらよかったのに)

 アヴェンジャーは甚(はなは)だ身勝手なことを考えた。
 屍鬼を生み出す現象は、なにかまた別の要因があるはずだった。
 その証拠に幾たびの間、何度も彼らが噛んでいるのではないかと思われた謎の英霊たちと屍鬼との戦闘に遭遇した。
 彼らは、それぞれが単独で行動しており、各々の思惑を持って動いている。
 大半が破壊活動、つまり聖杯戦争の参加者として一夜現れてはアクションを起こしており
 彼らは、必ず日替わりにランダムに入れ替わっており、数も1~6人とまばらである。
 
 だが、この現象は自分が覚醒する前から継続して起きている。
 夜になると、偽りの聖杯戦争において発生するこの2次災害は非常に頭が痛いのだ。
 もし、これが件(くだん)の英霊たちの誰かによる仕業だとしても、今だ意図は不明。
 その母胎たる英霊には、未だ一度も相見(あいまみ)えたことがないのも大きい。
 そのことがアヴェンジャーにはずっと不思議だった。

(探しても見つからないということは、意図的に姿を隠しているんでしょうね)

 この箱庭で行われている、夜の異常事態の真相を見つけ出すことが我々の当座の仕事だ。
 なのに現在まで、我々が掴んできた情報は有益となるものはまだない。
 アヴェンジャーによって周到に用意された隠れ家に移動してきて一ヵ月、
 今晩初めて起こした行動が、この死体を拾ってきたことだった。
 屍鬼は、日の光を浴びては生きられない。
 そのため、なるべく建物のそばにいようとする。生きるための本能がそうさせるのだ。

(屍鬼になるのは、幸せなことなんかじゃない)

 死にたくないと願う人間にとって、一度でも死から免れるのは僥倖に思われるだろう。
 しかしそれには、対価を要求される。とてつもなく大きな対価を。
 その対価を、目の前に横たわった死体に背負わせるべきか否か。
 アーチャーが迷うのは、まさにその点だった。
 アヴェンジャーに蘇らせられた屍鬼は、一見しただけでは生前となんら変わりない外見と行動を保つ。
 が、その内面には一点だけ、決定的な変化を生じさせる。
 アヴェンジャーはじっと、血色の眸(ひとみ)で見つめた。
 
 関東圏に位置する、冬木市。
 海に面し、夏は暑く冬は寒い。平凡極まりない都市だ。
 平凡な町並みは十年前に一度、灰儘(かいじん)に帰した。
 戦後史上最大最悪の大火災は、今でも人々の記憶に新しい。
 その火災の現場に、アーチャーは居合わせた。
 火災の発生原因は市民会館からの不審火と断定されたが、真実は違っていた。
 焔(ほのお)は、アーチャーと敵対するサーヴァントとの戦闘で生じたものだった。
 結果、この小さな町の一部はほぼ壊滅した。人が死んだのは、火事のせいばかりではない。
 サーヴァントと屍鬼たちが殺戮し、喰らい尽くし、燃やし尽くしたせいでもある。
 遅れて現場に駆けつけたアーチャーが救えたのは、わずか一名の子供だけだった。

(あの坊主もでかくなったもんだな……)

 屍肉(しにく)の焼ける街路の外れに、その子供、〈衛宮士郎〉はいた。
 戦闘の最終地点となった場所で生き残っていたのは、その子だけだった。
 アーチャーは彼を連れ出し、それから一ヵ月ほど、ともに過ごした。痩せた、小さな男の子だった。
 衛宮士郎は、アーチャーと暮らすことを望んだ。
 自分が認めた者以外の生命体と暮らすことなど、アーチャーにはあり得ない。
 なのに一ヵ月だけとはいえアーチャーがその願いを聞き入れたのは、贖罪(しょくざい)のつもりだった。
 彼らが住む街と家族を燃やしたことへの。
 士郎は漢字が書けないらしく、片仮名で名前を書いた。
 幼くして天涯孤独となり、施設にいたという生い立ちを感じさせない彼は、その後、気遣いの出来る優しい子供に育った。
 当初は戸惑ったものの、アーチャーは無邪気な優しさで士郎の心を和ませたのだ。
 一ヵ月を隠れ家で過ごした後、アーチャーは士郎を薬で眠らせて、かつての敵のもとへ届けた。
 彼を救出する折に再び邂逅したときの腐れ縁だ。
 話してわかったが、こいつも禄でもない人格破綻者だった頃とは、憑き物を落としたかのようにやつれ変わっていた。
 別にどうでもよかったんだけど、なんの因果かズルズルと付き合う羽目になった。
 1ヶ月というスパンも、娘を救出するための交渉と準備だといって押し付けられたからだ。
 まったくいい迷惑だ。だから戻ってきた時にさっさとおさらばすることにした。
 まあ、今のこいつならあの腐れ神父よりかは、いくらかマシだろうから。
 
 そうすることがこいつらの幸せにつながると信じてのことだった。
 自分のような化け物といれば、またいつか必ず危険な目に遭う。
 そうでなくても、年を取らない自分に対して士郎はいつか違和感と恐怖を抱くに違いない。
 だったら、別れは早いほうがいい。そう信じてのことだった。

 士郎の意思を無視して別れたことを、アーチャーは悔やんではいない。
 だが思い出すたびに、今でもアーチャーの胸はちょっぴり痛む。
 士郎と過ごした日々が穏やかであったことが、逆に彼の心を傷つけた。
 最初から何も持たなければ、失うこともなかった。
 一度手にしてしまった温もりから引き離されるのは、永劫の時を彷徨って尚(なお)、
 こんなにも哀しいものなのかとアーチャーは人知れず生前のように再び慟哭した。
 だからこそアーチャーは、こいつを屍鬼にしてそばに置きたいとは思えない。

(このガキは)

 冷たい頬に、それよりさらに冷たい指が触れる。

(生きたいと、願うだろうか?)

 あの子供と同じ身体を持つ人形。
 もしやこいつは生きている本物で、この街に降り、暮らしているのではないか。
 アーチャーは、そんなありえないことも頭に過ぎっては否定する。
 これが屍鬼になることは、決して不都合なことがある訳ではない。そのことはアーチャーも確信している。
 それでも、この感傷に意味があるとしたら。

(なーんなんですかねえ……らしくもない)

 長い髪を床に垂らして、アヴェンジャーはベッドの脇に跪(ひざまず)いた。
 顔を傾けて、少年に顔を近づける。
 氷のように冷たい死体の唇に、同じく絶対零度の薔薇色が重なった。瞬間、死体が青白く発光した。
 一縷(いちる)の願いが、唇を介して死体に流れこんでいく。
 アーチャーはそれを、無表情に見守っていた。










 我、未だ輪廻を脱せず
 君がために奏でるも
 我、浄化を嘉(よみ)せず
 我と今一度世に逢わん






 男は夢を見た。幻を見た。男は闇よりも暗い影と対話している。
「分からなくなった」
「何がです」
「調和が、音楽が、魂の浄化(カタルシス)が、人間の扱いが」
「それがあなたの存在理由(レーゾンテートル)のはずなのに」
「長として人を導く立場にある。その我輩が分からないものをどう教えよう」
「承知していますよ。みんな」
「我輩はそれでは困る」
「ではどうするのです」
「どうすればいいのか」
「野に下り、草原を駆け、どこまでも広く遠大なる世界を見聞せよ」
「……なに?」
「あなたがいつも説いていることです」
「我輩はもはや学問をする段階にはいない……」
「困りましたね」
「どうすればいいのだろう」
「では、旅をなされよ」
「旅にも厭(あ)いた……。ペルシャにも行った、エジプトも回った……」
「まだ、行っていないところへ行きなさい」
「ああ」
 男はギリシアの極北の地帯を思い浮かべた。
「旅をなされよ」
 男は旅をした。



 かの地がもうどこにも存在しないのだと、彼は夜空を見あげるたびに思う。
 月は黄金と白銀のふたつしか昇りはしない。時にはたった一つしか。
 かの地には三つの月が天上にあった。
 三番めに数えられた青みがかった月が、今の彼らが踏みしめる地だ。
 かつては月と呼ばれた地に彼らはいる。そして彼らはここで〈月の民〉と呼ばれている。
 かの地にとってこの地は月であり、またこの地でもかの地は月にちがいなかった。



 此処は、虚ろな揺り籠。
 かの地はやがて砕けちって夜空を星屑で彩り、やがて虚空(こくう)に消えていくだろう。



 彼らの故郷、彼らが駆けぬけた地、青白き肌と色濃い髪の人々が住んだユーラシアの地は。
 彼らは三番めの月にいる。ふたつの月が交差する地に、故郷をもたない放浪者として。
 この地で見る月は大きく、ときには夜に昇った太陽ほどにも見えた。
 どうやってこの地におりたったのか、今でも彼は漠然としかわからなかった。
 禁断の魔窟に踏み入り、時と空間の歪みに存在する青白い花園を通りすぎたら、いつのまにかこの地にたどりついたのだ。
 身を寄せあい眠る夜に、彼はいつも思い出す。
 死と隣りあわせの草原と洞窟を、青白き泉のほとりを。
 夢うつつのうちに、至福のうちに、悪夢のうちに、くりかえしくりかえし、幾度も。