間章 闇が落ちる前に、もう一度



 愛する由紀香へ。

 いきなりこんな長文のメールを受け取って、困惑しているかもしれない。
 でも、他に方法を思いつかなかったんだ。
 君がいるのは市内の郊外、家に帰ってくるのはまだ先だし、手紙を出してもいつ届くか分からない。
 電話をかけることも考えたんだが、教えてもらったはずの、君のケータイの電話番号を書いたメモが、どうしても見つからない。
 いや、教えてもらわなかったのかな? 記憶があいまいだ。
 君にだって経験があるだろう。
 財布とか鍵とか、ちょっとした小物が、確かに置いておいたはずの場所に見つからなくて、意外なところから出てきたことが。
 あるいは、初めて来た場所なのに、前にも来たことがあるように感じるとか。
 昔観た映画に、確かにこれこれこういうシーンがあったと思ってたのに、ビデオで観直してみたらそんなシーンはなかったとか……。
 そう、ちょっとした記憶の混乱ってやつだ。誰にでもあることだ。
 だが、今の僕は、それがひどく怖い。怖くてたまらない。
 由紀香、君がインターネットにアクセスして、できるかぎり早く、このメールを読んでくれることを望む。
 そして、家財も何もかも放り出して、大急ぎでこの地から、僕の手の届かぬところへ逃げて欲しい。
 君にとって、今回の真相究明が重大な意味を持つものだということは、十分に理解してる。
 でも、僕がこれから行う事実に比べれば、そんなのはちっぽけなことにすぎない。
 この街の異常事態の謎が知りたいって? そんなもの、僕が教えてやる。
 時間はあまり残っていない。僕は今、君をこの腕で抱きしめたくてたまらない。君が実在することを確認したくてたまらない。
 すべてが手後れになる前に。

 僕は覚えている。二週間前、学食でいっしょに昼飯を食べていた時のことを。
 君のメニューは思い出せないが、僕が食べていたのは確かハムと茹で卵のついたBランチだった。
 君はよく僕に家族の話をしてくれたね。
 僕にはあまり理解できなかったけど、やんちゃな弟たちとのエピソードが
 君のかわいい口からすらすら出てくるのを聞くのは、とても楽しかった。
 大好きな家族の話をする時、君は実に生き生きとしていた。

 僕の方はというと、自分の話を、君にしたことがなかった。
 たぶん君には退屈だろうし、血みどろの宗教戦争がどうの、大統一理論がどうのなんて話は、
 女の子とするには不粋な話題だろうと思ったからだ。
 僕は現界した頃から疑問に思っていた。
 この宇宙はどうして生まれたのか。宇宙の果てはどうなっているのか。
 生命はどうして誕生したのか。人間はなぜ生きているのか――自分はなぜここにいるのか。
 その疑問を解き明かしたくて、迫る宿命までの僅かに空いた時間に積極的に外へと足を運んだ。
 量子力学だの一般相対論だの小難しい分野から、家庭の豆知識やら恋愛必勝法など節操なく勉強した。
 それはもう、いろんな法則や公式や理論を学んだ。
 プランク定数や微細構造定数や量子化ホール抵抗なんかの数値を、小数点以下五桁までそらで言えるようになった。
 そうそう、実は宇宙物理学の分野にも、恐竜の絶滅に負けず劣らずの大きな謎がいくつもあるんだ。
 ガンマ線バースト問題とか、ダークマター問題とかだ。
 しかし、何と言っても多くの物理学者を悩ませているのは、ハッブル定数問題だ。
 この宇宙が膨張しているのは、君も知ってるね。
 遠方の星雲やクエーサーがどれほどの速さで地球から離れていってるかを測定すれば、宇宙膨張の速度が分かる。
 その速度を示す数字がハッブル定数だ。
 宇宙の膨張する速さが分かれは、そこから逆算して、宇宙のすべての星が一点に集まっていた時刻
 つまりビッグバンが起きた時刻が計算できる。ハッブル定数は宇宙の年齢を決定する重要なファクターなんだ。
 一九八〇年代頃まで、ハッブル定数は小さめに見積もられていた。
 宇宙の膨張スピードはゆっくりで、宇宙の年齢は二〇〇億年ぐらいだろうと思われてきたんだ。
 球状星団の年齢は一五〇億年ぐらいと見積もられているから、これは当然のことだった。
 星が宇宙よりも若いなんてことはありえないんだから。
 ところが、九〇年代になって観測精度が向上して、ハッブル定数の見直しが行なわれた。
 その結果、ハッブル定数はそれまで想定していたより二倍ぐらい大きいと分かった。
 宇宙の膨張の速さは従来の倍だったんだ。
 これは困ったことだ。
 新しく決め直されたハッブル定数が正しいとすると、宇宙の年齢は八〇億年から一一〇億年ぐらいになってしまう。
 宇宙が生まれる前から星があったという、おかしなことになってしまうんだ。
 ハッブル定数の測定に間違いがあるんじゃないかと言われたりもしたが、いくら調べ直しても間違いは見当たらない。
 かと言って、球状星団の年齢の推定の方にも大きな間違いはありそうにない。
 それまでうまく行っていたように見えたビッグバン宇宙論は、いきなり重大な矛盾を抱えこんでしまったんだ。
 この矛盾を説明しようと、多くの科学者がいろいろな説を発表してきた。
 宇宙の膨張速度は一定じゃないんじゃないかとか、ビッグバン理論に誤りがあるんじゃないかとか
 光速度や重力定数なんかの物理定数が変化するんじゃないかとか……どれももっともらしいんだけど
 今のところ、ちゃんと証明されたモデルはひとつもない。
 ……ああ、すまない話が脱線してしまったね。
 僕の悪い癖だ。事あるごとに話をかき回して聞き手を不快な気持ちにしてしまうんだよ。
 
 

 そして今、僕は自分の隠れアジトの一つに帰って、ノートパソコンに向かい、この文章を書いている。
 由紀香、君は人間の不和の原因を知りたがっていたね? 教えてあげよう。
 いいかい、始めは人間なんてものはいなかったんだ。だから仲違いも起こらなかった。
 ■■版画展に展示されている醜い人々の歴史が描かれた作品
 そして今、君たちが狂気の狭間に溺しているのは、たった10日前に、忽然(こつぜん)と出現した悪魔たちの仕業なんだ
 ――僕たちみんなや、僕たちの記憶、この地球上のすべての動植物や無生物、太陽や月や惑星といっしょに。
 この狂った世界は10日前の日本時間午前三時に誕生したんだ。

 理科系のこんなジョークがある。
 サルをタイプライターの前に座らせ、めちゃくちゃにキーを叩かせる。
 当然、出てくるのはデタラメな文章ばかりだ。
 だが、十分に長い時間、おそらくこの宇宙の寿命よりはるかに長い時間、キーを叩き続ければ
 やがてシェークスピアの全作品を叩き出すだろう……。
 シェークスピアにかぎったことじゃない。
 もしこのサルに無限の寿命と根気強さがあるなら、地球上の過去・現在・未来のすべての文学作品
 失われた作品や書かれなかった作品までも、すべて打ち出すに違いない。
 無限のシャッフルを続ける極大エントロピーの海は、まさにこの根気強いサルなんだ。
 僕たちの脳の中の記憶、紙に書かれた文章、ビデオやフィルムの映像
 CDやDVDの記録、石に刻まれた古代の碑文……その他もろもろのデータはすべて、偶然に生み出されたものなんだ。
 それ以前には何もなかった。
 10日前の午前三時より前には、この狂気は存在していなかった。
 ただ、いろいろな記録や、僕たちの記憶の中で、ずっと昔から存在していたかのようになっているだけなんだ。
 人類の歴史はすべて虚構だった。シェークスピアなんていなかった。
 図書館にあるシェークスピアの全戯曲は極大エントロピーの海が
 ――根気強いサルがタイプライターをめちゃくちゃに叩いて生み出したものだったんだ。
 無論、データは完全というわけじゃない。
 何しろ偶然に生み出されたものなんだから、あちこちに重大な矛盾があるのは当然だ。
 恐竜の絶滅もそのひとつだ。ハッブル定数問題も。ガンマ線バースト問題や、ダークマター問題もだ。
 いわゆる超常現象――UFOとか、スプーン曲げとか、幽霊といった、現代物理学で説明できない現象も、それで説明がつく。
 本当はそんな現象はひとつも起きなかったんだ。
 それらはみんな10日前より以前の出来事、狂気がまだ存在しなかった頃のことだからだ。
 人間の記憶の中や、記録の中だけに存在する現象なんだ。
 僕は断言するが、この10日間、地球上のどこでも、一本のスプーンも曲がっていないし、一人の幽霊も目撃されていないはずだ。
 だって、この世界においては、そんなことは決して起こり得ないんだから。
 間違いはシェークスピア作品の中にもある。
 これは友達から聞いた話だが、『恋の骨折り損』の中には、まったく意味不明の単語がいくつも出てくるんだそうだ。
 これこそ、シェークスピア作品が偶然に生み出されたという証拠じゃないだろうか?
 僕たちの記憶の中にある微妙な間違い――小物が見つからないとか
 初めて来た場所なのに前にも来たことがあるように思うとか
 前に観たはずの映画であったはずのシーンがないとかいったことも、みんなそれで説明がつく。
 記憶は完全じゃないんだ。それらはみんな偶然に形成されたものなんだから。
 この狂気の世界はあとどれぐらい続くんだろう? 
 もう夜だ。窓の外には星が見える。

 終末はさりげなくやって来るだろう。
 宇宙が誕生した瞬間と同じく、終わる瞬間も、誰にも気づかれないだろう。
 閃光(せんこう)も爆発音もしない。一切の気配はない。僕たちは何も感じないだろう。
 一秒の何兆分の一という短い時間の中で、押し寄せてくる極大エントロピーの海に、すみやかに還元されるだろう。
 だから終末を恐れる必要はない。苦痛や恐怖を感じる暇さえないんだから。
 僕が本当に恐れているのは、そんなことじゃない。
 由紀香、君と最後に話したのはほんの僅かな前だ。
 どうして一度も電話をよこさないんだと思う? どうして君の連絡先を書いたメモが見つからないんだ?
 確かに僕の手帳や携帯には、君のマンションの電話番号や、君のEメールのアドレスが載っている。
 だが、こんなものは何の意味も持たない。10日前に混沌といっしょに出現したものにすぎないんだから。
 この世界に意味のあるものはひとつもない。
 由紀香、僕は気が狂いそうだ。
 君との出会い、よくいっしょに学食で昼飯を食べたこと、遊園地で遊んだこと、■■版画展に作品を観に行ったこと、
 初めてのお泊り、君の家で他愛もないお喋りしたこと、それらすべてを僕は覚えている。
 君のはつらつとした笑顔、よく響く明るい声、長い髪のさらさらした手触り、肌のぬくもり……どれもこれも克明に思い出せる。
 ああ、でも、そのすべては混沌が存在した後の出来事――ありえなかった虚構の記憶なんだ!
 由紀香、君は本当に存在するのか? それとも僕の記憶の中だけの存在なのか?

 お願いだ、君が本当に存在しているなら、すぐに逃げてくれ。
 真相なんて何の意味もない。究明するだけ無駄というもんだ。調べたって何も分かりゃしないさ。
 それは僕たちみんなと同様、偶然に生み出されたものにすぎないんだから。
 厳密に言えば「帰る」という表現はおかしいかもしれない。
 私は10日前にこの世界に生まれたばかりで、一度も愛を灯したことなどないんだから。
 でも本当は、君には帰ってきて欲しい。
 今晩しかないんだ。この虚構に満ちた宇宙のすべてが極大エントロピーの海に還元される前に、君の姿をもう一度見たい。
 君をもう一度抱きしめたい。
 もう一度? いや、そうじゃない。僕は君を抱いたことなんか一度もない。
 この宇宙が誕生して以来、君と会ったことすらないんだから。
 でも、それでも僕は言う。
 闇が落ちる前に、もう一度、君を抱きしめたい。せめて君をこの腕に抱きながら、終末を迎えたい。
 もし君が実在するのなら。