暗い森の中に獣は居た。
 物心がついてから与えられた空間がここであり、唯一自由になれる空間もここだった。
 獣はまだ子供だったから、この広さに不満はなかったと思う。
 むしろ広すぎて不満を覚えたのはではないかと危惧するほど、獣は余っている空間を凝視していた。


 獣はもともと人間を理解できなかった。
 彼らの行動も、表情も、言語も、あらゆるものがよく分からなかった。
 きっと自分は人間ではなく犬か何かなのだと獣は思った。
 そうでなければ気が違ってしまうほどの断絶があった。
 その隔たりは、結局、獣が美しい聖娼に出会うまで解決される事はなかった。


 周囲は獣を鬼子と呼んだ。
 もともと人々が望んだからこそ女神アルルの手によって創ってもらったくせに、
 望んでいた純度を保った獣が生まれた途端、周囲の人間は必死になって獣を森の奥深くに隠した。 
 尋常ならざる彼らにとっても、その獣が生まれてはならぬモノだと理解できたのだろう。

 その願望、望まれて掃き捨てられた哀れな獣の所在は、奇しくも―――――
 城壁建設によりウルクの人々を苦しませた王の命により、彼を望ませる形を成した訳である。

 王より仕った聖娼シャムハトは美しかった。
 容姿だけではない。
 その清らかな心と穢れを呑み込み、なお己を強く気高く在り続ける彼女自身。
 その身。その心。その全てが途方もなく、ただただ美しかった。
 心を知らぬはずの彼が、羨望と憧れを、そして、人の温かな愛を仄かに宿し
 彼女に包まれることによって、ようやく自らの目的と人の形を得るに至った。
 





 青年は何一つとして人々から教わる事はなかった。
 もともと誰も対等に話しかけてこないので言葉を聞き入る必要もなかったし、自らの意思を曲げる機会もなかった。
 青年の凶眼は人の内面を強く浮き彫りにする。
 青年を前にした人間はたいていは怖れしか抱かない。
 だから人間というのはそういう生き物なのだと青年は学習したし、
 そんな事しか反応のない生き物なら言葉を覚える必要なぞなかったのだろう。

 至極、当然の事である。


 青年は快楽を好み、悦の中に居る事を望んだ。
 彼らは許さなかった。形式上だけとはいえ、国を継ぐ者に普通の生活をさせる訳にはいかなかったからだ。
 なにより、次代の長が平民じみた生活を望むなど彼らから見れば恥でしかなかったのだろう。
 だが青年は彼らが思っているような痴呆ではなかったし、早熟といえば早熟だったのだ。
 青年は早くから自らの封じ方を心得ていたし、事実、産声をあげてから一日たりとも自身の檻を外した事はなかった。


 それは、生まれた瞬間から始まる暴食のようなものだった。
 青年はひたすら乾きを潤そうと、自身という怪物を在るがままにしていた。
 本来―――人間として成長し、多くの守るべき物を作り上げてから対抗する理性という鎖。
 
 それを、少年はそれを”縛って”いた。
 
 けれどそれも長くは続かなかった。
 幕を下ろしたのは、青年以外の誰かである。

「恐れ入った。我の天敵というのは間違いではなさそうだ。」
「…………。一度も殺してないのに天敵って言うのは、すごく皮肉だ」

 その邂逅を経て、お互いは掛け替えのないの朋友(とも)を得た。
 ……その言葉は正しい。
 二人は生まれた時から違っていた。
 だからこそ彼らは内に秘めた伽藍堂を埋められたのだし、彼らは心から笑いあうことができたのだから。
 そうして。
 生まれながらにして正気ではない少年は、そんなモノで死ぬ事さえありえなかった。





「暴力の形にも、実に色々ある……」

 レバノン山への遠征へ赴いたときだった。
 神々への反骨猛々しいウルクの王。
 唯一無二の友と共に荒ぶる神獣討伐への遠征の道中、彼はそんなことを語りだした。
 だが、彼が二の次を口に出そうとした瞬間、彼らのいる香柏の森の静けさを、けたたましい絶叫がうち破った。
 まず訪れたのは悲鳴であった。その次に、鋭い銀光が降ってきた。
 くるくると弧を描いて落ちてきたかと思うと、
 それはギルガメッシュとエルキドゥの間に展開された『王の財宝(ゲート・オブ・バビロン)』 の宝具に弾かれ
 近くの樹の幹に突き刺さった。
 悲鳴がどんどんと近づき、突如訪れた嵐のように吹き荒んだ。
 同時に、再びギルガメッシュに顔を向けたエルキドゥの頭上で、ぽつりと何かが散った。
 赤い雫であった。
 それが、一つまた一つと草を濡らしていった。かと思うと急にその量がどっと増えた。
 二人の周囲を、朱色の驟雨(しゅうう)が襲うようだった。天から血と肉の雨が降り注いでいた。
 悲鳴が近くなった。もうほとんど彼らの頭上にあった。
 香柏の木々が、その白い樹肌に、幾筋もの赤い線を走らせてゆく。
 形も定かならぬ肉、ばらばらに噛み砕かれた破片が、無数の赤い雫とともにばらまかれては木々の枝にぶら下がり、したたった。
 辺りは鮮やかな白と赤の色に彩られ、息も詰まるような血臭がたちこめた。
 ギルガメッシュとエルキドゥの周囲だけが、その赤い雨からぽっかりと逃れている。
 まるで透明なドーム状の壁でもあるかのように血と肉が弾かれる向こう側で、さらにその赤と白の景色を引き裂くような、
 巨大な影たちが幾つも走った。

「この楽園を守る、番人の眷属たちだ。森の番人(フンババ)の命令に非常によく従う」

 ギルガメッシュが目を細めて、宙を舞い飛ぶ獣の群流を見やった。

「奴らは、お前とはまた違う形で、自然を活用している。
 奴らが泳ぐのは、磁界の海だ。そしてその海は、お前のもつあらゆる気配察知能力をも、無力化する」

 きっぱりとしたギルガメッシュの口調だった。

「この畜生どもは、理由もなく人間を襲うことはない。奴らの感覚野には、対象を制限するプログラムを施してあってな。
 奴らが把握可能な対象とは、すなわち森の番人(フンババ)が外敵と判断した者たちだけだ」

 そして今、その外敵と判断された者の悲鳴が、これ以上ないほどの恐怖と脅威を告げていた。
 かと思うと、ふいにその悲鳴が細く甲高くなり、それがときおり王の名を呼ぶ声になった。
 哀れっぽい声音だった。無惨な死に襲われた者が、聞く者の耳に一生残る傷をつけるかのような凄絶な呼び声であった。
 だがギルガメッシュは頭上を仰ぎ見ることもしない。
 ただひたすらエルキドゥの表情を見据え、そこに隙が生じるのを待ち構えているようだった。
 ギルガメッシュが、また溜め息をつきながら首を振り、

「ところで、獣が人を襲うのは、なぜだと思う?」

 エルキドゥの揺るがぬ警戒姿勢を、やんわりとたしなめるように、訊いていた。

「たとえば平和な街の中で? あるいは手頃な狩場で? なぜ彼らは突如として、人々に牙を剥くのだ?」

 エルキドゥは答えない。

「長年の謎だったのだ。
 もちろん、たまたま空腹だったり、攻撃的だったりする場合もあるだろう。
 だが、そんなものは全体の数パーセントに満たない。
 空腹や怒りで未知のものに食いつくようなシステムでは彼らは生きていけないのだ。ではなぜ? 
 人間はそんなにも獣にとっては捕獲しやすい餌なのか? 他の餌となる生物の数倍細い体積をもった人間が?」

 頭上では悲鳴がどんどんか細くなっていった。
 赤い雨音が弱まり、ギルガメッシュはまるで何かの種明かしをするかのように告げた。

「長い間、獣が人を襲う必然性のないことが疑問だった――だが、答えは簡単だった。簡単すぎてわからなかったのだ」
 
 唐突に、頭上の悲鳴がやんだ。囮の護衛が絶命したらしかった。
 ギルガメッシュは、もはや人間の形状をしていない骨と肉の塊にむさぼりつく獣たちを見上げながら、

「奴らが人を襲うのは、好奇心からなのだ」
 
 そう、告げた。

「奴らが牙を剥くのは、人間にしてみれば、対象を覗き込んだり、手で触れたりするのと同じことだ。
 奴らに与えられた優れた器官が、たまたま牙や味覚や嗅覚であったに過ぎない。
 奴らはただ、見知らぬものが何であるか知りたいだけだ。
 そして、味わいたいだけだ。
 数キロ先の、ほんの一滴の血の匂いを嗅ぎつけて現れる畜生どもは、
 何より、たった今嗅いだものを味わいたいという欲求によって突き動かされるのだ」

 それから、厳粛とさえいえる眼差しを、エルキドゥに向け、

「暴力の本質とは何かを教えてやろう、我が友よ。それは好奇心だ。
 それこそが、ほとんど全ての暴力的行為の背景にあるものだ。
 対象を知り尽くし、自己の力を行使し、自己が味わえる全てのものを味わいたい。
 たとえそれが勝利感や義務感、無力感の代償、自己実現の手段、はたまた病的気質によるものだったとしても、その本質は変わらない」

 まるでエルキドゥが矛をかざす理由を、本人に代わって告げるように、言った。

「この世で好奇心ほど暴力的なものはあるまい。そして他ならぬ好奇心によって、人も動物も生きている。
 そのことを知り、そのことに耐えられる者こそ人間と呼ぶべきだ」

 そう告げるギルガメッシュの眼差しが、ひたとエルキドゥを見据えた。

「友よ、お前の人生において、お前の好奇心が――お前自身の力の興味が、どこへ向かっているか、本当にわかっているのか?」

「僕はもう、僕の心に拡がる虚無には、興味がない」

 エルキドゥは、重々しい声音で、そう言葉を絞り出していた。
 かと思うと、手にした矛が、ゆっくりと下がってゆく。

「そろそろ五月蝿い畜生どもが目障りになってきたな」

「罪と罰は、必ずしも、等価値ではないよ」

 エルキドゥが、ギルガメッシュを茶化すように言った。
 歩みゆこうとするギルガメッシュに、すぐさま、宙を舞う森の獣が一匹、反応した。
 かっと牙を剥き、頭上から躍りかかってくる鮫を、ギルガメッシュは見もしない。
 刹那、激しい火花が散った。
 ギルガメッシュの体を覆う、夥(おびただ)しい宝具の壁が、食らいつく獣を、完全に防いでいた。
 それでも獣が、串刺しになりながらも、ギルガメッシュの頭上へと、じりじり近づいてゆく。

「泥より作られ、人と成った身でありながら、神の子の隣に並び立とうと背を伸ばした愚かなる道化者よ……」

 ギルガメッシュが、エルキドゥを見やった。エルキドゥは、目を見開き、

「あの〝楽園〟にいた頃は、畜生にも満たなかったお前が、社会の病理的争乱に生きたことで、
 体内の機構を、そこまで肉体化できたというのか……」

「僕はもう、彼ら(神々)の被造物(クリーチャー)ではない。楽園から放たれた、今を生きる〝人間〟だ」

 言いざま、手にした矛を、ぬっと、頭上の獣に向かって振りぬいた。
 頭を潰され、血飛沫を撒き散らす獣はぬるっと地面に落ち崩れ、地面を真っ赤に濡らす。
 それに触発されたのか、多数の獣たちが雄叫びを上げながら、周囲を囲み一斉に襲い掛かってきた。
 エルキドゥの武器を持たぬ反対の腕が、無造作に、獣の口の中に突っ込まれた。
 肉の壁が一挙に突き破られ、変形した手先の銃口が火と轟音を放った。
 爆発した。
 たった一発の銃弾の威力と、迸る魔力の余波の突風が、鮫の体を、内側から引き裂き、
 巨大な風船が割れるように、四方に破片をまき散らしたのであった。
 もはや、小型の戦車砲というべき銃の破壊力であり、弾丸の濃密な魔力量だった。
 
 宙を舞う獣どもが、二人を警戒するように、頭上の木々を素早く走り回った。
 貪欲な殺意と怒りが、ぎざぎざの牙を剥いて、大気に充満していった。

「畜生風情が、いつ、神に空を飛べるようにして欲しいと言ったのだろうな」

 ギルガメッシュが、昏い目を、獣の群に向けたまま、言った。

「彼らにとって、地上も空中も、三次元的に移動できれば、大した差はないよ。
 きみが、どんな場所も、もはや戦場としかみなさないのと同じように」

 頭上からは、柔らかな光が降ってきている。
 その光の中を、巨大な獣影が幾つも迅(はし)った。
 恐るべき速度で、二人の頭上から、背後から、横合いから、真正面から、牙と爪を叩き込んできた。
 エルキドゥが動いた。まっすぐ、前方に向かって左手の銃口を構え、踏み込んだのである。
 銃声というより、もはや爆音だった。
 真正面から迫った獣が、頭部を木っ端微塵にされて、ギルガメッシュの背後の白樺の木に激突し
 血臭のする内臓を飛び散らせた。
 獣は、次々に、エルキドゥの魔弾に打ち砕かれ、あるいは反対の腕から放たれる矛の鉄槌に叩きのめされ、
 その巨体が地面にもんどり打って動かなくなった。
 目に染みるような獣の血臭が立ちこめ、辺りの木々も草も、
 たちまち先ほどにも増して赤く、鮮やかな死の色に塗り重ねられてゆく。
 エルキドゥは、右左へと素早くかわし、一つまた一つと、確実に、牙を剥いて襲いかかるものから順に、獣を撃ち滅ぼしていった。
 やがて、三十体近い獣が、吹き飛ばされて地面に落下し、折り重なった。
 残りの、それでもまだ十体以上いる群は、戸惑うように、二人の頭上を舞うばかりだった。
 ギルガメッシュは、ただ無言で獣の血の海に立ち、エルキドゥを見つめている。
 その体には、一滴たりとて、返り血を浴びてはいない。
 
「あくまで闘争を選ぶか。
 そうであろうよ。愛を知り、憧れ、なお人に成ろうと生き足掻く孤高の人形よ。
 その姿にこそ、我はかつて失った人の可能性を見た」
 
 陶然と想いを馳せ、エルキドゥの血に濡れた感情を感じさせぬ無機質な横顔に
 ギルガメッシュはぎろりと刃の眼差しを向ける。

 
「おまえは戦いの化身だ、友よ。
 死の恐怖や痛みに怯える事もないが、かわりに生きる喜びも愛も知らん。
 そこがおまえの唯一最大の弱点だな。
 おまえはまだ神に造られた人形のままだ」

 黄金の英雄王の微笑は際限なく淫(みだ)らに、欲望の爛(ただ)れを隠そうともしない。
 エルキドゥはわずかに口を開きかけたが、何も口にはしなかった。
 言葉もまたエルキドゥが生み出す虚無の一つのようにして消え去り、後には何も残らなかった。

「望むままに愛を求めるがいい、伽藍の開拓者よ。
 獰猛な欲求、偽りない求愛。
 ――――あまりにも幼い、満たされぬ純粋な器――――」

 何も言わぬエルキドゥへ、ギルガメッシュが、静かに最後の言葉をかけた。

「儚くも眩しき者よ。行くがいい――エデンの東へ。
 もはやお前の足は荒れ野以外を踏むことはあるまい。
 神すら呑み殺す貴様の求道(ぐどう)は、このギルガメッシュが見届けてやる」




 そして二人は旅を続ける。
 森の番人が手勢をつれて訪れ、倒した時には全てが終わっていた。
 
 そうして彼は嫉妬深い女神に憑かれた。
 後悔も懺悔も感傷も感想もなかった。
 ただ……
 自分と同じ、満たされぬ孤独を生きなければならぬ唯一無二の朋友(とも)を残してしまうことだけが
 ただただ悲しかった。
 泥より造られ、愛を知り、朋友(とも)を得て、人ならざる者は人間の心を得ようと短い生を終える。

 結局、それは。
 初めから、そういう風にしか有り得ない生き物だったからである。


 長かった旅は終わる。
 その黄金と大地の色に彩られた日々から幾星霜。
 運命は再び流転し――――――
 憎しみより強い、人間らしい温かみを確かめたくて、
 時の果て、彼は新たな旅の始まりを予感した。