FateMINASABA バベルの塔の狸 


 間章 ただ伏して御主に許しを請い、ただ伏して御主の敵を撃ち倒す敵なり


 暗闇(くらやみ)のなかに死臭が漂い始めていた。
 大通りに長く連なる車のテールライトが、赤く雨に滲(にじ)んで、視界をモダンアートめいたものに見せていた。
 気のせいか、時おり鳴りわたるホーンの音も、濡れそぼった力のないものに聞こえた。
 時間は午前0時を回っていた。

 車は走り去っていった。
 本当に、寒い日なのだった。
 道行く人々は溺死体(できしたい)のようになっていた。
 コートの冷たさと重さは、ぼくのうちにくすぶる残り火さえもしだいに消していった。
 その火をつけたのは彼等だ。が、消したのは雨だけではない。

〝狩り〟を決意したのは、ぼくたちだけではなかった。かれもまた、ぼくたちを狩りだしにかかったのだ。
 誰ひとりとして、なにが起こったのか、正確に語ることはできないのだ。

 妙にむしむしとした、息苦しい夜だった。
 今にも降りださんばかりに低く垂れ込めた雨雲は、しかし空を黒く閉ざすだけで、一滴の雨さえ落とそうとしなかった。
 ときどき、空を雷が走る。

「面倒かもしれないけど、説明してくれない? 
 いったい、この街はどうしてしまったんだい? なぜ、いたる所で人々が死んでいるんだ?」
「なぜ? 到着したばかりの私に分る訳がないでしょう。
 分かっているのは急に住人たちが暴徒と化して暴れはじめたこと。
 しかも老若男女問わずに、連携を取り合って行動しているから性質が悪い。
 何人か捕まえて尋問してみたら、なにか言いかけて、そのまま倒れてしまったのがこの現況です。
 私が駆け寄った時には、もう……」
「何時ごろだい?」
「……分らないです。本当になにも分らないんですってば」
「大体でいい」
「そう……日付が変わってからぐらいだと思いますが」
 0時か、とぼくはうなずいて、死体の方へ歩いていって、その脇に片膝をついた。ひとわたり、体に触れてみる――。
「どうです?」
 シエルが訊いた。
「外傷はまったくない。内出血しているような様子も、なさそうだ」
「じや、なんで死んだんでしょう? 心臓麻痺でも起こしたんですか?」
「さあ、なんとも言えないが……」
 顔にかぶせてあるハンカチを、とる。
 激しくゆがんだ死に顔だった。
 怯(おび)え? いや、それは怒りの表情なのだった。
 志半ばにして、思いがけず死んでいかねばならなかったくやしさが、ぼくには痛いほどよく分った。
 こいつは、筋金入りの闘士だったのだ――。
 シエルが歩いてきて、ぼくの頭ごしに、伸び上がるようにしてこの人間の死に顔を見た。
「惨いですね」
 と声をあげる。

「とにかく、上着をぬがせよう。これじゃ、死因を調べようがない」
 ぼくは立ち上がって、死体の胴に両腕を回そうとした。死体が僅かに揺らいで、その背広から、ヒラリ、と一枚の紙片が床に落ちた。
 拾いあげる。
「手紙だ」
 日本文の、小さなタイプ文字が連なっているなかに、〈666〉と、それだけが手書きで書かれてある。
 宛名(あてな)は〈兄弟たち《ブラザーズ》〉になっていた。
 シエルが、もぎ取るようにして、ぼくの手から手紙をひっさらった。冷たい眼で、読み始める。
「よかったら、声をだして読んでくれないか」
 ぼくは言った。
 シエルは顔を上げて、チラリ、とぼくに眼をやった。
 彼女は、英語に翻訳しながら、ゆっくりと声をだして手紙を読み始めた――

「――ニムロデは、多分、霊感能力を持たないで、「神」を見ることのできた、史上最初の人間だったろう。
 自身が建立した場(フイールド)のなかで、彼は、「神」の姿を見、そしてかれと闘った。
 そう、正しく闘ったとしか言いようがない。
 どうやって、ということは、私にも、うまく説明できないようだ。
 ニムロデは、持てる精神力の総てをふりしぼって、「神」を糾弾した。
 「神」になんらかのインパクトを与えることができたかどうかは別にしても、
 それは、確かに人間というものを、私に再考させてくれる眺め(シーン)だった。
 一個の〝実存〟が、「神」と拮抗しうる、と信じきっているニムロデを、私はうらやましいと考えた。
 彼は、まるで「神」が人格を備えている、とでもいうように身振りまで混じえてしゃべり続けた。
 そして、不幸な結果になってしまった。
 ニムロデは、精神力の総てを使い果たし、消耗しきった状態で、(彼の言葉をかりれば)会見を終った。
 彼は死ぬことになるだろう。私には、どうしようもないことなのだ。
 
 はっきり言おう。ニムロデは確かに偉大な人物だった。が、同時に道化でもあった、のではないだろうか?
 死者に対する非礼を、承知のうえで言うのだ。
 もし、ニムロデが「神」の正体を暴こうなどという愚行にとりつかれさえしなかったら
 それなりの業績を上げて、豊かな人生の秋を迎えることができたろうに、と思うと、あえて道化という言葉を使いたくなる。
 「神」の正体を暴くことなど不可能な話だ、と私は思う。
 が、今、こんな結果になって、私は自分の言葉が足らなかったのではないか、と後悔している。
 私はこう言うべきだったのだ――「神」の正体を暴きたい者は
 まず自分がガラガラ蛇(へび)と同居できる人間かどうかを、自問してみるべきだ、と。
 かれは、いつでもそこにいる。気ままに、人を噛(か)むことができるのだ。そして噛まれた人間は、確実に死ぬ。
 どうか、君たちは私の忠告を聞き入れてもらいたい。「神」など気にしないことだ。
 人生というのは、これで採り忘れた果実みたいなものだ。
 果肉が固くなっていても、まだ果汁を楽しむことはできる。繰り返そう。「神」から手を引きたまえ。
 この極東の地から、私たちは世界を終焉に導く。
 多分、私たちが会うことはないだろう。
 こんなことを言うのは変な話だけど、これ以上、無益な犠牲者を出さないためには、君たちは速やかにこの地を離れる必要がある。
 こいつは、私自身が選んだ仕事だからね。最後まで逃げずに闘ってみるよ。
 神の僕たる君たちに謝意と、愛とを込めて……」
 
 シエルは、一息言葉を切って、
「……PS。ニムロデは、確かに、私を敗北主義者と呼ぶことのできる人物だった」
 シエルの額に、細かい汗がふきでていた。眼を伏せたまま、ぼくに手紙を差し出す。
「いや」
 とぼくは首を振った。
「読みたくない」
 シエルはうなずいて、指を拡げて、手紙が落ちていくのにまかせた。
「そういうことだそうです」
 シエルが言う。
「ああ、そういうことだろうね」
 ぼくが応(こた)える。
 重苦しい沈黙が、空間を支配した。
 ぼくたちは、互いに顔をそむけた。視線が合えば、いやでも相手がなにを考えているのか、を読み取らねばならない。
 ぼくたちは、今、同じ眼の色をしているはずだった。
「メレム、信じたくはありませんでしたが、どうやら本当に黙示録の終末がこの地で顕現されようとしているのですね」
「祖の薔薇の予言は本物だって知っているだろう?
 まあ、たしかにこいつはふざけたジョークだと思われるのも無理はないけどさ」

 ぼくらを包む雰囲気には、ひどくぎごちないものがあった。
 ぼくのかつての同僚たち(実質的には、彼等はぼくの部下だった。
 ぼくの一挙手一投足を、どんなに彼等は真剣に見つめていたことか)が、ぼくらの囲りに、半円をえがいて集まっている。
 誰ひとり喋ろうとしない。
 だってもう鼓動を刻んではいないのだから。
 先にこの地の調査をしていた教会の先遣隊が、無様に地べたに転がっているのだ。
 
 二人の間を、気まずい沈黙が流れた。
 それが、今日に限って、これほど激するのには理由があるのだ。
 薔薇の予言。
 曰く、世界の終末が訪れる。
 ぼく?
 ぼくは、歓喜が半分、後悔が半分というところか。
 こんな辺境の地に廻されるとは、思いもしなかったが彼の英霊たちとの抗争を間近で見ることができる
 と喜び勇んで遥々来たのだ。
 姫君がこの地で元気にやっている姿を見に来た、というのが本命なのだが。
 だが、実際に来てみると少し期待していたものとは違ったようなのだ。
 地獄のような惨状を見るのは好きなんだけど、サイコ系とかはあまり好きじゃないんだけどなー。
 まあ、多少は後悔しても、もう遅い。
 ぼくが溜息を一つついて、この地に訪れた経緯を回想する。

 様々な組織の元に予言が届いたのは、バベルの塔が現れる三時間前の事だった。
 殺し合い、消滅を繰り返す二十七祖が今も健在な理由たる予言者の役割をもった祖がおり
 彼女が我々に警告を伝播してきたのだ。
 その予言を前にして、メレムは笑った。
 事は聖堂教会だけの話ではない。
 今回の件はもう何千年も前から用意されてきた一大決戦だ。
 教会はおろか、魔術協会ですら〝分かっていながら〟傍観してきた世界の終焉。
 あくまで遠い未来の果てに訪れるであろう黙示の日(アポカリプス)。
 だがそれを、片田舎の魔術師たちの殺し合いで突如迎えるというのだというから笑える。
 極東の島国なんかで起きるモノなぞ放っておけと事態を軽くみていた上層部の御歴々も
 第二の魔道元帥に白翼公、黒血の月蝕姫たち直々の口添えがなければ相手にもしなかっただろう。
 直ちに教皇陛下の勅命により、第9次十字軍を緊急編成。
 あくまで非公式なため、大型潜水船の聖遺物を用いての極秘終結になる。

「まったく、誰が考えたものなのだか。地獄が開くと判っているのに、開くまで手出しできないんですからね」
 
 ……いや、誰が立案したものか、教会側も知っていた。
 リズライヒ・ユスティーツァ・フォン・アインツベルン。
 この地における聖杯戦争を立案した冬の聖女と謳われた大魔道師。
 第二次聖杯戦争にて、その存在の調査・観測を行い判明した
 聖杯―――その名を冠したあらゆる願いを叶える願望機。
 その完成のため、アインツベルンとマキリ、遠坂が協力して“聖杯を召喚する”儀式を行った。
 それが聖杯戦争の発端。七人の英霊を召喚して、聖杯の所有権を定める殺し合い。
 聖杯によってマスターに選ばれた魔術師は英霊の依り代となり、最後の一人になるまで殺しあう仕来たり。

「まあ、局長直々の命令ですし。それに悪い事だけではありません。
 預言は回避することも可能だというのですからね」
 憂鬱そうにシエルは語る。
 僕たち埋葬機関のメンバーは、それぞれ遊撃として動いている。
 それぞれが一騎当千であることと、クセがある連中ばかりなので、こうして好き勝手に動けるというわけだ。
「あーどうしても、彼等と連絡がとれない」
 ふいごのような、大きな息を吐く。
 ノソノソと出てきたのは同僚のミスター・ダウンだ。
「あの塔付近に先遣したカラトラバ・ラ・ヌエバ騎士団も、どうやら全滅したらしい」
 ぼくたち三人は、互いに顔を見合わせた。
「しかし」
 とぼくは声をふりしぼった。
「あれだけの規模を持つ騎士団が、こうも簡単に全滅するなんてね……」
「したんだ」
 ダウンは額に手を当てて、ぼくの言葉を遮った。
 いつになく強い口調なのは、さすがの彼も動揺しているからだろう。
 精鋭・英傑を誇るカラトラバ・ラ・ヌエバ騎士団、どのひとりをとっても、絶対に死にそうもない連中だ。
 それが、こうもあっけなく、やられてしまうものだろうか?
 やられたのだ。ただひとりの人間も残らず……。
 
「状況は、説明するまでもないだろう」
 ダウンは、僕たちに向かって言った。
「今の我々は、窮地に立たされている。ここでなんとか状況の立て直しをはからないと
 黙示の日(アポカリプス)が本当に実行されてしまう」
 そこまで言って、彼は激しく咳こんだ。咳がひとしきり続いて、やっとのように顔を上げる。眼が血走っていた。
 現在の冬木市は混迷を極めている。
 様々な組織の介入と、市民の一斉抗戦に戦況は泥沼と化す一方だ。
「どうやら、本丸に天才的な指揮官がいるんだろうね。
 僕たちの動きを悉く阻害しつつ戦況をこうもグチャグチャに乱すなんて、クレイジーにも程がある」
 親愛と殺意のまじった微笑。
 割合は親愛の方が強い。
 少年司祭はわずかな殺意と、嗜好を同じくするであろう同胞としての大きな親しみを指揮者に持っている。
「ましてや英霊が相手となれば不思議ではありません。
 といってもこのままじゃあジリ貧ですよ?白旗でも振ってみますか?」
「慎重のうえにも慎重を期して、行動してもらいたい」

 三時の方向――
 向かいの交叉点で、けたたましい騒音をかき鳴らしてジープが旋回して、騒ぎ始めた。
 数人の人間が駆けつけて、カービン銃を構えながら、ジープをおりた。
 すさまじい銃声が鳴り響いた。
 シエルたちは、ほとんど応戦することさえできなかった。
 口径五〇ミリ水冷式機関銃の威力を前にしては、肉風船も同然だった。
 銃声が止んだ時、路上には、挽肉(ミンチ)のようにされた彼らの死体が、いくつか転がっているだけだった。
 生死を確認しようと、銃を構えながら近づいてくる。
 だが、バラバラになった死体がスーっと消えてなくなってしまった。
 驚く彼らが警戒しようとする僅かな一瞬に、姿を現した3人の無慈悲な刃が彼らを一瞬で先の幻影のようにバラバラにした。

「やれやれ、もう結界を破ってきたのか」
「ここももう移動したほうがいいですね。次が来ましたよ」
 日本の警察が動いているのにも驚いたが、それ以上に驚いたのは、
 戦時や国防、諸外国の特別部隊(スペシャルチーム)までもが動いているという事実の方だった。
 五〇ミリ水冷式機関銃は、とても一兵士が持ち出せるような武器ではないのだ。
 が、まだそれは序の口なのだった。
 次から次に襲ってくる敵たちを前にして、僕は口元が思わずにやけてしまうほどのショックを受けた。
 新式ガトリング型機関砲、野戦臼砲(やせんきゆうほう)、
 ロケット砲、暗視照準器(スナイパー・スコープ)を備えた高性能長距離ライフルなど、
 最新の重軽火器が、ごっそりと携えていたのだ。
 他にも現地のニンジャ部隊やオンミョウジ部隊なんかもいるみたい。
 ――幾重にも張りめぐらされた思惑と策謀が重なり、この地は文字通り地獄の釜となっている。
 ありえないことではあったが、たしかに彼らを陰で操る首謀者は実在している。
 これは事実といってもいい確信だ。

 戦闘は続々と続く。
 冬木市のあちこちで爆破音が聞こえ、火をつけられた車が路上に燃えあがった。
 カタカタという機銃の音が、そこら中で続いている。
 
 ぼく等にとって、一生忘れることのできない長い夜が、今始まりを告げたのだ。
 そして、悪夢は、その続々と、用意されていたのだった。
 轟音――。
 一斉に空を振りあおいだ僕たちたちの視界に、もうもうたる黒煙と炎が映った。
 聖堂教会・第九次十字軍仮設本部の方角だった。
 瞬時にして、ぼく等は、なにが起こったのかを理解した。
 本部のベースキャンプが襲撃されたのだ――。
 そう、聖堂教会が発表することは永遠にないだろうが、それは、あの第九次十字軍の警戒網が打破されたことを意味する。
「大変な騒ぎだな」
 とダウンがかすれた声でつぶやいた。
「一体、何人死んだんだろう?」
「さあね」
 ぼくは、爆炎が上がる方角を眼を据(す)えたまま、首を振った。
「巻きぞえになって死んだ数だけでも、一〇〇〇人は下らないんじゃないかね」
「ちょっと、信じられないような気もするんですけどね……今度は厄介な奴が来たようですよ」
 とシエルはつぶやく。
 
 ふいに空気凍りつくのを感じた。
 ぼくたちは殺気を放つ方角に眼を向けた。
 暗い、えたいの知れない裏通りだった。
 確かに血の雨横町(ブラデイ・レーン)にちかい一角であることは間違いないが、
 しかしめざすバベルの塔まではまだ相当の距離がひらいているようだった。
「――――サーヴァント」
 ぼくは前方に佇む黒い影を観察する。
 おぞましく撒き散らされる殺気。
 暗闇の中で、ギラギラと光る相貌がこちらを睨みつけ
 物言わぬ口は殺意に振るえガチガチと乱杭歯を鳴らしている。
 


「見ツケタ────マタ見ツケタゾ、ゲ、グゲゲゲケケッケゲゲゲケケェケケケゲゲゲゲーッッ!!!!」



「故障でもしたのかな?」
 サーヴァントはゆっくりとこちらに吼えながら歩いてくる。その右手には禍々しい妖気を放つ剣が握られていた。
「…………狂戦士(バーサーカー)」
「対敵したからには闘うしかないですね。なんとか上手くやり過ごすことが出来ればいいのですが……」
 シエルの声にはわずかに苛立(いらだ)ちが感じられた。
「来ますよ!!」
 その声と同時にと、禍々しい狂戦士の突進に合わせ各自迎撃行動をとらせた。
 とっさに、狂戦士がまともに遣りあってはいけない相手だと判断したからだった。
 ――シエルはふいに身体を沈めて、4本の黒鍵を牽制に放ちざまに跳躍し民家の屋根に飛び移る。
 文字どおり間髪の差で、ダウンが持つMP5SD6(短機関銃)の祝福儀礼済みの弾丸が狂戦士の身体を襲った。
 銃声、ガラスの割れる音に混じって、狂戦士の妖剣が弾丸を弾く音が奇妙にはっきりと聞こえてきた。
 妖剣は悲鳴をあげて、火花を散らしながら全ての弾丸を弾く。
 その狂戦士の背面にメレムが聖遺物管理局第3課(マタイ)から持ち出した
 ナポリ大聖堂の聖ヤヌアリウスの血液を触媒にしたあらゆる物質を溶解させる必殺の聖弾を打ち据える。
 聖弾をたたきこむのに、メレムはまったく躊躇を感じなかった。
 即座に反応した狂戦士は、返す神速の刃で叩き斬り、ゴオッと凄まじい勢いで妖剣を溶かす煙が立ち上がる。

「────■■■■■■■■■■■コ、ロ■■ス■■■、ギ、ギグゲゲゲゲ■■■ゲギギゲゲゲゲゲゲゲーッ!!
 痛イイイイイイヨオオオオオオオオオオオオオオ───ッッ!!!
 グゲゲゲゲゲゲゲゴロズ! スグ殺シテヤルゾ、キリストノ狗メ───ッッ!!!!!」

「……うわわなにあれ?剣が気持ち悪い声出してるよ、
 やだなー、気持ち悪いからシエル、はやくやっつけちゃってよ」
「私だってイヤですよ。ですが敵の正体が大分絞れましたね」
 
 ぼくは大きく息を吐くと、ひとまず狂戦士の射程からさらに離れることにした。
 シエルたちを放りだして、他の敵を捜そうかなー、なんて考えたのである。だが───
 その場から足を一歩踏みだしたとたんに、メレムは自分が情況判断を大きく誤ったことを覚っていた。
 自分たちをなかば囲むようにして、路地の暗がりに、それよりさらに暗く三人の男たちが立っていたのだ。
 何を語るべき必要もなかった。その男たちの意図がどこにあるかは明らかだった。
 人間を超越した凄烈な闘気と魔力を帯びた英霊。
 男たちの手にはそれぞれ得物(えもの)が握られていた。
 メレムはほとんど反射的に暗い路地を見廻した。
 他に人間の気配はないようだ。
 仮に他の人間たちがいたところで、街の一角で戦闘がつづいている最中(さなか)に、
 僕たちなんかにかかずらってくれるかどうか疑問だった。
 自力で戦うしかなかった。
 いまのぼくにはそれなりに大切なふたりの生命(いのち)が賭かっていることだしね。

「囲まれましたね」ダウンが言った。
 その言葉に対する男たちの反応は、迅速をきわめていた。
 大柄の男は身体を後転させて、半身を自動車の側面にあずけると、下肢を踏みしめ思いきり蹴りだしたのだ。
 獅子でさえ粉微塵になりそうな、凄(すさま)じい蹴りだった。
 地面を砕き、空気を切り裂いて転がる巨大な砲弾がダウン目掛けて迫る。
 正面に立っていた戦国時代の戦衣装を纏った男はを残像を残して、シエルに向かって一直線に突っ込む。
 なにごとか喚(わめ)いている狂戦士は、接近を許したメレムの頭めがけて妖剣を振りおろした。
 唸りをあげて振りおろされた妖剣は、メレムの頭をではなく地面のコンクリートを陥没させる。
 踏みしめ砕け散るアスファルトから砂塵を巻き上げる。
 殺到する刃は雲霞の如く。
 天地四方、あらゆる隙間から這い飛び出す獣の凶刃。
 どろついた月光に火花が踊る。
 両目を串刺しにくる刃を紙一重でかわし、あやうく口吻(くちづけ)そうになった狂戦士の顔に二本の指から閃光を放った。
 両眼をつぶされる閃光に、狂戦士は慌てて飛びすさり
 その隙にメレムは身体をクルリと丸くすると、屋根から屋根へとたかく飛んだ。
「虎の子の女神様だ!」
 振り仰いだ右腕は黒く禍々しく収束すると巨大な女性を模した自動人形(オートマタ)が現れる。
 そのままの勢いで二人は弾かれるように別れ、10メートルもの身長を誇る四大魔獣が一。
 右腕の悪魔の全体重をかけた体当たりに、狂戦士は脆(もろ)くも吹っ飛ばされた。
 さきほどの聖弾のような威力はなかったが、それでも狂戦士が立ち直るまで僅かな時は稼げるはずだった。
 



 凄まじい槍風が唸りをあげて、思いがけず間近まで、その切っ先が伸びてきた。
 離せど喰らい着く敵は、シエルを雀刺しに仕留めにかかる。
「――――――、ハ……!」
 それを彼女は蜂の巣をもって報復する。
 秒間三撃。都合十二もの刃を顕現し、残らず槍兵に投げ放ち四散させられる。
「―――、―――、は、ぁ―――!」
 呼吸があがる。
 ハテのない狂気の掃射、キリのない凶器の襲撃。
 第七の代行者(エクスキューター)の絨毯爆撃。
 絶え間なく雪崩れ込む投剣を前に、凡百の敵ならば形骸すら残さぬであろう。
 
 だが――――

「くっ――――!」
 踏み込む足が止まる。
 切り返す長槍に黒鍵が間に合わない。
 避ける為には引くしかない、と咄嗟に後退する。
 見惚れるほど美しい侍の槍筋は、同時に、見届ける事が困難なほどの速度だった。
「―――ァ、―――ハァ、―――ハ…………!!!!」
 確たる分析もつかないまま、追撃してくる槍兵の長槍を避け、首を突きに来る切っ先を剣で弾く。
「っ――――」
 だがいなした筈の刃が胸元を切り裂き、紅く僧衣を滲ませてる。
 あれほどの長槍だ。
 一度捌いてしまえば懐に入るのは容易いというのに、どうしてもそれができない。
 獅子奮迅とばかりに槍兵は押しに押してきて、シエルはそのままズルズルと無力に後退しなければならなかった。
「ぐう!!」
 シエルは身をひねった。
 距離をとろうと必死に走るが、からみつくように槍兵が接着し、放つ黒鍵が音をたてて外れる。
 槍兵と体を入れ換えざま、相手の胴に一撃を送り込んだが、これは難なくかわされ
 槍兵はその隙を逃さずすかさず反撃に転じた。
 大きく踏み込んできて、上段からの斬りおろし。
 今度もまたそれを刀身で受け流したが、その重い一撃を押し退けることはできず
 ピィーン、と鋼が砕けて、手元がしびれたようになり、シエルはそのまま地面にたたきつけられる。
 すかさず身を反転させたのはさすがだったが、なお地面を擦(す)るようにして、槍兵の長槍が襲いかかってきた。
 毒蛇が跳躍するのに似ていた。肩にするどい痛みが走るのを感じた。
 だがシエルには捨て身の覚悟があり、傷を負っても、それを撥(は)ねのけて逆襲に転じるだけの気迫があった。
 シエルは地面を転がり、そして起きあがりざま、低い姿勢で、すばやく黒鍵を送り、槍兵の足を斬り払う。
 槍兵はシエルを少しみくびり過ぎていたようだ。そこに若干の油断があったことは否めない。
「しゃあっ!!」
 槍兵はすかさず飛び退いたが、シエルの一撃をかわしきることはできなかったようだ。
 具足が切れ、その隙間に見えるすねからプツプツと血の玉が噴き出してきた。
 すねの傷はとるにたらない浅手にすぎないが、それをいうなら、シエルの全身の傷はけして浅いといえるものではない。
 両者の傷を見るかぎり、これまでの勝負は互角とはいえなかった。
 槍兵は頬に笑いを刻んだ。凄絶な笑いだった。
 反して冴えわたる頭蓋の中。
「…………」
 シエルはすでに立ちあがり、即座に治療魔術を行使しながら両の手に黒鍵を構える。
 自分が思ったよりも落ち着いているのを感じたし、それほど息も苦しくなってはいなかった。
 そのうちに痛みだすかもしれないが、いまのところは全身の傷もそんなに痛みを感じない。
(――――避した筈の攻撃が、悉くすり抜けてくる……大きな実力差が返って私を生かしていたわけですか……。)
 奇しくもシエルが回避と牽制に専念したおかげで、槍兵の大振りや払いといった攻撃を制限できたのだ。
 また、瞬発力や機動性においてもシエルを凌ぐスピードを誇る槍兵も
 三次元を縦横無尽に飛び回る立体移動と、魔術と黒鍵、地形を上手く利用した中距離(ミドルレンジ)の牽制が
 平地での対人戦を得意とする槍兵の力を封じこめている大きな要因である。
 もちろん英霊に勝てるなどとは自惚れていない。
 ふたりの腕の差は歴然としていて、どんなにシエルが必死になろうと、その差はいかんともしがたい。
 剣と槍の試合は冷徹な事実だけがものをいい、そこに奇跡が入りこんでくる余地はまったくなかった。
 
 ――わたしは負ける。

 シエルはそう思う。悔しいが、そのことは認めざるをえない。
 だが、おなじ負けるにしても、一方的に斬りまくられる無様な醜態だけはさらさずに済みそうであった。
 いまのシエルにはそのことがなによりの慰めのようにも感じられるのであったが。
 
 しかし……
 シエルもいささか槍兵をまだ見くびりすぎたようである。
 槍兵がスッと八双にかまえた。
 その瞬間、急に槍兵の体が大きく膨れあがり
 柄を肩に引き寄せ、穂先をやや足元に寝かせるようにし、逆手に握って、どこからなりと槍を放つことができる自然体をとる。
 それでいながら、シエルが撃ちこめる隙などはまったく感じさせないのだ。
 

 蜻蛉切平八郎───最奥の槍─────隠槍……


 シエルは心中うめき声をあげている。
 槍兵の身体から迸る只人であれば気狂いしかねないほどの殺気と軋みをあげて必殺の技を放とうとしているからだ。
 槍兵は八双にかまえたまま、ジリジリと間合いをつめてくる。
 槍尖がいつ自分の身に飛んでくるか、その殺気をひしひしと感じながら、シエルはそれをふせぐだけの工夫がつかないでいる。
 槍兵の槍を避けるためには、体勢を入れ換えなければならないのだが、どうにも足を前に出すことができない。
 八双にかまえた槍兵に威圧され、まるで自分の体が自分のものではないかのように感じられる。
 気押されるままになり、まったくそれに抗うことができなかった。
 槍尖はただ一撃……見切りがきわめられたとき、それは容赦なく、シエルのうえに落ちかかってくる筈。
 シエルはそれを防ぐ事ができるか?
 ――できるはずがない。
 シエルの胸は絶望感に暗く塞がれてきた。立木でも斬るように、シエルは難なく斬りふせられるにちがいない。
 頭の中が痺れたようになり、その空白の意識のなかに、ただ槍兵の身体だけが非情に迫ってくるのが感じられた。
 月明かりはほのかだが、そのとぼしい明かりを集めるようにして、槍兵の槍は異様にぎらついた光を放っている。
 その銀光に射すくめられたようになり、シエルはほとんど身じろぎすることさえできない。
 いや、身じろぎすることさえできないはずだったのだが……
 妙なことが起こった。
 それは幻覚だったのかもしれない。あるいは槍尖の光がめまいを呼んだのか?
 一瞬、槍尖のぎらつきが陽炎(かげろう)のように揺らめいて、それが幻をいざなった。
 月の光の輝きの中、キラリ、と白い腹を見せて、水面をかすめるようにして飛んでいく蜻蛉の幻を。
 
 ――いや違う!!

 その瞬間、シエルは自分がどう動いたのか、ほとんどそれを意識していなかった。
 シエルの背後からすり抜け、槍兵目掛けてSMAW ロケットランチャーの4連砲撃が襲う。
 銀の塗装が煌き、4筋の魔力光を残しながら殺到する砲弾に危機感を悟った槍兵は瞬時に構えを解き
 離脱を図る。
 ――――だが回避した槍兵を追い、住宅街の障害を潜りながら砲弾は追尾を続ける。
 空気を切り裂き凄まじい速度で距離を離していく槍兵。
 だが、それを上空から右腕の悪魔がかすめ飛んでいく姿が、槍兵の動きとあざやかに重なりあい、
 それが槍兵の動きのなかで寸分の狂いもなしに合致した。
 ゼネラル・エレクトリック製の30mmガトリング砲・GAU-8 Avenger(アヴェンジャー)を両腕に装填し一斉射撃。
 槍兵の喉から気合が迸(ほとばし)る。
 大きく踏みこんできて、そのまま跳躍し、頭上から全身の重みをかたむけた凄まじい一撃を振りおろしてきた。
 槍兵は逃げなかった。逃げようとすれば、ついにはそれを避けきれず
 祝福儀礼済みの弾丸で無残に全身を撃ち砕かれていたに違いない。
 槍兵は逃げずに、逆に走り抜けて、相手の胴に一撃を送り込んでいる。
 右腕の悪魔の眼には槍兵の姿はなく、ただきらっ、きらっと飛翔する幻の蜻蛉だけがあった。
 槍尖が肩に撃ちこまれた。―――が浅手とはいえないようだ。
 一帯に弾丸を撒き散らしながら、たまらず吹き飛ばされる右腕の悪魔。
 幾つか受けた弾痕にとてつもない痛みが走るのを感じたが、それと同時に槍兵のほうも相手の肩を斬り裂く確かな手応えをおぼえた。
 たがいに深手を負ったが、相打ちだったために、いま一歩踏み込みが足りなくて、いずれも致命傷とはなりえなかったようだ。
 すれちがい、苦痛に耐えきれずに、へたりながら頭から地面に突っ込んでいった。
 もちろん、槍兵はすぐに起きあがろうとしたのだ。
 しかし、さっきの一撃に渾身の気力をふりしぼり、しかも傷の痛みがあまりに激しかったために
 とっさには起きあがることができなかった。

「――主よ」
 祈るような声が聞こえてきた。
 シエルが屋根から飛ぶように高く高く上空へと舞い上がり両の手にハリネズミのように黒鍵を携え引き絞っている。
 脳髄が、白熱する。
「この不浄を清めたまえ!!」
 放たれる24本の黒鍵を媒介にした火葬式典。
 そして先ほど放たれたSMAW ロケットランチャーの4連砲撃。
 ふいに夜空が瞬き轟音(ごうおん)を発して、大きく揺れた。

 ―――なんとか倒せましたか……。
 傷が深く、出血のために、気力が萎えてしまっているようだ。
 立ちあがらなければ、そう気持ちはあせるのだが、どうにも足腰に力が入らない。
 黒剣を振るう筋肉は、とうに伸びきり虚脱している。

 ふと、シエルはかすれた視野のなかに、そよ風が吹きすさぶのを感じた。
 爆炎が上がる一帯に目をやる。
 すると
「冗談でしょう……」
 今なお高温の炎が上がる中、今だ健在の槍兵とその周りを円状に囲む淡い緑色の障壁が見えた。
 そして別種の魔力の痕跡を察知し追跡(トレース)してみると、およそ200メートルほど先の民家の屋根に
 簡素なローブをした小さな眼鏡をかけた年若い青年が立っていた。
 その右手にはこの距離からも目視できるほどの濃密な魔力が鳴動している本が見てとれる。
 
 ―――あの距離からピンポイントに障壁を張ったのですか……!!
 それがどれほど桁外れの“魔術”なのか、魔術師である以上私にだって理解できる。
 その発動には簡易的な魔法陣と、瞬間契約(テンカウント)、すなわち十以上の単語を含んだ魔術詠唱をしなければならない。
 魔術は強力であるが故に、その詠唱には時間を要する。
 あれほどの魔術なら、一人前の魔術師でも一分。
 高速詠唱を用いる魔術師でさえ三十秒はかかるレベルだ。
 それをあの僅かな一瞬。
 その人外じみた速度と精密かつ緻密な手腕に並ぶ魔術師なぞ、比較対象すら思いつかない――――!

 また別方向に察知した気配の方に目をやると
 剣を杖がわりにし、ヨロヨロとよろめきながらも、ようやく足を運んでいるらしい。
 傷口から血が噴き出し、それが足をつたい、地に点々と血のあとを残している惨憺たるありさまだった狂戦士の姿を見た。
 よほどメレムの使い魔にやられたのを無念に感じているのにちがいない。
 悪鬼のような形相になっている。バリバリと歯を噛み鳴らし、その眼は赤く血走って、いまにも火を噴きそうだった。
「■■■■■■■ー! ゲギャガァァアアアーーーーッッ!!!」
 闘いはさらに困難を窮める。





 場所を変えてダウンと援護に来たメレムは大柄の男と睨(にら)みあっていた。その男がどうやら最も強敵になりそうだ。
 その男も英霊に違いはないが、しかし英霊というものは往々にして闘いに慣れているものなのだ。
 姫君のためにがんばりたいという一念が、メレムに実力以上の強さを与えたが、
 しかしそれもその男の力には通用しそうもないようだった。
「シュッ」
 舌をたたくような音をたてて、男は尖った剣をくりだす。
 まったく切れめのない、連続攻撃だった。
 男の剣は右に左に、闇のなかに白い光芒(こうぼう)をえがいた。
 メレムは身を反らし、飛びすさり、しだいに後退していった。メレムの背広はすでに三箇所までが深く切り裂かれていた。
 ダウンは横合いから前方にMP5SD6(短機関銃)を撃ち放つ。
 男はほとんど反射的に、後方へと回避しようとした。男のつづけざまの攻撃に、切れめができた最初の瞬間だった。
 男の尖った剣をひこうとする力を充分に利用して、メレムは体当たりをするように捕縛礼装を行使し
 光目映くメレムの手は男の腹に正確に入った。
 男は呻きながら、身体を光状の縄に束縛されていく。
 もがく男の様相は、メレムの眼に格好な的として映り
 すかさずメレムは手持ちの銃で祝福儀礼済みの弾丸をたたきこむ。
 だが、突如として上空から放たれた空気の壁が銃弾を押し潰す。
 間もなく男が束縛を千切り解いたと同時に、風を切る音がきこえてきた。
「残りの一人は援護ってことか!?」
 メレムは横っ飛びに身をよじったが、しかし真空の刃をかわしきることはできなかった。
 側頭部をかすめた刃は、メレムの肩をしたたかに打ちのめし、凄まじい苦痛が襲う。
 メレムは肩を押さえて崩れ、苦痛にのたうった。
 ダウンの援護射撃もむなしく大柄の男はトドメを刺そうとメレムの目前まで迫り───
 主の危機を救わんと、右腕の悪魔の攻城弓(バリスタ)の矢に阻まれた。
 むろんのことメレムに確かめる余裕はなかったが、どうやら男の動きを制しているようだとわかるやいなや
 その場を離脱し距離をとる。

 距離をとるに合わせて、たてつづけに拳銃を撃ち放つ。
 男はドリルのように高速回転をする剣を右に左に薙(な)いで、銃弾は宙に青い火花を散らした。
 そしてその巨体に似あわぬ敏捷な身のこなしで、メレムに向かい、驀進(ばくしん)してくると、
 豪剣を突き、豪剣をふるい、凄(すさま)じい勢いで攻撃をしかけてきた。
 メレムは飛びすさり、あるいは右に左に転がって、男の攻撃をかわしていたが、
 それがいかにも危うく、その命運はもはや尽きかかっているかに見えた。
 ふいに爆破音がたてつづけにきこえて、閃光が闇を裂き、
 30mmガトリング砲は唸りを発して、大きく震動した。
 追いついた右腕の悪魔のGAU-8 Avenger(アヴェンジャー)が、いま火を放ったのだ。
 その閃光のなかに、メレムとドリルのような剣を持った男の姿がくっきりと浮かびあがるのが見えた。
 素早くその場を離脱し、男は十字路の死角へと姿を隠す。
 メレムは右腕の悪魔に射撃を制するよう告げ
「戦士さん、久々の現世(シャバ)は楽しめたかい?」
 とメレムはむしろ沈痛な声でそういい、
「世を儚(はかな)む気持ちもわからぬでもないけど、こちらにあなたを討つ気持ちは毛頭ないよ。剣を引いて」
 と声をかけた。
 メレムも悪戯に命を落としたくはない。
 それなりにスリルと興奮を楽しめたし、駄目もとで交渉をもちかける。
 
 男の声はない。
 いや、なにか別の音が聴こえる。
 雨音である。
 やがてはその音だけが強くメレムの耳を打つようになり、ほかにはもうなにも聞こえなくなる。
 ――これは雨の音ではない……
 メレムの胸を警戒心が過(よぎ)った。
 さっきの魔術師がこの音を鳴らしているのにちがいない。
 音はありとあらゆる気配をそのなかに塗りこめてしまった。
 戦士がどこに潜んでいるのか、その剣気をさぐるすべがない。
 いつの間にか近くにいた右腕もいなくなっている。
 メレムは最初はゆっくりと、しだいに早く、
 足を右から左に運び、やがてはタタッとアスファルトを鳴らして、横に走りつづけた。
 しかし音はどこまでも追いすがってくる。
 耐えかねて、立ちどまり、銃を左手のみで携えてて、右肩で耳を押さえた。
 だが肩の肉を通して、やはり音は聞こえてくる。頭のなかで鳴っているのではないか、とさえ思えた。
 
 ――これはまずいな。
 メレムは覚悟を定めた。
 雨のような音があまりにも他を圧して鳴り響いているために、逆にすべてが無音であるかのように感じられた。
 雨が地を叩く音も、風がそよぐ音も、なにも聞こえてこない。静寂そのものであった。
 もしかしたら、とメレムは思う。
 もしかしたらこの静けさこそ、人が死にゆく印であるのかもしれない。
 どうあがいても、この宿命からは逃がれられぬ……なんてね。
 メレムは微笑さえ浮かべていた。
 ふいに靴の鳴る音が聞こえ、真っ黒な鳥が翔(か)け過ぎていくように、メレムの頭を越えていくものがあった。
 たしかにその黒い影から白い光芒が放たれるのを見た。腹に鈍い衝撃を感じもした。
 しかしメレムは身をひるがえしざま疾走し、その黒い影を背中より胴薙(どうな)ぎに薙いでいたのだ。
 地に崩折れた戦士の姿を見ても、まだメレムはおのれの勝利を微塵も信じていないでいた。
 自分の腹を見つめた。
 短刀が刺さり、わずかに揺れていた。
 それを逆手に持ち、引き抜いた。
 腹の筋肉に薄く血が滲(にじ)んでいる感覚だけが残っている。
 しゃっ、という息を放つ声が聞こえてきて、アスファルトの中から、メレムめがけて一すじの短刀がくりだされた。
 メレムは難なくそれをかわした。
 飛びすさり、また跳びすさり、身をひねりざま、背後の暗闇を斬りあげる。凪いだ音が鳴り、風が舞いあがって、鮮血が散った。
 うめき声をあげて、暗闇の中から青年の体が転げ出るのが見えた。

 ――――やっぱりね。僕ほどの奴を幻惑するとなると近くで施術していると思った!

 ざあっ、と魔力の粉(こ)をはらいつつ、書物を持った青年が跳び下がっていって、
 一度、二度と周囲の住宅をケーキのように切り刻んでいく真空の刃を入れてきた。
 メレムはひらひらと舞うようにそれをかわしている。
 転げ出てきた青年は、ようやく体勢をととのえ、片手だけで書物をかまえた。
 もう一方の手で肩をおさえている。その青年の体からは鉄さびに似た血の匂いが、たちのぼっていた。
「遅い!!」
 体勢を立て直しつつある青年を見逃す筈もなく、メレムは俊足で青年の足元へと肉薄する。
 鋼(はがね)を打つ音が鳴り響き、闇のなかにたかく鮮血が舞いあがった。

 知覚する間もなく現れた戦士に刺突を横合いから払いのけられたメレムは、
 狼狽を隠しきれず、逃げるようにして、道路の上を転がった。
 左腕が無残にも吹き飛ばされて、メレムの両の腕は喪失し、たたらを踏む。
 しかし不思議と歓びの念が湧いてきて、ただスリルと心の臓の鼓動だけを痛いほどに感じていた。
「なんて奴……!!」
 もともと英霊との直接戦闘でこれほどの差があることは承知の上だ。
 ただ彼らのほうは互いをフォローしあう戦法で陣をかためて、
 メレムたちのほうはあっという間に散らされ、これを力で潰しにかかった。
 僕らの混乱を招き、彼らはあきらかに精神的に肉体的に圧迫しにかかる戦術に変えてきた。
 まだ見ぬ司令塔の嘲弄(ちょうろう)に、かえす言葉がないのが当然かもしれない。

「痴(し)れた奴」
 戦士は大きく跳躍し、上段から渾身の剣撃を放った。
 戦車の砲弾でも爆発したように、アスファルトは陥没、砕け散り、メレムはひらひらと舞った。
 すかさずもう一人の青年が走った。
 その男の肩を踏み台にし、鞠(まり)のようにはずんで、青年の体がまた宙に跳ねあげられた。
 そして落ちていきざま、メレム目掛けて重力波を薙(な)ぎあげた。
「げえっ」
 悲鳴が聞こえ、血しぶきがばさりと路面をはたいて、道路のうえに撒(ま)かれた。
 戦士は飛び違えるようにして、位置をかえ、すかさず反転すると、逆手にした剣の柄を両手で持ち、
 もがいているメレムのうえに、大きく振り落とした。

 だが血を撒き、路面に転がったのは、しかしメレムではなく、二人のサーヴァントのほうだった。
 上空を哨戒していた右腕の悪魔が見失っていたメレムとサーヴァントの姿を捕捉するやいなや
 魔道式ステルス迷彩を全身に施し、上空から一気に体当たりを二人にかましたのだ。
 さすがにすぐに起きあがり、二人は得物をかまえたが、口元を押さえた指のあいだから、血が噴きだしているのが見えた。
 絶体絶命の窮地にあって、だがメレムの胸中は凪いだ湖面のように静かだった。
 この恐怖、この緊張。かくもまざまざと感じ取れるのは、今この身を晒した危機を知るが故だろう。




 ――銃声がきこえた。幾度も繰り返し聞こえた。
 シエルは家のかげに身をひそめたまま動こうとはしなかった。
 槍兵も巌(いわお)と化したように、不動の姿勢を保って索敵を行っているようだ。
 この状況では、少しでも動けば格好の的となることが分っていたからだ。
 シエルは相手が悪かったと言えた。
 こういう場合、敵の神経を消耗させるために、シエルは絶えず移動をつづけることを常としていた。
 確かに、多少の強敵との殺しあいには、その戦法は優れて有効だったろう。
 だが、ここは多人数を相手とする乱戦であり、しかも敵は人々の幻想を重ねて出来た英霊なのである。
 ――いつの間にか、シエルはろくな遮蔽物もない、
 戦うにはその上もなく不利な場所へと追い込まれている自分に気がついたのだった。
 住宅街がそこからとぎれていた。厚い雑草に覆われた空き地が、戦う者の眼にはひどく無慈悲に映った。
 ――実際、その地表に躯をさらした者は、猟犬に追われた鴨(かも)よりもたやすく、しとめられてしまうことだろう。
 だから、シエルは家のかげから動けなかった。
 動けなかったが、しかしそこで動かないでいることは、そのまま死を意味していた。
 ――敵は四人いるのである。
 二人がそうしてシエルを釘づけにする一方で、もう二人が近接戦闘に向いていない彼らを追い立てているのは明らかだった。
 シエルにとって、まさに進退きわまったと形容すべき状況だったのである。
 ――だが、シエルはさほどに自分を追いつめられたとは考えていなかった。
 彼女はかつて、これより数倍も絶望的な状況に幾度も追いつめられ、そしてその度ごとにくぐりぬけてきたのである。
 冷静さを失いさえしなければ、どんな場合にも生き残る余地があるという自信があったのだ。
 微(かす)かな音がきこえてきた。
 シエルの全細胞はその微かな音に激しくうち震えた。
 ――明らかにもうひとりの敵が、背後の家の前にまわりこむことに成功したのである。
 シエルは早急に策をたてる必要があった。
 さもないと、前後を敵にはさまれて、ろくにあらがう手段(すべ)もなく死んでいくという、
 神の僕にとってはひどく不名誉なことになるだろう。
 シエルは壁を背にして地面に円を描くように6本の黒鍵を突き刺す。
 シエルはその姿勢を固持したまま、敵の影が見えるのを待ちながら静かに術の詠唱を紡ぐ。
 シエルは家が無人であることを確かめ不可解な微笑を、その表情(かお)に浮かべていた。
 
 間断なくきこえてくる梟(ふくろう)の鳴き声が、いやがおうにもシエルの緊張を高めていく。
 シエルの自信がどうであれ、客観的な状況はすべて彼女の敗北を示していた。
 だが、シエルは待ちつづけていた。シエルでなければ、とても耐えられないような酷(ひど)い時間をただ待ちつづけていた。
 シエルの眉がわずかにあがった。視界を覆っている壁の向こうに、なにか蠢(うごめ)くものの気配を感じたのだ。
 シエルの左手の動きがはやくなった。
 手頃な小石を拾い、火薬をまぶしたハンカチでくるみ、ちょうどおひねりのようなものをつくる。
 そして、懐からライターをとりだし、その火をハンカチにちかづけた。
 アスファルトを踏みしめる音がかすかにきこえてきた。
 その音をとらえるのとほとんど同時に、シエルの攻撃が始まった。
 火をつけたハンカチを背中越しになげると、つづく動作で黒鍵を渾身の力で投げ放った。
 相手を倒すためにではなく、誘いだすために放たれた一弾だった。
 敵はシエルの誘いにのった。それを誘いと知りながら、しかし充分な自信をもって壁の向こうから姿を現わした。
 だが、そいつの妖剣の灼けた刀身をだしたとき、すでにシエルの躯は後転して、反対側にまわっていた。
 その男の眼が大きく見開かれた。シエルの行動は恐ろしく意表をつくものだった。
 シエルが突き刺した黒鍵の円から魔方陣が鳴動を始め、異変に気づいた狂戦士を家もろとも爆炎で吹き飛ばした。
 シエルはなかば転がるようにして住宅街を移動していた。
 彼女の作戦もまた完璧に成功したとは言い難かった。
 槍兵は爆発に気をとられるも、すぐに自分を察知して追走をはじめたからだ。





 メレムは、敵との間合いを測ろうと懸命に神経をとぎすましていた。
 全身を砕かれでもしないかぎり、自分を即死にいたらしめることは少ないと言えたが
 英霊との戦いは極めて不利なのである。
 メレムの赤く濁った瞳のなかに、靴が大きく映った。靴はメレムの頭を蹴りつけようとしていた。
 メレムの全細胞が賦活(ふかつ)された。
 続くメレムの動きは、彼にとってほとんど本能とまで化しているものだった。
 ――メレムの躯は発条(ばね)じかけのように地から跳ねあがっていた。
 寸でのところでバズーカのような蹴りを回避した極度の緊張を強いられたままの、一触即発の死のステップ。
 ただ立っているだけでも目が眩む有様のメレムにとっては、一歩毎に気力が足から漏れ出ていくかのようだ。
〝持久戦に勝機はない……〟
 そう判断を下したメレムは、呼びつけた右腕の悪魔が細やかに変形したパーツを身体に装着し、その身を対人戦闘形態へと姿を変える。
 猛る莫大な魔力を身に纏い、誘いかけるように寄ってきた相手から退くと見せかけて足を踏み換え、迅疾の脚刺を突き入れた。
 対するは無窮の剣使い。
 ぬかりなく左腕で右足の切っ先を掬いつつ、右手の得物の高速回転した刀身で切り刻みにくる。
 攻防一体を旨とする『尖輪猟犬(ネイリング)』は、握った拳面を覆うように配された柄で攻撃を逸らさせる側(かたわ)ら、
 ドリルのように高速回転する刀身が相手の得物を絡め取り破壊する機能も持つ。
 それを一対で繰れば効果は倍増だ。硬く太身の大剣と立ち会うには、メレムには甚だ与(くみ)しにくい相手である。
 メレムは左右に繰り出されていくドリルに身肉を奪われないよう機敏に刀身から翻しつつ、それでも間断なく翻弄しに攻めかかる。
 さらに側面では打ち合う戦士のみならず、その向こうに控える魔術師も捉えて逃がさない。
 メレムと剣戟を散らす戦士の側面に、すかさず援護に回り込もうとする魔術師からは、
 常に反対側へと身を滑らせて閃光のように逃れ続ける。
 立て続けの刺突を浴びせて戦士を足止めしながら、その体躯を遮蔽物にして魔術師から身を隠す
 ……砂塵の中の円舞は、戦士を中心にメレムと魔術師が巡り廻る形となった。
 そのまま独楽のように回りながら浮萍拐(ふへいかい)の連続攻撃を仕掛けてくる。
〝凌ぎきれるか……〟
 息が上がりはじめたメレムは、一か八か、攻めかかる戦士の眼前でコートの裾を振り払う。
 突如目の前で翻った布地に戦士が怯んだ隙をついて、起死回生の右足の悪魔の限定顕現。
 莫大な質量を持つ踵は相手の顔面を捉えたが、踏み込みの浅い足技は勁力が足りず充分な威力に至らない。
 だがそれでも不意打ちの一撃は戦士の動きを遮り、綻びを作った。
 ここぞとばかりメレムは身を翻して、すかさず逃れ出る。
 仕切り直すにも、まずは距離……再び攻撃されないだけの間合いを稼ぐのが先決だった。

 すかさず右腕の悪魔の武装の艦砲射撃ライフルを戦士に向けて撃つ。
 男はその十本の指に総(すべ)ての力をこめ、
 丸太のような両の腕で剣をバットのように振り回し戦車の装甲を貫通できる弾丸を側面に弾いた。
 大柄の男の力は、ロケットのような圧倒的な力を有していた。



「うひゃあ………やっぱり強いなぁ英霊さんは。まるで歯が立たないよ」
 それなりに長い時を過ごしてきた身ではあるが
 やはり彼らの強大な戦闘力は、今まで見てきた中で間違いなくトップクラスを誇る。
 ましてや彼らは宝具という魔法に近しい秘蔵のアイテムも保有しているのだから性質が悪い。
 するとボロボロにちょちょぎれたダウンが駆けて、上空から勢いよくシエルが飛んできて3人は合流した。

「どうにか彼らを撒かないと、挽肉になってしまいますよ?」
「そうだねー。シエルがまだ不死身だったら囮にして逃げられたんだけどなー」
「やめてください。不死身でも死ぬのって凄くキツイんですから嫌ですよ」
 
 3人を囲むように、次々と彼らは姿を現し、4人の英霊はそれぞれの獲物を持ってジリジリと近づいてくる。

「どういうわけか敵同士であるサーヴァントたちが連携して街の中を暴れ回っているようだね。
 この辺が今回の騒動の原因に繋がっていると見ていいようだ」
「まあ、事態の究明も、ここで無事に生き残れてからの話なんですけどね」
「そうだね。――さて宴もたけなわだし、そろそろお暇させてもらおうかな。
 君たち、なにか願い事はあるかい?夢見るピーターパンが聞き入れてあげる」

「「この場を離れたい」」

 口角を三日月の上げて、メレムはその言葉を聞き入れると
 突然、地面に大きな口が開き彼らを呑み込んでしまった。
 即座に飛び掛った英霊たちの追撃も虚しく、彼らは瞬きの間に姿を忽然と消してしまった。





 ◇◇◇   ◇◇◇



 ――――それは、星を祭る祭壇だった。
 天と地を繋げるが如く燃える炎。
 揺らめく炎身は無明である空洞を照らし、
 堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。
 しかし、この祭りは正しいモノではあり得まい。
 宙(ソラ)を繋ぐというが天は地の底であり、
 無明を照らす松明は赤ではなく黒色。
 空気は濁り、風は封殺され、壁に滲む水滴は悉(ことごと)くが毒の色。
 龍が棲むとされる地の国は、その実、巨大な龍の胃袋を模していた。
 ここを訪れるモノはみな人ではない。
 このような異界に救いを求め、このような異景を祭ろうとするモノは、陽の光から逃れる蛇蠍魔蠍(だかつまかつ)の類に違いない。

「――――」
 その異界の中で、黒いコートの青年はいた。
 黒色の緋に照らされて佇むソレは、三枝由紀香が召喚したサーヴァント・アヴェンジャーである。
「―――フフッ。外の人たちもなかなか粒が揃っているようですね」

 虚空を見つめて、一人忍び笑いをする。
 今しがたメレムたちとの戦闘の様子を観賞し、静かに彼らを讃えているのだ。
 そう、先ほどの英霊たちを尖兵として操っている張本人、アヴェンジャーの奇跡の一端である。
 すでに世界は臨界寸前にまで陥り、間もなく抑止の力が顕現する手前まで来ている。
 アヴェンジャーはそれに付け入り、背後の大聖杯と世界そのものを誤認させて後押しし、英霊の座より守護者という名目で
 歴代の聖杯戦争の参加者を呼び操っているのだ。
 それも自分の都合が良いように。総数25名の英霊が冬木市で様々な組織の人間をかき回し、虐殺を行っているのだ。
 それがどれほど桁外れの“魔術”なのか、魔術師はおろか魔法使いですら手が届かぬ奇跡。
 コレは既に魔法に属する物だ、といっても不足はないだろう。
 だが、それも今回だけの特別だ。
 冬木市全域に蔓延る様々な要因があって初めて実現できた現象であり
 聖杯戦争が今夜をもって終わると同時に消えてなくなる一抹の犠牲祭だ。
 



「キャスター。お望み通り、塔と柳洞寺付近には彼らをけして近づかせたりしませんよ。
 でも、別に構わないでしょう?」
 



 みーんな殺しちゃっても、ね?




 ―――終着駅が見えてきた。
 地上に伸びていた救いの糸が、段々と欠けていく。
 遙かな地上。
 奇跡に縋る亡者どもは守護者に阻まれながら、ソラへ登り詰める私を見上げているのだろう。
 ……遙か昔、頂から星を見上げた時のように。
 流れ消える輝きに、羨望と怨嗟を込めながら。




 ◇◇◇   ◇◇◇



 メレムはしばらくその場に横たわっていた。床の冷たさが、熱っぽく疼(うず)く身肉に心地よかった。
 できれば、その場で眠り込んでしまいたいほどだった。
 肩の痛みもさることながら、メレムはようやく立ちあがった。
 立ちあがって、彼らたち向かって歩きだした。
 裂かれた服を着、血泥に汚れたメレムの姿は、さながら泥遊びを終えて帰路につき子供のように見えた。
 メレムはふらつく足を踏みしめて、やっとの思いで空き家についている階段を登った。
 さほど段数の多い階段でもないのだが、それでも二度ほど足を休めねばならなかった。
 部屋のなかに入った。
 廊下のつきあたりが、シエルたちの休んでいる部屋だと教えられていた。
 メレムはその部屋のドアをノックした。
 ドアが開けられて、ダウンが顔を出した。
「どうぞ」
 促されるままに部屋に入り、座布団に座り一息つく。
「結界の設置ご苦労様ですメレム。
 でも随分と時間がかかりましたね、やはり先の闘いで疲れちゃってるんですか?」
「―――まあね。久しぶりに身体を動かしたもんだからさ。
 ちょっと横になってストレッチしてた。明後日の筋肉痛が怖いよまったく」
 嘘ばっかし。なんてシエルが笑う。
「それにしても初めて見ましたよメレム様の降霊能力(デモニッション)」
「あんまり人には見せたくはないからね。みんなには内緒だよダウン?
 喋っちゃうと殺しちゃうから♪」

 そう先ほど見せた英霊たちから逃げおおせた異能の力。彼の能力はデモニッションという第一階位の降霊能力である。
 空想具現化に近いが、メレムの悪魔召喚は人々の願望をモデルにしてメレムの憧憬で彩色し、類似品を作るというもの。
 悪魔たちの能力は人々のイメージに沿ったものだが、その造形はメレムのイメージによって形作られ、
 能力の大小はメレムの魔力によって変動する。
 先の右腕の悪魔も彼が生み出した悪魔の一人だ。
 またメレムはその性格上、現実的・打算的な悪魔の具現化は得意ではない。
 具現化できるのは他人の願いであって自分の願いではない。
 いかに強力な能力を持っていようと自分一人では何もできないというのがメレムの在り方。まさに悪魔のそれであり
 彼はあくまで空想の世界に生きるピーターパンなので、得意とする絵、描きたい空想は童話に見るような悪魔なのである。

「―――さて無駄話は終わりだ。初心にかえって対応する事にしましょうか」
「方針を変えます。
 聖杯戦争に勝ち残るのは、その原因を突き止めてからだ」
「そうだね。けど具体案はないよ? ぼくにだって分からないんだから」
「具体案なら、先ほど貴方が提示してくれたでしょう。
 自殺行為ですが試してみる価値はある。それに、死んでもいいのが私たちの利点ですから」
 手段を選んではいられない。
 ……今の状態では黙示の日(アポカリプス)を阻止することができない。
 だから、我々以上に現況について詳しい人間に会わなければ。
「―――げ。ちょっと待って、さっきのは冗談だって。
 やめようよー、敵の本拠地に攻め込むなんてイヤだよ、とんでもなく痛い思いするだけだよー」
 心底イヤなのか、メレムは本気で反対している。
 弱っている姿は子犬を連想させて愛嬌があるのだが、今の私はそんな懇願(ポ ー ズ )で陥落されない。
 この地にはバベルの塔の外にもう三つ、重要な拠点となる場所がある。
 遠坂邸、言峰教会、そして柳洞寺である。

「変更はありません。準備をなさいメレム。
 目的地は遠坂邸、言峰教会、そして柳洞寺。これから聖杯戦争の関係者の捜索にあたります―――」
 
 聖典を背負い、嫌がるメレムとダウンを連れて空き家を後にする。
 いつものクセで、胸元の十字架を強く握り締めた。
 ……どうか幸運を。
 今を闘うマスターたちに辿り着き、私の望む解答が得られるように。