第9話 救世主

 黒い空が、吹き澱むように曇っている。
 月は見えず、いまはただ黒い澱みが広がっているだけで、なにも見えない。
 上空には、かなり強く風が吹いているらしい。
 塔壁を震わせている音が、なにかの囁やきのように一帯に満ちていた。
 その風に乱されながら、敵のいる背後から煙りが立ち昇っているのが見えた。
 いや、それを煙りと呼べるかどうか、この闇夜にその煙りは燐光のような青白い光を放っているのである。
 それは篝火(かがりび)の、あるいは焚火の煙りとははっきりと異質のものだった。
 炎の熱というものがまったく感じられない。
 月の光さえないというのに、暗い海をただよう漁火(いさりび)のように、
 ただ煙りだけが玲瓏(れいろう)と浮かびあがっているのだ。
 この塔の頂上が、天と地を分かち、現世(うつしよ)のものとも思えない霊性を帯びている。
 そこにたなびく青白い煙りはなおさらのこと、なにか妖気のようなものさえ感じられるのだった。
 
 ───ドクン、と心音が跳ね上がる。
 血管という血管が膨張してはち切れそうな感覚。

 死んでしまえ、と。

 ただ視線を合わせるだけで射殺してしまうような矢のような殺意を孕めて
 蒼色の男はを感慨もなく眺める。
 その眼差しを感じ取ったのか、凛は足を止めた。

「────ぁ」

「しゃんとしろ遠坂。敵は目の前にいるんだぞ」

 ……士郎の叱咤が聞こえる。
 本当に怒りと心配が混ざった忠告。

「……解ってるわ。この程度では、決して」

 隔てる物はない。
 理由はシンプルだ。
 ヤツが私を殺そうというのなら、私は、目の前の敵が気にくわないから叩きのめすだけ。

「――――――――」
 広間の中心へ踏み出す。
 あと数歩詰め寄れば、後戻りは出来なくなる。
 それを――――
「来たか……」
 と、その男は言った。
 俺たちがやって来るのを事前に知っていたような口ぶりだった。知っていたとしても不思議はない。
 なにせここは奴のフィールドだ……こうして対敵するこの状況も承知の上なのだろう。
 上空から三人は祭壇の前に降り立つ。
 男は、暗い祭壇の上で待っていた。
 地平の先に続く、広く一つしかない道を塞ぐように。
 蒼い外套を着込んだ男は月明かりさえ拒んでいて、夜より深い影のようだ。
 
「……闘う前に二つ聞きたいことがある」
 歩いていきながら、士郎はそう答えた。
「話をするために……?」
 男が皮肉な口調で言った。
「どうして、殺すためにやって来た、とはっきり言わない?」
「そう、あんたを倒すためにやって来た」
 と、士郎は認めた。
「個人的にはあんたにはなんの恨みもないが、しかしみんなを苦しめる存在である以上、
 あんたの存在ははっきりと邪魔になる……」
 今、三人は、祭壇へと続くなだらかな短い階段の前で、向かい合っていた。
「あんたは何が望みでこんな闘いに臨んでしまったんだ?」
「神に挑むためだ」
 つまらなげに、感情もなく男は語る。
 それだけで―――士郎は、この男をここで倒さなければならないと直感した。
 どのような手段、どのような過程を経て男がこんな事を行なっているかは解らない。
 ただ一つ確かな事は、男は、自分本人でさえどうでもいいという願いで、冬木市に混沌を起こしているということだ。
「社会から隔絶された場所に涜神の塔を築いた人間に、社会の何がわかるってのよ」
「わかったからこそ、この楽園(バベルの塔)を発展させたのだ。これが私の価値への挑戦なのだ。
 私は、私の価値に常に挑戦している」

「実に不愉快だ」
 セイバーが剣を突き出し、珍しく激しい口調で言った。
「ほう。では、お前は何だ?」
「人間は一方の価値を守るために、もう一方の価値を虚無に還す。
 僕は、より多くの虚無を創り出すために造られた存在だ。
 価値を創り出すのが人間ならば、その価値を虚無に還すのもまた、人間だ」
 男は、小さく溜め息をついた。
「究極的で、底のない思考だ。それが、お前の無力感の代償か……? 
 感情の起伏が存在しないせいで、あらゆるものにむしろ虚無感を求めるのか?」
「この楽園こそ、人間の価値を破壊しながら発展してきた場所だ。虚無感を弄(もてあそ)ぶのは、きみたちのほうが得意だろう」
「価値は流転(るてん)する。破壊は確かに行われてきたし今後も行われるだろう。
 だが建設を目的としている限り、破壊の中からでも価値は生み出される。決して虚無ではない」
「人間を物体として貶めた施設が評価されるのか」
「それは、我々の観測技術が、いまだ物質レベル・心理現象レベルでしか用いられていないからだ。
 未熟なのだよ、我々もまた籠の中の卵に過ぎないように。だからこそ、我々は神々を讃えるのだ」
 
 言葉を切り、じっとセイバーを見つめ、
「お前もまた、そうではないのか――錆びた神の宝具よ。
 お前が類い希なる精神力で、むき出しとなった殺意をコントロールしていることは認めよう。
 だがそれでは、お前は人間の形をした、ただの兵器だ。お前はお前の魂を、どう取り戻す気でいるのだ?」
 
 セイバーが静かに剣を振るった。
「僕は、僕の大切な友たちを守るために殺す。そうでなければ殺さない」
「人間は神になろうとして挫折する生き物だ。
 お前は慈愛をもって神の全能感を損ない、なお与えられた感情を取り零すまいとしているが、
 お前がそれで得るどんなものも、所詮は絶望への階段でしかない。
 歴史上のどんな戦士も狩人も、お前とは比べものにならぬほど謙虚だ」

 男の手が懐に入った。今度こそ外套の下で、重い金属の気配が起こった。

「戦場(いくさば)では、戦士は常に自分の価値を否定される。あなたが僕を無価値と言ったところで、僕は何とも思わない。
 僕の価値を認めるのは、僕の友だけだ」
「それは、お前に価値を見出す者も、自らの価値を切り崩しているということだ」
「人間は、どんなものにも本当は価値などないことを心の底では知っている」

 セイバーが剣を向けた。蠢く神剣を何のためらいもなく、眼前の男に向けた。

「質問に答えてもらう。あなたは、サクラさんの何を調べようとしている」
「毒錆びが広がりすぎたお前に、私の答えなど要らぬだろう。
 今のお前は、無感動と生存本能と殺意だけで回転する原動機(モーター)だ。
 聖杯が自分の手にあれば、それが自分の魂の代わりになるとでもいうのか?」
「――――――」
 セイバーは答えず、男を凝視した。
 ……ライダーの時以上の鮮烈な敵意が渦巻いている。
「人様の心を切開したがるなんて悪趣味ね。ならこの塔は何の意味があるってのよ」
 自らの緊張と――――おそらく、初めて体験する畏れという物に耐える為に遠坂は声をあげた。
 男は答える。彼には、それを聞く権利があるとでも言うように。
「普遍的な意味はない。あくまで私個人の意志だ」
「ならこの混乱もおまえの趣味ってわけか。
 じゃあ、最後だ。桜はどこにいる?」
 ぎり、と双眸に敵意をこめて士郎は男を睨む。

「稀人(まれびと)も御覧ずらん。月星は隈(くま)もなし――」
 その男は口のなかで、そうつぶやき、ニヤリと笑った。
「と申しては嘘になるが、これには眼をつぶってもらわねばなるまい」
 そして祭壇の上で、静かに挑戦者を待つ姿はまさしく王者に相応しい貫禄と威厳が満ち満ちており
 男が纏う蒼い衣からは不思議な光が満ちている。
 青く、冷えびえとして、ときおり炎が走るように、宙に蒼いしぶきが舞いあがる。
 およそ影というものがなく、光の粒子が霧のようにただよっているのだ。
「……う」
 その青い光のなかに、うめき声が聞こえてきた。






 ぼんやりとした意識のまま、間桐桜は身を起こした。
 桜は暗い闇の中にいた。
 電灯は点いていない。いや、そんなものなどある筈がない。
 暗い闇だけが、彼女の周囲に散乱していた。
「ぁ―――――」
 悩ましげに吐息を漏らし、桜は自身の長い黒髪に触れてみる。
 ……左肩から胸元まで下げていた房がなくなっていた。
 さっきまで自分にのしかかっていた男が引きちぎったためだろう。それを思い出して、彼女はようやく周りを見渡した。
「ええと――――」
 きょろきょろと、拙い仕草で周囲を見渡す。
 桜の意識はまだ本調子ではなかった。さっきまで起こっていた事が、まだ把握できていない。
「くっ……!」
 突発的な痛みに襲われて、桜は呻(うめ)いた。
 下半身に物凄い感覚が残る。
 自分の中身が締めつけられるようなもどかしさに、彼女は耐え切れずに身をよじった。
 ぴしゃり、とつけた手が音をたてる。
 見れば、この自分の半身はなにかに埋め込まれているようだった。
「……あ、せん……ぱい、ねえ……さん?」
 誰に語るでもなく呟くと、霞んだ意識で朦朧とする。
 ちらりと自分の腹部を見る。血の跡があった。
 自分が、間桐桜が、ここに佇む男の身体に埋め込まれた傷が。

「さくらあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 外套の中を男は左右にゆるりと開く。
 遠坂は思わず、えずくように口元を塞ぐ。
 男の胸板から腹にかけて触覚が生えるように間桐桜の半身が親を捜す赤子のように呻いていた。

 ……いつも自分を慕ってくれた桜。
 人懐っこい笑顔は、求めても得られぬものへの、彼女なりの防衛線だったのかもしれない。
 
 恐れ傷つき、けれど求めたい。
 俺は彼女のことをまだ知らないのかもしれないが
 彼女は誰よりも人らしく在った。

 ――――それをこの野郎は――――!!!

「うわあああああああああああああああああああああああああああ!!!」
 士郎は思わず男に殴りかかろうとし、セイバーに後ろから羽交い絞めにされ抑えつけられる。
「落ち着いてください、シロウ。彼女はまだ救える」
「ほう。救うとは?」 
 男は、重い声で問うた。
 セイバーは答えず、ただ、士郎は喚き続ける。答える余裕なぞない。
 気力を振り絞っていなければ、この男と正面から見つめ合う事などできないのだから。
「貴様等の救い人はここに健在だ。が、この通り彼女は聖杯の代わりとして用意させてもらった。
 彼女に繋がる道を辿り、私は神の座へ至る」
「――――うるせえ、かかってこい糞野郎……!! ここで八つ裂きにしてやる……!!!」
 およそ光というものがない目で、男は問いただす。
「間桐桜を救う為か。愚かな。おまえのその心は、貴様自身のものではない。まだ気がつかぬとは、所詮は人形か。
 しかし至らぬ身とはいえ、また貴様が私の前に立ちはだかるとはな」
「え……?」

 けれどそれは声にならず、彼は、ただ立ち尽くしているだけだった。
 男は表情を変えない。目玉だけが嘲笑(あざわら)うように歪んでいる。
「そうだ。これは私にとっては重要性の小さい賭けだった。
 いずれ挑むつもりだったが、事は神秘のままで行なうのが理想である。
 外界との繋がりを隔絶するための結界も、やはり欺くことは出来なかったか……。
 私を知らぬおまえ、私とはなんら関連をもたぬ衛宮士郎が自分から此処に来るのならば、
 見事に抑止に引き寄せられたというわけだ。
 数千年前の因縁は、今再びこの地で晴らすとしようか錬鉄の赤き守護者よ」
「なにをわけのわからないことを言ってやがるてめえ!!」

「――――さて。前回は勝ちを譲ったが、此度はそうはいかん。
 正義を謡うのはここまでだ。犠牲より生まれた無銘の英霊よ。
 貴様の炎はここで何も鍛えることなく、海神の咆哮とともに露と消え去るだろう――――!
『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』!!」
 男の発言は、それこそ呪文だった。
 男の蒼衣から凄まじい勢いで濁流が周囲を覆い、その水流に風が加わり、なお水位は著しく上昇を続けていた。
 風にあおられては盛り上がる波頭の速度に、流れはついていけず、豪雨となってセイバーたちの身体を濡らしていく。
 アーチャーの身体を頭(こうべ)のように揺らし、神話の海神の姿を模した巨大な水の怪物へと成り
 けたたましい雨音さえ凌ぐ濁流の怒声に、士郎と凛が不安な顔を見交わした。
 
「二人は下がっていてください。サクラさんは僕がなんとかします」

 風は疾(はや)く、重かった。
 重いのは殺気という名の分子を含んでいるからであった。
 彼の人形のような美しい相貌が猛々しく歪んでいる。
 まるで獲物を前にした飢餓の獣のように――――
 二人はセイバーの殺意と敵意に気圧されるように息を呑むと



 ――――――――瞬間。
        戦いが、始まった。



 セイバーは後手を踏んだ。
 一息で敵の懐に飛び込み、打たれたと気が付く前に頭を潰す。
 その、決して他の追随を許さぬと自負していたそれが、敵の一撃の前に文字通り粉砕された。

 セイバーは眼にも止まらぬ速さでアーチャーに迫ろうと駆け出したところを
 足元を破って吹き上げる間欠泉によってセイバーの身体を押し上げ狭まられたのだ。
 風切り音をあげる矢が瞬きの間に目前に迫ると、セイバーは無造作に振り上げた腕を突き出す。
「――――――!!」
 瞬間、悪寒とともにアーチャーは半身を逸らすと火花のように光の筋が眼を焼く。
 セイバーの腕から伸びる銃身から放たれた光の弾丸が頬を掠めたのだ。
 生き物のように蠢く水の腕に絡めとられたセイバーがもがき跳ね起き、
 アーチャーに向かって、両手の銃口を構え、立て続けに撃った。
 弾丸が闇の中を迅り、宙(そら)を穿って漆喰を剥ぎ取った。
 銃声がこだまを響かせ、薬莢の跳ねる澄んだ音が余計に虚ろだった。
 烈火の気勢で避けるアーチャー。
 巨体に似合わぬ俊敏な動きで射線から巧みに銃弾から回避と防御を続け、
 銃撃を止めセイバーを敵を観察してみると、アーチャーの体には傷一つ無い。
 セイバーは瞬時に敵の巨体が鋼めいた硬度だと受け入れ、即座に腕を薙ぐとセイバーを
 覆い包む大量の海水が弾け飛んだ。

(――――――強制解除、いや強制支配権の簒奪……。
 どうやら奴の宝具は我が『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』を上回る同属のモノ……)
 
 冷静に状況を観察・識別し相手の力を鑑定しうるアーチャーは、間をおかず
 攻撃対象を拡げ、士郎と凛を含む広範囲攻撃へとシフトする。
 そこへ、させまいと追撃をする神造の魔手。
 セイバーは月を背にし、手の内から白色の美しい弓と矢を現出させ
 海神の腕目掛けて矢を放った。

 『天の逆月(アクハト)』!

 鈴が鳴るような音が甲高く鳴り響くと、一筋の光線がアーチャーを襲う。
 直前に海神を構成する海水に潜り回避することができたが、海神の身体に着弾と同時に
 途端にグルッと視界が暗転し
 
 ――――――!!
 アーチャーは逆さまに宙(そら)に堕ちていった。
 たまらず『天に逆巻く海淵の裘(レ・ディヴィヌス・ペラガス)』を解除し、大量の海水が
 宙(そら)へと遠く引き離されていくのを苦虫を潰したような顔で見送りながら
 爆音が轟き、塔の向こうから走り込んできた、異様な加速のセイバーの
 追撃に迫った突き出される腕を引きつけ、紙一重で回避する。

 咄嗟にセイバーに向かって柱のような大量の海水を撃ち込んだが、その先には、すでにいなかった。
 アーチャーは迅速に海水の中へ駆け込み、ウォータースライダーのように滑るように水中を移動する。
 海水は津波のように塔の頂上に宙(そら)から雪崩れこみ、
 壁面を粉々にしながら、床を削り取るようにして士郎と凛を追った。
 セイバーはそのままアーチャーを追走すべく着地後そのまま助走をつけて、敵に向かって跳ぶと、
 創生槍・ティアマトを投げ放ち、海水もろとも床面を穿った。
 アーチャーを包んだ海水は先と同様に弾け散り、力を失った海水は床面へと勢いよく流れていく。
 アーチャーはそのまま外気に晒されながら、外へと投げ出され体勢を崩しながら着地をし
 敵に向かって対神迎撃砲を撃ちながら跳んだセイバーの右脚が、弓兵を蹴り飛ばした。
 アーチャーの体が宙を舞って床面に叩きつけられ
 セイバーは左の手をヤマアラシの針のように鬱葱とした塊に、
 右の手に巨大なハンマーにそれぞれ形態変化させ衝突し、折り重なった。
 アーチャーは顔をしかめて床面とともに埋まり、唾と一緒に折れた歯と血を吐いた。
(これで――――――!)
 アーチャーと密着したセイバーの筵(むしろ)のような左の手がジクジクと溶け始め
 サクラとアーチャーの身体を侵食し剥がそうとする。

 新たに海水を装填し、赤く光る目で騒然とする人形を睨む。
 その眼の端で、白い人影が動くのをとらえた瞬間、
 アーチャーは即座に死角である床下に装填した高圧縮の水弾をマシンガンのように撃ち放つ。
 そして、引き金を引くと同時に、向こうからも撃ち込まれていた。
 右脚の膝に衝撃が来た。
 がくっとセイバーの体が傾いで、そのまま倒れ込むようにして迎撃したのだ。
 手応えはなかった。代わりにまた弾丸が跳んできて、同じ右膝に当たった。
 骨が砕け、強化された鎧に穴が空いた。アーチャーは呻き、再顕現させた海水の中に這っていった。
 海水を補填する間にも激しく撃ち込まれ、唐突にアーチャーは相手の意図を察した。
 
 奴は人質もろとも私を破壊する気だ――――――!
 見殺しにするのか、殺した後で蘇らすのかは定かではないが間違いない……!!

 歯を剥いた。全身をばねのように弾かせ、弾丸の嵐から逃げ出そうとした。
 同じ瞬間、セイバーの右手の対神迎撃砲の弾丸が海水を穿ち、なおも追撃の手を緩めることなく口中から撃ちだされた
 炎と爆風が襲いかかり、身を覆い護っていた海水がずたずたに引き裂かれ、
 アーチャーの体は、子供が飽きた人形を放り出すみたいに、床面に叩きつけられた。
 それでも両手の弓は離さなかった。全身を何だかわからない破片で細かく切り込まれた姿で立ち上がった。
 息を荒らげて燃えさかる炎をにらみ、弓を構えた。
 途端に炎の向こうから弾丸が跳んできた。
 ことごとく桜のいる胴以外の急所を狙って撃ってきていた。なんとか身体を逸らすも、腕を撃たれ、頬を撃たれた。
 必死で移動しながら撃ち返したが、相手の銃撃は止まらない。
 ふいに、銃弾が変化した。足元で激しい火花が炸裂し、氷の粒子が床の表面を走り、剥き出しの両足を束縛して灼いた。
 次は捕縛網だった。左の肩胛骨を貫通した銛が穴を空け、炸裂するように弾けた網が全身を包み、力が抜けていく。
 つづけて、幾つも口径を変えているらしい弾丸がアーチャーの体中で跳ねた。
 アーチャーは雄叫びを上げて、銛から身を引き外し、渦を巻く炎へ向かって、疾走した。

 だがセイバーの腕は止まらず、そのままアーチャーの頭を掴み握り床面へと激しく打ちつけられた。
「――――――――」
 取った、とセイバーは思考し、引け、とセイバーは判断した。


 セイバーは判断を優先した。
 隙だらけである筈のアーチャーから距離をとろうと全身をバネにする。
 それと同じくして、アーチャーが打ちつけた床面が倒壊した。
「――――――――」
 セイバーの眼は、広大な空間の広がりと、その禍々しい獣(けだもの)たちの姿をはっきりと見ることができた。
 
 周囲は真紅で満たされていた。
 塗り込められているのは、飢えと乾きだった。それは、音を立てて一つの「意志」を誘っていた。
 これまで蓄積してきたもの――愛、希望、やさしさ、夢、哀しみ、そして怒り。人生が育くんできた「人格」という名の意志。
 誘いへの答えは常に否だった。
 しかし、時は近づきつつあった。
 真紅の包囲は執拗に「意志」を侵蝕し、強靭な「理性」の壁を本能の愛撫で懐柔しようと励んだ。
 壁は徐々に崩れていった。
 崩れた破片はたちまち飢えと乾きに同化した。
 剥ぎ取られる感覚に「意志」は甘美なものを感じた。本来所属すべき世界を見つけた歓喜に近いものであった。
「意志」の核はなおも抵抗した。
 色は毒々しさを増し、一気に意志を呑み込もうと躍りかかってきた。
 溶けていく。吸収される。
 なりつつある。

「お晩でございますわ若旦那、うふふ。うふふふふ」

 黄金と宝石と真珠で体を飾り、緋と紫の衣を包んだ裸身の女、ライダーが緋色の獣に乗り佇んでいた。

「お約束通り、パーティーの会場へと馳せ参じましたわ。ご機嫌麗しゅう……
 あららマスター、大丈夫?そんなに男にがっついちゃって、よっぽど飢えていたのねぇ……うふふふふ」
 
 限りなく淫らに、冷ややかにアーチャーと変わり果てた主を見下すライダー。
 歪むノイズ。
 哂っている。
 きっとアレは満悦している。
 私の無様さと、私の滑稽さに。

「愚かな……」
 そして精神を侵され始め、鮮血のしたたる傷口を押さえてアーチャーは呻いた。
「たかが人間の娘への義理だてのため、私の生命を狙い、侮辱されたといって私を斬る
 ――呪われしもの、汝の名はマザー・ハーロット
 ……人ならざる魔の夜と人間の昼の世界を共有しながら、どちらからも受け入れられぬもの
 ――貴様は一生、たそがれの国の住人だ」
「――――――――――――――――――――は。
 はは、ははは、はははははははははははははははははははははははははは
 ははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!
 これは痛快だわ、つまりアレか、あなたは自分の名を汚した私たちが、
 根源へと至ろうとするあなたを裁いてやった事がタマラナカッタわけだ!
 妄言だわね!アレは何も成し得ていない。
 あの赤毛の子を連れてくる事さえ、与えられた役割にすぎない。ただの傀儡(くぐつ)にすぎぬのだから!
 身の程知らずの稀代の道化も捨てた物ではないわね、言うことが違うわ!!」

 そう言って、アーチャーの喉元へ両手を伸ばす。刃物のような爪が光った。
 闇に閉ざされた瓦礫の真ん中で、守るものもなく無心な昏睡をつづける道化と少女。
 そのときであった。
 異様な「感覚」がライダーの全身を突っ走った。全神経がねじれ灼き切れ、細胞という細胞がみるみる腐敗していく。
 溶け崩れた肉の間からどす黒い血液が噴き出し、胃の中のものすべてが逆流するような嘔吐感が内臓を引きねじる
 ――そんな感じであった。
 まるで、始まったばかりの夜が、突如真昼と変じたかのようだ。
 かぎ慣れた匂いがライダーの鼻孔を打った。
 いつからそこにいたものか、背後の暗闇に一点小さな明かりが点り、祭壇の苦鳴を聞きつけたらしく、
 頭上遥かな高みから、羽根を拡げた機械仕掛けのペガサスに跨(またが)る青年の皮肉な眼差しが注がれている。
 周囲を睥睨(へいげい)する、
 病的に白い肌。
 雪が太陽を反射する時の光をそのまま閉じ込めたような淡い銀色の髪。
 海を閉じ込めたような蒼い瞳はぞっとするほど深い色をしている。
 顔立ちは非常に整っているが、まるで人形のように無機質な印象を与えた。
 
 ――なんだあれは?
 虚ろな……それでいて潔癖で禍々しいほどの白い姿。
 現実感がないクセに、排除の意思だけは強烈に伝わってくる。
 

「霊長が大昔から作り上げてきた、悪を根絶するシステムの重鎮様のお出ましね。
 人間たちは自らの欲望によってわたしたちを生み出し、自らの欲望によって滅び去る。
 ふふ、皮肉皮肉、人間なんてすっごい皮肉!
 素晴らしいわよね、こんな皮肉に満ちた生き物なんて人間だけよ?
 キレイなだけの舞台はつまらないもの。
 人間を悦ばせるのは救いのある喜劇より救いのない悲劇でしょ?
 キレイは汚い、汚いはキレイ。
 ニムロデ王、あれが我らの対極。この世の果てに全てを無に帰す適正化プログラム(アンチウイルス)
 力は高き処にありて、人の世が滅亡する可能性が生じれば世に下る“霊長の存命”のみを優先する無色の力よ!」

 そして新たに現れたサーヴァントの姿に、セイバーと凛、そして士郎も戦慄を隠しきれずにいた。
 バトルロイヤルの常道で言うなら、もっとも劣勢な者を総掛かりで潰すのがいちばん堅実な戦術である。
 従って、もしこの場で弱みを見せようものなら、最悪の場合には三対一の絶望的な戦いを強いられる羽目にもなりかねないのだ。
 そうなってはいかにセイバーといえども勝ち目はあるまい。
 誰が誰に対して仕掛けるか、さらにその隙を誰が衝くか――この場を生き延びるためには
 すべての敵の動向を正確に見極めるしかない。それはどの英霊に対しても言えることだ。

「どうやら、アレもまた厄介な敵みたいね……士郎?」
 隣で新しく現れたサーヴァントをじっと見つめたまま、少し様子がおかしい士郎に気づいた。
 士郎は言葉を失ったまま、愕然と虚空のサーヴァントを見上げる。
 それは、己の鏡像を見たような貌でもあった。

 ――――正義の味方。
 誰一人傷つける事のない誰か。
 どのような災厄が起きようと退かず、あらゆる人を平等に救えるだろう、衛宮士郎が望んだ誰か。

「――――俺、正義の味方に憧れていたんだ」

 ポツリと独白をする。
 突然のつぶやきに少し驚きつつも黙って凛は耳を傾ける。

「みんなが笑顔になれればいいなって――――。
 なにが出来るかわからないけど、こんな俺でも誰かを救うことができたらいいなって……
 ずっと、ずっと憧れていたんだ……」

 誰にも悲しんでほしくないという願い。
 出来るだけ多くの人間を救うという理想。
 一目で理解できた。
 あれこそが自身の理想の顕現。
 正義の味方の体現者なのだと――――

「でも……あれはダメだ。……ダメなんだよ遠坂……」
「ダメって……?」

 士郎の震えはどんどん大きくなってくる。
 唇は青ざめ、凍えるように両腕を組んで、なお虚空のサーヴァントから眼を離さず。

「あれは都合の悪いヤツはなんでも殺す……。
 一人を救う為に何十という人間の願いを踏みにじって、踏みにじった相手を救う為に、より多くの人間をないがしろにする。
 何十という人間の救いを殺して、目に見えるモノだけの救いを生かして、より多くの願いを殺していく……」

 正義の味方が助けられるのは、味方をした人間だけ。
 全てを救おうとして全てを無くしてしまうのなら、せめて。
 一つを犠牲にして、より多くのモノを助け出す事こそが正しい、と。

「機械のように淡々と、目的も動機もない。
 ただ、悪を根絶するという理由のために、全てを。一切合財を掃討する化物だ……!!」

 吐き気が止まらない。
 あんなものが正義の味方だなんて断じて認められない。
 漏れる言葉には、もう、憎悪しか含まれていなかった。

 
 突如、虚空のサーヴァントが躍った。ゆっくりと下降しつつ両手を真下へふった。
 壁面が閃光を噴き上げたと見るや、地上の影めがけて炎の柱が吹き上がった。
 優れた画家の引いた線のように、火柱は人影の中心に集束した。
 銀光が交差した。――ふたすじ。
 炎も物理的な存在である以上、質量と硬度を持つ。ならば、より巨大な質量と硬度でもって跳ねとばすことも可能だ。
 鮮やかな切断面を火炎に与えて弾きとばしたセイバーの光の鞭は、ひとふりの刃と化して宙に舞った。
 士郎と凛が巻き込まれる寸前を、光の鞭が身体を巻き取り飛ばす。
 突然の奇襲だったため、二人を床面に投げ飛ばしてしまい、勢いおくパウンドしながら転がっていく。
 だが、彼らを気遣う余裕はない。
 セイバーはすかさず、上空の相手を警戒しようとしたところを
 けたたましい咆哮が塔を揺らし、下の瓦礫の中から炎を身に纏いながら緋色の獣が上空の敵を強襲する。
 単なる跳躍が飛燕(ひえん)となる。迫る空中の緋色の獣が新たな上昇に移ろうとするより早く、
 真っ向から打ち下ろされた刀身は、その頭頂から首のつけ根までを断ち割っていた。
 風が紅く染まった。それが黒い身体に鮮血を叩きつけたとき、二つの影は十数メートルの彼方に降り立った。
 片方は崩れ落ち、片方は屹然と大地を踏みしめて。

 血走った眼から、凶々(まがまが)しい憎悪の念が敵を呪縛せんとほとばしり、闇を沸騰させた。
 殺戮と憎悪にのみ歓喜する生物。彼はその代償に何を得たのだろう。
 さらに断ち切られた傷の裂け目から、さらに異形の7つの頭が生え昇り、さらに濃く深く汚らわしい闇の深遠が現れはじめたのだ。
 
「士郎!逃げるわよ!!」
 起き上がり様に醜悪な呪詛が、おぞましい怨嗟の雄叫びがなお増していくのを見てとった凛は
 この闘いに巻き込まれては、足手纏いの他のなにものでもないと即座に判断し、離脱を決める。
 ましてや――――
 あれを直視した瞬間、心が折れてしまったのだ。
 セイバーの加護と魔術刻印の総動員でやせ我慢しているが、足は震え、足の淵から今も濡れて垂れ流れている。
 奥の床面がライダーによって崩された穴が、足音を吸い込んで閉じつつあった。
「Es ist《軽量、》 gros, Es ist《重圧》 klein…………!!」
 反応は早かった。
 左腕の魔術刻印を走らせ、一小節で魔術を組み上げる。
 身体の軽量化と重力調整。
 二人は黒い風と化して戦場を通り抜け空いた穴から下へと降りていった。

 光りかがやく廊下に出た。
 数千年の歳月にも朽ちなかった床が、二人の影をおぼろに映した。
 長い廊下を進んだ。
 閉ざされた扉の向こうで、なおも機能しているらしい塔の建立の唸り声がきこえた。
 夢の跡であった。誰が何を夢みたのか。
 風景が変わり、巨石の入り組んだ一角が二人の前方に立ち塞がった。朽ちかけた石段が階下の闇へ延びている。
 降り切るとすぐ、金属製の錆びた扉が現れた。
 凛の胸元で赤いペンダントが輝きを増し、扉は音もなく開かれ
 広大な空間を、たそがれのような光が埋めていた。
 これまで眼にしてきた幾つもの戦闘の光景が二人の脳裡を去来した。やはり青い光が満ちていた。滅びの色でもあろうか。
 石の床の上で、塔の主が立っていた。
 胸元で白い女体が蠢き蒼色の影が動くたびに、低い喘ぎが洩れる。
 白い腕が蒼色の布に爪を立て、太古のミイラに犯されるような美女の顔は桜のものであった。
 歓喜に固く閉じられた瞼が不意に開き、士郎のそれと合った。表情が消えた。
 空気も揺らさず満身創痍の蒼色の影は、取り出した剣の刀身が青い光を吸い取る。


 荒涼たる塔の二角で六つの影が対峙していた。
 そこを過ぎるたびに、風は狂暴になった。天は幽明境のごとく昏(くら)い。
 これより闇なる華燭の典が始まる。